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- FILENAME: text_310511-1.txt
- ヘルカ: ドルマ、元気にしていますか…? 私は、まあ、いつも通りです
- ヘルカ: この手紙を読んでいる ということは…
- ヘルカ: ちゃんとラマが 届けてくれたんですね?
- ヘルカ: …よかった
- ヘルカ: うーん…それにしても 何を書けばいいんでしょう?
- ヘルカ: 言いたいこと、伝えたいことは たくさんあるはずなのに
- ヘルカ: うまく言葉が出てきません…
- ヘルカ: そうですね… 昔のことでも書きましょうか
- ヘルカ: すべてのはじまりから…
- ヘルカ: 故郷がモンゴル軍に襲われたあの夜… 私は震えるあなたの…ドルマの手を握って モンゴル軍の追っ手から逃げていましたよね?
- ラマ: おや…あなたたちは…
- ヘルカ: そんなときに 尼僧院で院長を務めるラマと出会い 私たちは事なきを得た…
- ヘルカ: …ラマは私の噂を聞いて 私たちの故郷へ向かっていたんです
- ヘルカ: 私が奇跡を起こす特別な存在だと… そう聞いて尼僧院で修行させようと
- ヘルカ: …まあ 私はラマが期待していたような 存在ではなかったのですが…
- ヘルカ: そう…一晩、身を隠してから故郷に戻り その凄惨な光景を目撃して 私は敗北してしまったんです
- ヘルカ: ほら、救世主だの何だの言われて モンゴル軍から故郷を救うことを みんなから期待されていたじゃないですか?
- ヘルカ: それなのに私は何もできず 故郷は焼かれ…私たち以外 みんな死んでしまった…
- ヘルカ: …挫けてしまいますよ、さすがに…
- ラマ: ヘルカ、ドルマ… 尼僧院には慣れましたか?
- ドルマ: あ…えっと…
- ヘルカ: …まだ来て間もないのに 慣れるわけありませんよ
- ラマ: そうでしたね
- ラマ: しかし… 慣れてもらわなくてはなりません
- ラマ: ここでふたりには 修行を受けてもらうのですから
- ヘルカ: …何の修行を?
- ラマ: ラクシャーシーに なるための修行を
- ドルマ: ラクシャーシーって… ヘルカちゃんのこと…?
- ラマ: ヘルカが故郷でラクシャーシーと 呼ばれていたことは知っています
- ラマ: …土砂崩れに巻き込まれながら 無事生きながらえたそうですね?
- ドルマ: それだけじゃない…あたしを 救ってくれて…
- ラマ: ええ、そうでした…土砂崩れには ドルマも巻き込まれていましたね
- ラマ: ヘルカのおかげでドルマは 窮地から助かった…
- ヘルカ: 偶然です、そんなの…
- ラマ: …確かに偶然なのかもしれません
- ラマ: しかし結果としてあなたは ひとりの命を救っている
- ラマ: 今回、故郷が襲われた際にも あなたは生き延び…
- ラマ: またひとりの命を救った
- ラマ: …素養があります
- ラマ: あなたは特別です
- ドルマ: あっ…
- ヘルカ: …………
- ラマ: 故郷の人々があなたを 奇跡を起こす救世主と信じ
- ラマ: ラクシャーシーと呼んだ気持ちも 私には理解できます
- ラマ: しかしそれは故郷の人々が 勝手にそう呼んでいただけ…
- ラマ: 真にラクシャーシーになるには きちんとした儀式が必要なのです
- ヘルカ: …儀式?
- ラマ: はい、その儀式を受けるため ここで修行をしてもらいます
- ドルマ: 修行って…
- ラマ: 安心しなさい 他に大勢、仲間がいますから
- ラマ: 皆さん、もう入っていいですよ
- 少女僧: きゃーきゃー どっちがヘルカさん?
- 少女僧: すごい才能があるんでしょう? いいなあー!
- ヘルカ: この人たちは…
- ラマ: 皆、ラクシャーシーを目指す 少女僧です
- ヘルカ: …少女僧?
- ラマ: 一般的な僧とは扱いが違いますが まあ、気にする必要はありません
- ラマ: 要は…新しい友だち、です
- 少女僧たち: よろしくねー!
- ドルマ: …へ、ヘルカちゃん どうする…?
- ヘルカ: どうするというのは?
- ドルマ: だから…逃げたり、する…?
- ドルマ: ヘルカちゃんがラクシャーシーに なりたくないなら
- ドルマ: ムリにここにいなくても…
- ヘルカ: …………
- ヘルカ: どの道、帰る場所もないので ここのしきたりに従っていこう…
- ヘルカ: そうすれば少なくとも ドルマは安全に暮らせるはず…
- ヘルカ: 当時の私はそんなことを考えて 尼僧院で暮らしていくことを決めたのです
- ヘルカ: そこから大きな渦に 呑み込まれていくとも知らずに…
- FILENAME: text_310511-2.txt
- ヘルカ: 私たちが尼僧院で暮らすようになって しばらくたったときのことです
- ヘルカ: ドルマが急にこんなことを 言い出したのです
- ドルマ: あたし… ラクシャーシーになるよ
- ヘルカ: …ドルマが?
- ドルマ: うん
- ドルマ: だから…ヘルカちゃんは もう心配しなくていいよ
- ドルマ: 全部あたしに 任せていればいいから
- ヘルカ: …………
- ヘルカ: ラクシャーシーはもともと人を惑わす 悪鬼、魔物の類いだとされていたようですが 今では護法善神だと教えられています
- ヘルカ: まあ、よくわかりませんが とにかく尊く、特別な存在なのでしょう
- ヘルカ: そのラクシャーシーは チベットではこの大地の下に 横たわっていると伝えられています
- ヘルカ: つまりラクシャーシーは その身を犠牲にしてチベットの礎になり 楽園…シャンバラをこの地にもたらした… ということを意味するそうです
- ヘルカ: であれば…モンゴル帝国によって 荒らされたチベットの新たな基礎をつくるのは やはり、ラクシャーシー
- ヘルカ: みんなはそう信じています けれど…犠牲
- ラマ: ここで言う犠牲とは…
- ラマ: チベットを…人々を救うために 自らの生涯を捧げることになる…
- ラマ: そういう意味だと解釈しています
- ヘルカ: 生涯を捧げる…
- ラマ: いずれにせよ ラクシャーシーの儀によって
- ラマ: ジャータカ様に選ばれなければ ラクシャーシーにはなれません
- ラマ: ジャータカ様に認められるように 修行に励むのですよ、ヘルカ
- ヘルカ: …………
- ヘルカ: 修行に励むつもりなど私にはありませんでした
- ヘルカ: 誰かが特別な存在になったところで あの強大なモンゴル軍に 勝てるわけがないのですから
- ヘルカ: それなのに…
- ドルマ: 衆生救済…極楽浄土…
- 少女僧: …ドルマ ずっと滝に打たれてる…
- 少女僧: すごい集中力…
- ヘルカ: …………
- ヘルカ: ドルマ これから町に…
- ヘルカ: …勉強してるんですか?
