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- 誤解がないように言っておくが、私は自信がないわけじゃない。
- お父様は勇者を倒したが、同時にワルフラーン様を恐れたからこそ私を生んだ。
- 曰く、計り知れぬものを知るために。知った上で喰らい、より完全なものへなるために。
- だから娘として戦士ヤザタとして、私が成すべきことは魔王・破滅工房の打倒に集約される。我が身の存在意義はそこにあり、疑いも気後れもしていないと断言できた。
- しかし同時に、自分が決戦存在だと思い上がってもいないのだ。奇跡の神剣とは善なる祈りが招いた結果の“現象”で、単一の個人や武器を指すものに非ず。
- 私がいるから大丈夫なんて話にはならない。それは誕生を期待されている兄弟にも言えることで、大事なのは勝利へ至る希望の数々を集めながら、効率よく積み上げていく方法の模索だろう。
- 「そういうわけで、私はこつこつとやっているんです。安易な一発逆転なんて有り得ませんし、求めてもいけません。聞いていますか、サムルーク?」
- 「つまりキセキパワーを充電しろって言うんだろ? 簡単じゃんか。あたしの傍におまえがいればソッコー溜まるぜ」
- 「あなたはその、なんでも単純に考える癖をやめたほうがいいです」
- 「そうか? わりと羨ましいって言われるんだけどな。おまえもそうなんじゃないの?」
- 「違います」
- 断じてサムルークを見習おうなどとは思わない。過去にそんな感じのことを考えたのは、間違いなく気の迷いだ。
- 天象儀の部屋を出た私たちは喧々囂々けんけんごうごう――と言うよりこちらがムキになっているだけだったが、議論しながら廊下を歩く。まさかサムルークも本気で楽観しているわけではないだろうが、釘は刺せるだけ刺しておいたほうがいい。
- 「とにかく、お父様一人に限っても準備はまったく足りていません。私がこれまで観測し、今後も集まるだろう“みんなの祈り”を有効に使う理論が要ります」
- 「おまえの親父は足し算で考えてたけど、二〇年前の先輩方は認めなかったって話か? だから別の計算方法を見つけないといかんっていう……」
- 「はい、おそらくワルフラーン様がそれを知っていたのだと思います。勇者の中の勇者でこそ出せる答えは、きっとお父様を恐れさせるに足るものだったのでしょう」
- ゆえに鍵となるのはその方程式だ。これを見つけない限り、我々に勝利はない。
- 単純な希望プラスと絶望マイナス、算数の次元で第一位魔王を超えることは不可能だ。今より遥かに強壮だった二〇年前の聖王領でさえ敗北し、こちらは数が減っているのにあちらは増えているのだから。
- お父様に言わせれば理外の法……常識を外れた仕組みの解明が求められる。そういうものこそ、人は奇跡と名付けるに違いない。
- 「そのために、今は可能性を増やしている段階だと思ってください。言い換えれば多様な武器を集めていて、いざ戦法が決まったとき、それがどんなものでも対応できるようにする必要があるんです」
- 「で、こつこつやるのか。なんかすげえ地味だし、足し算っぽいじゃん」
- 「そんなことはありません」
- いや、地味なのは認めるが、土台があってこその結果だと思う私がおかしいのか? サムルークと話していると、なんだか頭がぐらぐらしてくる。
- 「おまえのお父様をびびらせた方程式ねえ……ワルフラーンって奴が負け惜しみで言った、なんて考えるのはさすがに身も蓋もないけどよ。王様に聞いてみればいいんじゃないか?」
- 「……スィリオス様は、残念ながら何も教えてくださいません。ただ、ワルフラーン様は特別であったとだけ」
- 「そりゃ知らないって意味じゃんか。案外使えねえなあ、あのおっさん」
- 不敬も甚だしいぼやきをこぼして嘆息するサムルークだったが、少なくとも現状の自分がワルフラーン様の視点に達していないのは認めたらしい。どだい、ぽんと答えに至れるような問題ではないのだ。
- そもそも、個では勝てないから数で補おうというのが我々義者アシャワン。よって本来、算数を尊ぶのはこちらであるにも拘わらず、そこに答えが見当たらないため混乱してくる。
- お父様にしろワルフラーン様にしろ、第一人者は“外れて”いるということか。真相を理解できない自分に不甲斐なさを覚えるし、サムルークが答えを急せく気持ちもある意味では共感できる。
- しかし、今はできることをやっていくしかない。
- 「私を評価してくれたのは嬉しいですが、どのみちお父様の作品を放置するわけにはいきません。レイリの村であったようなことを二度と起こさないためにも、拾い集める作業は必須です」
- 「分かってるよ。そんでこっちの役に立てばめっけもんなのは事実だしな。ダセえっちゃダセえが、体面気にして勝てるんならとっくにやってる話だろう。まあ、ワルフラーンの謎についちゃあ色んな奴に聞いてみようぜ」
- 「サムルーク……そういう聞き取り調査なら、私がいつもやっているというのを忘れてませんか?」
- コミュニケーション能力については彼女も一種の天性があると思うが、凄く人を選ぶだろう。ついでに言えば、記憶力や理解力も怪しいので当てにならない。
- そんな私の心情を余所に、サムルークは自信ありげな顔をしていた。事はデリケートな問題なので、あまりずけずけと聞き回る真似はしたくないのだが、どうするべきか。
- 「おーい、そこのおまえー!」
- 悩みながら歩いていたとき、突然サムルークが大声を出した。驚いて彼女が呼ばわった先を見れば、ちょうど前方の部屋から出てきた人物の姿が目に入る。
- 「……あ、フェルさん」
- 「うん? おまえの知り合いか?」
- 「ええ。私とは同期の人です」
- 呼ばれてこちらに振り返ったのは、細身で背の低い一四・五歳ほどの少年だった。一見すると女の子のような容姿だが、彼もれっきとした戦士ヤザタの一人。
- フェルドウス――フェルさんは、下から眇すがめるような目で私を見ていた。彼はいつもこんな感じで、あまり優しい対応をしてくれない。
- 「クイン……なんだよ、僕に用か?」
