Advertisement
Not a member of Pastebin yet?
Sign Up,
it unlocks many cool features!
- 第十一章『忘れ得ぬもの』前編
- 1
- 特大の津波を前にすれば、小石が生んだ程度の波紋は掻き消される。あちらに害意がなかろうと、存在の格が違いすぎれば共存などできはしない。
- 根から悉くを塗り替えられ、押し寄せる巨大な価値観に染め上げられてしまうのだ。このとき我々を襲った現象はまさにそれで、自我のすべてが消え去ろうとしていた瞬間、意外な“声”が割り入った。
- 「――御免」
- すでに五感のほとんどが意味を無くしていたにも拘わらず、彼の言葉ははっきりと耳に届いた。次いで成された行動も、肌で余さず察せられる。
- 不思議だったが、そこに心を割く余裕はなかった。結果として我々は、翻弄される形で彼に身を委ねるしかなく――
- 「ひとまず退きます。叱責ならばその後に」
- ムンサラート――かつては勇者に臣従し、今は第四位魔王の執事を務める男が螺旋回廊をノコギリの一撃で砕き割った。いきなり足場を失った私たちは重力に囚われて、果てのない奈落の底へと墜ちていく。
- それが時間にしてどれだけの空白を生んだかは不明なまま……だけど定かならぬこの狭間に、私は一つの記憶を見た。
- 自分ではない誰かの想い。しかし他人とも思えぬ親近感が湧き起こる。
- と、て、も、私、に、馴、染、む、彼、女、。
- あるいはこれこそ、クインという存在の始まりに関わるものかもしれない。
- ◇ ◇ ◇
- 「申し訳ありません、申し訳ありません! すべて私の落ち度です、“彼女”を止められませんでした」
- その女性は地に額を擦りつけ、誠心誠意の詫び言を述べていた。同調した私の意識に流れてくるのは恐怖に近い感情だったが、保身の気持ちは皆無と言える。
- “使命を果たせなかった”という強い後悔と恥の念。そこから予想される未来の暗さに恐れを抱き、だから彼女は謝罪している。
- いいや、どんなに詫びても許されるものではないと、すでに死すら覚悟していた。
- 「どうかお斬り捨てください。私の命ごときで贖える罪ではありませんが、事が漏れれば一大事。必ずや、皆様方の結束に亀裂を生む不義となります」
- 「確かに。だが今さら、そなたを斬って済む問題ではない」
- 「ですが――」
- 「くどいぞ、殺さんと言ったのだ。罰を求めるなら己に何ができるのかを考えろ。ここでそなたに死なれるのも、やはり混乱を生むだけというのがなぜ分からん」
- 掛けられる男性の声は厳めしく冷徹で、耐えがたい痛みを噛みしめ続けているような響きだった。この気配には覚えがある。
- 「私は夢を叶えたいのだ。守らねばならん理想のために、同胞の誰一人として泣かせはしない。如何なる陰りも入り込まぬ完全無欠の大団円とはそうしたもので、そなたにはその片棒を担いでもらう」
- 「つまり……何もなかったことにせよと仰る?」
- 「顔を上げよ」
- 言われ、女性は恐る恐るといった風に従った。同時に彼女の目を通し、私も男性の容姿を視界に捉える。
- 「そなたは私と夫婦めおとになるのだ。もはやそれしかあるまいよ」
- 「スィリオス様……」
- そこにいたのは誰あろう、聖王ご本人に他ならなかった。私が知る姿よりも随分と若い、二十歳かそこらの若者だったが、重く沈んだ灰色の瞳は間違いなく彼だと分かる。
- 以前夢に見たスィリオス様は一点の曇りもない笑顔を浮かべていらしたのに、まるで別人の様相だ。年齢から推し量るにこちらのほうが時系列は先のはずで、だからこそ不可解な気持ちが募る。
- 王はあの笑顔の裏で、すでに闇を抱えていたというのか。ワルフラーン様とナーキッド様に関係を揶揄された女性とは、いま私が同調している人物で、二人の間にいったい何があったのだろう。そしてこの出来事が、自分にどう関係する?
- 疑問が止め処なく湧き上がる中、物語は無慈悲に回る歯車のごとく進んでいった。
- 「私は個人を愛せない。愛せる立場ではないためだが、そなたを守ることが夢の成就に繋がるのなら守り抜こう。誓って二度と泣かせはせん」
- 「……よろしいので?」
- 「それはむしろこちらの台詞だ。そなたに不服はないのかな? 私が伴侶で構わぬか?」
- 問いに女性は再び深く頭こうべを垂れて、熱い涙と共に呟いた。
- 「不服など、滅相もありません。これほどの救いはなく、今度こそご期待に応えられるよう、心から務めさせていただきます」
- 「泣かせんと言ったぞ。いきなり私を困らせるな」
- 膝をついたスィリオス様は、女性の肩を抱いて語りかける。
- 重く、厳しく……悲壮なる覚悟が滲んだ胸を締め付けられるほど優しい声で。
- 「すべて勝利は勇者のために。私もそなたも、ワルフラーンに振り回されるのが運命だったというだけの話だ」
- そっと彼女の名を呼ぶも、私は聞き取ることができなかった。
- ◇ ◇ ◇
- 「――クイン様」
- そして束の間の幻が終わり、現実に返ってきた私の目が捉えたものは、こちらを見下ろす殺人鬼の顔だった。
- 「ご無事で何より。状況の説明は必要ですか?」
- 「……いえ。だいたいのところは覚えています」
- 予期せぬ形でお父様と遭遇し、壊乱状態に陥った我々を彼が救った。かなり乱暴なやり方ではあったものの、ムンサラートの助けがなければどうなっていたかを考えると文句をつける筋でもない。戦士ヤザタとして魔将ダエーワに借りを作った不覚はもちろん恥じているのだが、それよりも気になるのは先の夢。
- あれはいったい誰の想いで、どういう意味があったのだろう。このタイミングで彼女の記憶を拾ってしまった因果が分からず、客観的には支離滅裂と言うしかない。
- だというのに、私はどこか当然のように受け止めていた。理屈立てて説明するのは不可能だけど、一見すると何の繋がりもない夢と現実いまに奇妙な符号を感じている。
- 「お嬢様、お起きください。お嬢様」
- かつてワルフラーン様と関わりを持っていたムンサラートのせいだろうか。ともあれ謎を解き明かすにはこの局面を乗り切らねばならず、そのためにはお父様の攻略が不可避なのは間違いなかった。
- 「しかし驚きましたね。クワルナフお兄様とは過去にも対面していましたが、あれほど外れた感じではありませんでした。これはどういうことなのでしょう」
- 「会合ガーサーの最中は殺し合いが不可能だと伺っております。その実態は不明ながらも、ある種の抑止力が場に働いていたと考えれば、印象の食い違いも有り得る話ではないでしょうか」
- 「つまりわたしが知るお兄様は、本来のお兄様じゃなかったという意味かしら?」
- 「おそらく。他に考えられるケースを挙げさせていただくと、この短期間にクワルナフが変化した可能性も存在します。何せつい先ほどまでバフラヴァーンと交戦していたはずですから、そこにどんな異常が起きたとしても不思議はないかと」
- 「うーん、納得できる話ですが困りましたね。相手があれではまともに向き合うのもままなりませんし、こちらの数は減ってしまいましたし」
- 嘆息したフレデリカは困った顔で周囲を見回す。我々がいる場所は開けたホールのような空間で、当初の面子は全員そろっていたものの、意識があるのは私とフレデリカとムンサラートしかいない。
- メイドの少女たちは誰一人として目を覚まさなかった。外傷はなく心臓も動いていたが、いわゆる植物状態と化している。原因がお父様との接触にあるのは、もはや言うまでもないだろう。
- 「お兄様は追って来るかしら?」
- 「さて。一応かなりの距離は取りましたが、撒いたと楽観はできますまい。何せこの星自体がクワルナフの肉体ですから、位置の特定はもちろん瞬間移動も容易いはずです」
- 「でも一向に現れませんね。あなたはどう思いますか、クイン」
- 話を振られた私は、しばし考えてから問いに答えた。
- 「私の知るお父様は、理屈と計算の権化でした。義者アシャワンとして認めがたい点は多々ありますが、おおよそにおいて筋の通った振る舞いを徹底するタイプでしょう。よって裏を返せば読みやすいと、以前は考えていたのですけど……」
- 言いつつ、先の邂逅を思い出す。あれは本当に、あの破滅工房だったのだろうか。