- ドルマ: 独習の時間だからね
- ドルマ: こういう時間に頑張っておけば 差をつけられるから
- ヘルカ: そう、ですか
- ヘルカ: あはは…私も勉強しましょうかね
- ドルマ: ヘルカはしなくていい 遊んでなよ
- ヘルカ: ですが…
- ドルマ: いいの、いいの もうヘルカは頑張らなくて
- ヘルカ: 頑張らなくていい…
- ヘルカ: …………
- ラマ: …何をしているのですか?
- ヘルカ: あ…ラマ
- ヘルカ: 外で遊んでいろって ドルマに言われて…
- ヘルカ: でもそんな気になれないので 考え事をしていたんです
- ラマ: 考え事…?
- ヘルカ: ラクシャーシーって 何なんだろうって…
- ラマ: 簡単に言えば皆を救う者です
- ラマ: 仏力を授かることによって すさまじい力も発揮できます
- ヘルカ: …誰かラクシャーシーに なったことはあるんですか?
- ラマ: あります
- ラマ: モンゴル軍が攻めてきた… ちょうどそれくらいの時期に
- ヘルカ: その人は、どうなったんです…?
- ラマ: …………
- ヘルカ: …ここ以外にも似たような 尼僧院があるって聞きました
- ヘルカ: ということは別の尼僧院からも ラクシャーシーは選ばれている…
- ヘルカ: …みんな どうなってしまったのです?
- ラマ: …………
- ヘルカ: 死んだんですね…?
- ラマ: 真なるラクシャーシーには 至れなかった…そういうことです
- ヘルカ: 詭弁ですね
- ヘルカ: …結局、ムダってことなんですよ
- ヘルカ: ラクシャーシーが選ばれても モンゴル軍を倒せてない
- ヘルカ: みんなを救えていない…
- ラマ: …ヘルカ、この尼僧院には 多くの青い花が咲いていますが…
- ラマ: 世話してみる気はありませんか?
- ヘルカ: …どうしてですか?
- ラマ: この尼僧院に少しでも 愛着を持ってほしいからです
- ヘルカ: 執着を薦めるんですね… 変わっています
- ラマ: 確かに教えの観点から言えば そうだと思いますが…
- ラマ: 教えだけの生など つまらないではありませんか…
- ヘルカ: …………
- ヘルカ: 薄々、私はわかっていました
- ヘルカ: このときからラマは ラクシャーシーの儀に反対していて そして…
- ヘルカ: 私に何かを期待している、と…
- FILENAME: text_310511-3.txt
- 僧侶: 「起床ー…起床ー…」
- ヘルカ: …………
- ヘルカ: …あひゃ、ひゃ…
- ヘルカ: ううん… …すう…すう…
- ヘルカ: って、うわああああああ!!
- ヘルカ: い、いけない! ドルマ!寝坊ですよ、寝坊!
- ヘルカ: …あ、もういない…
- ヘルカ: うぬぬ…声くらいかけて くれてもいいじゃないですか!
- ドルマ: いや、かけたわよ…あんたは バカみたいに口開けて寝てたけど
- ヘルカ: バ、バカぁ!?
- ドルマ: その寝起きの悪いところ どうにかしなさいよね
- ドルマ: 前も寝坊で、座学に遅れたことが あったでしょ?
- ヘルカ: うう…気をつけまーす…
- ヘルカ: 朝が弱いせいでドルマに注意されるのは もう何度目になるでしょう
- ヘルカ: 最近では、昔と違って 私の方がドルマに引っ張ってもらっています
- ヘルカ: いえ、違います… それだけドルマにムリをさせているのです
- 少女僧: ねえねえ、独習の時間 抜け出そうよ
- ドルマ: ええー…
- 少女僧: いいじゃない、行こうよ ドルマがいないとつまんないもん
- ドルマ: うーん…じゃあ、 こっちの頼み事も聞いてくれる?
- ヘルカ: (もうすっかり ドルマは人気者ですね…)
- ヘルカ: そう、ドルマは人気があったのです 尼僧院では一番頭もよくて 運動もできて…一目置かれる存在
- ヘルカ: そういう特別な存在に ドルマはなっていたのです
- 指導僧: はい、皆さん座りなさい 座学をはじめますよ
- 少女僧: はーい
- 少女僧: じゃあ、あとでね
- ドルマ: よろしく…
- ヘルカ: (…私の方はすっかり 劣等生扱いですけどね…)
- ヘルカ: 最初こそ奇跡を起こした人物として みんな私に期待を寄せていたのですが
- ヘルカ: 特別でも何でもない つまらないやつだとわかると みんな離れていきました
- ヘルカ: (それでも構いません… いや、むしろ…)
- ヘルカ: 誰からも期待されないのが とても居心地よかったのです
- 指導僧: ―指導僧― …“もの”それ自体はある固有の存在 でしかありませんが
- 指導僧: ―指導僧― 見る者の視点によって 無限の変容が起こるのですね
- ヘルカ: ―ヘルカ― …………
- 指導僧: ―指導僧― それによって、ものと形と私たちとの間に 願望や希望を介した特殊な関係が生まれる…
- 指導僧: ―指導僧― 非常に面白いですね
- ヘルカ: ―ヘルカ― ふふ…
- ヘルカ: まあ 全然わかっていなかったんですけどね
- ヘルカ: ろくに勉強などせず せいぜいラマに言われた 花の世話をしているだけ
- ヘルカ: そんな私がついていけるわけありませんでした
- ヘルカ: けれど、まったくわからないというのも なんだか格好が悪いように思い 当時の私は、わかっている雰囲気だけ 出すようにしていました
- ヘルカ: …まあ、先生たちには バレていたと思いますが…
- 指導僧: ―指導僧― ではこの問題を…ドルマ
- ドルマ: ―ドルマ― はい
- ヘルカ: ドルマは先生に出された問題を すらすらと答えていきます
- ヘルカ: そんなドルマをみんなは すごいといった目で見つめるのです
- ヘルカ: はっはっは、どんなもんだ ドルマはすごいでしょう!
- ヘルカ: 鼻が高くなって仕方ない… 私の幼馴染みが自慢すぎる…
- ヘルカ: だから…
- 指導僧: ―指導僧― 大変立派です…その調子で研鑽を積み ラクシャーシーになってください
- 指導僧: ―指導僧― 悪しきモンゴル軍を皆殺しにするために
- ドルマ: ―ドルマ― はい、必ず!
- ヘルカ: どうか、憎しみに染まりきらないでほしい
- ヘルカ: そういった感情が持てるのは 確かに羨ましくもありましたが
- ヘルカ: やっぱりドルマには 似合わないと思ったのです
- ヘルカ: 私にとってドルマは… 幼い頃、私の後ろに隠れていた あの可愛いドルマのままなのですから…
- 少女僧: やあ!
- 指導僧: 何ですか、そのへっぴり腰は 槍は勢いよく突き刺しなさい
- 指導僧: この案山子は的ではありません モンゴル兵です
- 指導僧: 憎しみを込めて、 殺すつもりで刺しなさい!
- 少女僧: …っはあッ!!
