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- 第九章『動きだす混沌』前編
- 1
- 夢は災禍のごとく訪れて、呪いのように私を蝕む。存在しないはずの記憶に苛まれるのは不快であり、だが同時に懐かしさを覚えるのはどうした不条理なのだろう。私にとって夢コレはそういう、ただ迷いをもたらす混沌だった。
- その中で、私はいつも祭壇に座らされている。思考は拙く、言葉を話すことも満足にできない幼児の私に、地を埋めるほどの者たちが跪いて祈りを捧げる光景だ。
- 彼らの瞳は例外なく恍惚と潤んでおり、待ち望んだ我が子の誕生を祝うようにも、偉大な父の庇護下にある安らぎを噛みしめた表情にも見えた。いずれにせよ幸福と呼ばれる感情で、己が運命に喜ばしい確信を抱いているのは間違いあるまい。
- つまりこの者たちは、他ならぬ私を信仰の対象に定めていた。依存し、崇め、慈しみ、救世主さながらに祀る様は素朴なだけに純粋で、こちらは困惑を禁じ得ない。
- 不可解だし、道理に合わぬ。なぜなら客観的な事実として、私が成すのは破滅の業わざ。守ることも導くことも専門外で、他者から何かを期待される生き方とはむしろ対極に位置している。ゆえにこの夢はくだらぬ迷妄だと思う反面、無意味と切り捨てられないのは一つの疑問が生じるためだ。
- そもどうして、私は私になったのか。これといった目的もなく、そして当然やり甲斐もなく、呼吸も同然の行いとして破滅を生み続けるだけの日々は、空虚な機械と謗られても反論できぬ。何が無意味かを問うのなら、私の日常こそがそうしたものの積み重ねだった。
- 生の在処ありか。己という存在に求める役割と必然性。自己の証明となる芯が私には欠けていて、そこに気付いてしまったからこそ今がある。
- ……いや、正しくは気付かされたと言うべきだろう。あの日あの時、あの奇妙な男に叩き付けられた概念が、私を以前の私に戻してくれない。
- 奇跡とは何だ? みんなとは何だ? そして大事なものとは何を指す?
- 私はいったい過去に何を持っていて、何を失い忘れたと言うのだ。
- 恐ろしい。答えを切望していながらも、知れば己が砕けてしまいそうな予感がある。しかしこの命題から目を背けることは、もはや不可能だとも感じていた。
- いま眼前に広がる夢幻こそ、かつて私を定義していた真実かもしれぬと思うがゆえに。
- 栄光クワルナフ、希望クワルナフと――幾憶幾兆もの民が斉唱する様に郷愁を覚える。
- 輝ける光輪クワルナフと、私を讃える彼らの想いに存在しないはずの記憶が疼くのだ。
- よって知らねばならない。知らずにおれん。知った上であの男が見ていた何かを掴みたいと……
- 文字通りの幻想に現実が侵されんとしていることすら許容して、この定かならぬ景色の果てに失われた己の芯を探していたのだ。
- 幼い私は微笑んでいる。それは茫漠としたものだったが、目の前の世界を慈しんでいるのが疑問の余地なく理解できた。
- 応えたいと、斯く在りたいと胸に刻み、“みんな”の気持ちを抱き上げんとする現人神クワルナフは、はたして何を目指したのか。
- 何を信じ、何を夢見ていたのだろうか。
- 今の私とは似ても似つかぬ柔で儚い唇が、蕾のように綻んで花開く。そして紡がれた彼の言葉は、一つの誓いとなって顕れた。
- 『あなた方は■■■。だから私は■■■在ろう』
- 場に満ちていく喜びと祝福の中、結ばれた約束を聞き取ることはできなかった。代わりに私が目にしたものは、地平の彼方から迫る名状しがたい歪な力。反転しながら世界を覆う狂った色彩の波濤だった。
- ああ、すべてが裏返る。私の民が、私の大地が、そして私自身が綾模様の奔流に呑み込まれていく。誓った真実すら押し流し、もはやそれが何だったのかも思い出せない。
- ただ、■■■在りたいと――
- 天下に不変たる尊き光を謳ったこの日、みんなの奇跡クワルナフは崩壊したのだ。
- ◇ ◇ ◇
- 微睡まどろみから覚めた巨星は、しばしの虚脱を味わった。夢の記憶はすでに遠く、思い出そうとするほどに薄れていき掴めない。天文学的な数に区分けした思考を超絶の速度で同時に走らせる彼の演算能力でも、消える情景の再構築どころか輪郭をなぞる真似さえできずにいる。
- だが、それは当然の結果だった。問題の記憶は魂に刻まれた傷であり、真実を抱えた魂体クワルナフは白痴の存在として今も絶滅星団の内部を彷徨っている。理性を司る星体クワルナフは彼を忘却することで生まれたのだから、両者が交わるのは構造的に不可能となっていた。
- 永劫に解けぬ謎。決して取り戻せない失った祈りを追い続け、クワルナフはただ徒いたずらに煩悶しながら、答えの出ぬ堂々巡りを延々と繰り返すだけである。
- まさに呪いと言えるだろう。かつてワルフラーンに負わされた形容不明な敗北感が、物理的な意味において宇宙に敵などない破滅工房を惑わし、狂わし、追い詰めていた。
- いったいあの男は何を見ていた。知りたい。知りたい。知らねばならぬと……
- なおも回転を速めんとする巨大で無益な魔の思考が、しかしこのとき、一分停滞を余儀なくされた。正確には、別の事象モノへと意識を割かざるを得なくなる。
- それは、たった一つの人型をした“暴力”だった。
- 「久しぶりだなクワルナフ。またでかくなったんじゃないのか、おまえ」
- 闇の宇宙空間で仁王立ちし、不敵に笑っている男の姿には見覚えがあった。削り上げられた岩塊のような肉体と、おどろに燃える灼炎のごとき蓬髪。すべての凶暴を体現しつつもどこか人好きする悪童めいた面持ちは、記憶に照らし合わせる限りただの一名しか該当しない。自分と正面から向き合って、斯様に気楽な緩さを見せる者も一人だけだ。ゆえにクワルナフは彼の名前を知っている。
- 『バフラヴァーンか……私が認識する私の時間を十とするなら、以前におまえと会ってから三ほどの時が流れている。……ならば確かに、久しぶりと言っていいのだろう。最後におまえと見まみえて以来、ここに至るまでの隔たりはそう呼ぶに値する」
- 「は、相変わらず小難しいことを言う奴だ」
- 会合ガーサーのような縛りを負わず、素のままに対峙するという意味においては約七百年ぶりの再会だった。それは命のやり取りが可能である事実を意味するが、にも拘わらず両者に緊張の色は微塵もない。一方は親しげに、そしてもう一方は淡々と、正反対の気性ながらもどこか兄弟的な雰囲気で久闊を除している。
- 「お互いナダレの遊びに巻き込まれたな。とはいえ俺に不満はないが、おまえはどうだ?」
- 『ナダレ? ……ああ、言われてみればなるほどこれは、そのようだ』
- 眠っていた間に崩界ほうかいを受けたらしい。自分の位置座標が最前までと著しくずれていることを、ここにきてクワルナフはようやく悟った。
- 二〇年前と同様に。いや、あの時よりさらに激しい大規模な配置換えだった。眼前に立つバフラヴァーンはもとより、ナダレを除く他の魔王らもすべてこの狭い宙域に集められている。
- のみならず、彼ら不義者ドルグワントにとって相容れぬ義者ものたちの本拠さえも。事態を察したクワルナフは、嘆息するように巨大な瞳を一度ゆっくりと瞬かせた。
- 「気に入らんようだな。いったい何が面白くない?」
- 『時期尚早だと感じている。私はとある謎を解くため、娘に一つの任を与えた。よって今はその成果を待たねばならず、こちらから出向くのでは道理が合わぬ』
- 「では帰るか?」
- 『そうしたいところだが、そうもいくまい』
- 依然、思考の大半を奇跡の解明に傾けつつも、この場に割いた二割ほどでクワルナフは返答した。並の星霊が数万集まっても追いつけぬ演算速度で、彼はここから先の展開を避けられぬものと予測している。
- なぜならば――
- 『おまえは私を逃がす気などなかろう、バフラヴァーン』
- 「はははっ、如何にも!」
- 豪放な笑い声が、物理法則を超越して真空の宇宙に木霊した。極超巨星にも匹敵する破滅工房に比べれば芥子粒とすら表現できないただの人型が、凄まじいまでの存在圧を燃え上がらせてそこにいる。
- 彼は暴窮飛蝗バフラヴァーン。最強を目指す戦鬼たちの王である。出会い、目が合い、相互の認識が成された以上、相手の事情など知ったことではない。
- ましてそれが、過去に決着をつけられなかった好敵手となれば言うに及ばず。
- 「遊んでいけよクワルナフ。以前の俺とは少々違うぞ」
- 『見れば分かる。どうやら瞬間移動への耐性を身に着けたな。少なくとも、おまえの意に沿わぬ形で飛ばす真似は不可能らしい』
- かつて両者の戦いは千日手に陥り、不毛を感じたクワルナフがバフラヴァーンを強制的に瞬間移動させて中断となった。これをどう見るかは意見の分かれるところだろう。
- 意を通せず弄ばれたのはバフラヴァーンだが、勝負を避けて逃げたのはクワルナフだとも解釈できる。厳しく裁定するなら二人とも敗者であり、ゆえに彼らは二の轍を踏まぬための手段を七百年の間に講じていた。
- 今やバフラヴァーンを強引に移動させる業わざは、会合ガーサーの法しか存在しない。たとえナダレの崩界でも、彼の意志に反する形で実行することはできなかった。
- すなわち第三位魔王を退しりぞかせるなら殺す以外に道などなく、だからこそクワルナフは断言する。
- 期待も幻想も入り込まない、絶対的な計算に基づく運命を。
- 『おまえが私に対峙できる限界は、この宙域の時間単位に照らして言うなら一万八千五百二秒だ。これは覆らぬ必然と知るがいい』
- 「分からんなあ、俺に限界なんてものはない」
- 『知っている。だが成長速度はその限りに非ず』
