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- \― 8/10 ―――――――――――――――――――――――――
- ――もうだめだ。
- 誰かがそんなことを言った。
- 西園寺センパイが引きずって外に放り出してからは、もう誰も何も言わなくなった。
- それが58時間前。
- だけど、言わないだけだ。
- 誰もが心の中で思っていた――宇宙飛行士雨宮大吾の生還は絶望的だと。
- あたしも、ちょっとだけ思っていた。
- ――もう雨宮センパイには会えないのかもしれない。
- もうすぐ、救出チームの乗ったかぐや4号が月軌道に移行する。
- それまでにセンパイの居場所が分からないと、救出できない。
- 明「明香里、君はもう休んだ方がいい。これ以上は体に障る」
- たぶん、最期の瞬間に立ち会わせたくないんだと思う。
- 明香里「あたしもここにいます」
- 明「だが…ここにいても何もやれることは…」
- 明香里「わかってます。でもいたいんです」
- 明香里「雨宮センパイに言ったんです、終わりを、見届けてくださいって」
- 明香里「だからあたしも、見届けないといけないんです」
- 明「そうか…」
- モニターに流れる文字の意味なんてわからない。
- 飛び交う単語のそのほとんども異国の言葉だ。
- だけど…あたしはここにいる。
- ここが、自分の行ける一番遠くを目指して旅立った雨宮センパイの、一番近くだから。
- かぐや4号の最後の軌道変更ポイントまで、あと9分。
- あと9分で居場所を見つけないと、センパイは――。
- 無線は全チャンネルが解放され、誰もが月から発せられる電波に耳を澄ませている。
- だけど、聞こえてくるのは雑音ばかり。
- いろんな波長の雑音が混ざり、溶け合い、まるで静かな波の音でも聞いているみたいだった。
- 目を閉じる。
- 寄せては返す、波の音。
- …急に地球が懐かしくなった。
- あたしはあんまり海を知らない。
- ずっと山に囲まれた場所で暮らしていたから。
- 確か雨宮センパイも同じようなことを言ってたっけ。
- 海は見えないけど、そのかわり空気はきれいで、星が近かった。
- だからあんまり、海を知らない。
- ……。
- だけど……知ってる、波の音。
- 一度だけ、行ったことがある。
- 宇宙開発の町、ひまわりの町。
- 西園寺センパイの実家のある、宮浦という町だ。
- いつだったっけ、夏休みの部の合宿とかいう名目で三人で遊びに行ったんだ。
- たくさん泳いだ。
- 次の日、背中がひりひりして大変だった。
- 雨宮センパイの背中の皮を剥いて遊んだ。
- 西園寺センパイはあんまり焼けてなかったっけ。
- ――楽しかった、あの頃。
- 不安も悩みもなくって、3人で毎日バカみたいに笑い合って生きていた。
- …帰りたい。
- ……あの頃に帰りたい。
- 目を開ける。
- カウントダウンは、あと2分と50秒。
- …帰れない。
- …もう、帰れない……。
- …もうあの日々は――……。
- ピピッ、ガ、ガー
- 波の音の、その隙間から、懐かしい声がした。
- 大吾『――よう、元気か』
- 明香里「セン…パイ……!?」
- 生きてた……? 生きてた…!!
- やっぱりセンパイは無事だった!
- わき上がる拍手と歓声。
- 英雄が、誕生した瞬間だった。
- 明「座標確認急げ! かぐや4にも回線開け!!」
- 明香里「センパイ、聞こえてますかっ!?」
- 明香里「すぐっ、すぐに救出チームが到着しますから!」
- 大吾『なぁ、そこに明香里はいるか?』
- …あれ?
- 聞こえて、ない…?
- あ、そっか、ここと月では電波でも遅延が起こるんだった。
- …それくらい、センパイは遠くにいるんだ。
- 大吾『よう明香里。不思議だな、俺は今、月の上でお前の声を聞いてる』
- 明香里「センパイ、今はそんなこと話してる場合じゃ――」
- 大吾『見えてるぜ、地球が。俺たちの故郷がよ』
- かみ合わない会話。
- 数秒遅れの不格好なやりとり。
- だけど、それでも確かに、お互いの声は聞こえている。
- 大吾『いいんだ、聞いてくれ』
- 大吾『この言葉を伝えるために、俺は歩いてきた』
- 後に続いたのは、永遠に宇宙史に刻まれることになる言葉だった。
- 大吾『これは人類にとっては小さな一歩だが、一人の人間にとっては偉大な飛躍だ』
- …あれ? なにか、へん??
