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- 第十章『夢に見るもの』前編
- 1
- 「カイホスルーお兄様にお願いがあるのです。わたしの使用人たちを、どうか元に戻しては頂けませんか」
- それは会合ガーサーの終わりが近づき、魔王たちも個々に散り始めていたときのこと。フレデリカはカイホスルーを呼び止めると、礼儀正しく頭を下げてそう頼んだ。
- 「このたびはご迷惑をおかけしまして、誠に申し訳ありませんでした。しかしあれは、なにぶんわたしどもの性癖と言いましょうか、要するに悪気があったわけでもないのですから寛大なお許しを賜りたく存じます」
- 彼女が率いる八八名の殺人鬼たちは、カイホスルーの権能により貴石と化した。龍骸星の外へ出れば復活できる可能性も残されていたが、その理屈で万事解決とはさすがにいくまいとフレデリカは思っている。
- おそらく、抗えるのはムンサラートくらいだろう。距離を取ることで減じる効果が、もともとの実力差を埋めていなければどうにもできぬ問題だ。
- ゆえにこうして慈悲を乞うている。相変わらずふわふわとした振る舞いに反省の色は微塵も見えず、事実まったく悪いと思っていなかったが、この少女なりに真摯な理由で部下の解放を望んでいた。
- 筋金入りの世間知らずであるフレデリカは、他者に世話を焼いてもらわなければ着替えも満足にできないという事情がある。よって家人が不在では、彼女の優雅な日常を維持するのが難しい。
- 「今後のためにも重ねてお願い致します。何卒、お兄様」
- 「ああ、いいぜ」
- 客観的に判断するなら身勝手も甚だしい妹分の頼みを、カイホスルーは特に不快な顔もせず受け入れた。しかしこの男に限って、無償の施しなどは有り得ない。
- 「ただし条件がある。一度でいい、俺の言うことを聞け」
- 「承知いたしました。とはいえ、お兄様の女になれというお話でしたら困るのですけど」
- 「調子に乗るなよ、糞餓鬼め」
- 十年早いとフレデリカの額を指で小突き、カイホスルーは鼻で笑った。
- 「せめて蕾つぼみくらいになってから一端の口を利け。そういう意味じゃあ、こいつは俺からの教育だな」
- 「と言いますと?」
- 「会いたい男がいるんだろう」
- 不意の指摘に、フレデリカは思わず息を詰まらせた。恥じらうように目を泳がせる彼女に、カイホスルーは意地の悪い口調で駄目を出す。
- 「恋をしました? 馬鹿め。俺に言わせりゃおまえはまだまだ女として話にならん。意中の男との再会を、下の者に演出してもらおうなんて心得違いも甚だしい」
- 「……つまりお兄様の課す条件とは、使用人の手を借りずに事へ臨めと?」
- 「こんなのは基本中の基本だぞ。たとえ傍目にゃみっともない様になろうが、自分一人でやることに意味があるんだフレデリカ」
- 化粧が下手でも、服が変でも、相手を想う気持ちは己で形にせねばならない。むしろ他者からの世話焼きなど鬱陶しいと思うくらいでなければならず、それこそ恋する乙女の心意気だとカイホスルーは呆れ気味に諭した。
- 「が、その理屈で言うと今の助言も余計なお節介には違いねえ。だから俺がおまえにやってもらいたいのは別のことだ」
- 「ではいったい何なのです?」
- 「簡単さ、慎みを持て。あの男に対し、俺がいいと言うまで殺人鬼おまえ流の求愛に走るのは罷りならん」
- 告げられた言葉にどんな意図があるのか、フレデリカには分からなかった。メイドたちの世話になるのを認める代わりに、殺あいし合えないのでは本末転倒だと思う。特に問題なのは、肝になる部分が非常に曖昧な点だった。
- 「期限を明確にお願いします。お兄様の許可が下りるまでと仰いましたが、具体的には?」
- 「心配するな、別に一〇〇年も待てと言ってるわけじゃない」
- 嘲笑するように口の端を吊り上げて、カイホスルーは問いに答えた。
- 「クワルナフとバフラヴァーンが死ぬまでだ」
- 「それは……」
- 予想もしなかった返答に、フレデリカは絶句した。よりによってあの兄たちが死ぬまでとは、そんなもの永遠と言い換えても語弊のない話だろう。少なくとも今の戦士ヤザタが存命中には不可能だと思ったし、こんな条件を呑むくらいならもっと手っ取り早い選択がある。