- 無機質にそれだけ告げて、魔星は己が権能を解放した。
- 『ゔぃしゅゔぁかるまん』
- その咒なが何を意味するのかは、彼自身にも分かっていない。遥か彼方に忘却した記憶は、しかし刻み付けられた真実として今もクワルナフを駆り立てている。
- ■■■在れ。■■■世界を創造せよ。そう願われ求められ、不変なる■を広げるためだけに彼は生を受けたのだから。
- 崩れ歪んだ破滅の工房に成り果てても、光輪の輝きは至高の覇道としてここに在る。
- 「論より証拠か、いいだろう!」
- 展開した絶滅星団が幾億もの魔眼を開く。そこから突き出てくるのは口径だけで星をも呑み込む超巨大な砲身だった。
- わずか一門でこの宙域を塵と化し得る魔道具の槍衾が、たった一人の男へと向けられている。それを過剰な火力とクワルナフは思っておらず、むしろ足りぬとばかりに次から次へと生み出していくのだ。
- 『では始めようかバフラヴァーン。私の正しさを知れば退くのもよかろう。追いはせん』
- 「そいつは無理な相談だ。なぜなら後退もまた、俺にはない」
- そして両者は激突した。この時代、この宇宙における頂上決戦とすら言っていい極限の死闘が幕を開ける。
- 一斉に火を噴いた魔道具の砲撃は、前述の通りただの一発で星系ごと粉砕する弩級の威力を備えていた。しかも、同じ種類の攻めがまったく存在していない。
- 火炎の津波があり、凍気の奔流があり、雷轟や猛毒の嵐はもちろん、物質を崩壊させるウィルスもあれば空間ごと削り取る消滅の閃光もあった。さらに現在の文明では定義不可能なものさえあり、そのすべてが怒涛となって一人の男に叩き込まれる。
- 言うなれば、それは破滅という概念の豪雨だった。一つや二つなら相性的に無効化できる者もいるだろう。才と研鑽の次第によっては、三つ四つまで凌げる場合すらあるかもしれない。
- だが、これはそんな理屈もしもが入り込む余地を微塵も許していなかった。銀河をも捕食する魔星の計算結果により、あらゆる面から見て対処できぬと断定した数と密度の釣瓶打ちである。よってクワルナフは確信していた。
- 骨、の、四、・、五、本、は、砕、け、た、は、ず、だ、と、。
- 「ぬううぅん!」
- 爆ぜる咆哮。億を超える破滅の弾幕がその一瞬で四散する。晴れた視界にはただ一人、拳を突き出した姿勢で男が獰猛に笑っていた。発達した犬歯を嬉しげに剥きながら、彼はもう片方の拳を振り上げる。
- 「お返しだ」
- 放たれた拳撃は規格外の我力を帯びていた。そこにはもはや、間合いや体躯の差といった常識など消し飛ばされて見当たらない。
- 衝撃波と呼ぶことすら無理がある。我力で編まれた闘気の拳は、まさにそのとき星を殴り壊せるほど巨大化したのだ。
- 絵面は戯画的であり、いっそシュールでさえあった。恒星でも虫ほどにしか見えぬ極超巨星の頬桁を殴り飛ばそうと、拳型の大彗星が迫っていく。
- まさに狂神の夢がごとく、まともな神経をしている者なら頭がおかしくなるスケールと出鱈目さだった。にも拘わらず、救いがたい話だがこれは現実に他ならない。
- 巨拳に打たれた巨星はわずかに仰け反り、次いで淡々と先の応酬を分析する。そこには何の興奮も恐れもなく、ただ状況だけを正確に見ていた。
- 初撃に応じたバフラヴァーンの五指は粉砕されており、予想通りの結果と言える。消耗を知らぬこの男は負傷で戦力が落ちることも有り得なかったが、別に不死身なわけでもない。つまるところ、死の寸前まで全力で戦える生物というだけなのだ。
- ならばその瞬間までこれを繰り返せばいい話だろう。決着までにクワルナフが被るダメージは、バフラヴァーンの成長率を計算に入れても許容の範囲に収まる。
- なぜならば――
- 『おまえの強化はあくまで相対的な現象だ。劣勢であればあるほど激しく進化していくものの、裏を返せば追い込まれぬ限り劇的な覚醒はしない』
- ゆえにこのまま、じわじわと削っていく。どちらかが明確に勝るのではなく、互角に近い戦況を維持することで第三位魔王の成長曲線を緩やかな形に誘導してやればいい。バフラヴァーンに対し長期戦を愚策と見るのは、体力面で彼に遠く及ばぬ者が大半だからだ。しかしクワルナフほどの耐久力を持っているなら話は違う。
- 森羅万象を捕食する破滅工房は、すなわちすべてを貪る底なしの胃袋だ。よって加えれられた攻撃も当たり前に吸収し、己の力に変えていく。
- 『わずかなりといえど、私に打撃を与えるおまえの我力は確かに破格の域だろう。だがそこまでだバフラヴァーン。器が違う。数が違う。如何な強さを持っていようと、しょせん個にすぎぬおまえが絶滅星団わたしの総体を崩すのは不可能と知れ』
- 「面白い。だったら不可能ソレに勝ってやろう。俺に通せん意地はない」
- そして再度の激突が展開した。彼らの主張は共に正しい。
- 何せこの世に生を受けて以来、呼吸も同然に宇宙を虱潰してきた両雄だ。己の哲学が真理であると謳うだけの自負があり、それに見合う破壊の経験を積み上げている。
- これまで二人が滅ぼしてきた者の中には、当然多種多様な存在がいた。星霊特効の戒律を持つ者や、もっと端的に異星生物全般を視野に入れていた者さえいる。
- そのため彼らの常識では、宇宙からの侵略者に後れを取る道理などない。にも拘らず悉くが倒れたのは、魔王たちの在り方に矜持の根本を砕かれたせいだった。
- クワルナフは問う。心底から不思議そうに、何を言っているのだとひたすらに質す。
- “おまえが異星に対して優位な立場を持つと言うなら、私もまた同様の力を持っているはずだろう。なぜならこれまで、数多の星々を私は喰らってきたのだから。
- おまえはどうして、おまえの理屈がおまえだけを利していると考えるのだ? おまえから見た私と、私から見たおまえは等しく異星の存在で、つまり条件は同じと思うのだが違うのか? この状況で、自分だけが一方的な優位に立てると信じる根拠は何処にある”
- 絶句し、言葉に詰まる哀れな犠牲者へ、クワルナフは続けて尋ねる。
- 悪意なく、愉悦もなく、ただ真摯な探求心で相手を絶望の色に染めあげるのだ。
- “同じ理がぶつかるなら、優劣は実績で計るのが妥当だろう。それが信頼というもので、実のない肩書など空虚に過ぎる。
- ではさて、そろそろこちらの質問に答えてくれよ。おまえはいったい、今までどれだけの異星を倒してきたのだ。ちなみに私は――”
- 誰も反論はできなかった。ゆえにクワルナフは諦めて、落胆しながら実力を行使した。結果はもちろん言うまでもなく、彼の正しさが証明されたことになる。
- 対してバフラヴァーンは、さらに簡明で身も蓋もなかった。
- “そうか、よかったな。しかし俺のほうが強い”
- 同じく誰も逆らえなかった。結果はやはり言うまでもなく、こちらも正しさを証明したことになる。
- よって彼らは、一片の疑問さえ抱かずに己の理屈を信じていた。吹き荒れる我力の嵐と魔道具が生む天変地異は、互いの正統性を競うように限界知らずの高まりを続けていく。
- バフラヴァーンの拳がクワルナフを分身体を三つまとめて粉砕し、破滅工房の舌に打たれた暴窮飛蝗は超重力の檻に圧搾されて全身から血を噴き出した。
- 彼ら以外の者ならば、とうに数億回は死んでいる。だというのに衰えの気配は未だに皆無で、まだまだ小手調べと言わんばかりの有り様だ。
- 「はははッ、いいぞ楽しくなってきた!」
- 『私は特にどうとも思わん。だがおまえの楽しみに貢献できているのなら、一つ礼をよこせバフラヴァーン』
- 変わらず淡々と、茫漠とした宇宙に揺蕩うようなクワルナフの声が響いた。
- 『その無尽。その無法――確かにおまえは個の最果てと言えるのかもしれん。私とは対極に位置する在り方ならば、おまえの視点にこそ答えがあるのではと考える』
- 「なんだ、またお得意の問答か」
- 鬱陶しげに鼻を鳴らすバフラヴァーンだったが、拒絶まではしていない。もとより怒りや憎悪で戦う男ではない以上、好敵手には寛大なところがある。あるいは、どのような形であれ挑まれたものには応じるという、飛蝗の信念かもしれなかった。
- それを見届け、クワルナフは口を開く。依然として無味乾燥な抑揚だったが、巨星の全質量を乗せるほどの重さを込めて問いかけた。
- 『この世において、真に変わらぬものとは何だと思う』
- 「俺の強さだ」
- 返しは一瞬の間も置かぬ即答だった。さらに加えて、バフラヴァーンは傲然と胸を張る。
- 「天下に最強だという自負がすべてだ。俺にとって真実はそれしかなく、それで充分」
- 『……なるほど。よく分かった』
- クワルナフの声には珍しく色があり、その正体は失望と羨望の混淆だった。
- 彼はバフラヴァーンの返答に一つの瑕疵かしを見出しており、そうした意味で望む答えは得られなかったと言える。
- だが如何に不充分なものであろうと、迷いなく己の真実を謳う飛蝗が羨ましくも眩しかった。少なくとも信じる誠がある以上、自分などよりよっぽど優れた男である点に疑いはない。
- 『であれば、おまえを喰らうことで私は先に進めるだろう。感謝するぞバフラヴァーン』
- 「こちらの台詞だ。俺はおまえを粉砕して、今より上の強さを得る」
- おまえは俺のために生まれたのだと、両者は等しく宣言した。そしてそのまま祈るがごとく、二人は己が想いを武威に託してぶつかり合う。
- 『私の計算は述べた通りだ。おまえの敗北は決定している』
- 「吐ぬかせよ、そんな予測ものを真実とは言わん」
- 壮絶なまでの破滅と暴威を交わし合う中、反論しようとしたクワルナフはそこでふと考えた。私がこれほどまでに拘る数理的事象こそ、私にとっての不変なる概念なのか?
