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- 第八章『空に消える』後編
- 6
- 「おまえの笑った顔を見せてくれ。それさえあれば、俺は誰よりも強くなれる」
- その言葉は何度となく聞かされたもの。そして、ずっと理解できなかった価値観もの。
- 正確には、分かりたくなかったのだ。自分が首を縦に振り、相手の願いを聞き届けたら終わってしまう。“正しき在り方”とやらが完成し、以降は誰にも止められなくなると思ったのだ。
- 「断る。楽しくもないのに笑えるかよ」
- だから少年は、ひたすらに異を唱える。
- 善の象徴、みんなの勇者、希望、伝説などと呼ばれている男に。
- 血を分けた実の兄に。
- おまえを認めない。おまえは間違っていると、ただ一人で反駁し続けた。
- 自分だけは否定しなければならないと、恐怖にも似た感情を抱きながら吐き捨てる。
- 「俺が笑わなければ負けるのか? そんなに弱いのか、あんたは」
- 「そうだな。俺は別に大したもんじゃない。おまえたちがいるからこそ立っていられる」
- 「おまえたち?」
- 「おまえも、スィリオスも、ナーキッドも、そしてこいつらも含めた全員だ。みんな俺の宝だし、宝は多いほうがいい。大事なものだから守って、守られて……一人じゃできないことをできるようになっていくのが、強さなんだと思ってる」
- 膝を落とし、少年に目線を合わせて勇者は優しく微笑んだ。気さくで武張ったところは皆無と言える物腰だが、揺るぎなく紡がれた言葉は真摯そのもの。自らの誇りを信じ、また“弟”の行く末を案じているのが見て取れる。
- 「俺はおまえが大事だし、分かりたいんだよ」
- 「あんたの力になるからか?」
- 「おまえの力にもなれるからだ。みんなのためにはみんなが必要――基本だろ?」
- 曇りなく言い切った兄の顔は精悍として前だけ見つめ、数々の不可能を可能にしてきた奇跡の担い手に相応しい。
- よって彼は正しいのだろう。きっと何一つ、間違った理屈を言っていない。
- 勇者はあまねく善思の代表――喩えるなら、義者アシャワンという種族を一個の生物だと考えればいい。彼らはミクロ的に見れば各々違う個人だが、マクロ的には右倣えの群体だ。そのため同じ方向に統一された、全体の本能とも言うべき意志がある。
- 善き行いを成し、善き結末へ辿り着きたい。すなわち勝利して、生き残りたい。
- そうした願いの器となって、万民の夢を叶えるのが勇者と呼ばれる存在だ。
- 曰く大事なものを守るため、個では脆弱な義者アシャワンが無意識的に結集させる祈りの具現。彼らが求めるのは、自分たちの想いを正しく代行してくれる理想の守護者に他ならない。魔王のような超絶個体と戦う以上、それは極めて合理的な必然システムだと表現できる。
- 結果、これまで何人の勇者が生まれたのかは不明だが、今代は紛れもなく本物だった。果てなき争いに終止符を打つ伝説がここにあると、湧き上がる希望がさらに奇跡を加速させ、皆が一丸となり進む様は確かに尊く輝いている。
- しかし、少年にはそんな兄が耐えられなかった。
- 「気持ち悪い。みんなって、誰だよ」
- 万人に認められ、讃えられる在り方が空虚なものに見えてしまう。そこにグロテスクなほど、拭いがたい嫌悪と危機感を覚えるのだ。
- 「自分のために戦えよ。どうして兄者は、戦う理由を外に預ける」
- 問いは心からの疑問だった。二人の間には、決して埋められぬ認識の違いが存在する。
- 前提として、兄は不本意な行いを強いられているわけではない。彼もまた“みんな”の一人である以上、種の意志を受信したところで人格が変化するはずもなかったし、むしろ器に最適な強度と性質を持っていたから、勇者に選ばれたと見るべきだろう。
- ゆえに言われるまでもなく、兄は自分の意思で自分のために戦っている。ただ全は一で、一は全という立場を体現しており、剣を執る理由に内も外もないだけだ。
- 少年はその概念を分かろうとしておらず、頭から拒絶するので兄弟のすれ違いが生まれていたが……弟の指摘が的を外したものかといえば、複雑なことにまた違う。
- 世の諸々に馴染めぬ少年は、異端の視点を持つからこそ独自の価値観を持っていた。決して根拠もなく、感情に任せて駄々をこねているわけではない。
- 「兄者は他人に自分の心臓を握らせている。そんなのは、弱い奴のすることだ」
- つまり、強さに対する捉え方の相違。兄は同胞たちの想いを背負うことで強く在れると信じていたが、弟はそれを惰弱だとこき下ろす。
- すべての義者アシャワンに理想を託され、その期待に応えているからどうしたという。善の守護者として? 代表として? 世界に選ばれたから何だというのだ。
- むしろそこまでの器がありながら、体よく使われている意味が分からない。みんなの願いとあれば何処であろうと馳せ参じ、破滅を防ぐために獅子奮迅するのが務めだとでも?
- 馬鹿馬鹿しい。結局のところ、奴隷ではないのかと。
- 「兄者の剣は、他の奴らの気分次第で強さも向きも変わるんだろう。いいや、それだけじゃなく兄者自身が……」
- 勇者とはこうあってほしい。こうあるべきだ。こうに違いないという巨大なうねりに存在が左右される。理想の代行と言えば聞こえはいいが、少年には無様な人形劇としか思えなかった。
- 旨くいっている間はいいだろう。実際に勇者は結集された祈りの力で三柱もの魔王を倒し、まさに天すら掴もうという伝説の中にある。
- しかし、もしも何かの拍子にベクトルが狂ったら? 自己の剣しんぞうを他者に握らせているこの兄は、共に崩れてしまうのではあるまいか。
- そう、もしも。その可能性をどう捉えるかが肝になる。
- あくまで真我アヴェスターを基準に考えるなら、少年の不安は杞憂とも言えぬ戯言だ。群体である義者アシャワンが種の意志を迷走させるなど有り得ない話で、そんな思考を巡らすことさえ愚かしい。
- だが異端の少年は、彼らのそうした面も含めて思うのだ。兄と兄を取り巻く者たちは、まるで砂上の楼閣だと。
- ひたすらに脆く、どこまでも不安定。ほんの些細な予想外で瓦解するような危うさがあり、強固さとは程遠い。
- ああ、それはこの世界すべてに感じる違和で、確かなものを一つとして見つけられない。
- だから、少年が求めていたのは不変なるもの――
- 「いつか兄者は身を滅ぼすぞ。あんたの生き方は、俺から見ると負け犬だ」
- 永遠に変わらない在り方。どれだけ時が流れても、たとえ宇宙が滅びても、断固として揺るがぬまま存在する絶対性。彼にとっての“正義”とは、つまりそういうものだった。
- 何もかもが定かでないから、定かな唯一になりたいと願っただけ。少年が他の有象無象みんなを一顧だにせず、曖昧な世界に背を向けたのは不変になろうとしていた証である。
- なのにそんな彼の決意は、兄を前にすると無残なほど揺らいでしまう。つい苛立って文句を言い、挙句の果てには忠告めいた真似すらしてしまうのはなぜなのか。
- 「俺を心配してくれるんだな。嬉しいぞマグサリオン!」
- 「なッ――」
- 荒く、熱く、そして優しく抱きしめられた兄の腕の中で暴れながら、少年は答えを見出すことができなかった。
- 自分の強度が、まだ兄の器に遠く及んでいないのは自覚している。無視するだけでは取り込まれると分かっており、恐怖に駆られて強い拒絶をぶつけていたと認めよう。
- だが、本当にそれだけなのか?