- 確かに桁の外れた存在感。次元の違う“何か”だというのは強く感じた。なるほど第一位魔王の座に相応しい、弩級の脅威である点に疑いはない。
- が、単にそれで済む話なのか? 私は父の在り方に、強い違和感を覚えている。
- 「彼は己を見失っているように思えました。実際に鉢合わせるまで誰も察知できなかったことからしても、無意識に近い状態なのは高確率で有り得ます。ならば行動の予測は不可能ですし、我々を放ったまま当て所なく彷徨い続けるだけかもしれません」
- 「なんだか自信なさげですね。確率が高いと言うのなら、もっと断定してもよいのでは?」
- 「そんな、無理を言わないでください」
- 呑気なフレデリカの注文に、私は激しくかぶりを振った。
- 「あくまで推測の域を出ませんし、何よりもあれは理解を超えたところがある。率直な話、計りかねるというのが本音になります」
- だが、だからこそ見逃せない事実も一つあった。私はフレデリカをいなしつつ、黒衣の執事へと目を移す。
- 「ムンサラート……あなたはなぜ、あのときまともに動けたのですか?」
- お父様にはこちらの常識が通じない。遭遇しただけで廃人になりかけるほど絶した存在を前にしながら、どうしてこの男は冷静に立ち回れたのだろう。
- 「ふむ、言われてみれば不思議ですね。どうしてかしら、ムンサラート?」
- 私を援護する形で重ねられた主人の問いに、彼は相変わらずの生真面目な顔で返答した。
- 「お嬢様ならご存知のはずでしょう。私はほぼ盲めしいですから、クワルナフの外見に惑わされなかったというだけです」
- と、眼鏡を示すように押し上げる。さらりと言われたその真実に、私は驚きを禁じ得なかった。
- 「ああ、そういえばそうでしたわね。わたしとしたことが、うっかり忘れていましたわ。何せあなたときたら、全然そんな風には見えませんし」
- 「ちょっと待ってください」
- ムンサラートはほとんど目が見えていないだって? それが事実ならまったくハンデを感じさせぬ振る舞いは凄いと思うが、そもそもなぜと疑問が湧く。
- 彼は不死身の殺人鬼で、強い我力を持つ特級の魔将ダエーワだ。視覚障害を患うなんて、人間じみた苦労はあまりに不釣り合いだと感じてしまう。
- 「なぜ治さないのですか? あなたなら簡単にできるはずでしょう」
- 「確かにただの怪我や病、あるいは生来のものならどうとでもなりますがね」
- 私の指摘にムンサラートは頷くが、否定のための肯定なのは明らかだった。次いで静かに、彼は真相の説明を始める。
- 「これは戒律に関わる不具なのですよ、クイン様。先ほどあなたに教えた通り、未来を見る力の代償ですから如何ともしがたい」
- 「戒律? しかしそれは」
- 「ええ、ワルフラーン殿に持っていかれたと話しましたね。ゆえに縛りとしてはとうに意味を無くしていますが、部分的に残ったところもあるというだけ。以前は全盲でしたから、これでも随分とマシになったくらいなのです」
- 理解いただけましたかと結ぶ彼に、私は二の句を継げなかった。納得したわけじゃなく、さらに疑問が湧いてきたから考え込んでしまったのだ。
- おかしなところは、大きく二つ。
- まず目が悪いだけで回避できるほど、お父様の魔貌が甘いものとは思えない。あれはもっと深い部分、言うなれば魂の芯を揺さぶるような概念で、見なければいいなんて次元はとっくに超えているだろう。
- よって対抗策など見当もつかなかったのだが、ムンサラートの話を聞いて私は一つの仮説を思い付いた。
- 極めて単純な力量、格による相殺現象。あのときフレデリカすら木偶になりかけた事実を鑑みれば、ムンサラートが自力で抗った可能性はないものと判断していた。けどそこにワルフラーン様が絡むとなれば話は違う。
- この殺人鬼は、未だ勇者の影響下にあるのではないか? 失ったはずの戒律に縛られた面が残っているのはそのためで、だからお父様と対峙しても正気を保てた。
- そう考えれば理屈が通る。でもそうなると、根本的なところで辻褄が合わない。
- ワルフラーン様は死んだのに。もういない人の鼓動を感じてしまうのは、いったいなぜ?
- 「じゃあ命令です、ムンサラート。あなたは同調とか、その手の真似ができましたよね。それを使って、私たちの感覚をあなたのものに合わせなさい」
- 「無茶を仰る。が、主命とあればやってみましょう」
- 私が考え込んでいる間に、殺人鬼の主従はそんなやり取りを交わしていた。お父様の容姿に惑わされない彼と視点を共有できれば、確かに起死回生も起こり得るけど……
- 「よろしいですか、クイン様」
- 「……ええ、お願いします」
- 結局私は、胸の内を明かさないままフレデリカの案に従った。現実問題としてそうするしかなさそうだったし、ムンサラートの見ている世界を体験すれば疑問が解ける可能性も高い。
- 「でしたらお二人とも、そこに立ってください」
- 言われるまま肩を並べた私とフレデリカの眼前に手を翳し、ムンサラートは囁いた。
- 「断っておきますが、本当にほとんど何も見えませんよ。いくらお嬢様でも慣れるまでは大変でしょうし、クイン様は義者アシャワンだ。私と重なれば強い嫌悪と苦痛に苛まれるはず」
- 「構いません、やってください」
- 「過保護ですわよムンサラート。女がやれと言ったのだから黙っておやりなさい」
- 傲然と胸を張って命じると、フレデリカは目を閉じた。私もまた彼女に倣って瞼を下ろし、闇の中へと入っていく。
- 魔将ダエーワとの視点同調――それが自分の機能に負荷を与えるのは明白で、ある種の拒絶反応が起きる流れは避けられまい。
- だが耐えてみせる。その果てに掴める何かがあると信じて、もとより危険は覚悟の上だ。
- マグサリオンの状況を思えばこそ、ここで私が二の足を踏んでいいはずもなかった。
- 「では――」
- ムンサラートの手が額に当てられたのを感じ取る。そして徐々に、徐々にだが、閉じた瞼の裏に奇妙な景色が広がり始める。
- 血と断末魔と怨嗟が溶け合って渦巻くような、殺人鬼の手に掛かった人々の苦悶が私の中に流れ込んできた。同調にはまず、世界観の共有が必要なためだろう。善悪いろが違う我々は、最初にこうした手順を踏まねばならない。
- つまり、これまだ序の口以前だ。言うまでもなく不快極まりなかったが、この程度は予測の範疇。刹那の内にムンサラートの人生を追体験し、決定的な瞬間へと私は備える。
- 悪逆無比な殺人鬼が転機を迎えた日の記憶……それはワルフラーン様に敗れたときだと確信して、だけど押し寄せる血の海が過ぎた先に現れたものは――
- 『おまえに私の未来は見えないだろう』
- 淡く、眩しく、揺らめくような、誰とも知れぬ“剣”のごとき輪郭だった。
- 『なぜなら私に先はない。今も、過去も、すべて変わらん。同じことしかやっていない』
- その存在を前にして、当時のムンサラートが何を思ったのか朧げながら感じ取る。
- 戸惑い、怒り、恐怖、悔しさ……甘い絶望が描き出す、得も言われぬ敗北感。
- 人の未来を読み、運命を司ると謳いあげ、死神のごとき所業に溺れるだけだった殺人鬼は、この日絶対的なモノと出会った。
- 『しかしもう、勇者を生むのに飽きてしまった。おまえ、私を殺したいならその役に立ってはくれんか』
- 私にとっては意味の分からない要望に、ムンサラートは二つ返事で跪いた。
- あなたに従う。あなたに尽す。あなたが本懐を遂げられるよう、すべてを擲なげうち殉ずるのが我が定めと、隷属の戒律を自らに刻み付ける。
- 『私の自滅に付き合ってくれる漢ならば……あるいは、いや、詮無い夢かな』
- 依然としてこれが何者なのかは不明なまま。けれど星のように瞬く金と銀の双眸が、二元の宇宙を体現する天秤めいて密やかに、儚くも麗しく輝いていた。
- そこになぜか郷愁を覚えた次の瞬間、不意に眼前の光景は断ち切られる。
- 「――ぁ」
- 背中に走った謎の痛み。衝撃自体は軽かったが、運動機能の中枢に異常が生じて私はその場に倒れ込んだ。
- 何者かに刺されたのだと分かり、同時に解せない気持ちが湧き起こる。だって今の襲撃は、まるで私の構造を知り尽くしているみたいな手際の良さで……
- 「エルナーズ、何をしている!」
- ムンサラートの怒声が聞こえた。彼がこれほど狼狽を露わにしたのは知る限り初めてで、ならば私を襲ったのはメイドの少女? でも彼女たちは動けなかったはずなのに、何が起きた?