- いいや違う……ような気がする。なぜならそもそもの発端は、算術で計れぬものがあると知ったからこそ。持論を覆す気は依然持てぬが、そこに囚われすぎるのも本末転倒な話に思える。
- 『ならばこう言い換えよう。願わくば、私の予想を超えるおまえが見たい』
- 「見せてやるとも――約束するぞクワルナフ!」
- 奇跡とは何か。みんなとは何か。そして大事なものとは何を指す?
- 己はいったい過去に何を持っていて、何を失い忘れたのか。
- まったく根拠のないことだったが、このときクワルナフは予感を覚えた。自分は遠からず答えを得る。
- 『ひらにやがるば・ぷらじゃーぱてぃ・とゔぁしゅとりがるばはてぃ・ぶふらすてぃや・ゔぃしゅゔぁかるまん』
- 紡ぎあげられる異相の魔言は、天上の福音にも地獄の業火が爆ぜる音にも聞こえた。
- 待ち受けるのは希望の未来か絶望の最期か。そこは現状、誰にも読めない。
- ただ一つ言えるのは、彼らが激突したことで他の者らが救われたという事実だろう。少なくとも決着がつくまでは、破壊の権化と呼べる二柱の魔王がこの場に釘づけとなる確率は高い。
- それが事態をどう動かすかはやはり読めず、宇宙の闇よりもなお深い混沌の様相を呈していたが……
- 『「おまえの不変を壊してやる」』
- すべてが手遅れとなる前に、ある種の猶予が生まれたのは間違いなかった。
- 2
- マシュヤーナの打倒に成功した我々は、新たに空葬圏の星霊となったアーちゃんの計らいで聖王領への径みちを繋いでもらい、帰途に移った。
- 思うところは、もちろん幾らだってある。まずもってマシュヤーナが何者だったのかという点すら私たちは分かっておらず、勝利した気分なんて全然持てない。そこはインセストについても同様で、彼女の死が私の中に深い影を落としていた。
- あの不思議な女性と付き合いが長いアーちゃんは、言うまでもなくもっと忸怩たる思いを抱えている。けれど今はそれどころじゃない、嫌な予感がすると言って帰還を急かした。
- 「こっちの片を付けたら、わたしも追うっす。とにかくここは、急ぐっすよクイン」
- そうした次第で半ば無理矢理に背を押された結果、次にやってきたのはあの夢だ。
- 二〇年前の真実は、瞬間移動の間に流れた刹那にも満たないもの。しかし体感的には二ヶ月以上の記憶であり、また到底忘れることなど不可能な歴史だった。
- ワルフラーン様の最期は、悲劇という言葉で要約できるような部類じゃない。義者アシャワンとして積み上げてきた常識が粉微塵になりそうな結末で、叶うなら脳を丸ごと洗浄したくなるほどだ。
- あれを直視したスィリオス様が笑みを忘れてしまったのは当然だし、マグサリオンが狂ったのも分かる。ナーキッド様も心に深い傷を負ったはずで、気絶していたアルマは運がよかったと言えるだろう。
- だがそれらの救いがたい事実よりも、私の胸を捉えて放さない恐怖は別のこと。
- 自分はいったい何なのか。なぜ当事者的な視点で惨劇に立ち会えたのかと、理由わけを考えたら震えが止まらなくなる。
- ワルフラーン様に同調していたわけではなく、まるであの場に私も存在していたかのような現象を突き詰めれば、出せる答えは一つしか有り得ない。
- 私は当時、クインではない何者かとしてあそこにいたのだ。そして死を迎え、お父様の手により今の自分へと生まれ変わった。
- 決して荒唐無稽な話じゃなく、むしろ筋が通ってさえいる。みんなの勇者に畏怖を抱いた破滅工房クワルナフは、奇跡の謎を解くためにワルフラーン様の欠片を拾い集めて再構築し、結果私を、ゆえに私は……
- 二〇年前に砕かれた“みんなの祈り”――その集合体ということなる。
- 恐ろしい。自分が死者に等しいモノであるという点よりも、勇者の最期から連想される可能性が不吉すぎて堪らなかった。
- 私もいつかあんな風に、転墜してしまうのではあるまいかと。ワルフラーン様の一部を出自としているにも拘わらず、彼が何を考えていたのか理解することが未だにできない。これこそ勇者を死なせてしまった破滅の象徴、そんな風に思えてならず……
- 鬱々と沈む思考は負の螺旋に落ちるだけだと分かっていても、払拭する術を見出せずにいた。こんな祈りわたしに担ぎ上げられるのは御免被るし気持ち悪いと、蛇蝎のごとく嫌っていたマグサリオンの気持ちも少しは分かる。
- ああワルフラーン様、あなたいったい、何を見ていたのですか?
- どんな夢を思い描き、どんな勝利を目指していたのか。お願いだから教えてほしい。
- まるで確かなモノが一つとしてない無明の闇に、手足を縛られたまま放り出されたような心地だった。
- けれど――
- そんな煩悶は聖王領に着いた途端、瞬時にして掻き消えた。自虐を弄んでいる場合じゃないと、誰に言われたわけでもなく一目で察する。
- 「馬鹿な……」
- 空を覆い尽す魔眼の主は言うまでもない。夢に見た光景と同じであり、まさに悪夢の続きだった。
- アーちゃんはこれを察知していたのだろう。星霊となったことで宇宙の情勢を理解できるようになり、だから早く帰れと私たちを急かしたのだ。
- とはいえ、彼女にとっては初めてとなる星間移動の下準備。不慣れと焦りが影響したのか座標のずれが生じており、私たちが降り立ったのは王都の端に位置する街路上だった。必然、恐怖でごった返す民の群れに呑み込まれる羽目となる。
- 「待ってください、マグサリオン!」
- 不意を衝かれて対処が遅れた私を置き去り、彼は再度の瞬間移動を使っていた。今あの黒騎士から目を離すのは危険すぎる。
- ワルフラーン様を死に追いやったみんなへの憎悪。勇者の痕跡を消し去ろうとしているマグサリオンが、二〇年前とあまりに相似しているこの状況でどんな暴挙に走るか知れたものではない。
- よって私も、遅ればせながら瞬間移動を行使した。彼の行き先は王城だと分かっていたので、後を追うべく一気に空間を飛び越える。
- しかし、到着したそこで目当ての姿を見出すことはできなかった。城下の喧騒に劣らぬ混乱が渦巻いて、錯綜する無数の意識が邪魔となりマグサリオンの居場所を特定できない。
- 唯一の救いは、お父様の接近をこれほど許しておきながら未だ聖王領が無事である点だろう。健全な状態とは言いがたいが、ともあれ星の運行を砕かれてはいなかった。理由は不明なものの、出会い頭に潰される展開だけは避けられている。
- でも言い換えれば、いつこの幸運が終わるかは誰にも読めない状況だ。一刻を争う事態に変わりはなく、焦燥に歯噛みしつつ私は王城の中を駆け巡った。
- せめて誰か、一人でも親しい人物に会えれば手分けができる。スィリオス様に報告をしなければいけないし、留守の間に何があったのかも知らねばならない。
- だからどうか、願いよ届けと。切に祈ったそれは結果だったのだと思う。
- 「――フェルさん!」
- 無数の人々が行き交う廊下の隅で、蹲っている彼の姿を認めたのだ。
- 「……クイン、そうか。無事だったんだな、よかった」
- 「ええ、ですが詳しいことはまた後で。もっと急ぎの話があります」
- マグサリオンの状況を説明すれば、一も二もなく彼は協力してくれるはずだろう。そう信じて言葉を継ぎかけた私は、だけどそこで異常に気付いた。
- 違う。これは私が知ってるフェルさんじゃない。上手く表現できなかったが、あのひたむきな正義感が別の何かに変質している。まるで骨折を放置した結果、致命的なほど異形のまま固まってしまったかのように。
- そもそも、なぜ私と目を合わせないのか。これまで彼からきつい態度を取られたことは何度もあるが、すべて気持ちいいほど真っ直ぐな想いだったのに。
- だから私は、そんなフェルさんが好きだったのに。
- 以前の彼とは似ても似つかぬ、卑屈に自嘲するような気配を滲ませる理由が分からない。関わるな、近寄るなと、暗に告げてくるのはいったいどうして?
