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- 第五章『英雄祭』前編
- 1
- それは極めて小さな星だった。
- 表面積は平均的な都市一つぶん程度しかなく、大人が半日も歩けば一周できてしまうだろう。通常、こうした規模の天体はただの形骸であり、星とは名ばかりの無意味な岩石の塊でしかない。
- だが、これは例外だった。前述した通り徒歩で周れる大きさとはいえ、そもそもこの星で歩くことなど――いいや、生存すること自体が不可能な領域にある。
- 大気の問題? もちろん是だ。
- 温度の問題? だけではない。
- 真相は重力――この一見すると矮小に過ぎる星は、その身に恒星級の質量を有しており、密度に至っては比較にならない存在だった。
- 中性子星というものがある。大質量の恒星は一生を終える際、超新星爆発を起こして四散するのだが、爆心地に凄まじい“力”を残すケースがあった。
- いわゆるブラックホール……光さえ脱出できない超重力の牢獄で、それに成り損なったものが中性子星と化す。
- ゆえにブラックホールほど強力ではないのだが、見方を変えれば“まだ生きている星”だった。恒星の死が残した現象ではなく、新たに生まれ変わった命だと言えるだろう。
- すなわち、宇宙でもっとも猛き生命体に他ならない。
- 聖王領を始めとする人類が居住可能な星に比べ、表面重力は数千億倍。立ち上がるどころか1ミリの山も作れず、“彼”の勢力圏に入ったが最後、あらゆるものは影も残らず粉砕される。秒間数百回もの自転が生み出す狂った磁場のパルサーが、この天体を王の宝冠がごとく彩っていた。
- 超縮退星スプンタ・マンユ――あまりに尊大な性を持つため、かつてのナーキッドでさえ連帯を諦めた孤高の星は、強さという一点において紛れもなく全義者の頂点にあった。
- 聖王領に帰属こそしていないが、善なるものとして滅ぼした悪敵は数知れない。一級そこらの魔将が万人集まっても話にならず、過去には魔王を討ったことすらある。
- だからこそ、これは異常事態だった。
- 理論上、主たる星霊を除けば如何なる生物も存在できないはずの大地にあって、ただ一人目を閉じたまま腕を組み、胡坐をかいている男がいた。
- 瞑想でもしているのか。荒れ狂う磁場と重力の嵐に全身を晒しながら、男は泰然として動かない。削り上げられた岩のような肉体は毛ほどの傷も負っておらず、むしろ現在進行形で“成長”し続けている。
- 膨張や巨大化ではなく、より高密度かつ高純度なものへと鍛えられているのだった。
- 一瞬の停滞もなく上昇する存在力の速度と強度に、スプンタ・マンユの力が追いつけていない。内から湧き上がる気の猛りで自身が破裂しないよう、抑え込むために生まれた筋肉が規格外の鎧となり、すべての外圧を弾いている。
- つまり男の内部には、中性子星を超えるエネルギーが渦巻いていることの証左だった。
- 人類としては堂々たる巨漢。立ち上がれば二メートルを優に超えるだろう体躯の持ち主だが、言うまでもなく星と比べれば芥子粒よりなお小さい。
- その身にこれだけの力を凝縮している存在とは何なのか。いいやそもそも、どういう類の力なのか。
- 答えは野望。純然なる覇気と戦意。
- “最強”という幻想を追い、童のように夢見る無垢な祈りに他ならなかった。
- 男の名はバフラヴァーン。
- 不義者の頂点たる七柱のうち、第三位に据えられた魔王である。
- その目が今、ゆっくりと開かれた。荒々しい顔つきに反し、穏やかさすら感じさせる緋色の瞳に稚気が浮かぶ。
- 「本気を出せよ。この程度で俺を殺せると思っているのか」
- 同時に噴き上がる桁外れの闘気が、超重力に逆らい男の髪を波うたせた。舞う粉塵の一欠片さえ山をも凌駕する重さがあることを鑑みれば、もはや荒唐無稽と言うしかない。
- 彼がスプンタ・マンユと遭遇したのは会合に呼ばれる直前の出来事で、当時は拮抗状態だったのだが、ナダレを始めとする他の魔王たちと一戦交えた後では優勢へと変化していた。要はそれだけ、バフラヴァーンが成長した証であろう。
- 星霊はその振れ幅を読み違えた。帰還したバフラヴァーンに会合前と同じ戦法の継続を選択した結果、無駄に時間を消費している。この男を相手に持久戦など、愚策以外の何ものでもなかった。
- 消耗という概念が存在しない永久機関こそバフラヴァーンの本質である。常に全力を課す戒律によって、無尽蔵と化したスタミナは決して尽きることがない。
- ゆえに倒すなら初撃必殺。持てる最大の力をもって、一気に押し潰すしか道はなかった。スプンタ・マンユも、ここにきてようやくそれを察したらしい。
- 「俺は最初から本気だぞ。更なる上を見せてくれ」
- まるで愛を語るような呼び掛けに、星霊は己を定義する権能で応じた。小さき義者に分け与える加護ではなく、宇宙に許された権利として破壊の光体を編み上げる。
- 同時に荒れ狂っていたガンマ線の嵐が消えた。重力波さえ鳴りを潜め、一瞬の静寂が星を覆う。
- そこに現れた威容を見て、バフラヴァーンは歓喜に目を輝かせた。
- 「いいぞ、おまえは素晴らしい」
- 彼の一八〇〇年にもわたる殺戮の人生において、それは初めて目にする域の脅威だった。青紫に輝く電磁波の鬣を靡かせた姿は馬に似て……荒ぶる神性を纏いながらバフラヴァーンを見据えている。
- 大きさは一般的な馬と同程度だが、もとより爆縮によって生まれた星だ。むしろコンパクトになったほうが数段増しで恐ろしい。
- まさに神獣と表現できる、これがスプンタ・マンユの本性だった。迸るその生命圧は、バフラヴァーンが最後に直接ぶつかった七〇〇年前の破滅工房を超えている。
- 単なる中性子星なら他にも幾らかいるものの、星霊化を果たした個体はスプンタ・マンユしか存在しない。死を超えて新生し、敵対者に死を与えんと嘶く様は荘厳さすら漂わせ、紺碧の双眸に絶対的な自負と自尊を宿らせている。
- 彼もまた、己の最強を信じて疑わない性なのだろう。ゆえに両者の激突は、必然だったと言えるのかもしれない。
- 「よくそこまで練り上げた。おまえのような者がいるからこそ、この遊びは面白い」
- 巨体を感じさせない滑らかさで、ゆらりとバフラヴァーンは立ち上がった。無造作に腕を一度回した後、気安い調子で微笑みかける。
- 「さあ、やろうか。俺とおまえのどちらが強い?」
- ずしん、と魔王は一歩進んだ。
- がつり、と星霊の蹄が地を蹴った。
- 出会い、目が合い、俺とおまえはここにいると、謳いあげたからには不倶戴天。
- 真我など関係ない。生きて勝利を味わえるのは一人だけだと、その了解こそがすべてに優先する真理だった。
- よって言葉は、もはや不要。
- 銀河に轟くガンマ線バーストの唸りと共に、スプンタ・マンユが突撃した。発現する宇宙最高光度の輝きは恒星が生涯で生むエネルギー量を上回り、これの直射を受けたが最後、数万光年先の星すら壊滅する。
- そして、それさえ余波にすぎない。
- 真の脅威は超重力が乗った突進による衝撃だった。星霊としての権能を全開放したスプンタ・マンユは、瞬間的にブラックホールすら踏み砕く。
- 自我を持つ生命体だからこそ、物理現象の因果を覆す意志があった。成り損ないゆえ暗黒天体より劣るなどと、そんな常識は通用しない。
- 義者に属しながらも孤高、孤絶。仲間を持たないという戒律によって、情を捨てる代わりにスプンタ・マンユは無双の力を手にしているのだ。仮に他の戦士がこの場にいても、星霊は何ら顧みぬまますべてを蹄に掛けるだろう。
- 元来、篤い慈悲の心を持つ彼が、それだけの覚悟をもって得た力だ。決して軽いわけがない。
- 「ぬうぅぅん!」
- その誇りを、バフラヴァーンは正面から受け止めた。スプンタ・マンユの突撃を胸に叩き込まれながら、信じがたいことに立っている。
- もちろん無傷ではなかった。超比重合金のごとき魔王の肉体は焼けただれ、噴き出る血潮も虚空に分解されていく。
- だが退かない。
- このとき、バフラヴァーンを襲っている力のほどは計測不可能な域にあったが、一歩たりとも後退していなかった。
- 常識を無視しているのは彼も同じ。不撓不屈に無敵不滅、生涯不敗という理想を追い続ける男の意志は、現状において全生物の頂点にある。
- それで真に最強たる座を掴み取れるかは分からない。できたとしても、いつになるかはやはり不明。
- しかし少なくとも、バフラヴァーンを超える我力の持ち主はいなかった。クワルナフでも、ナダレでも、そしてあるいは神そのものすら、彼の心は誰にも折れない。
- 「感謝するぞ。俺はまた強くなれた」
- スプンタ・マンユは掛け値なしに強敵だった。事実として、数瞬前まではバフラヴァーンを上回っていたのである。
- にも拘らずこうした結果になったのは、馬鹿馬鹿しいほど単純明快な理屈だった。
- 苦境こそ幸。劣勢こそ愛しき福音。
- 敗色濃厚な戦況は、第三位魔王にとって覚醒を促す起爆剤にしかならない。
- 消耗を知らぬ永久機関が、危機を重ねるほど天井知らずに強くなるのだ。
- まさに怪物。戦うためだけに生まれてきたような男だろう。
- 「さらばだ。おまえのことは決して忘れん」
- 振り上げた拳に渾身の我力を込めて、裂帛の気合いと共に振り下ろした。スプンタ・マンユの神威に比べれば朴訥すぎる一撃だったが、凝縮された純粋な破壊力が星霊の頭を存在核ごと砕き割る。
- どうと崩れ落ちるスプンタ・マンユは、断末魔の声もなく死んでいた。同時に星から命が消え、ただの岩石へと成り果てる。遠からず、ここも塵と化すだろう。
- そうして宇宙の輝きをまた一つ消したバフラヴァーンは、すでに今後の方針を考えていた。強敵の記憶は胸に留めているものの、あくまで勲章の一つでしかない。振り返らず、立ち止まらず、前だけを見据えていくのが自分の道だと思っている。
- 新たな星へ移動すること自体は造作もなかった。宇宙の最上位種たる星々は“すべてが一つであった頃”の記憶を有すため、総じて瞬間移動能力を持っている。数多の星霊を殺してきたバフラヴァーンはその力を簒奪しており、当たり前に使用が可能だ。
- カイホスルーのように自らを星霊化していないぶん、一度で飛べる距離に限界はあるものの、虱潰しが目的である以上は不都合もない。今も天に瞬く無数の光点を見上げながら、さて次は何処へ行こうかと吟味している。
- 場に残留するスプンタ・マンユの記憶を探る限り、そう遠くない位置にまだ二柱ほど強力な星が存在するはずだった。
- 名はハルワタートに、アムルタート。是非とも一戦交えてみたいと、疼きにも似た昂揚を抱いて視線を巡らせていたのだが……バフラヴァーンは予想外の形で彼らを見つけることとなる。
- いや、正しくは看取ったと言うべきだろう。
- ハルワタートとアムルタートは、どちらも大量の水を放出している星だった。
- 一種シャワーを思わせる天体だが、実際はそんな生易しいものではない。
- 水は華氏数十万度に達し、秒間で大河の数億倍もの量を、音速の数百倍という勢いで放出し続けている。スプンタ・マンユとは違う意味で、近寄ることすら許さない鏖殺の星霊だろう。
- それが今、同時に消えた。一つは光線で串刺しに、もう一つは皮を剥かれるように外周から削られて、等しく命脈を絶たれたのだ。距離と時間差から推し量るに、バフラヴァーンがスプンタ・マンユを倒したのとほぼ同じタイミングで起こった出来事。
- 偶然とは言いがたく、では何者の、どうした意思で?