- 俺はいったい、兄者をどうしたいのだろう。
- 案じているのか、憎んでいるのか。生きてほしいのか、死んでほしいのか。
- 「大丈夫だ、俺は負けん。今おまえにもらった言葉だけで、どんな奴でもぶっ倒せる!」
- 「――違う、だからッ、都合よく解釈するな馬鹿野郎!」
- 都合よく、そう、自分が望む理想の勇者であってほしいと願っているのか。
- だったら己も、他の奴らとまったく同じだ。下衆な人形使いの一人にすぎない。
- そんなことがあって堪るかと言い切りたくて、だけど自信が持てなくて。
- 何度となく繰り返した噛み合わない遣り取り。思い返しても、兄とはほぼ同じ会話しかしていなかった。毎度毎度、何を言っても良いようにしか受け取らないから、次こそは、今度こそはと。
- 出陣する勇者の背を遠く見つめ、早く帰ってこいと意欲を燃やすばかりだった。
- この馬鹿で弱くておめでたい男に、決定的な真実を突き付けてやると息巻いていた。
- それがどんなものなのか、待っている間は探し続けて。
- 負け犬めと罵倒しながら、兄の帰還を疑うことが一度としてなかった事実。
- 「なんて、馬鹿な」
- 今になって痛感する。
- このとき自分にとっての不変キセキとは、まさしくあの兄だったのだと。
- ゆえにもう、ど、う、し、た、っ、て、取、り、返、し、が、つ、か、な、い、。
- ◇ ◇ ◇
- 「あああアアぁぁァァッ―――!」
- 「マグサリオン!」
- 鳴動する第五位魔王に呼応するかのごとく、小さな身体を掻き抱いて少年は絶叫した。私は慌てて彼に飛びつき、その細い肩を抱きとめる。
- 「しっかりしてください。落ち着いて、大丈夫ですから」
- 言いつつも、私が触れた少年の肌は火のように熱かった。明らかに、何か尋常でないことが起こっている。
- 「これは、もしや容量の問題……?」
- 聳え立つ枝垂桜の中で、まさに決着がつこうとしているに違いなかった。追い詰められたマシュヤーナが、先の試し打ちとは桁の違う域で奥の手を使っている。
- いくらお父様の作品でも、天井知らずに無茶をやれるわけではないのだろう。一度に展開できる力の規模は決まっており、それを超えたら強度の低いものから消えていく。
- つまりマグサリオンの異常はそういう理屈で、あるいは魔道具そのものが負荷に耐えられず、壊れだしているのかもしれない。
- だったら今、この状況で自分にできることは何がある? 答えを探す思考の途中で、私は一つの見落としに気付いてしまった。
- 「馬鹿な、ではズルワーン……」
- 愕然と、我ながら信じられない気持ちで星体ガヨーマルトの威容を仰ぎ見た。脳裏に過るのは、あの奇妙で儚い魔王の記憶。
- 夢の内容が真実なら、ズルワーンもまたマシュヤグの創造物だというのは分かっていた。にも拘わらず、どうして私はそこに繋がる事象を考えられなかったのだろう。この戦いで、消えてしまうリスクを抱えているのは彼も同じではないか。
- もはや迂闊の一言では済ませられぬほど、自分の過誤が理解不能で度し難い。こんな失態、いくらなんでも不条理にさえ感じるレベルだ。
- インセストもアーちゃんも、何ら躊躇なくマシュヤグを壊す方向に作戦の舵を切っていた。つまり彼女たちはズルワーンの出生を把握していなかったと見るのが妥当で、そこに異を唱えられる者は私だけだったのに!
- マグサリオンのことに気を取られていたというのは、何の言い訳にもならない。むしろ彼を守るためには、この問題を提起する必要が絶対的にあったのだ。
- マシュヤグの破壊を目指すのはリスクが大きすぎる。下手をすればズルワーンも消えるぞと、私が事前に言っていたら少なくともインセストは迷ったはずだ。それがたとえ出口の見えぬ迷路であり、作戦の進行を多大に遅らせるものだとしても、こんな見切り発車よりはよっぽどいい。
- 「がッ、うぅ……俺は、なぜ……!」
- 「マグサリオン、気を確かに。聞こえていますか? 応えてください!」
- 私はこの子を救いたいから。過去に呪われている凶戦士の慙愧を、よりよい形で昇華させたいと願うから。
- 私にとって最優先の奇跡は、真の勇者となったマグサリオンと完全無欠の大団円に至る未来。
- そのために正しく進まねばならぬ道筋を、どうして見誤ったのか分からなくて自責する。
- そもそも、いや待て。私は何を言っているのだ。
- ズ、ル、ワ、ー、ン、と、は、、い、っ、た、い、誰、?
- 「――俺に触れるなあァッ!」
- 空白的に呆けた瞬間、私は頬に凄まじい衝撃を受けて弾かれた。マグサリオンに殴られたのだと一拍後に理解して、だが今のは子供の腕力じゃ有り得ない。
- 鈍く残る痛みに顔をしかめつつ目を開けると、そこに私は信じがたいものを見る。
- 「貴様、誰だ。ここは何処だ……」
- マグサリオンの右腕だけが、歪な成長を遂げていた。いいやこの場合、戻ったと言うべきだろう。
- 禍々しい甲殻類のように軋みながら、私を指さす黒い右腕。魔性の鎧に覆われたそこだけが、大人の形を取り戻している。
- 「私を、忘れているんですか……?」
- 違う、まだ知らないのだ。肉体の年齢が部分的に戻ったことで、記憶もそれに引っ張られている。腕の一本だけというバランスから鑑みて、おそらく今のマグサリオンは先ほどまでより四・五年進んだ時間の中。
- 旧聖王領をお父様に滅ぼされ、彼が戦士ヤザタとなったばかりの頃だ。つまりワルフラーン様の結末は既知のはずで、なのに絞り出す言葉は現実を否定する。
- 「兄者に会わせろ……俺はあいつを、あいつだけは絶対に!」
- 「待ってください、あなたは何を……」
- 「あいつは帰ってくると言ったんだ!」
- 奈落の底から噴き上げるがごとき、黒く灼熱した叫びが私を打つ。
- 「兄者は帰る。必ず戻る。だから俺は、今度こそ失敗せずにあいつを、答えを……」
- 憎悪と怨嗟に塗れながらも、縋るような彼の声に私は胸を締め付けられた。そして同時に理解する。
- 結局のところこの人は、どうしたって勇者の死を認めることができないのだ。
- もう手遅れだとあのとき言った。取り返しがつかないと吐き捨てた。けれど納得していたわけでは全然なく、いつだってマグサリオンは兄上の面影を探し続けている。
- 当然の話だ。そんな簡単に諦めきれる想いなら、人はここまで痛ましいものになったりしない。血に濡れて、呪いを背負い、凶気に憑かれて走るのは二度と返らぬものを追っているから。目指す先には無があるだけで、ゆえに冥府魔道が具現する。
- それはまるで、誰も残らない殺戮の荒野。
- 何も得られぬという無こそがマグサリオンの真実ならば、彼の世界はそうした色に染まるのみだ。私はその無情な構図が、たとえようもなく許せなくて……
- 「あなたがワルフラーン様に会うことは、今後も二度とありません。勇者はとうに死んだのですから」
- 自分でも驚くほど静かに、だけどはっきりした抑揚で呟いていた。凝然と固まる少年へ、私は手を伸ばしつつ近づいて語りかける。
- 「どれだけ悔いても、願っても、起きてしまった事実は変えられないんですよ、マグサリオン。いいえ、変えてはいけないのだと思います。だってそれは、すでに遠く過ぎ去った思い出だから」
- 「――黙れェ!」
- 再度の拳が私の顔に叩き込まれた。さっきよりもなお強く、首から上が吹き飛んだかと思うほどの衝撃だったが、全身に力を込めて受け止める。
- 断じて、意地でも、ここを一歩たりとも引く気はない。
- 「兄者が死んだ? あいつが? 馬鹿な――そんなことがあって堪るか! きっとまた帰ってくるし、こないなら俺のほうから探しに行く」
- 「何処へ?」
- 「何処だろうとだ! このふざけた世界を根こそぎにしてでも、奴を再び引きずり出す。そうしなければ、俺は――」
- 何のために生きているのだと、流れ込んでくる馬鹿げた思考を言葉にさせるわけにはいかなかった。
- 「甘ったれないでください!」
- 踏み込み、鋭く少年の頬を張り飛ばした。それに彼が反応するよりも早く、私はマグサリオンを力いっぱい抱きしめる。
- 「……みんな耐えて、泣きそうになる気持ちを食いしばって、慙愧を抱えながら立ってるんです。大事な人を喪ったのは、あなただけじゃありません」
- 二〇年前の悲劇に直面し、世界のすべてを砕かれたのはアルマだって同様だ。私にしても、これまで救えなかった人たちに対する後悔や罪悪感は数えきれず持っている。
- だからこそ思うのだ。
- 死んだ者は生き返らず、二度と触れることはできなくても、彼らを無にしてしまうかは生き残った我々次第。
- 「どうしようもなくなんか、ないんです。みんなの勇者に会いたいなら、みんなの想いを拾い集めて。ちゃんと向き合い、胸に抱いて、ワルフラーン様が遺した欠片を希望に変えてくださいよ」
- きっとそれこそが、慙愧に処する唯一の道だ。みんなの中にある平和への祈りを組み上げていけば、勇者の輪郭ができあがるはずだと私は信じる。
- 「あなたのようなやり方では、ワルフラーン様を本当に消し去ってしまう。どんなに苦しく、つらくても、目を逸らさずに喪失の形を確かめてほしいんです。中身は失せたままだと言うなら、あなたがそこに収まればいい。勇者の座に、お兄様以上の伝説に」