- 私に不満があるのなら、堂々と言ってくるのがフェルさんじゃなかったのか。
- 「あなたに何があったのかを教えてください。力になれるかは分かりませんが、言ってくれればなんでも……」
- 「僕のことなんかはいい。それよりもだ、クイン」
- こちらの問いを断ち切って、フェルさんは俯いたまま立ち上がった。酷い負傷をしているのか、ふらついていたので支えようと思ったら無言で身を引き、拒絶される。
- もはや捨て置けないと感じた私は、彼の心を読もうとしたが……
- 「サムルークのところへ行ってやれ。あいつはもう、助からない」
- その言葉を聞かされて、まさしく人形でくさながらに固まってしまったのだ。
- 私たちが空葬圏でマシュヤーナと対峙していたとき、こちらで起こった事件の詳細はすぐに割れた。フェルさんは結局何も話してくれなかったけれど、治療棟に詰めている看護師から聞いたのだ。
- 暴窮飛蝗ザリチェードに、タルヴィード。これら二体の特級魔将ダエーワに襲撃されて、撃退には成功したが多大な被害を受けたという。
- そこで獅子奮迅の働きをした戦士ヤザタは二名。一人は謎の変質を遂げてしまったフェルさんで、残るもう一人は他でもない。
- 「よぉ……元気そうじゃねえか。安心したぜ」
- 「サムルーク……!」
- ベッドに横たわる瀕死の彼女の手を握り、私は嗚咽を漏らしていた。今さら説明されるまでもなく、この友人が手遅れなのだと分かってしまう。
- 「ごめんなさい。あなたがこんな状態になってるとも知らず、私は……」
- 「謝んなよ。そんなのお互いさまだろうが」
- 苦笑するサムルークの顔は、比喩じゃなく縦横にひび割れていた。かつては鮮やかに燃えていた赤い髪も老人めいた白髪に変わり、生命力の枯渇を残酷に告げている。
- 彼女の胸から下は存在しない。ザリチェードの奥義をまともに食らった結果らしく、いくらしぶといサムルークでもこれはどうにでもできぬ致命傷だった。まだ息をしているだけでも驚嘆に値して、口を利けるのは奇跡とすら言っていい。
- だから私にできるのは、最期を看取ることだけだった。徐々に力尽きていく彼女の手を、握り続ける真似しかできていない。
- 「……まいったな。おまえにそういう顔されると、いよいよなんだって思っちまう。悔いが残るぜ、本番はこれからだってのに」
- サムルークの声は掠れていき、目からも光が失せ始めていた。私は握った手に力を込めて、絞り出すように言葉を紡いだ。
- 「お願いオーダーを……何か一つ命じてください。必ず叶えると誓いますから、あなたの祈りを胸の奥に刻ませてほしい。そうすれば、いつまでも私たちは共に在れる」
- 「いいのかよ、安請け合いして」
- 「構いません」
- 涙に滲む視界の中、まさに果てんとしている彼女を見つめて強く私は頷いた。
- サムルークの遺志を継ぎたいと、そう心から願っているし、何よりも……
- 「私も少し、色々あって、不安だらけなんですよ。だけどあなたと一緒にいれば、大丈夫な気がする」
- 自分の真実に対する恐れも、彼女となら乗り越えられるかもしれない。だってこの人ほど、義者アシャワンの矜持を貫いている戦士ヤザタはいないから。
- 「奇跡パワーを充電させてください。お願いします」
- おどけた風に私が言うと、サムルークは微かに肩を震わせた。それが今の彼女にとって、最大限の笑みなのだろう。
- 「わかったよ、じゃあ頼むわ。マグサリオンに会わせてくれ」
- 「……え?」
- 予想外の要望に呆けてしまった私の額を、サムルークの指が弱々しく、だが強い意志でつついてきた。
- 「言っただろ、ケジメだよ。そいつをつけないままじゃ、死にきれねえ。あいつにゃ言いたいことがありすぎて、何を言ったらいいのかわかんねえけど……そこは会ってから考えるさ。とにかく、あの馬鹿を連れてきてくれ」
- 「……分かりました」
- 頷き、立ち上がろうとしたときだった。
- 「いいザマだな、間抜け」
- 不意にそんな声が掛けられ、驚いて振り向くと、病室の入り口に黒い騎士が立っていた。私たちはそれを認めて絶句するが、当のマグサリオンはこちらの反応に頓着せず、そっけない口調で続ける。
- 「好きに使えよ。くれてやる」
- そして何かを投げよこした。コインほどの小さな物体がベッドの上に転がって、正体を明らかにする。
- 「指輪……? なんだこれ」
- サムルークが言う通り、マグサリオンが放ったのは白銀に光るアクセサリー。一見すると変哲もない代物だが、私はこれの真実を知っている。
- マシュヤグ……インセストが持っていた強力な魔道具を、彼は回収していたのだ。しかしどうして、何のためにサムルークへ渡すのだろう。疑問に答えは返らぬものと思っていたが、意外にもマグサリオンは簡潔に教えてくれた。
- 「こいつは貴様を選んだらしい。勝手に振り回されても困るのでな。せいぜい上手く利用しろ」
- 「……待てよ。おまえ、何を言ってる」
- 苦労して問いかけるサムルークに、マグサリオンは嘲笑の気配を見せた。同時に私は、異様な心臓の音を聞く。
- それはマシュヤグから――いいや、サムルークから響いてくる鼓動だった。信じられないことに、ついさっきまで止まりかけていた彼女の命が再び激しく脈打っている。
- 「まだ死ぬのは嫌なんだろう? だったらそいつにお願いしろよ。保証はせんが、あるいはもう一戦くらいなら保つかもしれんぞ」
- 「お、おおぉぉ……!」
- そのとき私の眼前で起こった現象を、なんと評すればいいのだろう。奇跡と呼ぶにはあまりにも禍々しく、だけど救いの一種には違いないものだった。
- 宙に浮かんだマシュヤグから、花開くように鋼鉄の触手が躍り出る。次いでサムルークに絡みつくと、失った肉体を補強するかのごとく柔靭に、かつ凶暴なフォルムを組み上げていくのだ。
- 漆黒に磨き抜かれた全身鎧……紛れもなく、それはマグサリオンと同じ種類のものだった。ここに複製された魔道具を帯びたサムルークは、驚きを隠せない顔で自分の手足を見下ろしている。
- 「嘘だろ……痛みが消えてやがる」
- 「忘れているだけで、貴様が死体に近い事実は何も変わらん。まあもっとも、俺のと同じ機能つくりとは限らんがな」
- 「おい待て――」
- 去ろうしていたマグサリオンを、鋭くサムルークが呼び止めた。
- 「一応、礼は言っとくぜ。けど忘れんなよ。あたしはおまえを許しちゃいねえし、これが終わったらケリつけてやる」
- 「覚えておこう。無駄にならなければいいがな」
- そして彼は、穏やかとさえ言える気配のまま場を辞した。私はただその背を見送り、呆然とするしかできない。
- 「はは、見ろよクイン。やったぜおい! あたしはやれる、まだやれるんだ!」
- こちらの手を取ってはしゃぐサムルークにも、曖昧な反応しか返せなかった。それほどまでに私は衝撃を受けている。
- マグサリオンの意図は正直分からず、これがどんな結末に繋がるのかは不明のまま。けれど確かに言えるのは、彼が施しをしたということ。
- 苦しむ他者に手を差し伸べ、助けたのだ。あのマグサリオンが、善意をもって仲間に救いをもたらした。
- こんなに喜ばしい出来事はないはずなのに、どうして私の胸は不吉なざわめきを覚えるのだろう。
- 怖い、怖い――やはり自分は、勇者を死に追いやる壊れた存在なのかもしれない。
- ◇ ◇ ◇
- 同じ頃、龍骸星の中枢たる王の宮殿で跪き、アルマは臍ほぞを噛んでいた。
- まさかこんな事態になるとは完全な想定外。天を覆う絶滅星団に忌まわしい記憶を掘り起こされたが、状況はあのときよりなお悪い。
- 「顔色が優れませんねアルマ。恐ろしいのですか?」
- 「ええ……なにぶん未熟者ゆえ」
- 「心配は要りませんよ。私たちは王の御意志に従っていればいいのです」
- 「確かに」
- 「確かに」
- 「あの御方はあらゆるものに通暁なされています。この程度は恐るるに足らず」
- 「取り乱すのは、王を信じられぬ不忠であると知りなさい」
- 気楽なことしか言わぬ姉姫たちの胸倉を掴み、思うさま罵倒してやりたかった。自分と彼女らでは立場が違う。
- なるほど、星霊であるという一点だけを見れば、カイホスルーとクワルナフは同等だ。正面切っての戦いは不可能でも、逃げるくらいはできるかもしれない。もともと益にならぬ真似を嫌う第六位魔王なら、早々に撤退する確率は高いと思える。
- しかしそれでは困るのだ。アルマは聖王領を守らねばならず、なんとかしてカイホスルーをそちらへ誘導したかったが、旨い手をまったく見つけられずにいる。客観的に考えて、こんな戦略もへったくれもない混沌に乗るのは馬鹿の所業としか思えぬから尚更だった。
- よって最悪、自分だけでも救援に駆けつけるべきだろう。だがそのためには監視を潜り抜ける必要があり、すべての寵姫が集められた現状では至難の業だ。焦れるほどに深みへ嵌ると分かっていながら、アルマは身が捻じ切られるような心地を味わっている。
- すると、不意に背後から優しくうなじを撫でられた。一七人の寵姫たちが同時にそれを感じたらしく、一斉に顔を上げる。
- ある者は恍惚と瞳を潤ませ、またある者は熱く湿った吐息を漏らした。跪く彼女たちを視線一つで羽化登仙へと導くのは、龍の玉座に身を預けた絢爛な美丈夫。
- 誰あろう、魔王カイホスルーの来臨だった。
- 「楽にしろ。これからおまえたちに面白いものを見せてやる」
- 己が愛しい妃たちへ、優しく邪龍は語りかけた。口の端を吊り上げて、舌なめずりするかのように言葉を継ぐ。
