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- 第八章『空に消える』前編
- 1
- まず感じたのは孤独。どうして自分は一人なのだという、恐怖に近い寂しさだった。
- 「ぞろぞろと数だけはそろえたじゃないか雑草ども。褒美にこのタルヴィードが、後腐れなく刈り取ってやろう」
- 「こ、この低能と私が同じ扱いを受けるのは心外だ。褒美にこのザリチェードが、一匹残らず抉り貫いてやろう」
- 気付けば、いつも私は戦場だった。身動きどころか声もあげられない星わたしの上で、常に誰かが争っている。殺し殺され、また生まれては殺し合うことの繰り返し。蟻のように這いまわり、蛆のように増殖する有象無象は、なぜこちらを見ないのか。どうして誰も、私の存在に思いを巡らせようとしないのか。
- 止め処なく流れる彼らの血を吸いながら、私は周囲と切り離された己を環境をただ嘆いた。ああ、あの足があれば、手があれば、口があれば、翼があれば――こんな孤独に苛まれはしないだろうにと。
- 自己主張の方向性は二の次以下だ。私を踏み、私を啄ついばみ、私を穢しながらも無視している者たちに、ただ私はここにいるのだと知らしめたい。それが彼らの流儀に合わせた殺戮でも、正反対の慈愛でも構わなかった。
- 殴るにしろ、抱きしめるにしろ、手が要るのだ。呪うにしろ、許すにしろ、言葉を発せなければ伝わらない。だのに私は、そんな程度の自由すら事欠いている。
- 寂しい。一人で寒くて狂おしいほど不安だった。そもそも本当に恐ろしいのは、自分の所在すら疑わしく思えてくること。
- 誰も私を認めないなら、すべてが何かの夢や幻である可能性を否定できまい。我思うゆえに我ありと謳うには、前提として強固な自我が必要だ。そして自我とは、他者と関わりを持つことで育まれる。
- 結果、私は私になれず、はらはらと散るように揺蕩たゆたっていた。いるのかいないのかも不透明な曖昧模糊あいまいもことした存在で……次の瞬間に消えたとしても世は不変なまま流れていくだけだろう。私に何らかの感情を抱き、私がいたと証明してくれる者が天下の何処にも不在なのだ。
- 無力、無意味。よって無価値。考えれば考えるほど、自分がそういうものだと分かってしまうのが嫌だった。私も他の者らと同じように、確しかと認識される誰かになりたい。名を呼びあって互いに認める、そんな関係を築いてみたい。
- 切に、切にそう願った。孤立とも言えぬ茫漠ぼうばくとした生にあって、その想いがいつしか私の核となっていたのを自覚する。
- だから訪れた祝福は、断じて偶然の成り行きなどではないと信じた。私の祈りが招き寄せた必然であり、世界を相手に勝ち取った一つの戦果だと今も揺るがず誇っている。起こるべくして起こった奇跡は天の理も同然で、そこに疑いを持つはずもない。
- 「オレはおまえが気に入らねえ。どっちが上で、正しいか、白黒はっきりさせようじゃねえか」
- ズルワーン……ああ、ズルワーン。おまえがいたからこそ私は私になれたのだ。向けられる思いが敵意と嫌悪に満ちていようが、そんなことは些事に過ぎない。
- この宇宙で誰よりも、私を見てくれるのはおまえだった。ゆえに私も、宇宙で誰よりおまえを憎悪アイした。
- 私の願いによって生まれたおまえは、順序の理屈で言えば弟になる。しかしおまえの憎悪アイに抱かれて自我を持ったという関係上、私が妹だとも言えるだろう。
- そんな水掛け論を言い合うことさえ、私は嬉しくて楽しくて、どうしようもないほど喜ばしくて胸が震えた。
- 「今日こそ引導を渡してやるぜ、マシュヤーナ」
- そうとも、私の名はマシュヤーナ。おまえの姉であり妹であり、敵であり情人おんなである。
- おまえによって自己カタチを得た、愛憎という名の花である。
- 叶うならばこの愛しい争いを永久とわに続けたいと思っていたが、決着を望むおまえの気持ちを無碍にはできない。だから私は全身全霊、一世一代の戦で応えた。勝敗の帰趨などは無粋すぎて問うつもりもなく、本音としてどうでもいい。
- 勝とうが負けようが私は終わりだ。おまえと共に生まれた私は、おまえと共に死ぬ定めだと弁えている。むしろそうしてこそ完成する関係なのだと私は信じて――おまえだけを見つめて、求めた。
- これが最後と誓った聖戦の果てに、再びおまえと一つになる瞬間を夢見ていたのだ。
- なのにおまえは、どうしてあのとき私から目を逸らしたのか。
- 「反吐が出る。死んじまえよ」
- 決着の喜びと悲しみに向き合おうとしないまま、一人で勝手に去るという裏切り行為。
- なんという不実。許しがたい背信。その瞬間まで想像すらしていなかった、土壇場での掌返しに私は愕然としてしまった。
- 言葉の内容は私への罵倒でありながら、ズルワーンの意識はどこか遠くへ向いている。それがただただ信じられず、未だもって受け入れられない。
- おまえの口から出る想いが、真実私にだけ向けられるものだったなら、たとえどんな呪いであろうと諸手を挙げて寿ことほいだのに。
- ズルワーンは私を見ていなかった。
- 私をいない者のように扱ったのだ!
- 「おまえが悪いのだズルワーン。何もかもが、おまえのせいだ」
- お陰で私は壊れてしまった。おまえと共に死ぬはずだった機を奪われ、無様な生ける屍と化している。
- そう、私は死んでいるはずなのに生きているのだ。今も星体カラダが爛れ落ちる不浄に汚染されたまま、裏切られた苦しみに腐敗しながら悶えている。
- だからもう一度、いいや違う、今度こそ――おまえと紡ぐ二人の物語に決着をつけたい。
- それが私にとって、最善の天則。
- ただ純粋に祈り、願う、幸せというもののカタチだった。
- 2
- まぶたに注ぐ朝の光で、私は眠りから目を覚ました。同時に涙しているのを自覚して、静かな驚きに包まれる。
- 「今の、夢は……」
- 改めて問うまでもない、間違いなくマシュヤーナの意識だった。彼女のズルワーンへ向ける思慕が、夢という形で流れ込んだのだと理解する。
- その事実は二重の意味で私に混乱をもたらしていた。なぜなら自分の構造上、これは有り得ない現象とすら言っていい。
- 私が蒐集する祈りは、義者アシャワンのものでなければならないはずだ。お父様を打倒するため、善思の結集によって奇跡を成すのが目的なのだから、異物の混入を防ぐのが大前提となっている。
- ゆえに不義者ドルグワントの、まして魔王の心を無意識に拾うのはどう考えてもおかしいだろう。仮に土地の影響を受けたのだとしても、相手の心情に共感してしまうなんて真我アヴェスター的にも理屈が立たない。
- 「どうして私は、涙なんか……」
- 頬に流れる雫が不吉で、さっさと拭いたいと思う反面、まだ噛みしめたいような気持ちがあって恐ろしかった。もしや私は、何らかの精神的な攻撃をマシュヤーナから受けてしまったのではあるまいかと、そんなことすら考え始めていたときに……
- 「いつまで寝てるっすかー!」
- 「ごふぅっ」
- いきなり鳩尾に鋭い衝撃が落ちてきて、思い切り私はむせた。あまりのことに声もなく、目を閉じて悶絶していたら今度は頬をぴしゃぴしゃと叩かれる。
- 「朝っすよー、起きなきゃ駄目っすよー」
- 「いや、その、ちょっと待って……」
- 誰だこれは。どうやら私にマウントポジションを決めてる人物がいるようだが、声にも気配にも覚えがない。夢の感慨を吹き飛ばす手荒なスキンシップに、さっきまでとは違う意味で涙が溜まった目を開けてみると、そこにいたのは――
- 「お目覚めっすか? おはようなのです」
- 「ええっと、はい……どうも」
- やっぱり知らない人物だった。見た目は十歳くらいの女の子で、なんとも活発そうな子ではあったが、どこか常人離れした雰囲気がある。
- くりくりと動く大きな瞳には無邪気な好奇心と奇妙に老成した深みが混じり、だけどそれがアンバランスかと言われればまた違って……そもそも今気付いたのだが、この子は羽が生えている。
- ならばもしやと、私が思ったことを読んだように、彼女は屈託のない笑顔で名乗った。
- 「はじめましておねーさん。わたしのことは、アーちゃんと呼んでくださいっす」
- アショーズシュタ――この空葬圏で多くの義者アシャワンを守護している、霊鳥の化身がこの少女だった。