- 「――――」
- 小さく息を呑むマグサリオンの気配。次いで、彼は譫言のように呟いた。
- 「俺が、兄者を、超える……?」
- 「どのみちそのつもりだったんでしょう? 嫌いだって、言ってたじゃないですか」
- ワルフラーン様の影がマグサリオンを苦しめるなら、丸ごと呑み込んで超えればいい。高すぎる要求なのは承知の上だが、決して無茶とは思わない。
- だって彼は、この世の誰より勇者を想っているのだから。
- 「俺は……兄者をどうしたかったのか、ずっと分からなかったんだ。会うたびに答えを探そうとして、だけどいつも噛み合わなくて……次がある、今度こそと、先送りにし続けたのは、あいつが必ず帰ってくると当たり前に信じていたから」
- まるで不変のものみたいにと、マグサリオンは細い自嘲の息を漏らした。血が出るほどに固く拳を握りしめ、封じていた心情を吐露していく。
- 子供の彼と大人の彼が、ここに混ざり合おうとしているのを私は感じた。
- 「気付いたときには、もう遅かった。兄者は弱く、不安定で、思った通り呆気ない最期だったよ。あいつらしい無様で、無意味な、見ている“みんな”が狂い死ぬほどの有り様で……俺は、ははは、笑おうとしたのに笑えなかった。俺も愚かで、失敗したから。そのときになって、ようやくあいつをどうしたかったのか気付いたのさ」
- 滑稽だと寂しげに嘯いて、彼は慙愧の核を告げた。
- 「――俺は兄者を■■たい――」
- 刹那、私の全機能が一斉に崩壊しかけた。
- 「――――ッ!?」
- 私という個の上にある、真我セカイの一部としての大我ワタシが、小我ワタシの意思とは無関係にすべての感覚を遮断する。
- これは駄目だ。聞くな、分かるなと、押し寄せてきた少年の感情があまりにも強大すぎて、到底受け止めきれないと絶叫したのだ。
- こんなに凄まじい念がこの世にあるのか。お父様、スィリオス様、インセスト、そして今までのマグサリオン――過去に私が蒐集した如何なる想いも、これに比べれば紙屑どころか塵芥にも劣る。
- 天地が崩壊するような、宇宙を覆い尽してなお止まらぬような、超絶的な質量を持った神威に等しい祈りだった。その発現を間近に見て、私は身動き一つ取れなくなる。
- しかし変わらず訥々と、マグサリオンの独白は続いていた。
- 「つまり、機を逸したんだ。俺がやりたかった本当の願いは手遅れで、後は無様な八つ当たりを繰り返すしかできないと、なぜ決めつけていたんだろうな。俺は分かっていたはずなのに、だから顔を隠したのに。そうすることで、兄者の名残をわずかでも……」
- 「待っ、て……あなたはいったい、マグサリオン」
- 何かをどこかで、致命的に読み違えた。真相は不明ながらもその点だけは確信できて、どうにかしなければと私は切れ切れに言葉を継ぐ。だけどそんなこちらを制するように、マグサリオンの右手が頭に触れた。
- 優しく、柔らかく、髪の一本一本を指で慰撫していく触りかたには、紛れもなく感謝と労わりの念が込められている。にも拘わらずこのとき私が味わったのは、首筋を刃でなぞられるがごとき戦慄だった。
- それはまるで、愛という名の殺意。善も悪も超越した、不変なる絶対の無慙。
- 「礼、を、言、う、ぞ、人、形、。おまえの言う通り、過去に縛られたところで意味などなかった。兄者の鼓動を感じるため、俺はあいつが遺した欠片を追って集めよう。その果てに、きっと願いは叶えられる。“練習”に付き合え、はははははは―――!」
- 膨れ上がる黒い炎と哄笑が、爆発する凶気の奔流となって轟いた。
- すべてを空に葬ろうと――猛り狂う彼の意識は、もはやマシュヤグなど眼中にすら入れていない。
- すなわち、第五位魔王の切り札が意味をなくした事実に他ならず。
- はたしてこれを勝利と呼んでいいものか、私には分からなかった。
- 7
- インセストはしばらく前から目覚めていた。しかし動こうとはしなかった。
- そこに葛藤を感じなかったわけではもちろんない。むしろ身を切り刻まれるほどに迷って、迷って、その末に待機の道を選択したのだ。
- 自分の望みは自分の手で掴むべきだと考えている。よって他力本願は言語道断。今も彼女は微塵もぶれず己の過去ミライを見据えたまま、決着の瞬間に臨もうとしていた。
- そこに矛盾は一つとしてなく――否、正しくは、矛盾を超えることこそ彼女の戦い。
- 「ああ、頑張れ私。もうすぐ君は私になれる」
- 呟き、狂おしいほどの甘酸っぱさを噛みしめた。
- 意地を張り通した結果として、意地の根本を消してやる。彼と再会した暁は、目を見て堂々と向き合おう。そして私の気持ちを伝えよう。
- そのためだけに、世界の法を覆す覚悟でここに来たのだ。
- 「もうすぐ会えるよ、ズルワーン。生まれる前からずっとずっと、私は君を愛してる」
- そうとも、この祈りこそが私のすべて。私が願う奇跡のカタチ
- 邪魔をするなら、たとえ神であろうと許すものかと――
- かつて第五位魔王と呼ばれた女は、薬指の疼きを縁よすがにして狂った母親アヴェスターと対峙する。
- 勝利を信じ、必ず最善の天則を体現しようと誓っていたのだ。
- 「マシュヤーナ!」
- 幽玄の社を切り裂いて、男の叫びが木霊する。発動したと思われた魔道具の輝きは、その一声で霞のごとく掻き消えた。後にはただ、番つがいの二人が寄り添うように絡み合うだけ。
- 「……やめろズルワーン、私を見るな」
- 「面倒くせえ女だな。見ろっつったり、見るなっつったり」
- 抱き留めたマシュヤーナの身体は、腐敗した古木さながらに崩れ始めていた。玲瓏とした肌に虫食いじみた穴がぼこぼこと生じ、瞬く間に不浄の領域を広げいく。
- 死面でありながら雅さを保っていた彼女の美貌は、今や朽ちていく亀裂だらけの老婆だった。数千年もの歳月が一気に襲い掛かってきたかのごとく、根本からマシュヤーナの存在を侵して、壊して、もう止められない。
- おぞましくさえあるその変貌に、しかしズルワーンは動じなかった。代わりにうんざりした顔で鼻を鳴らし、俗っぽい溜息を盛大にこぼして愚痴りだす。
- 「いきなりワケの分からんバクチをしてんじゃねえよ。空気読め、この馬鹿」
- マシュヤーナの身に何が起きたのか、事の真相は曖昧だった。複製したズルワーンの戒律が彼女自身を崩したのか。もしくはマシュヤグの限界を超えた反動か。それとも他の何かなのか……幾つかのケースは考えられるが、そこから特定することはできない。
- そして二人には、特定する気がまったくなかった。もとより勝敗すら拘っていなかった両者にとって、理屈などはどうでもいい。
- あるのは目の前に展開する今だけで、マシュヤーナの賭けが裏目に出たという事実のみだ。結果として、彼女はあと数分もつまい。
- 「お互い様の話だろうが、オレにとっちゃあ喧嘩は単なる過程なんだよ。じゃじゃ馬を馴らした後にしようと思ってたら先走りやがって。こっちの用が済む前に、一人で気持ちよくなろうとすんなよ。わりとマジに焦ったぜ」
- 「何を、言ってる……?」
- 髪で顔を隠すようにマシュヤーナは俯きながらも、上目遣いでズルワーンを見た。するとそこには照れているのか怒っているのか、奇妙にバツ悪げな兄おとうとの顔がある。
- さらに拗ねた子供みたいな声で、彼は文句とも詫びともつかないことを言いだすのだ。
- 「オレはあのとき、おまえを無視したわけじゃねえんだよ。ただ、ちょっと考え事をしててだな……そりゃ滑ったのは認めるけど、そっちだって悪いんだぜ。オレの減らず口ぐらい、いい加減に慣れろって話だ」
- 「……おまえは馬鹿か?」
- あまりにふざけた台詞と態度に、思わずマシュヤーナは言い返していた。
- 「考え事だと? 頭が悪いくせに慣れない真似をするからそうなる。いつもおまえのやることは突飛すぎて、その都度こちらは大迷惑だ」
- 「てめ、ついさっき無茶やらかした奴が、いったいどの口で言いやがる。おまえはそういう、ちょっとなんかあるたびに暴走するとこ改めろや。出来の悪ぃ妹持って、オレは苦労してんだよ」
- 「こっちの台詞だ。つくづくおまえはろくでもないぞ、この愚弟!」
- 「あぁん? だから俺が兄貴だっつってんだろうが!」
- 応酬される言葉はまるで、本当に他愛のない兄姉きょうだい同士のいがみ合い。ゆえによくある日常だとズルワーンの剽げた顔が言っており、それがあまりに不遜すぎたから逆にマシュヤーナは可笑しくなった。
- この戦いに、自分はすべてを懸けていたのに。命どころか持ち得る何もかもを総動員して、無二の決着へ至ろうと思っていたのに。
- 一世一代の誓いと覚悟を、そんな次元に落とされたのが腹立たしくて堪らない。
- にも拘わらず、心に晴れやかな風が吹くのはどういう理不尽なのだろう。
- 分からなくて、分かりたいけど恐ろしくて、嬉しくて。
- ああもしや、これこそ自分が真に求めたシアワセなのかと考えたとき、ズルワーンの腕が崩れかけのマシュヤーナをさらに強く抱き寄せた。
- 熱い彼の体温が、今の彼女にはきつすぎる。心臓の音がうるさすぎる。
- 「放せ、触るな……」
- 「ごちゃごちゃ言うなよ。おまえにしたかった話はこっからだ」