- 「いえ、呼んだのはこちらのサムルークで」
- 「ああ……あの新顔か」
- ふん、と鼻を鳴らして顎を上げると、フェルさんは小馬鹿にしたような笑みを浮かべてサムルークに目を移した。
- 「あんた、こんなのとつるんでてもいいことないぞ。ていうか、気持ち悪くなんないわけ?頭ん中覗かれてんのにさ」
- 「な、なんだこのガキ」
- 予想通りの展開に、私は宙を仰いでしまった。マグサリオンといいフェルさんといい、どうしてサムルークは相性の悪い人とばかり出会ってしまうのだろう。やっぱりコミュニケーション能力に問題ありだ。
- 「おいチビ、クインの同期かなんか知らねえが、こいつはもうあたしのツレだ。舐めた口利いてるとぶっ飛ばすぞ」
- 「へえ、あんた見た目の通り馬鹿なんだね。単純すぎるからそいつの傍にいても平気ってわけか。こりゃおめでたい」
- 「このッ――」
- 「サムルーク、彼に聞きたいことがあったのではないですか?」
- 請われてもいないのに止める真似はできないから、話を戻して気を逸らそうと試みる。だけどサムルークは憤然とかぶりを振った。
- 「いいよ、こんな奴に聞いてもしょうがない。行こうぜクイン」
- 「ああ、待ちなよ。どうせこれについてだろう? 見せてあげるよ」
- 「はン?」
- 訝るサムルークの様子を無視して、フェルさんは右手の袖をまくっていく。そして露わになった前腕部分を見せつけるように掲げてきた。
- 「どうだっ、凄いだろう。僕は君らなんかと格が違うんだ」
- 「……いや、なに言ってんのおまえ? そんな細っこい腕、見せびらかしてよ」
- 「ふ、太さは関係ないだろう! ここを見ろ、ここっ!」
- ムキになって身体ごと突き出してくるフェルさん。白く細いその腕には、翼の刻印が存在していた。戦士ヤザタの証である星霊の羽。
- 「七枚だぞ。今回の任務で、僕は二枚の羽を追加されたんだ。つまりもう、君とは住む世界が違うってわけだ、クイン」
- 「はあ……」
- 「な、なんだそのやる気のない態度はっ」
- 「そんなことを言われましても」
- 私とフェルさんは同期なので、羽の枚数はだいたいいつも同じだった。最初は二人とも三枚から始まって、四枚になったのは彼が先、五枚になったのは私が先。
- そして今回、フェルさんは一気に七枚へと達したようだ。仲間の出世は純粋に嬉しいし、彼の努力を讃えたいと思う。
- 「ですが、私も七枚になりました」
- 「あたし、最初から七枚だぞ」
- 「なにィィ!?」
- 絶叫と共にフェルさんは悶絶した。嘘だ信じない認めないと、地団駄踏みながら怒っている。
- 「嘘じゃありませんよ。つけと命じられてもいませんし」
- 「見せてやれ、クイン」
- 「はあっ?」
- 指示を頭で理解するより早く、私の手は自らスカートをたくし上げ、左の内腿にある刻印を露出させた。フェルさんの怒声が悲鳴に変わる。
- 「あたしも見せてやるよ。ほら」
- サムルークは胸元を開いて、右の乳房の下にある刻印を見せつけた。フェルさんは真っ赤になりながら転げ回っている。
- 彼はとても純情な人なので、色んな意味のショックを受けているのは察するが、それでも一つ言わせてほしい。
- なんなのだ、これは。
- というか泣きたいのはこっちだ。
- 「こ、この変態女ども! 君らなんか、僕は絶対に認めないんだからな!」
- 「……おいクイン、あいつ馬鹿なのか?」
- 「あなたといい勝負ですよ」
- 衣服を正しつつ、我ながらどすの利いた声で皮肉を言ったが、サムルークはまったく堪えていなかった。目の前でのたうち回っているフェルさんを、珍妙な生物でも見るような顔で観察している。
- ……まあ実際、彼が面白い人物であることに間違いはない。基本的に当たりはきついが、だいたいにおいてブーメランとなる残念な特性を持っている。
- そういうところが哀れというか、可愛いというか、とにかく裏表がないのは確かなので、ある意味信頼に足ると言えなくもなかった。
- 変態扱いは心外だけど、こっちも命令されたのだから仕方ないのだと分かってほしい。今回のように、不意を突かれると反射で身体が実行に移してしまうときがあるため、やけに清々しくパンツを見せてしまった私のダメージも甚大である。
- なのでここは、痛み分けということにしてほしかった。こう言っては怒られそうだが、相手があまり男性っぽさを感じさせないフェルさんだった点を良しとするしかない。
- 「くそ、もういいよ。僕は君らと違って忙しいんだ」
- 憤懣ふんまんやるかたないといった様子で、ぶつぶつ言いながら立ち上がるフェルさん。しかし何を思いついたのか、再び優越感を滲ませて含み笑った。
- 「これから大事なだーいじな仕事があるからね。君らじゃ到底任されないような大役を仰せつかってるんだよ。知りたい、クイン?」
- 「ええと、はい……教えていただけるなら助かりますが」
- 促された以上はそう応えるしかなく、頷いて返答を待つ。フェルさんは得意満面といった顔で口を開いた。
- 「ナーキッド様のところだよ。あの方のお世話を任されるほど、僕はスィリオス様に信頼されてるっていうわけさ」
- 「誰だそいつ?」
- 困惑顔のサムルークだったが、私はそれを聞いて閃くものがあった。彼女がまた気楽なことを言い出さないように、知ってもらいたい事実は山ほどある。
- 無言でサムルークを見上げると、彼女はにやりと微笑んだ。意図の詳細はともかく、私の取り扱い方は理解しているらしい。
- 「クイン、あたしもそこに連れてけ」
- 「了解しました」
- ナーキッド様はスィリオス様の妹君。そしてワルフラーン様の婚約者だった御方だ。
- そのお世話を任されるのは、なるほど栄誉に違いなく、フェルさんは来るな駄目だと言っていたけど本音は見せびらかしたいのが明白で……
- 命令オーダーの優先順位は、サムルークの方が遥かに上だった。
- ◇ ◇ ◇
- 「ナーキッド様こそ、本来聖王になるべき御方だったとスィリオス様から聞いている」
- 道すがら、滔々とうとうと自信満々な様子でフェルさんは講義をしていた。サムルークは面倒そうな顔だったが、私としては楽でいい。