- 答えなど得られるはずがないと思われたその謎に、だがバフラヴァーンは得心していた。愉快げに肩を震わせ、獰猛に口の端を吊り上げる。
- 「強くなったな、ザリチェ、タルヴィ……来るか? 俺は構わんぞ」
- 特級魔将ザリチェード、タルヴィード。飛蝗と呼ばれる戦鬼たちの名前だった。彼らとバフラヴァーンの関係を説明するのは難しい。
- 部下ではない。同志というのも違う。強いて表現するなら競争相手が近いだろうか。
- バフラヴァーンは生まれてこのかた不敗だが、常勝してきたわけでもなかった。クワルナフやナダレのように決着がつかなかった戦いもあるし、倒しはしたが殺し切れなかったこともある。
- ザリチェードとタルヴィードは後者に属する存在だった。かつてバフラヴァーンと一戦交え、打ちのめされながらも命を保ち、逃走を成功させた者たちである。
- そして今も付かず離れず、魔王の後を追って武技と我力を磨いているのだ。
- 理由は明快。バフラヴァーンの首を獲り、その座を奪うためだった。彼らもまた、この世に自分より強い存在など認めていない。
- 結果として、図らずも最悪の軍勢が出来あがっている。バフラヴァーンの狂気に感染したとも言える者たちは、等しく同種の夢に憑かれていた。
- 目が合った者は皆殺し。天上天下に我こそ最強。
- 仲間意識などなく、誰であろうと己が強くなるための踏み台にしか思っていない修羅の徒党だ。よって見境ない殺し合いを展開しながら、宇宙を虱潰しに進撃している。戦闘と勝利こそがすべてであり、そこが破滅工房や流血庭園と本質的に異なっていた。
- 彼らが体現するのは究極の暴力。ゆえに暴窮飛蝗アエーシュマ。
- バフラヴァーンの二つ名であり、この軍勢を意味する総称でもある。同じ意志と目標を持って進む者たちなのだから、一心同体と言って差し支えない。
- 思想上、共食いが当たり前に起きるため今の飛蝗は三人のみだが、逆に言えば蠱毒を生き残った最精鋭とも表現できた。ザリチェードもタルヴィードも、すでに五〇〇年以上こうした生を送っている。バフラヴァーンの基準で開戦となるぎりぎり外に身を置いて、狡猾に魔王の強さを見定めながら自己を高め続けているのだ。
- それを姑息な逃げ腰と恥じる感性は、彼らにない。いざ始めれば今度こそ次はないと誓っており、だからこそ必勝を期しているだけだった。ある種、敬意の表明と言えるだろう。
- 似た者同士、そこはバフラヴァーンも察していたし汲んでいた。五〇〇年の研鑽を経て魔技を昇華させたライバルの手並みに感嘆しつつ、そろそろ時ではないかと誘っている。
- あと少し、ほんのわずかでもザリチェードとタルヴィードがこちら側に踏み込めば開戦だ。荒ぶる我力を闘気に変え、暴窮の権化は拳に狂喜を漲らせたが……
- 「……なに?」
- 二体の特級魔将は、不意にその気配を消失させた。隠形を駆使したわけでも、まして死んだわけでもない。
- 彼らもまた瞬間移動の心得があり、それを使って離れたのだ。では何処にという疑問が当然湧くが、バフラヴァーンの感知力では追い切れなかった。戦闘に特化している身の都合上、そうした小技は不得手としている。
- 「逃げる……ような奴らじゃないな。別の遊び相手を見つけたのか。……ふん、まったく妬かせてくれる」
- 死骸と化した星の上で、彼は寂しげに呟いた。考えてみれば、こんな風に独りとなるのは随分と久しぶりのことだろう。
- 情れなく去っていった好敵手らは、これまでどんなときも一定の間合いを保ちながら傍にいたが、それを覆した以上は“仕上げ”に入ったと見て間違いない。つまりバフラヴァーンを殺すため、最後の修行相手を見つけたのだ。
- いったいどんな兵か、自分も混ぜてほしいのだが、現実的に追う術がないので待つしかなかった。拗ねた子供のように舌打ちし、再び飛蝗の王は座り込む。
- 寂しい。これはなんとも嫌な感覚だ。もしかすると、最大の敵はこの退屈というやつではないのか。
- いつの日か夢を叶え、森羅万象の悉くを征した後に待っているのは無限の虚無。そのとき自分は、どうやって生きていく? どんな心構えで孤独に向き合う?
- 「ふはっ」
- 愚問。バフラヴァーンは犬歯を剥いて一笑に付した。考えるまでもない、決まりきった話だろう。
- 「退屈に勝つ。何が相手でも俺は負けん」
- 豪放に笑い続ける魔王の声が、真空の宇宙に木霊した。
- 名乗りを上げろ、向かってこい。俺は逃げも隠れもしないぞと、あまねくすべてに訴えかける。
- それはまるで、恋文のような祈りだった。
- 2
- 「気分はどう? 何かおかしなところはある?」
- 問いに私は、大丈夫ですと意識で答えた。許可を出すまでは喋るな動くなと言われていたので、念話も控えめな抑揚に努めている。
- 「ならよかった。あなたはブラックボックスだらけっていうか、存在自体がそうだからあまり自信がなかったのよね。回復加護が効きづらいのも生体部分がないせいだし、そもそも多少なり効くことがおかしいのよ。自然治癒も含めて、ロボットがうにうに治っていくのを見るのは興味深かったけど、正直なところ不気味だったわ」
- 酷い言われようだが、我ながら同意見なので黙るしかない。自分が生物と言えないのはまったく事実で、にも拘わらず傷が治るのは意味不明な話だった。機械や人形ならパーツを取り替えて修理するものだけど、曰くブラックボックスの塊である私はそうもいかず、なぜ効くのか施術者にすら分からない治療を受けている。
- 実際、不気味で気持ちの悪い身体だろう。
- 「怒った? まあロボットは言いすぎよね。あなたは可愛いし、情もあるし、立派にちゃんと生きてるわ。ただ、今の私たちには解明できない在り方をしているだけ。外見も内部も、見た目は人間と同じだもの。素材が不明なことや、親がアレなことを悲観して自分を卑下しちゃ駄目だからね。もしかしたら、子供だって産めるのかもしれないし……ていうか、そのへん試してみようとか思わない?」
- 思いません。フォローしたいのかいじめたいのか分からなくなってきた物言いに、私は胸中で嘆息した。前々から思っていたけど、この人はマッドサイエンティストの気質があるんじゃなかろうか。
- 「そう、残念。ともあれ、異常を感じないなら目を開けていいわよ。クイン」
- 許可が出たので、私はゆっくりとまぶたを開いた。三二時間ぶりの視界は、明順応に少し手間取ったが左右ともにクリア。フレデリカに破壊された右目は問題なく復活している。
- 寝台に横たわっている私を、妙齢の女性が微笑みながら見下ろしていた。褐色の肌に亜麻色の髪……ふくよかで優しげな、母性を強く感じさせる類の美人だ。
- 「はい、それじゃあ喋ってみて。ここは何処かな?」
- 「治療棟です」
- 「私の名前と、関係する数字は? 声と指でお願いね」
- 「聖王領一二諸侯の第九席、シャフルナーズ候閣下ロクサーヌ殿」
- 右手で五、左で四本指を立て、九の数字を示して答えた。やはり問題なく、フレデリカに負わされた傷は治っている。
- さすがは随一の回復加護使い。まともな体質じゃない私ですら、こんなにちゃんと復元させるとは驚きだ。
- そこに他意なく感心したから、敬意を込めて彼女の役職を口にしたのだが、しかしロクサーヌは不機嫌な顔になった。
- 「敬称やめてって言ったでしょ。堅苦しいのは好きじゃないのよ」
- 「あ……」
- そう言えばそうだった。でもお世話になったのだし、現実として彼女は上司も上司だし、礼儀は重要だと思うのだけど。
- 「あなたの戒律も、わりと加減が分かんないわね。毎度同じことを言わないといけないのかな」
- 「一応、その……人は心変わりするものですし、硬直した対応にならないよう、指示は都度受けられるように設定しているのですが」
- 「めんどくさい」
- ばっさりと切られ、恐縮した私に、ロクサーヌは指を突き付けて命令を出した。
- 「今後は遠慮なく対等だと思って接するように。特に“様”とか“殿”とか使わないこと。閣下も駄目よ? いかついおじさんみたいで嫌だもの。これは即時発動の永続命令です。わかった?」
- 「……はい」
- 「よし。じゃあ早速スィリオス様の前で試してみようか」
- 「ちょ、待っ……それはさすがに!」
- 気さくすぎる上役というのもタチが悪い。ズルワーンみたいなのに比べればマシかもしれないが、オモチャ扱いされてる点は同じだろう。
- 彼女はロクサーヌ。若くして聖王領の運営を差配する一二諸侯に名を連ね、名実ともに王の側近と言える女傑だった。
- 余談かつ下世話ぎみな話になるけど、スィリオス様とは男女のご関係であらせられるっぽいとかなんとか。
- つまり王妃様に近い立場で、そんな人に御前でタメ口を強要されたら堪ったものではないだろう。
- 「ほらほら立って。行くわよクイン」
- 「いやほんとに、後生ですから許してください」
- にこにこと押しの強いロクサーヌは、何を言っても聞いてくれない。
- 私は彼女に引きずられるまま、治療棟を後にした。
- ◇ ◇ ◇
- 今さらながら、私は他者の記憶や思考が読めるのだけど、だからといって何でもお見通しなわけじゃない。マグサリオンやスィリオス様のような、ある種の鎧を心に纏っている人のことは分からないし、ズルワーンみたいな煙幕を張るタイプも同様だ。
- そしてもう一つ、嘘つきも手強かった。底の浅い虚言なら問題なく見破れるが、何にでも達人はいるわけで……虚実どちらも自然に考えている手合いだと騙される。
- 言い換えれば、度を超えた気紛れ屋の愉快犯とも表現できた。私は彼女をそんな人物だと思っていて、遠慮するなと言われた以上は正直に評させてもらおう。
- ロクサーヌ……この女狐め。
- 「無事でよかったな、クイン。私からも礼を言わせていただこう。噂通り素晴らしい手並みだ、ロクサーヌ殿」
- 「だーかーらー、そういうの要らないんだってばアルマちゃん。私もあなたの噂を聞いてたし、ずっと会いたいと思ってたのよ? 普通に友達感覚でいきましょう」
- 「ちゃんって……しかし、あなたは立場のある身だ。私のような者と気安く接してくださるのは光栄だが、やはりよくない」
- 「真面目だなあ。ねえサムルーク、彼女はいつもこんな感じなの?」
- 「まあ、たぶん。……つか、クインのことだけど、あたしにゃどうも前と違って見えるんだよな。あんたが何かしたのかロクサーヌ?」
- 「ああそれ? 治すついでに、おっぱいサイズを少し盛っといたのよ」
- 「――何してくれてんですかっ!」
- ばしゃんとお湯を叩いて立ち上がると、みんなの視線が胸に集まったから咄嗟に隠して後退った。
- なんですか。なんなんですか。私の胸なんかどうでもいいほどご立派なものを全員お持ちじゃないですか。じろじろ見ないでくださいよ。
- 「嘘よ嘘。でもそんなに嫌がるとは思わなかったな。もしかして、小さくしたいと思ってるの? だったらやってあげるけど」
- 「結構です。それはそれで……」
- 何だというのか。我ながら話せば話すほど深み嵌りそうな気がしたので、私は膨れ面でざぶんと再び湯船に没した。
- 状況は御覧の通り。浴場で女四人が裸の付き合いとなっている。てっきり御前で無茶振りをされると思っていたから、ほっとしているのは事実だが、引っ掛けられたことに対する悔しさが拭えない。
- そんな私の反応が、余計にロクサーヌの興を誘うというのは分かっているけど……
- 「つまりサムルークの違和感に心当たりはないと? 気になるな。何処がどう違って見えるのか、具体的に教えてくれ」
- 「いや、そう言われても分かんねえよ。勘みたいなもんだし、真面目に突っ込まれても困るっつーか」
- ぶくぶくとお湯に半分沈んだまま、私は他人事みたいにアルマとサムルークのやり取りを見ていた。
- この身は何かが変わったのか。生憎自覚は全然ないが、一定の覚悟はしている。
- 何せあれほどの負傷をしたのは初めてだし、負わせた相手が相手なのだ。万事完全に元通りと、都合よくはいかないだろう。
- 寿命が削れたか、何らかの見えない後遺症があるか。今は確かめる術もないが、呑み込んでいくしか道はなかった。
- そもそも戦士なら、誰だって安全の保証などないのが当たり前。ここでリスクに恐々としても、詮無い話だと思う。
- 「あなたこそ平気なんですか、サムルーク。私は曲がりなりにも治っていますが、そっちはそうもいかないでしょう」
- 他人の心配をしている場合ではない。そう暗に付け足して問うと、サムルークは渇いた笑いで応じた。
- 「ギリでフェルの加護が効いてたし、そこまでヤバくはねえよ。確かにどぎつい一発だったけど、腹から真っ二つにされなかっただけめっけもんだ。つっても、プライドはぶっ壊されたがな」
- 「相手は第四位魔王だったんでしょう? なら生き残っただけでも凄いじゃない」
- 「そうは言うがよ、あたしはしぶといのが売りなんだ。ワンパンKOなんかされてちゃ話にならねえんだよ」