- 「悪趣味ですわね。こちらの準備はまだ終わっていませんのに……仕方ない。やりますか」
- 「御意、こうなっては手遅れでしょう。せめて解放してやるのが慈悲というもの」
- 私は俯せに倒れたまま、状況を確認するために目を開いた。ムンサラートの処置は中断されてしまったが、半端なりにも多少の効果はあったのだろう。そこに広がるのは地に伏す自分の視界じゃなく、彼の視点に則る世界だった。
- 事前に申告していた通り、著しく視力は低い。濃い暗幕が全体を覆った様は夜の嵐さながらで、その中に薄っすらと浮かんで見える幾つかのシルエット。
- ――いいや違う、それだけじゃない。
- メイドの少女たちと思しき影の向こうに、明らかな異物がいた。この暗く閉ざされた視界の中でも光を放つ、■■すぎる隻影は……
- 「おまえ、知っているぞ」
- 茫洋と揺蕩いながら、だけど狂おしく乞い求めるように手を伸ばす。
- 以前までの私なら聞き取ることは不可能だっただろう、ま、だ、そ、の、段、階、に、達、し、て、い、な、い、か、ら、解、せ、な、か、っ、た、は、ず、の、概、念、を、、言葉に変えて――
- 「神剣だな」
- お父様は呪うがごとく、私をそう呼んだのだ。
- 2
- すでに戦場は灼熱を通り越した領域に突入していた。
- 無尽の体力を持つ男と無双の殺意を持つ男。共に敵が強ければ強いほど覚醒し続ける者同士、発生する相乗効果は両者の激突を果てしない暴凶の宴に変えていく。
- マグサリオンの刺突がバフラヴァーンの腹を抉り、飛蝗の剛拳が黒騎士の側頭部に叩き込まれた。どちらも必殺の一撃であり、加減や様子見の意図は微塵もない。そしてどちらもまともに食らったはずなのに、止まるどころか動きが鈍ることさえなかった。
- 肉が裂かれて骨は断たれ、内臓が潰れる死闘の音。そこに歓喜の笑い声と憤怒の咆哮が時に混じるも、悲鳴の類だけは聞こえてこない。正確に言うと、ソレは泣き叫ぶことすら許されていなかった。
- マグサリオンの鎧である。とうに耐久の限界を超え、塵となって消え果てたいのに異常な主が許してくれない。バフラヴァーンの拳を受けるたび、許容不能な怨念を流し込まれて無理矢理形を保たされている。本来なら魔王の攻めを防げる強度など持ち得ぬはずが、まだだもっとだ喰らい続けろと地獄の責め苦を科されていた。
- 生物でいう胃にあたる部分はもはや破裂どころか跡形もなく、にも拘わらず押し寄せる殺意の津波をどう受け止めればいいのだろう。一向に終わりが見えぬ苦しみの中で、“彼女”は自分が何なのかも分からなくなり始めていた。
- そう、きっとこの忘却こそが救済だ。消えることが許されないなら、自他の境を溶かせばいい。私が私でなくなる代わりにすべての痛みは解き放たれて、あなたの憎悪と混ざり合う。果てに誰でもない誰かとして、永遠とこしえに殺戮の荒野を歩きましょう。
- ああだから――ど、う、か、私、を、食、べ、て、く、だ、さ、い、。
- あなたの祈りはまるで不変なる■のようで、その一部と化すのが私の定めと知りました。
- 物言わぬ器物すら狂気に堕とすマグサリオン。バフラヴァーンとの戦いにより過去最高の激しさで酷使された孔雀王マラク・タウスが、ついに致命的な変質を開始した。
- よって戦況もまた、激変する。
- 「――ぬ?」
- その違和感にバフラヴァーンはいち早く気が付いた。具体的に説明するのは難しかったが、殴りつけた手ごたえが先ほどまでと明らかに異なる。
- 固体を打ったという感じがまったくしない。液体? 気体? いいや違う。これはもっと茫漠とした、しかし決して揺るがぬ“概念”のような――
- 「死ね」
- 凍える黒い声と共に、跳ね上がった剣閃がバフラヴァーンの胸を裂いた。鋭く、惨く、我力の鎧を断ち割ってこれまでにない深手を負わせる。
- だが無論、そこで怯む飛蝗ではなかった。間を置かず返礼の拳が唸りをあげるが、命中と同時に伝わってくるのはやはり奇妙なあの手ごたえ。
- これは砕く壊すといった次元で対処すべきモノに非ず。誰よりも戦いの経験を積み上げているバフラヴァーンはそう悟り、だからこそ歯を剥いて豪笑した。
- 「それがどうした、ぶち壊してやる!」
- 「貴様が消えろ」
- 交差する拳と剣――燃え上がる両者の覇気が爆裂する衝撃波と化し、彼らを同時に弾き飛ばした。
- 結果を見れば相打ち。そして負傷の度合いは腕を縦に割られたバフラヴァーンのほうが重く見え、マグサリオンは血の一滴も流していない。
- が、実際はどうだったのか。嬉しげに喉を鳴らして仁王立ちする前者に対し、後者は膝をついたまま不審な様子で周囲に視線を巡らせていた。まるで予期せぬ第三者からの攻撃を受けたかのように、兜越しの表情は不明ながらも確かな困惑の気配がある。
- 「おまえに何が起きたのかは知らんが、まだ“成りかけ”だな。少なくとも今は、狭い範囲でしかものを見ることができんらしい」
- 嘯き、顔の横に掲げた拳を強く握りしめるバフラヴァーン。負傷を癒すのではなく、筋肉の収縮で強引に傷口を塞いでから含み笑い、マグサリオンの練度不足を指摘した。
- 「意識の外から攻められるのは初めてか? 隙をねじ込む真似なら俺にもできるぞ。まあもっとも――」
- 言葉尻を宙に浮かし、次の刹那にバフラヴァーンの巨体が跳ねた。
- 「理屈はさっぱり分からんがなァ!」
- 空を打ち砕いて迫る右の拳。即座に立ち上がって迎撃しようとしたマグサリオンは、しかしそのとき真横から殴られた。
- 「――ッ!?」
- 逆流する血反吐に視界が歪む。警戒網をすり抜けられたがゆえの直撃で、曰く成りかけの肉体が危険な域の軋みをあげた。
- フェイント? 否。空間跳躍? それも違う。証拠にバフラヴァーンの右拳は変わらず正面から迫っており、文字通りの横槍で構えを崩されたマグサリオンはそちらもまともに受けてしまった。
- 如何に特殊な戒律と精神性で捌き続けてきたといっても、ひとたび手を誤れば圧倒的な地力の差を露呈する。魔王の暴力に呑まれたが最後、命尽きるまで脱することは敵わない。
- 怒涛のごとく連続する星砕きの拳足が、まさに無尽の体力でマグサリオンに襲い掛かった。あらゆる角度から休みなく、凶気の剣士を打って打って打ち据える。
- 「ははは、まだ壊れんのか。――面白い、面白いぞ! おまえのような奴は初めてだ!」
- 攻めの悉くが死角を衝いていながらも、バフラヴァーンに不意打ちの意図はまったくなかった。まして伏兵を忍ばせていたというのも当然違う。
- 彼はあくまで彼のまま、己一人で戦っている。勝負は尋常に向き合ってやるものだと戒律ほこりに懸けて誓っており、ゆえに姑息な手段は選ぶどころか思い付きさえしない。
- だが稀に、本当に稀なことだがこうした不思議が発生するのだ。
- それを見ながら生きている者は、マグサリオンを除けばザリチェードにタルヴィード。加えてナダレとクワルナフ。