- 「ほら、そっちの君も起きるっすよ」
- 驚きに声もない私を無視して、まだ眠っていたマグサリオンをしばき回すアーちゃん。その後は当然ひと悶着あったのだが、壮絶かつ不毛すぎる内容なのでさて置く。
- ともあれこうして、第五位魔王と決戦を迎える日が始まったのだ。
- 「インセスト、ジャムを取ってほしいっす」
- 「いいけど、あんまりべたべた塗っちゃ駄目だよ。君は加減を知らないんだし、油断してるとまた肥っちゃうぞ」
- 「小うるさいこと言うんじゃねえっす。アーちゃんは育ちざかりなんだから、しっかり食べなきゃ駄目なのです」
- 「てめえは七、八〇〇年くらい生きてんだろうが。このボケ鳥が」
- 「痛いっす、暴力反対っす」
- そうして朝食となったのだが、テーブルを囲んでる面子の濃さに触れるよりまず、一つだけ言わせてほしい。ズルワーンに頭をはたかれてぷんすかしてるアーちゃんだけど、彼女に暴力云々を抗議する権利はない。手の早さでは負けず劣らず、この子も相当なものである。
- そこは伊達に空葬圏の猛者じゃないということだろうが、想像していたキャラとだいぶ違ったので私は気後れしてしまい、アウェー感が強すぎてなかなか場に馴染めなかった。必然、同じく浮いているもう一人を逃避的に構ってしまう。
- 「ほらマグサリオン、ちゃんと野菜も食べないと駄目ですよ。お茶はどうですか?」
- 「うるさい。いちいち話しかけるな、鬱陶しい」
- しかし彼は彼で、相変わらず身も蓋もなかった。依然として被ったままの覆面に潜り込ませるような形で、器用にもそもそとパンを食べている。その様を見たアーちゃんが、呆れた顔で溜息を吐いた。
- 「愛想の悪いお子様っすねえ。それに行儀もなってない。この子、本当に義者アシャワンっすか?」
- 「そこは真我アヴェスターに照らせば瞭然でしょう。彼は色々と複雑なので、不調法は大目に見てくれると助かります」
- 「過保護っすね。もしかしてこの二人、そういう関係なんすかズルワーン」
- 「さてどうだかな。そうなりゃオレは面白ぇが、焚きつけたのはおまえだって聞いたぞ。インセスト」
- 「…………」
- 「こらてめえ、聞いてんのかよ」
- 「インセスト、ズルワーンが君にごちゃごちゃ言ってるっす」
- 「え? ああすまない、なんだっけ?」
- 「……なんでもねえよ。アホくせえ茶番はうんざりだっつっただけだ」
- まるでズルワーンが常識人みたいに見えるやり取りはシュールだったが、呑気に笑ってもいられない。これからあのマシュヤーナと戦うことになる以上、詰めておくべき話はいくらでもある。
- 自分の幼児退行を自覚してないマグサリオンの前では憚れるので席を外してもらおうと思ったが、朝食を終えた彼は無言で部屋から出て行った。それにほっとした気持ちと寂しい気持ちの両方を覚えて複雑ではあったものの、私は居住まいを正してアーちゃんと向かい合う。
- 「遅くなりましたが、自己紹介をさせてください。私はクインといって、そちらのズルワーンと同じ聖王領の戦士ヤザタです。このたびはこうして匿っていただき、本当にありがとうございました」
- 「ああ、そういうのはいいっすよ。むしろタイミング的にはギリギリ間に合ってくれたから、こっちが感謝したいくらいっす」
- 「と言うと?」
- 彼女の緩い態度を見る限り切迫した様子は感じられなかったのだが、何らかの理由で時間に追われていたのだろうか。私の疑問に、アーちゃんはなぜかインセストへ許可を取るような目配せを送ってから話し始めた。
- 「星霊の権能は知ってるっすよね? 星の中で生きてるわたしたちは、母星の意向に逆らえない。要は親の属性ノリに、子供はどうしたって振り回されちゃうんすよ」
- 「ええ、それが?」
- 大きなものに小さなものが左右されるのは世の常だ。カイホスルーが龍骸星の民をいつでも貴石へ変えられるように、星霊の意志が任意で発動するときもあれば、一種の自然ことわりとなっているケースもある。
- たとえば聖王領では義者アシャワンしか生まれないといった感じの、場に敷かれた法としての権能。親子の関係に倣うなら、こちらのほうが分かりやすい例だろう。つまるところ遺伝みたいなものだと言える。
- 「マシュヤーナの権能は腐敗っす。あいつは一三年前からそうなって、巻き込まれてるわたしたちは徐々に腐っていくんすよ。ゆっくり死んでると言ったほうがいいかもっす」
- 「腐敗? じゃあまさか――」
- 「君も少しは感じただろう。マシュヤーナは生き物としてもう終わってる。あれはすでに、朽ち始めてる死体なんだよ」
- 途中で説明を受け取ったインセストの言葉に、私は道理でと納得した。マシュヤーナの星体が発していた得も言われぬ不浄の気配、爛熟を通り越して穢れに至っているようなあの匂いは、つまりそういうことだったのかと。
- ふと思い立ってズルワーンに目を向けると、彼は眉間に深い縦じわを刻んでいた。
- 「そりゃ、オレのせいか?」
- 「そうじゃないんすか? 誰かさんがつれない真似をしたせいで生きる気をなくしちゃったとか、どうせその手の面倒くせえ理由っすよ。だから色男には責任とってもらいたいっすね」
- 「それは……ちょっと言いすぎじゃないかな。マシュヤーナにも彼女なりの事情ってものがあるはずだし、短絡的に考えるのは正直どうかと」
- 「なんでおまえがあいつのことを庇ってんだよ」
- もっともな指摘に、アーちゃんは羽をひらひらさせながら苦笑した。
- 「インセストはこういう奴なんすよ。ちょうど君がいなくなった頃に拾ったんすけど、見ての通りわたしたちとは視点が違うみたいっす」
- 「オレが消えた後からの付き合いだってのか? ならアー公、おまえもこいつがそれまで何をしてたのか知らねえのかよ」
- 「そうっすねえ、聞いても教えてくれないんすよ」
- 紛れもなく義者アシャワンでありながら、マシュヤーナに対して擁護とも取れる姿勢を見せるインセスト。そこは以前に私も奇妙さを覚えた点だが、どうやらあの場限りの洒落やポーズじゃなかったらしい。ズルワーンと入れ替わりで知り合ったと言うなら一三年……一貫してそういうスタンスだったとすれば、相当に筋金が入っている。
- 「びっくりするとは思うけど、本人に悪気はないんで許してやってほしいっす。むしろこんな奴だからこそ逆に役立つところもあるんだって、そんな風に思ってもらうのは駄目っすかね?」
- 「……いえ、彼女に助けられたのは事実ですし」
- 「迷惑もかけられたがな。……まあ、今さら文句をつけるつもりもねえよ。ハグレもんには慣れてる」
- 普通じゃないから特殊なことができるのだというアーちゃんの論には、頷けるものがあった。まずもってズルワーンがその典型だし、マグサリオンもそうだろう。そして私も、義者アシャワンらしからぬ自分を感じたばかりだった。
- あの夢……なぜマシュヤーナの記憶と意識に同調したのか、未だに原因が分からない。正直なところ仕様にバグでも生じたのではと疑っているため、この場で話す気は起きなかった。何から何まで不確かな情報を伝えても、生むのは混乱だけだと思う。
- そんな私の考えを余所に、アーちゃんはインセストへ何事かを耳打ちしていた。人前での内緒話はあまり褒められた真似じゃないけれど、ここが彼女たちのホームである以上は咎めても仕方あるまい。郷に従えという言葉もある。
- なので大人しく待っていると、作戦会議を終えたらしいインセストがこちらを向いて、微笑と共に頭を下げた。
- 「君らの寛容には礼を言うよ。自分がちょっとおかしいのは理解してるつもりなんだが、どうにも性分みたいで矯正は難しい。今後も気に障ることがちょくちょくあるかもしれないけど、できるだけ流してくれると助かる」
- 「はい、それでマシュヤーナの件ですが」
- 「ああ、そっちの話が途中だったね。言った通り、彼女は生物的な見地で言うともう死んでるから、星体ガヨーマルトの腐敗に空葬圏ここのすべてが巻き込まれる。現状、多少なり抵抗できてるのはアーちゃんくらいなものなんだよ」
- 「わたしの加護がなかったら、みんな一瞬でゾンビっすよ。そこは感謝してほしいっす」
- 鼻を鳴らして元気にそり返るアーちゃんだったが、先の話から推察するに状況は限界すれすれなのだろう。腐敗の権能とは確かに恐ろしい力であり、忌まわしいどころの所業ではない。