- なのに離れるどころか、目を逸らすことさえ許してくれない。天下で誰よりも自分を見てくる男の瞳に、女は成す術もなく吸い寄せられた。
- そしてごく当たり前のように、彼はまたしても破天荒な馬鹿を言うのだ。
- 「死ぬんじゃねえマシュヤーナ。助けてやるから、オレと来い」
- 「――――」
- 激しく燃える意思の光に照らされて、魂まで溶かされそうな心地を味わう。
- 「無茶を、言うな」
- 「無茶じゃねえ」
- 彼と二人なら世界ソラの果てすら飛び越えられると、愛かなしい夢を、どうして今さら。
- 「クソ世界の法則ルールなんざ知ったことかよ。いいか、よく聞けマシュヤーナ。オレがオレになったのは、全部おまえと一緒に生きたいと思ったからだ」
- そんな殺したくなる掟破りを、これ以上聞きたくなかったから全力で抗い、意地になって身を離した。
- 「やめろ、おまえの戯言は……もうたくさんだ」
- 足が崩れ、倒木のようにマシュヤーナの腰が落ちた。駆け寄ろうとしたズルワーンを手で振り払い、憎々しげに言葉を継ぐ。
- 「一三年も、逃げ回って……隠れ続けてきた奴が調子のいい駄法螺を吐くな。その口、縫い付けるぞ、いかさま師が……!」
- 「……それを言われるとつれえんだが、オレにも思うところはあってだな」
- 「弁解するな、聞きたくない!」
- 分かっている。彼のことなら誰よりも分かっているから、これ以上は黙ってほしいと切にマシュヤーナは祈り続けた。
- 一三年前の兄姉きょうだいは、ひたすら狭い世界に生きていた。お互いしか見ておらず、この星ソラ以外は何も知らない幼児も同然だったと言っていい。
- だがあの日を境にマシュヤーナは死者となり、魔王となって、世界の非情と無辺を知った。怒りを知り、悔いを知り、だからこそ分かたれた半身への想いを戒律チカイに変えて、より確かな憎悪アイを積み上げてこれたのだ。
- そこはズルワーンもきっと同じ。無知な子供だった彼らには、転生から再会までに時間を挿む必要があったのだろう。
- 世界の法に従わぬと誓ったズルワーン。真我アヴェスターを唾棄しているズルワーン。その信念を確固としたものにするため、彼は見聞を広めねばならなかった。やはりこの世はおかしいと、表面上は軽薄怠惰に振る舞いながらも、牙を研ぎ続けてきたに違いない。
- すべては今日という日に臨み、マシュヤーナと本音で対峙する瞬間だけを見据えて。
- 「私と生きるか……ふふふ、まったく、お笑い草だよズルワーン。おまえはいつも、私の意表ばかり衝く。できもしない真似を、恥知らずめ」
- 「うるせえんだよ、できるかどうかの話じゃねえ。オレはやると決めたんだ」
- やりたいことを、やりたいようにしかしないと誓った彼だから。
- いざ始めれば、必ず完遂するのだろうと思われた。そのための力を、一三年かけてズルワーンは積み上げている。
- 「白だの黒だの何だのと、そんなの知ったこっちゃねえんだよ。オレらには頭がある。心がある。何処のどいつが決めたかも分からん真我ルールなんぞに、まんまと踊らされて堪るかよ。なあ、そうだろうがマシュヤーナ」
- 差し伸べた手は雄弁に、法ソラの果てへ飛ぼうと言っていた。
- 「おまえとの痴話きょうだい喧嘩なら勝敗なんかどうでもいいが、クソ世界を潰す戦争には絶対勝つぞ。こいつは勝たなきゃいけねえ戦いなんだ」
- 「……ゆえに私の手を貸せと?」
- 「怖いなら守ってやるよ。お兄ちゃんに任せとけ」
- 「――――くっ」
- 死に覆われた皹ひびだらけの顔で、儚くマシュヤーナは微笑んだ。すでに髪も腐敗し始め、かつての麗しさは見る影もなかったが、まるで無垢な童女を思わせる喜びと安らぎに満ちた笑み。
- 「おまえはやはり、頭が悪いな」
- 薄桃色の花吹雪が、涙の尾を引くようにはらはらと舞い散っていく。このときマシュヤーナは、自分が何を成すべきか過たず悟っていた。
- 「私が意地を張る性分だと忘れている。馬鹿め、詰めが甘いんだよ」
- 共に生き、勝利を掴もうと言ったズルワーンの想いは、紛れもなく愛だった。兄姉としてか男女としてか、分からなかったがそこはもはやどうでもいい。
- 憎悪でも嫌悪でも、忌避でも憐憫でもなく愛だった。
- 愛されたのだ――裏心なく、おまえが欲しいと求められたのだ!
- ならば鏡のマシュヤーナは、定めた理に従って応報せねばならない。同質同量の等しい愛を、この男へ返す必要に迫られている。
- それはとても簡単なこと。戒律ルール通りに動けば一瞬で話は終わり、兄おとうとの胸に抱かれて癒しと幸せを得られるだろう。
- だがそんなものは、この度し難くも誇り高いに男に対する侮辱ではないのか?
- 法に抗い、法を超えて、世界を敵に回しながらも愛してくれた眩しい彼に、法の中から愛し返す不実が許されるのか?
- 駄目だ――なぜなら対、等、で、は、な、い、。
- 自分もまた法を超えて愛さねば、彼の魂に正しい形で報えなくなってしまう。
- たとえ形だけは傍に在れても、法の内と外に断絶された関係など御免だった。
- 意地に懸けて、愛に懸けて、断固同じ目線でありたいと願ったからこそ――
- 「……なるほど。確かに私は、面倒くさい女のようだな」
- あえかに自嘲したマシュヤーナは、崩れていく瞳にありったけの慈愛を込めて、己が信念を口にした。
- 「誘いは断る。私はおまえが嫌いなんだよ、ズルワーン」
- 一三年前の意趣返し。何よりも相手を想い、愛しているがゆえに紡いだ本音うそ。
- 「てめえ、何を――」
- 慌てた顔が愛おしい。振ってやったのが痛快だ。その満足と引き換えに、マシュヤーナは今、禁を破った。
- 自らの意志で破戒を行い、襲い来る真我カミの裁きと向かい合う。
- 「ふざけんな! こんなのおまえ、オレが守ってやるっつっただろうがァッ!」
- 存外と古臭いことに拘る奴だ。今際にそんな可笑しみを覚えながら、マシュヤーナの意識は溶けていく。
- 彼女が最後に感じたのは、薬指から伝わってくる木漏れ日のような温もりだった。
- 8
- 「………ーぃ。……ぉーい、……るっすかー?」
- そうして罰を受けた私は、ふわふわと夢見る心地で何処とも知れぬ空を揺蕩っていた。
- ここが死後の世界になるのだろうか。特に大したものを期待していたわけではなかったが、どうも思ったより情緒に欠けるところらしい。
- 妙に身体の下がもさもさして息苦しいし、微妙に生温かくて気持ち悪い。挙句の果てにさっきから、耳元でぶんぶんと小うるさいのが喚いている。
- 「ねえ、聞いてるっすか? そろそろ目を覚ましてほしいんすけど」
- ああ、本当にうるさいな。大概に鬱陶しくて、振り払ってやろうとしたときに。
- 「いつまで寝てるっすかー!」
- 「ごふぅっ」
- いきなり鳩尾に鋭い衝撃が落ちてきて、思い切り私はむせた。あまりのことに声もなく、目を開けられぬまま悶絶していたら今度は頬をぴしゃぴしゃと叩かれる。
- 「朝っすよー、起きなきゃ駄目っすよー」
- 「……ッ、貴様、いったい、私を誰だと」
- このマシュヤーナに、馬乗りなぞ決めるとは不届き者めが! 激昂した私は、振り落としてやろうと手を振り回したが当たらない。跳ね起きようとしても起きられない。
- 「お、やるっすか? やるっすか? 挑戦受けて立つっすよ」
- 「が、いたっ、ちょっ、やめ――」
- 「おらおらおらおらーーっす!」
- 「いたいいたいいたいいたぁーい!」
- 嵐のような張り手の連打で、ぼっこぼこにされてしまった。どうやら死後の世界には、私の想像を遥かに超えた凄まじい強者がいるらしい。ここまで一方的に、成す術もなく弄ばれたのは初めての経験だ。いったいこいつはどんな顔をしているのだと、痛みに耐えつつようやく目を開けてみれば……
- 「ちょっとびっくりするくらい弱いっすねー。あんまりイキっちゃ駄目っすよ」
- 「……な、おまえ」
- それは見知った奴だった。言葉を交わすのは初めてだが、付き合い自体は腐れ縁の域だと言っていい。
- 「アショーズシュタ……なぜおまえが、まさかおまえも死んだのか?」
- 「はん? なに言ってるんすか、このトンチキは」
- 「いたいっ」
- 再び私の頭をぱしんと叩き、小憎らしい鳥餓鬼は立ち上がると見下ろしてきた。
- 「アーちゃんは見ての通り元気っすよ。むしろ死にそうだったのはそっちっす。ピンチを助けてやったんだから、感謝してほしいっすね」
- 「は、おい……なんだって?」
- ぷんぷんと肩を怒らせつつ離れていく鳥公を追い、なんとか私は上体を起こした。そのときになって気付いたのだが、自分は一糸まとわぬ裸の姿で……
- 「な、な、な」
- なんたる卑猥、破廉恥な! 私は稲妻の速さで胸を隠して足を閉じ、かーっと上がってくる全身の血を意識しながら絶叫した。
- 「き、貴様きさまキサマ貴様ァァ! わ、私にいったい何をしたケダモノめがァァ!」
- 「あー、うるさいうるさいうるさいっすー! 話が全然進まないじゃねえっすかァ!」
- 吠えて飛びかかってきたエロ鳥が、滑るように私の背後へ回ると片羽の形に首と肩を決めてきた。そしてギリギリと締め上げ始める。
- 圧迫される気道と血流。意識が再び遠退いてきて……こいつ、いよいよ私を殺す気だな!