- つまり非常に伯仲した実力の持ち主か、近い性質の者と戦ったとき限定だった。その意味するところが何なのかは、当のバフラヴァーンにも分かっていない。
- ただ事実として、起きる現象は知っていた。
- 一発殴っただけのはずが、二発三発と勝手に続く。そ、し、て、な、ぜ、か、自、分、も、傷、つ、く、。
- まるでそう、複数のバフラヴァーンが乱戦をしているかのように。
- 暴窮飛蝗――。
- 名の元になった恐るべき虫の群れを、古来人は蝗の災害と呼んで忌み恐れた。しかしそれは常に発生するわけでもなく、特定の条件下で成立する“変異”の類と言っていい。
- 自分とよく似た同種の存在と出会ったとき、爆発的に増殖する群生相。言わば魔性の形態へと切り替わり、群れ成す飛蝗は目につく餌を喰らい尽すまで止まらない。
- つまりこれがバフラヴァーンの秘密であり、彼自身も無自覚な真の戒律だった。己の生き様を真我カミに誓うのは意識して行う場合がほとんどだが、中には深層心理で勝手に縛りを課すケースもある。
- 後者は無意識ゆえに深く強い。赤子のときから自分の在処を知っていたバフラヴァーンが、原初に誓った祈りは実に単純明快だ。
- 俺は最後に残った俺とも戦う。断じて孤独など恐れはしないと――
- 結果、バフラヴァーンが同種と認めた敵と対峙したとき、群生相が発現する。それは彼の夢が成就して、宇宙にただ一人となったときの予行演習じみたものなのだろう。
- 俺はおまえだ。おまえも俺だ。ならば戦やろう、どちらが強いか証明してやる。
- 有り体に言うならば、二重三重にバフラヴァーンが現れる分身の技だった。同じ強度、同じ性質、同じ力量を持った正真正銘の本物同士が、最強の座を掴むために全力で殺し合うバトルロイヤル。こんな出鱈目に巻き込まれたらどうなるかは明白で、しかも今回の群生は過去の如何なるときをも凌駕している。
- クワルナフやナダレでさえ、バフラヴァーンの戒律を正確に把握することはできなかった。彼らと戦ったときは分身体が視認できるほど具現化せず、手数が不自然に増える程度の理解しか得ていない。
- だが今は、傍目に完全な形で群生が現れていた。
- 気付いてないのはバフラヴァーン“たち”のみで、実際は四人のバフラヴァーンがマグサリオンを囲んだまま本気の殺し合いを展開している。
- 確かに不意打ちではなく、多勢に無勢とも言いがたい。どのバフラヴァーンも自分が天下に一人だと思っており、熱く我力と夢を燃やして勇往邁進の境地にあるだけ。
- とはいえ実状を見ると乱戦以外の何ものでもなく、マグサリオンは暴窮の渦に全身残らず呑み込まれていた。凶戦士の眼がどれだけ死線を見切ろうと、この凄まじすぎる戦力を打倒する手がはたしてあるのか。
- 「どうした、おまえはそんなものか!」
- 「違うだろう、俺の想像を超えてみろ!」
- 「その上でなお打ち砕く!」
- 「さらに強くなる俺に尽せ!」
- 「俺が」「俺が」「俺が」「俺こそが――」
- 己自身の血飛沫を満身に浴び合いながら、呵々大笑して吠え猛る暴窮飛蝗。
- 「「「「最強の座を掴むと知れェッ!」」」」
- マグサリオンの手足は砕け、胴は不自然にねじ曲がり、頭蓋は幾重にも陥没してもはや原形を留めていない。
- しかし未だに倒れなかった。剣を握って放さぬまま、嵐の中に立っている。
- 「兄者……」
- そして譫言うわごとのように朦朧と、死の狭間にあって呟くのだ。
- 「あんたの心臓の、音が聞こえる」
- 3
- 飛蝗の暴威が吹き荒れる地からほど近い場所にあるその領域は、驚くほど整然とした様相を保っていた。一見すると有り得ぬ奇跡に映るものの、真相は別に難しくない。主座を務める二人の王が、共にバフラヴァーンを無視していたというだけである。
- 「なあスィリオスよ、おまえがよく言うワルフラーンとやらについてなんだが」
- 事実、カイホスルーは美貌に薄く刻んだ笑みを崩さず、気楽な調子で世間話に興じていた。彼の寵姫を含む両陣営の部下たちは、当然そこまでの開き直りをできずにいたが、だからといって特に問題は起きていない。
- 王の心に乱れがなければこの領域は守られる。最上位者の意向が全体の性質として機能するのは道理と言え、何もおかしなことではなかった。
- 「俺はそいつを知らんので、よければ教えてもらいたい。おまえが随分惚れ込んでいる様子の勇者とは、いったいどんな男だった?」
- 「私の口から聞かせたところで、あれの本質は一分たりとも掴めまい。武技、人品、共に形容できぬ域にあったのは言うまでもないが、強いて傑出したところを挙げるなら視点が違った」
- 「ほう?」
- 重い口調で問いに答えたスィリオスは、カイホスルーに促されるまま勇者の特徴を語り始めた。それはもしかすると、ここに列する全員へ聞かせる意図があったのかもしれない。
- 「誰もが真我アヴェスターに囚われて、戦のための戦にのみ明け暮れていた。口では勝利や平和を謳いながらも、具体的に思い描いた者はおるまいよ。事実奴と会うまでは、この私とてそうだった」
- 「が、ワルフラーンは違ったと」
- 「あれは戦後を、勝った後を見据えていたのだ。……いや、本当の勝利とは何なのかとな。思えば奴の戒律は、そこを見極めるためにあったのかもしれん。勝利は前提、ゆえに意味と価値を問い続け、追い続ける道を課したのなら、我々とは見ている景色が違うのも道理」
- 「ふふん、確かに面白そうな男だな。しかし先を見ているのは俺も同じで、さらに言うなら年季はずっと入っているぞ」
- 揶揄の体裁を取りながらも対抗する同盟者に、スィリオスはぞんざいな溜息を返した。
- 「その手の議論をするつもりはない。私の印象など当てにならんと言ったはずだぞ」
- 「まあな。覇道は等しく唯一無二。たとえ共感ができても、共存はできん定めだ」
- そんな王と王のやり取りを、ロクサーヌは苦笑しながら見つめていた。
- 本当に見事なほど外部の状況に無関心で、クインたちに同情すらしてしまう。一度方針を決定したら後は成るのみと確信しているのだろうが、もう少しフォローがあっても罰は当たるまいにと考える。
- カイホスルーの傍らで、焦りに身を震わせるアルマが憐れでならなかった。本音は今すぐこの場を飛び出し、仲間の救援に駆けつけたくて堪らないはず。だがそうするとスィリオスを守る戦士ヤザタが不在となるため、思い切った行動を取れずにいる。
- “何を信じたらいいのか分からないのはつらいわね”
- そう心中で呟くと、ロクサーヌは亜麻色の髪を掻き揚げた。可愛い末の妹が苦しんでいるのだし、せめて私くらいは一緒に心配してあげねばならない。
- と殊勝に考え、外の成り行きに思いを馳せる彼女の顔は、まるで蟻の行列をつついて遊ぶ子供のように無邪気で残酷な微笑を湛えていた。
