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- 「こいつで最後だ。首謀者、だとさ」
- コンクリートの床に倒れて、女は小さな悲鳴をあげた。
- 女を突きとばしたヒートは手を振り、何か罵りの言葉を呟いた。サーフは目でそれを制し、倒れたまま震えている女に視線を戻した。
- 「名前は?」
- 「……ザーダ」
- か細い返事が返ってきた。
- 床に両手をついたまま、女は全身をわなわな震わせている。戦闘スーツは焦げて穴が開き、トライブカラーのペイントが煤けて見えなくなっている。とがった顎と大きな丸い目目をした、小柄な女だった。突き出た頬骨の上がひっきりなしに痙攣していた。
- 「アートマは?」
- 答えはなく、女はただ頭をかかえて泣き言をくり返すだけだった。ヒートが舌打ちして手を伸ばし、襟首をつかんで乱暴に頭をあげさせた。
- のけぞった喉からまた悲鳴とすすり泣きが漏れた。黄色い髪の生え際、左の首筋に、多重の同心円に牙めいた刻み目のある、黒い烙印がのぞいた。
- 「《アルケニー》か。……下位(コモン)の雑魚が」
- ヒートが吐き捨てた。
- 形態(タイプ)《アルケニー》は下位(コモン)レベルのアートマとしては比較的ありふれたもので、戦闘能力もそれほど高くない。特殊能力(タレント)も、せいぜい強酸性の粘着糸を吐くことと、牙からの毒液で相手を麻痺させる程度しか確認されていないはずだ。たとえ多数の部下を引き連れていたとしても、この程度の戦力で五名の上位(ハイ)アートマを擁するサーフたち〈エンブリオン〉と戦うのは、無謀の一語につきる。
- 「所属トライブ名は?」
- 「キャ、〈キャジュアルズ〉……ね、ねえお願い、助けて! 殺さないで! く、喰われるのは嫌──」
- いきなり身を起こしてサーフの足にすがりつこうとする。サーフが素速く身を引くのと同時に、ゲイルが無言でショットガンをザーダの額に突きつけた。
- 「お願い。お願い」
- ザーダは泣きながら後ずさった。アートマ能力を得たものに銃器攻撃は効果が薄いが、人間時にこの至近距離から頭部を吹き飛ばされれば無事には済まない。
- 「あ、あんたたちの仲間になるから……ほ、本当に、本当に仲間になるから、嘘じゃないから……喰わないで、く、喰わないで──」
- 「ねえ、ほんとにこんなのが反乱の首謀者なわけ? 信じられないわ」
- アルジラは気分が悪そうだった。ピンクパープルの巻き毛を神経質にいじりながら、問いかけるような視線をサーフに向ける。いちおうゲイルにならって自分のライフルを突きつけているが、引き金に手をかけるのもあまり気が進まないようだ。
- 「その通りだな。歯ごたえがなさすぎてつまらん。間違いないのか、ゲイル」
- ザーダを引きずり出してきた当人であるヒートもうんざりした様子だった。愛用のグレネードガンを壁に寄せかけ、その隣にもたれているが、一方的な暴力を嫌うアルジラとは違って、単に女のめそめそした態度に辟易しているだけらしい。鮮やかな赤毛と同じ、燃えるような赤の瞳に苛立ちの色が濃い。
- 「カルマ教会には既に照会した」
- 平坦にゲイルが答えた。トライブ〈エンブリオン〉において情報処理を一手に引き受ける彼は、フードの影から緑の目をちらりとサーフのほうへ動かして言った。
- 「ザーダという名の女性歩兵(ノーマル)がトライブ〈キャジュアルズ〉に所属していたのは事実だ。戦闘成績はクラスB、カルマ値二七三。さして高い数値ではない」
- 「ますます変ね。なんでそんな歩兵クラスが残党組織なんかできたのかしら」
- アルジラが不思議がる。
- ──ジャンクヤード。
- ここは、修羅たちの巷だ。
- どこまでも広がる灰色の廃墟と、切れ目なく降り続く銀色の雨。ここに生きる人間たちは例外なくトライブと呼ばれる戦闘集団に所属し、究極の審判者である〈カルマ教会〉の調停のもとで、終わりのない闘争を繰り広げている。
- ムラダーラ、スワディスターナ、マニプラ、ヴィシュダ、アジュニャー、そしてカルマ教会が不可侵領域として本部を置くサハスララ。サハスララ以外の五つのエリアを制覇し、ジャンクヤードの覇者となったトライブの人間だけが、永遠の楽園〈ニルヴァーナ〉に入ることを許されると教会は説く。
- スワディスターナの支配者〈アサインメンツ〉消滅により、サーフをリーダーとするトライブ〈エンブリオン〉は、これまで支配していたムラダーラ・エリアに加えてスワディスターナ・エリアまでも支配下に置くことになった。
- しかし、上位トライブの中でも特に構成員数の少なかった〈エンブリオン〉にとって、一気に拡大した支配エリアの完全制圧は短期間には難しく、〈アサインメンツ〉やその他中小トライブの残党狩りが問題となっている。
- ザーダの件もその一つだった。エリア各所に配置した斥候から、〈アサインメンツ〉の生き残りらしい女がほかの仲間を集めて地下の廃棄されたシェルターに立てこもっている、という報告が入り、サーフたちはすぐに行動を開始した。今はどんな小さな危険の芽でも、見逃すわけにはいかない。〈アサインメンツ〉を潰したことで他のもっと大規模なトライブ、〈メリーベル〉や〈ソリッド〉の注意を引くことになるのは避けられないし、それに、もう一つ、大きな理由もある。
- 「〈キャジュアルズ〉はハーリーQの〈アサインメンツ〉傘下の小トライブの一つで、リーダーはカイロス・ミーク、男性」
- まばたいたゲイルの眼に淡い輝きが宿る。カルマ教会の聴聞システムとオンラインされているモニタは、データ操作に特化した調整(チューン)をしているゲイルにとっては不可欠のものだ。網膜に直接出力されるデータを淡々と読み上げる。
- 「ハーリーと〈アサインメンツ〉の消滅とともに、下部組織である〈キャジュアルズ〉も解体した。同トライブリーダーのカイロスについては、グラウンド・ゼロにおける戦闘中の死亡(ロスト)が確認されている」
- 「グラウンド・ゼロ。あそこにいたのか」
- 「ハーリー麾下の小隊に入っていたようだ」
- 眉をひそめたサーフに、淡々とゲイルは言った。
- 「おそらく、あの場でアートマに覚醒して死亡したうちの一人と思われる」
- つまり喰い殺されたということだ、とサーフは胸の中で呟いた。
- 思わず自分の頬に手が伸びる。そこには黒い烙印──ザーダのものと形は違うが、同じく牙ある口のような意匠をそなえた、異様なアザが浮かびあがっている。
- (銀。真紅。それから闇)
- 舌の上に踊る、血の味。
- 「リーダー」
- 黙っているサーフを、わきからゲイルが促した。