- 「ようやくお膳立てが整った。龍玉を労いに行くぞ、ついてこい」
- 未だ謎に包まれた筆頭寵姫の名をあげて、カイホスルーはアルマを見た。どういうわけかは不明だが、その瞬間に彼女は形容しがたい戦慄を覚える。
- 魔王は貪婪な笑みを浮かべて、呪縛に等しい事実を伝えた。
- 「あいつはおまえを気に入ったみたいだぞ。苦労するだろうが、まあそこは諦めるんだな」
- まるで両者はすでに顔を合わせていると言わんばかりに。
- よ、く、似、た、姉、妹、を、カイホスルーは心の底から愛おしんでいるのだった。
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- 第九章『動きだす混沌』後編
- 3
- 星の並びに狂いが起きれば、その運行にも乱れが生じる。宇宙を人体に喩えれば内臓の配置や血流の向きがいきなり変わるようなものであり、当然穏やかに済むはずがなかった。
- そういう意味で、ナダレの崩界はまさに混沌をもたらす所業と言える。現在、もっとも周囲への影響力を持つクワルナフがバフラヴァーンに集中しているため、致命的な事態は避けられていたが異変のすべてを封じ切れたわけでもない。
- 龍骸星と聖王領の公転軌道が交わっている。しかも前者の重力圏に後者が囚われており、もはや物理的な衝突は回避不能な状況だった。
- 極彩色に輝く貴石の龍が、白銀の鷲をとぐろで絡め取らんとする光景。すなわちカイホスルーに獲物を逃がす気などなく、二星は瞬く内に接近していく。
- だがそれは、聖王領の一方的な敗北というわけでもなかった。
- 今、ここにぶつかった二つの星はどちらがどちらを砕くでもなく、磁石のように合わさって固定される。ちょうど瓢箪ひょうたんを思わせる形状のまま、互いの生物相に目立った犠牲も出さず融合したのだ。
- 壮大、あるいは荒唐無稽に見える天体ショーは、実のところそう珍しいものでもない。星霊を宿す星同士なら間々ある現象であり、つまるところ手を取り合ったということだ。
- しかし、だからこそこれは極め付きの異常事態。二星の属性は白と黒に他ならず――戦士ヤザタの総本山と魔将ダエーワの頂点たる魔王の連帯とくれば、ある意味で崩界すら上回る驚天動地と言っていい。
- 真我アヴェスター的に有り得べからざる出来事で、宇宙の法則を無視している。傍目には巨大な龍骸星のほうが主権を握っているように見えるものの、カイホスルーの支配は聖王領の側を侵していない。ゆえに少なくとも、現状においては対等な関係となっていた。
- 誇張なく未曾有である。たとえ破滅工房に対抗するための一時的な合従がっしょうだとしても、そんな打算や妥協が本来入り込むはずもないのだ。
- よってこの状況が何をもたらすかは読みがたく、だが起こってしまった以上は流れの中で道を選ぶしか許されず……
- たった一つの誤断ですべてが崩れかねぬ薄氷の上に、クインたちは立たされていた。
- ◇ ◇ ◇
- 「つまり、そこへ私たちも同道せよと仰るのですね」
- 「ああ……そなたらにとっては休む間もなく大儀だろうが、受けてくれるか?」
- 「お気遣いなく。僕は一向に構いません」
- 「あたしもいいぜ。むしろこっちからお願いしたいくらいだよ」
- 跪いたまま自分の意思を述べた私たちへ、眼前の老人は感謝すると言って頷いた。
- 聖王領一二諸侯の第三席、アムダリヤ候トゥーラン様――民から滋君と敬される優しい御方で、世評に見合う恰幅と柔和な雰囲気の持ち主だったが、さすがに今は憔悴の色が目立っている。そもそも彼は武よりも文を愛する人で、通常なら我々戦士ヤザタの指揮を執る職分ではない。
- にも拘わらずこうして私たちを召しているのは緊急事態である点と、スィリオス様が理解しがたい方針を示したからだ。
- 「のこのこカイホスルーに会いに行くなんて、どう考えても自殺行為だろ。止めても聞き入れてくんねえんなら、一緒に行って守るしかない」
- 「口が過ぎるぞサムルーク。これをその程度に考えてるんなら君は来るな、足手まといだ」
- 「んだとフェル、おまえこそ態度悪ぃぞ。何をつんつんしてんだよ」
- ぼやきながら肩を小突こうとしたサムルークから、フェルさんはすっと引いて身を躱した。それは彼女の言う通り冷淡すぎる振る舞いで、逼迫した状況を鑑みても腑に落ちない。
- 文字通り死の瀬戸際から復活したサムルークの内情も心配だったが、やはり私はフェルさんの変わりようが気になって仕方なかった。けれど本人の口から詮索するなと言われたので、彼に何があったのかを未だ察せずにいる。
- トゥーラン様は、そんな私たちをどこか痛ましげな目で見ていた。
- 「魔王の討伐に飛蝗の撃退……私などでは想像もつかぬ痛みと嘆きを、そなたらは潜り抜けてきたのだろう。せめてその武功に見合った報奨を与えるのがこちらの務めだが、それさえ果たせぬまま新たな死地へ送ろうという厚顔無恥を許してくれ。頼める者は他にいないのだ」
- 「恐れ入ります。ただ意見を許していただけるなら、諸侯のお歴々は影武者を立てるべきだと思いますが」
- 「無理だな。王がお許しにならぬし、何より我々自身の意地もある。この危難において、己だけ身を隠すのは我慢がならん」
- 蒼白な顔色ながらも強く言い切るトゥーラン様に、私は差し出た諫言を陳謝した。
- そう、これから始まる第六位魔王との会合には、互いの有力者がすべて列席せねばならない。この条件を違えれば即座に戦争だと、龍骸星からの通牒があったと聞く。
- すなわち、あちらはカイホスルーと一八人の寵姫。こちらはスィリオス様と一二諸侯に、私とフェルさんとサムルーク、そして最後にマグサリオン。
- アルマが我々の味方であり、その事実を魔王が知っている点も踏まえれば、双方一八人でまったくの同数だ。つまり形式的には対等の体裁が整っている。
- 「そもそも、安全圏と呼べる場所はもはや何処にも存在するまい。ならば義者アシャワンの誇りとして、私も勇気を示すべきだ。……無論、恐ろしくて堪らんがね、こんなことくらいでしかそなたらの義には応えられぬ」
- 「そう言ってもらえるのは有り難いけど、守る対象が増えるのは大変だぜ」
- 「勘違いするなサムルーク。いざというとき、そなたらが守るのは王だけでいい」
- 一二諸侯われわれなど捨て置いて構わんと、微塵も気後れせずトゥーラン様は断言した。ここまでの覚悟を見せられては、これ以上何も言えない。
- 「承りました。微力ながら献身させていただきます」
- 他に気掛かりな点と言えばマグサリオンが暴発する可能性だが、リスクとしては彼を蚊帳の外に置くほうがずっと高い。もとより十中十は血を見る会合――ならば戦力的に絶対必要な存在だ。
- 問題はどういう流れで火蓋が切られるかという一点だから、私たちは剣を抜くタイミングさえ誤らなければいい。そういう意味で、マグサリオンの嗅覚はむしろ信頼できるのではとも思っている。
- サムルークを助けた彼。それに恐怖を感じた私。以上の事実には、未だ不安を拭えずにいるのだけれど。
- 「えっと、そんじゃあ最後に一つ、質問してもいいかな?」
- また答えの出ない自問に嵌りそうだった私の横で、当のサムルークが声をあげた。全身を漆黒の甲冑で包んだ重苦しい姿とは裏腹に、気楽な口調でトゥーラン様に問いかける。
- 「お偉方がそろうってんなら、ロクサーヌも一緒なんだよな。あいつのことを、あんたはどれくらい知ってんの?」
- 「……おい、いい加減にしろよ。口を慎め」
- 見かねたフェルさんが窘めるも、サムルークはきょとんと首を傾げていた。自分がなぜ怒られたのか、まるで分かっていない顔をしている。
- 私はその様子に、どこか言い知れぬ違和感を覚えた。彼女は確かに畏まった物言いを苦手としてるが、別に常識知らずなわけでもない。フェルさんの正論を鬱陶しがるならまだしも、呆けるというのはおかしいだろう。
- 「よい。そなたらの骨折りに依存する身で、今さら拘る上下もあるまい」
- だけどトゥーラン様は、鷹揚に無礼を許して問いに答えた。
- 「ロクサーヌについてだったな。あれの祖父とは親しくしていたし、その息子である先代の後見役も務めさせてもらったが、実を言うと彼女のことはよく知らん。ただ、祖母君の生き写しではある」
- 「祖母さんに?」
- 頷いて語り始めるトゥーラン様のお話は、五〇年もの過去へと遡るものだった。諸々解せない気持ちはあるものの、ここは大人しく聞き役に徹する。
- まだこの地が聖王領となる前、先々代のシャフルナーズ候と若かりし頃のトゥーラン様は、不義者ドルグワントを討伐する遠征の中で一人の女性に出会ったという。それが他ならぬ、ロクサーヌのお祖母様。
- 「猪武者なところがあった当時の我々とは違い、非常に聡明な方だったよ。しかし童女のように天真爛漫で、周りがあっと驚く悪戯を仕掛けてくる人でもあった。私たちはいつも彼女に振り回され、その華やかさの虜になるまで時間は掛からなかったと思う。恥を晒すが、あの人が友を選んだときはあまりに悔しくて泣いたものさ」
- 「その祖母さんは、もういないのか?」
- 「ああ、産後の肥立ちが思わしくなったそうでな。先代を産んでから四年ほどしか保たなかった。そして、後を追うように友もまた」
- ゆえにトゥーラン様が後見人となったらしいが、少し奇妙な話だと思った。なぜなら私の知る限り、今の両家は少し距離を置いている。疎遠と言うほどでもなかったが、事務的な関わりしか持っていない。
- 今代のシャフルナーズ候であるロクサーヌを、よく知らないと言ったのが証拠だろう。亡き友人の孫で、憧れの女性にそっくりだという相手を、そんな風に扱うのは情深きアムダリヤ候のイメージと乖離している。