- すなわち当のカイホスルーを殺すこと。会合ガーサーに呼ばれる直前まではそういう流れだったのだから、妙な駆け引きなどやめて続きを始めてしまえばいい。無駄な会話をしてしまったと嘆息したフレデリカは、交渉の決裂を伝えようとしたときに再び言葉を失った。
- 「おまえが惚れた男は、その程度すらできんと言うのか?」
- クワルナフとバフラヴァーン……フレデリカから見ても怪物としか思えぬ二人を、カイホスルーはまるで前座か何かのように言う。半ば呆気に取られていると、失望も露わな二の句を継がれた。
- 「どうやら見込み違いだったな。先の話は忘れろ、じゃあな」
- 「――待ってください」
- 踵を返して去ろうとする兄の背を、反射でフレデリカは呼び止めていた。なぜそうしたのか自分自身でも判然とせず、だが言い返さなければ駄目だという気持ちだけは強くある。
- 何か途方もない侮辱を受けたように思えたのだ。その事実に比べれば、もはやメイドたちの復活や彼女らに世話をされる是非の云々はどうでもいい。これはそんな次元の問題ではない。
- 「受けます。お兄様が仰る通りに」
- 俯いてそう言ったフレデリカに、振り向いたカイホスルーは居丈高な声で応じた。
- 「顔を上げろ。目を見て話さん奴の言など聞く耳持たん」
- 「虚装戒律を組みます。証を立てろと仰るなら、それが何よりの誓いではありませんか」
- 「違うな、縛りがあるから従うんじゃねえ。おまえがどう思うかの問題だ」
- 出来の悪い生徒を詰るかのごとく、しかしぞっとするほど優しい顔で微笑みながら。
- 「愛を謳うなら胸を張れよ。天下にこれが正道なのだと信じ抜け。この世に必要な法ってやつは、煎じ詰めるとそういうもんだ」
- フレデリカの顎に手を添えて上向かせ、祝福を与えるように龍の王は告げたのだった。
- ――そして現在。
- 「わたし、あなたを運命の殿方に違いないと思っていますの」
- 結局フレデリカは、虚装戒律を組まなかった。ここで目の前の男に挑み掛かっても罰はなく、好きに動ける自由の身。カイホスルーは部下を元に戻してくれたが、だからといって彼の要請に諾々と従う必要はない。
- そもそも復活したメイドたちは一〇人にも満たぬ数だった。多くの者は龍の威光に自負を折られ、権能を解かれても貴石となったままでいる。要は深い部分が死んでしまい、生体として再起することが不可能になったのだ。
- ゆえにそこを指して契約不履行と断じてもいいし、どだい殺人に筋や手順を求めるフレデリカではない。頭ではそう思っているものの、彼女は今、生まれて初めて溢れる殺意を自制していた。
- ナダレの崩界によって流血庭園の封印が解かれ、この地に固定されてしまったのも象徴的な出来事だろう。目的を定めず漂流する時間が終わったのなら、殺人姫も地に足をつけて世界と向き合わねばならなかった。
- 目の前に立つ黒い騎士……彼に魅せられた事実を泡沫うたかたの幻にせず、自分にとって無二の正道だと誇るためにも。
- 「僭越ですが、一時の休戦を願います。あなたのお手伝いをさせてください」
- 天を覆う破滅工房の下で、第四位魔王とその眷属たちは一斉にマグサリオンへ跪いた。自ら首を差し出すに等しい行為だが、まったくそんなことには頓着していない。たとえ彼女らが不死身でなくとも、やはり同じようにしただろう。
- それほどまで切実に、フレデリカは許せなかったのだ。
- 「わたしたちの睦み合いは、邪魔者を排除した後にいたしましょう」
- おまえの男はそんなものかと、カイホスルーに掛けられたあの言葉を撤回させたい。わたしの選んだ彼がわたし以外に殺されるなど有り得ないと、証明せねばならなかった。
- だからクワルナフを倒す。バフラヴァーンも倒す。彼なら“その程度”できて当然だと考えるのは、決して無理に思い込もうとしているためではない。
- 自分も共に戦うから。黒白を超えてそう決めた事実が厳然と存在するから。彼と肩を並べて走る己を想像すれば、高まる胸の鼓動を確と感じる。
- これが愛なら殉じてみせると、澄んだ瞳でフレデリカは騎士を見上げて……
- 彼女を見下ろすマグサリオンは、無言のまま剣を抜いて振り上げた。