- 死してもなお存在し、己が穢れを伝染させる不浄の理……命の何たるかに意義を見出す義者われわれにとって、それは道徳の根底を覆すような在り方だ。
- 「とはいっても、さすがにわたしだけで一三年も耐えるのは無理っすよ。これまでなんとか持ち堪えられたのは、インセストのお陰っす」
- 「こいつがマシュヤーナに妙な影響力を持ってることと関係してんのか?」
- 「本人が言うにはそうっすね。なんでもあいつの心臓ほんしつを衝けるんだとか」
- 「……諸事情あってね。けど残念ながら、とどめを刺すまでにはもっていけない」
- 苦く頷いたインセストに、私はここまでの流れを纏めつつ質問した。
- 「死者と分かっているから対処はできる。でも死者だからこそ殺せないと?」
- 「その考えで概ね正しい。実際に彼女へ引導を渡せる者がいるとすれば、きっとこの世に一人だけだよ」
- ある種の期待を込めた彼女の台詞で、私たちの視線は一人の人物へと集中した。
- 「なるほどね。まあ、どのみちオレはそうするつもりだ。言われなくてもやってやるよ」
- やや不貞腐れた風ではあるものの、きっぱりと言い切ったズルワーンにアーちゃんは大きな安堵の息を吐いた。
- 「よかったー! この期に及んで、得意の天邪鬼を発揮されたらどうしようかと思ったっすよ」
- 「てめ、オレをいったい何だと思ってんだよ」
- 「端的にガキんちょっすかね? いつも悪ぶってるけど、意外に繊細で面倒くせえところがマシュヤーナとそっくりっす」
- 「だとコラァ、てめえ表ん出ろや!」
- 「お、やるっすか? やるっすか?」
- などと、その場で取っ組み合いを始めた二人には呆れ返るよりなかったが、今後の方針について合意が成された点は喜ばしい。見ればインセストも同様に胸を撫で下ろしており、私と目が合うと再び頭を下げてきた。
- 「改めて、ありがとうクイン。ズルワーンにも言ったけど、今回の件に片が着いたらちゃんと説明させてもらうよ。僕がいったい何者なのか」
- 「分かりました。そのときはアーちゃんと一緒に聖王領へいらしてください」
- 「それはつまり、僕らを戦士ヤザタとして迎えるって話かい? 光栄だが、いいのかな」
- 「決めるのはあくまで王ですが、私は問題ないと思いますよ」
- 何せ上手く事が進めば、彼女たちは魔王の一角を崩した功労者だ。反対意見など出るはずもなく、スィリオス様もお喜びになってくださるだろう。サムルークやフェルさんだって、はじめは対抗心をむき出しにするかもしれないがきっと歓迎してくれるはず。
- 「どうやら向こうにはいい仲間がいるみたいだね。そういう顔だ」
- 「まだ別れて一日ほどしか経っていなのに、里心がついたようです。おかしいですよね」
- 指摘されて少し恥ずかしくなったものの、要はそれだけフェルさんたちを頼もしく思っている証だろう。そして彼らとまた笑顔で会うためにも、この空葬圏を見事平定せねばならない。
- これまでアーちゃんたちが防戦に徹していたのは決め手の不足が原因で、そこはズルワーンの帰還により解消されたと彼女たちの態度が示している。ならば私も信じようと決めていたし、今さら異を唱えるつもりはない。
- よって後は、マシュヤーナの核とズルワーンを対峙させるための具体案だ。もっと正確に言うならば、あの無尽蔵的な花弁と使い魔の帳を潜り抜ける方法が要る。
- 「私とあなたの力を合わせれば、星体ガヨーマルトに穴を開けるくらいはできそうな気がします。でも正面から挑むのは無理筋でしょうし、これについてはどうするのですか?」
- そうインセストに問うと、代わりに答えたのはアーちゃんだった。彼女はズルワーンと相変わらず暴れながら、首だけこちらに向けて一気に言う。
- 「全然問題ないっすよ、だってわたしがいるっすもん!」
- 自信満々に言われたが、端的過ぎてまったく要領を得なかった。私が途方に暮れていると、インセストが苦笑気味に付け加える。
- 「アーちゃんの正体はフクロウだから、気配を殺す技に長けてるんだよ。つまり隠形ステルスの加護ってとこかな」
- 「気付かれずにマシュヤーナの懐まで入り込めるというのですか?」
- 「さすがに彼女の星体なかへ入ったら通じないし、そもそも派手に動いたらバレちゃうけどね。目的を果たすにはそれで充分だろう」
- 「確かに、私たちの役目はあくまで道を開くこと」
- ズルワーンが星体の内部に入るお膳立てさえ整えられれば、こちらの仕事はほぼ終わるのだ。あの巨大樹に穴を穿つなら近間で渾身の一撃を叩き込む必要があり、そのために隠形ステルスの加護が有効なのは疑う余地もないだろう。撃てば気取られるのはこの際仕方なく、後は時間との勝負になる。
- 我々が潰されるより早くズルワーンがマシュヤーナを押さえれば良し。逆に言えば、私たちが粘るほどズルワーンは動きやすくなるはずだ。
- 「理解しました。賭けるに値する戦法だと思います」
- 必ず作戦を成功に導くと、私は決意して頷いた。フクロウが音を立てずに飛べるのは知っていたし、アーちゃんは一三年もマシューヤナから逃れ続けていた実績がある。隠形の精度が相当なものになるのは確かめるまでもなく、彼女が人型を取って我々の前に現れたのも、縁をより深めるためという意味があるのかもしれない。
- 「痛ぇんだよコラ! 噛みつくんじゃねえ鳥のくせに!」
- 「やかましいっす! わたしのクチバシを受けてみるっす!」
- ……まあ、その、これが静寂と調和を重んじる霊鳥だとは、とても思えなかったりするのだけども。
- 「ところでクイン。もう一つだけ不可欠の要素があるんだが、いいかい?」
- 「え?」
- 不意に真面目な声で言われたから驚いた。顔を向ければ、インセストが神妙な様子でこちらを見ている。テーブルに置かれた左の拳は強く握られており……今になって気付いたことだが、その薬指に奇妙な指輪リングが煌いていた。何の圧も感じないのでただのアクセサリーだとは思うものの、なぜか不思議と注意を惹く。
- しかし次にインセストの言葉を聞いたとき、そんな疑問は瞬時にして吹き飛んだ。
- 「あの子……マグサリオンもこの戦いに同行させてもらいたい」
- 「それは駄目ですッ!」
- 無意識、反射に近い拒絶だった。私は座っていた椅子を蹴り倒すように立ち上がっており、傍らのズルワーンとアーちゃんは驚いた顔でこちらを見ている。
- 心臓の音がうるさい。顔が真っ赤になっているのを感じながら、私は混乱の極致にあった。インセストの言はあくまでも“要請”で、“命令”ではなかったものの、誰かの願いをこれほど無碍に却下したのは初めてのことだと思う。
- どうして私はそんな真似を。いや分かっている。自覚しているからこそ苦しいのだ。
- 「君の気持ちも理解できるが、生憎これは譲れない。言っただろう、マシュヤーナを倒すにはあの子の協力が必須だと」
- ただ一人冷静なインセストを、憎らしいとすら思ってしまった。彼女は引き続き淡々と、しかし強固な意志を乗せて私に告げる。
- 「もう一度言うよ、僕はマグサリオンを戦いに連れて行きたい」
- お父様にも匹敵する、超重量の祈りオーダー……私が自分の構造を呪いたくなったのも、やはりこのときが初だった。
- ◇ ◇ ◇
- マグサリオンは昨日私と話した丘の上にいた。小さな身体で傲然と立ったまま、村の景色と人々の営みを見下ろしている。
- 何を考えているのだろうか、読もうと思えば読めるはずだが、そんな気にはなれなかった。今の彼は味方からも恐れられる凶戦士じゃなく、自分がどう在るべきかを迷っている一人の子供なのだから。この子が何を選び、どう答えを出して、どんな大人になっていくのか……私はその成長を見守りたい。
- しかし無論、それは叶わぬ願いだった。本当の彼は別にあって、現状のマグサリオンは夢のようなものだと分かっている。よっていつかは覚めるのが道理であり、また覚ますために尽力するのが私の正しい務めだろう。どだい勇者の死から二〇年経っていることを、ずっと隠しきれるものではない。
- けれど。
- もう少し、許されるなら永遠わずかでも、今が続いてほしかったのだ。ああつまり、夢を見ているのはきっと私。
- 彼とここから始まる関係を築いていけたらどんなにかと……手前勝手な可能性もしもがあまりに尊すぎたのだ。触れて、話せて、不器用ながらも歩み寄ってくれるこのマグサリオンを、私は失いたくない。