- 声に忸怩たるものを滲ませながら、サムルークは歯ぎしりしていた。自分の話題を引っ張られるのが嫌だったので水を向けたのだが、うっかり地雷を踏んだらしい。申し訳なくなったしフォローしたいが、どうやって彼女を慰めたらいいのか分からなかった
- 曰くワンパンどころじゃないダメージを負いながら戦った私が言っても、嫌味にしかならないのではと思う。
- 「我力が乗った攻撃を受けたんだ。今はフレデリカから離れたお陰で影響も薄まっているはずだが、喰らった瞬間はまったく未経験の異質な痛みだっただろう。君はただでさえ多くの苦痛を抱えているし、耐えられなかったのもしょうがない。恥じる必要はないよ」
- 「けど、それって要するに気合いの問題だろ? 痛いの我慢できなかったのは変わんねえし、あたしの根性が足りなかったんだよ。だいたい、その口ぶりだとアレに近づいたらぶり返すって話じゃんか。なら耐えられるようになんねえと……」
- 「そうだな……でも君ならできると私は思うよ。だからあまり思いつめるな。そもそも、情けなさでいったら私のほうがよっぽどだろう。アルザングの民を守れなかった」
- 「いや、でもそいつはあんたのせいじゃないっていうか。……悪ぃ、そんな割り切れることじゃねえよな」
- どうしよう。どんどん話が重くなっていく。アルマの後悔もサムルークの恥辱も理解できるので、いよいよ掛ける言葉が見つからなかった。
- 私がトリガーを引いた手前、なんとか空気を変えねばならない。たとえばアルマとロクサーヌは初対面だし、そっちの方向へ話を持っていくとかしつつ……
- 「ところでアルマちゃん。あなたの羽って何処にあるの?」
- 「……はい?」
- この人はいきなり何を言っているのか。脈絡がなさすぎて呆気に取られる私たちを余所に、ロクサーヌは興味津々といった顔でアルマを見ていた。
- 「気になるじゃない? だって潜入中に羽を見られたら一発で正体がバレちゃうし、どうしてるのかなってずっと思ってたのよ。だから探ってるのに全然見当たらないっていうか、アルマちゃん綺麗すぎるんでもう辛抱堪りません――身体検査をやらせてくださいっ」
- 「ちょ、なに?」
- 両手をわきわきさせながらにじり寄ってくるロクサーヌに、さすがのアルマも恐怖を覚えたらしい。あからさまに距離を取りつつ、ぶっきらぼうな声で答えた。
- 「羽は……別に何処でもいいだろ。想像にお任せする」
- 「なんで? 私これでも偉いのよ。聖王領のシャフルナーズ候として、あなたに刻印部位の開示を命じます」
- 「さっきは友達感覚とか言ってたくせに! だいたい、君は気付いてるんじゃないのか? 女なら隠し場所があることくらい分かってるだろ」
- 「分かんないなー。大きな声で言ってみよー」
- 「ズルワーンか、あなたはっ!」
- 不浄だ。不埒だ。不義者だ。あまりに既視感のあるセクハラすぎて、私は思わず割り込んでしまった。結果的に凄い力技で話題を変えてもらったわけだが、まったく感謝する気になれない。
- どうして聖王領では、実力上位者ほどおかしな方面に転がっていく傾向があるのだろう。もはや呪いではないかとすら思えてくる。
- 「別に女同士で恥ずかしがらなくたっていいじゃない。要するに、アルマちゃんの羽がある場所は――」
- 「黙りなさいっ!」
- 私は飛びかかるようにしてロクサーヌの口をふさぎ、そのままお湯の中で取っ組み合いを開始した。アルマが助けを求めていたから、これは乙女を守るための正しい行為だと信じている。
- 風紀は大事にしたい。男性陣がろくでもないぶん、我々女子が良心にならないと色々終わってしまうじゃないか。
- 「ふっ……」
- 「はは、なんじゃこりゃ」
- 組んずほぐれつしている私たちを見て、アルマとサムルークは呆れ気味ながらも相好を崩していた。
- ……まあ、些か道化めいた役になったのは否めないが、二人の気持ちを多少なり軽くできたのだから満足している。
- 「どうクイン、私できる女でしょ?」
- ただロクサーヌのドヤ顔がむかついたので、もう一度深くお湯に沈めておいた。
- 身分に恐縮して遜るなという指示を出したのは彼女だし、まさか文句はないでしょう。
- その後、なんだかんだで人心地ついた我々は、円になってお互いの背中を流しながら話していた。
- 私→サムルーク→ロクサーヌ→アルマ→私という配置で、こういうのは子供みたいだと思う反面、心身ともにくすぐったくなる感覚は決して嫌なものじゃない。
- 話自体は、やや眉をひそめる内容だったが。
- 「つまり、なんだ。英雄祭ってのにかこつけて、あたしらを宣伝するっていうのかよ」
- 「ええ。色々言いたいことはあるでしょうけど、これも仕事よ。魔王と戦って生還した戦士なんてワルフラーン様以来だし、民の希望になってもらわないといけないからね」
- 「理屈は分かるが、いい面の皮だな。正直あまり気乗りがしない」
- 「だから、暗くなっちゃ駄目だってば。綺麗にして、美味しいものを食べて、にこにこしてれば大丈夫。私がしっかりプロデュースしてあげるわ」
- 「ちょ、変なところを触るなロクサーヌっ」
- ワルフラーン様の命日と、その前後を合わせた七日間に毎年行われる英雄祭……聖王領に住むすべての民が楽しみにしている催しで、多分に世論操作の意味を持つ政治的な欺瞞なのだが、そこに私たちは目玉の一つとして列席しなければならないようだ。一種の偶像扱いだし、アルマが言った通り厚顔無恥ではあるけれど、士気向上のために尽力しろというロクサーヌの論もまた正しい。
- 彼女は広報的な役目を仕切る立場なので、プロデュース業は本職だ。不安はあるものの、我々で役に立てるなら協力しなければいけないと思う。
- 「あたしは構わないぜ。つーか腹決めたわ。今はハッタリでも、いつか本物の勇者になればいいんだしな」
- 「ですね。むしろこれを誓いに変えて頑張りましょう」
- 調子を取り戻したサムルークに、私もまた笑みで応える。祭りは明後日から始まるので、実質的に否応がない状況でもあった。
- 「そういうわけでアルマちゃん、龍骸星に戻るのは少し待ってね。気になるでしょうけど、今はほとぼりを冷ましたほうが安全よ」
- 「……確かにな。寵姫としては大失態をやらかした。カイホスルーが帰還したかも分からんうちに、のこのこ戻ったら姉どもに吊し上げを食らいかねん。ただロクサーヌ、一ついいか」
- 「なあに?」
- 「頼むから“ちゃん”はやめてくれ。ガラじゃないし、そもそもどうして私だけをそう呼ぶんだ」
- もっともな指摘に、ロクサーヌは心底楽しそうな様子で返答した。
- 「一言でいうと、親近感かな。だって私が父の後を継いだのと、アルマちゃんが龍骸星に出向したのはほとんど同じタイミングでしょ? 年も近いし、大きい仕事を任された時期も一緒。しかもその内容が、どっちも怖い王様の相手をすることなんだから面白いよね。私たちは似てると思うの」
- 「そういやあんた、スィリオスのおっさんと愛人関係だって噂だよな」
- 「そうなのかっ?」
- ずばり赤裸々すぎるサムルークの言葉に、一番反応したのはアルマだった。そんな彼女の背中を流しながら、ロクサーヌは意味深に含み笑う。
- 「どうだろうねえ。王様の秘密はおいそれと話せません。アルマちゃんが、あの方に特別な感情を持ってるのなら別だけど」
- 「……馬鹿を言うな。私にとって王は王だ。聖王領が一番苦しいときに、私のような者を見捨てず、育て、鍛えてくれた。その御恩に報いたいという感情以外、あるわけがない。強いて畏れ多いことを言わせていただくとしても……」
- 「尊敬するお父様やお兄様って感じ? だから得体の知れない女が近寄ってるのは面白くないと」
- 「そうまでは言わない。だが、私はスィリオス様の幸せを願っている。できれば政略上の付き合いなんかじゃなく、本当に愛した女性を選んでほしくて……結局、そこはどうなんだロクサーヌ」
- 「うーん、じゃあこうしない? アルマちゃんがどういうハニトラをカイホスルーにかけてるのか、詳しく教えてくれたら話してあげる」
- 「――ッ、なんでそうなる? 全然関係ない話だろうっ!」
- 入り込む隙間がない二人の会話に圧倒され、黙りこくってしまった私にサムルークの念話が届いた。
- “おい、なんだこれクイン。すげえ怖いぞ”
- “ええ……どうしましょうこれ”
- 場に名状しがたいプレッシャーを感じた我々は、ひたすら気配を無にして背中流し機になるしかなかった。
- というか痛いです。爪を立てないでアルマ。力入れすぎて背中の皮が剥げそうになってるんですけど!
- 「はい、それじゃあ交代。みんなくるっと一回転」
- 危うく悲鳴をあげかけたところで、ロクサーヌがそう言った。
- 今度は私→アルマ→ロクサーヌ→サムルーク→私という向きになる。
- つまりアルマの殺気が直接ロクサーヌへ届く形で、にも拘らずそう促したのは他でもないロクサーヌ自身。
- これは宣戦布告か? 挑発か? もうなんか怖すぎて、私はほんとに気が気じゃない。
- 目の前にあるアルマの広背筋が、ぴくぴくと引きつり笑いのような動き方をしてるし。
- 女が何人か集まれば、話題は好いた惚れたになりやすいもの。一般的には微笑ましい部類の現象かもしれないが、面子によっては地獄のようなことにも成り得ると私は学んだ。
- 「スィリオス様は確かに魅力的な殿方よ? あれでこう、ほっとけないっていうか、母性本能をくすぐるようなところがあるし」
- 「……そこは同意する。だが、王を子供みたいに言うのは不敬だぞ。ご人徳をお持ちであると表現しろ」
- 「堅いわねえ。男の人にも可愛げは大事なのに……ていうか、その方面ならフェルくんも外せないかな。あれは将来有望だし、色々教えてあげたくなっちゃうわ」
- 鼻歌まじりの気安い調子で、本人がここにいたら身震いしそうなことをロクサーヌは言った。発言内容もそうだけど、年齢差とか見た目の釣り合いとか、まとめて犯罪的すぎるだろう。
- 「ズルワーンのやんちゃでどエスなところも痺れちゃうし、一緒にいたら酷い目に遭わされそうでぞくぞくしない? それに何よりマグサリオンよ。あの危なさ、ミステリアスを通り越してホラーみたいなとこ、堪んないよね。私で素振りしてほしいかも!」
- 「なんでも有りか君はっ!」
- ついに耐え切れなくなったアルマが吠えた。
- 一方私とサムルークは、ロクサーヌが剛の者すぎて開いた口が塞がらない。
- スィリオス様の魅力を語るのは結構だ。フェルさんに食指を伸ばすのも……まあいいだろう。だがよりによって、ズルワーンとマグサリオン?
- ズルワーンとマグサリオン!?
- 二回胸中で言ってしまうほど、ぶっ飛んだ域でストライクゾーンが広すぎる。
- 「もういい、好きに発情してろ。君とはどうやら相容れんっ」
- 怒り心頭に発した様子で立ち上がったアルマは、そのままずかずかと大股歩きをしながら出て行った。そして、サムルークもそそくさと続く。
- 「あ、そんじゃあたしもそういうことで」
- 残された、と言うより逃げ損なってしまった私は、なんともバツの悪い空間でロクサーヌと二人きりになってしまった。
- 「ちょっとやりすぎちゃったかな?」
- 「……やっぱり意図的ですか。駄目ですよ、アルマにああいう冗談を言うのは」
- その戒律上、彼女はどんな恋を抱いたところで叶えられない。自ら選んだ道とはいえ、完全に割り切っているわけでもないだろう。
- むしろどうしたって割り切れない性だからこそ、強力な縛りとなってアルマの特技が成立している。見方を変えればとても色恋に潔癖な人だし、そこを茶化してはいけない。
- 「私、嫌われちゃったと思う?」
- 「だいぶ怒らせたのは事実でしょうね。私から言えるのは、友人になりたいならちゃんと謝るべきだってことです」
- 「はあい」
- いまいち反省の色が見えないロクサーヌを窘めながら、だがあれはあれでアルマのストレス解消になったのでは、とも考えた。
- 外地ではどんなときでも本音を隠し、演技を要求される彼女のこと。素の自分を曝け出して憤慨するのは、貴重な息抜きだったに違いない。
- よって頭が冷えればアルマはロクサーヌに感謝するかもしれないが、それを言ったらこの人は調子に乗りそうなので黙るしかなかった。
- 「ともあれ、目先の英雄祭ですね。我々をどう使うにせよ、お手柔らかに頼みます」
- 「任せて。もうばっちり盛り上げるわよ」
- 親指を立てるロクサーヌに、私は苦笑しつつ頷いた。
- 3
- 英雄祭は勇者ワルフラーンの生涯と、その功績を体現した構成になっている。前祭の二日間は彼の誕生や成長といったエピソードが元にあり、すなわちこれから始まる物語。総じて“育む”という概念がテーマとなっていた。
