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- 幕間『崩れ』
- その星は、長らく邪な法に支配されていた。
- 特級魔将ダエーワブシュンヤスタ――現地の民草に悪夢の女神と恐れられたこの星霊は、ナダレとそう変わらぬ時期から存在した最古参クラスの魔将ダエーワだ。よって言うまでもなく破滅的な力を持っていたが、にも拘わらず特級止まりだった点には理由がある。
- ブシュンヤスタは“怠惰”という概念が結晶したような悪であり、向上心や目的意識といったものをまったく持ち合わせていなかった。ゆえに善悪闘争への積極的な参加はもちろん、己の地盤を固めることにさえ興味がない。真我アヴェスターに反逆的なわけではなく、単にそういう性質だったと表現できる。
- 絶対悪七柱の座に欠員が出た際、後継者に誰が選ばれるかは真我カミの好みだ。原則として鮮烈な色彩キャラが優先されはするものの、だからといってブシュンヤスタが不興を買っていたわけでもない。力を持ちながらも特級に留め置かれる者たちは、概ねそのほうが“らしさ”を発揮できる上に、本人も望んでいるという事実があった。
- 例としてザリチェードやタルヴィードは挑む側の人種であり、地位は自力で奪い取るものだと思っているため繰り上げ的な昇格は余計なお世話だ。また主君を立てて従属する気質のムンサラートは、そもそも魔王になどならぬほうがよりよく映える。
- つまりブシュンヤスタも同様で、彼女はこのままのほうが世界の彩りになると真我カミに判断されていた。ひっそりと脇に在るからこその怠惰であり、表舞台に引っ張りだせばむしろ劣化してしまう。
- それは己の法下にある者たちをよく理解し、正しく扱う明君の行いと言える。だが結果、ブシュンヤスタの星では二〇〇〇年以上にわたり地獄が具現することとなった。
- 悪夢の女神と呼ばれる通り、この特級魔将ダエーワは生の大半を眠って過ごす。彼女の見る夢は権能となって星を覆い、当然のように平和とかけ離れたものを生み出すのだ。
- 強力な魔物が無数に湧く程度ならまだ序の口。昨日まで清流だった川がいきなり猛毒に変じ、ただの山が火を噴いたかと思えば空から蛆虫の雨が降る。美しい花嫁が初夜におぞましい肉塊となるくらいは茶飯事で、しかも精神的には以前のままなのだから救いがない。糞尿でしか腹を満たせぬ奇病。数年以上も続く昼や夜。赤子の八割が人面の芋虫として産まれてきた年もあり、彼らは免疫と回復力が常人並みにも拘わらず不死であるため、病や怪我でずたずたになっても苦しみながら生き続けねばならなかった。
- まさに悪夢の精髄を煮詰めたような、狂気吹き荒れる幻妖の星。この地に生きる者たちにとって、唯一の救いとなるのは五〇年ほどの周期で訪れる“目覚めの日”だった。
- どこまでも怠惰な星霊は実地に行動するのを面倒だと考えるため、彼女が起きている間は凪の時が訪れる。しかしそれだけに、放っておけばすぐさま眠りの世界へ戻ってしまうところをなんとかして留めようと、民は試行錯誤の末に一つの方策を編み出した。
- 人身御供ひとみごくうである。
- 星の各地から選りすぐられた豪傑、あるいは見目麗しい令嬢など、総じて克己心に富んだ者たちを供物として捧げ、彼らが無聊を慰める内は起き続けてくれと祈願した。ブシュンヤスタは“与えられたものを拒まない”という戒律を持っていたので渋々ながらもこれを受諾し、民の命運は生贄たちの勇気に託されることとなった。
- 彼らがブシュンヤスタを倒せれば最善、倒せなくても長く耐えてくれれば次善。多大な期待を背負った者たちは鋼の覚悟で任務に当たり、星の平和を勝ち取ろうと奮戦する。
- だが、結果は無残だった。
- まずもって戦いの体裁すら取れない。実力的には魔王と何ら変わらぬブシュンヤスタを倒すなど不可能で、ならば後は如何に生き残るかという一点に集約された。
- それは人智を超えた拷問である。戒律の都合上、生贄と戯れることを強いられたブシュンヤスタは彼らをあっさり殺せなかったが、心身を痛めつける行為に関しては枷がなく、むしろその方面は凄まじい域に跳ね上がっていた。
- 睡眠時は星の全土を覆い尽していた悪夢が、たった一〇〇人そこらの者たちに集中して注ぎ込まれるのだ。いったいどれだけの責め苦となるかは、もはや語る必要もないだろう。
- 短くて十日、平均して一月、最長でも半年程度しか保たなかった。哀れな生贄たちは魂の芯まで凌辱され、原形を留めぬほどにすり潰されて打ち捨てられる。彼らの名誉を守るために言うならば、逃げだそうとする者は一人もおらず全員が当代きっての傑物だった。にも拘わらず、誰も女神の狂気に耐えられなかったのだ。
- そんな日々が二〇〇〇年以上……希望はとうに風化して、民は常態化した絶望を摂理のごとく受け入れていた。どだいまともな神経を持ったままでは、この狂った星で生きることができない。
- ゆえに“彼”の選択は、当初誰からも期待されていなかった。目覚めの日が近づいたとある年、とある地域の代表として志願したのは十にも満たぬ少年で、無知な子供だからこその蛮勇だと皆が思う。
- 事実少年には、まったく緊張感が欠けていた。どこか抜けているのではと疑うほどに気負いなく、溌剌とした笑顔のまま自分に任せてくれと言いだすのだ。
- 普通なら叱りつけるところだろう。今は拙く、独りよがりな少年の正義感を真に尊いものへと育てるため、愚かな真似を窘めるのが大人たちの役割だ。
- しかし彼らは疲れていた。今後も永遠に続くとしか思えない悪夢の中で、何もかもがどうでもよくなっていたのだ。
