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- 涼やかな朝の爽気に満ちた庭園を、一人の男が歩いていた。
- 年の頃は三〇絡み。すらりと無駄なく引き締まった長身の持ち主で、顔立ちもそれに準ずる隙のない美形。全体的に硬質な雰囲気を纏っているが、他者に威圧感を与えるというほどではない。
- むしろ堅物然としていることに価値を見出される人種であり、名族に仕える家令かれいといった印象だ。歩調も姿勢も計算され尽したように決まっており、一切の崩れが見当たらない。
- 強いておかしな点を挙げるなら、服装だろうか。ぴしりと上品に着こなしてはいるものの、夜間の礼服として知られる燕尾服にブラックタイ。一般的には邪道と言えるコーデだが、妙に嵌っているため指摘がしづらいところだった。
- 実際、男の中ではこれが正しい装いなのかもしれない。己を夜に生きる生物だと定義して、日々を舞踏会や演奏会――さらには葬儀の延長と見なしている。してみれば庭園に咲き誇っている花々も、やや偏りが目立っていた。
- 棘があるもの、毒を持つもの、妖しい花言葉を宿すものや、悲劇の象徴とされているもの……色とりどりの美しさを見せているが、総じて不吉な、忌まわしい属性を帯びたものばかりだった。有り体に、すべてが不義者ドルグワントの花である。
- この庭園では悪の花しか芽吹かない。住人たちの気が、生き様が、善なる存在を駆逐している。
- 流血庭園と呼び称される、殺人鬼たちの領域だった。
- 「エルナーズ」
- 低めだがよく通る声で、男は使用人の名を読んだ。それまで花の世話をしていたメイド服の少女が、イチゴ型のファンシーなスコップを片手に屈託のない笑顔で振り返る。
- 「おはようございます、ムンサラート様。今日もいいお天気ですね」
- 「ああ、実に爽やかな朝だが……時におまえは、いま何を隠した」
- 「あぅ」
- エルナーズと呼ばれた少女は、一転してもじもじと言葉を濁した。右手を後ろに回したまま、何のことでしょうと白を切るが、目は完全に泳いでいる。
- 彼女らメイドたちの監督係でもあるムンサラートは、無言でその様を見下ろしていた。すでに問いは発した以上、二度続けては言わない。
- やがて沈黙に耐えられなくなったのだろう。エルナーズは観念して、右手をおずおずと前に出した。
- 「お花の肥やしにしようと思いまして……」
- それは肘の先から切断された人間の手。しかも子供と思しきものだった。まだぴくぴくと動いており、鮮度の良さを証明している。
- 「構いませんよね? ファラやシーリーンもやってますし、いま私たちの間でちょっとブームになってるんですよ。綺麗なお花を咲かせる勝負っていうか」
- 「無論、構わんよ。花の世話をおまえたちに任せた以上、やり方にまで口は出さない。庭の彩りが豊かになるなら、むしろ結構なことだろう」
- 「でしたら――」
- 「が、これはなんだ?」
- すっと手を伸ばすムンサラート。指で少女の口元を軽くなぞり、手袋に付着した血を見せつける。
- 「はしたない真似は慎めと、いつも私は言っているぞ。花の世話なら花の世話、食事をするなら食事、もっと分別を持ちたまえエルナーズ。そんな様では、いつまでたってもお嬢様のお付きにはさせられない」
- 「うぅ……申し訳ありませんでした」
- でも美味しいんですよ、と上目遣いにメイドの少女は言ってくる。
- 「ムンサラート様もお召し上がりになればいいのに」
- 「せっかくだが、人肉はもう飽きた。それはおまえたち若者の好みだろう」
- この世には殺人鬼という種族がいる。人類として生まれながら人類を殺すことに異常な執着や達成感、あるいは義務感まで持つ者たちで、まさに人を殺す鬼としか言えない。
- 彼らは独自の拘りを持っており、戒律というほどではないが一定の行動規範を共有していた。要は“習性”と表現できる。
- 中でも最たるものは、原則として人間以外を殺さないこと。襲われたり、意図せず巻き込んでしまった場合は仕方ないが、できるだけ他生物に優しい立ち回りが良しとされているのだった。ひとえに殺人種族としての矜持である。
- ゆえに食事の幅が狭くなるのは避けられない。家畜はもちろん草花とて生物だから、彼らを糧とするのは殺人鬼らしからぬと忌避されている。
- 結果、文字通りの人喰いが大半を占めていた。特に若者たちは心身の活動が盛んなため、高エネルギーを求めてそうならざるを得ない。
- 老成した殺人鬼たちは水や鉱物などにシフトしていくのだが、そこでさらに拘りが強い者らは微生物にさえ配慮をし始め、ついには何も食べなくなる。
- ムンサラートはその段階に達した殺人鬼だった。もう五〇年近く、食事と言えるものをしていない。そして、にも拘わらず衰えがない。
- 四人の特級魔将ダエーワが一人。第四位魔王の従僕として一歩引いた位置にいながら、未だ殺人鬼という種族の代名詞になっている悪名持ち。
- ムンサラートノコギリ男……それが彼の正体だった。
- 「でだ、エルナーズ。おまえを呼んだのは他でもない。少し花を見繕ってはくれんかね」
- 「え? ああ、なるほど。奥様のところへ行かれるのですね。畏まりました」
- 任せてくださいと請け合って、エルナーズは楽しげに花選びを始めた。切り取る作業に一手間かければ、根から離れても鮮度を保てるので花の命を奪わずに済む。
- 「奥様にはきっとこれがお似合いでしょう。けれどこっちも捨て難い。しかしあっちも、ううむ……迷ってしまいます」
- だが、しばらく時間は掛かりそうだ。花の知識がないムンサラートは黙って待つしかなく、手持ち無沙汰を紛らわすために庭園の景色を見回していた。
- 広いと言えば広い。一〇〇〇人の軍隊が整列して行進できるほどの規模があり、その奥に建つ城も壮麗な佇まいを見せている。ここを一〇〇人にも満たぬ数で切り盛りしているのだから、むしろ分不相応な領地と言えるかもしれなかった。
- が、これを世界のすべてとしたならどうだろう。庭園の外には何もなく、空の向こうに続く景色は存在しない。すなわち伝説の浮遊島よろしく、ここは異界を彷徨っているのだった。
- 一種、封印されていると言っていい。もしくは追放刑の身と表現したほうが正しいか。外の世界から切り離され、異次元空間を放浪するのが流血庭園の真実である。
- とはいえ彼らの犠牲者が無くならない点からも分かる通り、永遠の囚人ではなかった。仮釈放とも言うべき限定的な跳梁を繰り返しているのだが、その気になればいつでも庭園を内から破壊し、完全な自由を得ることもできる。
- しかし、そうしない理由が二つあった。
- 何、処、で、も、な、い、何、処、か、に、在、る、な、ら、、そ、れ、は、何、処、に、で、も、行、け、る、と、い、う、意、味、だ、か、ら、。
- 彼らの到来を望む声、あるいは彼らにとって狂おしく“そそる”匂いなど、一定の条件を満たした場所に流血庭園は繋がるのだ。
- 普段は上げられている跳ね橋が下され、殺人鬼ノコギリたちの晩餐、舞踏、宴が始まる。
- エルナーズのような若者はその際に外から訪れ、逆に居着いてしまったクチである。と言うより、初期からここにいるのはムンサラートと彼の主人だけだった。
- よって、現状に則るほうが行動の範囲は広がるため都合がいい。付け加えると、神出鬼没の属性は彼らにとって魅力的なものだった。
- 「お待たせしました。これで奥様は大喜び間違いなしです、ムンサラート様」
- 「ご苦労。では仕事に戻りたまえ」
- 「はい!」
- 受け取った花束を手に、目当ての人物が待つ場所へと向かいながらムンサラートは思った。花の意味にも良し悪しにも興味を持てない自分だが、一つだけ分かる。奥様がお喜びになるなど有り得ないはずだと。
- 彼女は我らを憎んでいるし、呪っているし、おぞましいとすら思っているに違いない。
- にも拘わらずこうして花を手向たむけ続けているのは、別に嫌がらせのためではなかった。
- 彼なりの敬意。たとえ立場は違えども礼を尽くすに足る相手だと認めているからで、つまり二つ目の理由とはそれである。
- 彼ら殺人鬼をこの地に封じ込めようとした女性。命を賭して戦い、敗れ、死後も曲がらない信念を具現せしめた好敵手に対する畏敬の心。
- 彼女の流血が今の庭園を生んだのだから、我らはここに在るべきだとムンサラートは考えている。
- そんな忖度そんたくをされることも、当人にとって屈辱の極みかもしれないが……
- 「お嬢様は変わらずあなたを愛しておいでですよ、奥様」
- 城の真下に位置する谷底へやってきたムンサラートは、恭しく拝跪はいきしてそう呟いた。
- 目の前には粉々となって干からびた人体の残骸が散らばっている。かつての姿を想起させるものは頭蓋骨にこびり付いた金髪だけだったが、それを儚いとは思わない。
- なぜなら、彼女の娘がこう言ったのだ。
- “お母さまはこのお姿こそ美しい。ゆえに手を加えるなど許しませんよ、ムンサラート”
- つまり趣向はどうあれ大事に思っているわけで、ならば臣であるムンサラートに否応はない。ただ娘の成長を見ること叶わなかった彼女に対し、そのお転婆ぶりを苦笑まじりで伝えるのみだ。
- 「どうやら橋が下りるのを待ち切れず、一足先に出向かれたご様子。とはいえ最低限の慎みは己に課しているでしょうし、そこまでの大事にはなりますまい。ですからどうか、ご安心を」
- そっとしめやかに花を捧げ、忠僕は物言わぬ死骸を慰めた。
- 外遊するのは分離の橋が下りたときだけという不文律を無視する以上、別の縛りを負わねばならず、その点では嘘を言っているわけでもない。
- が、結局は気分の問題にすぎないのだ。繋がった先が何処になるかで話は変わる。
- 洒落た会場に招かれて、踊らぬようでは淑女の名折れ……などと本人は言うだろうし、そこはムンサラートたちも同様だった。
- 「追って我々も向かいます。奥様にとってはご不快でしょうが、お許しください。しょせん我らは白と黒」
- 詮無いことですと憫笑して、ムンサラートは立ち上がった。