- 私の疑問を察したのか、トゥーラン様は苦い笑みを浮かべて続けた。
- 「私はあれの幼い時分を知らんのだよ。娘がいるのは聞いていたが、病弱だとかで社交界にも出てこなかった。先代自身も心を病んでいたようで、あれこれと手は尽したがどちらの見舞いも許されぬ有様でな。これではいかんと思っていたのがちょうど二〇年前になる。後はもう分かるだろう」
- スィリオス様がこの星に移ってきたから、王の補佐に忙殺されてシャフルナーズ候家とは溝ができてしまった。そう寂しげに自嘲して、トゥーラン様は白くなった眉をひそめる。
- 「つまり聖王領を再興するとき、ロクサーヌの親父さんはほとんど何もしなかったっていうのかよ。そんなんで、よくお取り潰しにならなかったな」
- 「さすがに最低限の政務は行っていたし、数えるほどだが登城もしていたぞ。任に堪えられそうな様子では到底なかったが、あの頃は大なり小なり誰もが追い詰められていた。もちろん批難の声はあったものの、候家を潰すとなれば猥雑な手続きが無数に要る上、時期的に外聞も悪い」
- 「だから後回しになったって?」
- 「段階を踏んで幾つかの権限は移されたがな。改易にまで至らなかったのはそうした諸般の事情と、私が強固に反対したため。加え、何よりもスィリオス様がシャフルナーズを存続させようとしておられた」
- 「王様が?」
- 「然りだ。そして結果、その判断は正しかった。あそこの先代が没したのは六年前だが、そこから間を置かずに後継者が立ち、あっという間に巻き返したのだよ。そなたらもよく知る彼女だ」
- 父の跡目を継ぐと同時に、凋落していた家を蘇らせた今代のシャフルナーズ侯。
- 彼女が優れた実務家で、王の信頼も篤い片腕なのは皆が知っている。けれどこうして聞かされると、何か狐につままれたような話だ。
- 「正直なところ、私はあれが恐ろしい。どう表現したらいいのか判然としないが、得体の知れぬものを感じる」
- 幼い頃から病弱でずっと引きこもっていたにも拘わらず、ロクサーヌの振る舞いはあまりにも明朗だし、世知に通じすぎている。端的にアンバランスで、トゥーラン様が畏怖するのも頷けた。
- かつて愛した女性の面影を被った異形――喩えるならそんな風に見えるのかもしれない。
- 「じゃあもう一個だけ。あいつの祖母ちゃんは、なんて名前だったんだ?」
- 「同じだよ、ロクサーヌ――名を継承したのだろうな」
- 「ふーん、なるほどねえ」
- 相変わらずどこか地に足がつかない顔で、サムルークは首を傾げていた。貴族の子なら偉大な先祖の名前を継ぐのはよくある話だけど、何か引っかかるものを感じるのか。
- ずっと黙っていたフェルさんが、溜息まじりにそこを質した。
- 「結局あんたは何が知りたかったんだよ。ロクサーヌに思うところでもあるのか?」
- 「いや……それが分かんねえだわ。すげえ大事なことだったような気もするんだが、なんでか思い出せねえ」
- 「そうかい、もういい」
- 付き合ってられないと切り捨てて、フェルさんはトゥーラン様へと視線を移した。
- 「お手間を取らせて申し訳ありませんでした。委細承知いたしましたので、会合の場へと向かいましょう」
- 「……うむ、頼んだぞ」
- 「御意」
- 応えて、私たちは立ち上がった。とにかく今は、目先の問題に注力せねばならない。
- 状況は五里霧中であるものの、会合に臨めば明らかになるはずだと自分自身に言い聞かせつつ、そっと背後に目を向ける。
- 「…………」
- そこには、壁に寄りかかったまま立っているマグサリオン。彼はこれから起きる未来を、いったいどう捉えているのだろう。
- やはりそれも、始めてみなければ分かりようのないことだった。
- 4
- 私たちが向かったのは聖王領と龍骸星が癒着した結果に生じた大地で、言うなれば国境線上とも表現すべき場所である。
- 行程は最寄りの地に瞬間移動してから飛行を使えばいいだけなので、時間的に三〇分も掛からない。途中で攻撃を受ける可能性はもちろんあったが、少なくとも中立の空白地帯ならカイホスルーの権能を気にする必要もなく、いきなり全滅という落ちだけは回避できる。たとえ我々を舐めている結果だとしても、ホームアドバンテージを向こうが捨てたのはこちらにとって有り難かった。
- とはいえ、やはり油断は禁物。短い旅を続けている間、スィリオス様は武骨な沈黙を守っており、皆の顔も緊張に強張っていた。
- 唯一の例外はロクサーヌで、見るからにうきうきと面白がっている。目が合うたびに手を振られたりもしたのだが、どう返していいか分からないまま、ついに私たちは指定の場所へ到着した。
- 「へえ、こりゃなんとも……」
- まだカイホスルーたちは来ておらず、一番乗りした周囲の状況を見回して、サムルークは感嘆とも言える吐息を漏らした。
- 「新大陸とかいうもんだから、もっと辺鄙なとこかと思ったぜ」
- 「会合に使う以上、最低限の体裁は必要……ということでしょうね」
- 辺りは基本的に荒れた平原の様相だが、我々の目の前には円形の野外劇場めいた物体が存在していた。すべて岩から削り上げた簡素な造りであるものの、等間隔に並べられた席と卓は隙なく整然と展開し、ある種の威厳を醸している。
- この質実剛健な雰囲気は、第六位魔王の趣味じゃない。私と同じ感想を持った人は他にも多くいたようで、それらの視線が一人の人物に集中した。
- スィリオス様……王はそんな家臣の不安を一顧だにせず、ただ前だけを見据えておられる。この場を設えたのがもしも彼だとした場合、事態は何を意味するのだろう。
- 初めから準備万端整っていた? 龍骸星との融合は突発的な異変がもたらした成り行きに非ず、もっと以前からカイホスルーと通じていたのではあるまいか。
- でなくば先方が指定した地に、手際よく議場を構築できることの説明がつかない。
- 「どうしたのかなあクイン、難しい顔しちゃって」
- 不意に背後から肩を組まれ、驚いて振り向くとロクサーヌの笑顔にぶつかった。隣にいたサムルークも巻き添え的に抱き着かれ、仰け反りつつ顔を歪める。
- 「おま、いきなりなんだよ。べたべたすんな」
- 「あらご挨拶ね。私とあなたの仲じゃないの」
- 「はあ? なに言ってんだおまえ」
- フランクを通り越して馴れ馴れしい上役に、サムルークは困惑の色を隠せない。ロクサーヌはそれをしばし不思議そうに見つめた後、愉快げに目を細めた。
- 「なるほどなるほど、おかしいと思ったのよね。そういう理屈か」
- そしてサムルークの鎧に指を這わし、勝手に得心すると別の人物へ語り掛けた。
- 「あなたも罪な人ね、マグサリオン。私の大事な友達になんて真似をするのよ」
- 「…………」
- 「あーん、でもそのニヒルなところが堪んない!」
- 「ロクサーヌ、さっきからあなたは何を――」
- 言ってるのだと、最後まで口にすることはできなかった。
- 「残念だけど、お喋りはここまでね」
- 顔を上げたロクサーヌは厳かに、だが抑えがたい愉悦を滲ませて呟いたのだ。
- 「来たわよ」
- 瞬間、私たちは弾かれたように空を見る。天を覆う絶滅星団の威容は依然として揺るぎなく、しかし新たな異変が現れていた。
- 龍だ。龍が来る――破滅の空を威光がごとく背に纏い、極彩色の鱗で鎧われた貪婪なる邪龍の来臨。虹色に燃える四つの瞳と、貴石の輝きを放つ牙の列が見る見る巨大さを増していく。
- 単純な大きさならば、もちろんお父様には及ばない。だけど遥かに低空を飛んでいるという都合上、カイホスルーの龍体が我々の視界を埋め尽すまで時間は掛からなかった。
- 間違いなく、星にとぐろを巻けるほどの規模がある。曲りなりにもマシュヤーナを倒した後だが、この出鱈目さに慣れるなど不可能だ。
- これが魔王、これが絶対悪――我々のほとんどは呼吸すら忘れて硬直しており、いま攻撃されたら瞬時に一掃されかねない。やはり会合など自殺行為だったのかと思いかける中、上空から見下ろしてくる致命的を通り越した存在が告げた。
- 『数が合わんな』
- 胡乱げに、揶揄するように……呟いた龍の姿が、次いで瞬きの内に掻き消えた。
- 「俺は言ったはずだぞ、こいつは対等の同盟だとな。にも拘わらず、初手から横紙破りとは恐れ入る」
- 声の質と出所が変わり、慌てて目線を移すと議場の反対側にそれはいた。
- 煌びやかな女性たちを幾人も従えた長身の美丈夫……人の姿形をしていても、これが度外れた領域に在るモノだというのは一目で察せる。対峙するだけで身が崩れそうになる特有の圧は、最前までと何ら変わっていない。
- あれが魔王カイホスルー。龍骸星の支配者で、私たちをこの地に呼び出した男だろう。見れば連れの女性たちの中に、アルマの姿もあった。
- が、そんな状況云々よりも、私の心を乱したのは一つの言葉。今カイホスルーは、同盟と言わなかったか?
- 魔王の存在感よりもなお衝撃的な単語を聞き、居並ぶ諸侯方も気失の状態から覚めたらしい。けれどその結果に生まれたのは、明らかな動揺の渦だった。
- 会合の主旨が同盟に関わるものだというのは、確かにあらかじめ聞かされている。聖王領と龍骸星が物理的に交わったことも、それを補強する事実だろう。
- しかし、しょせんそんなものは口実だ。煎じ詰めるところ、殺し合うための舞台装置でしかない。
- 義者と不義者わたしたちはそういう風にできている。白と黒の間に信はなく、道義もなく――不倶戴天の法則だけを共有する関係なのに、いったいどうして?