- しょせん誰が出張ろうと結果は同じ。ならば好きにさせてやり、この世界から早々に退場させてやるのがむしろ慈悲だと、少年の両親でさえ諦観する。
- よって彼は形ばかりの労いと、侮蔑に近い憐憫の情を背にして村を出た。全土より集められた他の生贄たちも、少年に抱いた気持ちは似たようなものだったと言える。
- そうして訪れた目覚めの日。暗灰色の雲から現れた巨大な手が祭壇の者らを一掴みで連れ去ったとき、民は女神の禍々しさを再認して戦慄しつつ平伏した。
- 期待などしない。すればするだけつらくなる。だからせめて、あの哀れな勇士たちが少しでも死後安らかになれるようにと……
- これより束の間訪れる凪を前に、それがどれほど短かくても気にするまいと、自分自身を戒めたのだった。
- やがて一月が経過する。そろそろだと皆が思い、再び始まる地獄を待った。
- 三月経過。今回は中々長いと、喜ぶ者らが出始める。
- 半年経って、逆に彼らは怖くなった。下手に希望を持たせてくれるな、どうせ駄目なのだから一思いにやってくれと、憤る者さえ現れる。
- 一年、二年、凪は続く。なぜか悪夢は一向に再開しない。
- これはどうした手違いだろう。まさか耐え続けている者が存在するのか。
- いいや馬鹿な、そんなことがあるはずもない。ブシュンヤスタがどれだけ強力な魔将ダエーワか、この星に生きる者なら嫌になるほど知り抜いている。
- だが三年経ち、四年も半ばを過ぎた頃、一つの変化が生まれだした。すでに跡形もなく消え去っていたはずの希望という灯ともしびが、民の胸にひっそりと息づき始める。
- 誰ともなく祈りを捧げるようになっていた。苦しみから目を逸らして諦めるのではなく、苦しみを乗り越えるために前を見据え、自分たちに何ができるのかを切々と考えだす。
- 今も彼らの代表として、狂気の星霊と対峙している何者か。その人物への感謝と敬意と罪悪感が、徐々に星を覆っていった。悪夢の恐怖を払拭し、皆が人としての誇りと尊厳を取り戻していく。
- 奇跡が起きていた。
- 凪が五年を迎えたとき、このままでいいはずがないと一人が言う。そうだその通りだと賛同する者が現れる。男たちは立ち上がり、女たちも立ち上がり、老人や子供たちも後に続いた。
- ここに一丸となり、結集する善思の輝きが焔ほむらとなって燃え上がった。皆が胸に勇気を抱いて、武器を手に取りブシュンヤスタの神殿へと向かいだす。
- そうとも、星霊といえど無敵ではない。彼らの力が絶対的な法として機能するのは、星の支配が万全な状態においてのみだろう。反旗を翻す者が多ければ多いほど、人でいう病に近い不調を覚えるはずだ。
- まして、生贄の抵抗に手を焼かされているとなればなおのこと。
- 我らの英雄を救いだせ。今こそ皆が力を合わせ、真の平和を勝ち取るのだと大呼して民は進む。
- その声に応えるかのごとく、予期せぬ援軍も現れた。聖王領から派遣された戦士ヤザタの軍勢が、実に三〇〇〇も戦列に加わったのだ。
- 彼らにしても、これがブシュンヤスタを討伐する絶好の機と見たのだろう。今まで介入を避けていたのは、別にこの星を見捨てていたからではない。星霊と戦う以上、現地の民が目覚めてくれなければどうにもならなかったというだけの話だ。
- とはいえそうした事情を差し引いても、できすぎた流れだったことに違いはあるまい。運命とでも表現すべき大きな力に導かれている気持ちを皆が味わい、士気は否応なく上昇する。
- ならばこそ、もはや勝利は目前だった。当時の戦士長、アータルは雄々しく奮って先陣を切り、選び抜いた精鋭と共にブシュンヤスタの神殿深くへ攻め入ると――そこで驚くべきものを見る。
- 悪夢の女神、狂気の星霊と恐れられ、二〇〇〇年以上にわたり痛みと嘆きをばら撒いてきた特級魔将ダエーワが、まさに塵となって消える光景。その顔は何か信じられないものを見たような、己が無力に打ちのめされ、許しを乞いながら逃げ出すような……引きつり歪んだ恐怖の相を浮かべていたのだ。
- ブ、シ、ュ、ン、ヤ、ス、タ、は、狂、い、死、ん、で、い、た、。そのすぐ傍らには一人の少年が佇んでおり、困惑する戦士ヤザタらに振り向くと、少し照れた風に微笑み、言うのだ。
- 「遅かったですね」
- ……後に戦士長アータルは語る。私は真実を見たと。
- 星霊を失ったことで星は瓦解し、民は聖王領の支配域へ分散する形で移送される。そして翌年、直轄地に送られていた件の少年は御前試合でスィリオスと出会った。
- 伝説の始まりである。
- ワルフラーンが初めて魔将ダエーワを倒したのは、一五のときだと公式には記されている。しかし実際のところ、彼は七つのときからブシュンヤスタと向き合っており、五年もの歳月をかけて滅ぼしたのだ。武威ではなく、規格外としか言えぬ覇気と勇気で。
- この事実が伏せられたのは、他ならぬワルフラーンの意向だった。彼は他の生贄たちを救えなかったと悔いており、ゆえに褒めないでくれとアータルに頼んでいる。その場に居合わせた者らが何を思ったかは、容易に想像できるだろう。
- 百戦錬磨の兵つわものたちが、年端も行かぬ少年に跪いた。彼こそ理想、彼こそ正義、我々ごときが口を挿む余地などない。どうか勇者よ、御身は御身の思うがままにと。
- やがて少年は青年となり、まさに思うがまま戦った。彼が自身に課した戒律は特異にして単純明快。相手や状況に関係なく、必勝するという一点にある。
- 通常とは順序が逆だと言っていい。戒律とは勝利を得るための力であり、強くなるための決め事だ。にも拘わらずワルフラーンは、前提として必ず勝つのだと世界に誓った。