- 「お、おのれ、許さんぞ貴様ごときが。絶対、後悔させてやるからな……!」
- 「ほんと、さっきから威勢だけはいいっすねえ。……まあ少し落ち着いて、大人しくこっちの話を聞くっすよ」
- 私が抵抗できず、かといって気絶もしないという絶妙なラインを維持しつつ、面倒そうにアショーズシュタは話し始めた。
- 驚くべき、信じがたかったが事実と思うしかない、不思議な現在の状況を。
- 「君がどれだけここらの事情に通じてるかは知らんっすけど、今はおっきいバトルがあった直後なんすよ。結果は残念ながらこっちの負け。ズルワーンっていうウチらのリーダーが、マシュヤーナっていうやべー女に食べられちゃって勝負あり。お陰でわたしは生き残った奴らと一緒に、すごすご撤退中なわけっすよ」
- 「ず、ズルワーンが……?」
- 負けた? マシュヤーナ私に?
- 「そうっすよ。けどあいつはしぶといし、悪運も強い奴だからきっと生きてるに違いないっす。いつか戻ってきたときのために、一人でも多くの仲間が要るんで君を拾ったっていう話っすね。理解したっすか?」
- 「……私が、仲間?」
- 「うん? 何を今さら、どこからどう見ても立派な義者アシャワンじゃないっすか。君ったら空を一人でふらふら落ちてて、危うく蝿ナスの大群に呑まれちゃうとこだったんすよ」
- 速射砲のように吐き出されるアショーズシュタの愚痴と自慢を、私はもはや聞いてなかった。心を占めるのは、ただ自分の身に起きた異常のみ。
- 私は今、義者アシャワンになっている。自覚して己を探れば紛うことなく白であり、不義者ドルグワントでないのは明らかだった。
- かつて何度となく争ってきたアショーズシュタへの敵愾心も、嘘のように消えている。鬱陶しい馬鹿な奴とは思うものの、殺したいというほどの気持ちではなく、そこはあちらも同じ感覚なのだろう。
- つまりここは、死後の世界などじゃなかった。転墜により生まれ変わった私が、新たな視点で捉えている白の世界。なぜこんなことになったのかは、問うまでもなく明白すぎる。
- 私は破戒の罰として、魔王の力を奪われたのだ。今までの戒律じぶんを自らの意志で否定したから、まったく逆の存在に変えられたのだと理解する。
- 黒白イロはもちろん、実力までも。アショーズシュタに手も足も出せずやられているのは、こいつが強いからではない。私が信じられぬほど脆弱になったというだけなのだ。
- 「……すまん、状況は悟った。大人しくするから、放してくれ」
- 「ん、分かればいいっす」
- 手荒すぎる洗礼からようやく解放された私は、改めて周囲の景色を見回してみる。
- 地平線の彼方まで続く、草原のような羽毛の大地。かつての私なら矮小な四阿あずまやと思ったかもしれないが、今は広大無辺な世界にすら感じるアショーズシュタの背中だった。空を飛ぶ巨鳥の上で、その意思を結晶化させた少女がすぐ傍らに立っている。
- ……風に舞う私の髪は、以前の漆黒から白銀に変わっており、光の中で星屑の流水みたいに輝いていた。
- 「そんで、君の名前はなんていうんすか?」
- 大きな目をくりくりと動かし、覗き込んでくるアショーズシュタ。こいつは、私がマシュヤーナだとまったく気付いていなかった。
- 髪の色以外、容姿はほとんど同じままだと思うのだが、転墜による属性変化がすべての印象を変えているのだろう。つまりもう、私はマシュヤーナではない。
- 加えてさらに一つ、決定的な変化が起きていることにも気付いていた。
- それは視点の問題じゃなく、世界の問題。ここは白く見えるだけに留まらず、違う時間の中にあるのだ。
- ズルワーンが私の前から去ったときの、直後に繋がる過去の空で……
- 「ちょっと、聞いてるっすか?」
- 「ああ、悪い。名前だったな、私は……」
- どうしたものかと掻きあげた髪が微妙に絡まる。かつての癖でつい左手を使ったのだが、今はそちらの側に指輪があった。
- 鏡のように、愛を誓った証のように。
- 「最善の愛インセスト……そう呼んでくれ、アーちゃん」
- 私と同じく力を失った番の環マシュヤグが、どこか温かい熱を灯して薬指に嵌っていたのだ。
- ――そして一三年の時が流れる――
- 私は破戒の罰により転墜し、のみならず過去の世界に飛ばされた。
- 前者はともかく、後者については不可解だったので原因の究明を試みたが、未だにはっきりしたところは分からない。
- だが、推測なら立っている。これは単一の力が成したものじゃなく、あの場における様々な要素が複合的に絡み合った結果だと。
- マシュヤーナを破戒へと駆り立てたのは、ズルワーンが示した愛に対等でいたいという意地。法に縛られないと誓っていた彼の手を、戒律による条件反射で握り返すなど不実すぎて無理だった。ゆえにあえて本音を偽った私は、あの時点で一三年前のズルワーンに並んだと言っていい。
- そう、あくまで十三年前の彼にだ。そのことを分かっていたマシュヤーナは、開いている差を埋めるためにスタートラインを合わせたいと、深層心理で祈ったのだと思う。
- それにマシュヤグが反応した。複製の創造という機能に則った形で願いを叶えるため、マ、シ、ュ、ヤ、ー、ナ、が、二、人、同、時、に、存、在、す、る、状、況、を、具、現、し、た、の、だ、。
- 魔王の私。義者の私。たとえ魂の色は変わっても、本質的には同じ存在。
- コインの裏と表であり、陰と陽の体現だ。
- かつて魔王わたしが腐敗に憑かれたのは、同時間上に転墜者わたしがいたからなのだろう。インセストはマシュヤーナが夢見た理想であり、また絶対的な死でもある。よって表面上の実力差に関係なく、両者の間には存在的な優劣が定められていた。
- インセストがいる限りマシュヤーナは必ず崩れ、マシュヤーナにインセストは殺せない。
- などと、まあ正直なところ、私が魔王だった頃にインセストがいたかは不明なのだが。
- アーちゃんの背中で目覚めて以降、私の中にある魔王の記憶はボロボロと消えていった。今では破戒に臨んだあのときの気持ちと、ズルワーンに関わる因果しか覚えていない。
- クインのことも、マグサリオンのことも、インセストのことも、マシュヤーナの目から見た彼らが当時、何をしていたかは本当に分からないのだ。
- よって過去ミライを知るような行動は封じられ、場当たり的な対応にならざるを得なかったが、これについてはある程度納得していた。
- なぜなら二重に存在して入れ替わり続ける私という概念は、この一三年を何百回何千回と繰り返してきた可能性がある。自覚はできずにいるものの、本当にそうだとしたら滅茶苦茶すぎる話だろう。
- それは宇宙を幾つも増やすような出鱈目。今の世界では、定義さえ不可能な特級の矛盾。
- つまりあってはならない掟破りで、仕組みを正しく認識した瞬間に宇宙が滅ぶほどの爆弾だ。私の祈りとマシュヤグの力だけで成せるレベルの業わざじゃなく、そこにはきっとズルワーンの愛も絡んでいる。
- 私を助けると言った彼。共に生きようと抱きしめてくれた彼。あの目も眩むほど眩しい輝きがあってこそ、森羅万象を超越する奇跡が起こったのだと信じている。
- だから私は、再びあの人に会いたくて――
- 彼の愛で生まれ変わったインセストなら、今度は正面から愛し返せると喜び震えて――
- 定かならぬ領域で円環する一三年。それが一瞬だろうと一億年だろうと私は待った。
- 時間の長短など関係なく、躊躇も恐怖も心になく。
- この薬指に宿る甘い疼きを翼に変えて、彼と一緒に世界ソラの先へ行こうと誓ったのだ。
- 「でも、あれは参ったなあ……」
- 崩壊するマシュヤーナの星体と共に落下しながら、ここ一日の出来事を思い返して苦笑した。本当、実に驚き慌てて、濃い時間だったと回想する。
- 何せようやく再会したはずなのに、私はズルワーンの声も姿も認識することができなかったのだから。
- 「……クソ世界め。そんなに私たちの邪魔をしたいか」
- まったく不愉快極まる話だけど、理屈としては察しがついてる。要は矛盾を防ぐための“修正”だろう。
- 私とズルワーンは、言ってしまえば宇宙の秩序を崩壊に導く存在だ。ゆえに私たちの再会が成された瞬間、ルールは超越されたという既成事実ができあがる。
- 逆に言えば、私たちが再会しない限りそれは盤石なままなのだ。よって世界が己の法則を守るため、介入してきたに違いあるまい。