- 守りたいと、思ってしまう。
- 「何の用だ」
- ぶっきらぼうな少年の声に、私はどんな顔で応えたのだろう。自分では笑顔を心掛けたつもりだが、実際は思考と同じでぐちゃぐちゃの有り様かもしれない。
- それが恥ずかしくて正面から向き合うことができず、私は木の後ろに隠れるような立ち位置を採った。幹に背中を預けたまま、その向こうにいるマグサリオンへと語りかける。
- 「ちょっとあなたにお願いがあるんですけど、聞いてもらえますか?」
- 「場合による。ただおまえ、どうしてそんな所にいるんだよ」
- 「いえ別に、なんとなくです。あなたも顔を隠してるんだし、そこはお互い様だと思ってください」
- 声は思いのほか問題なく出た。木の反対側から呆れたような溜息が聞こえ、さっさと話せと促してくる。
- 「運動は得意ですか?」
- 「なに?」
- 「怖いのは平気ですか?」
- 「おい、ちょっと待て」
- 「これから死ぬかもしれないと言われたら、どうします?」
- 問いにマグサリオンは沈黙した。でも驚きに声をなくしたわけじゃなく、こちらの言葉を吟味しているのが分かる。
- 敏い子だ。私の下手糞な切り出しかたでも、話の要点を察したらしい。
- 「つまりこうか? 兄者のところへ帰るには、俺も戦わなければいけない」
- 「……ええ、理解が早くて助かります」
- 違うと、心中で自分自身を罵った。首尾よくマシュヤーナを倒して聖王領に帰れても、そこにワルフラーン様はもういない。あなたの慙愧を晴らすため、兄上と向き合う日はきっと永遠に来ないのだ。
- 私はそういう無情な現実に、あなたを引き戻そうとしている。あなた自身が手遅れだと言い、取り返しがつかないと吐き捨てたように、向かう未来さきはすべてを呪う血みどろの凶戦士。
- そんな元の彼に戻ったとき、今の彼はいったい何処へ行くのだろう。魔道具マシュヤグを壊さず、上手く確保できればこのマグサリオンを守れるかもしれないが、それはあくまで後方に待機してもらった場合の話だ。
- 戦場に連れ出せば激しい所有権の奪い合いが起きるはずだし、インセストたちはそれによる魔道具マシュヤグの破壊を狙っている。
- 「率直に言って、かなりの危険とぶつかるのは確実です。私も忙しいので、いちいち助けてはあげられません」
- ゆえにどのみち、ここで私と話しているマグサリオンは消えてしまうと分かっていた。戦いに同行したが最後、彼の結末はマシュヤーナに殺されるか未来の自分に殺されるか、二つに一つしかない。
- 「たぶん、いえ……ほとんど間違いなく死にますね。でもワルフラーン様の弟なら、これくらいは当然受け入れてくれるでしょう?」
- あえて馬鹿にした風を装い、だけど内心では縋るように私は言った。表面上はインセストの依頼を実行しつつ、実際のところは我を通すという破戒ぎりぎりの綱渡り。
- これだけ意地悪く脅したのだ、どうか年齢相応に怖がってほしい。勇者の弟という禁句まで持ち出したのは、彼の反発を期待してのこと。
- そして指示の優先順位を書き換えてほしい。嫌だ行かないと強い心で言ってくれれば、私はあなたの今を守れる。この夢はまだ続き、現実を超える可能性だってあるのだと――
- 私が祈った勝手な願いは、だが予想外の奇跡となって顕れた。
- 「おまえはどうして泣いてるんだ」
- 「……え?」
- 彼が何を言ったのか、咄嗟に理解することができなかった。言葉そのものは聞こえていたけど、意味がよく分からない。
- だって私の演技は完璧だったし、声が震えたりなんかは絶対してない。顔もマグサリオンからは見えないはずで、だいたい彼にまともな共感能力があるとは思えなかった。
- 曰く世界のすべてが気持ち悪い。不快で不明なだけの雑音だと言っていたのに、いったいなぜ……
- 「……、ッ」
- 私が泣いていると気付くのですか。あまつさえそんな優しい、少し面倒そうだけど労わるような声で。
- ずるいです。卑怯ですよ。そんな心を向けられたら、いよいよあなたを諦めきれない。すべてを放り出して、一緒に逃げたくなるじゃないですか。
- 「泣いて、ません」
- 「泣いてるだろう」
- 「泣いてません、てば!」
- 「……わけが分からん」
- それはこっちの台詞ですよ。そもそもあなた、私の話を聞いてましたか?
- 「死ぬと言ったんですよ。怖くはないんですか?」
- 「さあ、どうだかな。でもそうなったらそれはそれで、兄者に会えそうな気がしている」
- 「…………」
- 「おかしいか? あれは殺しても死なないような奴なのにな」
- 「ええ、おかしいですよ。おかしすぎて……」
- 逆に腹が立ってきたから、私は――
- 「あなたを死なせません。そして、お兄様にも会わせません」
- 木の陰から出ると、有無を言わさず小さなマグサリオンを抱きしめていた。
- 「なッ――おまえ、ふざけるなよ何を言ってる!」
- 不意のことに驚きを見せたのはほんの一瞬、すぐに彼はやめろ放せと暴れ出したが聞く耳待たず、私は腕により一層の力を込めた。
- 「こんな態度の悪い子を、勇者様に会わせられないと言ったんですよ。だいたいまだ、あなたは修行の途中でしょう」
- 「はあ? 待てよ何の話だ」
- 「私で練習すると決めたのを忘れましたか? そんなだから駄目なんですよ」
- いつかワルフラーン様とまた会えたとき、今度は後悔しないように。気持ち悪いのを我慢して私に付き合うと言った以上、中途半端なままじゃ困る。
- 「合格するまで放しません。覚えといてくださいね。私、請け負った仕事は徹底するタチなんです」
- そうだ、覚えていてほしい。忘れないでほしい。
- この先何が起ころうと、ここにいるマグサリオンをなかったことにさせはしない。
- させるものかと、強く私は誓ったのだ。
- 3
- 『あー、聞こえるかい諸君。これから少し、面白い異変が起きる。結果次第で私は絡むつもりだから、そのときはよろしく頼むよ。盛り上がっていこう』
- 垂れ流される声の調子は勝手なもので、返答を期待しているとは思えなかった。しかしこれが無意味な独り芝居かと言われれば、奇妙なことにそうではない。
- 声は確実に特定の人物へ届いており、“彼ら”は間違いなく聞いている。にも拘わらず反応が皆無なのは、一方的なコミュニケーションに誰もが辟易としているせいだった。
- いきなり押しかけるようにやって来て、気の向くままに好きなだけ話す。聞かされるほうは扉を閉められず耳も塞げず、延々と益体のない駄弁が終わるのを待つしかないのだ。下手に合いの手を入れようものなら、コレは喜々として喋りの回転をあげるだろう。
- ある種理不尽な集まりの強制は、実状的に会合ガーサーとほぼ同じだった。違うのは交わすものが声だけな点と、主催者が常に明確な点である。
- そんな構うだけ無駄と言える狂言回しに、このとき関わろうとする者がいた。非常に珍しいことながら、胡乱な場に双方向の会話が生まれる。
- 「ナダレ、いったいどうなっている」
- 『おお、マシュヤーナ。今日はまた、随分と機嫌が悪いみたいだね』
- 結果、案の定ナダレは声のトーンを一音階上げていた。嬉しくて堪らないといった風に、浮き立つ口調で言葉をずらずらと並べ始める。
- 『まあ君はいつもそういう感じだけど、わざわざ主張するのは珍しいね。相談を持ち掛けてくれたのは嬉しいし、私にできることならもちろん応えてあげたいが、そのためには論点を明確にしてもらいたい。先の質問は少々漠然としすぎてて、何を言っていいやら分からないよ』
- それに対し、マシュヤーナの反応はあからさまな舌打ちだった。彼女も本音のところでは絡みたくなかったのだろう。単にナダレが鬱陶しいというだけではなく、このやり取りは他の魔王たちにも聞かれている。問いを抽象的なものに留めたのは、できるだけ余計な情報を与えまいとしたためだ。
- が、どうやらナダレにそうした機微は通じぬらしい。とぼけた風を装っているものの、助言がほしいなら余さず話せとにやつきながら促している。図に乗るなと跳ねのけるのは簡単だったが、そうしてしまうと交渉は決裂だ。
- 求める答えを得られなくなる。そして、マシュヤーナには時間がない。
- 「……私の持ち物に誤作動が起きた。その原因を究明したい」