- それはどれほど苛烈な縛りだろう。負ければ結局死ぬのだから、同じことだと言うのは容易い。だが争いに満ちたこの宇宙で、自身に一つの敗北も許さぬ決意は非現実的とさえ表現できる。あの第三位魔王でもそこを戒律にしてはおらず、まして地力に劣る義者アシャワンの身という点を鑑みれば、根本的な意識の階層が違うとしか思えなかった。
- 事実ワルフラーンは微塵も恐れず、己の在り方に一片の疑問すら抱いていない。悲壮な覚悟のもとに決めたのではなく、当たり前の理屈を当たり前に通すのだと言わんばかりに行動し、数多の不可能を可能にしていく。
- そうして実績を積み上げるたび、彼は翼を授かった。必勝の縛りがもたらす見返りは、勝ち続けるほどに強くなること。加え、さらにもう一つ。
- 勇者が勇者である限り、必ず勝利は約束されるといつの頃からか囁かれだした。事の真偽に関係なく、それがワルフラーンを取り巻く者たちの共通認識となっていく。
- ゆえに誰もが勇者の不滅と無謬性を謳いあげ、善の勝利と栄光を夢に描いた。
- 膨れ上がる“みんなの祈り”は津波のごとき力となって奇跡を目指し、これこそおまえに求める方向性しんじつだとワルフラーンに流れ込む。
- そう、種の意志という巨大なうねりこそが絶対の正義なら、ここに一つの疑問があった。
- 勇者はその激流に晒されながら、はたして何を思ったのだろう。いいやそもそも、彼は流れを生んだ者なのか。それとも翻弄された者なのか。
- 鶏が先か卵が先かの問題と似ている。ワルフラーンという人物の、根源となる真実が分からない。
- 『面白いと思わんか。誰よりも明快さを求められた男が、誰よりも曖昧なのだよ』
- 喜々として、嘆かわしげに、相反する感情を同時に表しながら声は笑った。
- 『社会において、多くの支持と信頼を得る人間は二つに分かれる。皆が求めている理想を理解し、その実現に献身する者。あくまで自儘に行動し、結果で周囲を取り込んでいく者』
- 言わば染まる者と染める者。
- ではさて、件の勇者はいったいどちらに当たるかなと、弄うように問いかけた。
- 『出立のとき、彼は誰からも期待されていなかった。しかしブシュンヤスタを食い止める者が潜在的に求められていたのは明白であり、初めの選択と勝利が個人の実力わがままに起因するとは断言できまい。生贄であろうと勇者であろうとまったく同じ概念だという見方もでき、どちらがどちらを染めたのかは永遠の謎になった。どうか思うように振る舞ってくれと、最初の信者が願った点も事態を限りなく不透明なものにしている。
- ワルフラーンの正体は、善思の代表に祭り上げられた傀儡かいらいなのか。それとも己が方向性に皆を染め上げ、夢を束ねた覇者なのか。おまえはどちらであってほしいと考えるかね』
- 問いに、■■は愚問だと首を振った。
- 義者われらは全にして一である。主観が誰にあるかなど問題ではない。その道が殉教でも覇道でも、なべて勇者も含めたあまねく義者みんなの総意であると。
- 『模範的な回答をありがとう。ナダレが聞けば大いに眉をひそめるだろうな。おまえはそれを嫌っていたはずなのにと』
- よく分からないことを言われ、首を傾げるも声は続ける。飄々と砕けた口調に異様なほどの重さを込めて、期待していると言葉を結んだ。
- 『本番はこれからだよ。おまえが集めた色彩は、どんな美しい模様セカイを描くのか楽しみでならない』
- 「待って――」
- 消えていく気配に手を伸ばし、闇の中で■■は問うた。
- 「あなたは、誰……?」
- 『私は真我しんがだ。おまえたちが法則アヴェスターと呼ぶモノだよ』
- 瞬く金銀妖瞳が優しく告げる。早く目を覚ませと慰撫して、嘲り、呪いながら祝福する。
- それは何か、別の感情を代替しているような歪さを孕んでいた。あらゆる事象を内包するこの存在は、しかしたった一つだけ欠けたものがあると感じる。
- その正体を、ここで突き止めることはできなかったが。
- 『徒労の歴史は飽きたのだろう。ゆえに勇者を無慙の道に誘いざなったのではなかったか?
- あのときのおまえは愚かで強く、輝いていて……もう一度見たいと私は願うぞ、■■よ』
- だいたい、真我の言う自分とは何なのか。己の所在すら不確かなまま、視界は一気に変転した。
- ◇ ◇ ◇
- 「ワルフラーン様はあいつに甘すぎると思います」
- 謎の邂逅は朧に薄れ、最前までの記憶があっという間に消え去っていく。私はどこで、誰と何を話していたのか、内容はもとよりそうした事実があったのかすら不明になって、ただ目の前の光景にだけ吸い寄せられた。
- 小さな、だけど利発で気の強そうな女の子が、挑むような目で私を見ている。
- 「いくらあなたの弟だからといって、なんでも許されるわけじゃないでしょう。むしろ示しをつけるためにも、ワルフラーン様が率先してあいつを叱るべきだと考えます」
- 「いや、確かに……いちいちごもっともすぎて返す言葉もないなこれは」
- 「笑わないでください、馬鹿にしてるんですかっ!」
- 腰に手を当て、憤慨も露わに睨ねめあげてくる女の子には面影があった。褐色の肌に銀の髪、そして何より強い意志を宿した黒玉ジェットの瞳は、紛うことなくあの人と同じもの。
- アルマ……これは幼い頃の彼女だった。そして私が同調している視点の主は、もはや言うまでもないだろう。
- 「けどまあ、俺は安心したよ。あいつは友達に恵まれてるみたいだな」
- 「誰が友達ですかっ、あんな奴は嫌いです!」
- 冗談じゃないと頭を振って、顔を真っ赤にしながらアルマは怒る。話題の人物が誰を指しているのかも明白で、私はこの場がどういう状況なのかを理解した。