- ヘルカ: 座学が終われば教練と呼ばれる 槍や弓の扱いを学ぶ時間がありました
- ヘルカ: このことからも尼僧院が ラクシャーシーを優れた兵だと 見做しているのが窺えます
- ヘルカ: …ラマはそんな考えに 本心では反発していたようですが 実際に指導をしてくれる先生方は そうではありませんでした
- 指導僧: では次、ヘルカ
- ヘルカ: …はい
- 少女僧: ふう… あ、次はヘルカなんだ
- 少女僧: くすくす… できっこないのにね
- 少女僧: 前までは 期待してたんだけどなあ
- ドルマ: …私語はやめなさい 教練中よ
- 少女僧: あ、うん…ごめんね
- 少女僧: ヘルカがんばれ~ モンゴル兵なんてやっつけちゃえ
- ヘルカ: …………
- 指導僧: 何を躊躇うのです…それでは ラクシャーシーになれませんよ
- ヘルカ: …えい…
- 指導僧: なっ…何ですか そのやる気のなさは…!
- ドルマ: 先生、次はあたしでいいですか?
- 指導僧: …はあ…そうですね そうしてください
- ヘルカ: …えへへ…
- 少女僧: あれじゃあ ヘルカはダメだね
- 少女僧: だね、脱落決定 競う相手が減ってよかったあ
- ヘルカ: …………
- ヘルカ: みんな、ラクシャーシーになりたいのです ジャータカ様に選ばれる存在に… そういう特別な存在になりたいのです
- ヘルカ: 理由は簡単です… 家族や大切な人をモンゴル軍に奪われたから 復讐するための力がほしいのです
- ヘルカ: …私には、よく… わからないや…
- FILENAME: text_310511-4.txt
- ヘルカ: …よいしょ、よいしょ…
- ヘルカ: また虫がついてますね… なんでこんなに寄ってくるかなあ
- ヘルカ: …よし、こんな感じですね
- ヘルカ: きれいになった
- ヘルカ: この青い花… ドルマは覚えているかな…?
- ラマ: 精が出ますね
- ヘルカ: …別に…言われたから やっているだけですよ
- ラマ: しかし、荒れ放題だった花が ここまできれいになった…
- ラマ: …あなたのおかげです
- ヘルカ: はあ… ラマの意図はわかっています
- ヘルカ: 花の世話を通じて 私に尼僧院へ関心を持たせ
- ヘルカ: そして、尼僧院のみんなのために 修行を頑張ろうって思わせる…
- ヘルカ: …そうなんですよね?
- ラマ: あなたはひどく冷静なんですね
- ラマ: しかし、違います
- ラマ: 単に尼僧院を好きになってほしい …それだけです
- ヘルカ: 教練以外は好きですよ
- ラマ: まだ、慣れませんか?
- ヘルカ: 慣れないというか… よくわからない、ですかね
- ラマ: よくわからない?
- ヘルカ: はい、わからないんです 憎むことが
- ラマ: それは… モンゴルの兵も救いたいと?
- ヘルカ: いえ、そんな立派なものじゃなく 何なんでしょうね…つまり…
- ヘルカ: …無意味だなって
- ラマ: …………
- ヘルカ: あ、見下してるとか呆れてるとか そういうことではなくて
- ヘルカ: そんな無意味なことより、毎日を もっと明るく楽しく過ごせば…
- ヘルカ: そうすればみんな幸せに なれるのにって思っていて…
- ヘルカ: そのほうがよくないですか?
- ラマ: …どうせモンゴル軍には 勝てないから?
- ヘルカ: はい
- ラマ: …あなたの故郷はモンゴル軍に 滅ぼされましたよね?
- ラマ: それでも 憎む気持ちはないと?
- ヘルカ: 憎んだからって 仕方ないじゃないですか
- ヘルカ: …教えに従って心穏やかに 泣いたり怒ったりせずに暮らす
- ヘルカ: それでいいじゃないですか
- ラマ: …しかしそれでは 何も守れませんよ
- ヘルカ: …………
- ラマ: 我々はラクシャーシーについて あまり知ってはいません
- ラマ: 人知を超えた力を持ち 魔を払う…
- ラマ: しかしなぜそんなことが できるのかわからないのです
- ラマ: 唯一わかっているのは その力があれば多くを守れること
- ラマ: あなたにだって 守りたいものはあるでしょう…?
- ヘルカ: 守りたいもの…
- ヘルカ: すみません、ドルマ 遅くなって…
- ドルマ: う、うう…
- ヘルカ: ドルマ…
- ヘルカ: ドルマは夜が怖くて よく泣いていましたよね
- ヘルカ: …モンゴル軍が私たちの故郷を 襲ったのが、夜だったから…
- ドルマ: …あっ
- ヘルカ: ドルマは私を認めると 少しばつが悪そうにしました
- ヘルカ: 私は何も見なかったかのように 少しだけ笑みを浮かべて 手を差し伸ばします
- ヘルカ: 私がいるから、もう大丈夫です
- ドルマ: うん
- ヘルカ: 寝台に行きましょう? もう眠る時間です
- ドルマ: …その言葉遣い、やめてよ 昔みたいに喋って
- ヘルカ: どんな言葉遣いをしていたか もう忘れてしまいましたよ
- ドルマ: 故郷で、救世主だって 言われる前…
- ドルマ: ヘルカはそんな丁寧な 言葉遣いをしてなかった
- ドルマ: …あの頃みたいに話して
- ヘルカ: だから… もう忘れてしまったんです
- ドルマ: …………
- ヘルカ: それに、ドルマだって 口調は変わっていますよ
- ドルマ: それは…ヘルカと、もっと 対等になろうって、思って…
- ヘルカ: いずれにせよ、すべては移ろい 変わっていくのです
- ヘルカ: もとに戻すことなど 誰にもできません…
- ヘルカ: けれど私にも変わらない思いはある それは…ドルマを守りたいという思い
- ヘルカ: このままではドルマは ラクシャーシーになってしまうかもしれない そうすれば悲劇が待っているかも…
- ヘルカ: …そんなことはさせない
- ヘルカ: どうする?私がドルマのかわりに ラクシャーシーになる?
- ヘルカ: ドルマのためにまた 人々の希望を背負い モンゴル軍と戦う…?