- 走る一閃――自らの眉間に迫る刃の輝きから、フレデリカは微動だにせず目を逸らさない。ずっと見つめていたいとさえ思う。
- わたしは熱を知ったのだ。あの日あのとき、彼に魅せられて得たものは、まさしく運命なのだと信じていたから胸を張る。
- それはまるで、永遠とわにも感じる至福と恍惚の瞬間だった。
- ◇ ◇ ◇
- カイホスルーの話を聞いて、私は耳を疑った。ここまで信じられぬことばかり起きているが、これは中でも群を抜いて非現実的だと言っていい。
- 「フレデリカに協力させる? 馬鹿な、あれは手綱を握れるような存在じゃありません」
- 「おまえの尺度でものを言うな。俺が実現すると言ったらするんだよ」
- 何の保証にもならない理屈を傲然と告げるカイホスルーは、逆に私の反応こそが理解不能という顔だった。思わず周りを確認するも、大半が戸惑いの表情を浮かべている。
- 例外はスィリオス様とロクサーヌで、彼らはいったい何を根拠にこんな話を信じるのか。率直に頭がおかしいとしか思えなかった。
- 「とはいえ不安定な要素はある。王の決定は絶対だが、今は覇者そいつが二人いる状態だ。いいや、正確には三人か」
- 「私と、おまえと、真我アヴェスター」
- 世界の法則を意志ある個人のように扱って、スィリオス様が後の説明を引き継いだ。
- 「最終的に残る覇道いろは一つのみ。覇者と覇者が共存できぬ生き物だという点は、殊更語る必要もないだろう。現在、我々が同盟しているといっても、しょせんは真我カミを倒すための手段にすぎん。つまり我々が敵同士なのは本質的に変わっておらんが、これは真我アヴェスターと関係ない次元の話だと理解しろ。むしろ私たちの鬩ぎ合いこそが世界の法に穴を穿つ」
- 「俺とスィリオスが組むことで道理が引っ込むという話は先にもしたが、この理屈は他ならぬ俺たちにも適応される。要はこちらにとって予想外な事態も当たり前に起き得るわけだが、そこについて完璧に納得しろとは言わん。おまえたちの迷いも含め、呑み込み率いるのが王の務めだ」
- ゆえに四の五の吐ぬかさず従えと告げられて、私は反論に詰まってしまった。彼らの自負に圧倒されたという面もある。
- だけどそれ以上に、覇者の論理とでも言うべきものが私情を超えて正しいように思えたのだ。我こそ法だと謳う者が複数そろえば必然的に歪みが生じ、その力は一種の理不尽としてどんな状況をも覆し得ると。
- 混沌が常識を駆逐するのは、逆説的に道理だろう。よって二人の王は真我アヴェスターの終焉を説くが、問題は過程が闇に包まれている点と、そこで弄ばれるのが私たちの命だという事実だった。仮にフレデリカの協力が得られても、どれだけの仲間が巻き添えで死ぬか知れたものではなかったし、そもそも先読み不能な人物なら真っ先に思い浮かぶ者がいる。
- 「おまえの言う不確定要素とは、つまるところマグサリオンか?」
- 「まあ、端的にそういうことだな。あいつがどう動くかで流れも変わる」
- アルマの指摘に頷いたカイホスルーは、そこで視線を横に流した。
- 「しかし、どうやら旨く転んだみたいだぞ」
- 釣られてそちらに目をやった我々は、一様に息を呑んで固まった。
- 「ムンサラート……!」
- 呻くような呟きが、はたして誰の口から漏れたものかは分からない。だけど場の緊張感が瞬時に臨界近くまで高まったのは確かだった。
- 特級魔将ダエーワムンサラート。第四位魔王に従う殺人鬼の第一人者が、先ほどまでマグサリオンがいた場所に忽然と現れていた。
- 「礼を欠いた推参で恐縮ですが、何卒ご容赦いただきたい。まずは世の無情が猖獗しょうけつを極める昨今、皆様方に置かれましてはご健勝そうで何より」
- 「おまえこそな。どうやら身体は元通りになったみたいじゃねえか」
- 「お陰様で。それにつきましては主も感謝しておられます」
- カイホスルーの揶揄に、慇懃な態度で殺人鬼は頭を下げた。一拍置いて顔を上げると、私たちが先ほどまでしていた話を承知済みのように語り始める。
- 「この場における共闘の件ですが、フレデリカお嬢様に異存は露もございません。そしてもちろん我々も、主命とあれば従うのみでございます」
- よって絶滅星団あれを倒しましょうと、無感動に天を示したムンサラートは更に驚くべきことを言った。