- ………………。
- …………。
- ……。
- また、あいつの夢。
- あいつと、明香里の夢だ。
- いつまで、こんな夢を見続けなくちゃいけないのか…。
- こんな夢を見続けることになんの意味があるのか…。
- ――消息を絶った大吾。
- ――大吾の身を案じる明香里。
- そして――月からの通信。
- 明香里の嬉しそうな声が耳に付いて離れない。
- …………なんなのよ。
- 世界は自分を中心に回ってるとでも思ってるわけ?
- 残念だけど、それは大間違い。
- この世界にあなたはいない。
- あなたはこの物語の脱落者なの。
- あなたは幸せになれなかった。
- ハッピーエンドを掴めなかった。
- アクア「……」
- なら――あたしは?
- あたしは、この物語の何?
- ……。
- ……あたしも、脱落者だ。
- 明香里は死んだ。
- なのに大吾は、明香里の亡霊を追い求めて今もこのひまわりを彷徨っている。
- ――同じだ。
- みんな、ハッピーエンドに向かって突き進んだ。
- だけど掴めなかった。
- …でも、それで終わりじゃない。
- 人生は続いていく、意味もなく、だらだらと。
- …それはまさに亡霊だ。
- 生きている意味なんて無い、ただ、惰性で過ごす毎日。
- ……もういやだ。
- 大吾にも会えない。
- 明香里の夢を見続ける。
- そんな毎日はもういやだ。
- ……そうだ、終わりにしよう。
- こんな空虚な毎日は、終わりにしてしまおう。
- …確か、まだ薬が残っていたはずだ。
- …うん、ちょうど2本ある。
- 宗一郎には1日1本だと堅く言われている。
- ――2本打ったらどうなるんだろ?
- …きっと終わりにできる。
- カタカタ…
- なんで。
- カタカタ…
- なんで上手くいかないんだろう。
- カタカタ…
- いつもやってるじゃない。
- カタカタ…
- 左手で構えて、狙いを定めて――。
- カタカタ…
- あれ、おかしいな。
- カタカタ…
- 手、震えてる。
- カタカタ…
- いらないのに。
- カタカタ…
- もう全部、いらないのに。
- カタカタ…
- なんで、怖いんだろ、あたし。
- アクア「はっ…はっ…はっ…」
- アクア「…はぁっ、はぁっ…」
- …帰りたい。
- あの頃に帰りたい。
- あたしと、アリエスと、アオイ。
- 不安も悩みもなくって、願いも望みもなくって、楽しいこともなんにも知らなくって…。
- ただ、3人で身を寄せ合って生きていたあの頃。
- …けど、もう帰れない…。
- アクア「――はぁっ」
- シリンダーを逆手に握り直す。
- よし、これなら大丈夫。
- 注射痕の中心、もう硬くがさがさになった所に針を突き立てる。
- 一気にピストンを押し込むと、頭を強く殴られたみたいに視界がぐわんと揺れた。
- アクア「……もう、1本…」
- もう怖くない。
- そんなことより、ぷつんと意識が千切れてしまう前に最後の1本を打たなければ。
- 同じように逆手に持って、突き刺す。
- …怖くない怖くない怖くない。
- ピストンに指をかけ、力を込める。
- …あと少し、あと少し。
- アクア「…つっ」
- 手が震えて、硬くなった肌の上を針が滑った。
- 血液が、にじみ出してくる。
- アクア「…うぁ…」
- 血――?