- ヘルカ: …私が、みんなの希望の ラクシャーシーに…
- ヘルカ: でも私には、みんなの気持ちが よくわかりません
- FILENAME: text_310512-1.txt
- ヘルカ: 私は、バター茶を 甘い飲み物だと思っていました
- ヘルカ: 煮出したお茶に、ヤクのバターとお乳 それから塩を混ぜ合わせた飲み物なので 実際は甘いというよりしょっぱい味がします
- ヘルカ: けれどおばあちゃんが生きていた頃 あれは甘い飲み物なんだと思い込んでいて 私は飲んでみたくて仕方ありませんでした
- ヘルカの母: 「あんなのしょっぱいだけよ お母さん、嫌いだわ」
- ヘルカ: 嘘だ、とっても甘い匂いがするもん お母さんたちは隠してるんだ、私が寝たあとに 大人だけでバター茶を飲んでるんだ
- ヘルカ: そう言って泣く私を不憫に思ったのか おばあちゃんがこっそりバター茶を 私のために用意してくれました
- ヘルカ: おばあちゃんのバター茶は 私の思っていた通り、甘かった
- ヘルカの祖母: 「欲しくなったらまたおばあちゃんに 言うんだよ」
- ヘルカの祖母: 「みんなには内緒だからね」
- ヘルカ: それからおばあちゃんが死んでしまうまで 私は甘いバター茶をたっぷり飲ませて もらいました
- 人々: 「どうぞ…ラクシャーシー様の好きな バター茶ですよ」
- ヘルカ: 私が…奇跡を起こしたラクシャーシー ということになってから 集落の人たちの態度は変わりました
- ヘルカ: まるで私にお供えをするかのように 色んなものをみんなが 持ってきてくれるようになったのです
- ヘルカ: 『…しょっぱい』
- ヘルカ: はじめて飲んだ おばあちゃん以外が淹れてくれた バター茶は、とてもしょっぱく感じました
- ヘルカ: あとでわかったのですが おばあちゃんはバター茶に塩ではなく 高価な砂糖を入れてくれていたそうです
- ヘルカ: 身の回りのものを売ったり もう体もあんまり丈夫じゃないのに 遅くまで内職をしたりしてお金を稼ぎ
- ヘルカ: 私の信じる“甘いお茶”という幻想を 現実のものにしてくれていたのでした
- 人々: 「お気に召しませんでしたか?」
- ヘルカ: 『…ううん、おいしい とっても甘くて』
- ヘルカ: 私はバター茶は甘い飲み物だと 信じつづけることにしたのです
- ヘルカ: けれど、ただ信じているだけでは ダメなのです…行動をしないと
- ヘルカ: そうじゃないと…ドルマは ラクシャーシーになってしまう
- ヘルカ: そんな思いを強くしたのがこの日でした…
- ヘルカ: さて… …掃除もこれで終わりです
- ヘルカ: それにしても…ラマなんですから もっといい部屋に住めばいいのに
- ヘルカ: 私たちの部屋と違いが あるとすれば…
- ヘルカ: …これですね
- ヘルカ: ラマの部屋には経典などの他に 歴史や物語などの書き写しが 多くありました
- ヘルカ: 私は悪いと思いながらも 掃除の度に つい読み耽っていたのです なかでも私が興味を持ったのが…
- ヘルカ: …モンゴルの言葉 だいぶわかるようになりました
- ヘルカ: ――っ!?
- ヘルカ: この足音… ラマが戻ってくる…
- ヘルカ: 貝葉が散らばったままですし… み、見つかる前に隠れないと…っ
- ラマ: …ここなら誰にも 聞かれる心配はないでしょう
- ラマ: うん…?
- ドルマ: ラマ、ちゃんと整理しなさいよ 書き写しが散らかってる
- ラマ: …そうですね
- ラマ: それで…ラクシャーシーの儀に ついてでしたか?
- ドルマ: そうよ いつやるの?
- ラマ: まだその予定はありません
- ドルマ: ずっとそればっかり! いつまで待たせるの?
- ラマ: ジャータカ様のお心次第ですので
- ドルマ: だったらジャータカ様に会わせて 直談判するわ!
- ラマ: いけません、そんなこと
- ドルマ: ダメって言われても みんな待ちきれなくなってるわ
- ドルマ: …そのうち暴発するかもね
- ラマ: …………
- ドルマ: よく考えて これからのことを決めなさい
- ラマ: …ふう ヘルカ、そこにいますね?
- ヘルカ: …気づいていたんですか…?
- ラマ: やれやれ… モンゴル語は覚えましたか?
- ヘルカ: そこまで知られているんですね
- ラマ: よく読まれた痕跡が ありましたからね…
- ヘルカ: …それよりラマ ドルマのことですが…
- ラマ: …ついてきてくれませんか? 行きたい場所があるのです
- ヘルカ: どこへ?
- ラマ: ラクシャーシーの儀が 行われる場所へ
- ラマ: …着きましたよ
- ヘルカ: ここが…
- ヘルカ: (私とドルマが閉じ込められた あの洞穴に似てる…)
- ラマ: ここで ラクシャーシーの儀…つまり
- ラマ: ジャータカ様との契約が 結ばれます
- ヘルカ: ジャータカ様はどちらに…?
- ラマ: いえ、ジャータカ様は 滅多にお姿を見せてくれません
- ラマ: というより、選ばれた者しか お目にかかれないのです
- ラマ: 我々は候補となる者を ここへ連れてきているだけ…
- ヘルカ: …何が行われているのかも 知らないんですよね?
- ラマ: …あなたにだけ言いますが ラクシャーシーの儀というのは
- ラマ: 人を悪鬼羅刹にする 恐ろしい儀式なのかもしれません
- ラマ: そもそもラクシャーシーとは そういう意味の言葉ですからね…
- ヘルカ: …他の尼僧院の少女僧も ここでラクシャーシーに?
- ラマ: いいえ、それぞれ違う場所で 儀式を行っていますが…
- ラマ: 他の尼僧院はもう存在しないので ここが唯一の場所かもしれません
- ヘルカ: 存在しない…?
- ラマ: モンゴル軍に焼き払われたのです
- ラマ: 今朝方、北の尼僧院も襲われたと 知らせが届きました
- ヘルカ: …………
- ラマ: ヘルカ…こんな言い伝えを 聞いたことがありませんか?
- ラマ: チベットの大地の下には ラクシャーシーが横たわると
- ヘルカ: はい、あります… チベットの礎になったって…
- ラマ: ラクシャーシーになった少女は 皆、チベットのために戦い…
- ラマ: そして全員 非業の最期を遂げました
- ヘルカ: …そんな歴史がつづいてきたと?
- ラマ: ええ、何百年もラクシャーシーの 力は利用されてきました
- ラマ: …そのバチが 当たったのかもしれませんね
- ヘルカ: …ラクシャーシーの儀など やめたらいいじゃないですか
- ヘルカ: 引き返せるうちに 引き返した方がいいですよ
- ヘルカ: いい提案だと思いました ラクシャーシーの儀が中止になれば ドルマがラクシャーシーにならなくて済む 私もそんなものにならずに済む
- ヘルカ: だからラマを説得し 中止の確約を取ったのです
- ヘルカ: まさかあんなことになるとは知らずに…
- FILENAME: text_310512-2.txt
- 指導僧: …今日はここまで 消灯までは独習とします
- 少女僧たち: わーい!
- 指導僧: …いいですか、独習ですよ? 遊びの時間ではありませんよ?
- 少女僧たち: わかってまーす
- 指導僧: …わかってないでしょうに まったく…
- ドルマ: ヘルカ
- ヘルカ: …………
- ドルマ: …………
- ドルマ: 起きなさいよ!
- ヘルカ: うわああああ!!