- 「ワルフラーン殿の弟君、マグサリオン様とはすでに話がつきました」
- 「はっ? 嘘だろ」
- 目を剥いてフェルさんが反駁する。私も彼とまったくの同感だが、そんなこちらを無視して話は着々と進んでいった。
- 「へえ、興味深いわね。彼はいったい、どういう風にあなた達を認めたの?」
- 「私ごとき非才の身に、お嬢様が伴侶と定めた御仁を量る真似はできかねます。ただ見たままをその通りに言うのなら、振り下ろした剣を寸前で止められました」
- 「それだけ? 確かにマグサリオンの気性からしたら、大層なことだとは思うけど」
- 「野暮を言うな龍玉。ともあれ奴が話に乗ったというんなら、後は状況を動かすのみだろ。おまえからは何かあるかスィリオス?」
- 「特にない。このうえ詰める部分があるとしたら、せいぜいのところ人選だな」
- お父様の核を潰すため、絶滅星団の内部に突入する者。文字通り未知の領域での勝負となるため、戦力は多ければ多いほどいい。
- 個々の思惑が交錯する中、控えめに咳ばらいをしたムンサラートがやはり淡々と意見を述べた。
- 「そこにつきましては、こちらの希望がございます。いえもはや、これは道理と言って差し支えないかと」
- 次いで語られた内容は事実としてもっともな話であったにも拘わらず、気分的には不愉快極まりないものだった。
- 2
- 戦闘開始から、ここまで一万八千秒を突破。ゆえに当初の予想通りに事態が進めば、あと五百秒足らずで決着となる。
- クワルナフはその結末を依然揺るがず確信しながら、同時に奇妙な感慨を覚えていた。それを人の概念で表すなら、憐れみと呼ばれる類かもしれない。
- 彼はバフラヴァーンに悲哀を見ていた。この男は本来、“こんな領域”に留まるような器に非ずと。
- 他者が聞けば言葉を失う話だろう。飛蝗の王はまさに脅威の力を体現し、最強の座を目指す者として恥じぬ格を持っていた。事実、当のバフラヴァーンは自己の在り方に何ら疑問を持っておらず、クワルナフも決して彼を軽く見ているわけではない。
- しかし、だからこそ惜しいと思う。自分でも直感のようにしか捉えられぬため具体的に説明するのは困難だったが、これも計算によって導き出された解答である。
- バフラヴァーンは生まれるのが早すぎた。今ではない後のいつか、世界の仕組みが異なる時代であったなら、もっと果てなく完成された無謬の存在になっていたはずだと感じている。
- 喩えるなら、人の形に凝縮された宇宙とでも言うべきものに。
- たった一人で森羅万象と同じ質量を持つ掛け値なしの規格外。どんな外圧にも砕かれず染められず、独立独歩を貫く絶対的な“個”の極致こそ、飛蝗が求める天下無双の姿であろう。
- だがそのためには前提として、そうした可能性もしもが在って当然とされる世でなければならない。
- 『言うなれば親子の関係と似たものか。力の強弱ではなく、発生に関わる順序の話だ』
- 依然として凄まじい戦闘を続けながら、哀惜するようにクワルナフは独りごちた。現在の世界には、バフラヴァーンのような男を昇華させるだけの下地がない。大元の条件が整っておらぬ以上、派生が生まれ得ぬのは道理だろう。
- 『私が知る限りにおいて、この世は多層的な広がりと無縁な様相を呈している。よって同じ時に複数の宇宙が展開する時代でなければ、個の宇宙ソラというものも存在できんと見るのが正しい。可能性的並行時空とでも呼ぶべき場所でない限り、異物を異物のままに極めさせる概念は不在であろうと考える』
- だからおまえは負けるのだと告げるクワルナフに、だがバフラヴァーンは相も変わらず一貫して揺るがなかった。
- 「分からんなあ、俺はすべてに勝利する!」
- 繰り出された男の拳はすでに原形を留めぬほど砕けていたが、同様に絶滅星団も二割ほど潰れていた。これも計算の内ではあったものの、クワルナフは静かに詠嘆するような声を漏らす。
- 『そうか。どうあっても己の道を諦めぬと。私はおまえのごとき存在こそを……』
- 半ば無意識に紡いだ言葉が、そのとき他ならぬ破滅工房の思考に障碍ノイズを生んだ。
- 『――待て』
- 私は何を言っている? 何を考え、何をしたいと今願った?