- 「戦士ヤザタの盟主に求められる資質は色々あるが、一番大事なのはやはりウォフ・マナフとの交信を可能にする能力だろう。その点、スィリオス様も充分以上の御方だけど、ナーキッド様は格が違った。彼女が心を通わせ、意のままに使役できる星霊の数は、なんと二〇〇〇を超えていたらしい。これがどういう話かあんたに分かるか?」
- 「えっと……つまり凄い奴ってことか?」
- 「そんなもんじゃない。唯一無二の、究極的な力だ」
- 熱っぽく語るフェルさんにサムルークは引き気味だったが、私はもちろん、彼の言いたい意味を理解していた。
- 現在、休眠状態にあるウォフ・マナフ一柱でさえ我々に多くの加護を授けている。それを前提に鑑みれば、ナーキッド様が如何に破格だったかは論ずるまでもないだろう。
- 二〇〇〇以上もの星霊を従え、その力を万全に発揮させる才と術……味方ながら空恐ろしくなるほどだ。究極というフェルさんの評価も大袈裟じゃなく、召喚士として頂点を極めた御方に違いない。
- 星姫せいきナーキッド――ワルフラーン様と双璧を成す史上無二の、もはや伝説に値する英傑だった。
- 「僕ら戦士ヤザタは数と結束が売りだから、一人あたりの力としては魔将ダエーワに劣る。悔しいがそこは事実で、だけど例外はあるんだよ。三人の魔王を討ったワルフラーン様の隣には、いつも彼を助けるナーキッド様がいた。このお二人は不世出――代わりなんて何処にもいない、善の旗頭だったんだ」
- 「けど、そんな奴らでも負けたんだろ? クインの親父によ」
- 遠慮がないサムルークをフェルさんは睨み付けるが、特に文句は言わなかった。彼女の指摘は事実だし、他意もないと察したのだろう。舌打ちだけして話を続ける。
- 「お二人は深く愛し合っていた。どんなときも傍にいて、互いに支え合うと誓った運命の男女だ。必然、彼らの居場所はいつも最前線ということになる。同胞を鼓舞し、奮い立たせる希望の象徴――」
- 「だからスィリオス様が聖王の座についたのですよね」
- 「そうだ。ナーキッド様は慈しみに満ちた御方だったが、その愛を本当の意味で捧げた相手はただお一人、ワルフラーン様をおいて他にない。スィリオス様はそれを汲んで、王の重責を担うのは自分の役目だと決断された。つまり妹君と親友の幸せを願い、可能な限りの自由を得られるように計らったんだよ。お二人は王の慈悲に深く感謝し、ゆえに絶対の忠誠を誓った。世間では双星の英雄なんて物語になってるが、僕に言わせれば三勇者だね。ワルフラーン様もナーキッド様も、スィリオス様がいたからこそ輝けたんだ」
- 「なんでもいいけど、おまえ見てきたみたいに語るのな」
- 「勉強熱心だと言ってくれ。当時の戦いに絡めなかった僕らは、せめて先達を正しく知って、後世に伝える義務がある」
- 憮然と厳しく告げるフェルさんに、私も心中で同意していた。人の命は儚いが、歴史は悠久の時を超える。彼らの生き様を引き継いでいく世代の義務として、英雄譚を風化させてはならない。
- 「あんた、サムルークだっけ? あんまり興味なさげだけど、そういう態度はよくないぞ。いま僕らが生きてるのは、全部ワルフラーン様とナーキッド様のお陰だ。負けはしても、破滅工房から逃げられたのはお二人のご尽力があってこそなんだからな」
- 「そうなのか、クイン?」
- 「はい。まったくフェルさんの言う通りです」
- お父様は『あえて逃がした』と言っていたが、そもそもそんな選択を採った理由は勇者たちの奮戦にある。その事実がなければ私など生まれておらず、聖王領も根こそぎ潰されていただろう。
- つまりすべての義者アシャワンが絶えたはずで、サムルークもフェルさんもここにはいない。
- 「紛れもなく恩人です。どうかその点をしっかりと弁えてください」
- 「なるほどね……あたしもふざけてるわけじゃないんだが、どうにも堅苦しいのが苦手でよ。悪気はないんだ、許せよフェル」
- 「ちょ、頭を撫でるな。上から見るな。僕はでかい女が嫌いなんだよ」
- 「ちっちゃいこと言ってんなよ。男はハートだろ、どんと構えろ」
- 必死に抵抗するフェルさんをからかうように、彼の頭一つぶんは高い所からサムルークは笑い飛ばした。
- 「そんなんじゃ、あの世の英雄サマに笑われるぜ。これから墓参りに行くんだろ?」
- 「はあ?」
- 何を言ってるんだと呆れるフェルさん。どうやらサムルークは勘違いをしているらしい。
- 「え、違うのか? あたしはてっきり、そうだとばかり思ってたんだが」
- まあ、誤解しても仕方ないとは言えた。話の流れから、フェルさんのお仕事はお墓の掃除とか思ったのだろう。私たちの言葉が足りなかったのは確かだ。
- 「ナーキッド様はご存命です。ただ、少し込み入った事情がありまして」
- 「やめとけクイン、説明してもこいつ絶対理解しないよ。直で見せたほうが早い」
- 未だ要領を得ない顔のサムルークを捨て置き、私とフェルさんは頷きを交わす。目指す先はもうそこなので、百聞は一見に如かずだ。
- 「こっちだよ新人。ナーキッド様は何も仰らないだろうが、それでも無礼は僕が許さないから、そのつもりでいろ」
- 「おう……なんか、よく分からんが」
- 珍しく不安げな様子を見せるサムルークだったが、心配は要らない。フェルさんが言った通り、ナーキッド様は何も言わないだろう。
- 正しくは、何もできない。
- その真実を見せるため、私たちは星姫の御寝所に通ずる扉を開いた。
- 前述したように、ナーキッド様は不世出の御方である。数と結束が売りの我々は、魔王のような超絶個体が生まれにくいという環境もあった。
- 加え、長生きにも向いていない。法と秩序に属する義者アシャワンならば、摂理を曲げて生き続けるなど醜い独尊。禁忌と言える不義の業わざだ。
- しかし何事にも例外はあり、本音と建前も存在する。背に腹は代えられないという事情もそこに加われば、主義だ流儀だと言える贅沢はなくなるのだ。
- 理想のままに突き進んで勝てるならそうするが、できない以上は仕方ない。
- 苦汁の決断――もっともおつらいのは、きっとスィリオス様なのだと思う。