- サーフははっとして、背筋にまつわる悪寒を振り捨てるとアルジラを振り返った。
- 「アルジラ、他の捕虜の処理は?」
- 「シエロに任せてあるけど。他のメンバーといっしょに、武装解除して一階の倉庫跡に一時押し込めておくように言ってある」
- 「アニキー、そっちまだ? とりあえずこっちは終わったみたいなんだけど」
- アルジラの言葉をまるで聞いていたかのように、部屋の入り口から脳天気な声といっしょにひょいと青いドレッド頭がのぞいた。
- 「ありゃ」とシエロは丸い目をくるりと回し、床にうずくまったザーダと周囲で銃をかまえて立っている仲間たちを交互に見比べた。
- 「もしかしてまだお取り込み中? こりゃまたどーも、失礼しました」
- 「お黙り、このお馬鹿」
- アルジラが叱った。言葉はきついが、頬にはほっとしたような笑みが浮かんでいる。ヒートは肩をすくめてやれやれと言いたげに舌を鳴らし、ゲイルは表情を変えないまま片眉を上げた。張りつめた雰囲気が、明るい声でわずかにゆるむ。
- 「いちおう敵地なんだからふざけんのおやめ。抵抗してくる奴とかはいなかったの?」
- 「ん、ないない」大げさな身振りで手を振って、
- 「なんか知らないけど、びっくりするくらいおとなしいよ。やっぱほら、ボスがつかまったんでいっぺんに気落ちしたんじゃねえ? もともと負け組なんだしさあ、奴ら」
- 「ご苦労だったな、シエロ」
- サーフも自然に口元がほころぶのを感じた。
- 「すぐ上がる。撤収の準備をして、上で待て。皆にもそう伝えろ」
- 「了解、アニキ」
- 肩から提げたサブマシンガンでひょいと敬礼してかかとでくるりと一回転し、シエロは元気よく駆けていった。アニキじゃなくてリーダーでしょ、と後ろからまたアルジラが叱ったが、どうやら耳には届いていない。
- 肩から力を抜いて、サーフは一つ息をついた。アルジラとヒートに合図して泣いているザーダを立ちあがらせた。
- 「で、こいつはどうするんだ?」
- ヒートがザーダを顎で指す。
- 「どうもしない。他の捕虜といっしょに、連れて戻ってひとまず監禁しておく。仲間と離しておく必要はあるだろうし、監視はむろん徹底させるが」
- ヒートの唇がわずかに歪んだ。
- 「──甘いな」
- 「なに?」
- 「なぜわざわざこいつを連れて帰る必要があるんだ」
- ヒートはつかんだザーダの腕をねじ上げ、苦痛の呻きをあげさせて目を細めた。
- 「反乱なんぞ起こそうとした奴の使い道は多くない。できるだけ無様に死んで、他の馬鹿どもの見せしめになるか、でなければ」
- 恐怖のあまり声も出ないでいるザーダを引き寄せ、その喉元で歯をむき出す。
- 「ここで俺たちの餌食になって、今後の面倒を減らしてくれるか、だ」
- 「ヒート!」
- ザーダの細い悲鳴とサーフの制止が重なりあった。
- 「よせ、ヒート。ザーダに戦う意志はない。彼女は投降を希望しているんだぞ」
- 「だから、それが甘いというんだ。一度こっちに食いつこうとした奴が、また同じことをやらないとどうして言える? 確実にそんな真似ができないようにするには、こうするのが一番だろうが」
- 「ヒート、やめろ!」
- 「ヒート」
- ゲイルの低い声が割って入った。
- 「リーダーの指示だ。従え、ヒート」
- ヒートは眉を吊り上げ、何か言いたげに顔をこちらにねじ向けた。
- 無表情なままゲイルは動かない。だが、手にしたショットガンの銃口が、それとわからないほどわずかに持ち上がっている。
- サーフは視線に力をこめて、ヒートの眼を見返した。
- 「下がれ、ヒート。彼女は捕虜だ。食料じゃない」
- アルジラが心配そうにこちらを見ている。
- 痛いほどの沈黙が流れたのち、ヒートはふいににやりとすると、大きな身振りでザーダをアルジラのほうへ突き放した。
- よろめいたザーダをアルジラがあわてて支える。それ以上は何も言わず、ヒートは背を向けて愛銃に歩み寄り、肩に担ぎ上げた。
- 「リーダー──」
- 「……あとは任せる、アルジラ」
- サーフはそれだけ言いおいて、ことさらゆっくりとした足取りで部屋を出た。
- 「リーダー」
- 通路を歩いていると、後ろからゲイルが追いついてきた。
- 「なんだ、ゲイル。何か言い忘れたことでも──」
- 「ヒートは最近、命令軽視の傾向がある」
- 耳元に顔を寄せ、ごく低い声でゲイルは囁いた。サーフの足が止まった。
- 「本格的な反抗に至らないうちに、何らかの手を打っておく必要があると思われる」
- 「それは、ヒートを遠ざけたほうがいいという意味か?」
- 鋭くサーフは聞きかえしていた。
- ヒートはリーダーであるサーフに継ぐ戦闘能力の持ち主で、〈エンブリオン〉にとっては貴重な、有能なアタッカー要員である。アートマ能力を得てからその力はますます高まり、時にはサーフを震撼させるほどの獰猛なファイターとなっている。
- しかしそれ以上に、サーフにとって彼は安心して背後を任せられる、信頼できるパートナーであり、これまで幾多の戦闘をともに戦ってきた仲間だ。
- 今の一幕には確かになんとも言えない不安をかき立てられたにせよ、あからさまにヒートに反抗の気があると言われることには強い抵抗があった。思わず語気が荒くなる。
- 「別にヒートは間違ったことを言っていたわけじゃない。最後にはちゃんと指示に従ったし、反抗というのは言い過ぎじゃないのか」
- 「彼がリーダーの命令に即座に従わなかったのは事実だ」
- 「たとえそうでも、ヒートはうちの大切な主力の一人だ。〈エンブリオン〉はまだまだ構成員が少ないし、あいつの能力を今手放すわけにはいかないのは、お前だってわかっているだろう。今、重要な戦力であるメンバーを追いはらったりすれば、他のトライブにわざわざつけ込む隙を与えるようなものじゃないか」
- 「私は、それに関して発言する立場にない」
- ゲイルの声はあくまで冷静だった。
- 「私は情報から引き出される推論を告げるのみだ。すでに進言はした。決めるのはあなただ、リーダー」
- ゲイルは足早にサーフを追い抜いて階段をあがっていった。
- 見送って、サーフは唇をかみ、何かを振り切るように自分も足を速めた。
- 階段の上の出口から、シエロがにこにこして手を振っている。
- 数時間後、ムラダーラの拠点に戻ったサーフは一通りの事後処理を済まし、しばらく一人になるつもりで、最上階の物見に上がった。
- 壁面に穿った銃座の掩体の下に腰をおろし、灰色の風景を眺める。煙る大気をすかして、雲をつらぬきはるか天上にまで伸びるカルマ教会の尖塔が見える。