- 「いざ始まれば、なるようにしかなりませぬ。クイン様」
- 2
- この星、この地方における文化は、聖王領で言うなら中東圏に通じるものがあった。
- 建造物は滑らかな曲線を帯びた丸みのある屋根が多く、端的に言うと落下する水滴のような形をしたものが目立っている。
- 内装もやはり円を基調としたモザイク模様で、どこか万華鏡めいた趣おもむきがあるため見ていて飽きない。あまり注視していると頭がくらくらしたりもするのだが、要はそれだけ美しいということだ。
- 正直、不義者ドルグワントの支配域にこんな感情を抱くのは珍しいと思う。カイホスルーの属性が、破壊者ではなく略奪者であるせいかもしれない。
- 宝と言えるものなら見境なく奪うし愛でる第六位魔王は、この星が正常に機能していた時代の遺物を残している。我々アシャワンの感覚では華美にすぎて毒々しく感じる改装アレンジも少なくないが、当時の面影を跡形もなく消されているわけではなかった。
- 自然環境の面では目を覆う惨状だけど、風俗においては見るべきものが多分にある。
- よって今、私たちは嫌味や皮肉を言っているつもりじゃないと、彼には分かってもらいたい。
- 「素晴らしいです、フェルさん」
- 「めっちゃ可愛いです、フェルさん」
- 「やべえ、おまえやべえよフェル」
- アルザングの中枢たる水晶宮の主郭広間で、私たちは心から称賛の言葉を口にしていた。周りにいるのは年若い女性ばかりで、以前に知り合った踊り子の方々やマリカもいる。
- その点から分かる通り、本日ここに入れるのは女性だけという決まりなのだが、唯一の例外として彼がいた。
- フェルさん、私はあなたを真剣に凄いと思う。
- 「重ねて言いますが、素晴らしいです。何処からどう見ても女の子にしか見えません」
- 「くっ……!」
- 顔を真っ赤にしながら自分自身の両肩を抱き、縮こまるように震えているフェルさんはとてもとても愛らしかった。なんだか私自身、おかしな趣味に目覚めてしまいそうなほど嵌っている。
- マリカにいたっては、もはや畏敬の念すら抱いているくらいだった。この芸術作品とすら言える同胞を全世界に知らしめるのが使命だと思っているらしく、フェルさんの立ち居振る舞いにあれこれ注文をつけている。
- 「もっと背筋を伸ばしましょう。顎もあげて自信満々に、だけど少し斜めに構えて、お尻はこう! 体幹を意識しながら、官能と倦怠を表すように立たなきゃ駄目です。そうするのが大事な作法で……わあ、すごく綺麗な腹筋っ!」
- 「ちょ、やめ、触らないでっ!」
- 繰り返すが、私はこの星の文化風俗に敬意を払っている。ゆえに現在、我々が身を包んでいる衣装――ラクスシャルキと言うらしい――も同様だ。
- 有り体に踊り子衣装の伝統的かつハイグレード版と言えば伝わるだろうか。露出が多く、煌びやかなビーズが散りばめられたブラと薄手の腰布がメインという出で立ちで、女体の躍動感と煽情効果をコンセプトにしたものだからぶっちゃけるとエッチだ。
- そのため私個人としては当然恥ずかしくもあるのだが、そんなことはどうでもよくなるほどフェルさんが可愛い。
- 可愛い。
- いやもう、本当に可愛いのですよ。
- 「なあ、フェル……おまえ本当に男なんだよな? いったいどこにアレ隠してんの?」
- サムルーク、そういう次元の話をしてはいけません。いや、私も気になってはいるのですが、やはり無粋にすぎる突っ込みでしょう。
- 「か、帰る。もうやだ! なんで僕がこんな格好をしなくちゃいけない」
- 「なんでって、フェルさんが一緒に行くと言いだしたんじゃないですか。私たちだけをこの場所に送るのは主義に反するんでしょう?」
- 「そ、それは、確かに言ったけど……」
- 痛いところをマリカに突かれて、たじたじになるフェルさん。こうして見ると仲の良い“姉妹”のようで、なんともこう、いいですね。
- 「女装はさすがに契約外だ。僕がやりかったのはこんなのじゃなくて、もっとかっこいい感じの潜入っていうか……」
- 「あ、今の発言は女性蔑視ですよフェルさん。ラクスシャルキはスパイの王道でもありますから、立派なハードボイルドの一形態です」
- 「そ、そうなのか? いやけど、僕はあくまで男だし……」
- 「ほら、お尻がだらしないです。もっとプリンと、つんとあげる!」
- 「たっ、やめてよ叩かないでマリカっ」
- 本当に二人は仲が良くて、結構だと思う。いっそのことお付き合いする関係になってほしいし、もっと眼福を味わいたくて堪らないのだが、そろそろ現状に向き合わねばならないだろう。
- 隣のサムルークに目でコンタクトを取ってから、私は心で語りかけた。
- “で、あなたはどう予想しますか。今後の展開を”
- “アルマが新しい寵姫になったって話か? まあ、可能性としては三割か四割ってところじゃねえの”
- “つまり、賭けてみる価値はあると”
- “何を今さら。おまえだってそう思ってるからここにいるんだろ”
- 鼻で笑うように言われ、私は心で同意を返す。
- マリカと出会ったあの夜から二日後に、新たな寵姫をアルザングに送るというカイホスルーの勅が発せられたのだ。
- 天から降り注ぐ魔王の龍声とそこに宿る力はもちろん脅威で、戦慄を禁じ得なかったが、今さら恐れてなどいられない。新任の寵姫が来るというなら選ばれたのは誰なのか――話の中心はそことなり、様々な憶測、推測、噂の類が人々の間で囁かれた。
- 彼らにとっては命運を左右する問題なので当たり前に紛糾し、確かなところは分かっていない。だが、候補の中にアルマの名があったのは事実である。
- 曰く、冷酷非情。曰く、カイホスルーの忠実な下僕。曰く、穏健派。曰く、怠惰で何もしない。
- 伝え聞く彼女の風聞には統一性がなく、民の希望や悲観的な気持ちが多分に混ざっているため人物を判断する役には立たなかったが、裏を返せばそれほど存在感がある証でもあった。
- よって我々は、低くない確率で寵姫はアルマだと思っている。こちらとしてはろくなサポートもしていないので反省すべき話になるけど、彼女の任務が順調に進捗しているならそこを嘆く必要はない。
- 結果、勅令があった翌日に龍脈移動――この星におけるテレポートらしい――でアルザングに入った新寵姫が、帯同してきた行政官らに命じて宮殿付きの侍女を徴集したから、そこに乗ったという次第。
- 言うまでもなく虎穴に入る行為であり、女だけをそんな目に遭わせられるかと雄々しく言ったフェルさんの騎士道精神には頭が下がる。
- 彼の男気がこういうことになっているのは、まあいいとして。
- とにかく私たちは、以上の流れでここにいたのだ。
- “しかし、なんだな。寵姫がアルマだとしたらもっと融通きかしてほしいもんだぜ。普通はこう、大々的にお披露目パレードとかするもんじゃねえの? これからおまえたちをシメるのは、この私でござい――みたいな”
- “正論ですが、それは義者アシャワンの理屈ですね。不義者ドルグワントにとっては民など駒ですらありませんから、わざわざ公に現れる必要性を感じないのでしょう。もちろん、そう演じているアルマも然り”
- “らしくない真似をすると疑われるってわけか。なるほど、改めて面倒な立場なんだな。あたしなら五秒で爆発しちゃうよ”
- そして以前も言った通り、疑似的な転墜を起こしているアルマと意識でコンタクトを取るのは難しい。直接面と向かえば話は別だが、少なくとも現状は不可能。
- だからこうして、侍女候補になるしかなかった。見たところ四〇〇人を超える女性たちが集まっている今こそ、新寵姫を確認する絶好の機会。
- 相手がアルマであろうとなかろうと、普通は対面した瞬間に戦闘となる可能性が高いだろう。しかし、大量の一般人が同席していればその危険を軽くできる。
- 寵姫たるもの、みだりにカイホスルーの財を殺傷する真似は許されないから。
- 何も知らぬ女性たちを盾にするようで気は引けるが、もっとも理に適っている選択がこれだった。
- 「いいかいマリカ。詳しくは言えないけど、凄くこの状況は危険なんだ。基本的には僕らと他人の振りをしていたほうがいい」
- 「そうなんですか? でも、離れ離れになるのは寂しいです」
- 「う、それは僕だって同じだが……」
- などと、さっきからずっとイチャイチャしている二人をサムルークが笑い飛ばした。
- 「尻に敷かれてんな、フェル。こうなったら腹決めて、おまえがマリカを守ってやれよ」
- 「ぐっ……」
- 「頼りにしていいですか、フェルさん」
- 可愛らしく瞳を潤ませ、だけど強い押し出しではなく、信頼の表明として健気な好意を滲ませるマリカ。
- 最近になって気づいたのだが、男性を便利使いするにはこの手の戦法が有効らしい。
- 勉強になる。
- 「分かったよ。僕の傍から絶対に離れるな、マリカ」
- 「はい。よろしくお願いします」
- まあ、私が誰かを使うなど物理的に不可能なのだが、相手をいい気分にさせておけば無茶な指示を出される確率も減るだろうし、女子力を磨いて損はあるまい。
- いわゆる内助の功。あるいは魔性というやつか? せっかくこういう格好をしているのだから、この機にレベルアップを目指してみるべきだと思う。
- ズルワーンに女の子な態度は取りたくないし、マグサリオンにはフルで黙殺シカトされそうだけど。
- ともあれこれから見まみえるのは、魔王相手に女子力を発揮した女の達人。真我アヴェスターとは関係なく対抗心を覚えるので、自然と私の気は引き締まった。
- 「どうやらお出ましのようですね」
- 貴人の訪れを告げる角笛が響き、一瞬で沈黙した女性たちの顔が強張る。次いでわずかの停滞もなく、全員が跪いた。
- “さて……いったいどんなタマかね”
- 隣で膝を折っているサムルークも緊張と無縁ではない。だがそれ以上に不敵な覚悟と、興奮を帯びた意識だった。
- 龍骸星を訪れてからすでに九日……ようやっと動き始めた状況に昂りを感じているのだろう。彼女らしい勇ましさで、私も見習わないといけない。
- そう思っていたまさに瞬間、広間全体を見下ろすバルコニーの上に誰かが現れる気配を感じた。
- “……来たか?”