- 「ご機嫌麗しゅうございます、ナーキッド様。本日、お世話役を仰せつかったフェルドウス、斯かく罷まかり越しました」
- 恭うやうやしく頭こうべを垂れるフェルさんに倣い、私もまた拝礼した。隣で息を呑むサムルークの気配を感じるが、ナーキッド様は何も言わない。
- そして、私たちを認識もされていない。
- 「これ、なんだよ……?」
- 呆然と呟かれたその声に、姿勢を戻したフェルさんは厳かな面持ちで答えた。
- 「見ての通りさ。姫はお眠りになっている」
- 「眠るって、おまえ……嘘だろ、こんなの――」
- 「言うなよ。それ以上は不敬だ。許されない」
- “生きているのか?”――フェルさんが止めなければ、サムルークはそう言っていただろう。彼女の戸惑いと驚きが、ありありと伝わってくる。
- 部屋そのものは変哲もない普通の造りだ。主の人柄を考慮したのか、貴人の寝室としてはむしろ質素でさっぱりしている。
- だが清らかと言うにはどこか違う、寒々しいほどの透明さに満ちた空間だった。そこに宿る色は何もなく、底抜けなほどに生気というものが欠けている。
- ナーキッド様はその片隅で、窓辺の椅子に座ったまま凍り付いたように止まっていた。わずかに首を横へ向け、外の景色を見つめている翠緑の瞳は瞬かない。白金色に輝く天の清流めいた御髪が掛かる胸元は、豊かな母性を示しているが上下しない。
- まるで一葉の聖画然とした在り方は、現世の理から切り離された不変性を感じさせる。事実彼女は、時間という概念の氷塊に封じ込められているのだった。
- 「凍結封印……後付けの名前ですから正式名称は不明ですが、これもお父様の作品です。局所的に時間を止め、内部に在るものを如何なる変化からも守り抜く結界」
- 「仕組みは全然分からないけど、操作自体はボタン一つで簡単なものだ。効果範囲は直径一メートル、高さ二メートルほどの円柱状……人間一人を囲い込むくらいが限界だね」
- 「しかし解除するか、装置を壊すかしない限りはあのままです。ナーキッド様は二〇年前から変わらず、時の止まった世界で老いることも傷つけられることもなく、ずっと――」
- 「ワケ分かんねえよ!」
- 苛立ちに染まったサムルークの声が、色のない空間を震わせた。
- 「おまえら、何を淡々と喋ってんだ。時間を止める? よく分かんねえけど、なんで姫さんがそんな目に遭ってんだよ。おかしいだろ!」
- 「おかしくはないさ。君は僕の話をちゃんと聞いてた?」
- 呆れたように、だけど優しい苦笑を浮かべて話すフェルさん。彼は嫌いな相手や興味のない相手は“あんた”と呼ぶが、仲間と認めた者は“君”と呼ぶ。直情的だからこそ誠実なサムルークの義憤に、きっと感じるものがあったのだろう。
- 「ナーキッド様は破格の御方だ。もしも彼女がお隠れになったとき、同等の力を持つ者がまた現れるなんて保証は何処にもない。ワルフラーン様を喪った今、亡くすわけにはいかない希望なんだよ」
- 「だから封印してるってのかよ。こんなところで、二〇年も?」
- 「二〇〇年だろうと、二〇〇〇年だろうとね。勝機が見えるそのときまで、ナーキッド様には生きててもらわないと困る」
- そういう、極めて実際的な話だった。
- 決戦存在を喪わないため。最終的に勝利するため。大義と秤はかりにかけるなら、一人の女性の人生などは取るに足らない代価であると……
- 決断されたスィリオス様は、冷厳とした姿勢を公に示されている。しかし私には、ただの政治判断を超えた部分でも理由があったように思えてならない。
- たとえば、想い人を喪った妹に、聖王領の復興という重責までを背負わせたくなかったとか。
- 体感としては刹那以下の眠りだろうと、その間は悲しみを忘れ、癒されてほしいと願ったとか。
- そして次にナーキッド様が目覚めたとき、かつての威光を聖王領が取り戻していればよいのだと。
- そこで新しい友を得て、恋を取り戻し、ワルフラーン様やスィリオス様の面影を胸に、星姫の再臨を果たしてくれれば……と王は祈られ、同時にご自分を責めているのではないだろうか。
- 我々に本音も弱さもお見せになる方ではないから、正確なところは分からないけれど。
- 「こいつは、それで納得してんのかよ?」
- 「おそらくは……ご兄妹の絆ゆえだと思います」
- 兄は妹の悲しみを憂い、妹は兄の立場と愛を理解した。感傷的にすぎる私の勝手な推測だが、そう的外れでもないように思える。
- なぜなら、凍った時の中に在るナーキッド様のお顔が……
- 「姫さん、微笑んでるんだな。目許に涙、少し残ってるけどよ」
- 「はい、本当にお美しいです」
- 玲瓏れいろうながらも柔らかな、慈しみに満ちた微笑だった。数多の星霊から慕われたのも頷ける、高貴な宝石を思わせる美貌の姫君。私は改めて、彼女を深く知りたくなる。
- 時間の止まったナーキッド様に意識は無論存在せず、想いも記憶も読み取れない。しかし封じられる場所がここだったという事実には、何か意味があるのではないだろうか。
- 以前から気になっていたことでもある。過去に一度お目文字めもじしたときは厳しい先輩方が仕切っていたため、眠る星姫に近寄る真似など許されなかったが、今はそこまで融通の利かぬ状況でもない。
- フェルさんの仕切りなら、多少自由にしても構わないだろう。同期の関係に甘える形で、一歩ナーキッド様に近づいた私は……
- 「ま、とにかく粗相のないようにしてくれよ。僕はこれから、部屋の掃除をしないといけないからさ」
- 「結局、おまえの仕事ってのは掃除かよ。なんか一気に俗っぽくなったなあクイン……て、どうしたおまえ?」
- 「いえ、その……」
- 一般論として、人情を推理した結果だった。もしもこれから、久遠の長きに渡り封じられると悟った者はどうするか……きっと、一番大事なものを感じていたいと思うはず。
- だから私はナーキッド様のお傍まで進み、彼女の視線を追っていた。封印によって物を見ることはできなくても、瞳に映し続けていたい景色があったのではと考えたのだ。
- そして予想は的中する。深窓の姫君然として窓辺に座ったままのナーキッド様が、瞳を向けている先には……