- 「でさあ、あたしは思うわけよ。難しいことを難しい感じにしか話せない奴のほうが、よっぽどアタマ悪ぃんじゃねえかって。おまえもそう思うだろ? なあ、なあなあ」
- 騒々しく呼ばわる声を無視したまま、フェルドウスは沈黙を保っていた。傍らで益体もない話を繰り返すサムルークと彼の役目は、敵が議場に侵入するのを防ぐ警護というもの。
- 無論、それが名目以上の意味しか持たないのは承知していた。二人にこの任を任せたのはスィリオスだが、あの王が守ってほしがっているはずもなく、またその必要があるとも思えない。つまるところ自分たちは、体よく追い出されたのだと理解している。
- が、にも拘わらず従ったのは、無意味とまで考えなかったせいだ。
- 「ところでよ、さっきからあっちの方がすげえ荒れてっけど、行かなくていいのか?」
- 「あっちはあっちだ。僕らには僕らの客が来る」
- 「ふーん?」
- 現状、彼らはカイホスルーの結界とも言うべき領域の、ぎりぎり内側に立っていた。よってマグサリオンとバフラヴァーンの戦闘が奇妙に遠く聞こえるし、余波もここには飛んでこない。しかし時が来たならば、外に出て同じ血風に巻かれるのは確実で……きっともうすぐそうなって……
- 「まあいいや。おまえ色々と物知りみたいだし、基本的にゃあ任せるよ。たださあ」
- 長身を屈めて覗き込んできたサムルークと、至近距離で目が合った。その瞳の色、虚無を思わせるほど無垢で澄んだ輝きに、フェルドウスの胸は締め付けらる。
- 「名前くらい教えてくれよ。おまえ、いったいなんてーの?」
- 「僕は……」
- 喉が詰まって二の句が継げない。そして、だったら何も言うべきではないだろう。
- サムルークの異常には、この地に来る前から薄々だが気付いていた。そもそもほとんど死に染まった状態から復活して、代償がゼロなんてことは有り得ない。
- やたらと目につく物忘れ。輪をかけて稚拙になる語彙や振る舞い。
- さながら痴呆が進行していく老人だ。サムルークの中では今、恐ろしい速度であらゆる記憶が失われている。
- 自分やクインの名前すら、もう彼女は覚えていない。出会ったときのこと。ここに至るまで、短いながらも積み上げてきた仲間としての日々。
- それらがもう、サムルークの中から消えていた。そうした各種のエピソードはもちろん、物事の意味に関わる記憶までもが容赦なく奪われだしている。よって彼女は遠からず、何も感じ取れない廃人と化すだろう。
- その運命は、死と何が違うと言うのか。
- 「おい、もったいぶんなよ。いいじゃんか名前くらい、減るもんじゃなし」
- 「……いいや、減るね。あんたには教えない」
- 努めて嫌味っぽく鼻を鳴らし、にべもなく拒絶した。
- 彼女に何もしてやれない自分ごときが、彼女の記憶に残りたいなどと思い上がるな。
- 屑め、屑め、役立たずのフェルドウス――
- おまえに大事な人と絆を交わす資格などないんだよ。分際を知れ、弁えろ!
- すべてが薄れていくサムルークと対照的に、少年の内側ではどす黒く腐敗した炎が燃え盛っていた。己を焦がし、焼き尽くす、自己嫌悪という地獄の業火。
- あるいはそんな臭気と熱気に釣られ、そのモノたちはここへやって来たのかもしれない。
- 「ほぉ、こいつは都合がいい。ナダレも旨いことやるもんだな」
- 眼前の空間が不意に奇妙な歪みを見せ、渦巻く景色の向こう側から聞き覚えのある声がする。
- 「か、感心するな間抜け、低能。あ、あいつは殺す。絶対殺す。そしておまえも殺すから」
- 次いで特徴的な吃音が、ざりざりと掻き毟る鑢やすりのように滴っていく。
- 「行くぞ、サムルーク」
- 「おう。なんか知らんけど、こいつらすげえ腹立つわ」
- 応じる形で二人の戦士ヤザタは、いま結界の境を踏み越えた。同時に舞い上がる蒼と紅、合わせて紫に猛る無尽の戦意が、二体の特級魔将ダエーワとなって姿を現す。
- ……いや、とはいえこれを、二対二と表現していいのだろうか。
- 「随分面白いザマになったね。一度やられて趣味が変わったのかい?」
- 「まあそこは色々あってな。知りたいなら話してやってもいいんだが、とりあえず一つ言わせろ。おまえに負けた覚えはない」
- 朗らかに笑うタルヴィードは顔以外、右半身しか残ってなかった。
- 「お、おまえ馬鹿にしてるだろ。いいぞ、す、好きに笑うといい。じ、実際不覚を取ったんだし、甘んじて受けるだけだ。で、でも後で殺す」
- 「……いや、つーかよ」
- 対して陰惨な隈をより濃くしたザリチェードは、首から下が左半身しか見当たらない。
- そんな両者が合わせて一つになっていた。まるで結合双生児のように、または失われた異教の闘神がごとく。
- 禍々しさとおぞましさ、神聖さと美しさが同居して、崩壊を体現しつつそこにあった。もともと犬猿の両者がこんな状態になれば、戦闘どころかまともに歩くことすら困難だと思える。なのに迸る我力の密度は印象を裏切って、数段増しになっているのだ。
- その脅威と言うしかない紫苑の飛蝗と向かい合い、目を丸くしたサムルークは率直な疑問を口にした。
- 「なんかあたしと知り合いみたいな空気出してっけど、おまえ誰だよ?」
- 絶句するザリチェード、爆笑するタルヴィード。
- 「ぶ、ブスがああァッ! おまえ、顔が悪い上に頭も悪いってなんだそれはッ!? い、生かしちゃおけないィィ!」
- 「うははは! いいぞいいぞ、盛り上がってきたじゃないか!」
- 螺旋と直線が同時に走る。矛盾を呑み込みあるがまま、新生した絶殺の軌跡を描いてフェルドウスとサムルークに襲い掛かる。
- 今ここにもう一つ、死闘の火蓋が切られた瞬間だった。
- 第十一章『忘れ得ぬもの』後編
- 4
- ナダレの崩界には謎が多い。宇宙の運行に干渉し、星の配置を好きに弄ってしまう業わざはあまりにも度外れているため理解が難しいのは道理だが、最大の不明点は力の源が何処にあるのかということだった。
- 自分はしょせん長生きしているだけの道化にすぎず、君らのほうがよっぽど優れた逸材だとナダレはよく言う。それが単なる韜晦とうかいで、趣味の悪い諧謔かいぎゃくだと思えぬ部分があるのを他の魔王たちは知っていた。
- 彼女の我力は極端に弱い。凡百の魔将ダエーワと見紛うばかりの有様で、不義者ドルグワントの起源とすら言われる立場を鑑みれば非常に不釣り合いと言うしかなかった。
- にも拘わらず、どうしてと――
- ナダレを前にした者が等しく抱く違和感、世界が崩れてしまうような不自然さを、このとき二人の飛蝗は感じていたのだ。
- 「凄いなあ、かっこいいなあ。君らの噂は聞いてたし、前から会いたいと思ってたんだよ」
- スィリオスによって聖王領から追い出されたザリチェードとタルヴィードは、飛ばされた先で第二位魔王と遭遇した。その展開が偶然なのか必然なのかは分からなかったが、良し悪しを問うなら迷うまでもなく前者である。多少面食らいはしたものの、戦いと勝利しか頭にない彼らが採るべき行動は決まっていた。