- おまえのごとき存在を? いったい後に、どんな言葉を繋げようとしていたのだ。
- 分からない。分からないがそれは、自己に深く根差した想いであるに違いなく――
- 「どうした、何を呆けてる」
- かつてない大打撃。完全な無防備でバフラヴァーンの攻撃をまともに受けたクワルナフは、巨体を危険なほどに軋ませた。想定外の負傷であり、ゆえに計算が狂いを生む。因果の方程式に乱れが混じり、混沌となって撹拌される。
- にも拘わらず、状況の修正よりも件の謎を解明することに魔星の意識は傾いていた。
- 不幸なりバフラヴァーン。憐れなり暴窮飛蝗。おまえはおまえの力が何ら関わらぬ次元において存在を規制され、目指す頂きに辿り着けぬ運命を強いられている。
- 紛うことなき悲劇と言え、理不尽な定めであろう。だというのに進み続けんとするその意志は、たとえ無知からくる蛮勇だろうと捨て置いていいはずがない。
- ■■■■と思う。なぜならおまえは■■く、かつて私が夢に見た尊き幻想に近い■■なのだから。
- ■■■――■し■のだ。■■き存在は■らねばならん。私の名はクワルナフ――森羅万象を■で満たすと“みんな”に誓った■の化身。
- 怒涛のように連続するバフラヴァーンの拳を受けながら、クワルナフの思考は燃え尽きんばかりに回転していた。もはや理性が蒸発しかけるほどであり、よってそれは必然だったと言えるのかもしれない。
- 「ああ……私はどうして、こんなことに」
- 自己の内部から聞こえてくる、存在を忘却していた魂おのれの声。白痴の妄言としか思えぬもので、だからこそ失われた真実に通じる訴えは、どんな絶叫よりも重く切実に破滅工房を震撼させた。
- 『おまえは誰だ』
- 同時に制御を失い、一斉に弾け散る幾憶もの魔道具。完全なる暴発は、誰も予期せぬ形でクワルナフとバフラヴァーンを呑み込んでいた。
- ◇ ◇ ◇
- 「また会えましたねクイン。お元気そうで何よりです」
- 「……ええ、そちらこそ。変わりないようで」
- 憎らしいくらい無邪気に微笑むフレデリカへ、私はうんざりしながら溜息を返した。この少女に皮肉を言っても無意味なのは分かっているし、本音はそんなどころの心境じゃなかったが、ここで憤りを示したところで何ら益するものはない。感情を無視して言えば、今の彼女らは味方である。
- 「ほら、あなた達もご挨拶なさい。こちら、わたしのお母さまと関わりのある方なのですから、失礼のないように」
- 「承知いたしました、お初にお目にかかりますクイン様。私、エルナーズと申します」
- 「ファランギースです」
- と、並んだメイドたちが順繰りに頭を下げてくる様に機械的な会釈で応じつつ、私はこの場に至る経緯を思い返していた。ムンサラートが告げた要望は、できるだけ“人間を連れてくるな”というもの。
- 如何に同盟の約定があろうとも、組むのは生粋の殺人鬼たち。捕食対象が傍にいたら責任は持てないと言われ、結果としてこの作戦に参加するのは第四位魔王の手勢以外、私とマグサリオンだけになった。もちろん反対は多数あったが、現実的にこの選択が最良なのは議論の余地がない。今も事を穏便に進めるため、他の皆から離れた場所に我々はいる。
- それはこの地に繋がったまま固定された流血庭園の中心だった。色とりどりの花々に囲まれ、しかしそのすべてが不義者ドルグワントだと分かっていたから落ち着かず、私は居心地が悪いどころじゃない思いを抱えて不安と不満を押し殺している。
- 命令ならばどんなことでも従うのが私だけど、現状はそんな単純じゃなくなっていたから当然だろう。スィリオス様の方針については言うまでもなく、アルマやサムルーク、フェルさんたちを残していく点も心配でならない。
- そして現状、何よりも計りかねているのは彼の真意だ。
- 「以上、これにわたしとムンサラートを加えた一〇名となります、マグサリオン様。どうかご自分の部下と思って、お好きなようにお使いください」
- 傍目にも明白なほどうきうきした様子で話すフレデリカを、無情に黙殺するマグサリオン。馴れ合いの気配は皆無なものの、この状況で大人しくしているのが充分すぎる異常だった。ある意味で非常に合理的な彼ではあるが、これはそういう次元を超えた判断のように思える。