- “ええ……けれどまだ、分かりません”
- 顔を上げる許しが出ていない以上、目で見て確認はできなかった。先走って悪目立ちをするのは危険だから、今は我慢の必要がある。
- 気配だけなら紛れもなく不義者……だが、もちろんこれくらいでは判断材料として不充分だ。焦れる気持ちを抑えつつ、忍び耐えて、待ち続けて……
- 「面おもてを上げなさい」
- その言葉を聞くと同時に、私は寵姫の姿を視界に捉えた。
- 「――――」
- 一同、全員が息を呑み、次いで喘ぎに近い吐息を漏らした。そこに宿る思いは感動か、羨望か。
- 未熟ながら私も女だ。この相手を前にして、何も感じずにいるのは難しい。
- 赤銅色に輝く肌も、砂金が流れるような銀髪も、黒玉ジェットを思わせる漆瞳しつどうや、ゆったりとした衣服越しにも分かる肢体の見事さ、すべての要素が、並外れた黄金律を形成していると一目で察せる。
- 端的に恐ろしくなるほど美しい。凄艶とでも評すべき威厳があり、常人離れしているのは言うまでもなく明らかだ。
- しかし、私たちの胸を掴んだものの正体は、そんな上辺がわの魅力じゃなかった。
- “なんて悲しい、壮烈な人……”
- 彼女が歩んできた人生の険しさ、尊さが伝わってくる。それは決して、私の機能によるものではない。
- 理屈ではなく、女なら分かるのだ。極限まで研ぎ上げられた剣のごとき鋭さ、儚さ。
- 彼女のようになりたいと思う反面、絶対に無理だと悟ってしまう寂しさ、切なさ。
- 断言できる。これが不義者ドルグワントであるはずなどない。
- そう確信を持って見上げる私と、そのとき彼女の目が合った。
- “君は……”
- 伝わる“声”は意外にもさばさばしていて、むしろ男前にすら感じる抑揚。
- “助けに来てくれたんだな。私がアルマだ――”
- 少しだけ悪戯っぽく細められた瞳の深さに引き込まれる。私はこのとき、素のままで彼女と向かい合っていたにも拘わらず……
- “どうせろくな評判じゃなかっただろうが、幻滅したかな?”
- 直感で、アルマの戒律しんじつを悟ってしまった。
- ああ、なるほどと。
- だから彼女は、こんなにも強く気高く、壊れそうなほどに美しい人なのだと。
- ◇ ◇ ◇
- 「全部、バレてたってのか?」
- その後に催された宴の席で、私たちは形式上アルマの侍従役を務めていた。
- 楽隊の演奏に合わせて踊り子たちが華やかな舞を披露しているが、そんなものはどうでもいいと言わんばかりにサムルークは歯ぎしりしている。決して、慣れないお酌をしていることだけが原因ではない。
- 「ま、そういうわけだよ。些か甘く見すぎていたな、さすがはカイホスルー」
- 「呑気に敵を褒めてんじゃねえよ!」
- 吠えると同時に、サムルークは勢い余って酒器を握り潰してしまった。それで演奏と踊りがぴたりと止み、周囲の耳目が彼女に集まる。
- アルマはじろりとそのすべてを一瞥。慌てて再開される宴の様子をしばし見つめた後、溜息まじりに口を開いた。
- 「クイン、酌は君がしてくれ」
- 「あ、はい。了解しました」
- 彼女が宿す清冽さは義者アシャワンの女なら感じ取れるものだったが、にも拘わらず不義者ドルグワントの気配を纏っているため、他の皆からすればやはり恐怖を覚えるようだ。そこは事情を知っている私たちとの違いで、しょうがないと言える。
- しかし激情家のサムルークはその点についても納得がいかないらしく、横でフェルさんが宥めていた。
- 「落ち着けよ、アルマを困らせるな。次にやったら、ここから追い出されるくらいじゃ済まなくなるぞ」
- 「うるせえな、分かってるよ」
- けど、と舌打ちを一つして、不満げにサムルークは続けた。
- 「もうバレてんなら、こんな演技は必要ないだろ。周りの奴らを未だにびびらせてる意味が分かんねえし、安心させてやりゃいいじゃねえか。つか、あたしらだって居心地悪いんだよ、隣に魔将ダエーワがいるみたいで」
- 「だから戦士ヤザタの私に切り替えろと?」
- 「そうだよ。まさかできないのか?」
- 問いに、アルマは悠々とお酒を呷あおってから返答した。
- 「いいや、オンオフは可能だよ。ただしいつでも自由にというわけじゃない。相応の縛りがある」
- 「……なら、たとえば聖王領にいるとき限定とか?」
- 探るようにフェルさんが言うと、アルマはにこりと微笑んだ。
- 「正解だ。なかなか鋭いね君。面白い格好をしてるだけの子じゃないんだな」
- 「……ッ、そこは別にいいだろう。好きでやってるんじゃないし、あんただって同じようなもんじゃないかっ」
- 「おい、落ち着けよフェル」
- なんともこう、遊ばれている感がある。アルマに抱いた第一印象が間違っていたとは思わないが、色々と手強い人物ではあるらしい。
- 歴戦かつ、最古参の戦士ヤザタ。あるていど癖が強いのは仕方なく、そこは観念するしかないのだろう。ズルワーンほど意地悪じゃないし、マグサリオンほど壁を感じるわけでもないのだ。大枠において、アルマは私たちを可愛がってくれている。
- さしずめ、ちょっとした憂さ晴らしに付き合わせるという親愛表現……彼女の意識から推察するに、そんなところだと思えた。
- 「クイン、酌のタイミングが遅い。半分以下に減ったらすぐに注がないといけないよ。ただし相手の顔色も窺いながらね。ひたすら飲ませておけばいいって話でもないんだ」
- 「も、申し訳ありません。気を付けます」
- とにかくアルマの態度は堂に入っていて、多様な経験を積んでいることに疑いはない。我々が子供扱いされるのも、考えてみれば当たり前と言えた。
- 「で、さっきの続きだが、私が不義者こんなザマを演じているのは縛りの都合だけじゃない」
- 「他にも理由があるっていうのか?」
- 「あるとも。ここの民を守るためだ」
- それはサムルークにとって脈絡のない答えに思えたのだろう。彼女の頭の中にはハテナマークが飛びまくっていた。
- 「考えてもみろ。一時的に息を吹き返したとはいえ、アルザングの枯渇は秒読みだ。ぎりぎりの節約が必要だし、そう律するには恐怖が要る。私が義者みかただと分かったら、どうしたって緩むんだよ。結果的に彼らの寿命を削ってしまう」
- 「つまり、なんだ。うっかり希望なんか持たせたら、歯止めが利かなくなっちまうって?」
- 「嫌な話だがね。人間の心理というやつは、残念ながらそうできている」
- 片目をつむり、今日は特別だよ、とアルマは杯を傾けた。
- 徒いたずらに不確かな希望を与えないため。引いては民の未来を守るため、限界寸前のラインで苦しんでもらうと言っているのだ。
- 初期に想定した方針の枠内ではあったけど、やはり苦しい選択だと感じる。結局のところ、その場凌ぎでしかないのだから。
- 「もちろん、私だけが奢侈しゃしを尽すつもりはない。搾り上げたものは大事に保管させてもらうし、何なら君らが義賊の真似事でもやってちょくちょく盗みに来ればいい。カイホスルーの顔色は気にしなくて構わん。そういう条件を取り付けたからな」
- 「あたしはそれが、どうにも信じられねえんだよ」
- 「僕も……」
- 「正直に言えば、私も……」
- カイホスルーにはアルマの正体も任務もすべてがバレた。なのに殺されるどころか寵姫に選ばれ、アルザングを好きにしていいとお墨付きすらもらったと言う。
- 先ほどから念話でやり取りをしていないのも、監視をアルマが許さなかったと聞いたためだが……
- 「あたしはこそこそするのが苦手だし、そもそもバレてんなら堂々とするけどよ。だからって全部を鵜呑みにしてるわけじゃねえぞ」
- 「つまり君、私を疑っているのか?」
- 「あんたじゃなくて、カイホスルーをだよ」
- サムルークの意見は、私たちの総意だった。アルマが嘘を言っているとは思えないし、裏切ったなどという疑惑は考慮にも値しない。真我アヴェスターがある以上、そんなことは有り得ない話だ。
- しかし同じく真我アヴェスターがある以上、魔王の融和政策も有り得なかった。我々とはどうしたって相容れず、殺し合うだけの関係だと知っている。
- なのにカイホスルーの態度はどうか。もはや譲歩なんて次元じゃなく、アルマに対する一方的な好意の顕れとさえ言えるだろう。
- 単純に常識外れが過ぎるので、そのまま信じろと言われたって難しい。必ず裏に、何かろくでもない狙いがあるはずだと考えるのが当たり前。
- 「確かに君らの言う通り、そこまで都合のいい話じゃないと思うよ。カイホスルーに良心なんてものはない」
- きっぱりと言い切ってから、アルマは私たちを一人ずつ見回した。まるで値踏みをするみたいに、我々にも伝わる言い方を選んでいるようで、しばらくしてから言葉を継ぐ。
- 「だが男という生き物は、善でも悪でも変わらない部分があるんだよ。価値基準が違うだけで、芯はどいつもプライドの奴隷だ。舐められたままじゃ終われないし、だから舐めてやったのさ」
- 「う……」
- 「え、っと……」
- “舐めて”の部分がどうにもこう、なんと言うか蠱惑的にすぎたので、フェルさんは赤くなって下を向き、私はどぎまぎしてしまい、サムルークはそわそわしていた。
- そんなこちらを軽く笑って、アルマは続ける。
- 「カイホスルーが私に抱く感情は執着だ。思い通りにならない女が気に食わないから屈服させたい。そのために度量を見せようって肚はらだろう。無論、油断できる状況じゃないが、男の心理としては珍しくない範囲に収まっている。つまり勝負はこれからだよ。駆け引きの途中だ」
- 「はあ、まあ、なんちゅうか、分かんねえけど……」
- 要するに子供は黙ってろと言われてしまった。男と女の駆け引きゲーム云々を持ち出されたら、そっちの面で議論の余地なく未熟な我々は黙るしかない。
- ずるいなと思ったが、そこを詰なじるのも躊躇われた。なぜなら現状、アルマの戒律ひみつに気付いているのはきっと私しかいない。