- そのためここでメインとなるのは、前途洋々な若者たちへの祝福で、戦士の候補生らによる大規模な演習が催される。以前アルマに聞いた過去の聖王領と比べれば数も質も劣るだろうが、それでも育成機関は当たり前に存在するのだ。むしろ我々のような外地で偶発的にスカウトされた者よりも、この星で生まれ育った彼らのほうが主力となる環境を目指さねばならない。慢性的な戦力不足を解決する政策は滞りなく機能していると、民にアピールする意図もあった。
- 実際、霊峰の裾野で行われた少年少女らの演習は勇壮で、全土から訪れた人々が熱狂と共に見物していた。教官である戦士らが敵役となり、齢一五のワルフラーン様が一級魔将を討伐した物語の再現となっている。必然、演劇的な要素もあったが、だからこそツボを押さえているとも表現でき、場は大いに盛り上がった。
- もちろん完全なヤラセではないため、ここで活躍した候補生らは正式な戦士に昇格し、その受勲式も執り行われる。民の声援を浴びて栄誉を授かった彼らなら、きっと素晴らしい善の使徒になるだろう。
- そして本祭の三日間。これはもはや言うまでもなく、三魔王の撃破という空前の武功を讃えるものに他ならない。
- だが、あまりに尊すぎる偉業なので安易に模すことは憚られ、代わりにワルフラーン様がもっとも愛した“みんなの笑顔”を再現していた。
- 彼はこう言ったらしい。みんなが主役で、みんなが無二の物語だと。
- だからワルフラーン様の“剣”となった笑顔で世界を満たすため、都をあげた無礼講が許可される。
- つまり上も下もない大宴会で、これこそが魔王を倒した力の根源。一人一人が胸に抱く平和への想いこそが、勇者という超絶的な存在を生むのだと民は信じ、願い、祈る。
- 新たなワルフラーン様の誕生を。
- その伝説は終わっていないし敗れていない。
- あまねく義者の心に生き続け、いつか必ず蘇る奇跡――
- 不滅なる神性として至尊の“座”に昇ったワルフラーン様を崇め、あなたを永久に忘れないと誓うのだった。
- ……告白すると、私が英雄祭に参加したのはこれが初めて。今までは任務と時期が被っていたため、人伝に聞くしかできなかった。
- ゆえに今回、こうして立ち会った結果の感想を正直に言うならば、やはり世論の誘導だし政治的な欺瞞だろう。聖王領の外を知らない民草は、我々が優勢な戦いを展開していると勘違いするに違いない。
- レイリ、マリカ、他にも救えなかった多くの人々……そして今後も取りこぼすだろう命の数々に思いを馳せれば、遣り切れない気持ちが込み上げてはくる。
- だけど、いいやだからこそ、無垢なるままに守り抜かねばならない輝きも確かにあって、ここにある笑顔がまさにそうだ。非力な私にすべてを救うことはできないけれど、それでも挑み続けなければならないのだと思う。
- ワルフラーン様が残した仕事を完遂し、みんなの笑顔を守るために。
- 奇跡の一翼たるべく進むのだと、改めて自分の意義を悟るのだった。
- そうして訪れた二日間の後祭……我々の出番は、その最終日となっていた。
- 「すげえなこれ、下手すりゃ本祭のときより多くなってんぞ。何人いるんだいったい」
- 「聞いた話によると、今の王都圏には八〇〇万以上の民が集まっているらしい。ここから見えるだけでも、おそらく一〇〇万近くはいるんじゃないか」
- 「へぇ~、なんつうかとんでもねえな。こうまで歓迎されると、ほんとに勝ったような気がしてきたぞ」
- 戦士の儀仗隊が先導する王都の目抜き通りを、私たちは巨大な山車に乗せられたまま進んでいた。さながら移動する櫓の上に立っているような状態で、視点は四階建ての高さに相当する。よって“凱旋式”に詰めかけた多くの人々を見渡せるし、逆に見られているとも言えるだろう。
- 高さに対する怖さで足がすくんだりはしないのだが、これだけの民衆に視線と興味を集中された経験はさすがになく、そのすべてから歓呼して迎えられるというのはやはり圧倒されるものがあった。サムルークが言った通り、我々でさえうっかり戦勝を錯覚しそうになる。
- つまり宣伝活動としては狙い通り。政治的にも効果抜群といったところか。
- 「ロクサーヌはやってくれるな。時間的に余裕はほとんどなかったはずだが、よくここまでのものを用意したと感心するよ」
- 「ですね……ただそれだけに不安もあります。もしも山車が崩れたら、ちょっと洒落にならない大惨事ですよ」
- 「そこはもう信じるしかないだろ。つーかおまえら愛想なさすぎ。あたしらの仕事はにこにこすることだって言われたじゃん」
- 陽気に手を振りながら民衆へ応えているサムルークに怒られて、顔を見合わせた私とアルマは苦笑した。
- そのときに、祝砲めいた銃声が背後から数発轟く。
- 「ズルワーン……楽しそうだなあいつ」
- 「ええ……こういうの好きそうですもんね」
- 山車の進行方向である前側にはアルマ、サムルーク、私という女性陣。そして反対の後ろ側には、ズルワーンとフェルさんの男性陣が配置されていた。距離的には三メートルも離れていないが、巨大な剣の装飾を壁にしているので行き来はできず、顔も見えない。
- しかし、ズルワーンがはしゃいでいるのは明白だった。気配が伝わってくるし、銃声がうるさいし、ぐらぐらとこっちまで揺れている。それらの直撃を受けているだろうフェルさんも心配だったが、問題はここにいない最後の一人だ。
- マグサリオンは例によって、また素振り中なのだと思う。彼がこの手の催しに参加する様は想像できないので、ある意味順当と言えるのだけど、私が解せない点は別にある。
- 「どうしたクイン、難しい顔をして」
- 「いえ、マグサリオンのことなんですが」
- 一人で考えても仕方ない。私は胸の蟠りをアルマに吐露した。
- 「彼はなぜ、我々と一緒に聖王領へ戻ってきたんでしょう? 羽はまだ残っていたはずですし、龍骸星に残ったほうが得だったのでは?」
- たとえどれだけの負傷があろうと、動ける限りは進撃するのがマグサリオンだ。余力を残した状態で、一時撤退などらしくない。
- 当時はこちらも余裕がなかったので思い至らなかったが、いま冷静になって考えるとおかしいだろう。幼なじみのアルマなら独自の視点があるのではと思って問うと、彼女は頷いて話し始めた。
- 「常識的には確かに君の言う通りだが、マグサリオンはあれで合理的な男だよ。傍目には筋の通らないものに見えても、終わってみれば最大効率で動いていたと納得させられることが多々ある」
- 「彼なりに、あそこは引くのが得策だと判断したっていうんですか? けどいったい……」
- 「さて、聖王領が戦場になるのかもしれないな」
- さらりと言われ、私は硬直してしまった。横からサムルークも聞き捨てならないと割り込んでくる。
- 「おいマジかよ。まさかまた、あの殺人鬼が来るってのか?」
- 「いや、それはない。見る限り、殺人鬼が現れそうな状況じゃないだろう」
- 言って、アルマは眼下の光景に顎をしゃくった。そこには喜びと希望に満ちた民衆の姿があり、この歓声は確かにアルザングの荒廃と似ても似つかない。
- 流血庭園と繋がる可能性など、現状はあらゆる意味で皆無と言える。
- 「付け加えれば、カイホスルーが匂いを辿って来るのも有り得ん。君らが龍骸星にいたほんの数日程度では、帯びる龍精などたかが知れているだろう。
- 私にしたところで、今はご覧の通り義者だ。カイホスルーが知る寵姫とは変質しているからリセットされるし、そもそもこういう作業には慣れてるんだよ。足跡を辿られほど迂闊じゃない」
- 「…………」
- 黙ってしまった私たちを一瞥し、アルマは講義するように続けていった。
- 「匂いというのは、要するに因縁だ。本来対極にあるはずの生と死が飽和すれば、分離していた此方と彼方を繋げる力となって流血庭園を招くように。
- 龍骸星で生活し、カイホスルーに生かされることで奴の所有物だと見なされるように。
- どれだけ深く関わりを持ったか、繋がりの強さが羅針盤になるんだよ」
- 「因縁……」
- そう吟味するみたいに呟いて、サムルークがこちらを見た。彼女の思考は読めたので、即座に私は否定する。
- 「お父様が来ることも有り得ません。なぜなら私は、奇跡の蒐集を果たしたときに伺いますと宣言し、彼はそれを待つと応えた。因縁というならその了解こそ約束で、破れば筋が通らなくなります。私が知る限り、破滅工房は理路整然とした在り方を尊んでいました」
- 「そうだな。だからこそスィリオス様はクインを戦士にしたんだろう。決戦の時期をこちらの都合で選べるメリットはかなりでかい。ただのリスクでしかなかったら受け入れはしないさ」
- 「じゃあいったい何なんだよ? どんな危険があるっていうんだ」
- この手の問答でサムルークが怒りだすのはもはや定番の流れだったが、今回ばかりは他人事じゃなかった。私もまた、答えの見えない状況に焦れている。
- なのに一人だけ淡々としているアルマの態度が不可解で、民の安否に興味がないのかと、つい責めるような目を向けたのだが……
- 不意に彼女は、意外にも微笑ったのだ。
- 「すまん。少し脅しすぎたな。実を言うと英雄祭のとき、マグサリオンはいつも聖王領にいるんだよ」
- 「はあっ?」
- 予想だにしなかった答えを返され、私たちはそろって目を丸くした。
- あのマグサリオンが? 毎年欠かさず?
- あまりに意外な事実すぎて、ちょっと思考が追い付かない。
- 「ど、どうしてですか?」
- 「知らん」
- 勢い込んで尋ねたのだが、アルマの返答は身も蓋もなかった。
- 「……まあ、彼なりにワルフラーン様を悼んでいるということじゃないか? 民や私たちのやり方とは違うのかもしれないが、少なくとも兄上の命日を特別に思っているのは事実だろう」
- 「そりゃあ、確かに、そうなるけどよ……」
- 納得できない様子でサムルークは唸っていた。なんとか反論しようとしているが、糸口を見つけられずに悶々としている。
- そんな彼女の神経を逆撫でするように、再び騒々しく轟くズルワーンの銃声。
- 「だああっ、もう! うっせえんだよあの野郎っ!」
- 八つ当たり気味に怒鳴ったサムルークは、そのまま手すりに足を掛けて山車をよじ登り始めた。どうやらズルワーンのところへ直接行き、文句を言うつもりらしい。
- うっかり撃たれなければいいけれど。そう思いながら嘆息して、私はアルマに目を戻す。
- 「あなたも人が悪いですね。あまり後輩をからかわないでください」
- 「許せ、どうも気が抜けてな。ロクサーヌのせいだと思うし、文句は彼女に頼むよ」
- 「伝えておきます。ただ、お礼ならちゃんと言ったほうがいいですよ」
- 「了解した。君にもお詫びをしたいから、聞きたいことがあったら言ってくれ。次は真面目に答えるよ」
- 促された私は、少し黙って考えた。そうしている間にも聞こえてくる銃声と、サムルークの怒声を耳に、何を問うべきか思案する。
- 一つ、心に引っ掛かっていた謎が確かにあった。
- 「ズルワーンの故郷はご存知ですか?」
- あの日、龍骸星でマグサリオンが投げた奇妙な問い。貴様は何処から来たのだと……
- あれはどういう意味だったのか。やむを得ない事情があったとはいえ聞き逃したことを後悔しているし、放置しておくのは危険だという予感もある。
- 「そんなものでいいのか? 何処もなにも、ズルワーンは聖王領の生まれだよ」
- 「本当に?」
- 「嘘は言わん。あれは一四・五の頃だったかな。当時はこの星にも不義者が残っていてね。私とマグサリオンが殲滅戦をやっていたとき、彼と会った」
- アルマは語る。焼け落ちた村の跡地に立っていた少年の話を。彼は幽鬼のように茫洋としていたが、周囲の惨状に気づいた瞬間、“覚醒”したらしい。
- そのまま戦士として同行し、村の仇を討った。この星に蔓延っていた最後の強力な魔将を討つ戦いで、最大の武功をあげたのは件の少年――ズルワーンだったという。
- 「あんな性格だが、私もマグサリオンも彼には一目置いている。特に強い魔将を嗅ぎ当てる嗅覚はずば抜けたものだよ。ある種、神懸かったレベルで勘が鋭い」
- 「勘……」
- そう言えば、マグサリオンもズルワーンの勘を尊重していた。二言三言の言葉を交わしただけで、主義の一部を曲げるほど。
- それはまるで、高性能な“羅針盤”に従うかのごとく……
- 「まだ納得できない顔をしているが、本当に嘘じゃないぞ。だいたい考えてもみろ。ウォフ・マナフの加護が活きるようになったのは、この星を平定してからだ。つまりズルワーンと出会った当時、誰も瞬間移動は使えなかった」
- 「あ……」
- 確かにアルマの言う通りだ。お父様に敗北して極度に消耗したウォフ・マナフは、新たな依代となったこの星を浄化した後でないと活動できない。
- よって別の戦士がズルワーンを連れてきたはずもなく、ズルワーン本人が飛んできたわけもなかった。当時の彼は、まだ普通の少年だったのだから。
- ではいったい、マグサリオンは何を言ったのだ?