- 「マグサリオン……」
- 私の横にやって来たサムルークも気付いたらしい。嫌悪と困惑が混じった声で、凶戦士の名を呟いていた。
- 窓の外、ナーキッド様が見下ろしている森の一角で、マグサリオンが剣をひたすら振り続けている。
- 愚直に、それしか知らないように。正眼の構えから振り上げて振り下ろす――同じ動作だけを延々と繰り返していた。
- 聖王領に帰還して以来ほとんど姿を見なかったのだが、こんなところにいたというのか。意識して感覚を澄ましてみれば、相変わらずの破滅的な想いが濁流となって暴れている様を感じ取れた。
- ナーキッド様の御寝所があるこの棟は、王城の端に位置している。眼下に広がる森は手入れもされていない自然のままで、本来は俯瞰から人を見つけられるわけがない。
- にも拘わらずマグサリオンを見出せたのは、彼の周囲だけ森が消えていたからだ。木々も草もぽっかりと失せた空洞状の荒れ地が生まれ、さながらそこ限定の旱魃かんばつでも起こったかのよう。
- あれは間違いなく、伐採や整地などによるものではない。おそらくは聖王領がこの地に移ったその日から、何億回と繰り返された素振りの圧と足さばき、そして流れる血と汗を浴び続けた結果、根から枯れ果ててしまったのだ。
- ゆえに破壊と言うよりは抹殺……そんな印象が頭に浮かぶ。すり鉢状に抉れている大地の様も、長年かけて岩を穿つ雨だれの所業を思わせた。瞬間的な派手さはないが、事象の不可逆性という意味では単に焼き払うよりも深刻だろう。少なくともあの一点において、森は二度と再生するまい。
- 彼は星姫の微笑みを受けながら、しかしそんなことはどうでもいいと言わんばかりに振り続けている。重い全身鎧を着込んだまま、身の丈ほどもある大剣を何度も何度も、終わりが想像できないほどに――
- 激しく、そして狂おしく、一撃一撃に全霊を込めていた。
- 凄まじいまでの握りによって、人外の技術で編まれた魔性の篭手こてが軋んでいる。
- 飛び散る血と汗。折れ砕ける骨肉。千切れ悲鳴をあげているような大気の震え。
- もはや自壊行為とすら言えるのに、伝わってくるのは黒い執念。
- 殺す――ただそれしかない。
- 何を――邪魔なすべてをだ。
- 今さらながらまともではない。彼はやはり、常軌を逸した何かだった。
- 「……おまえ、あいつを努力家だって言ったよな」
- しばし言葉も失ったまま見入っていた私の横から、抑揚のないサムルークの声が響いた。
- 「あんときは何言ってんだと思ったが、レイリの村でやり合ったときに感じたよ。あの素振りを見ても分かる。あいつには才能がない」
- 逆巻く剣風がこちらまで届きそうに思えるほど、荒々しく猛々しい上段斬り。
- しかしそこに洗練されたものはなく、冴えと言える技の精度は見当たらなかった。
- 言い換えれば我武者羅なだけで、いっそ無様でさえあるだろう。剣としての術理はもちろん、野性的な鋭さもなく、どのような方向であれ突き詰めれば見えてくる“美”の類が、マグサリオンにはないのだった。
- それを才の欠如と断ずるのなら、確かにその通りなのかもしれない。
- 「でもあいつは強い。どうしてだろうな。気合いも馬鹿になんないっていうやつか?」
- 「……問題は、彼の想いが何処から生まれているかでしょうね」
- 亡き兄上、ワルフラーン様に捧げる鎮魂、復讐。
- 義姉、義兄になるはずだったナーキッド様とスィリオス様に対する意地と義理。
- そう考えれば、一応の辻褄は合う。兄や姉を愛し、敬するがあまり、鬼と化した弟をスィリオス様が余所余所しく扱うのも頷ける話だ。
- 「二〇年前の出来事がマグサリオンを衝き動かしているのは間違いないと思います。
- しかし……」
- 「動機が仇討ちの奴なんて、今日び珍しくもない。そんな奴は戦士ヤザタにも腐るほどいるだろうから、あいつがおかしい理由にはならないだろう。いったい、何が違うってんだ」
- 「使命感だよ」
- 不意に割って入られ、振り向くと、そこにはフェルさんが立っていた。そのまま歩いて私とサムルークの横に並んだ彼は、マグサリオンを見下ろしながら言葉を継ぐ。
- 「ワルフラーン様が偉大すぎたせいで、あの人は苦しんでる。生き残った弟の義務として後を継ごうとしているけど、自分が兄上のようになれないのは誰より分かっているんだと思う」
- 「フェルさん……あなたは知っていたんですか? マグサリオンがあそこでああしていることを」
- 「まあね。以前に一度、ズルワーンから教えてもらった」
- 「あの人に?」
- 「おい、関係ない話をしてんなよ」
- 脱線しかけた流れに苛立ったのか、サムルークが詰問調でフェルさんに質ただした。
- 「つまり何か? あいつがキレてるのは他でもない、自分自身にだって?」
- 「そういう側面はあると思うよ。だけどそれが全部じゃない。人間、誰もが君みたいに単純なわけじゃないんだ」
- 食ってかかったのに皮肉で返され、サムルークは憮然としてうめきを漏らす。その様子をフェルさんは少し面白げに眺めてから、再び眼下の景色へと目を戻した。
- 「どれだけ頑張ってもワルフラーン様のようにはなれない。けど、身の丈にあったやり方なんてものに逃避することを、彼は自分に許しちゃいないんだよ。凡人なのを知っているから、そう生きればそうなってしまう。そんな妥協は、断固兄上の名に懸けて有り得ない。他の奴らならともかく、勇者の弟としては絶対に」
- 「それがあいつの使命感だって言うのかよ」
- 「たぶんね。要は抱えてるものの重さが違うんだ。君は怒るかもしれないけど、あの人の立場は特殊だから、ありがちな復讐話と同じレベルじゃ語れない」
- 無二の勇者と一介の町民では命の重さが違う。フェルさんが言っているのはそういう意味で、前者の仇討ちと後者の仇討ちでは、復讐者の質も変わって当たり前。
- 厳しく殺伐とした話だが、確かに理屈ではあった。