- 『ふーん? それってつまり、君の恋人を生んだ例のやつかい? だったら私より、クワルナフに聞くべきだろう』
- 『私の作品こどもに間違いなど起きん』
- と、名指しされた人物がそこで話に割り入った。まさか彼まで参入するとは誰も思っていなかったらしく、息を呑む気配が幾つもあったが、破滅工房はまるで気にした様子を見せない。俄然気をよくしたナダレの舌が再び回りだすより先に、己の見地を整然と開陳していく。
- 『おまえが我が子の“誰”を持っているかは与り知らんが、私は子の自立を認めている。よって干渉などはしていないし、伴侶との付き合い方にも口は出さん。あるがままに生き、あるがままに朽ちるのが子供たちの本懐ならば、彼らが何処で何をやろうとそれは彼らの機能である』
- 「だが、明らかに私が知るものとは違う現象を起こしたぞ」
- 『おまえが本質を把握していないだけだろう。もう一度言うが、私の眷属は無謬であり、誤りなどない』
- 断言し、話はそこで終わりと決定したのか、クワルナフは以降完全に沈黙した。後にはナダレの、やや呆れたような含み笑いだけが流れる。
- 『わりと親馬鹿っていうのかな。子供の名誉にうるさい彼がこう言う以上、君の宝物は壊れているわけじゃない。おかしなことが起きたのなら、原因は知識の不足と見るべきだよ、マシュヤーナ』
- 道具の機能に対してか、あるいは他の何かなのか。業腹ではあったが、己が無知であると知れたのは収穫と言っていい。第五位魔王は納得して、ついでとばかりにもう一つ問いを投げた。
- 「おまえが察知している異変とは何だ」
- 『具体的には読めないね。ただ私は君らと成り立ちが違うから、そこについては少し鼻が利くんだよ』
- 「ふん、なるほど。“崩れ”かよ」
- それは既知の情報だった。明確に説明されたことはないものの、ナダレの出自はおおよそ察しがついている。
- そうか、アレが起きるのか。しかし自分には無関係の話だと断定し、マシュヤーナもまた口を閉ざす。
- 『色が引っくり返る様はとても綺麗だ。いつ見ても震えるからこそ、もう起こすべきじゃないとも思ってるんだよ』
- 滔々とうとうと紡がれるナダレの声には誰一人として取り合わず、しかし最古の魔王は気にせず続けた。
- 『けれど見たいなあ、迷うなあ。……もしかしたら、こんな風に思うのも無知ゆえかもしれないね』
- だとすれば全知はきっと死も同然だ。何も楽しくなんかないだろう。
- そう締め括った詠嘆にも、他の六柱は変わらず沈黙を守っていた。
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- 第八章『空に消える』中編
- 4
- 空葬圏は広い。アーちゃんから聞いた話によると、もとは七つあった星をマシュヤーナが吸収・統合したのだという。
- つまり第五位魔王は六人の兄弟を喰らったことになり、そこにはかつてズルワーンだった星も存在する。これらの星々は最初から非常に距離が近く、住民の行き来も頻繁だったそうだけど、ゆえに火種となる問題がいくらでもあったらしい。たとえばどちらが衛星だの、格上だのといったお国自慢もその一つ。
- くだらない話だが、実際にそんな主張はただのお題目でしかなかったのだろう。争いの大元は真我アヴェスターにあるのだから、他の理由など単なる洒落やこじつけに過ぎない。
- 自分の故郷が一番だと謳いながら、本当に星を見ている者はいなかった。それが空葬圏の歴史しんじつで、七星の中から自我を持ったのはマシュヤーナとズルワーンの二人のみ。その両者が兄弟間の序列に拘るのは一種象徴的な皮肉と言え、私が見た夢の内容とも合致する。
- しかしあれを信じるなら、孤独に倦んだ彼女が魔道具に祈って弟あにを創ったということになるのだが……
- 「どうしたクイン、何見てやがる」
- 「いえ、なんでもありません」
- ともかく今、私たちはマシュヤーナと戦うために広い空葬圏を飛んでいた。瞬間移動は強力な術なので気配を読まれやすく、いきなり相手の眼前に現れるような真似は危険を伴う。よって我々は、マシュヤーナの知覚領域と思われるギリギリ外に一度転移し、そこからは地味に近づいていくという選択を採っていた。もどかしくはあるものの、事は隠密性が最優先されるので慎重に進めねばならない。
- すでに五時間以上は飛んでおり、魔王の星体も視認できているのだが、一向に近づく様子が見えないのは相手の巨大さゆえだった。改めて湧き起こる畏怖と共に、私は迫る開戦の瞬間に向けて気を引き締める。
- 「あのでかい樹を倒せばいいんだな?」
- 「ええ……具体的なことはこちらでやりますから、あなたは自分の問題に集中してください。何を悔いているのか、どうしたいのか……答えを見出すのが仕事です」
- 「……いいだろう。意味不明だが、口車に乗ってやる」
- 私に手を引かれる形で並走するマグサリオンが、つっけんどんな態度で頷いた。まったく恐れている感じがないのは度胸の良さによるものじゃなく、彼の異端的な視点が原因だと思われる。
- 傍らのズルワーンが、面白がるようにそこを突いた。
- 「おまえにとっちゃあ、なんもかんも気持ち悪ぃクソだってところは変わんねえわけか。相変わらず頼もしいねえ、嬉しくなってくる」
- 「……おまえは俺を知ってるのか?」
- 「おお、知ってるぜ。おまえは覚えてねえみたいだが、結構長い付き合いだ。早いとこ思い出してくれると助かるな」
- 「ズルワーン、それ以上は」
- 余計な話をしないでほしいと、強く目で抗議した。現実がマグサリオンの認識より二〇年進んでいるということは、まだできるだけ隠しておきたい。私の都合以前に、この局面で彼を混乱させても得は全然ないからだ。
- 「おまえマジで過保護だな、クイン。こいつがそんな気遣いされて喜ぶタマかよ」
- 「放っておいてください。彼の処遇を任されてるのは私です」
- 跳ねのけるように言い返すと、インセストが詫びに近い口調で同意を示した。
- 「まあ、クインの言う通りだ。君の方針について、僕もこれ以上の口出しはしないよ」
- 「そうしてもらえると助かります」
- 「きついね。どうやら嫌われちゃったみたいだけど、礼くらいは言わせてほしいな。色々と勝手なお願いを聞いてくれたこと、感謝してるよ」
- それに私は何も応えず、ただ握ったマグサリオンの手に力を込めた。
- 別にインセストが嫌いなわけではない。決戦にこの子を同行させるのは、戦術的に考えて必須だという理屈くらい分かっている。
- そしてズルワーンが言うように、本来のマグサリオンが私の気遣いなど歯牙にもかけないだろう点も。
- だが、だからこそ私は、この小さな彼を守ると誓った。遠からず二〇年の時間差が無情な真実で埋まるのだとしても、ここにいる少年の面影を残したい。
- ほんのわずかでもいいから、今の彼が凶戦士の在り方に影響を与えてくれればと願っているのだ。慙愧がマグサリオンの大事な部分である以上、汚点のごとく消し去っていいわけがない。
- 恥や後悔を呪わずに、正面から受け止めつつ立ってこそ真の人間アシャワン。
- 罪を背負い、罰に生きながら前を向くのは苦しいけれど、マグサリオンはそんな勇者で在ってほしい。
- 私はお父様の命令オーダーを超えて、彼の“練習”に最後まで付き合う覚悟を固めていた。その中で何らかの絆を育めたなら、以前と違うマグサリオンに会えるのではと信じている。
- 「わーったよ。どのみちオレも、余所に構ってる暇はねえ。ただこの際なんで言っとくが、おまえはオレの理想なんだぜ、マグサリオン」
- 「……どういう意味だ」
- 「言葉のまんまだが、お目付け役がうるせえし後は自分で考えな。そもそも他人に言われた話を、素直に受け入れるおまえじゃねえだろう」
- 「…………」
- 「期待してっから、盛り上げてくれよ。場合によっちゃあこれが今生の別れだしな」
- 縁起でもないことを笑って嘯くズルワーンだが、いつもの斜に構えた様子はなかった。彼は彼で胸に期する想いを抱いており、これから死地に臨む姿勢は真剣そのもの。
- つまり全員が本気なのだ。私もマグサリオンも、インセストもズルワーンも、それぞれ譲れぬ事情でここが正念場だと自覚している。第五位魔王は避けて通れぬ山であり、この地に彼女か我々のどちらかが倒れるのはもはや必定と言っていい。