- これ以上彼女の手管に疑義を呈せばその話になりそうで、私はそれを望んでなかった。正体がバレた状態でどう暗殺の“過程”を経るのかは不明だけど、無遠慮に他者が踏み込んでいい領域ではないだろう。
- 確かな事実として、アルマはやる気だし諦めていない。だったら我々は彼女の覚悟に従うべきで、そうするのが戦士ヤザタの務めだと考える。
- 「あまり背負い込まないでくださいね。今後は私たちもいるんですから」
- 「もちろん、大いに役立ってもらうよ。私は結構、人使いが荒いんだ」
- 口調が重くならないように意識しながら労うと、アルマは冗談めかしながら応えてくれた。私が気付いていることに彼女が気付いているかは知らないが、同情や心配を求めていない人柄なのは伝わってくる。
- 実際、言われた通り勝負はこれから。不安はあっても呑み込みつつ、前に進んで行くしかない。
- 「そういうわけで、こちらの状況説明は終わりだ。次の話をしよう」
- と、杯を置いてアルマは流れに区切りをつけた。再び私たちを見回すと、素朴な調子で問いを投げる。
- 「今回、援護に来てくれたのは君らだけだと思っていいのか?」
- 「え? あんた知らなかったのかよ」
- きょとんとするサムルークを見て、フェルさんがうめきを漏らした。以前と似た流れで私を睨み、再び文句を言ってくる。
- 「クイン……頼むからこいつに一通り説明しとけよ。いちいち腰を折られてばかりだ」
- 「……すみません」
- だから訊かれないと教えられないのが私なのだが、蒸し返しても仕方ない。ここは大人しく、フェルさんの要望オーダーに応えようと思う。
- 「私とウォフ・マナフが同種の力を持っているのは前にも話したと思いますが、ご存知の通り守護星霊は休眠状態です。よって任務中の戦士ヤザタとスィリオス様の連絡は一方通行となり、こちらからのコンタクトは取れません」
- 私以外は、と暗に付け足し、さらに続ける。
- 「聖王領あちらが把握できるのは戦士ヤザタの生死と羽の消費量くらいとなり、生きているなら状況次第で追加の指示を下されます。具体的には帰還命令、転戦命令――」
- 「そして今回のようなケース、といったところだな」
- 私の説明を引き継ぐ形でアルマがそう言い、自分の胸元を指してから付け加えた。
- 「しかし外地にいるときの私は不義者このザマだし、王の声が届きづらい。お陰で援軍の数も名前も聞き取れなかったんだが、結局の話どうなんだ?」
- 「ああっと……それは」
- 問われたサムルークは事情を理解し、なんとも嫌そうな顔で呟いた。
- 「あたしらの他にも二人いるよ。マグサリオンとズルワーン」
- 「……本当か?」
- 「ええ……そもそも任務を受けたのは彼らで、むしろ私たちはおまけというか」
- 予想外に念を押され、つい歯切れが悪くなってしまった。件の二人は確かに問題児どころじゃないが、このときアルマが示した感情は特殊なもので、言葉にするのが難しい。
- 困りながらも喜んでいるような。喜んでいる自分に怒っているような。
- かなり複雑に入り組んだ心で、だけど表面だけを見るなら苦虫をまとめて十匹は噛み潰していたから、サムルークは一気に楽し気な顔になった。
- 「なんだよなんだよ。やっぱりあんたも苦労してたんだな。分かるぜえ、あいつらすっげえろくでなしだもんよ」
- 「うむ、まあ……そうだな。ズルワーンはもちろんだが、特にマグサリオンとは昔から、色々とある」
- 「幼なじみみたいなものだって聞いたことがあるけど」
- マグサリオンの話題はやはり気になるのだろう。食い気味でフェルさんが言うと、アルマはただ頷いた。
- 二人は最古参の戦士ヤザタ同士。当然色々どころじゃないものがあったはずだし、私もそこは聞いてみたい。
- そんな無言の圧を感じたのか、アルマは溜息を吐いてから話し始めた。
- 「……初めて会ったのは、お互いに五歳くらいの頃かな。知っていると思うが当時の聖王領は栄えていてね、戦士ヤザタの子弟を養育する機関が充実していた。つまり学校みたいなものなんだが、そこで私は彼と会ったよ。なにぶん幼かったから細かい記憶は曖昧だけど、あの異端ぶりはよく覚えている」
- 「五歳って……あいつ、その頃からグレてたのかよ」
- 「別にそうとは限らないだろ。いい意味で目立ってた可能性もあるし」
- 「いいや、残念ながらサムルークの想像通りだよ。あれは劣等生以前の話だったな」
- 当時を思い出しているのか、少しだけアルマは口元を綻ばせた。マグサリオンの記憶がと言うより、過去の聖王領を懐かしんでいるのだろう。
- ワルフラーン様が健在で、ナーキッド様も一緒にいて、勇猛果敢な英雄たちが集う正義の殿堂。栄光の時。
- 強く立派な大人たちに守られて育った幼年期は、アルマにとって一番幸せな時代だったのかもしれない。
- 「彼は何もしないんだよ。訓練と言っても子供ばかりだし、楽しくやれる趣向も凝らされていたと思う。なのにずっと不機嫌な顔をしたまま、本当に頑として動かなかった」
- 「何しに来てんのか分からねえな、それ」
- 「だろう? 先生がたも困り果てたと思うよ。普通なら即時放校処分だが、何せ兄上があれだからな。正直、私は気に入らなかった。いじめたこともあったけど、そっちでも無反応だしつまらないからすぐに飽きたよ。変わらず嫌いだったがね」
- 同世代の女の子にいじめられるマグサリオン……まったく想像できなかったが、アルマが言うには暖簾に腕押しだったらしい。
- とにかく、当初の二人はそんな関係。アルマはマグサリオンを嫌い、マグサリオンはすべてを無視した。
- あるいは、今でも変わらないのかもしれないが。
- 「マグサリオンのご両親はすでに亡くなっていたから、ワルフラーン様が親代わりだった。あの方も弟には手を焼いていたんだろうね、一度謝られたよ。ナーキッド様とスィリオス様もお傍にいらした」
- 「凄く、豪華な顔ぶれですね……」
- 「まったくな。贔屓ひいきが過ぎると思ったよ。私だって、当時はそれなりにいいところのお嬢さんだったんだがな」
- 自嘲気味にそう言って、アルマは肩をすくめてみせた。次に心なしかしんみりと、優しい声になって話を続ける。
- 「だけど文句なんか言えなかったよ。なぜって、悔しくなるくらいワルフラーン様はかっこいいんだ。客観的には小さな弟に振り回されてて、私みたいなのに頭を下げてる情けない絵面だったはずなのにね。あれはなんていうか、全然違う。誰も辿り着けないところに至れる人。そう約束されてる人。……上手く言えないが、同じ人間とは思えなかった。まるで神様のような、伝説の奇跡」
- 「もしかして、あんたの初恋だったりしたわけか?」
- 「案外、そうかもしれないな。否定しても肯定しても畏れ多いと感じるが」
- サムルークの揶揄を受け流しつつ、アルマの回想は続く。
- だが、楽しく聞けるのはそこまでだった。
- 「その数ヶ月後だよ、破滅工房が攻めてきたのは」
- 「…………」
- 我々は何も言えない。特に私は、掛ける言葉を持ち得なかった。
- さっきまでとは一転して俯いたまま、暗い炎を瞳に宿しているアルマの横顔を見れば見るほどそう思う。
- 凄まじい怒りと憎悪。悲しさと悔しさが彼女の中で渦巻いていた。
- 「私は当時、七歳だった。何もできないお荷物で、戦ってもいないし、戦った人たちがどう倒れたのかすら知らない。ただ、空のすべてを覆い尽すアレ……私たちのことを、虫ほどにも見ていなかったあの目、あの声、狂うかと思った。いや、狂いたかったよ。そうすれば逃げられると……」
- 絶滅星団――。
- わずか七歳の子供があれを見て、絶望せずにいられるわけがない。かつて私がお父様と対峙したとき、正気を保てたのは生まれたての赤子だったから。知識はあっても、そこに実体験が伴っていなかったから。
- 恐怖を恐怖という重さで捉えていなかっただけの話だ。今の私が再びあれと相見あいまみえて、壊れずにいられる自信はない。
- 「そこから先の記憶はないよ。誰が助けてくれたのか、そもそもどうして私を拾ってくれたのか……運が良かったとは喜べないな。見知った顔はほぼ全員がそのとき死んだよ。父も母も、友人たちも」
- そして、少ない例外にマグサリオンがいたという事実。アルマは顔を上げて嘆息した。
- 「今の聖王領に移って、しばらくしてから目を覚まし、夢じゃなかったんだと分かったから泣いて、泣いて……いったいどれくらい泣いていたかな。とにかくもう、死ぬ気力すら枯れ果てた感じだったよ。そんなときさ、またマグサリオンと会った」
- 私は……いいやたぶんフェルさんとサムルークも、当時の彼が何をしていたか直感的に理解した。
- どうしようもない大敗北を喫し、希望のすべてを粉砕された壊滅的状況の中、幼いマグサリオンだけは動いていたのではないか。
- それまで何もしなかったくせに。無意味にすら思える真似をたった一人、取り憑かれたように。
- 「彼、どうせまだ暇を見つけるたびにやってるんだろう?」
- 「まあ、な……つい最近、見たばっかりだよ」
- 「知ってる人は少ないけどね。あれはきっと、誰にも止められない」
- 両手で剣を振るアルマの仕草に、私たちは頷きを返した。さらに先をサムルークが促す。
- 「そんで、あんたはどうしたんだ?」
- 「やっぱり腹が立ったね。こいつふざけてるのかと思って、殴りかけたけどできなかった。
- 自分が怒れることに気づいたから。泣いてることにも、叫べることにも。
- ああ……私はまだ枯れていない」
- そっと刻むように、アルマはそう呟いた。決して誰にも奪えない宝物を誇るみたいに、静かな声で詠嘆したのだ。
- 「あのときのマグサリオンを見て、再び立ち上がれた者はたぶん他にもいるだろう。だからあまり嫌わないでほしいな。あれはあれで、実際たいした男だよ」