- カイホスルーとの同盟然り、サムルークを助けた点についてもそうだ。空葬圏での一件以来、マグサリオンは明らかに変わったと感じる。
- 何がこの人を現在の形にしたのだろう。そしてその意味するところは何なのか。素直に受け取るなら丸くなったと表現できるし、それは少年の彼に私が願った通りの変化と言えるのだけど、ワルフラーン様の最期を知った今は楽観的に考えられない。
- 確かなのは、依然としてマグサリオンが危うい爆弾だという一点だ。ゆえに目を離すべきじゃなく、さっきから彼に纏わりつくフレデリカの気安さが癪に障ったので、私は二人の間に割って入った。
- 「あまり近寄らないでください。この人は色々と複雑なんです」
- 「あらどうしてですの? あなたにそんなことを言われる筋合いはないように思うのですが、もしかすると妬いていらっしゃる?」
- 「馬鹿な、そういう次元の話じゃありません。とにかく駄目なものは駄目なんです」
- だいたい、と苛立ちを滲ませつつ、私はさっきから気になっていたことを尋ねた。
- 「あなたはなぜ彼の名前を知っているのですか。マグサリオンが名乗ったとは思えないのですけど」
- そういう基本的なコミュニケーションを完璧に無視するのがこの人だ。まして相手が魔将ダエーワの首魁ともなれば言うに及ばず。私だって数えるくらいしか口を利いてもらった覚えがないのだし、もしも彼がフレデリカと普通に会話していたのだとしたらちょっと穏やかじゃいられなかった。
- 「ああ、それでしたらムンサラートに聞いたのですよ。戒律に関わる視点の共有がどうのと言っていましたが、詳しいところがお知りになりたいなら説明させましょうか? ……ほら、ちょうど戻ってきましたし」
- 見ると確かに、黒衣の執事がこっちにやって来るところだった。彼は両手に大きな鞄を抱えており、背にも荷物を負っている。だというのに均整の取れた姿勢と歩調が一切崩れぬため逆におかしな感じだったが、実情を知っている身としては到底笑う気になれない。
- この男が筋金入りの殺人鬼である点はもちろんだが、荷物の正体が何なのかを考えると背筋に冷たいものが走るからだ。
- 「お待たせいたしましたお嬢様、こちらがお預かりした品々でございます」
- 「ご苦労さまですムンサラート。では準備も整ったことですし、早速始めましょうか」
- 特級魔将ダエーワが運んできた物品は、聖王領と龍骸星がこれまで集めたお父様の作品群だった。凍結封印のように使用中で動かせない物もあるため全部ではなかったものの、かなりの数が集まっている。
- 一目で武具と分かる類や、ただの日用品にしか見えぬ品、さらにはどういう用途なのかさっぱり不明な物さえある。それらがこうして無秩序に並べられた様はガラクタ然としていたけれど、実情はたった一つで国の二つ三つは転覆させるに違いない魔性の器物。私と出自を同じくする兄弟で、絶滅星団の内部へ入るためのナビゲーターだった。
- ……正直なところ、作戦のためとはいえこれをフレデリカたちに渡すのは躊躇われる。何であろうと手に持てば凶器化させる殺人鬼にとって、お父様の作品は致命的な相性となるのではあるまいか。
- 「危惧するところは察しますが、事ここに至っては不毛な憂いというものでしょう。少なくとも、あなたが我々に牙を剥かぬ限りこちらは何もいたしませんよ。殺人鬼とはそうしたものです」
- 「ムンサラートの言う通りですよクイン。そもそもわたしたち、今回は最初から手慣れた獲物でいくつもりですから」
- 見ればフレデリカはいつの間にか大鎌を担ぎ、メイドの少女たちも個々の愛用品と思しき物を手にしていた。それはスコップだったり楽器だったりと様々で、ほとんどふざけている代物ばかりだが相応の拘りを感じられ、お父様の作品に殊更興味を示した様子はない。
- 「……分かりました。では状況を開始しましょう」
- 心を決めて頷くと、私は山と積まれた兄弟たちの上に腰を下ろした。この世に産み落とされたあの日のように、そして目覚める寸前に見ていた景色が以前の流血庭園であった点も、皮肉な話だが自分の出生を辿る役に立っている。