- その頂上は水銀色の雨滴を落とす雲海に隠れて確認できない。やむことのない雨。すり切れた布を叩く雨の音を聞く。何物をも濡らさず、染みこむこともない重い水滴が、溝を伝ってとうとうと流れ落ちていく。
- この雨は、死者たちの肉体が化したものだと言われている。
- 戦場に放置された死者たちの骸はやがて分解されて天に昇り、やがて、この銀色の雨ならぬ雨となって降り注ぐのだという。
- 大地に落ちた死者の身体はやがて世界の罪業(カルマ)を計量し、裁可し、浄化する〈カルマの審判者〉教会──通称〈カルマ教会〉の地下へと至る。殺し合うことで罪にまみれた魂は、そこで全ての汚れを洗い流され、新たな生命を得て生まれ変わるのだという。
- だから、この雨を浴びることはひどく不吉だ。それは死であり、いまだに浄化されない死者の罪業にわが身をさらすことだからだ。
- しかし、この雨もやむ時が近いのかもしれない。今や死者が戦場に放置されることはなく、敗者の肉体はそのまま勝者の存在を支える糧として、その体内に取りこまれてしまうのだから。雨になるべき骸がなければ、この灰色の雨ももはや長くはないだろう。
- 頬が疼く。サーフは手を伸ばして、ちりちりと疼くそこを指で辿った。
- アートマ。悪魔の徴。
- トライブ〈エンブリオン〉。サーフ自身をリーダーに頂く戦闘集団が、突然出現した謎の黒い物体を巡ってハーリーQ率いる〈アサインメンツ〉と交戦した、あの日。
- 物体が弾け、そこから飛びだした謎の光球がジャンクヤードを覆ったとき、人間──サーフとその仲間を含めて、この世界の、すべてがおかしくなったのだ。
- アートマ。
- この烙印を得たものはみな異形の悪魔の姿、アートマ態に変身し、物理法則を越えた能力を駆使できるようになる。
- 肉体的能力は人間時の数十倍にはね上がり、銃で撃った程度ではほとんど傷つきもしない。そうと意識するだけで空中から炎を噴出させたり、空を翔けたり、超低温の冷気を操って敵を凍結させたりすることさえ思いのままだ。
- だが、それは代償として、激しい飢餓感につきまとわれることをも意味する。
- ただの飢餓ではない。同じ人間、悪魔に変身することのできる人間を殺して喰らうことでなければ癒されない、呪われた餓えが所有者を支配するのだ。
- サーフたちもむろん例外ではない。喰わないでくれとザーダが泣くのは、今、このジャンクヤードで戦いに敗れるということは、すなわちその場で生きたまま貪り食われても文句は言えないということだからだ。
- 〈アサインメンツ〉のリーダー、ハーリーQの死にざまは恐ろしいものだった。あの日、、突然現れた謎の物体が破裂した現場にサーフたちと彼は物体から飛びだした光に貫かれ、ほかの人間と同じく、悪魔に変身するアートマ能力を得た。
- そしてサーフたちは周囲の人間を、敵味方の見境なく、喰らった──らしい。
- らしい、というのは、サーフたちにはその時の記憶がなく、後に〈アサインメンツ〉のアジトに逃げ込んだハーリーQを問いつめて知ったからだ。
- 追いつめられた彼は今日捕らえたザーダと同じく、来るな、近づくな、喰わないでくれと泣き叫んで懇願し、しまいには呆けたような笑みとともに、そうか、喰われる前に喰っちまえばいいんだとわめきながら、悪魔に変身して襲いかかってきた。
- 同じく悪魔に変身することでかろうじて勝利はしたものの、それは、自分たちに巣くった忌まわしい欲望と餓えをはっきりと認識させられることをも意味した。
- 人を喰らわず、人間であることに固執することもできたが、もし喰わなければ、餓えはいずれ人間である部分をも喰らいつくして、やがて完全な悪魔に変えてしまう。理性も何もない外道に墜ちたくなければ、倒した相手を喰らい、そのエネルギーを取りこんで自分自身を支えていくしか、方法はなかった。
- 〈キャジュアルズ〉のカイロスとやらがあの日グラウンド・ゼロで死んだというなら、その喉笛を喰いちぎったのはサーフ自身の牙だった可能性もある。泣きじゃくるザーダを思い出すと、あの時の衝撃と嫌悪がなまなましく蘇ってきて背筋が震えた。
- 「サーフ?」
- 後ろから澄んだ声がした。
- サーフは振り返り、雨よけのポンチョを被った小柄な影が、小走りに屋上を横切ってくるのを認めた。
- 「セラ。部屋から出ないほうがいいと言ったろう」
- 「ごめんなさい。少しだけ、外の空気が吸いたくて」
- 掩体のかげに走りこんできて、ほっとしたようにセラは笑った。
- 戦闘員を見慣れた目に、小柄な身体はひときわきゃしゃに見える。小さな白い顔に、黒目がちな大きな目が笑いを含んで輝いている。少女の細い肩に、プロテクターのついた戦闘用ジャケットは少々重たげに見える。
- 頭の形にぴたりと添うように短くした髪は黒、このジャンクヤードの人間にはあまり見られない、純粋な漆黒だ。ほっそりした手も、しなやかな首筋も透きとおるほどに白く、そのどこにも悪魔の烙印はない。
- 「ちょっとだけ、散歩に出させてってアルジラにお願いしたら、今サーフが屋上にいるから行ってみたら、って。ついでに、これ持ってってあげなさい、って。はい」
- ポンチョの下から四角いブロックを取りだして、大事そうに手渡す。
- 飲料水パックと固形食料をまとめた戦闘用携行食糧(レーション)だった。ザーダたち反乱勢が備蓄していたのを接収してきたものだ。人間であることにこだわるアルジラがわざわざ回収してきたのだが、今となっては通常の食物はあまり意味がないので、しまいもせずにその辺に放りだしてあったのだろう。
- いらない、必要ない、と押し返そうとして、セラの期待に満ちた顔ときらきらした瞳に気がついた。なぜか、これを断ると何かを間違えてしまうような気がする。
- (……ま、いい)
- 受けつけないものではなし、多少の体力回復にはなるだろう。黙って受け取り、包みを開くと、セラは嬉しそうに笑って足もとの床に座った。
- 「わたしも一緒に食べていい?」
- 「好きにしろ」
- セラはいそいそと自分の分らしいひと包みを取りだし、膝の上で包装を解き始めた。固い固形食を口に運びながら、サーフは横目で彼女を眺めた。
- (──奇妙な娘だ)
- すべての始まりであるあの黒い物体が炸裂した日、消滅したそれのあった場所に、昏睡状態のまま現れたのがこの少女──セラだった。
- 彼女はセラという名と、そして『みんなを助けに来た』というその目的以外、すべての記憶を失っていた。
- 『助けに来た』と言いながら、何から助けに来たのかも、なぜ助けに来たのかも、自分では説明することができない。アートマ能力も、持っていない。すべての人間が戦闘員であるはずのジャンクヤードで、彼女の肉体はあまりにもか弱い。