- 「どうやらあまり助けになれなかったようだな。心苦しいが、生憎と彼についてはそんな程度しか知らないんだよ」
- 「……ええ、こちらこそ申し訳ありません。それよりもうすぐ終点のようですし、気持ちを切り替えましょう」
- 謎は結局謎のままだが、アルマに責任を感じられても困る。
- なんといっても今の我々は勇者を演じている仕事の途中だ。せいぜいらしく見えるよう、しっかり集中せねばならない。
- そう思って顔を上げた私に向けられる民の声は、混然一体となった未来への祈り……一言で表現するなら“期待感”と言えるものだ。ロクサーヌはあんな人なので細かい段取りを教えてくれなかったが、おそらく即興の演説くらいはやらされる羽目になるだろう。
- いわゆるサプライズを狙っているのは明白だし、そろそろ目的地と予想される王城も近づいてきたから、今のうちに頭の中で草稿を組み上げることにした。
- が、我々を乗せて進む山車は、ここで不意に道を折れる。
- 「……?」
- いったい何処へ行くというのか。この先はだいぶ以前から工事ばかりで、職人の方々以外は立ち入り禁止となっていた区画なのに……
- 「うおお、なんじゃありゃあ!」
- 訝っていたとき、驚愕したサムルークの声が上から聞こえた。彼女が山車の頂上に立っているなら、我々より五メートルほど高い視界を確保している。
- そこでサムルークが何を見たのか、答えは徐々に分かってきた。昨日までは区画ごと念入りに養生されていたシートが消えており、パレードの終点と思しき場所が姿を現し始めている。
- 「ロクサーヌ……どういうつもりだ」
- 再び女狐への不信感を滲ませて、アルマが低く呟いた。もちろん私も、嫌な予感しかしてこない。
- 言ったように演説くらいなら覚悟していたのだが、どうやらその程度じゃ済みそうになかった。見えてきた巨大建造物はあまりに普遍的な外観で、何を目的とした施設なのかが容易に分かる。
- あれはそう、間違いなく――
- 「おまえ嘘言いやがったな、クイン。あるじゃねえか闘技場!」
- なんで楽しそうなんですかサムルーク。私は思わず頭を押さえ、先を想像してくださいよと腹の中で毒づいた。
- 勇者に祭り上げられた我々が闘技場へ連行される――その意味するところは、どう考えても剣呑な展開しかないでしょうに。
- 第五章『英雄祭』後編
- 4
- 『この星から不義者が駆逐されて一三年……それ以前の苦しい時代を過去の記憶として流すにはまだ生々しく、今も心に深い傷を抱えた方々はきっと沢山いらっしゃるでしょう。私も例外ではなく、父をはじめ多くの隣人を喪いました。その悲しみを忘れたことは、一瞬たりともありません。
- しかし、いいえだからこそ思うのです。あの時代を知らない子供たちの笑顔を守り、さらに先へと未来を繋げていくのが我々の務めであると。ただ徒に安眠し、目先の幸せに溺れるだけでは真の平和を築けないのだと』
- 闘技場の中心に立ったロクサーヌが、全周を囲む観客たちへ語りかけている。口調は柔らかく、決して大きい声ではなかったが、強化の加護を利用して王都一帯に彼女の演説を届かせていた。
- 『そのための戦士――彼らはワルフラーン様の遺志を継ぎ、外地で過酷な戦いを続けています。状況はもちろん厳しく、楽観できるものではありませんが、成果は常に出続けていると言えるでしょう。ひとえに皆さんの祈りが力となり、前線を支えているためだと私は信じて疑いません』
- 立て板に水とでも言うべきだろうか。闘技場は超満員で、一〇万近くの民が座を埋めているのだが、よくもまあこの状況ですらすら言葉が出てくるものだと感心する。
- それが仕事だと言ってしまうのは簡単だけど、まったく緊張を窺わせない舞台度胸は大したもので、ロクサーヌが一種の大人物なのは間違いあるまい。
- が、突っ込みどころも当然あった。今も続く彼女の演説を聞きながら、隣でサムルークが失笑している。
- 「聞いたかよクイン。あいつ、具体的なことなんも言ってねえぜ」
- 「ええ、ですが嘘を並べているわけでもありません。民の想いが我々を奮い立たせるのは事実ですし、何をもって成果とするかは考えかた次第でしょう」
- 「巧言令色の類だが、確かにそこだけは誠実とも言えるか」
- やや皮肉のこもったアルマの台詞に、私は無言で頷いた。
- 勇者として貴賓席に座らされている我々の立場はともかく、満座の民に対して主催者のロクサーヌが誠意を示しているため、胡散臭さは感じなかった。サムルークの指摘通り具体性が曖昧とはいえ、人は信じたいことを信じるようにできている。
- 要するに、英雄祭の主旨は何かという話だろう。民への感謝と彼らを守りたいという想いが大事である以上、そこに偽りさえなければ茶番にならない。ゆえに決して、無意味なお為ごかしでもない。
- 個々に思うところはあれど、私はそう納得しているのだが……
- 「フェルドウス、気持ちは察するが少し抑えろ。笑えとは言わないから、せめてその酷い顔をどうにかしたほうがいい」
- 「……ああ、分かってるよ」
- ただ一人、フェルさんだけは未だに割り切れない様子だった。アルマの注意に頷きながらも、強く刻まれた眉間のしわは依然変わらず。睨み付けるような目でロクサーヌを見下ろしている。
- “成果”という言葉に反応してしまった彼の心情は理解できた。ロクサーヌに憤るのは筋違いだと分かっていても、拭いきれない後悔と罪悪感がフェルさんの中に渦巻いている。つまり、彼が本当に許せないのは自分自身なのだろう。
- マリカ……自ら殺めてしまった少女の御霊に、今もフェルさんは詫び続けていた。
- 聖王領に戻って以来、民の笑顔に触れることでいくらか気持ちを切り替えられたらと期待したが、実情は癒されるどころか荒れるばかりだ。むしろ時間を置いた結果、より深刻になってきたようにすら思う。
- “あんまり構うなクイン。結局、フェルが自分でケリをつけなきゃいけない問題なんだよ。あたしらだって他人事じゃない”
- “ですね……私も頭ではそう思っているんですが”
- 念話で届いたサムルークの言葉に、私はそっと溜息をこぼした。苦しむフェルさんに何もしてあげられないのは口惜しいが、気休めの言葉を彼が望んでいないのも分かる。
- 『――そして今回、魔王と死闘を繰り広げ、見事撃退した勇者たちが存在します。残念ながら討滅には至りませんでしたが、偉大な戦功であることに変わりはありません。彼らこそワルフラーン様の再来――皆さん、ここに盛大な拍手を』
- そうロクサーヌが促すと、割れんばかりの歓声が巻き起こった。地鳴りもかくやという万雷の喝采に、堂々と偉そうな態度で応えているのはズルワーンしかいない。
- フェルさんは変わらず苦み走った顔だったし、私とアルマとサムルークは笑顔が引きつり気味だった。“撃退”とはよく言ったもので、ロクサーヌの立場も意図も分かっているけど、それに平然と乗れるかはやはり別の問題だろう。ズルワーンほどの図々しさを発揮するのは、少なくとも私たちにとって難しい。
- 『勇者の伝説は終わりません。平和への祈りが皆さんの胸にある限り、奇跡は何度だって起こるのです。ゆえにどうか、希望の灯を絶やさないと誓ってください。その想いこそ、何にも勝る大きな力となるでしょう』
- そんなこちらの心情とは関係なく、ロクサーヌの演説は纏めに入ろうとしていた。つまりこの居心地の悪い立場も一旦は区切りをつけられそうなのだが、続く流れを予想するに解せない部分も存在する。
- 「しっかし妙だな。あたしはてっきり、このメンツでトーナメントでもやらされんのかと思ったんだが」
- 「馬鹿を言わないでください。そんなの私は御免です」
- 呑気なサムルークを諫めながらも、考えていること自体はほとんど私も同じだった。常識的に考えて“勇者の武威を民に披露する”ための闘技場と思われたし、そもそも後祭の主旨は“勝利の約束”だ。前祭の主役が新世代の少年少女たちだったように、後祭では歴戦の戦士が通例として主役を務める。
- 現状、貴賓席に座らされている我々の扱いはまさにそんな感じだけど、広義的にはただの観客と変わらない。すなわち、戦う側の立場ではない。
- 「とはいえ、曲がりなりにも闘技場だ。血を見る祭りが企図されているのは間違いなかろう。君の勘はどう見ているんだ、ズルワーン」
- 「ヒトを便利アイテムみたいに使うんじゃねえよ。オレの鼻は不義者限定だし、こういう状況は専門外だ」
- などと投げやり気味に言いながらも、ズルワーンの目は子供のように輝いていた。相変わらず読みづらい意識だが、面白がっているのは間違いない。
- そしてズルワーンの期待感というものが、総じてろくでもない結果に繋がるのは経験上確かだった。
- いったい誰と誰が戦うのか。そこが分からず、不安になる。
- いいや、本当は分かっているからこそ、不安なのかもしれない。
- 「ただ、消去法で考えれば一発だろ。今この場にいねえのは誰だよ」
- ズルワーンの正論が、腹立たしくも的を射ていた。
- 『彼こそ現在の聖王領において、最高の武勲を誇る戦士の中の戦士です。
- 紹介しましょう――マグサリオン!』
- 「……ッ」
- その名に息を呑んだのは私だけじゃなかった。アルマもサムルークもフェルさんも、ズルワーンを除く全員が驚愕し、闘技場を凝視する。
- 確かに消去法で考えれば残っているのは彼だけなのだが、あのマグサリオンがこんな場で見世物になることを承服するなんて、有り得ないと思っていた。
- なのに私の目は、ゲートの向こうから現れた黒い騎士の姿を捉えている。外見はもちろん、内部に渦巻く怨念めいた怒りの炎も間違いなく彼自身で、偽物なんかじゃないと分かった。
- 『皆さんの中にはご存知の方もいらっしゃるでしょうが、マグサリオンは勇者ワルフラーン様の弟君です。亡き偉大な兄上の遺志を継ぎ、正義のために邁進してきた彼の献身を讃えてください。改めて拍手を』
- 「馬鹿な……」
- 呆然と呟いたのはアルマだった。この中でもっとも彼と付き合いが古い彼女にとっても、それは信じがたい光景と言えるのだろう。
- 勇者の弟。偉大な兄。正義のためにというすべての文句が、特大の地雷を踏んでいるとしか思えなかった。マグサリオンがワルフラーン様にどういう感情を抱いているかは想像の域を出ないものの、訳知り顔で語られるのを好んでいるはずがない。
- 実際、ここからでも分かるほど彼は濃い殺意を放っていた。ロクサーヌに、観客たちに、魔将へぶつけるものと何ら変わらぬ凶念を向けている。
- にも拘わらず動かない。場の空気など歯牙にもかけないはずのマグサリオンが、怒りを燃やしながら衆目に晒されている様は出来の悪い夢みたいで、端的に異常だった。
- 「さすがのあいつも、これだけの数を睨み一発で黙らせる真似はできねえか。当たり前っちゃあ当たり前だが……ふん、少しがっかりだぜ」
- やや不機嫌な様子でそうこぼし、ズルワーンが鼻を鳴らした。彼の勝手な言い分はともかく、事実だけを見ればその通り。
- 普段ならどんな鈍い者でもマグサリオンの危険な気配を察せるはずだが、闘技場に詰めかけた一〇万の民草は熱に浮かされ、薄氷の上と言える状況を理解していない。ロクサーヌに促されるまま、歓呼して“新たな勇者”を迎えている。
- つまりこれだけの人間に囲まれながらも、マグサリオンは理解されていないのだ。
- 私はそれが、とても悲しいことに思えた。
- 「まあ、ここであいつが相手にしてんのは、数が多いだけの民じゃねえ。言わば兄貴の幻影だしな、そりゃあ大した敵だろうぜ」
- 「ワルフラーン様の威光に挑むため、マグサリオンはあそこにいると? 根拠は?」
- 「勘だよ勘。おまえが言ってきたから応えてんのに、突っかかってくんなよアルマ」
- 「すまん、そんなつもりはなかったんだが……しかしなるほど、幻影か」
- 勇者という概念。それを奉じる“みんな”という存在への挑戦。マグサリオンの意図がそこにあるなら、確かに一定の理解は可能だ。
- 彼だけじゃなく、私たちにとってもワルフラーン様は大きな壁で、ただ崇めていればいいというものじゃない。極論、英雄祭が必要な状況に甘んじていたら駄目なのだ。今を生きている我々が、本当の意味で主役にならねば勝利は遠いと思う。
- だけど――
- 「マグサリオンが毎年この祭りを見届けてんのも、そういう理屈だって言いたいのかよ。いまいち釈然としねえんだが、無理に納得するとしてもだ」
- 「ええ、まだ疑問はあります」
- 相手は誰か。
- 物理的に対戦する者がいなければ闘技場の意味がない。マグサリオンがこの場に出て来たのは、ワルフラーン様の幻影として相応しい者が相手だったからに違いなく……
- 「言ったろ、消去法で考えろよ」
- 固唾を呑む私たちに、ズルワーンが呆れた様子で失笑した。同時に、ロクサーヌがその名を告げる。
- 『勇者の器を量るなら、この方をおいて他にいません。皆さん、ご起立を願います。我ら義者、すべての盟主――聖王スィリオス様のご来臨です』
- これまでに数倍する、もはや狂騒さえと言えるほどの歓声が巻き起こった。しかし私たちは対照的に、絶句したまま固まってしまう。
- 分かっていた。ズルワーンやロクサーヌに言われるまでもなく、この場に相応しいのはスィリオス様しかいないということくらい。
- これは言わば、新旧の勇者対決。ならば戦う双方が、ワルフラーン様を深く知っていなければ成立しない。
- 理屈として明白すぎる流れであり、だからこそ“まさか”と思う気持ちを拭えなかった。
- 「馬鹿げてる……」
- 喘ぎにも似た声で、絞り出すようにフェルさんが言った。続いてサムルークも、恐怖に近い表情で私たちを見回し、質す。
- 「おい、やらせていいのかこれ。止めなきゃいけないんじゃねえのか」
- マグサリオンに模擬戦などできるはずがない。事実彼は真剣を帯びており、いま現れたスィリオス様も同様だ。
- 冗談ではない。聖王領の盟主と戦士のエースが、殺し合いをしてどうなるというのだ。
- 何を考えているロクサーヌ。そして、なぜ彼ら二人はこんな状況を受け入れたのだ。
- 『ワルフラーン様の物語は、若き日のスィリオス様と御前で剣を交えたときに始まりました。今さら語るまでもない歴史であり、偉大な伝説の序章として皆さんの誰もがご存知のはずです。しかし――』
- スィリオス様が剣を抜く。応じる形でマグサリオンも、血錆びた大剣を構え持つ。