- なぜカイホスルーは対等なんて概念を持ち出し、あまつさえこちらの不実を咎めてくるのか。これも一種の言葉遊びと解釈するには、魔王の不満げな様子が真に迫りすぎている。
- 真我アヴェスターを無視するような態度に、身の危険とはまったく異なる種類の恐怖を覚えた。
- 「答えろスィリオス。おまえ、俺を舐めてるのか?」
- 名指しされた王は、依然変わらず巌のごとき沈黙を保っている。反面我々は浮足立つどころじゃなかったが、よくよく見ればあちらの側にも動揺は広がっていた。
- 己が王に対する忠誠ゆえか、表立って騒ぐ真似はしていない。だけど寵姫たちの顔には驚きと困惑の相が浮かんでおり、その視線はこちらに立つ一人へと向けられて……
- 「大姉様……」
- 全身に紅玉ルビーの装飾を纏った寵姫が呟いた瞬間、私たちの目は一斉にその人物へ釘づけとなった。
- 「もう、堪え性が足りないわね。あと少しは傍観していたかったのに」
- まるで他愛ない悪戯がバレてしまったと言わんばかりな、気楽で稚気に溢れた口調と表情、そして仕草。
- 「は? おい、どうしたんだよおまえ」
- 「やめろサムルーク、そいつから離れろ!」
- フェルさんが叫ぶと同時に、私はサムルークを抱いて一足飛びに後退していた。スィリオス様を除く自軍の全員が同じ行動に移って、ぽつんと一人になった彼女は肩をすくめつつ微笑する。
- 寂しげに、すべてを嘲り倒すように。
- 「あらら、酷いわね。そんなに引かなくたっていいじゃないの」
- 「ロクサーヌ、あなたは……!」
- 瞠目する私たちの眼前で、一二諸侯の第九席――シャフルナーズ候が別のモノに変わっていった。姿形は以前のまま、凶悪な不義者ドルグワントの気配へと――
- その禍々しさ、その脅威、視界が歪んで見えるほど凄まじい我力の濃さは、そんじょそこらの魔将ダエーワなんかじゃ有り得ない。
- 「……龍玉姫か」
- 歯軋りするフェルさんの憤りが、現状をこの上なく端的に表していた。
- ロクサーヌこそカイホスルーの筆頭寵姫。魔王に次ぐ実力を持つ、四人の特級魔将が一人に他ならなかった。
- 「馬鹿な……」
- 対照的に、龍骸星の陣営からこちらを見ているアルマが呆然と呻いていた。要は彼女と同種の戒律を持つのだろう。
- 真我アヴェスターの属性認識を狂わせる能力。私たちはロクサーヌを義者アシャワンだと思い込み、何の疑いも抱かず仲間だと信じていたのだ。
- いったいいつから? どうやってこの女怪は聖王領に潜り込んだ? 歴史ある候家の一角を手中にしていた以上、昨日や今日の話じゃないのは確実。
- 「ではそなた……もしかして」
- 「トゥーラン、お久しぶりと言うべきかしらね。あなたは私に振られたと思っていたようだけど、実際は違うのよ。あなたのほうが愛しかったから、いじめないであげたの」
- 家を乗っ取り、狂気に落とし、道具として使い潰さずにいてやったのだと、無邪気に華やかな顔で女は笑う。
- 人の苦悩と絶望を糧にして、毒々しく艶やかに輝く宝石みたいに。
- 「もしかしたらこちらのほうが酷だったかもしれないけど、そこはまあ諦めて。だってほら、私って不義者こんなだもの。好きな人のそういう顔を見ると興奮しちゃうの」
- 「――王ッ!」
- 恥辱と憤怒に狂わんばかりの表情で、トゥーラン様が吠え猛った。
- 「これはいったいどういうことだ!? あなたはもしや、こんな穢れと手を組んで――」
- 「黙れ虫けら」
- 糾弾の台詞を言い切る間もなく、トゥーラン様は粉々に砕け散った。カイホスルーのぞんざいな一言で、石英の結晶となり大地に散らばる。
- 「おまえごときの発言は許していない。まして俺の女を侮辱するとは身のほど知らずが。永久とわに額ぬかづいて平伏しろ」
- 「……ッ!」
- 貴石化の権能……龍骸星の支配から外れた場所では使えぬはずだと思っていたが、直接向き合えば別らしい。だったら私たちは、もはや俎板まないたの上に置かれた鯉だ。
- 「……マジかよ、これってほとんど詰んでねえか」
- 「落ち着きなさいサムルーク。私たちは仲良くするために集まったんだから、自棄になって迂闊な真似をしちゃ駄目よ。ねえカイホスルー?」
- 「そうだが、言った通り条件を満たしてねえ。俺は適当なことをする奴が嫌いなんだよ」
- 数が合わんと、最初の話題に戻して第六位魔王は舌打ちした。
- 「さっきの間抜けは大目に見るとしても、ここにそろった時点でそっちは一七、こっちは一八。なあ、この程度の約定すら守れんのか。スィリオスよ」
- カイホスルーが述べた頭数に、疑問の顔を浮かべたのはむしろ寵姫たちのほうだった。それを素早くロクサーヌが補足する。
- 「アルマちゃんはもともと義者アシャワンなの。つまり私と似たような力を持ってて、カウントするなら白の側ね。ああもちろん、だからって怒っちゃ駄目よあなた達。カイホスルーが許してるんだし、文句がある子は彼に言いなさい」
- 「……はい。理解しました、大姉様」
- 不満は当然あるのだろうが、鶴の一声で寵姫たちは頷いた。その中でただ一人、怒りに燃える目をしたアルマがロクサーヌを睨んでいる。彼女の心胆は如何ばかりか。
- 確かにどんな戒律でも、唯一無二だと断言できるものはない。同じ発想に至り、同じ苦行に耐えられるなら、同じ能力を持つ存在が複数いても不思議はないのだ。
- ゆえに特異な縛りを持つ者ほど、その可能性を視野に入れておく必要がある。他ならぬ自分が気付かねばならなかったのだと、アルマは屈辱を噛みしめていた。
- 実際ロクサーヌが龍玉姫なら、こちらが減ってあちらが増えるため数の対等が崩れてしまう。同盟とやらの真相は未だに理解不能だが、この食い違いが魔王の機嫌を損ねているのは間違いなかった。
- しかし――
- 「おまえの目は節穴かよ、カイホスルー」
- ずっと黙っていたスィリオス様が、ぽつりとそう呟いたのだ。嘆かわしげな声は馬鹿と言っているような発音で、戦慄した私たちを意に介さず、さらに続ける。
- 「ああそれとも、未練がましい類の男か。七〇年も前に去った女を未だに自分の所有物だと思っているなら、呆れ返るより他はない。無論、かといって龍玉コレを私の臣に含めるほど肝は据わっておらんがね。おまえよりは正しく評価しているつもりだぞ」
- 「ほぉ、ならば教えてもらおうか。おまえは龍玉をどう扱う」
- カイホスルーの双眸に、狂熱とも言える光が灯った。ロクサーヌの頬は桃色に輝いて熱を帯び、寵姫たちの殺意も私たちの焦りも、すべて呑み込みなお揺るがぬスィリオス様の声が響く。
- 何者であろうと何事であろうと、一切顧みぬまま進まんとする不退の決意――私の背後でマグサリオンが失笑する気配を感じた。
- 「中立というやつだろう。この女は手に負えん。よってどちらの側にも数えるべきではないと考える」
- 「はッ――」
- 「あははっ」
- するとカイホスルーは天を仰ぎ、ロクサーヌは身をよじって、同時に哄笑を迸らせた。白でも黒でもありはしないと、聖王たる男が告げた台詞に喜色満面となっている。
- 私はその光景に、ワルフラーン様の最期を見たときと同じ気分を味わった。
- 世界の常識が音を立てて崩れ去る感覚。
- 「あなたの負けねカイホスルー。つまらない意地悪はもうやめて、そろそろ本題に移りましょうよ」
- 「そうだな、皆も席に着け。もはや棲み分けなど馬鹿馬鹿しいし、基本誰が何処に座ろうと構わんが、おまえだけはここだ、アルマ」
- 言って、自分のすぐ傍らを指さすカイホスルー。人質代わりにするつもりなのか、眉をひそめるアルマに対し、魔王は朗らかな笑みを向けつつ信じがたいことを嘯いた。
- 「構えるなよ。単に惚れた女とは片時も離れたくないだけだ」
- もはや何が正しくて、何が間違っているのかも分からない。ゴミでも払うようにトゥーラン様を殺した口で、アルマに愛を語るこの男はいったいなんだ? そしてそんな無道を見ながらも、眉一つ動かさぬスィリオス様は? 彼に従っている我々は?
- あらゆる意味での境界線に翻弄される心地のまま、聖王領と龍骸星の同盟を占う会合が始まった。
- 好きに座れとは言われたものの、着席した面子はやはり左右の両端に分かれている。強いて言うならスィリオス様の近くに腰を下ろした者は皆無であり、中立と評されたロクサーヌは両陣営の中間地点。そしてマグサリオンは彼女と反対側の奥に立ったまま、すり鉢状になっている場の全景を見下ろしていた。
- 構図としては四つの勢力が向かい合う感じで、言うまでもなく居心地は大変悪い。そうした不満の諸々は、すぐに詰問となって顕れた。
- 「つまり私の任務自体が茶番だったと?」
- 「身も蓋もない言い方は無しよ、アルマちゃん。要は政略結婚みたいなもので、前に私たちの立場は似てるって言ったじゃない」
- ロクサーヌとアルマは、互いの王に送られた使者であり貢ぎ物。時期的には前者のほうがずっと先に接触していたのだろうが、確かによく似た役割だ。
- 「王様のことが気に入らなければ殺してもいい。逆に王様から嫌われたら敵地のど真ん中で孤立無援だし、あっさり死んじゃう。そういう運びになったら御破算って話なのよ。
- 転じて私たちがここにいるのは、カイホスルーとスィリオス様が認め合った事実の証ね。ちょっと喩えが尾籠びろうだけども、同じ釜の飯を食った的な」
- 「男同士で意気投合するにゃあ、女をカマすのが一番手っ取り早いってか。くだらねえ」
- 苛立たしげに吐き捨てたサムルークの気持ちはよく分かる。つまるところ私たちが龍骸星に赴いた任務さえ、この場に至る試金石だったのだ。
- 駒を見せ、役に立つかをカイホスルーが判断するためのもの。当時から無茶な仕事だと思っていたが、実情は何のこともない。最初から第六位魔王の打倒など期待されていなかったというだけだ。
- やはりアルマが言った通り、茶番と評するのが妥当だろう。湧き上がる怒りを抑えながら、静かな声で私は質した。
- 「で、お眼鏡に適った私たちは、いったい何をさせられるのですか?」
- 「愚問だな、あれを見ろ」
- カイホスルーは鷹揚に天を指さす。そこにあるものは瞭然で、フェルさんが呻きに近い声を漏らした。
- 「破滅工房を倒すための同盟だとでも?」
- 「当面としてはそうなるが、実のところはナダレだ。いいや、さらに上座の真我アヴェスターをぶち壊す。――おいおい、何を驚いてるんだおまえたち。俺らがツラを突き合せ、こんな話をしてる時点で法もクソもあったもんじゃあるまい」
- 「それは、確かにその通りですが……」
- 改めて言われると、頭を鈍器で殴られたような衝撃だった。
- 真我アヴェスターを壊す。常識を粉砕し、黒白ぜんあくの彼岸を超越する。すなわち本能からの脱却で、未知の世界へと羽ばたく行為だ。
- かつてアルマに新世界の概念を教わって希望を見たが、そのとき思っていたのはあくまで悪クロを滅ぼした果てに得る大団円。まさか魔王と手を取り合って、共に目指す勝利など考えたことすらなかった。
- というか、そんなものが有り得るのか? 在っていいのか?