- ヘルカ: はあ、はあ…びっくりした 大きな声出さないでください
- ドルマ: 居眠りなんかしてるからよ
- ヘルカ: あ、もう終わったんですね えへへ…ずっと寝てました
- ドルマ: はあ…まあいいわ
- ドルマ: それより、さ… バター茶飲みにいかない?
- ヘルカ: バター茶!
- ドルマ: ヘルカ、好きでしょ?
- ヘルカ: 好きってもんじゃないですよ 常に飲みつづけていたいです!
- ヘルカ: あ、でも、いいんですか? 独習しなくて
- ドルマ: うん…ヘルカに話があるの だから、ふたりで…
- デキー: え!なになに!? 遊びにいくの!?
- ヘルカ: はい、ドルマがバター茶 飲みにいこうって
- デキー: えー!?やったー!! 私も行く行く!!
- ドルマ: …………
- ヘルカ: じゃあ私、ちょっとだけ お花を見てきますから
- デキー: 先に行って待ってようか!? うっひょーい、楽しみだあ!!
- ドルマ: …………
- デキー: …え、機嫌悪い?
- ドルマ: 別に
- ヘルカ: 尼僧院は小高い丘の上にあって その下には町が広がっています
- ヘルカ: 本当は無闇に町へ行くことは 禁じられているのですが 私たちは頻繁に遊びに出ています
- ヘルカ: 見つかったら、さすがに怒られますが… でもこうやって抜け出してみんなと遊ぶのは いけないとわかっていても、とても楽しいです
- デキー: ここだよね!? このお店!!
- ドルマ: そうだけど…もうちょっと 声を落としてよ
- ヘルカ: 私たち少女僧はお金を持っていないので 物を買ったりすることはできません
- ヘルカ: ですが、この町のみなさんは無償で… 喜捨という形で食べ物や衣服などを 私たちに与えてくれるのです
- ヘルカ: バター茶もそのうちのひとつでした
- デキー: わくわく…
- ドルマ: …あんた、そんなに好きなの?
- デキー: あのしょっぱさがスープみたいで 好きなんだ!!
- デキー: ヘルカもしょっぱいの好き? 一緒だね!!
- ヘルカ: いいえ 私は甘いものが好きです
- デキー: …そうなの?
- ドルマ: そうなのよ
- デキー: え、なんでドルマが答えるの…
- ヘルカ: …あ、バター茶が できたみたいですよ
- ヘルカ&デキー: わーい!
- ヘルカ: そして…バター茶を飲みながら 私たちはお喋りをしました
- ヘルカ: ドルマは何か話したいことが あったみたいですが、デキーがいたせいで 話せないみたいでした
- ヘルカ: それはちょっと気になりましたけど このひとときがなんだか楽しくて あとで聞けばいいやって思っていたのです
- 住民: 「モンゴル兵だ!」
- ヘルカ: …この誰かの悲鳴のような声を 聞くまでは
- FILENAME: text_310512-3.txt
- ヘルカ: モンゴル兵は…あそこですか
- ドルマ: …誰か追われている?
- ヘルカ: 見た限りモンゴル兵といっても 数騎しかいません
- ヘルカ: 哨戒中に不審な集団を 見かけたから追ってみた…
- ヘルカ: おそらく そんなところでしょう
- ヘルカ: …デキーはラマにこのことを 知らせてください、私は…
- デキー: ヘルカは、どうするの!?
- ヘルカ: …町のみなさん!あそこで チベットの同胞が襲われています
- ヘルカ: 私はこれから彼女らを迎えに いきますので…
- ヘルカ: みなさんもついてきてください
- デキー: ――っ!?
- 住民: 「つ、ついてこいって…」
- 住民: 「やられちゃうんじゃ…」
- ヘルカ: 心配しなくていいですよ
- ヘルカ: 私についてくれば、 きっと大丈夫ですから
- ドルマ: …そうやってすぐ 特別になろうとして…
- ヘルカ: 町の人々は渋々ではありましたが 協力してくれました
- ヘルカ: すると、モンゴル兵も住民がぞろぞろと 出てくるのも見て分が悪いと悟り 逃げ帰っていったのです
- ヘルカ: …まあ、こんなのはただのハッタリ 向こうが少数だから通じた手です 驚くようなことではありません
- ヘルカ: むしろ…助けた集団が モンゴル軍に襲撃を受けた 北の尼僧院の生き残りだった方が よっぽど驚くべきことでした
- 北の尼僧院の少女僧: ごめんなさい、 巻き込んでしまって…
- 北の尼僧院の少女僧: でも私たち 他に行くところがないの…
- ヘルカ: 別に追い出したりしませんよ そんなの、つまらないです
- ヘルカ: みんなで仲よく過ごせば いいじゃないですか…ね?
- 北の尼僧院の少女僧: …ね、ねえ もしかして、あの子って…
- 北の尼僧院の少女僧: きっとそうよ そうに違いないわ…
- 北の尼僧院の少女僧たち: 「この尼僧院のラクシャーシー様だ」
- ヘルカ: え…
- ドルマ: …ちっ
- 北の尼僧院の少女僧: ラクシャーシー様がいるなら もう安心です
- 北の尼僧院の少女僧: 一緒にモンゴル軍を やっつけましょう!
- ヘルカ: いえ、私は…
- ドルマ: ヘルカは今疲れてるから 話はあとにして
- ドルマ: …あんたたちも浮かれてないで 報告すべきことがあるわよね?
- 北の尼僧院の少女僧: あ、はい…
- ドルマ: とにかく、尼僧院に行きましょう
- ヘルカ: それから… 北の尼僧院の少女僧たちは 自分たちが体験してきたことを ラマに話しました
- ヘルカ: 北の尼僧院にはラクシャーシーが いたそうなのですが…
- ヘルカ: 大切な友人…敬愛する北の尼僧院のラマ… そういった人たちがモンゴル兵の手にかかると “魔”に取り憑かれてしまったそうです
- ヘルカ: 詳しい意味はわかりませんでしたが いずれにせよ、敗れたのでしょう
- ヘルカ: ともかく、ここ以外のすべての尼僧院は モンゴル軍の手に落ちてしまったようです
- ヘルカ: ここが、最後の希望…
- ヘルカ: ですがラマの命令は みんなの期待から外れたものでした
- ヘルカ: …唯一、私を除いて
- ラマ: こんな夜更けに集まってもらって 申し訳ありません
- ラマ: ですが、至急みなさんに お伝えしたいことがありまして…
- ヘルカ: …ドルマ、夜だけど大丈夫?
- ドルマ: ヘルカがいるから平気
- ラマ: 北の尼僧院がモンゴル軍によって 焼き払われてしまいました
- ラマ: 北のラクシャーシーも奮戦した ようですが、残念ながら…
- 少女僧たち: そんな…
- ラマ: 現在、連絡の取れる尼僧院は 他にどこにもありません
- ラマ: 孤立し、救援も望めぬ以上 私たちはこう決断せざるを得ない
- ラマ: この尼僧院を放棄し 避難の準備をはじめます
- 少女僧たち: ――っ!?
- ラマ: 当然、ラクシャーシーの儀は 行いません
- ドルマ: …………
- ドルマ: え…なんで…? ね、ねえヘルカ…なんで?