- マグサリオンの素行について、一度ワルフラーン様に謝罪されたことがあると以前アルマは言っていた。曰く勇者が格好良すぎて文句なんか言えなかったとの話だが、こうして見ると随分恐れ知らずに噛みついている。
- 過去は美化されるというやつか。あるいはこの頃の彼女にとって、これでも尻込みしている部類なのか。おそらく後者だなと私は思い、微笑ましい気持ちになった。
- 何も恐れるものがなかった時代。勇者の無敵を無条件に信じていたからこそ、子供が子供らしくいられた平和の記憶。
- これはそんな、過ぎ去った日の一幕だった。なぜ今、私がこの記憶に触れているかは不明だけど、そこにはきっと意味があるし重要なものだと分かる。
- 「とにかく、ちゃんと躾けてくださいね。ああいう奴が混じってると、みんながまとまらなくなって困りますから」
- 「うんうん。さすがはアルナワーズ殿のご息女だ。今後もあいつの世話をよろしく頼むよ」
- 「母は関係ないでしょう。ていうか、私の話を聞いてましたか? 馬鹿の面倒を見るのはワルフラーン様の役目だって――」
- 「君はあいつが気になるんだろう? 恋路を邪魔するほど野暮じゃないさ」
- 「はっ!? ちょ――ふざけないでください! ワルフラーン様、ワルフラーン様っ!」
- アルマの抗議を笑って流し、みんなの勇者は踵を返した。
- ……なんというか、物事を良いようにしか受け取らない人だと思う。少し抜けているのではと疑うほどに、彼はネガティブな思考と縁遠い。
- 正直呆れはするものの、危なっかしいと感じないのは不動の安定感があるせいだ。それは積み上げた実績による説得力という面も当然あるが、天性の人徳のようにも見える。
- この人なら大丈夫。この人がいる限り心配することは何もないと、理屈を抜きに信じさせてくれる不思議な魅力を私は感じた。勇者にとってもっとも大事な資質とは、周りに勇気を与える力だと俗に言われているけれど、もしかしたらこれがそういうことかもしれない。想像していたのとは少し趣を異にするが、頼もしい人物である点に疑いはなかった。
- 「まったく、これでは何をしに来たのか分かりませんね」
- そんな風に考えていたとき、柔らかに窘める声が右から届く。
- 「そうだな。結局おまえ、一度も謝っていないだろう」
- 続けて、先の意見に同意する声が左から。
- 「挙句の果てに、自分の不徳をあんな小さい子に丸投げとは」
- 「恥を知れ、恥を」
- 「ははは、そう褒めるなよ。照れるだろ」
- 対して、当のワルフラーン様はやはり難詰を意に介さず笑い飛ばした。
- 「俺は別に大した奴じゃないからな。困ったときは遠慮なく寄りかかるようにしてるんだ。おまえたちに教わったことだよスィリオス、それにナーキッド」
- 言われた二人は、やれやれと肩をすくめて嘆息した。私は勇者の視点を通し、改めてまじまじと彼らを見つめる。
- 「まあ、確かにそう頼んだのは認めます。都合よく解釈しすぎだとは思いますが」
- 私が知る時の止まった存在ではなく、瑞々しい動態の中にあるナーキッド様。彼女はこんなにも可愛らしく微笑み、傍にいるだけでほっと安らげる空気を持つ人だったのか。
- 「つくづく、おまえは兄の器じゃないな。俺から見れば、ひたすら手のかかる弟だよ」
- そして若かりし頃のスィリオス様には、あの孤高的な厳格さを感じなかった。はにかみながらも親友のことを揶揄する様には、どこまでも優しく暖かい包容力が溢れている。
- 並んで街を歩く三人の英傑に、数多の民が敬慕と憧れの気持ちを向けていた。そこには家族のような信頼感だけがあり、遠巻きに崇める余所余所しさも畏怖して平伏する上下もない。
- 目を輝かせて駆け寄る子供たち。深い感謝の念を滲ませつつも、気さくに歓声を送る大人たち。止め処なく連鎖していく喜びの中、白い翼の鳥たちが祝福するように蒼穹を舞う。
- これが二〇年前の聖王領。栄光と希望に輝き、善の最盛期を築いた在りし日の姿。
- 私の現実と比べてなんと眩しく、尊い光景なのだろう。この笑顔の先になら、完全無欠の大団円が約束されると誰もが思うに違いない。
- 「実際、おまえは義弟だしな。俺の苦労を見て、兄の何たるかを少しは学べ」
- そう混ぜ返すスィリオス様に、ナーキッド様が少し照れた顔で抗議した。
- 「気が早いですよお兄様。私たちの婚礼は、すべてが終わった後だと決めたはずです」
- 「俺は賛成していない。王の意見には二票分くらいの力があって然るべきだし、そもそも士気の面からしても、おまえたちが今結ばれることには意味がある」
- 「夢のない話をするなよ、スィリオス」
- 珍しく面倒そうにぼやいたワルフラーン様は、だが次の言葉に意地の悪い響きを乗せた。
- 「士気を高めるために慶事が要るなら、まずはおまえが年貢を納めたらどうだ。いつまであいつのことを隠しておくつもりだよ」
- 「む、いや、それとこれとは話が……」
- 「違わないでしょう。私から見れば、むしろお兄様のほうが期待を蔑ろにしています。健気な女性を日陰に囲うのが、そんなにも楽しいのですか?」
- 「人聞きの悪いことを言うな!」
- 狼狽して声を荒げるスィリオス様に、私は少なからず驚いた。あの王がこんなに分かり易く取り乱している点も意外だったが、何よりも気を引いたのは会話の内容。
- 詳しいところは不明だけど、スィリオス様にはどうも特定の女性がいるらしい。時期的にロクサーヌでもあるまいし、その手の噂は聞いた覚えがなかった。
- 「俺は別に、あれを日陰にしているつもりなどないぞ。夫婦の誓いは交わしている」
- 「あくまで二人だけの、私的で秘密な関係でしょう? 公にはまったくされていませんし、体のいい愛人契約と何が違うのですか」