- でもこれ、赤い。
- 赤…あか…あか……。
- 赤いから、これは薬だ。
- 薬が、溢れてるんだ…。
- …ぽた
- あ…だめ…。
- アクア「……っ!」
- 気がつけば、そこに口をつけていた。
- 舌先に、鉄の味が広がる。
- アクア「!?」
- 同時に、
- 強烈な何かが流れ込んできた。
- 明香里「――――ごめんなさい」
- …拒絶。
- それは謝辞ではなく拒絶の言葉だった。
- すべてが塗り替えられていく。
- 光に満ちた世界が、闇へと――。
- ――――……。
- ――………………。
- あたしはずっと空を見上げて生きてきた。
- 小さな頃は、周りを山に囲まれていたから仕方なく。
- 大きくなってからは、周りにいた二人のセンパイに置いて行かれないように背伸びをして必死に。
- ずっと、空ばかり見てきた。
- だから気付かなかった。
- 雨宮センパイの、見ていたものを。
- ずっとずっと、遠くの空を見上げ続けていたセンパイ。
- だけど、いつかセンパイは気付いたんだ。
- ――本当に自分が求めていた物は、もっとずっと近くにあったんだって。
- だけどあたしはバカみたいに、空ばかり見上げ続けていた。
- きっとセンパイもそうなのだと信じて。
- ううん、そう信じていないと怖かった。
- この空のずっと向こうに、あたしたちの目指す場所がある――そんな幻想的な言葉に身を委ねていた。
- 何も考えずに空を見上げているのが楽だった。
- ただただ、何も考えずに見上げ続けていた。
- 明香里「…ごめんなさい」
- だからこれは、あたしの責任。
- 明香里「ごめんなさい」
- 謝って済む問題じゃない。
- だけど…それ以外の言葉は知らなかった。
- 明香里「ごめんなさい」
- 全部全部、あたしの責任だ。
- 明香里「ごめんなさい」
- だから…。
- 明香里「ごめんなさい」
- あたしは――人殺しになる。
- 光。
- そこに光があった。
- 光の中に男が立っている。
- 見覚えのあるシルエット…。
- ――なんだろう、この懐かしさは。
- ――あたしは帰れたのだろうか…あの3人の頃へ。
- …ゆっくりと目を開く。
- シルエットが動いて…懐かしい声がした。
- 大吾「…よう、元気か」
- ……え。
- ?「あ…え…」
- パクパクパク
- 口が空回りする。
- だ、だって、どうして…??
- もしかして、これは夢の続き?
- 大吾「なんだ寝ぼけてんのか? 自分の名前言ってみろ」
- ?「ア……」
- ――ア?
- ?「……アクア」
- 大吾「おし、正解」
- …なんで大吾があたしの部屋に?
- だって、明に監禁されてるはずじゃ…。
- 大吾「意識は正常…っと」
- 大吾は、宗一郎がよく使うようなファイルに何かを書き込んでいる。
- アクア「…なんで大吾がここに?」
- 大吾「お? お前、俺の名前知ってんのか?」
- アクア「……は?」
- 大吾「とりあえず自己紹介と行くか」
- 大吾「俺は雨宮大吾」
- 大吾「日向先生の代理でここで保険医をやることになった。よろしくなお嬢ちゃん」
- アクア「……?」
- なんだこれ…やっぱり夢の続き?