- 今アーちゃんが不在なのも、要はそうした本気のベクトルが私たちと違うためだ。次代の星霊に成らんとする彼女にとって、最優先すべきは庇護している民の安全。
- よって彼らを背に乗せたまま戦うなど論外だし、少女の姿でも前線介入に難がある点は変わらなかった。マシュヤーナの権能に長年抗い続けたアーちゃんはかなり疲弊しており、その状態でフィジカル的な脆さが出る人間形態での参戦は自殺行為に等しいだろう。
- 文字通り空葬圏の未来を背負う彼女には、後方で守りと支援に徹してもらったほうがむしろ有り難い。現在、我々が展開中の飛行と隠形、さらに星内部での瞬間移動は使用回数にほぼ制限がなくなっている。協力の形としては、それだけで充分すぎるものだった。
- どう足掻いても寡兵な点は否めないが、やれる限りの人事と策は練ってある。強いて詰めたい議題といえばあと一つで、私はそのことを口にした。
- 「マシュヤーナの戒律について、何か情報はありませんか?」
- 腐敗という権能の実体なら聞かされていたけれど、戒律に関しては依然謎のままとなっている。前に一度戦ったときも、そこの見極めはできなかった。
- 「知っていれば対策を立てられるかもしれませんし、教えてほしいのですが」
- 「生憎と、知らねえな」
- 「本当に?」
- 「おまえはオレが嘘をついてねえことくらい分かんだろ」
- にべもなく返されて、私は言葉に詰まってしまった。ズルワーンは確かに嘘を嫌うし、今も隠し立てをしている風ではない。
- しかし、そんな話が有り得るのだろうか。他者の弱点に目端が利いて、嫌がらせを得意とするこの男が、長年にわたり争い続けてきた姉いもうとの真実を読めずにいるなんておかしいと思う。
- 「顔に出てんぞクイン。いくらオレだって、ハナから無いもんは推測のしようがねえ」
- 「つまり、マシュヤーナは戒律を課していないと?」
- 「少なくとも、一三年前まではな」
- 面倒そうに鼻を鳴らして、ズルワーンは話し始めた。
- 「星霊にとっちゃあ、特に珍しいことでもねえぞ。だいたい戒律ってのは力を得るためのもんだが、そこについて不足を感じる経験がなけりゃあ欲しがる気にも中々ならん。自分がどうだったかを考えてみろよ」
- 「確かに……それはそうですね」
- 生後すぐに宇宙へ放り出された私は、可及的速やかに力を得る必要があったから真我アヴェスターに訴えた。個人ごと様々なケースがあるにせよ、戒律とは概ね焦りや不満に端を発するものだと思う。
- ならばもともと強力な存在として生まれ落ちた星霊が、その機会から縁遠くなるのは道理かもしれない。夢の記憶から推察するに、自我を得たマシュヤーナはズルワーンの裏切りに遭うまで満たされていた。無二の弟あにと出会えた時点で、彼女の世界は完結していたと言っていい。
- 「加えて言やあ、人間とは時間の感覚も違うしな。あいつとは一四・五年やり合ったが、気分的にはほんの一瞬みたいなもんだったぜ。自分の生き様なんぞを考えるには短すぎる」
- 「ですが、あなた達はその果てに死を迎えたのでしょう。そこから別の在り方を余儀なくされた一三年……思うところはあったはずです」
- 「まあな。昔と変わった部分はもちろんある」
- ズルワーンは人間として、マシュヤーナは死者として、予期せぬ輪廻を経験した二人が変革に直面したのは確実だった。ゆえに彼が言う通り、以前のままなど有り得ない。
- 「今は戒律を持っている。そう思っていいのですね?」
- 「あいつはオレの鏡だからな。けど具体的なところは知らねえよ」
- 思えば、ズルワーンの戒律も謎だった。口ぶりからして彼も一三年前までは縛りを課していなかったらしいが、戦士ヤザタとなることでどんな価値観を見出したのだろう。芯が掴みづらい男だけに、分かるようで分からない。
- 私たちの話なんかどうでもいいのか、マグサリオンは無言のままを貫いている。そしてもう一人の人物は、奇妙につらそうな顔をして……
- 「僕はマシュヤーナの戒律を知ってるよ」
- インセストがそう呟いた次の瞬間、いきなり予想外の異変が起こった。
- 「―――ッ!?」
- 下から雲海を突き破って現れた樹木の触手はマシュヤーナの――いいや、似た系統だが桜じゃない。
- 梅か桃、あるいはその近縁と思われる何かだった。しかし、私たちの前で見る間に天を覆うほど広がっていく巨大さは、魔王と比べても遜色なく……もはやもう一つの星体とすら表現できる。
- なんだこいつは? マシュヤーナの側近? 馬鹿な――そんな話は聞いていない。
- そもそも、いったい何処に隠れていたのだ。これほどの脅威が間近に迫るまで気付かなかったなど、いくら何でもおかしすぎる。
- まるでたった今、無から生じたみたいではないか。
- 「クソが、もうバレたのかよ。使えねえなアー公!」
- 吐き捨てるように罵倒して、銃を構えるズルワーン。事態の唐突な急変は不明だったが、こうなったからには察知されたと見るべきだろう。ならば覚悟を決めるしかなく、私もマグサリオンを背に庇って迎撃の構えを取ろうとしたとき――
- 「やめろ! まだ僕らは気付かれちゃいない」
- 横からインセストが叫んだのだ。驚いて顔を見合わす私たちに、彼女は低い声で言葉を継ぐ。
- 「見なよ、大人しいもんだろ。ここでこっちから手を出したら藪蛇だぞ」
- 言われてみれば確かに、謎の巨大樹は不吉にざわめきながら枝葉を伸ばし続けていたものの、こちらに意識を向けている気配がなかった。隠形の加護は依然として私たちを透明に変えており、あれが戦うためにやって来たのではないと分かる。
- 「けれど、これはどういうことですか。マシュヤーナの他にもこんなものがいるなんて、あなたは知っていましたかズルワーン?」
- 「いいや、初めて見る奴だ。あいつと妙に被るところはあるが、この手のパチモンに覚えはねえ」
- 警戒しつつ距離を取る我々の前で、第二の星体が身の毛もよだつ咆哮を放った。やはりこちらを認識しているわけではなかったが、にも拘わらず五体を砕かれそうになる雄叫びの圧は敵意に燃えて……吹き飛ばされまいと身をすくめる私たちに、インセストが驚くべき事実を告げた。
- 「マシュヤグだよ。どうやら彼女、試し打ちをしたみたいだ」
- これは魔道具の産物だと――衝撃的な言葉に被さる形で、マグサリオンが声をあげる。
- 「おい、もう一つの奴が来たぞ」
- 「なッ――」
- 空を震わせて迫り来る不浄の桜が、瞬時にして間を詰めると新参者へ襲い掛かった。食虫植物さながらに、怒涛の勢いで広げた枝が牙となって謎の巨大樹に突き刺さるや、大陸ほどもあるその幹をメキメキと砕きつつ圧し折っていく。
- あがる絶叫。狂い舞う薄桃色の花と血飛沫。
- 星が星を呑み込むかのごとき、破滅的な光景がそこにあった。誇張なく天地を引き裂くほどのスケールで、二体の巨大生物が相克そうこくしながら絡み合う。
- 喰っているのだ。
- マシュヤーナは自分とよく似たこの存在を、まさにいま貪っている。空葬圏に絶対者は己だけという自負ゆえか、あるいはかつてズルワーンを殺したときの再現なのか。目の前で繰り広げられる弩級の暴威、暴食に、私は固まったまま声もない。
- 見れば傍らのズルワーンも、顔から表情が抜け落ちていた。しかしすぐに頭を振り、眉をひそめてインセストに質す。
- 「説明しろ。なんだこりゃあ」
- 「…………」
- 「いったいどういうことなのか、私たちにも分かる言葉で教えてください」
- 無反応なインセストに重ねて問うと、彼女ははっと驚いた顔で私を見た。謎という意味ではこちらもかなりのものがある男装の麗人は、次いであたふたと居住まいを正し、取り繕うように話し始める。
- 「……ああ、うん。とにかく、あれがマシュヤグの力なんだよ。一度マグサリオンに所有権を奪われたから、取り返そうとしたんだろう」
- 「それであのパチモンが生まれたってのか? どうも話が繋がんねえぞ、おまえ何かを誤魔化してるな」
- 「…………」
- 「無視すんなよ。なんでおまえはいっつもそういう――」
- 「待ってくださいズルワーン、私が聞きます」
- 彼ら二人の間で、コミュニケーションに重大な障害があるのは明白だった。原因はズルワーンに対するインセストの憧れか、あるいは他の何かのか。分からなかったがこの際そこはどうでもいい。そんなことを問い詰めている場合ではない。