- 「あれがそうしてくれと言ったんだ」
- 「まあ、なんということでしょう」
- 信じられません、とナーキッド様は大袈裟に天を仰いだ。
- 「我が兄は、いつからこんな取って付けた遁辞いいのがれをする殿方になったのでしょう。まるで三流の色事師ではないですか」
- 「……ナーキッド、おまえは何処でそういう言葉を覚えてきた」
- 「あら、いけませんか? 裏で羽目を外しているのはお兄様たちだけじゃないのですよ。あれから八年……いえ、七年にもなるのだし、私も色々と思うところはあるのです」
- その言葉にスィリオス様はバツの悪げな顔をして、なぜかワルフラーン様も困り気味な気配を見せた。そんな二人をじっくりと見回して、ナーキッド様は悪戯っぽく言葉を継ぐ。
- 「あまり女性を軽んじてはいけませんよ。後が怖いですからね」
- 「肝に銘じとく。ていうか、実感済みだよ」
- 降参だと両手をあげて、自嘲するワルフラーン様。
- 「私は用件を思い出した。忙しいのでな、失礼する」
- スィリオス様は逃げるように、いや実際逃げるために口調まで変えて踵を返した。
- 「あらあら、少しいじめすぎましたかね」
- 去っていく兄の背を見送りながら、ナーキッド様はとても無邪気に微笑んでいた。幾らか解せないやり取りはあったものの、三人の仲が非常にいいのは理解できて、私はこの後に起きる未来を思うと暗く沈んだ気持ちになる。
- ゆえにもっと彼らの真実を知らなければと思う反面、見続けるのが怖くもあった。けれど胸の葛藤とは関係なく、過去の再生は進んでいく。
- 以降、実に二ヶ月もの間、私はワルフラーン様に同調したまま彼の軌跡を追っていた。すでに三魔王の討伐は成されており、この頃の勇者たちはどんどん増える戦士ヤザタの編成に終始することになるのだが、それは傍目にしている私から見ても多忙を極める毎日で、また活気に満ちたものだった。
- 遠からず、大規模な戦いが始まるのは皆が察している。しかし緊張感を持ちながらも臆している者は一人もおらず、会戦前の準備期間としてほぼ理想的な状態に思えた。ここで勇者と星姫の結婚式でも行われれば確かに文句なしなのだけど、お二人はけじめを大事にされているのか固辞し続けて、都度落胆されるスィリオス様に私も共感を禁じ得ない。
- その間、マグサリオンとは何度か接する機会があった。ワルフラーン様は彼の世話をアルマに任せると言っていたけど、実際はなんとか時間を捻出して会うように努めており、人慣れない弟を案じているのが見て取れる。
- が、マグサリオンの態度は聞いていた通りけんもほろろで、さらに相変わらず顔が見えなかった。当時の彼は素顔を晒していたはずなのに、なぜかそこだけ黒い霧が帳のごとく渦巻いて、真実を隠している。
- そして闇の中から軋る声で、勇者に会うたびいつも同じ台詞を口にするのだ。
- 「あんたは負け犬だ。負けてしまえ」
- 弱い、脆い、兄者は他人に心臓を握らせていると。
- 今もまた、出陣を控えた宴の席で決まりの罵声を吐いた少年は、闇に覆われたまま闇へ去った。私は彼の小さな背を見つめつつ、改めて考える。
- マグサリオンは兄上とどう向き合うべきか、分からなかったと言っていた。気付いたときにはもう遅かったとも。
- あのとき私を貫いた凄まじい感情。天地を砕いて呑み込むほどの、底抜けに巨大な祈り。あれが答えだというのなら、彼を苛む慙愧の正体とは何なのか。
- 認めたくないけど分かっている。希望的観測に逃避するのはもうやめよう。
- マ、グ、サ、リ、オ、ン、は、勇、者、を、殺、し、た、が、っ、て、い、た、の、だ、。曰く何もかもが不確かな世界の象徴として、兄こそ滅ぼすべき大敵であると認識するのが遅れてしまい、機を逸したと後悔している。それが私の知る凶戦士を生んだと見て間違いあるまい。
- なんて馬鹿な話だろう。
- 私は彼に勇者を継いでほしかった。ワルフラーン様が遺した欠片を拾い集めて、偉大な兄上の意志カタチを再構築してもらいたかった。
- けれど私のそんな願いが、マグサリオンを逆に焚きつけてしまったのだと理解する。みんなの勇者はもういないから、みんなを殺すことでワルフラーン様を消し去ってやるという風に。
- 止めねばならない。断固それだけは絶対に、命を懸けて防がなければならなかった。
- まだ手遅れではないはずだから。私は依然、大団円を諦めてなどいないのだから。
- 「少し二人で飲み直しませんか。気分を変えたほうがいいでしょう」
- ふと気付けば、背後から近付いてきたナーキッド様が隣に立ち、労うような微笑みを浮かべる。
- 「……そうだな。こいつらはどうする?」
- 辺りには、多くの戦士ヤザタが幸せそうな顔で昏倒していた。そのすべては他ならぬワルフラーン様が叩きのめしたもので、お酒がもたらす豪傑たちの腕比べと言うか喧嘩祭りと言うか、とにかくそういう状況の後だった。
- マグサリオンが嫌悪して、滅ぼすべきだと断じた世界。しかしやっぱり私には、これが間違ったものだとはどうしても思えなかった。
- 彼がワルフラーン様を脅威と感じていた以上、勇者の在り方には凶戦士を封じる答えが隠されているに違いない。この夢は、きっとそれを探すためにあるのだと思う。
- ゆえに今は、覚悟を決めてすべてを見届けるべきだった。私は決意を新たにして、もうすぐ消えると分かっている栄光の時代へと意識を戻す。
- 「放っておきましょう。いい夢を見ているみたいですし、起こすのは野暮ですよ」
- 言って、ナーキッド様は兵つわものたちの死屍累々を優雅な足取りで渡っていく。ワルフラーン様は遠慮なく彼らを踏みつけながら追従し、後は二人の時間となった。