- 「おまえからも言ってやれスィリオス。だいたい、てめえの部下を納得させるのに俺の手を煩わせるなよ」
- 促す魔王に我らが王は……いや、そうだと思っていた人物が、重い口を開いて応じた。
- 「私はかつて、ワルフラーンの最期を見た」
- 脳裏に過る地獄絵図。みんなの勇者が転墜した民衆から嬲り殺しにされる光景。
- 「そして悟ったのだよ、この世はすべて間違っていると」
- スィリオス様とあの記憶を共有できる人物は、現状私とマグサリオンしか存在しない。だけど有無を言わせぬ迫力で、他の皆を黙らせるだけの想いがそこに宿っていた。
- 怒り、悲しみ、憎悪、絶望……あらゆる負の想念が混然一体となった狂気の祈りを言葉に変える。
- 正義で救えるものなど何もないと。
- 「真我アヴェスターに従う限り、勝利は永劫掴めぬと知れ。理由? ワルフラーンでさえ果てたからだ。あれほどの男が、あれだけの英雄が、あんな結末に至った事実を誤りでなくなんだと言う。ふざけている、有り得んだろう。もはや元凶が何処にあるかは問うまでもあるまい」
- 悪いのは世界だ。ゆえに壊すと断言するスィリオス様の舌鋒は、徐々に激しさを増していった。
- 「耳心地よい妄言と、身綺麗な理想とやらで勇者を語る蒙昧どもこそ私の敵だ。なぜなら皆があの不条理を知らぬから。知った上で斯く在ったのは天下にただ一人のみだから。私は友のようになれないが、友の影として世界カミと戦うことならできる。それを歪みと断ずるなら、汚穢と蔑み嗤うなら、ああ一向に構わんとも。存分に責めるがよかろう、恥など知らん――私は無慙無愧である!」
- 放言の後に広がったのは、謦しわぶき一つない静寂だった。しかし反論を許さぬスィリオス様の剛つよい覚悟、天すら砕き割ろうという猛然とした意志が、皆の魂を彼の色に染め上げていくのが分かった。
- 言うなれば覇者の気概。すべてを征圧し、塗り替える王の業わざ。
- 「お見事。私も新しい世界をこの目で見たいと願います。そこにどんな景色が広がるのかは、誰にも分かりませんけれど」
- 偽りなく感嘆して、緩くロクサーヌは頷いた。次いでカイホスルーに目を向けると、次はあなたの番だと暗に促す。
- 「煽るなよ龍玉、俺の覇道は言葉で語るもんじゃねえ。ただ信じさせるだけだ」
- 「負けないと?」
- 「おまえは地に這う俺が見たいのか? おまえを手放しておきながらそんな結末が許されると言うのなら、それこそスィリオスが謳うところの間違った話だろう。有り得ねえよ」
- 再び空を指さして、カイホスルーは厳かに告げた。
- 「聞けおまえら、俺とスィリオスが組んだ以上、ふざけた世界の道理は通らん。すでに常識など遥か彼方に置き去ったんだ、真っ当な筋道なんぞは具現しねえ。つまり絶滅星団アレも落とせるんだと理解しろ」
- 「……だが、どうやって?」
- 恐る恐るといった体で、そう尋ねたのはアルマだった。彼女とて死を受け入れるつもりは毛頭ないが、二〇年前の惨劇を断片的ながらも知っているだけに楽観は難しいのだろう。カイホスルーは安心させるように、その肩を抱いて説明した。
- 「奴は今、バフラヴァーンとやり合ってる。俺の見立てじゃ七分三分でクワルナフだが、やりよう次第で五分にも変えられるはずだ」
- 「相打ちにさせると? 手段は?」
- 「あいつだよ」
- 「え?」
- 不意に指をさされた私は、思わず呆けた声を出してしまった。
- 「これは奴の被造物。そうだよな、スィリオス」
- 「然り。ゆえに親の元へ遡れるはずだ」
- 「待ってください!」
- 勝手に話が進んでいき、堪らず私は介入した。聞く限り瞬間移動で絶滅星団の内部に飛び、お父様の核を潰すという作戦みたいだが、そんなのは無理だ。
- 「私は生まれた瞬間のことを記憶していません。辿れと言われても、どうしたら……」
- 「今まで俺たちが集めたおまえの兄弟を、ありったけ連れて行けばいい。たとえ覚えていなかろうが、親に創られた座標は必ずある。数がそろえば、そこに当たる確率も上がるだろうよ」
- 「ですが、もし仮に上手くいったとしても……」
- 「ああもちろん、クワルナフは魂体を砕かれたくらいで死ぬようなタマじゃねえ。あいつはナダレのお気に入りだ。イカレちゃいるが、もしかしたら俺らと同じ種類かもしれん。“化ける”可能性も計算に入れた上で七分三分と言ったんだが、自我を失っちまえばただでかいだけのケダモノだな。バフラヴァーンの阿呆ならタメを張れる」
- まるで最初から用意していた返答みたいに、淀みなくカイホスルーは語っていった。さらにスィリオス様が付け加える。
- 「いま聞かせた流れは、あくまで可能性の一つにすぎん。思惑通りに進む保証はないが、結果だけは明瞭だ」
- 「俺たちが勝つ」
- 「ちょっと待てよ!」
- 言い切る二人に、食って掛かったのはサムルークだった。
- 「じゃあ何か? その作戦を失敗しようが、知ったこっちゃねえってのかよ。それで……えぇっと、――ああクソッ、こいつが!」
- 私を指さし、彼女は頭を掻きむしりながら怒号した。まるで消えゆく何かを拾い集めるような焦燥と共に。
- 「死んじまっても構わねえって? どうせ最後にゃ絶対勝つから? ――ざけんな、付き合ってらんねえぞ!」
- 「おいスィリオスよ、なんだこれは?」
- 「■■の眷属だ。お陰で効きはいまいちだが、使いようはある」
- 「てめえら……!」
- 「待ってくださいサムルーク。落ち着いて……私は平気、平気ですから」
- 今にも飛び掛からんばかりな剣幕の彼女に縋って、なんとか暴発を押し留めた。サムルークの気持ちはとても嬉しいが、だからこそ命を粗末にしないでほしい。トゥーラン様の二の舞になってしまう。
- 「気遣いが足りないわね王様たちは。言い方ってものがあるでしょうに」
- そんなこちらの様子を、苦笑して見やるロクサーヌ。自分はオブザーバーだと主張するみたいに、他人事めいた調子で捕捉を促す。
- 「目先の成否はどうでもいいからって、失敗前提のケチな勝負じゃみんな白けちゃうわよ、カイホスルー。あなたなら、派手に賭け金を積んでるんじゃなくて?」
- 「あん? そりゃあもちろん当然だろ。なんだおまえら、こんなことも言ってやんなきゃ分からねえのか。戦力の当てはちゃんとある」
- なので安心しろと、カイホスルーは一転して相好を崩すと請け合った。不快も露わなアルマの機嫌を取るように、声音も柔らかな調子に変えて続ける。
- 「おまえの男だって腕の見せどころだろうよ。俺も期待してるんだぜ、なあ黒いの――」
- と言いさして、だけどそのとき――
- 「くくく、こりゃ驚いた。気付かなかったぜ、面白い野郎だ」
- 魔王が目を向けた議場の端……そこにいたはずのマグサリオンが、いつの間にか姿を消しているのだった。
- ◇ ◇ ◇
- 彼はさほど離れた所にいたわけではない。岩の陰に隠れているため向こうの面々と視界的に断たれていたが、徒歩で数分程度の距離しか間を取っていなかった。
- ではなぜそんな行動をしたのだろう。元より群れることを極度に嫌う性分だから、むしろ先ほどまでのほうが異常だったと言うのは容易い。だが本当にそれだけなのか。
- 鋼鉄の兜に覆われた顔は表情の一切を隠し、過去がそうだったように今もマグサリオンの内情は闇に包まれている。あるいは未来においてすら、黒騎士の謎は不変のまま留まるのかもしれない。
- ただ、彼は空を見上げていた。正確に表すならそこに空と呼べるものなどなく、天を埋め尽くしているのは破滅工房の威容のみ。
- 兄の仇――とは言えぬ。ワルフラーンを殺したのは魔王に非ず、“みんな”という名の存在だった事実をマグサリオンは承知済みだ。
- 負け犬と断じた兄の生き様。心臓を他者に預けていると酷評した通り、勇者は守るべき者たちから潰された。無意味に、無情に、惨めで馬鹿馬鹿しい道化の末路と嗤うしかなく、自業自得以外の何ものでもあるまい。
- だというのに、その死がなぜこんなにも……
- 「あんたは勝った気でいるんだろう。そう思いたいなら思っておけばいい。すぐに分からせてやる」
- 静かに、しかし凍える溶岩にも似た声で呟き、マグサリオンは視線を戻した。天の異常はもはや言うまでもなかったが、地平の先にも尋常ならざるものが見える。
- それは赤く煙る霧だった。血のごとく、顎門あぎとのごとく、踊り揺蕩いながら緩やかに近づいてくる紅の帳は、実のところ超音速の津波に他ならない。
- よって無防備に立ち尽くしていた黒騎士は、瞬く間に呑み込まれた。猛烈に香る鉄錆の匂い。断末魔の声。怨嗟の響き――
- 比喩ではなく、一時的だが渦巻く鮮血の海に沈んだ。やがて嵐が過ぎ去った後、大地を染め上げる赤い庭園で彼はその者たちと対峙する。
- 「また会えましたねマグサリオン様。このときを待ち侘びておりました」
- 行儀よくお辞儀カーテシーの姿勢を取る金髪の少女。青いドレスが血に映える。
- 彼女の背後には黒衣の執事と、にこやかに微笑んでいるメイドたち。
- 「わたし、あなたを運命の殿方に違いないと思っていますの」
- 第四位魔王フレデリカ――殺人姫との再会だった。
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