- 「そりゃ、一応……普通の奴じゃねえことくらい、分かってるよ。つか、結局あんたもあいつのシンパなのか?」
- 「そういう単純な話じゃない。彼が傍迷惑なのは事実だし、色々あるんだよ」
- 再び経験値の違いを見せつける感じで制されたサムルークは、拗ねた顔でそっぽを向く。
- だがその様を見て、アルマは何かを思い出したらしい。
- 「そう言えば、マグサリオンが素顔を隠しだしたのはあれからだな。いったい何処で手に入れたのか、翌日以降は仮面を被ってたよ」
- 「本当ですか?」
- 「何のために? まさか心肺機能を鍛えるのが目的……とかじゃないよね」
- さすがに意味の分からない行動すぎて、私は困惑してしまった。当時から今に至るも続けているのは、どうやら素振りだけじゃなかったようだが……
- 「おおかた照れ臭かったんじゃねえの? つーか絶対そうだわ。あいつあんなんで、アルマの涙にイチコロ食らったから隠したんだよ。むっつり野郎だ」
- 「さあ、どうかな。もしそうだったら面白いが」
- まんざらでもないといった風に微笑むアルマ。しかし結局、彼女は首を横に振る。
- 「私なりに思うところはあるし、分かるような気もするけどね。しょせん分かった気になってるだけかもしれなくて……つまり難しい男なんだよ。そんな頭痛の種だが、この星に来てるというならいったい何処で何をやってる?」
- 「あ、それでしたらズルワーンと……」
- 遅まきながら私は経緯を説明した。できるだけ詳細に、彼らが戻ってくるのはもうすぐであろう点や、ズルワーンの奇妙な勘、その後にマリカを助けて現状へ繋がるまでの、ほぼすべてを。
- アルマは黙ったまま聞いていたが、段々と顔が険しくなってくる。そして聞き終えたあと、軋るような声で質した。
- 「ノコギリが来る。ズルワーンがそう言ったんだな?」
- 「はい。ですが……」
- 我々には意味が分かりませんでした――と続けることはできなかった。
- 「くそ、馬鹿か私は!」
- やおら立ち上がったアルマが、ずかずかと早足で歩きだしたからだ。あまりに唐突のことすぎて、私たちは面食らうしかできない。
- 「ちょ、待てよ。何処行くんだ!」
- 「アルマ、おい――」
- 彼女の歩みには一切の迷いがなかった。止まるどころか速さを増して一直線に――進む先は、見事な踊りを披露していたマリカのもと。
- 「え、あの……なんでしょうか、寵姫様」
- 呆気に取られた顔で見上げる少女と、それを傲然と見下ろす最古参の戦士ヤザタ。
- 両者は触れ合うほどの距離で向き合っており、そのとき私は決定的なことに気づいた。
- いつの間にか、アルマの右手が凶暴な物を握っている。メリケンサックの先端部分に剣を取りつけたような形状の武器は――ジャマダハル。
- 「駄目だ、やめてくださいアルマ!」
- 私は飛び出し、フェルさんたちも同時に走り出したが一歩遅く、間に合わず――
- 「楽しかったか、下衆め」
- 神速で振り抜かれるアルマの右手。同時にマリカの首が宙を舞った。
- 滑稽なほど綺麗な軌跡で、高く高く、なのに飛んだまま落ちてこない。
- 『いたい、くるシい、おねがいタスケテ……』
- そして地獄の底から響くがごとく、だけど調子外れに澄んだ声音が私たちに降り注いだ。
- 『どうしてわたシを殺したの? タスケテって、イったのに……』
- 浮かぶマリカの生首が笑っていた。
- 愛らしい瞳に虚無を映して。言語を絶するヨクワカラナイ想いと共に。
- 3
- アルザングの湖畔に面する街路の一角で、痩せ衰えた少年が行き倒れていた。
- 以前に比べれば遥かに改善された環境とはいえ、こうした者たちは必ず出てくる。天は自ら助くる者を助くという言葉がある通り、生きるために行動しない者を救うことはできないのだから。
- 少年――カリムは今年で九歳になる善良な魂の持ち主だったが、他者と比べて特に頭が良いわけでもなく、心と身体も別に強くはできてなかった。要は極めて普通の子供だと表現できる。
- そんな彼が親兄弟を失い、友人もいない孤児として踏ん張り続けるのは無理があったのだろう。一度だけ配給の列に並んで糧を得たが、そこで気力が尽きてしまった。絶望と言うほど深い感情ではなく、ただ疲れ果てていたのである。
- どんよりと濁った瞳で横たわる彼の前には、スープとパンが食べさしのまま放置されていた。すでに腐り、蛆が湧き始めていたが、払い除けもせず放っている。
- その先に見える煌びやかな建物は、湖の中心に聳そびえ立つ水晶宮。そこから同心円状に広がるのがアルザングという街であるため、彼が漫然と朽ちつつある場所はかつての一等地に相当した。
- すなわち前任寵姫ナディアのもと、暴虐の限りを尽くした不義者ドルグワントたちの居住地跡だ。忌まわしい区画として人々に避けられ、寄り付く者はほぼいなかったから誰も少年に手を差し伸べず、逆に有り難いとカリム自身は思っている。
- 生きろと言われたくない。頑張りたくない。立ち上がっても苦しいだけの世界だから。
- 望む願いはただ一つ。このまま眠って、お父さんやお母さん、弟や妹に会いたい。
- 薄く膜が掛かりはじめたカリムの目は、彼岸の景色を眺めていた。比喩としてのものではなく、実際に不可思議なことが起こっている。
- 虹だ。水晶宮を飛び越えて湖を縦断し、カリムのもとへゆっくりと迫ってくる七色の光彩は、まるで幻想的な橋のよう。
- 苦しみと悲しみに満ちたこの世を離れ、哀れな少年を楽園に導く奇跡の具現。少なくともカリムはそう思ったし、彼の想像が真実だと裏付ける御使いたちも現れた。
- 一様に歌い、無垢な笑顔で踊りながら、虹の橋を渡ってくる少女たちの舞踏団。
- それが一〇人、二〇人……いいやもっとだ。どんどん増える。
- すべてが目も覚めるほどに美しく、虚無的とすら思える透明な輝きを纏っていた。気付けばカリムは震える手を伸ばし、同時にそっと握り返してくれた暖かみを感じ取る。
- 目の前には、彼より五つ六つは年上と思しき少女が一人、しゃがみこんでカリムを覗き込んでいた。
- 「ぁ、あ……」
- 枯れきった喉では上手く声を発せなかったが、この人こそ救いに違いないと確信する。だってこんなに綺麗だから。こんなに透き通る笑顔だから――
- 彼女は僕に生きろなんて言わない。頑張れとも言わない。朦朧とした意識の中でも理解できたそのことだけが、今のカリムにとっての“善”だった。
- 当の少女が奇妙な格好をしている点も気にならない。明らかに違う文化の装いだったが、遠いところから来た人だし当たり前だ。どことなく使用人めいた雰囲気がある点も、むしろ信用に値する。
- この人はそういう仕事をする立場で、僕みたいな奴を見つけ、願いを叶えるために舞い降りて来た天使様。
- 疑問の余地もなく、そう思っていたのだが……
- 「どうしたんですか? すっごく痩せちゃってますねえ」
- カリムの幻想を無視するように、少女は呑気な調子でピント外れの台詞を口にした。
- 「育ち盛りの子はしっかり食べなきゃダメですよ。やや、見ればこんなところにご飯があるじゃないですか」
- などと大袈裟に驚いて、傍らに放置されていた皿とスプーンに手を伸ばす。次いで鼻歌を歌いながら、半ば固形物になったスープをざりざりとこそぎ始めた。
- 「はい、あーんしてください」
- 満面の笑みで、微塵の邪気もなく、少女はそれをカリムに食べさせようとしてくる。
- 腐臭を放ち、うぞうぞと蛆が蠢くスープとも言えぬ残骸を。
- 「好き嫌いはよくないですよ。ほら、あーん」
- 「……ッ」
- ぐりぐりとスプーンが押し付けられ、唇を割り開こうとしてくる。饐すえた臭いが鼻を突き、酸っぱい味が伝わってきて、さすがにカリムも身をよじりながら抵抗した。
- 彼が望んでいたのは安楽な眠りで、苦しみに満ちた生でも死でもない。こんなものを食べて悶えながら逝くのは嫌だったし、まかり間違って生き残るのも御免だった。
- なのにどうして願い通りにしてくれないのか。いったいこの人は何を考えている。
- 「や、めて……」
- 困惑しつつも苦労して顔ごと背け、ようやくカリムは拒絶の意思を口にした。おぞましいスプーンは追ってこず、諦めてくれたのかと安堵したが……
- 結論から言うと、それは致命的な過ちだった。
- 「うふふ……」
- 少女の気配が変わっていた。正確には、カリムがずっと勘違いをしていたと言うべきだろう。瀕死の虫でも指で弾かれれば暴れだすように、刺激を与えられたことで彼の意識は覚醒し、遅まきながら真実に気付いたのだ。
- 笑顔。無垢で無邪気な、ひたすらに純真な笑顔。
- だからこそこの少女には何もない。怒りも悲しみも喜びも、根本から持ち得ない空虚な器を呪われた魂が動かしている。
- ただ一つだけ、本当に一つしかない殺意おもいと共に。
- 「では、私が頂きましょう」
- ぽきゅ、と間の抜けた音がした。少女のスプーンはカリムの左目に突き刺さり、アイスクリームでも掬うように眼球を、頭蓋骨を、そして脳みそを抉り始める。
- 絶叫が弾けた。
- 「あああああァァッ!」
- 自身、どこに力が残っていたのか分からないほどカリムは叫んだ。頭の中から響く不気味な音も、そこに伴う激痛も、無論凄まじい衝撃だったが一番の理由は別にある。
- 怖いのだ、この少女が。恐ろしくて堪らないのだ。
- こんな生き物がいることに。そんな冒涜が許されている現実に。自分が直面しているという今が恐怖で、信じられない。
- 「たす、けて……」
- 生きたくなかった。死にたかった。しかしカリムの純朴な――言い換えれば愚鈍な経験からでは想像もつかない邪悪がこの世にある。
- 少年はそれを悟り、泣き叫んで許しを請いながら神に祈った。
- いやだいやだ、こんなのはいやだ。僕が馬鹿でした間違っていました。悔い改めますからどうか救いを、お願いします助けて神様!