- 「では改めまして、乾杯」
- ナーキッド様の私室で差し向いに座った二人は、軽く触れ合う程度にグラスを合わせた。普段の私なら恋人たちの夜に立ち入っている居心地悪さを覚えるところだが、現状その手の気持ちは後回しとなっている。先にすべてを見ると決めた手前も当然あるが、それ以前の問題としてこの二人はあまり艶っぽいノリではない。
- 二ヶ月間も視点に同調し続けて分かったことだが、ワルフラーン様とナーキッド様は世間一般でいう恋愛関係と少し違った。お互いを大事に想っているのは確かだけれど、男女の秘め事的な繋がりとは遠いと感じる。
- おかしな話になってしまうが、スィリオス様より彼らのほうがよっぽど兄妹みたいに見えるのだ。よって二人きりの時間が情熱的な睦み合いを生むはずもなく、私はある意味安心して場を見守っている。
- 会話は主に思い出話の類だった。出会った時のエピソードから始まって、今に至るまでの流れを楽しげに語り合っている。たまに時系列を前後させながら、そういえばあのときは、いやこのときはと、やや取り留めない話題に終始する様は如何にも幼なじみといった風情であり、興味深くも微笑ましい。
- そんな中、ワルフラーン様が不意に奇妙なことを言った。
- 「ナーキッド、君は気付いてるんだろう?」
- 何を、とは言わない。ただ流れとして、それはとある魔将ダエーワを倒したときの話だった。
- 正確には封印したときの、この時代よりさらに八年ほども遡る過去の出来事。
- 殺人鬼ノコギリ、ムンサラートにまつわる回想が始まる。
- 「あなたが彼を殺さなかった理由ですか? ええ、もちろん分かっていますよ。みんなの身を案じた上での判断でしょう」
- 「……あいつの戒律は面倒だった。思い返すに、負けを認めさせたのがそもそもの失敗だな。俺に従うと、あの台詞を聞く前に片をつけるべきだったよ」
- 「臣従を表明されたからには、以降彼に関わるすべてが主命になってしまいますものね。無言で斬っても、死ねと命じてもそこは同じ」
- 「あいつは主人に格を要求する。強い命令を下せば、相応の返し風が吹く仕組みだ」
- なのでムンサラート殺すわけにはいかなくなったと、ワルフラーン様は述懐した。件の殺人鬼は主人と定めた相手の言うことならなんでも聞くが、そこに何かしらの見返りを求めるらしい。
- 返し風という表現から推察するに、それは不幸の類だと解釈できた。つまるところ下した命に見合った器を示さねばならず、であればなるほど、確かにリスクが大きすぎる。
- 不死身の存在に死を与えるなんて真似をすれば、どんな凶事が跳ね返ってくるか知れたものではない。
- 「ずっと眠っていろという命令は、賢明だったと思いますよ。ただ、傍目にはあなたが温情をかけたように見えましたから、少し周りが揉めましたけどね。もしかすると、返し風とはあれを指していたのでしょうか」
- 「だといいが、本題はそこじゃないんだナーキッド。俺が気付いているのかと言ったのは、ごたごたの裏で何があったか。君は騒いでる奴らを抑える側に回っていたけど、俺とスィリオスはあのとき……」
- 何事かを言いかけたワルフラーン様の唇に、そっとナーキッド様の指が触れた。
- 「知りません。分かりません。私は何も見ていないし、聞いてません」
- 「…………」
- 「殿方同士の絆は大事になさってください。基本的に私は邪魔をしませんから」
- そう言って、慈しみの表情を浮かべたのだ。
- 「……まったく、敵わないな君には」
- ワルフラーン様は苦笑して、深く椅子の背もたれに身体を預けた。
- 「俺にとってほとんど唯一の秘密なんだが、それすらあしらわれたんじゃ立つ瀬がない。どうやら世間の噂は本当らしい」
- 「あら、いったいどんな噂?」
- 「簡単だよ。俺もスィリオスも、君の尻に敷かれてるっていう話さ」
- 「まあ、失礼ですね。そんなに大きなお尻はしていません」
- 鈴を転がすような星姫の笑みに、勇者の豪快な笑いが重なった。そうしてひとしきり軽口を交えた後、ナーキッド様は軽やかに立ち上がる。
- 「ではお休みなさい、善い夢を――と言いたいところですが、最後に一つだけいいかしらワルフラーン」
- 「何かな。俺に答えられることならいいが」
- こちらも立ち上がったワルフラーン様は、気さくな調子で促した。しかしナーキッド様は即応せず、無言のまま勇者に近づくとその胸に指を当て、上目遣いで問いかけた。
- 「噂と言われて思い出したのですが、あれは本当なのでしょうか。あなたの戒律は勝利を約束する力があると」
- 「…………」
- 「そこにみんなの大団円があるというなら、私の幸せがどういうものだか分かります?」
- 「質問が二つになってるぞ、ナーキッド」
- ゆるく窘めるように頭を振って、ワルフラーン様は言葉を継いだ。
- 「本当の勝利ってやつが何なのか、八年前から考えてる。仮にみんなの期待するような力が俺にあったとしても、それは目先に囚われてちゃ掴めないものだと思うんだ」
- 「……答えになってません。はぐらかしてます?」
- 「かもな。さっきのお返しだよ」
- 拗ねた顔をするナーキッド様に、勇者は朗らかな一笑を与えると踵を返した。
- 「じゃあな、善い夢を」
- ワルフラーン様が述べた言葉の意味を、私もまた考える。この人は賢しく煙に巻いたりしないと分かっていたので、先の返答には彼なりの真実があったはずだ。
- 勝利は目先のものじゃない。つまり大局的な見地が必要だというのはもっともだけど、いったいどこまで広げた話だろう。具体的なスケールは不明だが、直感的に彼の視点は誰よりも先へ行っているような気がする。そして八年前の秘密とは?