- 「手を、みんな私に触れてください」
- 内心の嫌悪を深く胸に沈めて呟き、殺人鬼に触れられることをこの場に限り許容した。問題はマグサリオンをどうするかだが……
- 「あなたはわたしと手を繋ぎましょう。些か変則的になりますけれども、まあなんとかなるのでは?」
- 朗らかに促すフレデリカが、いったいどこまでマグサリオンの事情を解しているかは不明だった。しかし実際、それが効果的な提案なのは否定できない。
- 共に殺意の塊である者同士なら、たとえ手を握り合っても破戒は免れるはずだろう。悔しいがそこは認めるしかなく、もともとお父様の作品を身に纏っているマグサリオンなら、間接的な繋がりでもこの瞬間移動に便乗できる。
- はたして彼は、しばしの間を置いてからフレデリカの手を掴んだ。特に勢いをつけたわけでもなかったが強い握力が込められており、骨の軋む音が聞こえる。
- だけど握られている当の少女は、嬉しげにころころと笑っていた。
- 「情熱的で結構です。さあ、準備は整いましたよクイン」
- 「ええ……集中しますから静かに願います」
- 目を閉じ、雑念を捨てて径みちを探る。自分の起源、私が何のために創造されたのか。その座標へ至るべく意識をひたすら過去に向けた。
- ワルフラーン様の死。あの耐え難い崩壊の記憶。後に転生したのが今の私だとしたならば、破滅工房の中枢に吸い上げられた瞬間は確かにあったはずだろう。
- そこは何処で、どんな場所か。遡る想いと共に一縷の線を手繰り寄せんしたまさに刹那、瞬くハレーションの中に過る光景を私は見た。
- 「――飛びます」
- そして同時に、天が砕けたかと思うほどの轟音が響き渡った。我々が何かをしたわけじゃなく、期せずして絶滅星団に異変が起きたのだと理解するも、すでに発動した瞬間移動は止められない。
- その中で――
- 「あっ――、マグサリオン様!」
- フレデリカが驚きの声をあげていた。しかしその実情を即座に察することはできず、また分かっていてもどうしようもない話だった。
- 私たちは魔王クワルナフの中枢へと転移する。地上の何もかもから切り離され、帰らずの旅になるかもしれぬ決戦の場へ向かったのだ。
- ◇ ◇ ◇
- それは天から落ちてきた。魔道具の暴発によって弾き飛ばされたモノであり、凄まじい速度で真っ逆さまに墜落してくる。
- だが隕石ではない。砕けた魔道具の欠片でも、流れ弾の類でもなかった。その物体が常軌を逸した存在であることは、地に穿たれた破壊痕を見れば瞭然だろう。
- 流血庭園に落ちたモノは城を微塵に粉砕して巨大なクレーターを生んでいたが、庭に咲き誇る花々は残らず健在だったのだ。爆風と衝撃波が極めて狭い範囲にしか作用しておらず、直接踏み潰された草木さえも陥没した地の上で変わらず生を保っている。
- 有り得べからざる事態としか表現できまい。宇宙から訪れた落下物が物理法則に則る威力を備えていたのは明らかで、にも拘わらずどうして何事もなかったかのような状況が同時にあるのか。壊れたものと無事なもの、彼らの違いは何処にあるのか。
- 答えは非常に単純かつ、信じがたい基準により成されていた。破壊を免れた一群は、すべて生物だったというだけにすぎない。
- ではこの存在に、命を尊ぶ意志があったのだろうか。罪なきか弱いものらを傷つけぬため、慈愛に満ちた選択をしたのだろうか。
- そう問われれば、断固否と返すしかなかった。
- 「あぁ、くそ――こいつは不覚を取ったな。せっかく興が乗ってきたというのに」
- クレーターの底から現れたのは、たった一人の男だった。これが天から落ちてきたモノの正体で、異常な破壊の真実だった。二メートル超える体躯に緋色の蓬髪は恐ろしげな雰囲気を醸していたが、瞳は意外な愛嬌を備えている。しかし彼が善なる価値観と相容れぬのは、誰の目から見ても疑問の余地なく確かと言えよう。
- 男を中心にして、周囲の草花が瞬く内に燃えていった。先の落下には巻き込まず守っておきながら、今は塵も残さず消し去っている。徹底的に容赦なく、放散する鬼気の波動で根ごと滅ぼし尽している。そこに慈悲や手心といったものは寸毫たりとも見当たらず、この世に己以外の生命など認めぬと、狂気に等しい自負だけが猛っていた。