- ――違う。
- いつまで腑抜けてるのよアクア、ちょっと考えればわかる事じゃない。
- 明は、アリエスを使ってあたしの記憶を消そうとした。
- だけどそれだけでは満足しなかったのだ。
- ――明は、大吾の記憶も消した。
- 明香里に関することも、あたしに関する事も、全部。
- 考えてみれば、明にとっての一番の不穏分子は、あたしなんかじゃなくて大吾だ。
- ただ監禁しておくよりは、やっかいな記憶を消して自分の手駒として使う方がいいに決まっている。
- ……何故あの時気付かなかったの…。
- 気付いていれば、無理矢理にでも脱出させて――。
- 大吾「じゃあ、下を脱げ」
- アクア「はぁっ!?」
- 大吾「はっはっは、今のは笑うところだぞ。真に受けてどうすんだよ」
- 大吾「ま、本当に脱いでも俺は構わないがな。触診してやるぜ?」
- …記憶をなくしたくらいじゃ下品な物言いは変わらないってことかしら。
- アクア「……」
- いつの間にか右腕に包帯が巻かれている。
- 相変わらず下手な巻き方だ。
- ――あたしは、終われなかったのか。
- いや、終わろうとしたところを助けられたんだ。
- 大吾「じゃあとりあえず上脱いでくれ」
- アクア「……はいはい、冗談はもういいから」
- 大吾「脱がないってんなら、脱がせるまでだ」
- アクア「……」
- アクア「…もしかして、本気?」
- 大吾「当たり前だろ。俺は医者だぞ」
- どこから取り出したのか、大吾は聴診器をちらつかせながら言う。
- アクア「…う……でも…」
- 大吾「心配すんな、別にお前の裸体を観察したいワケじゃない」
- そ…そんなこと言われると余計に恥ずかしいんだけど。
- 大吾「ほら、ガバッと行け、ガバッと」
- アクア「が…がばっ…?」
- 大吾の前で自ら胸をさらけ出す自分を想像してしまって、慌てて頭を振る。
- 大吾「はっはっは、耳まで真っ赤だぞ。面白い奴だな、お前」
- ……そうよ、大吾は何も覚えていないのよ。
- 今のこいつはただの医者で、あたしはその患者。
- 宗一郎と同じ――そう割り切るのよ。
- アクア「……」
- スリップの裾を、ゆっくりと持ち上げていく。
- ひやり、お腹に冷たい空気が触れ、そこが露出しているのだと思い知らされる。
- …もう、おヘソまで見えてる…。
- アクア「ね、ねぇ…やっぱり……」
- 大吾「ん? お前の心臓はこんなに下にあるのか?」
- アクア「…………」
- ごくりと唾を飲み込んで、覚悟を決めた。
- アクア「〜〜〜〜〜〜〜っ」
- 目を瞑って、一気に脱ぎ去る。
- 肌の上を滑る布の感触で鳥肌が立った。
- アクア「……」
- 大吾の視線を感じる。
- なにこれ…視線が――熱い。
- 大吾「ほー、綺麗な色してんな」
- アクア「ッ!? ど! どこ見て――!!」
- 大吾「褒めてんだろ。怒るなよ」
- アクア「――ひゃっ!」
- 胸に、冷たい感触。
- 左胸に聴診器が当てられていた。
- 大吾「トクトク言ってるな」
- 大吾の顔は、胸から十数センチの距離にある。
- 大吾「――すげぇ速い」
- 大吾の言葉が、まるで羽毛のように体表を撫でていく。
- その度に、ますます脈拍数が上がっていく。
- ――聞かれてる。
- 今、聞かれてるんだ。
- あたしの心の音を、全部。
- …心臓が弾けてしまいそうだ。
- 大吾「こんなに速い心音は聞いたことがないぞ」
- 大吾は顔を離して、ため息一つ。
- 大吾「こりゃあ重症だ。病名は、そうだな――」
- 大吾「――恋の病ってヤツだな」
- アクア「んな……ッ!!?」
- それは、あたしをからかって大笑いしていたいつもの大吾の顔。
- アクア「あ…あ…あ…あなたもしかしてッ!?」
- 大吾「おう。俺は宇宙飛行士、世界の英雄――」
- 大吾「そして、お前の元同棲相手の雨宮大吾だぜ」
- アクア「な…な……」
- …記憶が……ある!?