- 最古の魔王ナダレ――かつてバフラヴァーンとも交戦し、決着がつかなかったという剛の者。敵として不足があるはずもなく、また戒律上避けて通れるわけもない。二人の飛蝗は総身を武者震いで昂らせつつ、雄叫びをあげて特異点アンラ・マンユに突入した。
- そして崩界の力、異名の何たるかを知ることになる。
- 「一度バフラヴァーンにやられた身で、全然折れない気概が凄い。あいつの馬鹿さ加減はだいぶ常軌を逸しているのに、だったら自分たちにもできて当然だと信じられる純粋さと、貫ける根性に敬意を表すよ。確かに君らは、最強を目指す求道者として一点の曇りもない」
- 唸る熱望の剣。抉る渇望の槍。蒼と紅の猛攻を黒白の刃で受け止めながら、ナダレは謳うがごとく飛蝗の在り方を称賛していた。
- ザリチェードは苛立つ。なんだこいつは。
- タルヴィードは戸惑う。どういうことだ。
- 褒め殺されているからではない。殺し合いにおいて、よく出来た敵を讃えるのは不義者ドルグワントの多くに共通する性癖だ。その上で命は奪うが――義者アシャワンのように硬直した拒絶一辺倒へと陥らず、優れたものなら善悪関係なく敬う姿勢はある種彼らの美点と言えよう。事実ザリチェードもタルヴィードも、強敵には愛すら抱く人種である。
- しかし、だからこそ思うのだ。ナダレの態度は自分たちのそれと何かが違う。紛れもなく本音の評価だと分かるのに……いや、本心すぎるがゆえと言うべきだろうか。
- 「私みたいな紛い物とは格が違うね。まったく素晴らしい限りだよ」
- ナダレの立ち回りは端的に御粗末で、技に洗練された巧さを感じなかった。かといって理合よりも野性を重んじ、型に嵌らぬ強さを発揮するタイプかと言われればこれも違う。
- 一定の技能を修めているのは見て取れるが、そこに冴えはなくただ普通に下手なだけ。喩えるなら駆け出しの騎士が、そのままずっと時間だけを経たような。
- すなわち才能がない。数千年もの時をかけてきたくせに、眠たくなるほどナダレの技は凡庸だった。飛蝗としての経験上、これはどう見ても雑魚だと分かる。
- なのになぜ、無双と信じる剣も槍も届かないのか。
- まるで万に一つの偶然が繰り返されているかのごとく、すべての攻めを理不尽に捌かれるのだ。そういう無茶が許される立場にナダレは在り、こんな自分が偉そうにしてごめんなさいと――心から恥じて自嘲し、また同様に誇っていた。
- わけが分からなくなる。強者として同じ強者を認めるのではなく、曰く紛い物として本物を讃える姿勢には羨望と、そして優越感が同居していた。
- 弱いくせに強い。強いくせに遜へりくだって、遥かな高みから君らが眩しいと言ってくる相矛盾。
- そこにどんな事情があるのかは不明なものの、甚だ気味が悪かった。ナダレと刃をぶつける一合ごと、交わす言葉の一声ごとに、常識という大地が崩れていく錯覚に囚われる。
- 特にその目が、黒白に瞬く二元の瞳が宇宙の不条理を表すようで……
- 「“みんな”の何たるかを知らない限り、誰もナダレの先には進めない。私のせいで求道者きみらは特に割を食っているみたいだし、少し手を加えてあげるよ」
- 何か途方もないものに巻き込まれる――そう察知して飛び離れようとしたザリチェードとタルヴィードだが、気付いたときにはもう遅かった。
- いや、たとえ数億光年先まで退いたとしても無駄だっただろう。このとき彼らを掴んだ見えざる手には、そもそも射程の外という概念が存在しない。
- 「これは過去、ナダレになったすべての者が持っていた力だから、恥じなくていい」
- 結果、二人はこれまで当たり前に維持していた肉体の形を崩された。星の配置を弄るのと同じ次元で、蒼と紅は一つの紫へと混ぜ合わされる。以上の事実を踏まえるに、崩界の正体は権能の類と見て間違いあるまい。
- 魔王らしからぬ域で我力が弱いナダレに、そのごり押しで特級魔将ダエーワを弄ぶ真似は不可能だ。そして戒律は自己強化が主なため、他者の状態を変化させることも原則できない。
- よって崩界とは権利の執行。それをやってよいと認められた資格の行使だと分かるが、ならばいったいナダレは何者なのだろう。
- 星霊の権能が絶対的な強制力を発揮するのは、自らの肉体内部に限られる。つまり本質的には手足を動かすのと同じであり、規模や程度に差はあっても生命体なら等しく持っている力の延長にすぎない。
- だが、ナダレの崩界は宇宙全土に手が伸びる。才に恵まれぬ存在が、まるで神のごとき特権を持つ真相は?
- 「詳しいところを知りたいかい?」
- 誘いざなう黒白の双眸に、ザリチェードは歯を剥いて吠えかかった。
- 「い、いらん。おまえを殺せば済む話だ」
- 次いでタルヴィードは挑むように、自分の道を宣言する。
- 「勝つのは俺だ。真実なんてものはそれで充分」
- 物理的に撹拌され、成す術もなく別のものへと変えられていく状況の中、なおも揺るがぬ飛蝗の戦意にナダレは陶然と目を細めた。
- 愛しい、羨ましい、申し訳ないと――本人以外には理解不能な祈りと共に、己の誓いを口にする。
- 「君らと違って後付けだが、私にも体現すべき生き様がある。何もかもが陳腐な身の上だからこそ、せめて与えられた役割くらいは果たしたいと思ってるんだよ」
- 詠嘆するナダレは指揮者のごとく奇怪な刃を旋回させ、“みんなの魔王”としての務めを果たした。
- 「どうか幸せな夢を見てほしい。君らの一生が茶番に落ちず、時を超えて残り続ける真の綾模様かがやきとなるのが私の願いだ」
- そうして勝負は決着した。そもそも勝ち負けがあったのかすら不明だが、ともかく殺し合いの続行は不可能となる。
- 崩界を受けたザリチェードとタルヴィードは、肉体を結合された状態で特異点から放逐された。何度となく強制的な瞬間移動を繰り返され、宇宙の中で弾かれ続けるピンボールさながらの憂き目に遭う。
- 果てに今、彼らはこの地へ飛ばされたのだ。龍骸星と聖王領の同盟。マグサリオンに跪いた殺人鬼たち。クワルナフとバフラヴァーンの対決を経て、二局面に分かれつつも予断を許さぬ混沌の真っただ中へ。さらに予測できない事態を生むために。
- それが幸せに繋がると謳うナダレの意向で、曰く舞台を彩る輝きの一要素にされていた。
- しかし無論、当人たちにとってそんなことはどうでもいい。大事なのは不覚を味わったという屈辱。この世はまだまだ果てしなく、想像を絶する者がいる驚愕と歓喜。いつの日か、そのすべてを凌駕してやると誓う無尽の戦意だけだった。
- 「じゃ、邪魔をするなよ低能」
- 「おまえこそ、足を引っ張るなよ根暗」
- ある意味で善悪以上に反りが合わぬはずの両者は、気性も特性も以前のまま完璧に融合していた。むしろ競い合うように互いの技をくり出して、有り得ない魔技を現出させる。