- 「冥府魔道だ。才がなく、華もなく、進めば進むほどに自分が削れて、人望なんか望むべくもないけど勝利は掴む――絶対に、何としてでも、血の海をのた打ち回って、この世のすべてから後ろ指をさされても負けない。きっと彼はそう思っていて、そのために誰よりも真我アヴェスターを徹底している。敵を許すな、皆殺しにしろってね」
- 「そうすることが、勇者ならぬ彼に歩める唯一の道だと?」
- 私の問いに、フェルさんは静かにゆっくりと頷いた。
- 「真我アヴェスターは同胞を守れなんて一言も言っちゃいない。そもそも善悪なんていう定義自体が僕らの勝手な後付けだし、正しさを問うなら原点に忠実な彼のほうが正義だよ。だから僕はあの人を尊敬する」
- 「おま――よりによってマグサリオンのシンパかよっ」
- 呆れ返ったと言わんばかりに仰け反るサムルークだったが、私は知っていたので特に驚かない。実際、若年の戦士ヤザタには一定数で見られる傾向だ。
- 余談ながら、フェルさんが私に対して厳しめなのもそこに原因がある。方向性は違うがマグサリオンを特別視している者同士、一種のライバル意識が働いているのだろう。
- 「勘違いはしないでくれよ。僕は彼の真似をしようなんて思わないし、できるとも思っちゃいない。ただワルフラーン様とは違うなりに、無二の剣だと認めてるだけだ」
- 絶望の中でも希望を掲げ、皆を導くのが勇者の王道。目指すならばその道だが、今は標しるべとなる人が喪われている。
- ゆえに凶剣を敬しているのだとフェルさんは言っていた。他の誰よりも神剣に憧れて、そうなりたいのになれないまま、血錆に塗れていくマグサリオンもまた、尊いのだと。
- 「……まあ、おまえがそう思うんならそれでいいわ。あいつの話で揉めるの、すげえ無駄な感じするし」
- マグサリオンに隔意かくいを持っているサムルークだが、あの光景とフェルさんの話を前に些いささか毒気を抜かれたらしい。きまり悪げに頭を掻いてから一歩さがり、もう帰ろうと言ってくる。
- 「行こうぜクイン。あたし腹減ったよ」
- 「……ええ、フェルさんのお仕事は終わりましたか?」
- 「一応ね。前の登板だった奴が気合い入れたみたいで、あんまりやることもなかったよ」
- すでに掃除道具も片づけていたフェルさんは、改めて折り目を正してから部屋の主に向き直った。
- 「――では、ナーキッド様、お騒がせいたしました」
- 「私も、拝顔の栄に浴し光栄でした。またいずれ」
- 「同じく」
- そうして頭を下げた我々に、当たり前だがナーキッド様は反応されない。しかしこの御方には礼を尽すべきだと思っていたし、サムルークでさえそこを怠りはしなかった。
- 部屋を出る間際、もう一度彼女のほうへ目を向けてみる。星姫が見つめている先には、未だ一人で黙々と剣を振るマグサリオンがいるのだろう。
- ナーキッド様の記憶にある彼は、レイリくらいの年頃だったに違いない。そんな少年が修羅へと変じていく様を見て、あの微笑とは……違和感を覚えないと言ったら嘘になるが、どだい我々の基準では量り知れぬ御方でもある。
- あるいは、未来の勝利を確信されていたのかもしれない。今は一時の闇の中だが、そこを抜けた果てにマグサリオンは救済され、私たちも希望を得ると星姫の心眼が見抜いていたなら、これほど喜ばしい話はないと思う。
- 私自身、そうあってほしいと願っていた。
- 「ところであいつ、羽が無くなったから聖王領に戻ったんだよな。てことは今、チャージ待ちで暇だからああしてるのか?」
- 「おそらく、そういう事情でしょうね。我々とは枚数が違うはずですし」
- サムルークの問いで現実に戻された私は、気持ちを切り替えて応答した。戦士ヤザタそれぞれに何枚の羽を授けるかはウォフ・マナフの意思により、任務で使用したぶんは聖王領に帰ることで自動的に補充される。
- その速度はスィリオス様がある程度調整できるみたいだが、だいたいにおいて差異のない順当なものだった。
- つまり枚数が少なければ早いし、多ければ遅くなる。
- 「あいつの羽って何枚なんだ?」
- 「僕が知ってるだけでも二〇枚以上。今はもっと多いだろうね」
- 「うげ」
- あからさまに嫌な顔をしたサムルークだったが、私とフェルさんは肩をすくめて返すに留めた。
- 命令違反の常習者で、異端的なマグサリオン。そんな彼でも星霊は高い評価を与えているという、これは揺るぎない事実だろう。ナーキッド様の微笑を裏付ける証とも言えた。
- そしてこのシステムがあるからこそ、如何にマグサリオンといえど聖王領の意向を完全に無視はできない。
- それは彼にとって利点なのか不利点なのか。どちらにせよ、我々は前者となるよう努めなければならないと思う。
- ◇ ◇ ◇
- ともあれこうして、サムルークに請われた王城の案内はほぼ終わった。まだ見るべきところもあるにはあるが、依頼者の質を考慮すれば連れて行くだけ無駄だろう。個人的には図書館で歴史書を読ませたいが、彼女が承諾するとも思えない。
- よって後は散会。そして待機という流れが見えた。我々の羽は完全に補充されたが、新たな任務を授かるまで勝手に動くわけにもいかない。
- 基本、領内から出なければ何をしていてもいいのだが、私としては静かに待ちたいところだった。サムルークが、今度は周辺の都市や村々の案内をしろと言い出しそうなので不安だけれど。
- 正直、彼女には早く馬の合う友人を見つけてほしい。なんなら紹介してもいいから、しばらく解放してほしかった。決してサムルークを苦手に思っているわけではないが、ここ最近はさすがに疲れて、休みたくて……
- 「よぉクイン――友達いっぱい連れて、楽しそうだな」
- そんな、私のささやかな願いは、どうやら叶えられないのだと悟ってしまった。
- 「あなたは……」
- 兵舎に向かう回廊の途中、柱に寄りかかって行く手を遮るようにこちらを見ている男性がいた。私は思わず身構えてしまい、フェルさんも顔をしかめている。
- 唯一、サムルークだけはきょとんとしていたが、それは彼を知らないからだ。
- 「……何の用だよ。こっちはあんたと話すことなんかないぞ」
- 「ご挨拶だな、坊主。もうお掃除は終わったのかい? オレが推薦してやったんだがな」
- にやにやと、へらへらと、弄いらうような笑みを常に彼は貼り付かせている。もちろん今、このときもだ。