- 大吾「ちょっとからかっただけなのによ、すんなり信じやがる」
- 大吾「ったく、笑いを堪えるのに必死だったぜ」
- 大吾「ま、おかげでいいもん見せてもらったけどな」
- アクア「え…――
- きゃっ!」
- スリップで前を隠す。
- アクア「な…なによ、人を騙すような真似をして…」
- 大吾「あっさり騙されてほいほい脱いでんじゃねぇよ。もう子供じゃねぇんだからよ」
- アクア「……だって…」
- 大吾「ま、そーゆうしおらしいカッコだけはいっちょ前に女なんだけどな」
- アクア「……」
- なんか、納得いかない。
- こんな形で大吾にやりこめられるとは思わなかった…。
- アクア「で、なんで大吾がこんな所でお医者さんごっこやってるのよ」
- 大吾「それはだな――って、とりあえず服を着てからにしようぜ」
- アクア「…ぅ……」
- 大吾「ほら、俺は向こう向いてるからよ」
- アクア「…………うん」
- 大吾「――で、明のヤツはアリエスって子を使って俺の記憶を消そうとしたんだよ」
- 大吾「だが、アリエスは俺を助けてくれた」
- 大吾「俺の記憶を消さないでおいてくれたんだ」
- アクア「…そっかアリエスが」
- 大吾「ああ。なんだあの子、記憶を操れるなんて何者だ?」
- アクア「あたしの――妹よ」
- 大吾「そういや、お前も妙な力を使えたよな。お前ら一体なんなんだ?」
- アクア「……」
- …なんなのかしらね、ホントに。
- 大吾「とにかくそう言うわけで、俺は記憶を失ったフリをすることになった」
- 大吾「何とか外出許可をもらい、このひまわりをこっそり調べて回ってたんだ」
- アクア「――明香里を捜すために?」
- 大吾「ああ、そうだ。だけどちっとも見つかりゃしなかった」
- 大吾「腕一本見つからねぇ」
- アクア「…やめてよ、気持ち悪い冗談は」
- それじゃまるで、明香里は既に――。
- ――いや、大吾はその可能性も考えてるのかも。
- かつてここで行われた実験――それはきっと、あたしの理解の範疇を超えたものだ。
- 大吾「…悪ぃ」
- アクア「べ、別に謝らなくていいから」
- そう言われると思い出してしまう――あの日の拒絶の言葉を。
- 大吾「そして今日の昼頃だ、アリエスって子が俺の部屋に飛び込んで来て言ったんだ」
- 大吾「お前が部屋で倒れてるって」
- アクア「――そう」
- 大吾「ああ。お前の命の恩人だ、感謝してやれよ」
- アクア「…ええ、もちろんよ」
- 今、宗一郎は地上にいる。
- アリエスは他に頼る人がいなくて、大吾の所に行ったのだろう。
- 大吾「幸い俺は、一応免許だけは持ってたからな」
- 大吾「明に頼んで、お前の治療をさせてもらった」
- アクア「それにしても、よく明が許可してくれたわね。あの男は、あたしたちを引き離したがってたのに」
- 大吾「ま、土下座して頼み込んだからな」
- アクア「…ど、土下座?」
- 大吾「俺の得意技だ」
- アクア「それはまた…情けない得意技ね」
- 大吾「けど、それでバレちまったかもしれねぇな…俺が記憶を失ってないって事が」
- 大吾「いくら俺でも、見知らぬヤツのために土下座なんかしねぇからなぁ」
- ……あ。
- 大吾は、自分が再び監禁される危険を承知で、明に頼み込んだ。
- ――他の誰でもない、あたしのために。
- 大吾「ま、仕方ねぇ」
- 大吾「たとえ明香里を見つけられても、お前に死なれちゃ寝覚めが悪くならぁ」
- 大吾は、なんで中途半端に優しいのだろう。
- あたしのことを拒絶した――なら最後まで放っておけばいいのに。
- なのに大吾は、あたしを助けた。
- あたしを見捨てなかった。
- 大吾「お前は重症なんだよ、俺が思ってた以上にな」
- 大吾「思いこんだら一直線、たとえ世界がひっくり返っても歩みを止めない――」
- 大吾「とんでもねぇバカ野郎だ」
- 大吾「――俺と同じだな」
- 頭に手が載せられた。
- そして乱暴にかき回される。
- アクア「ちょ、ちょっと、何を――」
- 大吾「そんな人生も、ま、ありかもな」
- 大吾「不幸だが最高だ、きっとな」
- 大吾は笑っていた。
- 不幸なはずなのに――笑っていた。
- 大吾「昔話を聞いてくれるか?」
- 大吾「なに、酒はいらねぇ。特別サービスだ」
- アクア「…何よ」
- 大吾「前に言ったよな。俺も明香里に告白した事がある」
- 大吾「もうずいぶんと昔の話だ」