- 眼前の異常事態に唯一精通しているのはインセストで、彼女とまともに会話ができるのは現状私だけなのだ。ならば四の五の抜きにして、ここはパイプ役に徹しよう。
- 実際、マシュヤーナが近づいてきたのはチャンスでもある。隠形ステルスが利いている内に、しっかりとした情報共有を済ませておきたい。
- 「あの偽物――面倒なのでそう言いますが、とにかくマシュヤグの力によって生み出されたものだとあなたは言う。確かに出現のいきなり具合を鑑みるに、アレはつい先ほど誕生したのかもしれません。ですが――」
- だとしても解せない点はある。なぜマシュヤーナはアレを攻撃しているのだ。
- 「いくらマグサリオンから所有権を奪い返すのが目的でも、結果的に敵を増やすような真似は不合理でしょう。どうせなら味方を増やすか我々を殺すか、そんな風に使うのが自然なはずです。
- マシュヤグの効果は、使用者の願いを汲み取って実現させるものだと解釈していましたが、違うのですか? 以前は教えられないと言われたので引いたものの、正直ずっと疑問でした」
- 「ここまでくるとさすがにスルーできねえぞ。命令だクイン、言ってやれ」
- 援護を受けて頷くと、私は決定的な言葉を継いだ。
- 「答えてくださいインセスト、こ、れ、は、ズ、ル、ワ、ー、ン、の、頼、み、で、す、」
- 「……ッ」
- そのとき彼女は、明らかな動揺と葛藤の気配を見せた。
- インセストはズルワーンに弱い。戒律上、私が無理強いするのは不可能だけど、彼の代弁者としてなら話は別だし拒絶も難しくなるはずだろう。
- 俯いたままの沈黙は十数秒。やがてインセストは観念したのか、嘆息して顔を上げた。
- 泣き笑いじみた表情で……だが奇妙なことを口にする。
- 「クイン。ズルワーンが今どこにいるのか、教えてくれ」
- 「え……?」
- それは、まったくワケが分からないお願いだった。そもそも彼女はこちらの問いに答えておらず、筋目的に不誠実な態度を取っている。
- よって本来なら不満の一つも抱くはずが、なぜかそういう気にはなれなかった。
- 祈りの強さや重さによるものではなく、ただインセストの静かな声に気圧されてしまい、逆らえず……
- 「そこに……あなたと正対する形で、立っています」
- 言われた通り、ズルワーンの居場所を指さしていた。インセストはありがとうと頷いて、私が示した先に目を向ける。
- そして蕭々しょうしょうと話し始めた。手を伸ばしても届かぬ別世界の恋人へ語り掛けるような、穏やかながらも狂おしく切ない抑揚で。
- 「マシュヤーナの戒律は、鏡なんだ。彼女はずっと一人で、寂しくて……やっと出会えた無二の宝物にも裏切られたから、もう二度とすれ違いたくないんだよ。一方通行なのは嫌だし、虚しい」
- 「おい、待てよ何を言ってる?」
- 問いにインセストは答えない。ズルワーンを見つめているようで見ていない。
- 話の内容はマシュヤグの真実じゃなく、第五位魔王の戒律に関わるもので、しかしまったくの無関係だとは思えなかった。
- インセストは、まるで見てきたみたいにマシュヤーナの秘密を語る。
- いいや、あたかも――我が事を顧みるかのごとく。
- 「目には目を、歯には歯を。それが彼女の決めた生き方なんだ。憎まれれば憎む、殴られれば殴る。“あのとき”いない者として扱われたのがつらすぎて、相手の鏡になれば見てもらえると信じたんだよ。
- ……でも、マシュヤーナは気付いてない。愛されたら、愛し返さなきゃいけないっていうことを。そんな反射で用立てる感情に、自分が納得できるはずもないってことを」
- 鏡――すなわち一種の模倣によるカウンターこそがマシュヤーナの戒律だとインセストは言っていた。不浄不動に敵意を向ければ、同質同量の想いが刃となって跳ね返る。曰くすれ違いたくないから。一方通行は虚しいから。
- ならば我々の前で繰り広げられている争いは、先に偽物がマシュヤーナを敵視したゆえの必然だということなのか。
- しかしそれだと、彼女の意志はいったいどこにあるのだろう。すれ違いを恐れるあまり、機械的なパントマイムを続けるほうがよっぽど虚しい茶番ではないか。
- 「だから僕は、あの馬鹿な奴を救いたいと思ってる。君はこれから絶望を味わうけれど、果てに夢見た場所へ必ず行けると教えてあげたい。そのために――」
- 間を置いて、インセストは銃を懐から取り出した。そしてマシュヤーナに向け、構えると、そこに以前と同じ不思議な輝きが集まりだす。
- 「“私”は今、ここにこうしているんだよ」
- 「待っ――」
- 止める暇もなく撃鉄が落とされて、放たれた光弾が第五位魔王に命中した。爆発する衝撃波と共に星体ガヨーマルトの巨体が震え、大陸の断層めいた桜の樹幹に歪ひずみが生じ穴となる。
- 私の出る幕などなく、インセストはたった一人でそれを成した。つまり作戦の第一段階は成功したことになるものの、手筈を無視した独断専行で咄嗟の対応が数瞬遅れる。
- そんな隙を衝くかのように。
- 「好きだ、ズルワーン。生まれる前からずっとずっと、私は君を愛してる」
- インセストがズルワーンに口づけした。そっと掠め去り、消えていく、まるで風みたいなキスだった。
- 「死んでからも。いつまでもね」
- 儚げな微笑が、殺到する樹木の津波に呑み込まれたのはその直後だった。
- 「インセスト!」
- 隠形の加護は触れたら解ける。“いない者”として成立するのは、あくまで何もしていなかった場合のみ。
- 事前に聞いていた通り、マシュヤーナを攻撃したことでインセストの存在が見破られた。目には目をの理屈に則り、魔王の反撃を受けた彼女は瞬く間に消えていく。
- すぐ近くにいた我々がまったくの無事だったのは、マシュヤーナの戒律があくまで応報を体現しているせいだろうか。しかし、今は理屈なんかどうでもいい。
- 「ふざけんな……てめえ、何を勝手な真似してやがる!」
- 怒りに顔を歪めたズルワーンが、呑み込まれたインセストを救い出そうと穴の中へ飛び込んで行った。
- 取り残された我々は、ただ聳え立つ星体ガヨーマルトを呆然と見上げている。
- 「……よく分からんな。ここから俺にやれることが、本当にあるのか?」
- 場違いなほど冷めた声で呟くマグサリオンに、私は返す言葉を持たなかった。
- 偽物をすでに喰い尽し、その身にズルワーンをも取り込んだマシュヤーナ。
- 訪れた静寂の中、はらはらと散る桜吹雪は艶なまめいて舞い踊り……歓喜に涙しているかのようだった。
- 5
- 常識的に考えて、インセストはもう死んでいる。刹那に彼女を呑み込んだ樹木の密度は凄まじすぎて、決定的な絵を目にしたわけではなかったが、あえて確かめるまでもないだろう。あの状況だけで判断材料としては充分すぎるし、そもそも彼女の肉体強度は一般人よる劣るのだ。
- よって、死体どころか骨の欠片すら残っておるまい。誰もがそう考えるはずの現実に、だがズルワーンは否と返した。理屈ではなく直感で、インセストの生存を確信している。
- 不思議な女。不愉快な女。しかしなぜか無視できず、関わるほどにペースを崩されてしまう苦手な女。
- まるで天敵だと思う反面、消えてほしいという感情は持っていない。むしろああいう奴が傍にいてこそ、自分は自分として立てるような気さえしている。
- 「馬鹿馬鹿しい、ガキじゃあるまいし」
- 突入した星体ガヨーマルトの内部を飛びながら、呆れた顔でズルワーンは吐き捨てた。唇を奪われた程度の不覚で、何を取り乱してるんだと嘲笑いたくなってくる。
- だいたいからして、二兎を追う余裕などこれっぽっちもないだろう。今度こそマシュヤーナと向き合う覚悟を固めたのだから、他の女に目移りしていると破滅を招く。彼の姉いもうとは、浮気に寛容な淑女の類とかけ離れた存在だ。
- そう頭では理解しつつも、ズルワーンは二人の女をほとんど同じ目線で見ていた。両天秤にかけているのではなく、彼女たちを別個の存在として切り離すことがどうしてもできない。
- マシュヤーナを想えばインセストが喜び、インセストを守ればマシュヤーナも救われる。そんな正体不明の支離滅裂な、浮ついているにも程がある考えが奇妙に強く固いのだ。
- ゆえに現状、インセストを探す自分に嗤いながらも、それが間違った選択だと思えずにいた。もとより彼にとって、正しき道とは誰かに用意された常識ではない。