- 私にとってズルワーンが“いない者”になれば、二重に存在する私も、時間を巡るパラドックスも、連鎖で等しく“意味がない”。すなわち宇宙は“変わらない”。
- 最少の労力ですべてを封じるような、文字通り神の視点から指された一手だ。その悪辣さと超常性を思えば震えがくるほど恐ろしく、ズルワーンが絶対に負けられない戦いだと言っていたのも頷ける。
- だから私は考えて、考えて、慎重に可能な限りのことをやった。事情を誰にも話さなかったのは、世界てきをできるだけ刺激せず、油断させるために他ならない。少なくともマシュヤーナがいる状態でインセストの正体を明かしたら、どれだけ凶悪な修正が働くか知れたものではなかった。
- 加えてマグサリオンの存在もある。私は彼を、一種の異物だと思っていた。
- マシュヤグに反応して時間逆行を自分の内に複製したアレもまた、定義不能な爆弾だろう。どういう形に転んでいくのか予想はできなかったので、先にこちらから方向性を用意させてもらった。
- マシュヤグの所有権を奪い、破壊してくれという依頼オーダー。これを実際にやられると私の円環に支障が出るため困るのだが、そこに“縛る”ことで行動を限定できる。
- 予期せぬタイミングで予期せぬ真似をされるのだけは避けたい。たとえばズルワーンとマシュヤーナの対決に乱入して、横からすべてをぶち壊すとか……そういうのは本当にやめてほしかったし、放っておくとやりかねなかったから、リスクを覚悟でマシュヤグに専念させた。結果、旨くいったと思う。
- 「けど、クインには怒られるかな……」
- 事態の理想的解決を目指した上でのことだから、前もって彼女に宣言した通り嘘を言ったつもりはない。けれどある意味で騙し、体よく利用したのもまた事実。
- 「まあ、謝ろう。これ以上、隠し続ける必要もないんだし」
- マシュヤーナの転墜は無事に成され、彼女は過去に飛ばされた。ならば現在の時間上に、私は私一人のみ。
- この状態であれば、修正による邪魔は入らないと確信している。なぜなら本来、私は今日からインセストになるはずだった。それが世界の筋書きであり、真我カミが下した決定だった。
- つまり表面上、今は法則通りに事が進んでいるとしか思えまい。私がその実、円環の時を超えてここにいると真我カミにバレさえしなければ、首尾よくズルワーンと再会できる。そして世界は生まれ変わる。
- 善だの悪だの、くだらないことで争う時代が終わるのだ。愛する人と、大手を振って共に生きていけるのだ。
- すべてはこの奇跡を成就させるためだけに。
- 今も時を巡る無数の私みんなよ、もう少しだけ待ってくれと心の中で呟いた。これから私は、求めた新世界の入り口に辿り着く。そこが円環の出口でもあるのだ。
- 「また一つになろう。みんなで一緒に、会いに行こう」
- ああ、ズルワーン。大好きだ。生まれる前からずっとずっと、私は君を愛してる。
- ◇ ◇ ◇
- 中心から生じた光によって、瓦解し塵と化していく不浄不動の枝垂桜ガヨーマルト。ここに第五位魔王は討滅され、絶対悪七柱の一角が落とされた。
- この大一番に際し、特に目立った形で貢献できなかった悔しさはもちろんある。けれど今は、ただ純粋に喜びたい。ワルフラーン様から二〇年――史上四度目となる偉業の達成者を、心から祝福して迎えたかった。
- 「インセスト!」
- 崩れる星体の中から落ちてきた彼女を、私は両手で力いっぱい抱き留めた。
- 「お帰りなさい。無事で何よりです」
- 「……ああ、クインか。君こそ無事でよかったよ」
- 声は小さく、疲労困憊の様子だったが、特にこれといった負傷もなくインセストは生還した。つまりこの戦いは、完全勝利と言っていい。
- 「君には本当、色々と迷惑をかけた。後でちゃんと謝りたいから、聞いてくれるか?」
- 「ええ、後で。まずは気にせず、休んでください」
- 彼女はろくに動けそうもなかったので、今は早急にここから離れる必要があった。
- 何せ目の前では、大陸にも匹敵するマシュヤーナの星体が崩壊している最中なのだ。浮かれていつまでも留まっていたら、魔王の断末魔に呑み込まれかねない。
- 「きっとアーちゃんも大喜びしてくれるでしょう。……さあ、瞬間移動に入りますから、しっかり私に捕まって」
- そう促すと、しかしインセストはなぜか不思議な顔をした。
- 「え、いや……ちょっと待ってくれよ、クイン」
- 「なんです? 話は後だと言ったはずですが」
- 「それは、その通りだが……おい待てよ、変だぞ君」
- 変なのはインセストだ。彼女はいったい、何を訝っているのだろう。
- この場に心残りでもあるというのか。私は当惑しつつ、傍らで無言を保っている黒騎士に目を向けた。
- マグサリオンの状況に関してなら、確かにまだはっきりさせるべき謎が多くある。けれど一応は元の姿を取り戻したのだし、ここで追及しても仕方あるまい。
- ともあれ私と彼とインセスト、三、人、全、員、が、無、事、だ、っ、た、の、だ、か、ら、い、い、じ、ゃ、な、い、か、。
- 「――クイン!」
- 不意に大声で肩を掴まれ、私はびくりと仰け反った。インセストが真剣な顔でこちらを見ている。
- ……なんて目だ。焦りと恐怖と切実さが入り混じって渦巻くような、見ているだけで心をバラバラにされかねない、凄まじい光がそこにあった。
- 一言でいえば、狂気。顔を蒼白に染めたインセストは、今にも泣きそうなほど小刻みに震えている。まるで無人の世界にたった一人だけ残された迷子みたいに、縋りつかんばかりの勢いで問いかけてきた。
- 「待てよ、待ってくれ。まだだろう? どうかしてるぞクイン――こんなのどこから見たっておかしいじゃないかッ!」
- 「……インセスト、質問の意図は明確にお願いします。あなたは何を言っているのですか?」
- 「だからッ……!」
- 事情は依然として不明なものの、只事じゃないことだけは確かだった。彼女を何とか落ち着かせようと努めて静かに言ったのだが、インセストは余計に激しく錯乱していく。
- 「戻ろうってなんだよ! 私たちだけで? 馬鹿を言うな! 君らがこんなに薄情だとは思わなかったぞ。勇者をなんだと思ってるんだ!」
- 「勇者……と言われましても、マシュヤーナを倒したのはあなたでしょう。インセスト」
- 「――違う! 違う違う、僕なんかじゃない! 一番凄いのは、誰よりも強くて、私が愛したヒーローはッ……!」
- 髪を掻きむしって吠えるインセストは、何かを探し求めているようだった。周囲の空を隈なくすべてを見回しながら、いないいないと叫び続ける。
- 私はその意味が分からなくて、誰のことを言っているのか見当さえつかなくて。
- 「正直に答えてくれ。君らは単に、私をからかってるんだろう? いかにも■■■■■が考えそうなことじゃないか。今もどこか近くに隠れてるとか、きっと、そういう……」
- 「いいえ。この場にいるのは、最初から私たちだけです」
- ありのまま、要望通り事実を答えた瞬間に、インセストからあらゆる表情が抜け落ちた。
- 「ぁ――――」
- ぴしり、と何かが砕ける音。次いで絶叫が轟き渡った。
- 「ああぁああアッ、ひぃアっアあぁあァァ! あぁアああアァっああァ――――ッ!!」
- その声、その顔、その感情――天を仰いで喚き続けるインセストが、激昂しているのか慟哭しているのかも分からない。
- ただ、あまりにも深く重く、壊れるほど狂おしい想い。
- 自らの魂を千切るような、虚無に螺旋していく心は底なしの絶望を表していた。
- 「なんていう、仕打ち。なんていう、非情……!」
- そして、なんという救いなき結末かと――
- 血涙を流すインセストに呼応するかのごとく、魔王の星体が再び息を吹き返した。
- 「なッ――!?」
- 崩壊が止まる。朽ち果てていた樹幹がみるみる内に再生し、折れた枝から新芽が生じて蠢きだすと、瞬時に成長して空を覆い隠していく。
- 乱れ舞う幾千億もの淡い花弁。
- 幽玄の枝垂桜を背後にして、叫ぶインセストの左手から壮絶な我力が顕れ始めた。
- なんだあれは――、……指輪? しかし、以前見たときはただのアクセサリーでしかなかったはず。
- 「まさか、マシュヤグ……でもどうして彼女がッ」
- 分からない。何もかもが分からない。事態を呆然と見上げる私の前で、白銀に輝くインセストの髪が漆黒へと染まり始める。
- これは、もしや転墜なのか? しかしなぜ? 彼女に何があったというのだ!?