- 直進する螺旋――我こそ最強と信じる自負が相乗効果で我力を跳ね上げ、ここに一段上の常識破りを成立させた。あるいはナダレの崩界によって、既存の枠組みを崩されたゆえかもしれない。
- 概念としてはドリルに近く、だがそこに宿る回転力と貫通力はもはや異次元的な領域にさえ達している。回避不能、防御不能。たとえ未来や過去に逃れようとも、因果を無視して襲い来る暴窮の体現に他ならなかった。
- 誇張なく、バフラヴァーンの渾身にも匹敵しよう。迫る紫閃を前にして、このときサムルークとフェルドウスは迎撃の構えを取るや、同時に雄叫びを迸らせた。
- 弾け、轟き、星をも震撼させる気の炸裂。唸る熱望の剣をフェルドウスの抜刀術が、奔る渇望の槍をサムルークの回し蹴りが、共に正面から相殺した衝撃だった。義者アシャワン個人の技としては破格を通り越し、あくまで衆を頼みにする彼らの法を無視したものに見える。
- が、実情は極めて正統な、白い陣営の奥義に位置する力だった。
- 「なんか知らねえけど調子がいいんだ。来いよチャンポン野郎、ぶっちめてやる」
- 「今度は逃がさない。ここで決める」
- 自分に何が起きているのか、思慮に必要な記憶をすでにサムルークは失って、フェルドウスはそもそも己に価値を認めていない。よってどちらも理解と自覚に欠けてはいたが、だからといって舞い降りた加護が薄れることもなかった。
- これは奇跡である。かつて勇者と、その仲間たちにもたらされていた破魔の剣つるぎ。悠久の時をかけて蒐集された、みんなの祈りという決戦兵器の御業に他ならない。
- スィリオスはサムルークとフェルドウスを“眷属”だと評した。つまり聖王は力の正体を知っており、ゆえに二人へ飛蝗を迎え撃つよう命じたのだろう。今の彼らならできると確信していたのは明らかだが、問題は眷属化を誉れとする気配がスィリオスにまったく見られない点で、なんとなればすり潰そうとさえしているように思えるところ。そこについての真相は未だもって不明ながら、事象の流出が何処より生じたかは特定可能だ。
- 奇跡の中心にはクインがいる。空葬圏でマシュヤーナを一時的に圧倒した謎の力とサムルークたちが帯びた力は同種のもので、時系列を考えればどちらが主体にあたるかは問うまでもあるまい。
- そして今、父と対峙したクインはかつてないほど己の真実に近づいていた。自らの起源を辿って絶滅星団の中枢に至った彼女は、破滅工房に創造される以前の状態へと戻り始めている。
- 龍骸星の任務でフレデリカと死闘を演じたのがきっかけだった。魔王に組み上げられたクインというカタチが、同じく魔王の手で激しく破壊されたこと。加えて言えば、フレデリカの血筋はクインの前世と密接な関わりを持つ。
- 以上の事実が重なって、ここに外装が剥がれ落ち始めていた。サムルークたちの強化はその現れで、増し続ける奇跡の力はある種のカウントダウンに等しい。
- とはいえ、この場においてそんな事情を気に掛ける者は存在せず――
- 「お、面白い。簡単に捻り潰せるようじゃつまらないと思ってた」
- 「あっちにバフラヴァーンもいるな。おまえらを血祭りにあげた後、今度こそ奴の首を獲るとしよう」
- 拮抗する戦力が、双方をさらに限界の先へと高め合う。
- より凄惨に、より熾烈に、条理を超えて燃え上がる血戦のみが真実だった。
- 5
- そうして狂い咲く火花の数々を、ナダレは特異点から見下ろしていた。千里眼の類を彼女は有していなかったが、崩界を使ったときや転墜が起きる瞬間だけは近い真似ができる。詳細までは捉えられず、厳密なところ視覚情報も得ていないため“見る”という表現は誤りだが、とにかく一定の推移が分かるのだ。もはやほとんど、勘のようなものとすら言っていい。
- 非常に限定的で曖昧な、地味に過ぎる卑小な特技。しかしナダレは自分が持つ力の中でこれをもっとも誇っていたし、事実として極め付きの異能であった。
- なぜならそれは、権能でも戒律でもなかったからだ。真我ルールに従って縛りや立場を重ねればいくらでも後付けが可能なこの世界において、生きのままにある力ほど稀有で超常的な業わざはない。たとえ生来持っていた才であろうと、戦うために真我カミへと縋り、強化を繰り返すのが当たり前となっている。
- ゆえに本当の意味で自力と呼べる純粋さは宇宙にほぼ見当たらず、ナダレの第六感はそのわずかな例外だった。後天的に得たものではあったが、そこに既存の法は介在しておらず、もちろん彼女が苦手とする我力の産物でもない。
- ではいったい何なのか。世の在り方に収まらぬ概念を、ナダレは“不変”と呼んでいた。
- 「忘れられないこと。忘れてはいけないこと。恥の記憶……慙愧の流転。何もかもが移ろいゆく世界だから、私は“みんな”を覚えていたい。変わってしまう君たちを、変わらない輝きのまま、胸に留めておきたいと願ったんだ」
- それが私の責任だと、最古の魔王は呟いた。蕭々しょうしょうと祈るように、展開する混沌の綾模様を感じながら誰にともなく語りかける。
- 「私は最後のナダレになりたい。そのために頑張っておくれよ、愛しい君たち。まだだ、こんなものじゃあ足りないぞ。前のナダレがデーヴァとアスラに強いた争いは、もっともっと激しかった。きっと彼も、今の私と同じように思っていたからそうしたんだろう。二度とアレを起こさないように、でも還りたい気持ちにも抗いがたく、矛盾だね」
- 自嘲の笑みを漏らしたとき、ナダレの感覚が一つの存在を察知した。次いで黒白の瞳を瞬かせると、なんとも嬉しげに喉を鳴らす。
- 「おやおや、君も参戦するの? 予定はしてなかったんだが、いいね、もちろん歓迎だよ。精一杯の力を尽して、私の祈りにどうか花を添えてくれ」
- まさに現場へ飛び入らんとしている新たな客人に、ナダレは心からの激励を送っていた。
- ◇ ◇ ◇
- 自分の強みが何なのかを考える。相手には出来ず、こちらに可能なことこそ最大の武器に成り得るのだから、それは別に長所と呼ばれる類でなくともいい。
- 極端な話、料理が下手とかそういう次元のものだって構わないのだ。どんな属性であろうと彼我の違いはズレを生み、ズレは隙となって刺し込める。要は使い方とタイミングで、そこを見極めたときに躊躇せず実行するのが何より大事な喧嘩のコツだと分かっていた。
- いざとなれば何でもやるしどんな様になっても構うものかと、なりふり構わず泥臭く、リスクは二の次三の次。
- 物心ついた頃から戦って戦って傷ついて、常勝はできなくても死なずにやってこれた理由は他でもない。その手の根性を発揮してきたお陰だった。
- はずである。
- 自分という人間はそんなタイプで、真っ直ぐ進んできたような気がする。
- なのになぜ、ああどうして今は、頭に疑問符ばかりが浮かぶのだろう。あたしの得手不得手はなんだっけ? 好きなものは嫌いなものは? いいやそもそも、あたしって誰になるんだ。あたしはあたしか?