- 派手な外套にジャラジャラとした装飾品を幾つも身に着け、幅広な帽子を崩して被ったその姿は華美にすぎて慎みがない。全体として道化師のような印象だが、獣の牙を思わせる危険さ、鋭利さも同居している。
- いつも誰にだって馴れ馴れしい男だが、私を名指ししたのは理由があった。
- なぜなら彼こそ、私が初めて出会った戦士ヤザタ――
- 「こいつ、誰だよ?」
- 「ズルワーン……私の、師匠みたいなものです」
- お父様と別れて以降、ただのクインだった私を聖王領に連れて来たのがこの男だった。
- 「ははっ、そう構えんなって。これでもおまえのことは気にかけてんだぞ」
- 「光栄ですね。ならば今すぐ、回れ右をしてくださると嬉しいのですが」
- はっきり言って、私は彼が嫌いである。出会ってから丸一年ほど行動を共にしたが、とにかく意地悪でふざけていて容赦なくて駄目な男だ。こんな輩が同胞なのかと絶望さえしかけたし、戒律を破ってでも殺そうかと思ったことは数知れない。
- そしてそんな印象は、決して私だけのものじゃなかった。フェルさんがそうであるように、聖王領の皆々は等しくズルワーンを忌避している。マグサリオンでさえ擁護派がいる事実を鑑みれば、戦士ヤザタの嫌われ者ナンバーワンと言えるだろう。
- なのに腕だけは立つ。武功においてはマグサリオンに次ぐ二番手で、さらに怠け者でもあるからタチが悪い。
- 言いたくないが、一種の天才。性根の腐ったワルフラーン様というのがいるなら、まさしくこんな感じなのだろうと思っていた。
- 「クイン、おまえ大丈夫か? すげえ顔になってんぞ」
- 「気にしないでください。それで――」
- サムルークの指摘をいなしながら、先を促す。やはり彼女は変な人ばかり引き寄せる才能があるようだが、とにかくだ。
- 「用があるなら手短に願います、ズルワーン。あなたのことだ、どうせろくな話じゃないのでしょうが」
- 「つれないねえ。オレのモットーはラブ&ピースだっての、知ってんだろ?」
- 「あなたのラブは自己愛で、ピースは乱痴気騒ぎです。つまり非常に迷惑で……ええ、よく知っていますから、早くしてください」
- 「分かった分かった。まったく、親の心子知らずってな」
- あなたは私の父ではないし、私の父は他にいる。誇れる類の父ではないが、放任してくれるだけあちらのほうがマシとさえ思った。
- そんなこちらの心情をしっかりと理解しながら、獲物をいたぶるような笑みを浮かべてズルワーンは言った。
- 「おまえの大好きなマグサリオンのケジメが決まったぜ。ついでに言うとオレもでな。嫌われもんが二人仲良く出動ってわけさ」
- 「え……?」
- ぞわり、と背筋に悪寒が走った。サムルークが言っていたことを思い出す。
- 予想されるマグサリオンの処遇は、激戦地への投入――もっともな話だと思ったが、そこにズルワーンまで絡むとなれば我々の想像を超えている。
- 嫌われ者ではみ出し者の二人だが、同時に今の聖王領では最強戦力を向かわせるということ。そこはいったい、どれほどの魔境だと言うのだろう。
- 「本当か? ……いや、あんた嘘だけは言わなかったな」
- 「おう。ついては何人か、使える手下が欲しくてよ。そこらへんの判断も任されてんだわ」
- 舐めるようにこちらを見回すズルワーン。一人一人を値踏みするかのごとく間を置いて、銃弾に値する言葉を放った。
- 「一緒に来いよ。遊ぼうぜ」
- 4
- 少年には夢があった。
- この世の誰よりも強く雄々しく、そして正しくありたいと。
- 希望の象徴として皆の先頭に立ち、不可能を可能にする奇跡の勇者――お伽噺とぎばなしから抜け出たような生きる伝説になる日を願い、またなれると信じていた。
- 疑う気持ちなど、入り込む余地はまったくない。
- 物心ついた頃から、少年は周囲の如何なる子供たちよりも勝っていた。やってできないことはなく、望んで得られなかったものもなく、当然の結論として己の特別性を自覚する。
- もとより栄光は約束されていた。自分はそう生まれついたに違いないとごく自然に受け止めて、昨日より今日、今日より明日の高みを目指して飛び続ける日々。
- 子供らしい純粋さは誠実な人柄に、傲慢さは誇り高い覚悟へと、理想的な成長が少年の未来を祝福していた。
- そう、これは決められていたこと。神に選ばれた主人公が、素晴らしき大団円を迎えるまでの過程にすぎない。
- だから少年は緩ゆるまなかった。如何に持て囃はやされても精進を怠らず、静かな微笑と感謝をもって応えるのみ。
- 自分の伝説が真の意味で開演し、万雷の喝采と共に幕を閉じるその日まで――
- まだまだこれから。何処までも行こう。胸に満ちる夢の容かたちを体現することがすべてであり、人生に誓った神聖なる契約だった。
- ゆえにその日――初めての挫折を経験した少年は呆けていた。
- 敗北という事実よりも、それに何らの怒りも失望も抱かない自分にこそ、むしろ驚いて当惑する。
- 一四歳の春……御前試合の場で彼を倒したのは、貴族の子弟でも戦士ヤザタでもない。まるで田舎の牧童めいた風貌の、伝説とは対極にあるような同世代の少年だった。
- 観客席のざわめきが聞こえる。まさかそんな、有り得ない。あれは誰だ? 何者だと、口々に囁かれている声、声、声……
- 倒された当の少年こそが思って然るべき諸々を、代わりに他の者たちが言っている。
- あるいはそれが可笑しかったのかもしれない。少年の口から笑みがこぼれ、一度漏れ出すともはやどうにも止められず、気付けば弾けるように大笑していた。
- 「強いな、おまえ!」
- ああ、本当に強い。だがそれだけではない。
- 笑い続けるうちに見えてきたのだ。いいや、気付かされたと言うべきか。
- なぜ敗北した自分が、栄光の階段から蹴落とされたはずの身で、嘆くことも憤ることもなく、無様と恥じるどころか爽快にさえ感じているのか。
- こいつは“本物”だ。こいつこそが“伝説”だ。
- 勝利して辱めず、制してなお苦しめず、奪っておきながら夢を与えるその器よ。
- 輝かしさよ!