- 身分証明であるはずのタグリングもなく、世界に関するあらゆるデータを管理しているはずのカルマ教会さえ、彼女に関しては何の情報ももたらすことができなかった。
- 記憶も過去も戦う力も、なにひとつ持たない娘。
- だが、彼女はこの世界において唯一の、そしてある意味では最強の力を、発揮することができた。
- アートマ能力の暴走による人間の悪魔化の抑制。
- それが、彼女の持っていた能力だった。〈喰らわ〉なければ理性を失うことがまだわかっていなかった時、サーフたちは、ハーリーの骸に対してこみあげてきたおぞましい欲求に恐怖し、それを受け入れることを決めたヒート以外は揃って外に逃れた。
- しかし、初めての戦闘で枯渇したエネルギーは、強烈な飢餓となって彼らを襲った。理性を奪われたメンバーは抵抗しつつもつぎつぎに悪魔に変わってゆき、そのまま見境もなく共食いをはじめるところだったのだ。
- だが、それを救ったのがセラだった。
- それまでただ眠り続けるだけだった彼女は、いつのまにか拠点を抜けだし、血の荒野に、たった一人裸足で歩みいってきたのだった。
- 『来るな! 逃げろ……うんと……遠くへ』
- 最後の理性のかけらで叫んだサーフを、彼女は澄んだ黒い瞳でまっすぐに見据えた。
- そして、牙をむく悪魔たちの目の前で自らを傷つけ、血を流した……。
- 意識を取りもどしたとき、サーフの唇を血が濡らしていた。仲間たちの共食いの血ではない。セラの、自ら流した血だ。
- アルジラも、シエロもゲイルも、荒い息をついて周囲にうずくまっていた。セラが含ませてくれた彼女自身の血で、彼らは人間に戻ることができたのだった。
- とても単純な、低いハミングが宥めるように耳に届いた。少女のやわらかな手に頭を支えられながら、サーフは、同じく人間に戻ったアルジラが、息も絶え絶えに『あなた、いったい誰なの』と囁くのを聞いた。
- 『……わたし、セラ』
- 彼女は言った。
- 『助けに来たの。みんなを──』
- セラは現在、〈エンブリオン〉の客分として大切に扱われている。
- 隠されている、と言ったほうがいいかもしれない。彼女の血にアートマの暴走を解除する力があることは、今のところ〈エンブリオン〉中核メンバーのみの極秘事項である。外に漏れれば、アートマ化に恐怖を抱く者や、あるいは他トライブの無力化を目指す人間に利用される可能性がある。力を持つのが彼女の生き血である以上、ことはセラの生命にかかわる危険性も出てくる。
- それに、どうやらセラの存在自体が、アートマの沈静化によい影響を及ぼすらしい。今のところ〈エンブリオン〉内では中核メンバーも含めた構成員のアートマ暴走は一度も起こっていないし、餓えを感じる頻度もかなり少ないようだ。
- どういう理屈でそうなっているのかはまったくわからないし、記憶を失ったセラ自身にも自分の力の説明はできず、どうにも手がつけられない。しかし人間でいたければ、セラという娘を身辺に置いておくことが一番重要であるらしいのだ。
- その上、カルマ教会から発された号令によりこのか細い少女は、今では、ジャンクヤードのすべてのトライブが求める唯一の賞金首となっていることでもある──。
- 飲料水パックの封を切ろうとして、ふとセラの様子に目がいった。
- かちかちのミールバーに、丸ごと歯を立てようとして悪戦苦闘している。
- 眉間にしわを寄せて頑張っているが、手でも力を入れないと割れない固形食が簡単に噛み割れるはずがない。しだいに目に涙がにじんでくるのを見かねて、手を出した。
- 「貸してみろ」
- 端に小さな歯形のついた固まりを取りあげる。
- 板のようなバーの刻み目にそって割り、一口大の破片にして、目を丸くしているセラの手の上に落としてやる。まだ口をつけていなかった飲料水のパックを持たせて、
- 「一切れずつ口に入れて、水と一緒にゆっくり噛め」
- 真剣な顔でセラは言われたとおりにした。
- しだいに顔が明るくなり、口の中のものを呑みこむと、小さな声を立てて笑った。
- 「おいしい。はじめは固いけど、噛んでいると甘くなるのね。タフィみたい」
- 「タフィ?」
- 「知らない? キャンディみたいなものよ。お砂糖とクリームを煮つめて作るの、バターを入れて、アーモンドやきざんだナッツをたくさん──あ……」
- サーフにはタフィどころか、砂糖もクリームもいったい何のことか見当がつかない。
- いきいきとしゃべっていたセラの表情が曇り、語尾はそのままかき消えた。肩を落としてうつむいてしまったセラに、サーフは低く問いかけた。
- 「何か思い出したのか?」
- 「……ごめんなさい」
- うつむいたまま、セラはかぶりを振った。
- 「今みたいに、どうでもいい小さなかけらみたいなものはぱっと浮かぶんだけど、いちばん肝心なことはちっともわからないの」
- うなだれたセラの細いうなじがかすかに震えている。
- 〈アサインメンツ〉が崩壊し、サーフ達が自らのアートマ能力に目覚めた直後、闘争の審判者たる〈カルマ教会〉は各トライブのリーダーを集めて命令を発した。
- (『黒髪の娘を連れ、この高みに昇ってくるがいい。黒髪の娘とジャンクヤードの覇権、二つを共に手にした者にのみ、ニルヴァーナはその門を開く』)
- (『アートマとは悪魔の力、悪魔は修羅たるお前たちの本質(アートマン)そのもの。悪魔は喰らえば喰らうほど強くなる──』)
- (『敵を引き裂き、屠り、喰らえ』)
- (『餓えから逃れ、生き延びるすべは他にない……』)
- 黒髪の娘を擁して闘争を勝ち抜き、ジャンクヤードの覇者となった者の前にのみ、楽園〈ニルヴァーナ〉の門は開く。
- それが、今のカルマ教会の説く唯一の教義だ。〈ニルヴァーナ〉とは、煉獄たるこの灰色の闘争の巷から逃れ、戦いの修羅が安息を得ることのできる唯一の場所と聞く。この黒髪の娘セラは、その楽園へと至るためのたった一つの鍵と定められたようだった。
- 今のところ、セラが〈エンブリオン〉に身を寄せていることは他のトライブには漏れていないようだが、もし知られれば〈エンブリオン〉とこのムラダーラ・エリアはたちまち戦闘の中心地と化すにちがいない。
- (『私は、エンジェル。お前たちがはるか天上に仰ぎ見る者と理解することだ……』)
- カルマ教会、そしてエンジェルと名乗る人物が何を意図しているのかは謎のままだ。だが、少なくとも、セラを擁することは完全な悪魔化を逃れる方法を手にすることであり、それだけでも彼女を大切にする理由はあった。