- 『我々の誰一人として、当時の輝きを知りません。寝物語に聞かされた栄光の出会いを、尊い夢が走り出した美しい時を、真に共有することができずにいました。ゆえに今こそ、王と勇者が紡ぐ至高の物語を再現し、新たな伝説の当事者となるのです。
- あまねく善が躍動し、誰も泣かずにすむ天地へ至るために。
- お伽噺から抜け出たような、奇跡の成就を見るために」
- 聖なるウォフ・マナフの翼にかけて――その言葉が合図であったかのように、両者は互いに向けて走り出した。
- 『目指す未来は完全無欠の大団円。それは必ず在るのだと、私は強く信じています』
- 5
- 激突の衝撃が闘技場を震撼させる。共に正面から剣をぶつけ合ったスィリオスとマグサリオンは、どちらも完全に本気だった。何の躊躇もなく相手の命を奪おうとしており、興行的な立ち回りなど欠片も考慮していない。
- だというのに観客たちの熱狂はいや増すばかりだ。彼らの大半が武の凄惨さと縁遠い者たちであり、試合と死合の区別がつけられぬ点も当然あったが、義者としては些か慎みに欠けている。
- 生の殺し合いに心を震わせ、死の概念に惹きつけられるのは確かに人の一面だろう。だがそこに恥を覚えるのも人であり、善の尊さであるはずだ。
- にも拘わらず状況がこうなっているのは、おそらく舞手の影響だった。新たな勇者と聖なる王という非日常が、民を幻想の中へと誘っている。端的にこれほどの祭りは早々なく、彼らは戦う二人の姿にワルフラーンの伝説を見ているのだ。
- それを自然な道理と納得するか、異常な歪みと断ずるかは現状誰にも分からない。
- あるいは、その答えを得るために両者が戦うのかもしれなかった。
- 「王よ、後は御身の思うがままに。私も一人の臣として、見届けさせていただきます」
- この場を演出したロクサーヌは、静かにそう言って退場した。これで残っているのは、スィリオスとマグサリオンの二人だけ。
- 闘技場の中央で鍔迫り合いを続ける両者は、互いの目を見たまま動かない。周囲の盛り上がりとは対照的に、まるで一葉の絵画を思わせる静謐な光景だった。ある種の威厳がそこにあり、この状態が一昼夜続いたとしても不思議はないと思わせる。
- しかし、均衡はすぐに崩れた。
- 膂力においてはやはりマグサリオンが優れている。五〇に近いスィリオスでは、凶暴な黒騎士の若さをいつまでも抑えられない。押し込まれて身体が傾ぎ、軸がぶれたところに更なる圧力をかけられた。
- このままでは受けた剣ごと両断される。そう思われた刹那、スィリオスの剣がするりと滑った。マグサリオンの力を受け流したと言うよりは、利用する形で身体ごと回転させ、一瞬にして背後を取る。
- 観客としてそれを見ていたすべての戦士が瞠目した。スィリオスの動きは別段奇異なものでもなく、あくまで基礎の範疇でしかない。
- 単純な力において遥かにヒトを超える魔将と戦う身なら、柔の技を一定レベルで身に着けるのは常識以前の話だった。ゆえに彼らも、今スィリオスが見せた技術を模倣することは可能だろう。
- だが、同じ精度で再現するのは無理だと思えた。一見すると何でもない基礎の動きが、恐ろしいほどに無駄なく、隙なく、正確無比。
- あまりにも理想通りに正しすぎて、逆に異端じみた流麗さを体現していた。俗に教科書通りという言葉があるが、本当にやってしまうと誰も真似はできなくなる。
- 「相変わらず巧くない。変わらんな、おまえは」
- 聖王スィリオス――かつて勇者の朋友であった男が、明鏡止水の横薙ぎを放った。技の起こりも、その気配すらも、何ら感じさせない無謬の一閃。
- 自らの首に吸い込まれる白刃を、マグサリオンは寸前で回避した。身体ごと倒して転がるように、スィリオスとは対極の泥臭さで距離を取ると、追撃封じに目くらましの粉塵を巻き上げる。
- 形振り構わぬ獣じみた行いで、無様と野次を飛ばした観客も少なくない。だがこの黒騎士をある程度知る者なら分かっていた。
- マグサリオンの行動は、どんなときでも攻撃に繋がっているということを。
- 「攻撃強化、飛行――引き裂き走れ」
- 振り下ろされた剣の先から、黒い衝撃波が発生した。飛行の加護を受けて矢のごとく放たれた斬撃が、断頭台の勢いでスィリオスへ襲い掛かる。
- 煙幕越しに飛んでくる死の風は、脅威そのものと言える殺人剣。加え、ここではさらに由々しき問題が存在した。
- 舞台となっているのは荒野でも戦場でもない。一〇万もの民が犇めいている闘技場で、このような技を使えば被害がどれだけ広がるか分からなかった。
- 確実に言えるのは、回避すれば大惨事になるという一点である。ならば聖王たる者が採るべき道は一つしかなく、スィリオスの命運は極まったかに見えた。
- そう、あくまでも余人の目には。
- 「くだらん真似をするな」
- 唸りをあげて迫る斬気に対し、王は剣の切っ先を向けただけ。いっそ無造作に感じるほど朴訥な挙措だったが、黒い刃風はスィリオスの面前で真っ二つとなり霧消した。まるで朝日に浄化される夜闇のように。
- 「私を誰だと思っている。おまえ自身の力で来い」
- すべての戦士に授けられる星霊の羽は、彼を起点に配られている。よって加護の無効化は容易だったし、その気になれば羽を強制的に取り上げることさえできるのだ。
- つまりマグサリオンが得意とする戦術は、スィリオスに通用しない。
- 「まさか、羽が無ければ何もできんわけではあるまい。それとも、借り物の力で無頼を気取るのがおまえの道か?」
- 淡々と紡がれる聖王の言葉は、挑発と表現するほど熱を帯びていなかった。しかし奇妙に重く、無視できない圧を伴って場に響く。
- 「私を許せとは言わん。だが、おまえの慙愧を晴らしてやりたいと思っているのだ。
- ワルフラーンの友として」
- 「吐かしたな」
- そのとき――
- マグサリオンが見せた気配は何だったのか。表情は兜の奥に隠れて窺えず、なのに凄惨なほど滲み出てくる感情の波は……
- もしや喜び……だったのかもしれない。
- 「兄者の心臓の音が聞こえる」
- 呪うような、祟るような、地の底から這いあがってくる唸りと共に世界が変わった。
- 加護でも戒律でもなく、この世の理から逸脱した、異形の歪みとでも言うべき何か。
- マグサリオンを中心に、宇宙の法則が乱れ、狂い、煮え滾っていく。
- 常識を捻じ曲げるという点では我力に近い。だがそんな次元で括ってしまえぬ“深度”がそこに渦巻いていた。一つ確かに言えるのは、本人にも制御できない力であること。
- なぜならリスクや倫理を歯牙にもかけぬマグサリオンが、これまで一度も使わなかったのだ。加減はもちろん、任意の発動さえ不可能と見るのが正しいだろう。
- その凶暴な異能が今、スィリオスによって解き放たれた。ゆらゆらと右手を前に突き出した黒騎士の挙措に合わせ、信じがたい現象が発生する。
- 「―――ッ」
- スィリオスがマグサリオンに引き寄せられた。否、まるで両者を隔てていた空間が、突如として消失したとしか思えない。
- そして、もしもそれが真実ならば……
- 「なるほど、これがおまえか」
- 瞬時にして間合いを崩されたスィリオスは、放たれた一撃と打ち合う愚を犯さなかった。先の攻防とはまったく逆に、今度は聖王が転がるようにして回避する。
- だが逃げられない。振り抜いたマグサリオンの剣閃に合わせ、またしても空間が消失したのだ。よって距離は意味を失い、奇怪な瞬間移動が連続する。
- 真円に近い形だった闘技場が、消え去った空間のぶんだけ整合を狂わされ、歪み始めていた。いいや、闘技場だけではなく都市が、国が、大陸が――
- そして星が、マグサリオンの斬撃に削られていく。
- 彼は宇宙を殺しているのだ。剣が届く範囲という極めて小規模なものだったが、紛れもなく森羅万象を滅尽している。
- 理屈も因果もすべてが不明。しかし防御不能な魔剣であり、手の付けられない究極的な破壊だった。人智を超えた領域の、あるいは御業と呼ぶしかない何か。
- にも拘わらず、スィリオスは――
- 「嘆かわしいな」
- 今度は躱さず、剣で正面からマグサリオンの斬撃を受け止めていた。コレを不条理なものだと諦めるのは、ただの怠慢に過ぎぬと言うかのごとく。
- “そこ”に達する者がいるのなら、他の誰にとっても不可能ではないと示している。スィリオスもまた、止まることを知らぬ男だった。
- 「私が無窮の彼方にある存在だと認めているのはただ一人、ワルフラーンをおいて他にない。おまえもまた、そうなのだろう」
- 弾き返し、続いて猛然と攻めに転じる。スィリオスの剣は変わらず冴え冴えと走っていたが、マグサリオンような異常を起こしているわけではない。
- いや、本当にそうなのだろうか。
- 少なくとも、マグサリオンの攻撃は目に見えて危険極まる。彼の一挙手一投足で世界が滅び、今も闘技場はぎしぎしと捻じれながら軋んでいるのだ。
- なのに誰も恐れない。避難どころか悲鳴もあげず、観客たちは眼下の死闘に声援を送り続けていた。
- 勢いに流されているといっても、限度というものがあるだろう。よってこのとき、当初から不可思議だった熱狂に対する答えは出ていた。
- 自分の命も他者の命も顧みず、ただ痴れるばかりの恥知らずたち。これも理を超えた異常であり、世界の法則を歪ませている。
- その発生源が、スィリオスだとしたならば……
- 「私たちは紛い物だ。ワルフラーンの影を追い、醜く無様に足掻いている。結果この程度の真似ができたからといって、何の自慢になるというのだ」
- 振り下ろされた王の一閃で血が舞った。肩口を割られたマグサリオンは飛びさがり、二人は距離を取って対峙する。
- 周囲の熱を一切無視した空間の中で、勇者の友だった男は苦い笑みを浮かべていた。
- 「戦士の中には、おまえを正しき真我の実践者などと讃える者らも存在するが、愚かすぎて言葉もない。心中察するぞマグサリオン。まるで狂った母親に抱かれているようなこのおぞましさ、世界はすべて間違っている」
- 二〇年の時をかけ、彼の祈りは聖王領を侵したのかもしれなかった。
- それは今このときも、深い怒りの覇道となって地を這いながら広がっていく。
- 「無様で歪なものとはいえ、私たちは理から外れかけている。ならば何の疑問もなく真我に盲従している奴儕になど、後れを取る道理はないのだがな。おまえはどうして、たかだか殺人鬼ごときを討ち漏らしたのだ。私はなぜ、未だに友の仇を討てんのだ」
- 問いに、マグサリオンは無言のまま反応しない。だがスィリオスは気にせず続けた。
- 同じ男を知り、同じ業を背負い、同じ醜態を晒している同士だからこそ、理屈を超えて共有する想いの存在を信じるように。
- 「慙愧だよマグサリオン。おまえは今も後悔しており、私は恥を拭えていない。中途半端な我々は、そこに決着をつけぬ限り狂母の呪縛を超えられん。こんな児戯にも劣る曲芸一つ、自在に扱えぬのがいい証拠だ」
- 「ではどうする――」
- 再び剣を激突させ、鍔迫り合う二人の男。スィリオスの魂に応え、ついにマグサリオンが口を開いた。
- 「貴様に何ができる。兄者を担ぎ上げ、兄者を憐れみながら酔いどれていた貴様ごときが」
- 「なればこそ恥じているのだ。ああ……あの頃のおまえが私たちをどう見ていたのか、今ならよく分かるとも。唾棄すべき屑、豚の餌にしても飽き足らん。私のごとき暗君は、腐った治世を生むのが道理と弁えた。ゆえに――」
- 強く剣を押し込みながら、ぞっとするほどの静謐さでスィリオスは告げた。
- 「私は恥知らずになりたい。紛い物である己の無様を突き詰めて、無慙無愧の世界を創る」
- 「――――」
- 「果てにおまえの慙愧を晴らしてやろう。ワルフラーンを蘇らせるのだ」
- 聖王が胸に抱いている理想の芯と、マグサリオンの呪詛がぶつかり、影絵のごとく浮かび上がった願いの輪郭は、まさしく狂人の夢想だった。
- すでに勇者は帰らぬ人で、取り返せない過去である。それを誰より分かっているはずの二人が、誰よりその事実を拒絶していた。
- 愛ゆえの慟哭ならばまだ分かる。たとえどれだけ狂っていようが、亡くした温もりへの渇望なら理解も可能だ。
- しかし、このとき彼らが共有していた感情は、そんな次元のものではない。
- 忌まわしく、壮絶で、目も当てられぬ血生臭さを放っていた。
- 「だから貴様に従えと?」
- 「適材適所だ。おまえは蒙昧どもを駆逐して、私は舞台を整える。ようやく条件がそろい始めてきたのでな、この機に語らっておきたかった」
- 「…………」
- 「おまえが誘いに乗ってここへ来たのも、私を見極めるためだろう。おまえなりに、予兆を感じたからではないのか?」
- 「…………」
- 「答えろマグサリオン、私もまたおまえの兄だ」
- 静かながらも逃げを許さぬ王の言葉に、凶戦士はしばしの沈黙を保っていたが……
- 「……いいだろう」
- 低く呟き、剣を引くと身を翻した。すでに謎の歪みは消えていたが、こちらも劣らぬ圧をこめて告げる。
- 「もとより俺は、殺すことしか知らんしできん。屑は残らず一掃してやる。貴様の無慙とやらが癪に障れば、やはり殺すのみだスィリオス」
- 「構わんさ。私の命などはどうでもよい。すべては友に捧げる無慙で、奇跡だ」
- そうしてスィリオスも踵を返した。唐突な終幕に観客たちは少しの間戸惑っていたが、やがてぱらぱらと拍手が湧き、すぐに万雷の喝采へと変わる。
- 無人と化した場に降り注ぐ歓声は、澎湃として高まると、いつまでも止むことなく響き続けた。
- 彼らは何も分かっていない。
- この日、この場で繰り広げられた事象の意味を、正しく理解している者は一人としていなかった。
- ◇ ◇ ◇
- 「ぶはぁっ――おい、よかったな無事に終わって」
- 「ええ……でも寿命が少し縮まった気分です」
- サムルークに倣い、私も安堵の吐息を漏らした。マグサリオンが星霊加護を使ったときはさすがに肝を冷やしたが、以降は真っ当な剣術勝負に徹してくれたので助かった。結末の呆気なさが不可解ではあったものの、本当にどちらかが死ぬまでやられても困るのだし、これでよかったと納得するしかない。
- 「けど、スィリオスのおっさんって強ぇんだな。ちょっと驚いたぜ」
- 「当たり前だろ。ワルフラーン様の盟友だった御方だぞ? 僕らなんかじゃ想像もつかない修羅場を潜ってこられたはずだ」