- 謎が謎を呼び、思いつめても分からないまま……
- ついに運命の日が訪れた。
- ◇ ◇ ◇
- 実を言うと、ずっと解せなかったことがある。それはお父様が、どうやって聖王領の不意を衝いたのかという一点だ。
- 何せあれだけの巨体。普通に近づいてくればたとえ光速でも数年前から視認できていたに違いなく、察知するだけならさらに早い段階で可能だったはずだろう。
- 仮に瞬間移動を使ったところで、同じく桁外れの質量が問題として浮上する。大きすぎるとショートカットが困難なのは明白で、お得意の無茶な道具を計算に入れても奇襲はさすがに現実感がなさすぎた。
- よって寝耳に水の事態だったという話がどうしても信じられず、事実勇者たちは戦の準備を始めていたから、真相は敗北の言い訳的なものかとも考えた。
- しかし違う。お父様の襲来に前もって気付いていれば、そもそも自領で迎え撃とうなんて選択は有り得ない。あれと戦うなら、宇宙の荒野とも言うべき空白地帯を戦場に選らばなければ駄目なのだ。
- 当時、ウォフ・マナフをはじめとする多くの星霊が危機を予感していたのは確かなこと。だけど第一位魔王クワルナフの接近を読んでいた者は皆無であり、編み上げた迎撃網は第三位魔王バフラヴァーンを想定したものだった。
- それを失策とは言い切れない。たとえこのときこの場に私がいても、同じように考えていたはずで……
- やはり同じく、魂を砕かれたに違いなかった。
- 『ナダレ、ナダレ……そうか、今度はこれを崩せと言うか』
- 天のすべてを覆い尽す超弩級の魔眼は、何の前触れもなくまさにいきなり現れた。
- ナダレ……お父様は胡乱げにそう呟くと、単体で太陽ほどもある瞳を無数に生じさせて瞬かせる。ならばこの状況は、第二位魔王が起こした業わざだというのだろうか。その具体的な意味さえ解けぬまま、破局を告げる世界の震えが崩壊の哄笑となって鳴り響き……
- 『いいだろう。だが後は好きにやらせてもらう』
- そして惨劇が始まった。
- 絶滅星団は五〇を超える恒星級の分身体と、それら全部を足したものより巨大な主星によって成る魔軍だ。ゆえに当たり前の話として、本拠にこれほどの接近を許せば天変地異が発生する。
- 彼がそこにいるだけで、まず星の重力が破壊された。地軸は意味を無くし、自転は狂乱の舞を踊り、大地も大気も粉々に砕かれていく。
- 本来なら、秒も保たずに聖王領は塵と化していただろう。その破滅を地、殻、が、剥、が、れ、る、程、度、に留めたのは、他ならぬナーキッド様のお力だった。彼女の使役する星霊たちが、総動員で民と星を守護している。
- 逆に言うと、それが限界でもあった。初撃とも言えぬファーストコンタクト、出会い頭にお父様と睨みあったというだけで、最高戦力の一つを封じられたと言っていい。
- だが、にも拘わらずすべての戦士ヤザタが退かなかった。残ったわずかな加護を頼りに、空の極超魔星へ挑む様は勇敢なんて言葉じゃ表せない。胸が震えるほどに尊く、雄々しく、どこまでも正しく輝いている。
- 彼らは奇跡を信じていた。必ず勝つのだと誓っていた。我々の世代よりずっと優れた手練れぞろいである点も、そんな達人が一〇〇万以上もいた点も、みんな事実で間違いない。
- これで勝てなければおかしいのだ。負けなどあってはならないのだ。なのに悉くが無に帰していく。
- どんな剣も、信念も、夢も誇りも希望も愛も――まったく一切合切通用しない。どころか、残らず絶滅の星に吸収され、片端から喰われていく。
- まるでそんなものは無価値だとでも言うかのように。
- なんという理不尽か。こんな出鱈目、認められるわけがないだろう!
- 『おまえたちは、いったい何を言っている』
- 心底不可解だという声で、破滅工房クワルナフは茫洋と独りごちた。
- 『なぜ私に勝てると思うのだ。何を根拠にそう信じるのだ。みんながいるとおまえたちは謳いあげるが、その単位と基準がこちらは皆目分からない。具体性に欠けているぞ明確に示せ。数は幾らだ。重さはどれほど。範囲は? 密度は? 力の深度は? 教えてくれよ。奇妙すぎて恐ろしすぎて、私は気になって仕方がない』
- おまえたちは何なのだと。不明だから知りたいのだと、忌まわしき光輪が問いかける。
- 『なあ、奇跡とはどういうものだ』
- 「見せてやるよ」
- 瞬間、闇を切り裂く黄金の光が迸った。
- 「問いには俺が答えてやる。代わりにこいつらを見逃せ、クワルナフ」
- 放たれた閃光の斬撃は、ワルフラーン様によるものだった。彼は地に立ったまま、遥か天空の魔王に流星もかくやという一太刀を叩き込んだのだ。
- これまで誰が何をやっても通じなかった戦況に、初めて変化が訪れる。勇者の剣を受けた絶滅星団が、比喩ではなく物理的に後退していた。
- それはわずか、ほんの些細なものだったけど、希望を再び燃え立たせるには充分すぎる偉業に違いない。事実当の魔王自身が、ここでワルフラーン様を脅威と認めた。
- 『痛い、痛い……久方ぶりだこの感覚。やはり快いものではないと再認したぞ。危険は解明して超えねばならん』
- 「――スィリオス!」
- 異次元の計算機がごとき魔王の思考が成されている隙を衝き、ワルフラーン様が怒声を放った。
- 「聞いた通りだ、おまえたちは退け!」
- 「馬鹿なッ、ふざけるなよそんな真似が……!」
- 「ごちゃごちゃ言うな、後は頼んだぞナーキッド」
- 「……ッ」
- 有無を言わせぬ覇気をぶつけて、勇者は仲間たちを置いていく。そこから先は、彼の凄絶な孤剣が展開された。
- 『解せん、矛盾だ。みんなが大事と言いながら、おまえは部品を切り捨てる。総体が減れば弱化するのが道理であり、自滅の選択としか言いようがないだろう。勝利と生存を優先するなら、端的に愚劣。悪手』
- 「おまえは俺が諦めてるように見えるのか?」
- 『そうは思えぬから問うている』
- 感情論を無視して言えば、正しいのはお父様のほうだった。星の崩壊が進むたび、逃げ遅れた民が死に行くたび、刻一刻とワルフラーン様の力が減じていく。
- 今や絶命星団は、聖王領の支配宙域をすべて同時に攻撃していた。銀河一つ分“程度”だとかつて私に言った通り、彼がその気になればそんな単位を瞬く間に平らげてしまう。
- 勇者の源たる善思の結集が散らされた。祈りが千々に乱れていき、さらには逆の方向へと凄惨な回転を始めだす。
- 何もかもを無慈悲に踏みしだいていくかのごとく。