- 悪魔化をもっとも恐れているアルジラなどは特に彼女に望みをかけ、あれこれと世話を焼いている。アルジラばかりではなく、サーフ自身も含めた〈エンブリオン〉の中核メンバーはセラに対して妙に惹かれるものを感じ始めているようだ。
- アルジラは言うまでもなく、シエロもすっかりセラに懐いているし、そっけないゲイルも自分が暴走から救われたのはセラの存在あってこそだということは認識しているようだ。サーフ自身にしても、アートマ沈静うんぬんは別として、なぜ自分がそもそもこの正体不明の少女を保護する気になったのかは、いまだにうまく説明できないでいる。
- 唯一の例外がヒートだった。ヒートはあのアートマ化の日以来、以前の寡黙ながら的確に戦闘をこなした彼ではなくなり、内側に溶けた鉛のような煮えたぎる何か──戦いへの渇望と、〈喰う〉ことへの欲求──を、みなぎらせるようになった。
- そんなヒートは、セラに対してほかのメンバーほどの熱心さを見せていない。特に嫌っているようでもないが、必要以上に構うことも近づくこともしない態度は、あきらかに仲間たちの中では異質だった。
- むしろ、畏れているようにすら見える──ヒートに対して、何かを畏れるという言葉を使うことは妙な気がするが。しかし見方を変えれば、どんな武器にも勝る力の源であるアートマ能力を無効化するセラは、ヒートにとっては、自分の力を弱めることのできる得体のしれない存在に感じられるのかもしれない。
- 中核メンバーのうちではただ一人、彼だけがセラの血を口にしていなかった。それがどういう意味を持つのか今は見当もつかない、だが、〈喰う〉ことを当然の行為ととらえ、餓えを忌避する仲間に対して苛立ちを隠さないヒートに、ゲイルの言葉ではないが、わずかな不安を感じることがないわけではない。
- 「ねえ、サーフ──」
- 食べる手をふと止めて、思いつめたような目をしてセラが顔をあげた。
- そのとき、サーフの眉間を金属的な痛みが貫いた。
- 頬に焼きごてを押しつけられたような感覚が走る。
- 「伏せろ!」
- 反射的に身をかがめてセラを突き倒し、身をひねりざま、左腕を高く振りあげた。
- その肘から先が青白い輝きに包まれた。スーツに包まれた前腕がゆらりと解け、かわって青白い皮膚と白い甲殻に覆われた異形の腕が現れる。
- 手のひらが二つに爆ぜ割れ、白く燃える刃が音を立てて延びた。
- 白光が空を走り、何か小さなものが左右に分かれて落ちた。
- 一瞬の間をおいて、金属製の掩体がきしみと共にずるりとずれる。切り離された部分が、悲鳴のような音を立てて地上に落ちていった。
- 死者の雨が肩を打ち、頬を流れ落ちる。サーフは腕をなぎ払った体勢を崩さず、床に落ちたものを睨みすえた。床に押し倒されたまま、セラは凍りついていた。
- 「リーダー、どうしたの? 今の音なに?」
- 騒ぎをききつけたアルジラが飛びだしてきた。アートマ化した腕から剣を伸ばしたサーフとへたりこんだセラの姿に、ぎょっとしたように駆け寄ってくる。
- 「な、何があったの? 敵襲?」
- サーフは首を振り、刃をのばしたままゆっくりと立ちあがった。
- いつでも振れるように意識しながら、今自分が両断したものに歩み寄る。後ろでアルジラが、セラを抱きかかえながら心配そうに首をのばしている。
- まだ蠢いているが、機能はもう失われているようだ。手のひらほどの大きさの膨れあがった胴体部に、足のような四本の突起。全部で八本の足があるということか。色は黒、そこだけ空間に穴が開いたようなべっとりとした黒だ。。
- 「なに、これ」アルジラがもう半分のほうを見つけて眉をひそめた。
- 「く、蜘蛛……?」
- セラがおびえた声をあげる。
- 蜘蛛? 唖然としてアルジラとサーフが顔を見合わせていると、上空から『アニキ──!』というかん高い声が降ってきた。
- 雲のたれこめた空を、鋭いシルエットの長い翼を持つ者がまっしぐらにこちらへ向かって飛んでくる。シエロだ。形態(タイプ)《ディアウス》、大空を翔ける天空神の上位(ハイ)アートマを持つシエロが、身体を傾け、大きく頭上を旋回する。
- 『アニキ、アニキ大変!』
- 声と口調は人間の時のシエロと変わらない。
- 『ザーダが悪魔んなって暴れ出した! それと、他のみんなのようすもおかしい。捕まえたやつらじゃなくて、〈エンブリオン〉(ウチ)のやつらがおかしいんだ!』
- 「なんだって?」
- 思わずサーフは屋上のふちに駆け寄った。
- 「なぜそんなことに? ザーダの《アルケニー》程度なら、歩兵(ノーマル)連中でも十分動きを止められるはずだ」
- 『わかんない。でも、うちのメンバーがザーダに味方してこっちに襲いかかってきてるんだ、おかげでなかなか手が出せなくて、苦戦しちまって。わっけわかんねえよ、なんかみんなボーッとしてて操られてるみたいで……あ、それ!』
- サーフの足もとに落ちた黒いものを目にして声をあげた。
- 『そいつだよ、アニキ! そいつをザーダがいっぱい吐き出して、それからなんか、みんながおかしくなったんだ!』
- 「──操り(マリオネーション)か」
- サーフは呟き、嫌悪感と強い怒りがわき上がってくるのを感じた。
- アートマ化した人間は、他人を喰らうことによって自分の能力を成長させ、時には稀少能力(レアタレント)と呼ばれる高度な異能を身につけることがある。
- おそらくザーダはすでに多くの相手を〈喰らって〉いて、敵に知られていない能力を身につけた上、無害な弱者を装って〈エンブリオン〉に侵入しようとしたのだろう。
- 部下と称していた残党たちが無気力な様子だったのも、彼女の力の影響下に置かれていたからかと思いあたる。あるいはあれは徒党などではなく、単なるザーダの食糧庫にすぎなかった可能性に気づき、サーフは背筋に冷たいものが走るのを感じた。
- 喰らいつづけて身につけた〈操り〉を隠し持ち、〈エンブリオン〉構成員を、あわよくばサーフをも手中に収めて、一気にムラダーラとスワディスターナの支配者の座を得る。それが、ザーダの真の目的だったのだ。
- 足を上げて、黒い蜘蛛の残骸を踏み潰す。蜘蛛は細かい塵になって、消えた。
- 『今はヒートとゲイルがやりあってる。早く来て、アニキ!』
- 「わかった、すぐに行く。アルジラ──」
- セラを中へ、と言おうとして、サーフは動きを止めた。
- アルジラに肩を抱かれたセラが大きく目を見開いている。
- その黒い瞳はサーフの青白い異形の腕と、そこから伸びる長大な白刃を、魅せられたように見つめている。
- 舌先に感じる味が苦さを増した。