- などと呆れた調子で言うフェルさんも、内心では胸を撫で下ろしているのが分かる。もちろん私も、本音のところでは驚いていた。
- スィリオス様が武人としても一級であるという話は聞いていたが、なにぶんもうお若くないし、長らく前線に出ることもなかったはずだ。なのにあれほどの冴えを維持しているとは予想外で、その克己心には純粋な畏敬を覚える。
- ただ、それだけに一つ。気になる部分があるにはあったが。
- 「マグサリオンもざまあねえな。王様の強さにビビッて、自分からケツまくりやがった」
- 「そういう風には見えなかったけどな。むしろ僕としては、スィリオス様がマグサリオンに引っ張られてた印象だ。事実、完全に殺す気でやってただろ。端的にらしくない」
- 「そうかあ? 王様だって人間なんだ、マグサリオンにはずっとムカついてたってだけじゃねえの?」
- 「そんな理由で部下に殺意を向けるほど、スィリオス様は浅い御方じゃないと言ってるんだよ。君じゃあるまいし」
- 「なんだとフェルこら。毎度毎度、一言多いんだよおまえは」
- 議論というより罵り合いになってきたやり取りを横目にしつつ、私は溜息を吐く。
- 二人が言う通り、スィリオス様が死合を始めた点については確かに奇妙だと思っていた。あれほどの技量を持つ王ならば、たとえ相手がマグサリオンでも試合を貫けたのではないかと感じる。
- そして思想的にも、困難な道を厳然と行くのがスィリオス様のイメージだ。なのに相手の土俵に乗ったのは、サムルークに言わせればマグサリオンが嫌いだからで、フェルさんに言わせれば勢いに流されたということだが、正直どちらにも頷けない。
- じゃあ何なのかと言われたら、答えに詰まってしまうのだけど。
- 「ありゃあ一種のお約束だよ。マグサリオンを殺さないために殺す気でやったんだ」
- 不意に横から、ズルワーンがそう言った。私たちは咄嗟に意味を呑み込めず、思わず顔を見合わせる。
- 「なに言ってんだおまえ?」
- 殺さないために殺す気で戦ったとは、筋が通らず矛盾している。新手の謎かけなのだろうか。説明を求めるも、ズルワーンはにやにやしたままはぐらかすだけ。
- 焦れたサムルークが今度はアルマに目を向けると、彼女は嘆息しつつ応えてくれた。
- ただし内容は、またしても謎めいたものだったが。
- 「マグサリオンがどんなときでも羽を一枚残していること、君らは知っているか?」
- 「え……?」
- 話が全然繋がっておらず、余計に私たちは当惑する。しかし彼女はズルワーンと違い、不誠実な人じゃないから何かの意味があるはずだ。
- なので真意は不明ながらも、アルマの問いを考えてみる。
- 「言われてみれば……そうだったような気がします」
- 「レイリのときも、あいつ実は羽を残してやがったよな」
- サムルークが言う通り、確かにあのときのマグサリオンは羽を使い切ったと申告しつつも、実際はゼロじゃなかった。迎えの戦士に便乗せず、自前の瞬間移動で聖王領に帰還している。
- 彼の一匹狼的な行動は今さらだし、言われるまで気にしていなかったのだが、よくよく考えたらおかしな話だろう。ある面で非常に合理的なマグサリオンが、無意味な真似をするとは考えにくい。
- ではいったい、なんだというのか。
- 「もしや彼は、複数人での瞬間移動をやれない理由があるのですか?」
- 「ご名答だ。おそらくマグサリオンは、他者と触れ合えん」
- 「正確には、殺し合いを除いてな」
- その答えを聞いた私たちは、そろって目を見開いた。
- つまり彼らの言うところは、今まで謎に包まれていたマグサリオンの……
- 「戒律、ですか……?」
- 「あくまで私たちの推測だがな。まず間違いないと思っている」
- 頷くアルマは確信をもって断言し、私は悪寒を伴う目眩に襲われた。
- 殺意以外での物理接触を禁じる戒律――マグサリオンは殺す気でないと他者に触れず、また彼を殺す気の相手以外に触られたらいけない。
- だったらなるほど、互いに触れ合う必要がある複数での瞬間移動など、無理な相談と言えるだろう。
- 「要するにあいつは、お疲れさんってな具合に肩を叩かれただけでも死んじまうんだよ。握手も駄目。ハグも駄目。女とイチャつくなんざ論外だ。全部戒律破りになっちまう」
- 「だから王様は、殺す気で相手をしたっていうのかよ……」
- 戒律の重さではこちらもかなりのリスクを抱えているサムルークでさえ、強いショックを受けているようだった。当然の反応だろう。
- マグサリオンの戒律がもしも本当にそういうものなら、まるで噂に聞く第三位魔王と同じ部類だ。すべての他者は殺害対象であると同時に、自分を殺そうとしている敵でしかないことになる。
- 果ては誰も残らぬ殺戮の荒野。そこに一人立つだけの彼……
- 「……滅茶苦茶な縛りだ。そんなものを負って、どんな見返りが得られるんだよ」
- 「私が見てきた限りで言うなら、殺意の総和が攻撃力に変換される。つまり敵が強い殺意をぶつけてくるほど、それに自分の殺意を乗せて威力が跳ね上がる仕組みなんだよ。上手く噛み合えば、殺人鬼どもの不死身だって破れるだろう」
- 「一種のカウンターみたいなもんだわな。場合によっちゃあ、相手の我力も利用できるんじゃねえか?」
- 淡々と話すマグサリオンの古馴染みたちは、彼の在り方に何も思うところがないのだろうか。つい非難じみた目を私が向けると、ズルワーンは鼻で笑うだけだったが、アルマは自嘲的な吐息をこぼしてこちらを見た。
- 「言いたいことは分かるよ、クイン。だが知っての通り、一度定めた戒律は覆せん。マグサリオンがそうと決めた以上、我々が口を挿む問題じゃないんだ」
- 「理屈は、あなたの言う通りかもしれませんが……」
- 歯切れ悪くなる自分が情けなく、明確に反駁できないのが悔しかった。考えてみればアルマの戒律も取り返しのつかなさは似たレベルだし、私が甘いだけなのかもと思う。
- 事実、その後に続いたズルワーンの台詞は、まったく予想外のものだった。
- 「あいつの戒律は、きっとまだ他にもある」
- 「は、マジかよっ?」
- 「嘘だろ……」
- さらなる衝撃に私は愕然と立ちすくみ、フェルさんとサムルークも明らかな動揺を見せていた。
- 戒律は一人に一つと決まっているわけではないため、複数持つことはもちろん可能だ。しかしそんな真似をする者は早々おらず、私が知る限りでは皆無と言える。
- 当たり前の理屈として多重戒律は厳しさが増大するし、破ったときの罰も激しい。単に命を失うだけでは済まなくなると、真我が言っている。
- なのに、ただでさえ困難な縛りを負っていると思しきマグサリオンは、この上どんな無茶を自分に課しているというのか。もはや見当もつけられなかった。
- 「やはり推測になるけどね。彼を見てきた経験上、戒律一つじゃどうにも説明がつかないように感じるんだよ」
- 「……では、いったいどれくらい?」
- 我ながら恐る恐るといった風に促すと、アルマはしばしの沈黙を置いてから返答した。
- 「あと二つ。あるいは三つ」
- 「――――」
- 今度こそ、私は言葉を完全に失った。
- 最大で四つの戒律? しかもおそらく、接触不可より厳しいものを?
- 馬鹿げてる。そんな状態では、まともに息をすることすら不可能じゃないのか。
- 「面白ぇ奴だよな。だから見てて飽きねえし……と、次のイベントみたいだぜ」
- こちらの心情をまったく無視して、もう話は終わったと言わんばかりにズルワーンは口笛を吹いた。見れば闘技場には何人もの若い女の子たちが現れて、同時に華やかなリズムの音楽が流れ始める。
- 「おお、可愛いじゃん。あの子らアレだろ? 近ごろ人気急上昇中のアイドルグループ。ロクサーヌに頼んで合コン組んでもらおうかなオレ」
- 「好きにしろ、まったく」
- もはや完全にコンサートしか見ておらず、ただのミーハーとなっているズルワーンにアルマは呆れ返っていた。同様に私たちも、疲れた溜息しか出てこない。
- 「とにかく、そういうことだクイン。今後もマグサリオンに絡んでいくつもりなら、覚悟だけはしていろよ。彼の傍に在るというのは、どう転んでも命懸けだ」
- 「……はい。肝に銘じては、おきますが」
- 粘度のある敗北感みたいなものに包まれて、私は悄然と俯いた。マグサリオンにはずっと一蹴されてばかりだし、何かの進展を得られた覚えもない身だが、それでもいつかはと思っていたのだ。
- しかし彼我の間にある壁と溝は、予想を遥かに超えて分厚く深い。覚悟を持てとは言われたものの、いったいどんな覚悟なんだと考えてしまう。
- いずれマグサリオンに殺される覚悟? もしくは逆に、殺す覚悟?
- どちらも嫌だ。そんなのは御免こうむる。
- かぶりを振って不吉な未来図を追い払おうとした私は、そこではたと気が付いた。
- 私がマグサリオンに関わりたいと思うのは、自分の願望?
- お父様の命令でも、スィリオス様への忠誠に基づいた義務でもなく、私がそうしたいと望んでいるのか?
- 「……馬鹿な」
- 知らず私は、両手で口を覆ってしまった。膝から崩れ落ちそうになりかける。
- ただ理のみで量るなら、最優先すべきは善の勝利に尽きるだろう。ゆえに私はマグサリオンという規格外の男を追って、気にして、見続けてきた。彼を理解することが、奇跡の方程式を解き明かす一助になると思ったのだ。
- その考えはもちろん今も持っている。だけど、本当にそれだけなら自分の懊悩に説明がつかない。
- 大事なのは使命。私を動かすのは誰かの祈り。よって勝利さえ掴めれば、私が死のうがマグサリオンが死のうがどうでもいい話だろう。魔王に創造された人ならぬ道具なら、善のために献身を捧げる戦士なら、自分は駒と弁えて然るべき。
- なのに私は、マグサリオンと歩む未来に固執している。あんな危険で野蛮でどうしようもなく恐ろしい男に、使命よりも私情をもって当たろうとしている。
- いったいいつから? 単に自覚がなかっただけで、もうずっと以前に私は個人の戦いを始めていたのかもしれない。そう考えたら不意にすべてが怖くなって、助けを求めるようにアルマを見た。
- 彼女はそんな私の気持ちを当然だが知らぬまま、遠く優しい目で少女たちの歌と踊りに目を向けていた。
- 「綺麗な子たちだな……羨ましくもある。私みたいな女は勝利と共に消えるべきだと分かっているが、時に夢を見てしまうよ。もしも果てに、新しい世界があるのならと」
- 「それは、どういう意味ですか…?」
- 「いやなに、スィリオス様の受け売りなんだが」
- 恥ずかしげに頬を掻きつつ、アルマは訥々と話し始めた。
- 「目指す先は完全無欠の大団円……さっきロクサーヌの奴も言ってただろ? そこではどうやら、私たちの誰もが救われないと駄目らしい。戦いが終われば真我は意味を失い、戒律からも解き放たれて……」
- 「アルマ、あなたは……」
- 彼女の意識が私の中に流れてきて、自然と言葉が口を衝いた。
- 「マグサリオンを救いたいのですね」
- 「違う、別に……彼には彼の道があるし、他人が口出しするべきじゃないって、さっきも言ったろ」
- 慌てた風に首を振って、アルマは目を伏せてしまったけれど、どうか後ろめたさなど感じないでほしい。
- なぜなら私は、いま静かな感動を覚えている。
- 「あなたはとても綺麗な人だと思います。祈りも、そして魂も」
- 彼女が言った新しい世界という概念。そんな想いを抱ける人が汚れているはずもない。
- だって私は、つい先ほどマグサリオンとの未来について煩悶しながら、肝心の戦後をほとんど想像できていなかった。本能的な世界観から脱け出せず、勝利がもたらす具体像を無意識に絵空事扱いしていたのだと自覚する。
- なんて私は頭が悪く、不器用なのだろう。恥ずかしくて耳が熱くなるのを感じながら、同時に目から鱗が落ちる心地だった。
- 「ずっと続いてきた争いが終わるなら、確かにこの世は生まれ変わると思います。いいえ、変わらなければおかしい」
- そこに広がるのは誰も見たことがない地平。
- 真我も戒律もなく、殺意を捨てていいなら、彼は幸せを求めたっていいはずだ。
- 「スィリオス様が目指す勝利に、あなたはそういう奇跡を見ている。だからこその献身なのですね、アルマ」
- 「……心を読むな。君は少し、タチが悪いぞ」
- 拗ねた顔で呟く彼女は、必死に内心を誤魔化そうとしており、それがなんとも可愛かったので申し訳ないが笑ってしまった。
- 「差し出たことを言ってすみません。病み上がりですし、ちょっと具合がおかしいのかも」
- 「おい、何をこそこそ話してんだよ」
- がしっと肩を組んできたサムルークに、私はとぼけた軽口で応じる。
- 「いえ別に、アルマは少し気が多いなという話をですね――」
- 「クイン! ――ああもう、ロクサーヌといい君といい、覚えてろよ」
- わりと本気で怒られた。龍骸星での任務はまだ終わっておらず、我々は遠からず彼の地へ戻るわけなのだが、その前に上官殿の機嫌を損ねたのは少しまずかったかもしれない。
- 後が怖くはあるものの、新世界という概念に気付けたことは喜ばしかった。もしかするとマグサリオンも、スィリオス様に期待を抱いたから退いたのではと思う。
- だって真に滅尽のみを望む凶剣なら、あそこで王を殺したはずだ。そうしなかった以上、彼の本質は血に餓えてなんかいない。
- たとえどんな戒律を帯びていようと、救えるのだ。取り返せるのだ。
- いや、取り返すために勝たねばならない。完全無欠の大団円を目指して――
- 「ありがとうアルマ。お陰で視野が広がりました」
- そう心から、私は感謝の言葉を述べた。
- なお余談になるが、英雄祭が終わった夜に闘技場の一部が崩落したらしい。突貫工事の影響だろうが、民に被害が出なくてよかったと思う。
- 6
- 「カイホスルーの帰還を確認できたので、一足先に私は行く。いくら奴にはバレているといっても、君らを大っぴらに連れ歩いたら姉どもの怒りを買いすぎるしな。おおよそ三日ていど待ってくれ。その後にアルザングで合流しよう」
- 一夜明けた午後、アルマはそう言って龍骸星へ戻った。見送りにきたロクサーヌから涙ながらに抱き着かれ、すごく嫌そうにしていたが、特に文句を言わなかったあたり複雑な心境なのだろう。
- 私もロクサーヌには多少の蟠りを持っているが、闘技場での件を彼女が一人で差配したとは思えないため、槍玉にあげるつもりはなかった。