- 俺を見たな。俺を知ったな。同じ空気を吸い地に立ったな。
- であれば敵だ。いざどちらが強いか証明してやる。逃がさないし降伏も聞かん。生き残りたければ俺と戦い勝ってみろ――
- 物言わぬ草花にすら全力で叩き付け、完膚なきまでに踏みにじる最強への執念。男の求道は森羅万象を滅殺し、最後の一人として頂点に立つまで終わらない。
- 第三位魔王バフラヴァーン――クワルナフとの戦いを予期せぬ形で中断した彼は、図らずも聖王領と龍骸星の国境地帯に放り込まれたのだった。
- 「さてどうするか。すぐにも再戦といきたいところだが、喰いごたえのありそうなのが何人かそこらにいるな。先にそいつらとやるのも面白そうだ」
- にやつきながら語るバフラヴァーンは、全身に夥しい傷を負っていた。言うまでもなく破滅工房との一戦により受けたものだが、そのすべてが見る間に癒され消えていく。
- 我力を回復に向ける真似は基本好まず、特に戦闘中は一貫して攻勢に極振りする男だが、今は少しばかり事情が違った。
- 不本意な中断となったのは確かだし、不覚を取ったと認めている。しかしクワルナフもそこは同じで、立てた予想の通りに進めることができなかったのだ。つまり状況は痛み分けの御破算と表現でき、ならばどう仕切り直すかも駆け引きの内だろう。再戦前にこの地で更なる強化を経るのは、選択として充分に有りだと思える。
- 「迷うところだ、ナダレに感謝せねばならんな。こういう展開に俺は弱い」
- 堪らんと、バフラヴァーンは獰猛に含み笑った。選り取り見取りに近い状況が、飛蝗の王を芯から奮い立たせている。
- 比喩ではなく遊び場へ向かわんとする足取りのまま、瞳と拳が真横に走ったのは次の瞬間だった。
- 「まずはおまえか」
- 同時に大気が爆発したかのような破壊音。バフラヴァーンの裏拳をまともに受けて、弾丸のごとく吹き飛んだ人影は岩山に激突すると、噴火もかくやという帳を盛大に巻き上げた。おそらく不意打ちを狙ったのだろうが、そんなものはこの男に通用しない。歴戦などといった言葉を超越した領域にいる第三位魔王は、あらゆる殺意と敵意を目で見るよりも明確に捉えられる。
- ゆえに件の勝負はもう終わった。零コンマ一秒以下の戦いだったが、別に不満は抱いていない。自分を殺そうとする者はどんな弱者であろうと愛おしく、激賞しながら全霊でもてなすのみである。
- 「次は誰だ、向かって来い。俺は逃げも隠れもせん」
- 嘯いて歩を進めるバフラヴァーンは、しかしそのとき異変に気付いた。
- 先の相手が死んでいない。事実として依然変わらず、いいや更に凶猛な殺気が渦巻くように帳の奥から吹きつけてくる。
- 「ほぉ、こいつは驚いた。俺の一撃を受けて死なん奴は、そういないはずなんだがな」
- それは大いに控えめな表現だった。星をも造作なく粉砕するバフラヴァーンの鉄拳。しかも常に全力で、片時も休まず成長し続ける戦闘いくさの怪物が振るった暴威だ。加えて言うなら、現在の彼はクワルナフとの激戦を経てここにいる。よって理論上、命どころか原形を保てる者さえ宇宙にほぼいないと言い切れるはずなのに――
- 「名乗れよ、おまえに興味が湧いた」
- 問うバフラヴァーンの声に合わせて、帳が一斉に四散した。そこに現れた人影は、漆黒の全身鎧に身を包んだ騎士の姿。
- 五体満足とはとても言えない。腕も脚も折れ曲がり、首すら奇妙な方向に捻じれている。まるで壊れた案山子が踊るかのごとく、ぎちぎちと軋みながら立つ様は無様を通り越した惨状だろう。
- だが近づいてくる。一切臆さず、躊躇わず、むしろ高まり続ける底なしの凶気と共に。
- 不吉という概念が形を持ってそこにあった。黒騎士――マグサリオンは吐血しつつも明瞭に、嘲笑の気配さえ滲ませて言葉を紡ぐ。
- 「来いよ屑。その程度か」
- そしてバフラヴァーンの双眸が、溢れんばかりの歓喜に染まり燃え上がった。
- 天地に彼らは今二人。ここから先の戦いは、まさに言語を絶するものとなる。
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