- 自分のこれまでは今、このとき――こいつと出会うためにあったのだ。
- 「俺はスィリオス――」
- 湧き上がる喜びのまま、晴れやかに少年は名乗っていた。すでに一度、試合前にも名を交わしてはいたものの、あのときの自分は愚かだった。目の前に立つ相手が何者かも分からないまま、略式的なやり取りを行っただけ。
- あんなものを自分たちの始まりにはしたくない。伝説に相応しいこの瞬間を、正しく紡ぎ直す必要がある。
- 「おまえの名を聞かせてくれ。さあ!」
- 熱を帯びた声と瞳でそう請うと、勝者である少年は困ったような顔をした。
- 「ワルフラーン……だが、その」
- こいつは大丈夫だろうか? そう言わんばかりに訝しんだ様子で声を落とし……
- 「すまん、強く打ちすぎたか?」
- 差し出された手を、スィリオスは力一杯握りしめた。
- この熱さを、この高鳴りを、生涯忘れないと胸に誓う。この日二人が出会った運命サダメは、紛れもなく夢へと至る道の始まり。
- それが唯一無二の真実だと確信したから、スィリオスは声も高らかに笑い続けた。傍目には彼が壊れたとでも見えたのだろう。観客たちは心配げにどよめいていたが、まったくそんなことは気にならない。
- ワルフラーンが苦笑した。なんだおまえは、おかしな奴だ。うるさい俺の気持ちが分かって堪るか。二人の少年は罵り合いながらも肩を組み、笑って笑って、すると徐々に――細波さざなみのような現象が広がっていく。
- 起点となったのは客席にいるナーキッドだった。スィリオスより四歳下の妹はこのときまで自閉気味で、言葉を話すことも稀だったのだが、そんな彼女が屈託なく笑い始める。
- 愛らしく、清らかに、祝いを込めて奏でられる少女の声は歌のようだ。後に数多の星霊を魅了する神秘の片鱗を覗かせて、一人、また一人と巻き込んでいく祝福の連鎖反応。
- 若き英雄たちに降り注ぐ歓声は、澎湃ほうはいとして高まると、いつまでも止むことなく響き続けた。
- そうとも、すべてがここにある。
- 彼らはこの日――確かな奇跡に抱かれていたのだ。
- 三〇年以上もの過去……もはや遠く離れた昔日せきじつの記憶を顧みていたスィリオスは、一人微睡まどろみから目を覚ました。
- 周りには誰もない。玉座の間は寂せきとして静まり返り、天窓から届く月光も冴え冴えと凍っている。高山の頂にも似た孤絶の空気に包まれながら、善の盟主たる聖王は至尊の座に腰を下ろしていた。
- 灰色に染まった髪と髭の下、深々と刻まれた皺しわの数は酷烈な年輪のみを伝えてくる。薄く開かれた双眸そうぼうにも暖かみは存在せず、分厚い鋼のような鈍く冷えた光を放っていた。
- 良く言えば荘厳で、端的には陰鬱な、曲がった見方をすれば狂的でさえある容貌。
- まるで幾星霜もの間風雨に晒され、“王”という形になるまで削り上げられた磨崖像まがいぞうを思わせる。人として自然に持つ感情を責務という鑿のみで落とし続けてきた結果なのか、夢に見た少年の面影はすでにない。
- そして、変わったのはスィリオス一人だけではなかった。むしろ彼を残し、他のすべてが去って行ったと言っていい。
- 父が死んだ。母も死んだ。彼を鍛えてくれた指導者も、切磋琢磨した同輩たちも、我が子のように慈しんだ部下たち、それら全員の家族、隣人、愛すべき皆々――
- もう誰も、残っていない。追憶に見たあの日を知る者、スィリオスと伝説を共有し、栄光を誓った勝利の担い手たちは遠く彼方へ行ってしまった。ワルフラーンが死んだとき、少年の夢は終わったのだと無情な今が告げている。
- 初めから勇者あってこその物語だった。万人が納得する完全無欠の大団円――幼いスィリオスが描いた理想は、前提からして常人に成せるものではない。
- 自分こそがその器だと、信じて疑わなかった頃は幸せだった。
- 本物の勇者と出会い、彼の朋友ともとして立った日々は至福だった。
- 花嫁衣装に身を包んだ愛しい妹。その手を取って門出の道を渡り、義弟となる男へ宝物を渡す瞬間は近かったのに。
- 高まる拍手と、広がる笑顔と、満ちていく讃美歌の渦を感じられるはずだったのに。
- 星霊の翼に包まれて、凱歌と共に幕を開ける新しき世界を目指していた。
- あまねく善が躍動し、誰も泣かずにすむ天地へ至れると思っていた。
- お伽噺から抜け出たような、不可能を可能にするそれこそが奇跡の成就……。
- だがその日は訪れない。二度とかつての輝きは取り戻せない。
- 光の聖画は砕け散り、欠片を拾い集めてきたが、新たに組み上がった姿は歪に捻じれ、くすんでいた。
- 当たり前のことだとスィリオスは思う。真の勇者でなければ辿り着けぬ領域だからこそ夢は尊く、偽物である自分ではどう足掻いても役者不足だ。
- 祈りは叶わぬ。希望も見えぬ。だが聖王がすべてを諦め、心を折っているのかと言われれば否だった。
- 彼はそんな惰弱だじゃくを己自身に許していない。正確には、投げ出すという意識そのものを持ち合わせてはいなかった。
- 「友よ、私はおまえになれぬ。だがそれゆえに見えるものがあるようだ」
- スィリオスの口から、重く厳めしい声が漏れた。決して大きくはない独白だったが、梵鐘ぼんしょうの響きがごとく玉座を殷々と木霊していく。
- その想念……ある種の危うさを孕んだ声音は、今の聖王領を象徴しているかのように地を這いながら胎動していた。ここからさらに深く広く不可逆的に、すべてを塗り潰さんとする覇道の意志が滲み出ていく。
- 「この世はすべて間違っている。お、ま、え、が、あ、あ、な、っ、て、し、ま、う、な、ど、……認めん。約束しようワルフラーン、必ず新世界を築いてみせると」
- 至高の勇者という鮮烈な光が生んだ影。スィリオスは己をそう定義して、偽物なりの結末を見出し始めていた。
- 万人が納得する大団円、とは無論いかない。だがそれでもよいと思っているのは、友と出会ったあの日に対する裏切りではなかった。
- 凡夫の身ですべてを果たそうなどと思い上がるほうがワルフラーンへの侮辱であり、役者不足な紛い物が立つからこそ民は本物へと思いを馳せる。
- 結論として――
- 己の不完全な覇業をもち、友の無謬むびゅう性を証明するのだ。永久とわに叶えられぬ理想として、勇者の伝説に不滅の輝きを与えてみせよう。
- ワルフラーンさえ生きていれば、彼ならば――その希望もしもを神の座へ祭り上げるには暗君が必要で、それこそ己の務めと信じる。
- 「私程度でもやれるのだ。おまえならもっと上手くやれたはずだと誰もが思うし、私も思うよ。そうして約束は果たされる」
- 少年には夢があった。
- この世の誰よりも強く雄々しく、そして正しくあった男のために。
- 「皆が祈った奇跡として、蘇れ友よ」
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