- ヘルカ: なんでって…仕方ないですよ それに…
- ヘルカ: …もういいじゃないですか ラクシャーシーに夢なんて見ず
- ヘルカ: みんなで逃げて、どこかの村で 楽しく過ごせば…
- ドルマ: …ふ…ふふ…そう… そうきたか…
- ヘルカ: どうしたのですか?
- ドルマ: 見ててね、ヘルカ あたしが変えてあげるから
- ドルマ: あたしが、あんたを救うの!
- ヘルカ: それって…どういう…
- ドルマ: みんな!
- ドルマ: ラマを捕まえろ! そいつはモンゴルの手先だ!!
- ヘルカ: ――っ!?
- FILENAME: text_310512-4.txt
- ヘルカ: ――っ!?
- ドルマ: 北の尼僧院が襲われたのも そいつが情報を売ったから…
- ドルマ: そして今度はうちってわけ
- ラマ: な、何を言うのです… 聡明なあなたらしくない…
- ドルマ: あたしは知ってるの
- ドルマ: 誰もラクシャーシーにさせず 尼僧院を弱体化させるんでしょ?
- ドルマ: みんな、こんなことが 許されると思う?
- 少女僧: …ゆ、許されない!
- 少女僧: ラマを捕まえよう!
- ラマ: どうして、そんな…
- ラマ: みなさんもわかっているはず すべてデマカセだと
- ドルマ: ははは… ラマはこんなことも知らないの?
- ドルマ: 「人は、信じたいものを信じるのよ」
- ドルマ: …嘘だとわかっててもね
- ラマ: …………
- ラマ: …そうでしたね
- ドルマ: こいつを縛りつけて! 他の坊主どもも拘束しにいくわよ
- デキー: みんなやっつけちゃうの!? グルだったの!?
- ドルマ: そりゃそうよ!あたしたちを いいように利用してたの
- ドルマ: もうこの尼僧院に 汚い大人はいらない
- ドルマ: いい?今日からここは…
- ドルマ: 「あたしたちのシャンバラよ」
- ヘルカ: ドルマ…
- ヘルカ: ドルマの周りには多くの少女僧が集まり 指示に従ってラマを縛りつけました
- ヘルカ: こんなにも疑いなくドルマの言うことを みんなが聞くなんて…おそらく以前から ラマの悪評でも流していたのでしょう
- ヘルカ: そして自分の同志にして きっかけが訪れればこの尼僧院を奪う…
- ドルマ: ヘルカ、見ていてくれた?
- ヘルカ: …ドルマ、どうするんです こんなことをして…
- ドルマ: どうするって… ラクシャーシーになるのよ
- ドルマ: ラクシャーシーの儀を行ってね あたしに力を授けてもらうの
- ヘルカ: そんな…
- ドルマ: 大丈夫、心配しないで あたしが守ってあげるから
- ヘルカ: …ドルマは何もわかっていない
- ヘルカ: あなたが私を守るんじゃない… 私があなたを守るんです…!
- ドルマ: あっ、ヘルカ…!
- 少女僧: こっちも捕まえたよ!
- 少女僧: もっと捜そう!
- ヘルカ: …………
- ヘルカ: ついさっきまで先生とされていた大人たちは いまや追われる身になっています
- ヘルカ: 彼らを捕まえてジャータカ様のもとへ 自分たちを連れていかせるのが目的のようですが そもそもそれは無理なこと…
- ヘルカ: ラマですらジャータカ様とは まともに会えないのですから
- ヘルカ: …こんなことをしたって何にもなりません いえそれどころか、本来は不要な 辛くて悲しい思いをすることになるでしょう
- ヘルカ: 私には、ジャータカ様の行方を掴めず 求心力を失って、みんなのやり玉に挙げられ 惨めな最期を迎えることになるドルマが見えます
- ヘルカ: 予感があるのです
- ヘルカ: 私はドルマを守ると決めたのですから そんなことは阻止しなくてはなりません
- ヘルカ: もしドルマを守れなかったら 今度こそ本当に私は何者でもなくなる…
- 北の尼僧院の少女僧: …あ、あの…
- ヘルカ: 知らない人に声をかけられたと思ったら 彼女は昼間に助けた別の尼僧院… 北の尼僧院の少女僧でした
- ヘルカ: 彼女の他にも北の尼僧院の少女僧が ぞろぞろと姿をあらわします
- 北の尼僧院の少女僧: いったい、 何が起きているんですか?
- ヘルカ: ああ、それは…
- ヘルカ: 事情をかいつまんで説明すると 彼女は難しい顔をしました
- ヘルカ: 助かった矢先にこんな内部のゴタゴタに 巻き込まれたのです、きっとため息でも 吐きたい心境なんだろうなと思ったら…
- 北の尼僧院の少女僧: わかりました 私たちも協力します
- ヘルカ: え…?
- 北の尼僧院の少女僧: 尼僧院をもとに戻すために 行動するんでしょう?
- 北の尼僧院の少女僧: それくらいは 恩返しさせてください
- ヘルカ: どうも彼女たちは私のことを 誤解している様子でした
- ヘルカ: 私が彼女たちを助けたのは 別に正義感や使命感に 突き動かされたからではありません
- ヘルカ: あのまま放っておくと ドルマが危険な目に遭うと思ったからです
- ヘルカ: ドルマはラクシャーシーになりたがっている… そのため、自分自身に特別であることを課して 英雄的な行動を取ろうとするんじゃないか…
- ヘルカ: そんなふうに思ったから 阻止しようと動いているだけに過ぎません
- ヘルカ: …なのにどうして彼女たちは 特別な存在を見るような目で 私を見るのでしょうか
- ヘルカ: あっ…
- ヘルカ: 遠くの方に小さな灯りが いくつもゆらゆらと動いています あれは人が持つ松明…
- ヘルカ: モンゴル兵…
- ヘルカ: すぐにわかりました 昼間のモンゴル兵が仲間を連れて 戻ってきたのだと
- ヘルカ: つまり彼らは 本格的にこの町を襲うつもりなのです
- 北の尼僧院の少女僧: まずいよ、こんなときに…
- 北の尼僧院の少女僧: …これからどうしますか? 私たちはあなたについていきます
- ヘルカ: 逃げた方がよくありませんか?
- 北の尼僧院の少女僧: 逃げるよりもあなたについていく 方が、うまくいく気がしますから
- ヘルカ: …そんなふうに期待するのは やめてください
- ヘルカ: でも…立ち向かわなくてはならない そうしないとドルマを守れないから
- ヘルカ: 私は、特別なんかじゃないのに
- FILENAME: text_310513-1.txt
- 北の尼僧院の少女僧: ヘルカさん 一応、配置につきましたけど
- 北の尼僧院の少女僧: 本当にいいんですか…?
- ヘルカ: これが一番賢いやり方なんです
- ヘルカ: みんなは話がつくまで 攻撃を食い止めてください
- 北の尼僧院の少女僧: は、はい…
- ヘルカ: …モンゴル兵が 向かってきていますね…
- ドルマの声: 何やってるのよ、あんた!