- 「いやだ……戻りたくない。転びたくない。私は……彼と同じになったんだ。世界を超えて、輝く景色を…、一緒に見ると……誓ったんだッ!」
- 轟々と吹きつける激情的な念の嵐は、紛れもなく第五位魔王の気配だった。しかも私が知るマシュヤーナよりも、遥かに我力が度外れている。
- すなわち、インセストこそが正真の魔王。因果はまったく不明だが、ここに至ってはそう判断するしかない状況で……
- 「ああ……彼が見えない。聞こえない。一人は嫌だ……顔を見せてよ、また抱きしめてよ■■■■■! ■■■■■!!」
- だけど彼女は、そんな自分を明らかに拒絶していた。
- 「君にもらった生き方だから、変わりたくない――放したくない! これだけは、どうか最後まで守らせてくれ! お願いだ、真我カミよッ!」
- 苦しみながらも透き通って映える薄桃色の艶姿は、まるで胸の宝物を逃がすまいとする幼子おさなごのようだった。
- ……それを見つめる私はただ、頬に流れる熱い涙を止められない。
- 「殺してくれ」
- ぽつりと呟かれた、その言葉。
- インセストが何を思い、何を成そうとして、なぜこうなったのか微塵も分かっていないくせに、私はどうして恥知らずにも泣くのだろう。
- こんなに無力で、安い自分が嫌になってしょうがないのに、止め処なく溢れる涙はいったい何処からやってくるのか。
- 「私は負けた……でもいつか、この無念を彼が晴らしてくれると信じてる」
- 舞う花吹雪の中に見た景色は、善悪定かならぬ尊い彼岸。その凄艶なまでの美しさが、私に存在しないはずの記憶を想起させた。
- ある男女にまつわる、悲恋の夢を……
- 「では死ね」
- 私の頬を掠めて走った斬風が、涙の滴と共にインセストの首を飛ばしていた。
- 同時に崩れていく桜の大樹。花の香ごと散って消える魔王おんなの命。
- 謎も愛も、何もかも――
- すべては空に葬られ、後に残ったのは荒涼とした風のみだった。
- 9
- その一部始終をズルワーンは間近で見ていた。いや、見ていただけではない。
- 叫んだし、割り入ったし、蹴ったし殴ったし撃ちさえした。およそ考えつくあらゆる手段で介入を試みたにも拘わらず、何の成果もあげられなかったのだ。
- 誰も自分を見ていない。声も届かない。触れることさえ不可能だった。
- まるで霊にでもなったかのような状況で、しかし鋭い彼は気付いている。事態はそんなレベルに留まらないと。
- ズルワーンという存在が、この宇宙から完全に抹消された。痕跡の影すら残さず、はじめから“いない者”として記憶も記録も無くなっている。世界の法に縛られず、自由になることを望んだ彼だが、その果てがこれだとすれば皮肉どころの話ではなかった。
- 「インセスト……」
- そしてマシュヤーナ。彼女ら二人がどういう因果にあったのか、今の立場になってズルワーンは理解した。ゆえに自分自身が許せない。
- 助けてやると息巻いておきながら、もっとも大事な局面で大事な女を見殺しにしてしまった。クインやマグサリオンに文句をつける資格などなく、すべて己の不甲斐なさが原因である。
- 「クソがッ、どうしてオレは、こんなザマを……!」
- 『欲をかくからそうなる』
- 「――――」
- 何処からともなく不意に響いた声を聞いて、ズルワーンは顔を上げた。そして周囲の異変に気付く。
- 「なんだ、ここは……?」
- つい先ほどまで、彼は空葬圏にいたはずだった。如何に誰からも認識されない立場であろうと、その事実は確かなモノとして“存在”しているはずだった。
- なのにそれすらも奪われる。今ズルワーンが立っているのは、これを“場”と言ってよいのかすら憚られる異形異色の空間だった。
- 『転墜とは、自らの意志で破戒を選んだ者に与える祝福だ。己で己の道を定め、なおそこから脱却せんとする在り方を私は軽薄と思わない。成長であり、進化であり、羽化であろうと考えて、概ね喜ばしきものにしてやるところを、どうして抗ったのだマシュヤーナよ。おまえは大人しく、私の差配に従っていれば幸せを得られたのに』
- 白と黒、青と赤、光と闇、表と裏。
- この世に存在するありとあらゆる二元的な、鬩ぎ合い相克する現象、概念、残らずすべてがそこにあった。流動し、流転して、万華鏡のごとく形を変えながら回り続ける綾模様の大曼荼羅。無限と思えるほどの色に溢れ、だというのに独立しているものが一つとしてない。敵つがいとなる何がしかが、絶対的な法のもとに必ず定められている。
- まるで宇宙の縮図だった。超級規模の織物で、二元論世界の体現だった。天女の衣にも似た美麗さがあり、腐った臓腑のような醜さがある。混然一体となった色彩の暴力に、ズルワーンは発狂しかけている自分を感じた。
- いや、彼だからその程度で済んだと言えるだろう。掟破りを信条とし、実際に法から弾かれたズルワーンでなければ、この空間に入っただけで狂死する。たとえ魔王の類であろうと、無窮の綾模様には太刀打ちできない。
- 『しかし、評価しよう。おまえの転墜は少々特殊で、面白かった』
- 脳に直接響く声は、男にも女にも、老人にも若者にも聞こえた。
- 辟易しているようで寿いでいるようで、嘲笑っているようで感嘆しているようで。
- おそらくそれらは、みな真実だ。相反する二色の両立こそが、この存在を定義している。
- 『法の外から差し出された手を、法の内にあるまま掴みたくない。よって鏡のごとく返すという戒律おきてを破り、愛に拒絶の意志を返した。一見すると文句のない破戒だが、実はもう少し複雑だ。そもそも男女の秘め事ならば、複雑怪奇となるのが道理』
- マシュヤーナの転墜にまつわる事象を、謎の声は滔々と話し続けていた。ズルワーンのことは興味の対象外なのか、先ほどからまったく意識している様子が見えない。
- 『おまえが拘ったのは“対等”という概念。愛しい男に応えるため、相応しい女になろうとした意地だろう。これはこれで、まさしく鏡そのものだ。つまりおまえは破戒しつつ、同時に律を守ったわけだよ。まったく大した離れ業、虚実ない交ぜの立ち回りは実に見事な女ぶりと讃えるしかあるまい!』
- 「黙れ……」
- ついに耐えられなくなり、ズルワーンは口を挿んだ。しかし変わらず、声はべらべらと話し続ける。――どころか、徐々に熱を帯び始めていた。
- 『お陰でおまえの選択は、根源的に矛盾を孕んだ。円環とやらが発動し、私の法を限定的だが超越したのはそのためだな。素晴らしい、なんという綾模様しきさい――! 私は心から思ったよ。ああこれは、是非とも更なる美しさを見せてもらわねばなるまいと』
- 「だから……」
- 『それだけに、最期は些か興醒めだったな。“マシュヤーナの理想を叶える”というインセストの戒律は、もはや叶えられぬと絶望してしまった。まあ、あそこで再度の転墜を回避しただけでも褒められるべきなのだろう。件の黒騎士にやられた以上、円環ごと斬殺されてしまった点は惜しくもある』
- 「いい加減に……」
- 声は無視する。話し続ける。
- 喜々として、つまらなそうに、悲しみに泣き濡れながら嗤い転げる二元の神威――。
- 『うむ、総合的に大いなる満足を味わえた。及第どころか、近年稀にみる見世物だったぞマシュヤーナ。我が事象の地平線に、おまえの名は特等として深く刻まれることだろう!」
- 「黙りやがれェッ!」
- 爆発した怒号が、ついに静寂をもたらした。狂った色彩を前に気絶しかけていたズルワーンだが、憤死も危ぶまれるほどの赫怒かくどによって正気を保つ。
- 「おまえは、なんだ……?」
- 問いに答えたのは瞳だった。まるで宇宙そのものがそこに凝縮したとしか思えない、人智を超えた意志の光が綾模様の空間に形を成す。
- 『私は真我しんがだ。おまえたちが法則アヴェスターと呼ぶモノだよ』