- 見つめるセラから顔をそむけて、サーフは腕を一振りして刃を収めた。
- 「──アルジラ、セラを中へ。護衛と、念のため拠点の防備を」
- 「了解、リーダー。さ、こっち来て、セラ」
- きびきびと少女の手を取って連れていく。セラは黙って従ったが、歩き出しかけてふと立ち止まり、アルジラの手を振り切って走り戻った。
- 「サーフ!」
- 切断された掩体の上に足をかけて、サーフは振り向いた。
- セラは何か言いたげに唇を開いたが、結局言葉にはせずに、降りしきる雨の中で黒い瞳を見開いてじっと佇んだ。
- 「……気をつけて」
- どう返せばいいのかわからなかった。どう感じるべきかも。
- こちらをしっかりと見つめるセラの目には、恐怖もなければ嫌悪もない。ただまっすぐに見つめる澄んだまなざしにむしろ理不尽な苛立ちを覚え、サーフは軽く片手を上げただけで背を向け、そのまま宙に身を躍らせた。
- 《オーム、蓮華の中なる宝珠よ、フーム》(om mani hadome hm)。変身の起動命令(コマンドワード)が脳裏を駆けぬける。
- 励起された呪力(マントラ)が全身に満ちる。頬の烙印が激しく疼き、サーフは低い呻きをもらす。溢れる青い輝きが人の姿と心をいっとき溶かし去り、かわりにはるかに獰猛なもの、非情なもの、凶暴にして餓えた魂を浮上させてくる。
- 《ヴァルナ》は一回転して身軽く地上に降り立った。宝冠を思わせる頭を一振りし、指を動かして爪の先にまで漲る力の流れを感じる。
- 法と天則の司にして大いなる水の王、水天《ヴァルナ》。
- それがサーフに宿った悪魔(アートマ)の姿だ。人間のものではなくなった視界で、サーフはちらりとアジトの上を見あげた。
- 煙る雨をすかして、小さな黒髪の頭が動くのが見えた。気づかうようにこちらを見おろしていたが、アルジラにうながされたのか、すぐに見えなくなった。
- (──ばかばかしい)
- 《ヴァルナ》は牙を鳴らして唸り、身を低くして地を蹴った。
- 戦場に近づく前に爆炎が見えた。
- 崩れ落ちた建物の残骸の向こうから黒い塊が生き物のように膨れあがる。走りながら両腕の刃(ブレード)を展開したとたん、左右から、奇声とともに何物かが飛びかかってきた。
- 瞬時に両断しようとした腕が一瞬止まる。手首を返し、ブレードの背で一人を打ち払うのと、身をひねって強烈な蹴りを放つのはほぼ同時だった。呻き声とともに吹き飛ばされた敵はたちまち青い光に包まれ、下位(コモン)アートマの姿から人間に戻って倒れた。オレンジのペインティングのあるスーツ。〈エンブリオン〉の構成員だ。
- むき出しになった首筋から、黒い八本足の生き物がすべり降りて逃げ出そうとする。一閃で真っ二つになった蜘蛛は悲鳴とともに塵になって消えた。
- (まずい)
- このままでは被害が広がるばかりだ。サーフは走るスピードを上げた。
- 『はっはあ! ようやく来たねえ、親玉がさあ!』
- 戦いの場に飛びこんだサーフに、毒に満ちた声が吐きつけられた。
- 『遅いぞ、サーフ! 何をしていた』
- すでに戦闘に入っていたヒートが、構えは崩さずに叱咤の声をあげる。
- 『すまない。シエロが呼びに来てくれた。状況は、ゲイル』
- 『報告する。私とヒート、シエロの三名の指揮により捕虜の収監作業中、安全のため首謀者のザーダのみ隔離房に入れておいたところ、約三十五分前、突然周囲の構成員がいっせいに暴動を起こし、彼女を解放してわれわれとの戦闘状態に入った』
- ゲイルの声は落ちついていた。どんな状況でも、彼が動揺を見せることはない。サーフと同じくヒートとゲイルも、彼ら固有のアートマ態をとっている。
- 形態(タイプ)《アグニ》、すべてを浄化する炎の真紅の、双頭の神。形態(タイプ)《ヴァーユ》、碧の羽根を肩に翻し、気流を支配する風の神。それぞれが纏うパワーの気配に、肌がちりちりと総毛立つ。三人の上位(ハイ)アートマは背中を合わせて、周囲を取り囲む本来自分たちの部下であるはずの下位(コモン)アートマの群れを見わたした。
- 『おそらく監視につけておいた歩兵に操作ビットをとりつかせ、そこから汚染を広げていったものと思われる。拠点にビットが達する前に発見して幸いだった』
- 『ほとんど俺が焼いてやったからな』
- 不機嫌そうにヒートが言い、二つの頭の一つを回した。
- 『状況分析なんぞ沢山だ。どう攻める、あいつを?』
- かん高い笑い声を上げつづけるザーダに向かって顎を突きだす。
- それは偽りの上で狂笑を放つもの、瓦礫の山を凌駕するほどに膨張した腹部と胸部、それを支える節だらけの鉄柱めいた八脚の、鋼鉄色の怪物──形態(タイプ)《アルケニー》、女の頭部と上半身を持つ、巨大な化け蜘蛛だった。
- 『なぁによぉ……せっかくあたしの手下にしてあげようと思ったのにぃ……』
- わずかに人面のなごりを残した頭部がぐるりと回ってこちらを向く。鋭い牙の間から、涎めいた粘液が糸をひいてしたたり落ちた。
- 『でも、めんどくさいからもういいわ……あんたたち、要らない。みーんな、あたしのオヤツになっちゃいな、エンブリオン! きゃははははは!』
- のけぞって笑ったかと思うと、《アルケニー》は轟くような声で咆哮した。
- かっと開いた口から白い糸の束が噴出し、サーフたちに降りかかる。散開して直撃を逃れたサーフだったが、着地して体勢を立て直そうとしたとたん、背後から誰かにがっちりと肩をつかまれた。
- 『──!?』
- オレンジのペインティングをした構成員が、うつろな目をしてサーフの肩と脚をもたれるようにして押さえ込んでいる。
- 飛びだしかけたブレードをあやうく引き戻し、脾腹に拳を叩き込んで相手をはね飛ばす。倒れた部下から離れた蜘蛛をすばやく踏みつぶした。
- 次々と襲ってくる酸性糸の雨を身をよじって避ける。横腹を熱い感触がかすめる。太い足の先の爪の一撃が地面を穿ち、ばらばらと破片が頬を叩いた。転がって起きあがると、頭上で轟くザーダの笑い声が耳をつんざく。
- 離れたところで、ゲイルとヒートも同様な目にあっていた。まつわりつく味方を振り払いつつ、次々と吐きつけられる攻撃をかわしながら隙を狙うが、猛攻はとどまるところを知らなかった。《アルケニー》の固い甲殻と周囲を取り囲む操り人形のせいで、ダメージが本体まで通らないのだ。
- 『くそっ、面倒だ、みんな燃やしてやる』
- 業を煮やしたヒートが、両手のあいだに人の頭ほどもある火球を膨らませ始めた。
- サーフはぎょっとした。あんなものをここで放ったら、上位(ハイ)アートマであるサーフたちはともかく、構成員たちは全員再起不能になってしまう!