- 分からない。分からない消えていく――ここにきて急速に、己の何たるかが失われ始めているのを感じていた。よってまったく思考が纏まらず、戦術を具体的に構築できない。
- 「ど、どうした。間抜けな顔がどんどん酷くなっていくぞ。あ、相変わらず誰からも相手にされない、ね、根暗で寂しい人生か」
- 「うるせえ、陰キャ丸出しのツラしてほざくんじゃねえぞ!」
- にも拘わらず互角の戦況は続いていた。自分の攻めが単調を通り越し、稚拙なものへと落ちていくのは感じていたが、それと反比例する形でパワーだけは増しているのだ。
- そして、多彩な攻めと程遠いのは向こうも同じ。眼前の不愉快な女は、最初にぶつかった一合目からここまでずっと直線的な突き技しか出していない。凄まじい威力ではあったものの、互いに子供の殴り合いじみた様相なのが膠着状態の原因だろう。
- つまり噛み合いすぎている。ゆえに彼我の違いを見出し、楔くさびにせねばならなかったが自分のことすらよく分からなくて。
- 先に交わした嘲罵の応酬も、既視感めいたものを覚えるけど記憶の穴は広がるばかりで。
- 「た、ただの鎧じゃないな。我力が見える。ふふふ……お、おまえ、私に憧れて真似をしたのか。恥知らずのパクリ醜女ブスめ」
- 「誰が――てめえなんぞをパクるかよッ」
- 怒声と共に放った拳と紅い魔槍が激突して、空に殺意の咆哮を轟かせた。今の台詞はどうしようもなく、胸を掻き毟りたくなるほど癪に障る。
- 似ていると言われることが、同類だと思われることが、本当に嫌で嫌で堪らないのだ。
- 「あたしは、違う。あいつなんかとは、絶対に……!」
- それは誰に向けた感情だったのだろう。目の前で陰気な戯言を述べる女はこの際どうでもよく、もっと芯から捨て置けない、別の誰かがいたはずだ。
- 同属嫌悪ですねと苦笑された記憶がある。やはり顔も名前も思い出せない誰かに、言葉じゃなく態度でそう示された気がするのだ。
- そこについて当時はどう考えたのか。もしかしたら、部分的には認めたのかもしれない。
- お互い性根が泥臭く、スマートな振る舞いなんかは全然似合わない上に大の苦手で、自分の血肉を削ぎ落してでも嫌いな奴を殴り飛ばそうとするタイプ。
- 現れるなり強敵を一蹴したあの出会いは衝撃的で、熱く込み上げるものが確かにあった。
- こいつはさらに強くなったあたしの姿なのかなと、気に食わなかったが呑み込みかけて、なのに想像を超える無道ぶりを見せられたから、余計に腹立たしく遣り切れなくて――
- 「裏切られたとか言う気はねえよ。あたしが甘く見ていただけで、あいつは最初からあいつなんだし、そのへんのことはあたしが馬鹿だ。
- でもよ――だけど、だからこそ!」
- 紅蓮の闘気が噴き上がる。失われていくものと引き換えに膨大な我力を発現させ、振り抜く拳に纏わせながら咆哮した。
- 「あたしはあいつを認めない。全部終わった後で――ケリ、着けんだよ!」
- 再び爆ぜる激突の轟音が、どこか遠い木霊に聞こえた。そうとも、あいつはあまりに遠すぎる。
- 当初、同じ道の延長線上にいると見ていた相手は、実のところ正体不明の何かなのだと痛感した。知れば知るほどに異形じみて、禍々しいくせに鮮烈で、もはやどっちが正しいかなんて問題は自分の頭じゃ難しすぎる。
- ゆえに止めてやるとか救ってやるとか、これはそういう次元の話と違うのだ。説教なんてガラじゃく、アレを善だの悪だので論ずる自体が盛大な無駄としか思えない。
- 白く透き通っていく景色の中、依然変わらず胸に燃える願いはたった一つ。
- 「力の限り殴らせろ」
- あいつに勝ちたい。ただそれだけが、今の彼女を支えるすべてだった。
- これだけは忘れちゃいけない。断固、何があろうと抱き続けるのだと誓っていたからひた走る。止まらずに、前だけを見据え、あの馬鹿野郎の吠え面拝んでやるために。
- 「あいつと違うあたしが、あいつと同じ条件でより強いところを見せるんだ。なあ、そんくらいしか、意地の通し方なんて思いつかねえんだよ!」
- 「ぶ、ぶつぶつぶつぶつ、わけの分からないことを――」
- 譫言うわごとめいた宣誓は、言うまでもなく対峙する側にとって理解不能な妄言だろう。しかし正しく切実に、聞き届けているモノも存在した。
- 複製されたもう一つの孔雀王マラク・タウス――マシュヤグによって生み出された“彼”は番つがいの創造という理に従い、姉と似て非なる性質を体現していた。
- 機能の面では姉弟ともに我力の生成装置だが、餌にするものが異なっている。姉が感情を啜るのに対し弟が喰らうのは記憶で、一時の力と引き換えに使用者を廃人へと導くのはどちらも同じだ。
- とはいえ、恐ろしさの面では弟のほうが明確に上だと分かる。
- なぜなら記憶は、想い一つで果てなく湧きいずるものではない。必ず量に限界があり、さらには感情の大元であるとすら言ってよいため、そこを抑えておけば“もしも”の事態を封じられる。
- 別の言い方をすれば奔放で大喰らいの姉と、合理的で気の利いた料理を好む弟といったところか。後者は今も粛々と、誕生した瞬間から立てていた機能プラン通りに事を進めていたのだが、ここで異変が訪れた。
- 「で、でも、私を無視しているのは分かるぞ。いい度胸だ」
- 「馬鹿、ぼさっとするなサムルーク!」
- 不意に孔雀王マラク・タウスが、壊れた機械のようにぎこちなく固まったのだ。釣られてサムルークも止まったのは、肉体の大部分を鎧に依存している都合上、仕方なかったと言える。
- 傍らの少年――彼女にとってはやはり誰だか不明な人物――が蒼白な顔で叫んでいた。奇妙に遅く進む時間の中、紅い突撃槍と蒼い曲刀が再び螺旋直進の紫を描きあげる。
- 「殲くし螺旋する熱望の剣タルヴィ・アストウィーザート」
- 「殲くし直進する渇望の槍ザリチェ・アストウィーザート」
- 左右同時に迫る絶殺の魔技が二人を襲った。予期せぬ異常により生じた隙は瞬き程度のものだったが、生死の境を分けるには充分すぎる。
- とうに迎撃の余裕はなく、回避に全神経を集中してもかなり際どいタイミングだ。仮に致命を避けられても戦闘不能に近い深手を被るのは明白で、ならば選ぶ道は一つしかない。
- 玉砕覚悟の相打ち狙い。まったく同じ決断を下したサムルークとフェルドウスは、飛蝗の攻めを受けきった後に反撃しようとしていたが、そのときまたもや異変が起こった。
- 風が吹く。遥か上空から四人の間へ割り込むように、強く激しく吹き荒れた衝撃波には全員が既視感を覚えた。
- 物理的な風圧とは違う。霊威を孕んだ旋風は、かつてウォフ・マナフが成した白銀の羽撃きと似通っており――
- 「無理しちゃ駄目っす。退くっすよ!」
- 謎の風に助けられる形で、サムルークとフェルドウスは回避を成功させていた。と言うより、ほぼ一方的に吹き飛ばされて結果的にそうなったと表現するのが正しい。突然のことに動揺したまま顔を上げれば、先ほどまで自分たちがいた所に小柄な影が立っている。
- 「ふっふっふ、ついに来たっすよこのときが。一三年も保母の真似事してたから、地味にストレス溜まってたんすよね。……ふぇ、ふぇ、ふぇーっくしょん!」
- 舞い上がる砂塵を吸い込んで思い切り噎せながら、つらつらと愚痴るソレはどこか浮世離れした少女だった。外見だけなら一〇歳そこらにしか見えぬ幼さだが、奇妙に老成した雰囲気と野生動物じみた話の通じなさを感じる。
- だいたい、あのぴこぴこ動いている髪の毛は何なんだ? まるで犬の尻尾か耳のような、いいや、鳥の羽みたいではないか。
- もしやこれが、先の風を起こした存在? 困惑するサムルークたちに謎の少女は向き直ると、びしっと横ピースポーズを決めて快活に名乗りあげた。
- 「アーちゃんが来たからにはもう安心っす。大船に乗ったつもりで任せるっすよ!」
- 「……いや、つーかおまえ誰だよ?」
- 仮にサムルークの記憶が欠損していなかったとしても、やはり同じことを言っただろう。完全に初対面の相手であり、それはフェルドウスが大いに懐疑的な目を向けている点からも確かと分かる。
- しかし代わりに、意外なところから少女を知己と認める声があがった。
- 「お、おまえ、まだ生きてたのか」
- 「こりゃ懐かしい。五〇〇年前は世話になったな、忘れてないぜ」
- 飛蝗の二人は呆れ混じりにそう言うが、芯に凄まじい敵意の炎を燃やしており、余程の因縁があると推察するのは難しくない。
- 事実少女も、苛立たしげに嘆息しつつ藪睨みで彼らに応えた。
- 「あー、ネクラードにアホヴィードだったすかね? アーちゃん、自分より弱い奴のことはあんまり覚えらんないんすよ。まして合体再生怪人なんて、見るからにネタ走ってるやられキャラ。どのツラさげてイキってるんすか」
- 辛辣を通り越した放言にタルヴィードは腹を抱えて哄笑し、ザリチェードは髪を掻きむしりながら怒号した。
- 「はははは、相変わらずだな嬉しいぞ!」
- 「ち、チビがあ! 羽むしって焼き鳥にしてやる!」
- 同時に噴出した無尽の我力が、天をも焦がさんばかりに燃え上がった。少女の闖入でわずかに弛緩した間が流れたものの、いま第二幕が始まったのは確かだろう。
- 「ほらそこのキッズども。ぼっとしてないで一緒にやるっす」
- 未だ状況に乗れぬサムルークとフェルドウスへ、外見を裏切る上目線で指示を出す。
- 「ところで、クインは何してるんすか?」
- 空葬圏の星霊――アショーズシュタの参戦だった。
Advertisement
Add Comment
Please, Sign In to add comment
Advertisement