- でもやっぱり微妙に腹が立つのは、王とマグサリオンに関わりながらストレスフリーに見えるせいだ。そういうところは、正直に言って妬ましく思える。
- 「あーあ、行っちゃった。せっかく仲良くなれたのに」
- 「ええっと、まあ……そうですね」
- さっきまではめそめそしていたくせに、アルマを見送った後はもうあっけらかんとしていた。これで泣きが演技だったというならまだ可愛いが、そうでないからタチが悪い。
- 「とにかく、心配は要りませんよ。彼女なら上手くカイホスルーを丸め込むはずです」
- 頭痛を堪えつつ私は言ったが、内容自体は別にお為ごかしじゃない。
- 初期の暗殺計画がほぼ不可能になったとはいえ、アルマがカイホスルーに一種のイニシアチブを取っているのは証明済みだ。搦め手を駆使する余地はまだまだあるし、具体的な計画も幾つか聞かされている。
- 「そうだよね。アルマちゃんならどんな男だってイチコロだ」
- 「はい。じゃあ私は所用がありますので、失礼」
- 「ええぇ、待ってよクイーン。私寂しいー」
- などとロクサーヌはごねていたが、事務的にあしらって場を辞した。彼女を袖にしたのはお父様の命令に関わることだが、そこに私情が絡んでいることを今の私は自覚している。
- つまりもう、ほとんど自分の都合だった。マグサリオンの抱えている闇を多少なりとも知った以上、この気持ちは止められない。
- 私はもっと、彼に踏み込んでいきたいと思うのだ。
- 「よお、どうしたクイン。ナンパでもしに来たのか?」
- そうして目的の場所へと向かった私は、意外な人物と顔を合わせた。
- 「ズルワーン……どうしてあなたが」
- マグサリオンがいつも素振りをしている森のとば口で、馴染みの軽薄男が木に寄りかかったままタバコを吹かしていた。見るからに暇を持て余している風情だが、だったらこんな所で油を売らず、街にでも繰り出せばいいのにと思ってしまう。
- 私の疑問を察したのか、ズルワーンはにやりと笑った。
- 「ちょっとした契約でな。今はなるべくマグサリオンの傍を離れらんねえんだよ。おまえはあいつに用があんのか?」
- 「ええ、一応……」
- 「ふん、確かに一言二言いっときたいわな。龍骸星の任務から外されたあいつが、何しでかすか分かんねえもんよ」
- へらへらと笑われ、私は反応に困ってしまった。ズルワーンが言う通り、マグサリオンはアルマ主動のカイホスルー打倒計画から外されている。
- 彼女の正体がバレたことで、任務の方針がより複雑かつ繊細なものになったのだから当然の帰結だった。突撃と殲滅専用の爆弾を、この状況下でチームに組み込む道理はない。
- が、それを語るズルワーンの口調は端的にわざとらしく、事実として私の用件は違うため、見透かされている感じがどうにも気持ち悪かった。
- 加え、彼が口にした“契約”とは何だ? 疑問に思い探ってみるも、相変わらず読みにくい意識なので真相は見えてこない。
- 「無駄なことやってんなよ。マグサリオンに用があるならさっさと行きな」
- 「…………」
- 「邪魔はしねえし覗きもしねえ。もちろん聞き耳だって立てねえよ。ほれ」
- 「……分かりました」
- 面倒そうに道を譲られ、頷いた私は森へ入った。ズルワーンの態度は気になるものの、彼が意味不明なのはむしろいつも通りだし、行けと言うなら行かせてもらおう。
- 背中に感じるいやらしい視線を無視して、私は森の奥へと向かった。結果、数分も経たずに目当ての人物を見つける。
- そこには一人で、ただ黙々と、剣を振り続けているマグサリオンの姿があった。
- 「…………」
- さて、ここからどうするべきか。当たり前に話しかけても無視されるのは目に見ているし、こちらも彼にならって一人稽古をやってみようか。だいぶ馬鹿馬鹿しい絵面になるが、わりと効果的かもしれないと思う。
- 要は目に留まればいいわけで、そのためには地味な真似をやっていても駄目だろう。マグサリオンを呆れさせるくらいじゃなければ、きっと相手にしてくれない。
- 鬱陶しがられてもいい。本気で怒られたって構うものか。この人に優しい態度なんか期待していないのだから、躊躇する必要がどこにある。
- 「何の用だ」
- そう意気込んでいた手前、思わず私はこけかけた。依然、素振りを続けながら、マグサリオンが冷淡な声で言葉を継ぐ。
- 「何の用だと聞いている」
- 「え、いや、そのですね……」
- これも一種の無体な仕打ちと言うべきだろう。私なりに色々覚悟を決めていたのに、いきなり全部をひっくり返された。
- こちらを振り返りもせず、マイペースに自分のことだけをやってる背中が急に憎らしく思えてきた。私は誰かに合わせる立場が基本なので知らなかったが、意図を汲んでくれない相手というのはこんなに腹立たしいものだったのか。
- 「ちょっとお話があります。こっちを向いてもらえますか」
- 「…………」
- 「マグサリオン」
- また無視。さっきは意表を衝いて喋ったくせに、そうきますか面白いですね。
- 私は頭に血がのぼっていくのを自覚しながら、でも静めようとは思えなくて極端な切り口上になった。
- 「は・な・し・が・あ・り・ま・す!」
- 「うるさい人形だ」
- 同時に、びゅんと鋭く風が鳴った。振り向きざまに横薙ぎの剣を放ったマグサリオンが、その切っ先を私の喉元に突き付けている。
- 「貴様らは理解しがたい。俺の邪魔をするしか能がないのか」
- 「邪魔ですって?」
- 身も蓋もない拒絶の言葉に、しかし自分は思いのほか冷静だった。殺意を纏った剣閃で気勢を削がれたわけじゃなく、むしろ反対。
- 頭にきすぎて、逆に頭が冷えたのだ。私は正面から彼と向き合い、静かな声で問い返す。
- 「邪魔とはいったい何がでしょう? 無茶で無謀な行いを諫めること? 民に被害を出す無道ぶりに怒ること? みんなの気持ちを考えもせず、好き勝手にやっているあなたが正しいとでも言うのですか?」
- 「…………」
- 「そうやってすぐ黙るのは卑怯です。自分に仲間はいないとか、周りに壁を作っていれば楽なのかもしれませんが、あなたも立派な義者でしょう。本当は触れ合いたいと思っているんじゃないですか?」
- 「ほう」
- 変わらず剣を突き付けたまま、彼は小首を傾げてみせた。不思議そうに、おかしな生き物でも見るように、続けて問いを投げてくる。
- 「俺の戒律を知っているのか。誰に聞いた?」
- 「アルマです。彼女はあなたに救われて、ずっと見てきたから気付いたんでしょう。そして救いたいと思い、奇跡を起こすために苦しみながら戦っている。
- これがどういう意味か分かりますか? たとえどんなに拒絶しても、あなたが一人じゃないことの証明です」
- 彼女は言った。絶望の中でも剣を振り続ける幼い戦士の姿を見て、再び立ち上がる勇気を貰ったと。ならば彼の人生は、もう彼だけのものじゃない。
- マグサリオンの意図が何処にあろうと、その生き様で光を得た者がいるのは事実だ。
- 「想いを束ね、希望に繋ぐのが我々義者――」
- 胸に手を置き、そっと刻むように私は呟く。
- かつてのワルフラーン様に比べれば歪で未熟なものかもしれないが、奇跡の担い手たる資質をマグサリオンは持っているのだ。
- 「あなたがどんなものを抱えていようと、気持ちで繋がることはできるはずだと信じています。だから心を開いてください――いつか新しい世界を見る日まで、私たちは想いを共有したいんですよ、マグサリオン」
- 「…………」
- そんな私の訴えに、彼は黙って剣を引いてくれた。分かってもらえたのかと安堵したが、そのとき不思議な音を聞く。
- かたかたと震え、擦れ合う金属の軋み。まるで牙を噛み鳴らす肉食の甲虫が乱舞しているような音は、眼前の黒騎士が纏う鎧から発せられていた。
- マグサリオンが笑っている――そう理解した刹那、背筋に言いようのない悪寒が走った。
- 「アルマ」
- 彼は呟く。自らを憎からず想っている幼なじみに、呪詛を込めて。
- 「アルマ、アルマ――あの淫売がどうしたという」
- 「―――ッ」
- 「面倒な奴だ。やはり殺さねばならんか」
- 「……なんですって?」
- この男はいったい何を言っているのだ。どんな異常者や無頼漢でも、ここまで言えば彼女の気持ちが伝わるはずなのに。
- アルマがどれだけ切実に、歯を食いしばって屈辱に耐えながらあなたを救おうとしてきたと思っている。
- それを、よりにもよって殺すだと?
- 「撤回してください。今の発言だけは許せません」
- 「なぜ? 奴は俺を殺そうとしているのだ。殺し返すのが道理だろうが。……ああ、本当に鬱陶しいよ貴様らは。ただの敵よりタチが悪い」
- 言うなり、再びマグサリオンの剣が走った。
- 今度は寸止めじゃない。明確な斬殺の意志と共に迫る刃を、私は飛び退って回避した。
- 「待ってください――あなたと戦う気はありません!」
- そんなつもりで会いに来たんじゃない。私はただ、みんなと幸せになりたくて。
- 完全無欠の大団円をこの目で見たくて。そこに広がる新世界を、あなたと一緒に歩きたくて――
- 「やめて、なぜ分かってくれないんですか。マグサリオン!」
- 「分かってないのは貴様らだ」
- 振り抜いた彼の一撃で大木が両断された。地響きに揺れる森の暗闇を背負いながら、黒い戦士は怨嗟の唸りにも似た笑みを漏らす。
- 「俺がやっていることは八つ当たりだ。もう取り返しがつかんので、憂さ晴らしをしているだけよ」
- 自嘲というにはあまりにも凄惨で、それは禍々しい声だった。
- 「なのに兄者の心臓の音が聞こえる。……ははは、スィリオス、スィリオス! 面白いぞ貴様、やれるものならやってみせろ。確かなものなど何もないこの世界でなァ!」
- 「マグサリオン、あなたは……」
- 凶気とも表現すべき彼の言葉と情念を、きっと私は一割も理解していない。
- だけど確かに言えるのは、彼がワルフラーン様を想っていること。その死に対し、正気じゃいられないほどの後悔を抱いていること。
- 私のお父様がみんなの勇者を殺したから――すべてがどうしようもなく壊れてしまった。
- 「ごめんなさい……謝られても不愉快でしょうが、私は父の所業に責任を取る覚悟で戦士になりました。その使命を果たせるなら、自分なんかどうなってもいいと考え……」
- 「ならば死ね」
- 「でも今は――」
- 連続する剣閃を紙一重で躱す。たとえここで彼に戦えと命令されても、そんな指示は断固無視する。
- 戒律破りなってもいい。どんな罰がきても死ぬものかと、今の私は思っているのだ。
- 「もう簡単に割り切れない。みんなの祈りが胸にあるから、そこにあなたへの気持ちも灯っているから! 殺させないし、殺されてなんかあげません!」
- だって、まだマグサリオンは最後の一線を超えてなかった。私は無防備に立ったまま、自分でも驚くほど穏やかな声で語りかける。
- 「先の任務を終えて、一つ気付いたことがあるんです。あなたはカイホスルーのように、星霊の力を奪おうとしていませんよね。ウォフ・マナフを殺せばしがらみに囚われず戦えるはずなのに、そうしないのはなぜですか? 非合理的で面倒な真似を、わざわざ続けているのはどうしてですか?」
- 「…………」
- 「答えはあなたが仲間だから――きっと勇者になれる人なんです!」
- 「くどい人形だ」
- 『くだらない生き物だ』
- 「―――ッ!?」
- 突如として響いた謎の声に、私は天を振り仰いだ。瞬間的にマグサリオンとの絡みも忘れ、凝然と固まったのは、決して予想外の闖入に驚いたからだけではない。
- 典雅とすら感じさせる声に総身を貫かれた。そこに潜む妄執じみた熱情が、あまりに恐ろしく思えたのだ。
- 『おまえたちのごとき義者を見ると虫唾が走る。息をするな。蠢くな。散り際に私を興じさせる滅びの花こそ、下賤の身に唯一許された役割と知れ』
- この戦慄、この威圧感――龍骸星で一度経験したカイホスルーの龍声に酷似している。
- この邪悪、この絶望感――膨れ上がっていく我力の密度は、フレデリカにも劣らない。
- 「ズルワーン!」
- 降り注ぐ脅威の圧を掻き消すように、マグサリオンが怒声を放った。呼ばれて現れた銃使いはいつも通りの軽薄な――態度じゃなく、憮然と眉をひそめている。
- 私はそれが、この場で何よりの異常に思えた。
- 「……ちくしょう、執念深すぎんだろ。あんな程度じゃ追えるわけもねえと思ってたが」
- ぶつぶつと拗ねた風に愚痴る様はおよそ初めて見る彼で、だが状況を呑み込めていないのは自分だけだという確信があった。
- マグサリオンもズルワーンも、この展開を一定のレベルで予想していた。もしや件の契約とやらは、そういう意味だったのやもしれず……
- 「やべえなこりゃ、本気じゃねえかあの野郎」
- ズルワーンが見上げた先で空が割れた。まるでそこから花開くかのごとく、聖王領の天に生じた亀裂をこじ開け、有り得ないほど巨大な樹木がめきめきと広がり始める。
- なんだあれは――この星の大気圏内に、別の星が顕れようとしているみたい。
- 鬼海星じみた樹木の触手が蠢く向こうに、私は不浄な仮面めいた、しかし美しい女の顔を見た気がした。
- 空気に熱を帯びた腐臭が混じる。それは女の、情欲に爛れた吐息だったのかもしれない。
- 『見つけたぞズルワーン。一三年ぶりだ、もう逃がさぬ』
- 「うっせえんだよストーカーが。こうなりゃしゃあねえ、そっち行ってやっから道開きやがれ!」
- 「あ、待ってください!」
- 飛行の加護を使って一直線に、空の異常へズルワーンとマグサリオンは迫っていく。咄嗟に私も、彼らの後を追っていた。
- 『そうか、そうか。私のもとへ還ると言うか。ならばよいぞ、殊勝である。褒美に聖王領の始末は後回しとしてやろう』
- 艶然とした哄笑と共に、凄まじい引力が発生した。逃がさないという強烈な念に私たちは絡め取られ、女陰のような空の裂け目に落ちていく。
- 「あれは、いったい……!」
- 「マシュヤーナ」
- 成す術もなく呑み込まれんとするただ中で、ズルワーンが呟いた。
- 彼らしくない苛立ちと、そして隠しきれぬ寂寥の意識と共に。
- 「だいぶ昔に喧嘩別れした、オレの妹だ」
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