- 『色と温度で喩えよう。おまえの“みんな”は当初赤く燃えていたが、今は青く凍てつきだした。これを失望と言うのではないのかね。おまえに希望とやらを見た者たちは裏切られ、おまえに憎悪を抱かんとしている。私は何度も見てきたから断言しよう――“崩れ”が起きるぞ。後もう微かな傾きで、秤の左右が意味を逆転するに違いない。そしておまえは“みんな”に奪われ、無価値な結末を迎えるのだ。これは計算上の必然と言える』
- だというのになぜと、破滅工房は静かながらも狂おしく勇者に質した。
- 『おまえの中には依然揺るがぬ何かがある。数式げんじつは私の正しさを証明しているにも拘わらず、定かならぬ曖昧げんそうが未だ実存する理屈は何だ。斯様な不条理こそ奇跡であると言うのなら、その秘密を私は知りたい。知らずにおれん。知った上で喰らうべきだと考える』
- 鳴動する巨星の圧に、ワルフラーン様は呆れたような苦笑を返した。
- 「……驚いた。おまえもこいつの大事さが分かるのかよ」
- 気軽に、まるで見知らぬ街を歩いていたら、ばったり知人と会ったみたいに。
- ある種の喜びさえ滲ませながら、彼は奇跡の秘密を語り始めた。
- 「変わらないものなんて、この世にない。だからこそ俺たちは、変わっちゃいけないものを見つけなければいけないんだよ。
- おまえもそいつを持ってたんだろう、クワルナフ。忘れたのか? 探してるのか? 俺は教えてもらったぞ」
- 『何を、言っている』
- 困惑、あるいは恐怖に震えるお父様をそれきり無視し、ワルフラーン様は祈るような表情を浮かべると……
- 「“彼女”にな」
- “私”に、そっと口づけをしたのだ。
- 「――――ッ!?」
- 待て、何だこれは。どういうことだ。意味がまったく分からない。
- 私はずっと勇者の視点に同調していたはずであり、そもそもこの時代には生まれてすらいなかった存在だろう。
- なのになぜ、今ここに自分自身を感じるのだ。ワルフラーン様が私を見て、微笑むのだ。
- もしや、最初から決定的な勘違いをしていたのかもしれない。私が同調していた相手は勇者と違う人物で、この夢そのものが誰かの記憶なんかじゃなく……
- 「君に会えてよかった。いつかきっと、本当の勝利を掴もう。■■」
- 何かを思い出しかけた瞬間、一気に視点が宙へ飛んだ。
- 「おかしいです、民をこれ以上拾えない。まだ多くが残っているはずなのに……!」
- 私は俯瞰の視界から、ウォフ・マナフの背にあるナーキッド様たちを見下ろしていた。
- そこにいる者はほんの数千人程度だけ。脱出の先導役を勇者から頼まれた彼女たちだが、この人数は確かに成果として少なすぎる。
- 「……クワルナフの妨害か。ぎりぎりまで耐えるぞナーキッド、必ずワルフラーンは戻ってくる!」
- 「はいお兄様、分かっています!」
- 破滅が吹き荒れる終わりの空に、ご兄妹は力を合わせて留まり続けていた。見れば気絶している幼いアルマ、傲然と立ち尽くすマグサリオンの姿もある。
- ここにいる誰もが、未だ変わらず勇者の生還を信じていた。一刻を争う状況ながら、早く逃げようと騒ぐ者は一人としていない。
- だからこそ、だったのだろう。
- 「ワルフラーンを探すぞ。たとえ共に戦えずとも、我らの心は常に一つだ。奴の勇姿から目を逸らしてはならん!」
- その言葉にナーキッド様は強く頷き、残ったすべての民も二つ返事で同意した。みんなのために強大な敵と戦い続ける勇者の姿を、目に焼き付けて忘れないこと。それが自分たちの務めであり戦いだと、微塵の疑いもなく誓っている。
- よって視覚共有が即座に成され、ウォフ・マナフの視点を通してワルフラーン様の現状を知ろうとしていた。
- けれど、ああ、駄目だやめて――私、は、こ、の、先、を、知、っ、て、い、る、。
- 見てはいけない。知れば永劫に呪われる。みんなの勇者がああなってしまうなど、誰であろうと耐えられるわけがないのだから。
- 「捉えました、繋げます!」
- しかしすでに起きた歴史を変えられるはずもなく、その瞬間は彼らにとって、壊滅的な暴力となり訪れた。
- 「ひっ――」
- 微かに息を詰まらせたナーキッド様が、次いで魂切る絶叫を放った。
- 凝然と目を見開いて硬直するスィリオス様は、自らの世界が崩れる音を聞いている。
- 民は片端から発狂した。自分で自分の首を絞め、舌を噛み、眼前の現実から逃れようとに命を絶つ者が続出する。
- 破滅工房の脅威に晒されても正気を保ち、善の不滅を信じ続けたもっとも強固な集団が、いま一斉に瓦解したのだ。この日この場に立ち会って、心を壊さなかった者は誰もいない。
- そこに在るもの。
- 在ってはならない真実とは……
- ずたずたに切り刻まれ、磔に架けられた勇者が屍を晒す光景だった。
- 酸鼻を極める私刑の果て、尊厳ごと砕かれて吊るされたのだ。彼が守ろうとした民衆の手によって。
- おまえが悪い。おまえのせいだ。どうして勝てない。勇者のくせに。
- おまえがいるからこうなったのだ。おまえが死ねば自分たちは助かるに違いないと……
- その暴走した恥を知らぬ醜い思考は、到底義者アシャワンのものじゃ有り得ない。彼らがウォフ・マナフの背に乗れなかったのは、彼ら自身が悪しき者へと堕ちていたがゆえである。
- 「転墜、だと……?」
- スィリオス様の呟きが、木っ端微塵と砕け散る栄光の終わりを告げていた。
- これほど大規模かつ、容赦なく襲い来る反転現象。昨日まで常識だと思っていたものが、いとも簡単に裏返ってしまう大前提の覆し。
- 善とは、悪とは、なんだったのか。いったいこの世界はどうなっているのだ。
- 呆然と立ちすくむスィリオス様の思考が、私の中に怒涛となり流れ込む。彼は今、真実を知って別の何かに変じようとしていた。
- そして、ここにもう一人。
- 「兄者……」
- 少年はすべてを目に焼き付けた。余人には理解できない確信と、自分もまた間違ってしまったという後悔の念が、叫びとなって現れる。
- 「ちくしょう――兄者、兄者!」
- ああ、殺せなかったと慙愧に震えて。その後も彼は、ずっとずっと……
- たとえ声には出さずとも、叫び続けることになると知っていた。
- 拭えない、煮えたぎる憤怒と共に。呪詛と怨念が渦巻く狂気の中で。
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