- ヘルカ: ――っ!?
- ドルマ: なんであんたが 指揮なんてしてるの…?
- ドルマ: あたしがかわりを引き受けて あげようとしてるのに…!
- ヘルカ: …だからです
- ドルマ: え…?
- ヘルカ: あなたに危ない思いを してほしくない…
- ヘルカ: …だから私が戦うのです
- ドルマ: …………
- ドルマ: …みんな、聞いて 今から敵に突撃するわ
- 少女僧たち: ――っ!?
- ドルマ: みんな、言ってたわよね モンゴル軍が憎いって
- ドルマ: 今が復讐を果たすとき… 命をかけるわよ、みんな!
- 少女僧たち: …………
- ドルマ: なんでよ…
- ドルマ: モンゴル軍が憎いんでしょ? それは嘘じゃないんでしょ?
- ドルマ: だったらどうして… 戦えないのよ
- ヘルカ: モンゴル軍を憎む気持ちは 本当なのでしょうが…
- ヘルカ: だからといって…みんな 死にたいわけではありません
- ドルマ: …あたしが指揮すると みんな死ぬって?
- ヘルカ: はい、そうです
- ドルマ: …くっ
- ヘルカ: でも…大丈夫です 戦いは終わりますから
- ドルマ: 戦いが終わるって… 何か策があるの…?
- ヘルカ: 『いいえ、私たちは敗北を受けいれるのです それで戦いが終わります』
- ドルマ: …え?
- ヘルカ: 敵の数は相当多いです 昼間とは比較になりません
- ヘルカ: 仮にここで敵を退かしても 彼らはまた軍を率いて襲来する…
- ヘルカ: 彼らに目をつけられた時点で もう終わっているんです
- ヘルカ: …私たちの戦いは
- 少女僧: そ、そんなの北の人たちが 全部悪いんじゃない!
- ヘルカ: 彼女らを助けたのは私です だから悪いのも私です
- ヘルカ: すべての責任は私にある
- ドルマ: ヘルカ…あんた、 何をするつもり…?
- ヘルカ: この場合の責任の取り方は そう多くないと思いますよ
- ドルマ: だから、何をするつもりなの!
- ヘルカ: 敵に捕まるつもりです
- ドルマ: ――っ!?
- ヘルカ: これから、尼僧院の代表として モンゴルに降伏を申し出ます
- ヘルカ: 私の首だけで済めばいいのですが 最悪、ラマも道連れになるかも…
- ヘルカ: あはは…まあ、そうならない ように頑張ってみます
- ヘルカ: これが一番、被害が少なく 済みますからね
- ヘルカ: あ、一応尼僧院の代表は私だと 口裏を合わせておいてくださいね
- ドルマ: …ちょっと… ちょっと待ってよ
- ドルマ: なんで、そうなるの…? なんでヘルカが犠牲に?
- ドルマ: そんなのおかしいじゃない
- ヘルカ: 犠牲ではありませんよ 自分の責任を取るだけです
- ドルマ: 一緒よ! ヘルカがいなくなるんだもの!
- 少女僧: け、けど…それでモンゴル軍が 退いてくれるなら…
- ドルマ: お前…っ!
- ヘルカ: いけませんよ、ドルマ 友だちにお前なんて言うのは
- ドルマ: でも…!
- 北の尼僧院の少女僧: あの、ヘルカさん… もう攻撃を防ぎきれなくて…
- ヘルカ: わかりました、行きましょう
- 北の尼僧院の少女僧: …………
- ヘルカ: そんな顔をしないでください あなたのせいではないのですから
- 北の尼僧院の少女僧: …必ずモンゴル軍に仇討ちを
- ヘルカ: それこそ私の行動が 無意味になります
- ヘルカ: だからやめてください つまらないです、そんなの
- ドルマ: …………
- ドルマ: …は…ははは…
- ヘルカ: ドルマ?
- ドルマ: 自分を犠牲にしてみんなを救う? みんなの生命の礎になる…?
- ドルマ: そんなの…ラクシャーシー そのものじゃない!
- ヘルカ: ドルマ…!
- 少女僧: モンゴル兵に向かってる!? 自棄になったんだ!
- ヘルカ: …今すぐ あれを用意してください!
- ヘルカ: 降伏はやめです ドルマを救うのが最優先です!
- FILENAME: text_310513-2.txt
- ドルマ: うあああ…ッ!
- モンゴル兵: …ふん、この程度…
- ドルマ: きゃあ…っ!
- モンゴル兵: 愚かなやつだ 単身で戦いにくるとは
- モンゴル兵: お前相手なら勝てると 思ったんだろう
- モンゴル兵: 何だと!
- モンゴル兵たち: はっはっはっは…
- ドルマ: …なに笑ってんのよ
- ドルマ: 言葉はわかんなくても バカにされてるくらいわかるわ
- モンゴル兵: こいつ、まだやる気か…?
- ドルマ: …あたしは…負けない…
- ドルマ: あんたたちなんかに 絶対に負けない
- ドルマ: だって、あたしが負けたら ヘルカが戦うことになるもの
- モンゴル兵: この…!
- ドルマ: くっ、あ…っ!
- モンゴル兵: そろそろ遊びも終わりにするか? ええ?
- ドルマ: うるさい、うるさい…
- ドルマ: わけのわかんない言葉で 話しかけてくるな…!
- ドルマ: あんたたちなんか消えろ!
- ドルマ: あんたたちなんかがいるから ヘルカが戦うことになるんだ!
- ドルマ: あたしのヘルカちゃんを 傷つけるな…っ!
- ドルマ: な、なに…これ…?
- ヘルカの声: ドルマ、伏せてください!
- ヘルカ: 間一髪間に合ったとき 私が放り投げたのは モンゴル軍からろかくし 教練で使っていた…
- ヘルカ: てつはうです
- ヘルカ: 激しい音がする度に地面が揺れ 馬は啼き、兵たちが振り落とされる
- ヘルカ: あのモンゴル軍が 自分たちの武器を使われて混乱に陥り 壊走しはじめていました
- ドルマ: …奇跡だ…
- ヘルカ: そんなたいそうなことでは ありませんよ
- ドルマ: え…?
- ヘルカ: ―ヘルカ― 急に走り出したときは 本当に焦りましたけど…
- ヘルカ: ―ヘルカ― まあ、無事でよかった… ドルマが死んだりしたら、いやですから
- ドルマ: ―ドルマ― …………
- ヘルカ: ―ヘルカ― ああ、てつはうですか?尼僧院にあったんです 使い方は以前見たときに覚えましたから…
- ヘルカ: ―ヘルカ― 交渉がうまくいかなかったときの 最後の手段として用意してたんです
- ヘルカ: ―ヘルカ― これを使って、私ごと爆発してやろうって
- ドルマ: ―ドルマ― …なんで、そこまでするの?
- ヘルカ: ―ヘルカ― ドルマを守りたいからです
- ドルマ: ―ドルマ― …あたしを、守りたい?