- 「たすけて、たすけてタスケテタスケテ――」
- ――死にたくない!
- 「大丈夫。ちゃんと食べてあげますからね」
- うっとりと、三日月のような弧を描く鬼の目を見て、カリムは絶望と共に闇の中へと落ちていった。
- どこまでも暗く、底のない虚無の奈落へ。
- そこに家族が待っているとは、もはや到底思えなかった。
- 口に含んだスプーンを名残惜しげに舐めながら引き抜いて、メイド服の少女――エルナーズは立ち上がった。
- これは中々の舞台かもと思っている。お嬢様はきっとお気に召してくださるだろうし、自分も頑張らねばならない。
- 「あなたはそれにするの、エルナーズ」
- 「うん。ファラはどうする? いいの見つけた?」
- 傍らにやってきた同じメイド服の少女へ、エルナーズは手のスプーンを振りつつ応えた。他の者たちはすでにめいめいの活動を始めたらしく、まだこの場に残っているのは彼女ら二人しかいない。
- 「そこの、取って。私はそれにする」
- 「自分で取りなよ。もぉ~」
- 可愛く頬を膨らませて、エルナーズが拾い上げたのは皿だった。まだ中身が残っていたが、気にせずファラと呼ばれた少女に渡す。
- 「そんじゃ行こっか。勝負する?」
- 「いいけど、何で競うの? 数? 質? お嬢様のご機嫌?」
- 「ここはシンプルに数でいこう。あんまり人がいなさそうだし、逆に面白いと思うんだ」
- 「じゃあ急がないと。他のみんなに取られちゃうよ」
- 「そうだね、早く。でもエレガントに」
- むん、と二人は気合いを入れて、顔を見合わすと微笑んだ。
- 「出発しんこー!」
- 瞬間、雷鳴にも似た轟音が連続で七発弾ける。同時にファラは奇怪なマリオネットのように踊りながら吹き飛ばされ、派手な水しぶきをあげて湖に転落した。
- ――のみでは終わらない。
- 「ファラ?」
- ぽかんとしているエルナーズの上方から、漆黒の騎士が獣の速度で斬り掛かった。少女の細首を一撃のもとに両断すべく、凶暴な唸りをあげて鋼の大剣が振り下ろされる。
- 必殺、完璧と言っていい奇襲を放ったのはマグサリオンとズルワーン。しかし結果は信じがたいものだった。
- 「なんですか、いきなり。恐ろしいお兄さんですねえ」
- スプーン……小柄なエルナーズが摘まんでいるだけのチャチな食器で、岩をも砕く剛剣が止められている。のみならず、圧力に負けて押し返され始めている。
- 「もしかすると、あれですか。戦士ヤザタというやつ? わあ、初めて見ちゃいましたよ」
- くるんとペンを回すように、少女の指先でスプーンが踊った。それに巻き込まれる形でマグサリオンの身体も回り、藁屑わらくずさながらに吹き飛ばされる。
- 「よいしょお」
- 気の抜けた声には何の力も入っておらず、続く行為も同様だった。エルナーズは飛んでいく剣士に向けて軽くスプーンを振っただけ。手首の動きのみで空間を掬ったにすぎない。
- だが現実は、常識と呼べるあらゆるものを無視していた。かつては不義者ドルグワントの館であり、今も豪壮な佇まいを誇る建造物が纏めて三棟、チーズを抉るように削り飛ばされたのだ。マグサリオンはその破壊をまともに受け、瓦礫と粉塵の帳に消えたまま戻ってこない。
- ズルワーンも同じく無事では済まなかった。スプーンの射程からは逃れていたが、もう一人メイド服の鬼がいる。
- 瀑布ばくふを逆さにしたかのごとく、湖面が水柱を噴き上げた。同時に出現したのは変哲もないただの皿。しかし先のスプーンと同じく、鬼の力が乗った皿だ。
- 空間を引き裂きながら飛来する殺人円盤と化したフリスビー。ズルワーンはかろうじて直撃を避けたものの、常軌を逸した回転が生み出す鎌鼬までは躱しきれず、外套が弾けて血が飛び散る。
- そんな凄惨さとは裏腹に、よじよじと不器用さを丸出しにしてファラは湖から這い上がった。戻ってきた皿を目視もせずに掴み取り、俯いたまま細い声で呟く。
- 「服、濡れちゃった。穴も開いた。どうしよう……」
- 「だ、大丈夫だよ! ファラはどんな格好でも可愛いから。落ち込まないで、ね? ね?」
- およそアンバランスという言葉がこれほど適した存在もないだろう。ゆえに彼女ら殺人鬼は忌み嫌われ、恐れられる。
- 相容れない白と黒の構図をもっとも体現しているからだ。何を言っても届かず、会話ができても意思疎通は不可能。すべてが上滑りするだけで、人型の異生物に等しい。
- 傍から見れば少女同士の微笑ましいやり取りでも、本質的には別位相に棲む怪物どもの生態である。それを分かっているからこそ、ズルワーンは苦笑しか出てこなかった。皿とスプーンで殺されかけた点については、何ら驚いていない。
- 「我力がりょくってやつか。面白ぇな」
- 殺人鬼は得物に頓着せず、武術の類も修めないという。これも代表的な習性だった。
- おそらく、人殺しの術を磨く発想がないのだろう。彼女らにとって殺人は呼吸と同じ。生き様であり、当たり前のことだから。魚が泳ぎ方を考えないのと同じ理屈で、殺し方に工夫や研鑽を積む必要性など認めていない。
- よってむしろ日常的な、その辺に転がっている物を拾って使う。たとえばスプーン。たとえば皿。箒や塵取り、椅子や机、あるいは文具――なんでもよかった。彼女らが握った瞬間に、どんなものでも無双の殺人凶器となる。
- 我力……高位の魔将ダエーワが持つ物理法則を超越した意志の力は、読んで字のごとく我をもってすべてを通す。私が思う通りに世界よ曲がれと、そんな無茶を実現させてしまうのだ。食器で豪邸を抉る程度は、まだ優しい部類でしかない。
- 「だがよ、イカレてんのはおまえらだけじゃねえぜ」
- 嘯くズルワーンに応じる形で、彼の背後にあった瓦礫の山が爆発した。粉塵を突き破り、猛然と駆ける黒い騎士が弾丸となって殺人鬼たちに突撃する。
- 「防御強化クシャスラ」
- そして地を這うマグサリオンの声。
- 「防御強化クシャスラ」
- 重ねて告げる憎悪の連唱。
- 「飛行フラワルド、瞬間移動シェバーティール――」
- その背に向けて、ズルワーンは加、護、を、飛、ば、し、た、。術式を短縮するための分担作業かつ、他者に遠隔で効果を与える変則使用。
- 事態を理解しないながらも、エルナーズはやはり難なくスプーンでマグサリオンを受け止める。しかし、接触と同時に空間が沸騰した。
- 「おおら、吹っ飛べェ――」「爆ぜ砕けろフワルシェード」
- 強化の加護と瞬間移動を併用すれば暴走が起きる。加えて、移動がゼロ距離ならばどうなるか。
- 二重の防御によって“堅く重く”なったマグサリオンに、ズルワーンが指定した座標は寸前とまったく変わらない位置だった。すなわち同じ場所へ飛ばしたということになる。
- それが引き起こす果ては超高圧、超高速の振動現象。膨大な熱量が巻き起こす爆轟に他ならない。
- 大輪の炎と衝撃波が狂い咲き、一帯を瞬く間に砕いて燃やす。魔性の鎧を纏っているマグサリオンはともかく、二人の殺人鬼は粉微塵になっただろう。
- この結果を生むためにマグサリオンは自分自身を弾に変え、ズルワーンは撃鉄の役目を担った。先に自らが言った通り、彼らも到底まともとは言えない。
- 躊躇なく自爆同然の真似をするマグサリオンも、己は一滴の血も流さずに仲間を特攻させるズルワーンも、等しく戦士ヤザタとして異端すぎる。
- だが、だからこそのエースとも言えた。今の弱体化した聖王領で、殺人鬼の生態を把握している者は数少ない。
- 異次元の庭園に居を構える鬼たちは、呼べば何処にでも現れてしまうから。むしろ詳細を伏せたほうが跳梁を抑えることができるのだ。
- 若く未熟な戦士ヤザタが、恐怖や絶望の中で殺人鬼ノコギリを意識しないように。
- 今のアルザングが示す通り、生と死の願望が飽和する領域に流血庭園は繋がるため、そうした精神に侵された者が事情を知っていたら招きやすくなってしまう。
- 劣勢にある聖王領の方針としては、常識的なリスク管理の問題だった。修羅場そのものは戦いが続く限り無くせないが、次善の策として情報統制が敷かれている。
- ゆえにクインたちが殺人鬼ノコギリの何たるかを知らなかったのは当然で――逆に知っていたマグサリオンたちは、どんな状況でも死の誘惑が効かない人種だと認められているのだった。
- 狂っていなければ鬼は倒せぬ。つまりはそういうことかもしれない。
- 「生きてるか、マグサリオン?」
- 「問題ない。だが、それより――」
- 「おお、これで終わりゃあ世話ねえわな」
- 並び立つ二人の前で、濛々もうもうと煙る粉塵が緩やかに晴れていく。そこに現れた光景は、目を覆いたくなるほどの不条理だった。
- 「いたた……すごいですね、びっくりしました」
- 「服が……ひどいよ、恥ずかしい」
- いったいどのような仕組みで声を出しているのか見当もつかない。砕け散った肉塊の山が蠢いているだけで、人体の様相を成していないのに喋っている。
- そしてわずか数秒の内に骨が組み上がり、筋肉が巻きついて、臓腑と皮膚が再生した。まるでフィルムの巻き戻しを見るかのような復元能力は、服だけを別として再び少女たちを傷一つない姿で蘇らせる。