- 遥か天空の高みから見下ろすような、青と赤に燃える金銀妖瞳。
- その眼光を受けた瞬間、ズルワーンは自分とマシュヤーナの敗因を悟った。
- 「ならてめえが、てめえが全部を?」
- 『そうだが? いったい何を驚く。私に会いたかったのだろう?』
- 世界を倒すと言った。法を超えると言った。しかし敵の正体を見誤っていたと理解する。
- なぜならズルワーンとマシュヤーナにとっての世界法則とは、端的に形のないモノ。漠然とした概念やシステムで、一種運命的な“力”だったと言っていい。
- ゆえに対峙して殴り合うような状況は考えていなかったし、密な謀はかりごとが必要だとも思ってなかった。敵は本能アヴェスターなのだから、何よりも自分たちの心持ちを重視するのが当たり前。
- だというのに、真我コレは違う。想定していた敵とはまったくの別物だ。
- 「……クソッタレが、とんだ誤算だぜ」
- 忌々しげに吐き捨てたズルワーンは、宙の妖瞳へ連続で銃を見舞った。すべて真我の法を無効化する掟破りの魔弾。
- 『可愛いなあ。姉いもうとへの義理立てかね?』
- 相関的には特効性能があるはずの力さえ、コレには微塵も通じなかった。涼しげに痒い痒いと言われるだけで、それも当然の結果だろう。
- 自ら法則を名乗っていながら、真我はあくまで物理的な存在だ。人のような心があり、悪魔よりも奸智に長けて、神のごとき力を持った“生物”である。
- よって誰にも真我は出し抜けない。気付かれずに何かをやるなど不可能で、正面切って戦うには宇宙規模の総体が巨大すぎる。
- つまり事実上、ズルワーンは詰んでいた。万策尽きたことを悟って、投げやりに肩をすくめると横柄な態度で負けを認める。
- 「降参だ。しばらく大人しくしてっから、そろそろクインらのとこに帰らせてくれ。マシュヤーナはもう死んだんだし、オレを影ウス男にしとく必要はどこにもねえだろ」
- 『駄目だな。帰るのは勝手だが、おまえに掛けた業わざは解かん』
- 「はあ? 待てよなんでだ」
- 予想外の返答に、険しく眉をひそめてズルワーンは問い質した。この期に及んで生還を諦めないばかりか待遇の改善すら要求する図太さはさすがだが、後者についてはにべもなく却下される。
- 「オレが“いない奴”になってんのは、要するにてめえの保身だろ。マシュヤーナと出会わせないための、そうじゃねえのか?」
- 『違う。おまえはおまえで破戒をした。その罰と知れ』
- そっけなく、だが厳然とした圧を込めて真我は告げた。絶句するズルワーンに、引き続き彼の運命を語り始める。
- ……いや、それは本当に、ズルワーンへ向けた言葉だったのだろうか。
- 『おまえにできることは“見続ける”だけだ。今より時の終わりまで、さらにそこから先の先まで、鬩ぎ合い流転して、生滅を繰り返す森羅万象の唯一証人となるがいい。何があろうとおまえだけは滅びぬ。おまえだけは朽ちぬ。おまえは常におまえのまま、あらゆる時代を流離さすらうのだよ。見るために、識るために、麗しい百花繚乱を観測して記録に留める。要はそういう小道具がコレなのだろう? 私もあまり他人のことを言えた義理ではないのだが、随分と趣味の悪いを真似をする。なあ、こいつはいったい誰の仕業だ』
- 「何を……言ってやがる、てめえ」
- 真我の言葉はあまりに茫漠としすぎて掴めなかった。しかも途中から、話しかける対象が変わったようにすら思える。
- 『アリヤにしては遊びが多い。そしてサーヴィーなら、さらに厳しく一撃で決めるだろう。かといってシャクラの趣味からすれば迂遠すぎるし、どだい盤上遊戯の類は奴に向くまい。となれば消去法でヴィヴァスになるが、なるほど確かに傍迷惑なところがらしいと思える。そもそもからして――』
- 「――おいッ!」
- 再度の怒声で長広舌を断ち切ったズルワーンの顔は、これまで以上の憤激に歪んでいた。
- 意味不明な言葉、意味不明な理屈。にも拘わらず、意味を理解できそうになったことがこの特異な男から余裕を奪い去っている。
- 真我はそれを慈しみつつ見下ろして、妖しの瞳を愉悦の形に細めていた。
- 「オレは、破戒なんかしちゃいねえぞ。誰に言われたわけでもなく、自分の頭で考えてる」
- 『そう思っているのはおまえだけだという話だよ。が、まあそれはそれで構わん』
- 思うのは自由だと言い置いて、同時に綾模様の景色が薄れ始めた。
- 『私の見立てが間違いだと言うのなら、証明してみせろズルワーン。おまえが真におまえの意志で立っていると、納得させてくれれば私の命をやってもいい。……なあ、腕が鳴る話だろう? おまえ好みの戦いではないか』
- 「……言いやがったな、後悔するぜ」
- 消えていく真我に指を突き付け、ズルワーンは宣言した。
- 「オレはおまえを許さねえ。見てろよ、必ず負けを認めさせてやるからな!」
- 返答は嫣然とした含み笑い。世界にただ一人となったズルワーンは拳を握り、歯を食いしばって、孤独な戦いを固く決意したのだった。
- ◇ ◇ ◇
- そして同刻。
- 真我とは異なる黒白こくびゃくの、だが同質の輝きを持った金銀妖瞳が瞬いている。
- 瞳は潤み、震えながら、滂沱と涙を流していた。
- 「さようなら、マシュヤーナ。さようなら、安らかに。どうか君の悲しみが、世界をより良く変えますように」
- 友への想いを朗々と謳いあげて哀惜するナダレは、特異点アンラ・マンユの中で一人剣舞を行っていた。
- 奇妙な剣ではある。槍にも等しい長大な代物だが、握るべき柄の部分が中心にあり、その両側から刃が伸びているのだ。
- つまり二本の長剣を柄で重ねた形状で、それぞれの刃は流麗な白銀と禍々しい漆黒。
- ナダレの舞に合わせて二色の光芒が走る様は、二羽の鳥が翼の美しさを競い合っているようだった。
- これは鎮魂の舞なのか。もしくは報復を誓う出陣の舞か。今もはらはらと落涙しながら、しかし超然としたアルカイックスマイルを浮かべたナダレの心情は読み取れない。
- だがこのとき、特異点の外では驚天動地の異常が起き始めていた。
- 「言ったよね、結果次第で絡ませてもらうと」
- 天が動く。地が裂ける。それは断じて比喩に非ず。
- ナダレの剣舞に合わせて、宇宙の配置が換わっていく。数多の星々が、銀河の核が、巨大なミキサーにかけられたかのごとく撹拌されて、まったく別の場所に弾き飛ばされていくのだ。
- まるで宇宙を舞台にしたビリヤード。あるいはチェスの類だろうか。
- 原理としては瞬間移動に近いと分かるが、力の規模と範囲を鑑みれば常識外れどころの話ではない。
- 崩界ほうかいナダレ――最古の魔王は世界を崩す。
- 彼女が動くということは、すなわち宇宙の勢力図が一変する事実を意味していた。
- 「弔いだ、マシュヤーナ。君が寂しくないようにしてあげよう」
- 魔神の剣舞が終わったとき、善悪闘争の中心に立つ者たちは何が起きたかを理解した。
- なぜなら二〇年前にも、ナダレは同様の真似をやっている。
- 「さて、生き残るのは誰になるかな。それとも全員死ぬのかな」
- 宇宙のある一点で、すべてが一堂に会していた。
- 聖王領が、龍骸星が、流血庭園が、暴窮飛蝗が――
- そして破滅工房までも。
- 触れ合うほどの近距離に、全勢力が集められた。こうなったが最後、もはや当人たちの意向に関係なく始まるしかない。
- 「頑張れ、頑張れ。期待してるよスィリオス、クワルナフ、カイホスルー」
- 柔らかに微笑みながら、ナダレは激励の言葉を送る。
- 彼女が名指しした人物に、はたしてどういう意味があるのかは不明だったが……
- 「私はみんなの魔王だから、みんなのためにこうするんだよ」
- いま強制的かつ回避不能に、最終決戦の火蓋が切られた。
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