- ヘルカ: ―ヘルカ― はい
- ドルマ: ―ドルマ― なんでそんなことが言えるの
- ヘルカ: ―ヘルカ― え…?
- ドルマ: ―ドルマ― 本当に守ろうと思ってるなら… 死のうとしないでよ
- ドルマ: ―ドルマ― 置いていこうとしないで
- ドルマ: ―ドルマ― あたしひとりでこんな世界に残されて… それで、どうしたらいいの?
- ドルマ: ―ドルマ― 一緒にいてよ、ヘルカちゃん…
- ヘルカ: ―ヘルカ― …………
- ドルマ: ―ドルマ― …ヘルカちゃんだって、みんなの先頭を 歩かされて、横に並ぶ人が誰もいなくて…
- ドルマ: ―ドルマ― それでもずっと重荷を背負ったまま 先頭を行くしかないなんて…寂しいよ
- ドルマ: ―ドルマ― あたしを、横に並べてよ
- ドルマ: ―ドルマ― あたしを、ヘルカちゃんの特別にしてよ
- ドルマ: ―ドルマ― ね?一緒にいさせてよ…
- ヘルカ: ―ヘルカ― …………
- ドルマ: ―ドルマ― 答えてくれないんだ
- ドルマ: ―ドルマ― …ヘルカちゃんのバカ
- ヘルカ: ―ヘルカ― そう…バカなんでしょうね…
- ヘルカ: ―ヘルカ― 私はドルマを守っていたい… 守られるのじゃなくて
- ドルマ: ―ドルマ― …………
- ドルマ: ―ドルマ― …知ってる
- ドルマ: ―ドルマ― 何度も、何度も この光景を見てきたから
- ドルマ: ―ドルマ― でもこうやって助けられる度に あたしは思ってたの
- ドルマ: ―ドルマ― ヘルカは誰に助けられるんだろうって… 寂しいんじゃないかって…
- ドルマ: ―ドルマ― あたしはヘルカを救いたかった 助けになりたかった、支えになりたかった
- ドルマ: ―ドルマ― だから、特別になろうと思った
- ドルマ: ―ドルマ― あたしも特別になれば もうヘルカはひとりじゃないから…
- ドルマ: ―ドルマ― あたしはそういう ヘルカにとっての特別になりたかった
- ドルマ: ―ドルマ― なのに…ごめんね…
- ヘルカ: ―ヘルカ― …謝ることなんて何もありませんよ
- ヘルカ: ―ヘルカ― あなたが生きている…それだけで 私は救われているのです
- ヘルカ: ―ヘルカ― …本当に
- ヘルカ: そのあと… モンゴル兵は退いていきました
- ヘルカ: …今回はうまくいきましたけど こんなのは二度も通じません
- ヘルカ: もう危ない真似は しないでください
- ドルマ: …いやよ あたしはあんたを守りたいもの
- ヘルカ: ドルマ…
- ドルマ: けど、あんたはあたしを守りたい
- ドルマ: これはもしかしたら 呪縛なのかもしれないけど…
- ドルマ: この中にいるのは 心地いいね…あはは
- ヘルカ: …………
- ヘルカ: …私も、そう思います
- FILENAME: text_310513-3.txt
- ヘルカ: モンゴル兵たちは退いていきましたが これで終わりではありません
- ヘルカ: 彼らはきっとこれからも襲ってくるはずです さらなる軍勢を揃えて
- 先生役の少女僧: 弓はこのように構えます いいですか?
- 少女僧: は~い
- ヘルカ: だから…モンゴル軍の襲来に備えて 教練に力を入れるようになりましたよね?
- ヘルカ: …私は最後まで 慣れませんでしたけど…
- 少女僧: よし、異常なし!!
- ヘルカ: それから見回りも強化して 尼僧院というより自警団のような 雰囲気にもなりましたよね
- ヘルカ: 思い返してみると この一件で色々と変わりましたね…
- ヘルカ: ラマたちだって このあと、いなくなったのですから
- ドルマ: …あとは好きにして
- ドルマ: 尼僧院に戻ってこなかったら 何をしていてもいいわ
- ラマ: わかりました
- ヘルカ: …………
- ラマ: 最後にあなたに会えてよかった お詫びをしたかったのです
- ヘルカ: お詫び?
- ラマ: 結局私たちはあなたたちのことを 信じきれなかったのでしょう
- ラマ: あなたたちなら私たちの想像を 超える何かを生み出せる…
- ラマ: …そんな可能性もあるのに どこかで私たちは諦めていた
- ラマ: 本当にすみませんでした これからの尼僧院を頼みます…
- ヘルカ: …勝手ですね
- ヘルカ: それに…頼まれたって 私には何もできやしませんよ
- ヘルカ: モンゴルと戦うことに 意味を感じていませんから
- ラマ: …それでもきっとあなたは モンゴルと戦うことでしょう
- ラマ: 暴力による戦いだけでなく…
- ヘルカ: え…?
- ラマ: ヘルカ… あなたならなれるかもしれません
- ラマ: 真のラクシャーシーに
- ヘルカ: 真の、ラクシャーシー…?
- ラマ: モンゴル語の書き写し… 餞別に差し上げますよ
- ラマ: きっとあなたの役に立つはずです
- ドルマ: …知りたかったことは結局 何も知らなかったわね、あいつら
- ヘルカ: ねえドルマ…本当に彼らを追放 しないといけなかったんですか?
- ドルマ: 今さらもとには戻れないわ
- ドルマ: それに、ラクシャーシーに なりたい子は大勢いるから…
- ヘルカ: …………
- ドルマ: …戦えなかったくせにって 思ってる?
- ヘルカ: いいえ、そうではなく…
- ヘルカ: いつまで憎しみ合えば いいのかなって思って…
- ドルマ: …………
- ヘルカ: 私たちは黙って 去っていく大人たちを見送りました
- ヘルカ: 彼らがこれからどこへ行くのか 私たちは知りませんでした
- ヘルカ: それどころか 私たち自身がどこへ行くのかさえも あの当時は知らなかった…
- FILENAME: text_310513-4.txt
- ヘルカ: …そうしてたどり着いたのが ここというわけです
- ヘルカ: 本当に色んなことがありましたね
- ヘルカ: もっともドルマは もう覚えてないでしょうけど…
- ヘルカ: ねえドルマ…あの青い花はまだ あそこで咲いてますかね…?
- ヘルカ: 咲いているといいのに…
- ヘルカ: …少しだけ感傷的なことを 言わせてもらうと…
- ヘルカ: 花は光の差す方に顔を向ける… だから私も…
- ヘルカ: 同じように光の方へ 顔を向けていたいです
- ヘルカ: 誰に何を言われても構わない
- ヘルカ: 私たちはここにいたんだって 懸命に生きたんだって
- ヘルカ: そう胸を張って これからに臨むために
- ヘルカ: …怖いけど、私は俯きません
- ヘルカ: ねえ、ドルマ… 私の大好きなドルマ…
- ヘルカ: あなたと会えて本当によかった
- ヘルカ: …この気持ちを手に入れられた だけで、私は充分です
- ヘルカ: とても怖いけれど、 なんだか私は幸せです
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