- 悪夢さながらの情景で、これも殺人鬼たちの生態だった。
- 不死身である。理屈などない。ただ、そうでなければ鬼は名乗れぬ。
- 全裸という事実に羞恥を覚えているのはファラだけで、エルナーズは堂々と胸を張りつつ仁王立ちしていたが、もちろんそんな些事にかまける歴戦の戦士ヤザタではなかった。
- マグサリオンは殺意と怨念を燃やすのみで、ズルワーンは女体に抱く興味と別次元で目を輝かせている。
- 「どうよ、オレの言った通りだろう。楽しくなってきたじゃねえか」
- 混沌――彼が好きだと放言し、それに近くなると予言した状況が生まれつつあった。
- 第六位魔王の星に第四位魔王の手勢が現れ、迎え撃つ二人の戦士ヤザタはどちらも民の安否を眼中に入れていない。
- と言うより、釣り餌くらいにしか思っていないのは明白だった。もはや乱戦は必定で、如何なる意味でもただで済むわけがないだろう。
- 「まったく、面倒な人たちですね。あなた方みたいなのは好みじゃないし、こっちは時間もないんですけど」
- 「そう言うなよお嬢ちゃん。若いうちから趣味が狭いのはよくねえぜ」
- 彼女ら庭園の者がこちら側に留まれるのは、分離の橋が下りている間だけ。平均すると一時間といったところでしかない。
- だがそれは相対的なものだった。もっと詳細に言うならば、現地の人間が全滅したら終わりとなる。
- 殺人鬼ノコギリの数は八八名。対してアルザングの民は四〇万ほど存在するが、この程度なら三〇分も掛からずに殺し尽してしまうだろう。記録されている限り、もっとも庭園の被害が甚大だったのは七年前の某惑星――破滅工房の作品が多数流れ着いて混乱の極みに達したそこへ現れた鬼どもは、たった三時間で八億人を虐殺している。
- よって、ズルワーンから見ても呑気にしている場合ではなかった。彼自身が楽しむために、幕が開いているわずかな間を踊り抜けねばならない。
- 「分かりました。ではちゃっちゃとおもてなしさせていただきます。いいよね、ファラ?」
- 「うん、早く終わらせよう」
- 再びスプーンと皿を手に持つ全裸のメイド。滑稽ですら絵面だったが、常人なら狂死しかねない圧力が場に満ちている。
- その禍々しい空気を舌舐めずりして楽しみながら、ズルワーンも一歩踏み出そうとしたときだった。
- 「――――ッ」
- やおら、轟然とすら言える勢いでマグサリオンが顔をあげた。さらに身体ごと向きを変えて、メイドたちを視界から閉め出す。
- 信じられない所業だった。自殺行為も甚だしく、だからこそ他の者らは虚を衝かれ、次に真相を理解するやそれぞれの反応を示す。
- 「うわ、どうしよこれ! やばいよやばいよ」
- 「はわわわ……」
- 目に見えて慌て始めるエルナーズと、さらに恥ずかしがりしゃがみ込んでしまうファラ。
- そしてズルワーンは、呆れたことに喜悦の笑みを深めている。
- 彼らが見つめる先は魔性の虹……現世こちらと庭園を繋ぐ橋の上だ。
- そこを静かに、規律の取れた歩調で進んでくる者がいた。黒衣に身を包んだ痩身の影は、外見を裏切らない泰然とした声で告げる。
- 「エルナーズ、ファランギース」
- 冷ややかに名を呼ばれ、びくりと震え上がる少女たち。
- 「はしたないぞ、何をやっている」
- 「も、もも申し訳ありませんムンサラート様!」
- 猫のように弾かれて身繕いする二人は、直前までの敵を完全に無視していたが、次の刹那に再び飛びあがる羽目となった。
- 絶叫――とても人の声とは思えない咆哮がマグサリオンから迸る。
- 場に居合わせた全員の鼓膜を叩いた憎悪の雄叫びは、もはや音というより衝撃波に等しい。超密度の憤怒が生んだ殺戮衝動の爆発だった。
- 「ほう?」
- 殺人鬼じぶんたちとはまた違う、しかし決してぬるくはない殺意を浴びて、小首を傾げるムンサラート。
- 黒い颶風ぐふうと化して迫り来るマグサリオンを見下ろしながら、あくまで優雅に指を立てる。
- そこに現れたのは一輪の黒薔薇だった。まるで下民に褒美を賜わすといった仕草でムンサラートは茎を回し、無造作に虚空へ放る。
- 投げたわけでも弾いたわけでもなく、ただ重力に任せて落としたとしか見えない。だが結果は、鬼の代名詞たる男に相応しい暴威を生んだ。
- 薔薇はマグサリオンの腹を貫き、彼の上半身と下半身を一瞬にして千切り飛ばす。
- これまでどんな衝撃にも耐えてきた魔性の鎧を――魔王の手になる創造物を、紙でも扱うように引き裂いたのだ。
- 武器どころか道具でさえないただの花で。しかも戯れのまましめやかに、端然と。
- 悪の芸術とすら言えるムンサラートの絶技だった。
- 「きゃー! すごい、すごいよ」
- 「かっこいい……!」
- 上役が示した手並みにメイドたちは歓声をあげたが、ズルワーンは動じなかった。むしろある種の期待に胸を高鳴らせ、続く展開を見逃すまいと凝視している。
- 特級魔将ダエーワの凄味など、今さら当たり前すぎて論ずるにも値しない。そんなことより何よりも、彼はマグサリオンという男の異常性に魅せられているのだ。
- 「回復ハオマ……」
- 上半身だけとなった姿で、黒騎士がそう呟く。
- 「回復ハオマ、回復ハオマ……」
- それは重層の回復加護による致命傷からの復活――ではない。
- 「攻撃強化サーム――腐り落ちろガオケレナ」
- 思考回路は攻めあるのみ。ただ殺すのみで、滅ぼすのみ。
- 宙に浮いたマグサリオンの上半身は、まだ剣を手放していなかった。そのまま腸を撒き散らしながら回転し、横殴りの一撃をムンサラートに叩き込む。
- 直撃とはいかず、腕で防がれたが意表を衝くことには成功していた。ムンサラートは橋の上から弾き飛ばされ、下界に並ぶ豪邸の屋根へ滑走しつつ着地を決める。
- 「驚いた……まるで“彼”のような真似をする」
- 体勢を立て直し、再び隙のない立ち姿に戻った黒衣の執事は、声に偽りない感嘆の響きを乗せて顔をあげた。
- 「……いや、似て非なるものかな、これは」
- 視線の先にはマグサリオン――先の攻防で治癒を選ばなかった彼は、手遅れとなり死に至るのかと言われれば、無論否と答えるしかない。
- 虹の上ではおぞましい光景が具現していた。闇の中で獲物を貪る蜘蛛のごとく、鎧から伸びた牙がマグサリオンの千切れた身体に食い込んで繋ぎ合わせ、血を、肉を、あるいはさらに致命的な何かを啜すすり、破損した箇所を瞬く間に補修していく。
- ゆらりと立ち上がった黒騎士は、外見上まったくの無傷として復活を遂げていた。
- しかし、何かが違っている。先ほどまでより何かが欠けて、何かが増したが、その正体が分からない。誰にも真実は読み取れない。
- 分かっているの底知れぬ彼の凶念。猛烈な渦を巻き、走れ滅ぼせと叫んでいる無慙無愧の魂だけだ。
- 「つまりあなたは……ああ、なるほど。因果な巡り合わせでありますな」
- 淡々と、だがどこか愉快気に話すムンサラートの左腕は、ぼろぼろと砂のように崩れ続けていた。
- 言うまでもなく先にマグサリオンが放った一撃によるもので、その効果は過回復。すなわち細胞分裂の速度を狂わし、生体を崩壊に導く禁術である。それは驚異的な再生能力を持つ敵にも有効で、不死身の殺人鬼といえども例外ではない。
- あくまで、ただの殺人鬼が相手ならの話だったが。
- 「エルナーズ、ファランギース、ここは私に譲りなさい。おまえたちは皆のところへ、ただし服はしっかりと着るように」
- 「はい、ムンサラート様」
- 「かしこまりです」
- ぱたぱたと駆けていくメイドたちを見送ってから、ムンサラートは残った者らへ向き直ると、左腕をさっと軽く撫であげた。すると崩壊は止まり、のみならず再生し、服に至るまで元通りとなる。
- 尋常ならざる我力……その片鱗を窺わせるには充分すぎる魔業まごうだった。
- メイドの二人が去ったとはいえ、脅威は何ら減じていないしむしろ遥かに増している。
- 「改めて自己紹介をいたしましょうか。私の名はムンサラート」
- 言って恭しく頭をさげた執事は、再び顔をあげてから付け加えた。
- 「特技は人殺し全般です」
- 同時に右腕が虚空に沈む。何もない空間に穴でも生じたかのように、肘から先が隠れて見えない。
- そこには恐ろしい事実があった。この男は今、庭園に置いていた“何か”を取り出そうとしている。
- 「あなた方は兵つわものだ。敬意を表して、お嬢様の賓客ひんきゃくと見なしましょう。私の“これ”について、噂程度なら聞いていると思いますが……」
- 音が聞こえる。ぎゅるぎゅると回る金属音。空間ごと捻じり、巻き込み、血を求めて叫ぶ殺人器械の鳴動がアルザングを震撼させる。
- 人殺しの鬼たちが武器に頓着せず、決まった型に拘らないのは事実だったが、しかし例外も存在した。
- 彼らにも愛着というものがある。あまりにも自分の気性と合っていたり、記録的な数や素晴らしい獲物を狩ったときに使った道具は、特別な品として秘蔵するケースがあった。
- 要はトロフィーと同じであり、言い換えれば自分自身を象徴する物。ゆえにそれを手にした際の戦闘力は、他と比較にならないほど跳ね上がる。