- 『待て、ヒート。その選択には賛成できない』
- しかしサーフが口を開く前に、冷静にゲイルが止めた。
- 『ここにいる構成員たちを全員失った場合、〈エンブリオン〉の戦力は約十五パーセント低下する。現在のジャンクヤードの勢力状況においては無視できない損失だ。通常時なら、損失分の兵員を補充することも可能だろうが、このアートマ化現象が蔓延している現状況では、人員のすみやかな補充が可能であるとは言い切れない。無意味な戦闘員の損耗はできるだけ抑えるべきだ』
- 『じゃあ、どうしろって言うんだ? 黙ってあの虫けら女の餌になれってのか!』
- 怒鳴り返して、ヒートは炎をまとった拳でかかってきた構成員を殴り飛ばした。《アルケニー》のひきつるような笑い声が響きわたる。
- 『アニキ──! ゲイル! ヒート──!』
- 空のかなたからせっぱ詰まった声が近づいてきた。
- 高速で飛来した青く鋭い翼を持つ者が、上空を大きく旋回する。《ディアウス》、空の支配者、シエロの化身する上位(ハイ)アートマ。
- 『来たか、シエロ! 拠点は?』
- 『だいじょぶ、姐さんがばっちりやってくれてる。あの娘(コ)もオッケー、安全無事! うわっ、なんだよまた増えてんじゃん……わっ、たったった』
- 地面に降りようとして操られた仲間にしがみつかれかけ、あわてて舞い上がる。
- 『あーもうおまえら何操られてんだよバカ! ちゅーか阿呆! だれに向かってンなことしてると思ってんだコラ。てめーら全員あとでまとめてお尻ペンペンだかんな!』
- ぎゃあぎゃあわめき散らしながらあたりを飛びまわるが、降りるタイミングがつかめない。高度を下げれば、四方八方からしがみつかれて地面に押さえつけられるのは明らかだ。ヒートが苛立ったように牙を噛み鳴らす。
- (とにかく、操られている構成員を一掃しなければ)
- ふと、頭の中でちかりと光るものがあった。サーフは決然と頭をあげた。
- 『ゲイル』
- 酸性糸の攻撃を避けながらゲイルに近づき、囁く。
- 『お前の《ヴァーユ》で、操られている構成員を吹き飛ばすことはできるか?』
- 『可能だ』即座に答えが返った。
- 『ただし、全員の動きを止めることは難しい。あくまで後退させることができるだけだ。これを機に《アルケニー》本体への攻撃に移るには効果の持続時間が短すぎる。排除対象者が前もって行動能力を奪われていれば話は別だが』
- 『わかった。シエロ!』
- 『なに、アニキ?』
- 《ディアウス》が地上の手の届かないぎりぎりのところまで降りてくる。
- 『おまえの電撃を、この周囲一帯に放て!』
- 『ええええ!? で、でも、そんなことしたらアニキたちにも当たっちゃうよ!?』
- シエロは困惑したようにぐるぐる飛びまわった。
- 『俺たちなら耐えられる、構うな! 操られている奴らを電撃で足止めして、ゲイルが突風でまとめて払いのける。邪魔がなくなったら、俺とヒートで討って出る。ヒート、ゲイル、お前たちもいいな?』
- 『……リスクは高いが効果的な戦術と判断する。了解した』
- 『いいだろう』舌打ちをまじえてヒートも頷いた。
- 『こっちもそれほどヤワじゃない。やれよ、シエロ。手加減無用だ』
- 『やれ、シエロ!』
- 空に向かってサーフは叫んだ。
- 『りょ、了解ッ!』
- 上空まで飛んできた糸をひらりと避けて、シエロは戦場を眼下に一望する高度にまで一気に上昇した。呼吸をはかるように滞空する。その身体にこまかな稲妻が走り、やがて、しだいに寄りあつまって、唸る紫色の雷電が虚空に渦を巻きはじめる。
- 『……よっしゃあ、行くぜェ! ごめんよブラザ────ズ!』
- 謝罪の言葉とともに、紫電の束が一千本の雷の槍に分かれて地上に降り注いだ。
- 一瞬、視界が白く煮えたぎった。
- 雷光の網が地上のあらゆるものを覆いつくし、数人の構成員がはじき飛ばされて転がった。残りの者たちは火花をあげる電流にからみつかれたまま硬直している。
- 『ゲイル!』
- 風がうなった。《ヴァーユ》の碧緑の羽根が広がり、オゾンの臭い漂う大気に轟音を上げる突風が駆けぬける。
- 不可視の鎚に一撃された人間は次々と地面に叩きつけられ、悶絶した。
- 『あ、……が──貴様、ら……』
- 雷が弾けて消える。立っているのは《ヴァルナ》、《アグニ》、《ヴァーユ》、そして雷電に動きを止められながらも牙を噛み鳴らしている《アルケニー》の四体のみ。
- 敵を守護する操り人形はもういない。
- 止めを。ヒートに目くばせして、ブレードを繰り出しつつ突進しようとしたサーフの膝が、突然がくりと崩れた。
- 全身が冷たくなる気がした。
- (──脚が)
- 雷撃の影響で脚の自由がきかない。
- ヒートも身体が自由にならないらしく、もがくようにしながら呪いの言葉を吐いている。
- すばやく他の仲間に目を走らせたが、《ヴァーユ》たるゲイルは先ほどの魔風を放ったのが影響したのか、すぐには立ち直れない様子で片膝をついている。上空のシエロは電撃を撃ったばかりで、直後に続けて二撃を出すことは不可能だ。サーフは歯を鳴らした。
- (どうする……!)