- 大吾「俺は、最高の告白をするために、最高の舞台に立った」
- 大吾「――月の上から、告白したんだ」
- アクア「……つ、き…?」
- 大吾「ああ。忘れもしねぇ、2029年8月23日のことだ」
- アクア「――“これは人類にとっては小さな一歩だが、一人の人間にとっては偉大な飛躍だ”」
- 大吾「なんだ、知ってんのか」
- アクア「一応…ね」
- 今から20年も昔――2029年8月、大吾は月に立った。
- だけどそこは、月の裏側だった。
- 地球との通信は――途絶えた。
- 大吾「俺はずっと、月に立つことが夢だった」
- 大吾「その夢を叶えることが自分の全てだと思っていた」
- 大吾「だけど、月の大地を踏みしめたその一歩で、気付いたんだ」
- 大吾「――ここには何もないってな」
- 大吾「俺の手の届いた一番遠くの場所――そこは死の世界だった」
- 大吾「宇宙服の外は空気もない」
- 大吾「温度だってすげぇ低い」
- 大吾「光さえも――なかった」
- 大吾「ずっと追い求めていた夢は、その瞬間夢でもなんでもなくなったんだ」
- 大吾「闇が心の中に入り込んできたみたいだった」
- 大吾「だけど、全てが闇に包まれることはなかった」
- 大吾「俺の心の中に、小さな小さな明かりが灯っていた」
- 大吾「それがあいつ――星乃明香里だったんだ」
- 大吾「俺は遠くを目指してきた」
- 大吾「明香里はいつだって俺の隣にいて、だから俺の目指す場所になんかなりはしないと思っていた」
- 大吾「…だけど違ったんだ」
- 大吾「いつも隣にいたはずなのに、明香里は月よりも遠い場所にいた」
- 大吾「やっと気づけたんだ――月に立って、やっとな」
- 大吾「その時俺は決めた」
- 大吾「一生明香里に手を伸ばし続けるってな」
- たった一人で月に不時着した大吾。
- …どんなに心細かっただろう、どんなに心許なかっただろう。
- そんな時、大吾の心の支えになったのが明香里だった。
- 大吾「一人の男が月の上を歩く――んなことは、人類にとっちゃ取るに足らない出来事だ」
- 大吾「だが、俺にとっては違った」
- 大吾「月の大地を踏みしめたその一歩は、俺に一番大切なものを教えてくれたんだ」
- 大吾「…それからは夢中だった」
- 大吾「歩いて歩いて歩きまくった」
- 大吾「通信を回復させるために月の表側を目指した」
- 大吾「死が怖かったのもある」
- 大吾「だけどそれ以上に、明香里と話がしたかった」
- 大吾「ようやく気付いたこの思いを、伝えたかったんだ」
- 思いこんだら一直線、世界は既にひっくり返っていたけれど、大吾は歩みを止めなかった。
- ――そして、辿り着いた。
- 大吾「気がついたら、地平線から地球が見えていた」
- 水の惑星――アクア・プラネット。
- 大吾「俺は通信機の電源を入れて、思いのままに口を動かした」
- 大吾「――俺の、一世一代の告白だった」
- 大吾「好きだとか愛してるだとか――何を口走ったかはよく覚えてねぇ」
- 大吾「はは…その通信、世界中で聞かれてたんだぜ? テレビのニュースでも生中継されてたらしい」
- 大吾「日本語で喋ってたのがせめてもの救いってヤツだな」
- 明香里はその告白を、ひまわりの通信室で聞いていた。
- ――世界中の人間に注目されながら。
- アクア「…それで、世界が見守る恋の結末は?」
- 大吾「……」
- 大吾「…お前の知ってるとおりだよ」
- 大吾「――『ごめんなさい』。それがあいつの返事だった」
- 大吾「その一言で通信もぷっつり切れちまってよ、いやぁ焦った焦った」
- ――ごめんなさい。それは拒絶の言葉。
- だけど…おかしい。
- 何かが、夢と繋がらない。
- 夢の終わり、明香里はなんと言っていたか。
- 明香里『――あたしは人殺しになる』
- 意味がわからない。
- 一体何故――それに、『誰』を、殺すと言うの?
- 大吾「後からわかったことだが、そのとき明香里は明の子供を身籠もっていたんだ」
- アクア「…………え?」
- 大吾「んなこと、俺はちっとも知らなかった。なのに大見得切って告白なんかしてよ」
- 大吾「おかしな話だろ、まるでピエロだ」
- アクア「……」
- …テロリストも、明と明香里の間には子供がいると言っていた。
- そして、その子供の存在こそが西園寺グループの立場を脅かし、明香里を宗一郎の実験体へと貶めた。
- アクア「……」
- ……なら、明香里が殺そうと考えるのは誰?