- ならばムンサラートの自己証明とは何なのか。答えは彼の異名が教えていた。
- 「ノコギリと……私を呼んでいるのでしょう?」
- 現れたのは二メートルほどの長柄武器で、一見すると巨大な風車のようだった。
- 全体の半分以上を占める柄の先に鋼鉄の円盤が据えられており、その外周には鮫の牙を思わせるスパイクがずらりと並ぶ。すなわち丸鋸まるのこに他ならない。
- それがゆっくりと回っていた。風を受けているのではなく、逆に風を噛み砕きながら重く激しく、星の自転すら狂わせる圧倒的な我力を乗せて。
- 徐々に加速するエネルギーは桁外れの引力となって大気に渦を発生させ、引き寄せられた人間たちを周囲の家屋ごとバラバラに切り刻んでいく。
- 血煙をあげて叫喚する回転ノコギリ――これこそムンサラートが秘蔵する象徴で、彼の悪名を体現する暴虐無尽の凶器だった。
- 破壊と悲鳴の合唱を甲高い金属音で彩りながら、殺人鬼の宴が幕を開ける。
- 「ワルフラーン殿との戦いは楽しかった。私にとって、あれは紛れもない誇りですよ」
- 虹の橋から地に降り立ったマグサリオンへ、ムンサラートはあえてそう口にした。
- 知っているだろう、と。そして私は知っているぞと。
- 美貌に親愛の笑みすら浮かべ、黒い執事は謳いあげる。
- 「みんなの勇者が示した最期はては、如何な奇跡を描きましたか。弟君よ」
- 返答いらえは、これまでに倍する呪詛の轟哮となって現れた。
- 殺す――もはやこの場に、それ以外の感情が入り込む余地はない。
- ◇ ◇ ◇
- アルマの意識を読むことで私は事態を理解した。
- いや、理解しようとしたが信じられない。まさかそんな滅茶苦茶が通るなどと、認めたくない自分がいる。
- 「戒律を……使い捨てる?」
- 「殺人鬼れんちゅうが稀にやる手だ。縛りは一定期間のまともな食事ゲテモノ食いで、狙った義者アシャワンに成りすます。外見がわだけじゃなく、記憶も性格も技能もすべて……奪い取るんだよ。文字通り化けの皮だ」
- あらかじめ設定しておいた数時間、あるいは天候の変化や決まった言葉ワードを見聞きするまでといった風に、限定した縛りなら確かに以降は無視したところで構わない。理論上、無限に戒律を増やして捨てることができるだろう。
- だが、あくまで机上の話だ。普通は誰もやらないし、そもそもできない。
- 戒律とは信念だ。世界に向き合う在り方で、己自身に誓う誇りだ。決して日替わりの服みたいに、気分で替えたりなど不可能なはず。
- なのにそんな真似をやれるというなら、きっとそいつの中には何もない。ひたすら空虚で真空的な、伽藍のごとき魂だろう。
- 『いたい、くるしい、タスケテタスケテ……』
- 事実、こいつには邪気がなかった。
- 我々の無能を嘲るわけでも、自らの手並みに満悦するでもなく、ただ透明でふわふわとした秋風のようなヨクワカラナイ想いだけ。
- そこに肌が泡立つ不吉を覚えた。そして今一つ、気付きたくなかった事実が私たちを戦慄させる。
- 『どうしてわたしを殺シたの? セイギの味方じゃなかったの?』
- 宙に浮かぶマリカの首を頂点として、楕円状に展開した細長く薄い帯が回っている。まるでリンゴの皮むき連想させるものの正体は、彼女自身の人皮だった。
- つまり……
- 「馬鹿な、だったら……」
- 呆然と、震える声でフェルさんが呟いた。もはや皆が気付いていたが、声に出す勇気を持てずにいる。あまりに恐ろしくて悔しくて、我々の過誤はそれほどまでに罪深くて……
- 化けの皮――。
- マリカに擬態していた何者かは、本当の彼女をどうしたのか。そして何処へやったのか。
- 分かっている。覚えがあるのだ。壊れた蓄音機が奏でるような、タスケテタスケテというあの声に。
- 『イタかったよ、フェルさん。カナしかったよ、殺されて』
- マリカは魅力的な少女だった。活発で、愛らしくて、食いしん坊で甘え上手で――
- 今日まで我々が接してきた彼女は偽物、だけど記憶と性格は真実なのだ。
- あのときも、この今も、紡がれる言葉は紛れもなくマリカの祈りだったのに!
- 我々は彼女を醜い敵と断じ、妄執に駆られた悪鬼として情け容赦なく斬り捨てた。
- 誇らしさすら胸に抱いて、一片の迷いもなく正義を謳って殺したのだ。
- なんという許されざる無知。万死に値する愚劣さだろう。
- 自身、何よりもそんな己が許せないのに……
- 『だからお願い。これ以上わたしみたいな子を生まないで……今度こそタスケテ、守って、他のみんなを』
- この期に及んで、マリカは恨み言をいっていない。転墜すら起こして然るべき地獄の責め苦と裏切りを味わって、なお未来のために祈っている。
- 死後の世界が何処にあるかは知らないが、本当のマリカがここにいてもやはり同じように言ったのだろう。
- それが――その事実が、どうしようもなく私たちの胸を衝いた。
- 『じゃないとわたし、なんのために死んだのかワカラナクなっちゃうよ』
- ゆえに我慢などできるわけがない。誰よりも強く激昂し、駆け出したのは言うまでもなくフェルさんだった。
- 「うあああああッ――!」
- 絶叫し、抜刀と共に突撃する。今度こそ間違えずに殺してみせると誓いながら、マリカの魂がほんの少しでも安らげることを願いながら。
- 仇を討つと断固決意して走るフェルさんだったが、しかし彼の襟首をアルマが掴んで無理矢理止めた。
- 「なッ……」
- やはり駆け出していたサムルークが、予想外の横槍に驚愕する。私もまた同様だ。
- 何をする? なぜ止めた。困惑を通り越して怒りが湧き、特にフェルさんは噛みつかんばかりの剣幕だった。
- 「放せ、奴を殺す! 殺すんだ許して堪るかッ!」
- 吠えかかる私たちと、悲鳴をあげて逃げ惑う数百人の侍女たち。狂騒の坩堝と化した現場にあって、アルマだけは冷静だった。
- 眉間に深い縦じわを刻み、じっと静かに眼前の敵を見据えている。
- マリカの皮を剥ぎ、中に隠れていた鬼畜を。まだ繭まゆ状の囲いから姿を見せていなかったが、間違いなくそこにいる滅ぼすべき大悪を。
- 吟味し、彼女は静かに言った。
- 「逃げろ」
- 「え……?」
- 言葉の意味を理解するより早く、アルマの大音声だいおんじょうが轟き渡った。
- 「君らは話にならん――今すぐ逃げろ!」
- 「――――ッ」
- 激烈な意思で叩き込まれた命令オーダーは、完全に私の随意を上回った。反論する暇もなく勝手に身体が行動へ移り、フェルさんとサムルークを抱きかかえて星霊加護を発動させる。
- 瞬間移動――行先は遠くなら何処でもよかった。とにかく少しでもアレから離れろというアルマの指示に従って、大いなる御業に包まれた私たちは空間を飛び越える。
- そのときに、視線を感じた。
- 回る人皮の繭の中から、私たちのほうへ、きろりと。
- たったそれだけで、総身がバラバラに砕け散る“死”の実感を味わったのだ。
- 「あァ――!」
- 私たちは広間の壁と天井を乱反射し、成す術もなくモザイク模様の床に叩き付けられる。信じがたい現象で、我が身に起こったことだというのに現実として認識できない。
- なんだ今のは、瞬間移動を破ったのか?
- あんな、手足を動かすどころか口を利いてすらおらず、睨んだわけでのないただの一瞥。そんなもので?
- 星霊の力を引き裂いて無効化しただと? 有り得ない話だろう!
- 『うふ、うふふふふ……』
- 繭の中から声が聞こえた。マリカのものとは違う声音で、笑っているが笑っていない。
- ふわふわと、さらさらと……世界を歪める透明な、言語を絶する何かがそこから流れ出す。その秋風めいた想いに触れた侍女たちが、数百まとめて血の花と化し爆裂した。
- 「……ああ」
- そうか。遠い彼岸を眺めるような心境で、私は他人事みたいに納得する。
- 『わたしと出会ったのだから、ちゃんと死なないと駄目ですよ』
- これは殺意だ。あまりに巨大すぎて純粋すぎて、そうと思えなかっただけの話。
- この相手は最初から、おまえたちを殺したいと言い続けている。
- それしかないから。虚ろで空っぽな存在だから。
- してみれば、正体に思い当たる節があった。アルマが逃げろと言ったのも、視線一つで星霊の加護を破ったのも、私の想像通りなら当たり前と言うしかない。
- 『自己紹介をいたしますね。わたしの名はフレデリカ』
- 繭が解かれ、現れたのは豪奢な金髪に青いドレスを纏った美少女だった。
- 気品と愛くるしさが見事に同居した佇まいは、高貴なる令嬢と言って差し支えない。
- だが私は知っている。これが少女の姿をした化け物であることを。
- 彼女は殺人鬼という呪われた種族の頂点に立つ絶対悪――第四位魔王フレデリカ。
- 「趣味は人殺し全般ですわ」
- そうとも、私、は、知、っ、て、い、る、。
- これはあのとき母親クインを殺した、忌まわしい鬼子だった。
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