- 『サーフ!』
- つかの間の逡巡を打ち破った呼び声に、サーフは頭をあげた。
- 双頭の炎の化身、《アグニ》が、二つの頭の一つをこちらに向けて叫んでいる。
- 『サーフ、来い!』
- 両手を組み合わせて前に出し、身を低くして構えた《アグニ》の姿に、サーフはすぐさまその意図を理解した。
- ままにならない身体に鞭打って、走り出す。
- 『許さない。よくも……』
- 麻痺からさめた《アルケニー》が、ゆるゆると動き出している。
- 『──あんたたち全員、挽肉にしてやる!』
- 鋼鉄の鉤爪が振りおろされる瞬間、サーフは地を蹴った。
- 宙に浮いた《ヴァルナ》の足裏を《アグニ》の掌が受けとめる。うおっという咆哮とともに、《アグニ》は渾身の力で、《ヴァルナ》を空高く放り上げた。
- 追うように《アルケニー》がのけぞり、裂けた口をかっと開く。
- サーフは空中で背をのばし、大きく身をひねった。回転する《ヴァルナ》の両腕がはぜ割れ、二本の長大なブレードが宙に広がる。
- 死の翼を思わせる一対の切っ先を地上の敵に向け、サーフは錐揉みしながら、《アルケニー》の膨れあがった腹の背面にまっすぐ突っ込んでいった。
- 衝撃と金属的な絶叫、甲殻を突き破る刃の震動が全身をゆさぶる。
- 周囲にあふれる血と体液のなまぐささ。身体を包む生の肉の感触にどうしようもない嫌悪と痺れるような歓喜を二つながら感じつつ、サーフは、舌先に凝縮した呪力(マントラ)を一気に解きはなった。
- 絶叫が断ち切られたようにやんだ。
- しばし忘れられていた雨音が、また遠くからひたひたと押し寄せてきた。
- 《アグニ》はゆっくりと立ち上がり、変身を解いた。赤毛の青年の姿に戻ったヒートはうっとうしげに前髪を払い、動かなくなった敵を見つめた。同じく変身を解いたゲイルが近づき、無感動な目で周囲を観察する。
- 一個の氷の彫像となって、《アルケニー》は雨に打たれていた。
- 絶叫の表情もなまなましいその顔が、白い霜に飾られたデスマスクをさらしている。開いたままの口から、鋭くとがった氷の槍が突きだして雨に打たれている。うすい靄が、硬直したまま氷塊と化した異形の巨体を取り巻いていた。
- その表面に亀裂が走った。
- 次の瞬間、爆発するように破片がなだれ落ちた。崩れ落ちた氷塊のまん中に、両腕を交差させ、ブレードを逆立ててうずくまる《ヴァルナ》の姿が現れた。
- 青い光がまたたき、かわって人間の姿のサーフががくりと膝をつく。
- 立ちあがってよろめき、なかばから折れた敵の脚につかまって身体を支えた。荒い呼吸をしながら、頭上にそびえる氷塊に目をやる。
- (……やった、か)
- 『アニキ、すっげー!』
- 上空から《ディアウス》が急降下してきた。くるりと身を翻したかと思うと、空中でシエロの姿に戻って、そのままサーフの首に飛びつく。
- 「やったね、アニキ! 一撃必殺! さっすが、オレのアニキだぜ!」
- 「味方戦力の被害、軽傷十二、重傷三、死亡ゼロ。損耗率約八パーセント、ただし回復は可能。〈エンブリオン〉中核メンバーに、被害なし。敵ユニットの活動停止を確認」
- ゲイルが淡々と戦況分析を告げる。額の前を手で覆う指令動作(コマンドアクト)でシステム接続を切り、瞑目した。
- 「──戦闘、終了だ」
- 張りつめた気分が少しずつゆるんでくる。サーフは小さく息をつき、抱きついてくるシエロの肩を叩いて、仲間たちにねぎらいの言葉をかけようと視線をあげた。
- 瞬間、目の端に動くものが映った。
- 半分に砕けた《アルケニー》の顔がわなわなと震えている。
- 気づいたシエロが身をひねり、鋭く息を吸いこんだ。しがみつかれた形のサーフは身動きがとれない。氷の破片をこぼしながら、めきりと音を立てて悪魔の口が開いた。
- 炎が走り、シエロが声をあげて身を引いた。
- 半壊した頭部が炎に包まれた。
- 今度こそ《アルケニー》は断末魔の絶叫をあげた。
- 炎の中で蜘蛛の頭がずるりと解け、砕けた人間の顔に変わった。
- (『なんで……』)
- 見開いた目から涙のような血をこぼしつつ、裂けた唇が動いた。
- (『なんで──あたし、つよく、なった……つよく、なったのに……なんで……』)
- 音を立てて燃えあがった火がすべてを包みこんだ。
- (『なん……で──……』)
- 灰も残さず燃えつきる女の残骸を、サーフはただ茫然と見つめるしかなかった。
- 「ヒート、お前」
- 「だからお前は甘いというんだ、サーフ」
- 冷ややかにヒートは言った。《アグニ》化した腕を元に戻し、指先にまつわる炎のなごりをうるさげに払い落とす。
- 「あの時、さっさと喰ってしまっていればこんな事態は起こらなかった。今のジャンクヤードは喰うか喰われるかだ。味方でなければ、そいつは餌だ。油断すればたちまち土手っ腹を食い破られる。お前もそろそろわかっていると思っていたがな」
- 吐き捨てて、ヒートは背を向けた。
- 《アルケニー》の死骸の残り部分が積み重なった窪地へ足早に下っていく。ゲイルがちらりと視線をあわせ、無駄だというように頭を振った。シエロが半泣きの顔で見あげている。
- 「ご、ごめん、アニキ。オレ、つい調子に乗っちゃって──」
- 「……気にするな。お前のせいじゃない」
- ブルーのドレッド頭を軽くゆすってやる。うなだれたシエロをそっと押し離して、サーフは苦い思いを噛みしめた。
- そうだ、シエロのせいではない。ヒートの言うことは正しい。ザーダの投降を受け入れたのがリーダーである自分の判断だった以上、その責めはサーフ自身が負わねばならない。これは明らかな判断ミスだ。
- しかし、味方でないものはすべて餌だというヒートの言葉には、どうしても素直に頷くことができない。ザーダと自分たちとの間に、いったいどれほどの違いがあるのかという考えを、どうしてもサーフは頭から追いはらうことができなかった。
- 殺した相手を喰らって力に変え、生き延びるのならば、ザーダもサーフも変わりはしない。彼女も人だった。生きていた。遅い来る餓えも、死への恐怖も、ひとしく持っていた。
- 一方は死に、一方は残った。ただ、それだけのことだ──。
- シエロがゆらりと歩き出した。背を丸め、低い唸りを漏らしている。
- いつもとははっきり違う、流れるような足取りで歩を進める後ろ姿が、再び《ディアウス》に変化する。陽気な空の舞い手はもうそこにはいない。餓えにかられた一匹の獣が、餌場へと牙を噛み鳴らしながら地上を滑っていく。
- ゲイルもまた、《ヴァーユ》に姿を変えて無言でそばを通りすぎていった。自分の耳ざわりな呼吸音をサーフは意識した。鉄錆の味が口に広がる。
- (「わたしも、一緒に食べてもいい?」)
- (「おいしい。固いけど、噛んでると甘くなるのね……」)
- 脳裏にはっきりと浮かびあがった、黒髪の娘──セラの瞳に、サーフは低い呻きを漏らして目を閉じた。こんな時になぜ、あの娘の目が頭をよぎるのだ。
- (「知らない? キャンディみたいなものよ、お砂糖とクリームを煮つめて……」)
- 身体の中の獣が吠えている。
- 『甘い』という言葉に感じるのは、もはや獲物からほとばしる熱い血と肉の甘さしかない。自分はすでに人間ではない。たどり着くべき楽園(ニルヴァーナ)がどのような場所か想像しようとしても、見えるのはただ鮮血に満ちた闇ばかりだ。
- 死者たちの雨がまだ止まない。
- 溶け始めた血溜まりのそばで待つ仲間にむかって足を踏み出しながら、サーフは、これから自分たちがする行為を少なくともあの娘は目にせずにすむのだと考え、かすかな、苦い安堵を覚えた。
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