- アクア「その子供、今は?」
- 心臓が高鳴っていた。
- 明香里はその子を――。
- 大吾「――今も、宮浦で暮らしている」
- 大吾「明香里には妹思いの兄貴がいてな、そいつが面倒を見てくれてる」
- …生きて、るのか。
- 大吾「父親はろくに家にも帰らねぇ仕事人間、母親は消息不明――あの子もひどい家に生まれたもんだ」
- 明と明香里の子供――今も地上で生きている。
- …不思議な感覚だった。
- 夢のせいだろうか、明香里は今も学生気分の抜けきらない若者で、子供とかそういうことには縁遠いような気がしていた。
- だけど、それは今から20年近くも前の話なのだ。
- あたしは…その一部をかいま見ているだけ。
- 大吾「物語は、俺の知らねぇところで動いていた」
- 大吾「俺はただ月を目指していた…」
- 大吾「――だけど、あいつらにとってそれはとても幼稚なことだったんだ」
- 大吾が夢を叶えるため宇宙飛行士としての訓練に明け暮れている間に、明香里と明は親交を深めていった。
- 大吾は月に立って明香里への気持ちに気付いたが、全ては遅すぎたのだ。
- …かつて同じ時間を共有していた3人。
- だけど大吾は、いつの間にか明や明香里とは違う道を歩んでいた。
- ――いや、待て。
- あの日、ひまわりの通信室で大吾の声を誰よりも待ち望んでいたのは、明香里だ。
- …確かに明香里も望んでいた――3人でいたあの頃に戻りたいと。
- ……気持ちは、大吾と同じだった。
- 明香里『――あたしは人殺しになる』
- 明香里はお腹の中の子供を憎んだ。
- ……何故?
- …その子供が――明の子供だからだ。
- 大吾「そして、俺は宇宙飛行士という肩書きを捨てて、地球に降りた」
- 大吾「世界中が立会人の告白で派手に振られたんだ。俺の出る幕じゃなかったんだよ」
- アクア「――違うっ!」
- 大吾「お?」
- アクア「明香里だって、きっと大吾のことを――!」
- 大吾「さぁて、それはどうだかな」
- 大吾「ま、嫌われちゃいなかったかもしれねぇが、明よりは好かれてなかったんだろ」
- 明香里は、大吾よりも明の方が好きだった?
- …そんなワケない。
- あたしが言うんだから……そんなワケない。
- きっと、明香里もそうと気付いていないだけで、明にいいように操られていたんだ。
- 大吾「おっと、ずいぶんと話し込んじまったな」
- 大吾「そろそろ引き上げねぇと明のヤツに怪しまれる」
- アクア「…………」
- ――西園寺明。
- 今も昔も、すべてはあいつの手の中で動いている。
- ……今度はそうはいくものか。
- 明は、あたしと大吾の記憶が消されていないことには気付いてるかもしれない。
- だけど、あたしがすでに明香里の記憶を持っていることはまだ知らない。
- 今度は必ず出し抜いてやる。
- あたしと大吾で、明の手の中から抜け出してやる――。
- 大吾「しばらくはあまり妙な行動は起こさない方がいいかもな」
- 大吾「また明日の夜、ここに来る」
- 大吾「薬の方は俺がやってやるから、その包帯には触るんじゃねぇぞ」
- アクア「…わかった。待ってる」
- 思いこんだら一直線、世界は既にひっくり返っているけれど、歩みは止めない。
- …あたしは今でも大吾が好き。
- だからどんな形でもいい、大吾のために行動しよう。
- ――今でも大吾が、明香里のために行動しているように。
- アクア「ちゃんと待ってるから」
- 大吾「おう、いい子でな」
- 大吾は満足そうに笑って、部屋を後にした。
- ドアの閉まる瞬間、背中越しに振られた右手が、なんだか妙に嬉しかった。
- アクア「…………」
- ふたりの共通の敵は既に見えている。
- ――西園寺明。
- 手持ちのカードは限りなく少ない。
- だから協力してよね――明香里。
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