- 「オレはオレのやりたいことを、やりたいようにやるんだよ。そう決めたんだ」
- 呟き、飛行の加護を切ったズルワーンは星体いもうとの上に降りていった。地も天蓋てんがいもすべてが樹木の洞窟内だが、そこに閉塞感は皆無である。
- なにせ大陸にも匹敵する桜の胎なかだ。これ自体が一つの世界と表現でき、マシュヤーナがまだ自我を持っていなかった頃は数多の生物を内包していた無辺の伽藍。有り体に、視界は地平の彼方まで開けている。
- インセストが穿った穴など、この場の広大さに比べれば針に等しい。何処までも果ての見えぬ空間に、天文学的な数の桜が群生する様は凄艶で……同時に儚く寂しかった。
- まるで消えゆく幽玄郷。もはや疾とうに滅ぶと決まった、手遅れなまでの美しさ。
- 止め処なく散る花の吹雪は血に紛い、マシュヤーナの今と心象を代弁している。
- 『来たか。さあ来い、ズルワーン』
- 樹肌に足を付けた瞬間、四方よもを震わす女の声が木霊した。冷厳に、だが熱く、抑えきれぬ情念を込めて憎悪アイが燃える。
- 『決着をつけよう』
- それにズルワーンは即応せず、タバコを取り出すと一服吹かしてから口を開いた。
- 「その前に、さっきおまえが引きずり込んだ女は何処だ。返せとは言わねえから、ちょっと見せろよ」
- 生きているのかとは聞かない。そんなことは問うまでもなく、ただ居場所だけを尋ねている。人を食った質問にマシュヤーナを怒気を漲らせるかと思いきや、意外にも静かな声で返答した。
- 『右手を見ろ』
- ざあ、と潮が引くように花弁の風が割れる。言葉の通りズルワーンの右手側、一際大きな桜の根元にインセストが横たわっていた。見る限り気絶しているだけで、特にこれといった負傷もない。
- 殺せなかったのか、殺さなかったのか、あるいはどうでもよかったのか。
- 事によれば今後の明暗を分けるかもしれぬ問題に、しかしズルワーンは無関心なままだった。少なくとも彼にとって、マシュヤーナとインセストは同質かつ同価である。
- ならば片方だけ消えるというのは有り得ないと思っていたし、それを確認できた時点でもうインセストは捨て置いていい。どちらを選ぶというのではなく、どちらを選ぼうと結果的に同じなのだ。
- そう感じる根拠のほどは、相変わらず不明ながらも。
- 『これでよいか』
- 「ああ、満足したぜ。運んでくれよ」
- どのみち、答えは遠からず判明する。マシュヤーナが誘いざなう瞬間移動に呑まれる寸前、薄桃色の風に抱かれてズルワーンは考えた。
- さてオレは、どんな決着とやらに至るのだろう。
- やりたいことや言いたいことならあるものの、果てに訪れる未来のカタチが分からない。すべてが激変してしまうのか、もしくは何も変わらないのか。
- どちらにせよ、自分は自分らしく生きていく。世界がどんな様相を帯びようと、転生によって得た誓いを貫き通せればそれでよい。
- 無責任だとクインは言うかもしれなかったが、そこは色々と諦めてもらおう。なぜなら予測も予断も許さぬ混沌にこそ、自分の求めた理想がある。
- 「ごちゃごちゃしてるのがいいんだよ。割り切れねえ話があって、浅ペラく片付かないから世の中面白くなるんだろうが」
- 案外と、その先に真の勝利が生まれるような……そうズルワーンは思っていたのだ。
- ◇ ◇ ◇
- 胸が高鳴る。薬指が疼く。原初の円環が熱く鼓動し、約束の時を告げている。
- もうすぐだ、もうすぐ逢えると、腐敗した星体ガヨーマルトの深奥に座すマシュヤーナは、死面のごとき美貌を嫣然と綻ばせた。
- やはりマシュヤグは誤作動など起こしてない。我力を込めて願い、望めば、思い描いた通りの祝福を授けてくれる。その理を無事に再認できた以上、唯一の不安は解消された。
- なるほどクワルナフの言う通り、自分は浅薄で無知なのだろう。支配しているこの星ソラにさえ、未だ把握しきれぬ真実が幾つもある。
- だが、だからどうした。自分は勝った。取り戻した。
- こうして再び主導権を手にした今、二度と掠め取らせるつもりはない。己が物知らずだと弁えて、微塵の油断もなくマシュヤグを管理すれば不測の事態は防げるのだ。
- そこさえ確かなら充分で、決着までのわずかな間に横槍が入らなければそれでいい。
- どのみち最初から生き残ろうとは思っておらず、すでにこの身は死を抱いたまま――腐り、爛れ、朽ち果てている。
- 「勝とうが負けようが私は終わりだ。勝敗の帰趨など、無粋すぎて問うつもりもない」
- まったく興味の埒外だと、マシュヤーナは花のように香かぐわしい腐臭を吐いた。玉座を彩る枝垂桜が、死鳥の羽撃きがごとくおどろにざわめく。
- 「おまえと共に生まれた私は、おまえと共に死ぬ定めだと知っている。そうしてこそ完成する関係なのだと私は信じて――ああ、待っていたぞズルワーン」
- 渦巻く花弁の旋風が去った後、現れた男へ魔王は麗らかに微笑んだ。
- 甘く生ぬるい退廃の香りが立ち込める中、両者は互いを見つめて対峙する。一三年の時を超え、向き合ったからには前口上などもはや不要。
- タバコを吐き捨てたズルワーンが銃を抜き、立ち上がったマシュヤーナは桜花の扇子を艶あでやかに開く。
- 幽玄の静寂を引き裂く銃声――ここに激しく、火蓋は切って落とされた。
- 両者の戦力を単純な数値で計るなら、天と地ほども隔たっている。星体の巨躯ではなく、人型を取っている現在のマシュヤーナは膂力や頑強さが低下していたものの、だからといって与し易いはずもない。もとが高位存在である星霊は、基礎的な部分の桁が違う。
- 一級程度の魔将ダエーワならば、この姿でも徒手空拳で万は殺せる力があった。加え自我を結晶化した状態のため、意志の力は星体時と比較にならぬほど上がっている。
- つまり素の身体能力が下がる代わりに、戒律や権能といった特殊能力は人型こちらのほうが凄まじいものとなるのだ。
- マシュヤーナが宇宙の頂点たる七柱の一角だという事実は、総合的に何も変わっていない。対して、ズルワーンはどうだろうか。
- 以前は彼も星霊だったが、転生の果てにただの人間となっている。戦士ヤザタの中では抜き出た実力の持ち主でも、魔王を相手に単独で戦うのは無謀としか言えなかった。煎じ詰めるところ格が違う。
- 善思の代表たる勇者ならまだしも、義者アシャワンとして異端的なズルワーンに奇跡が舞い降りることはない。結論として、彼ら兄姉きょうだいはいっそ哀れなほど住む世界が異なっており、二人がこの対決にどれだけの想いを懸けていようが、実際は茶番以下のワンサイドゲームにしかならないだろう。
- しかし――マシュヤーナはそんな世界の無常を一切気にしていなかった。
- 迫る銃弾を雅な扇で弾いた顔は真剣そのもの。慢心、落胆の色は毛ほどもなく、全身全霊で兄おとうとの攻めに応じている。時を経て、立場が変わり、生き様もすれ違って力の差が懸絶しても、自分たちは何一つ変わらないのだと信じるように。変わって堪るかと祈るように。
- 銃撃など、本来なら噴飯もののはずである。銃ソレは効率化と汎用性を主題に据えた武装にすぎず、誰であろうと使える反面、誰が使っても威力は一定的な代物だ。
- 口径の大きさ、弾頭や炸薬の種類。効果を決めるのはそういった細工でしかなく、使い手の技量で差が出るのはせいぜいのところ命中率のみ。幼児であろうと豪傑であろうと、銃を握った瞬間に脅威度は大差のないものへと変わる。
- ゆえに便利だが、発展性は極めて低い底の知れたくだらぬ玩具だ。起源コンセプトからして有象無象に合わせた道具が魔王に通じるはずもなく、わざわざ弾かずとも息を吹きかけただけで消せただろう。
- いいや、一瞥の必要すらなかったはずだ。にも拘わらずマシュヤーナは、真っ向から児戯以下の攻撃に応じている。
- 二発目、三発目、連続する銃弾を舞踊的な流麗さで返し続けた。それがどんな次元のものであれ、自分に向けられた事象を無視しないという切実なまでの真面目さは、逆説的に私を見てと叫んでいる証明だった。
- インセストの言は正鵠を射ている。
- マシュヤーナの戒律はまさに鏡だ。己に注がれるすべての想いと向き合う縛りで、相手に同質のものを跳ね返す反射能力。
- 目には目を、歯には歯を。憎まれれば憎み、殴られれば殴る。
- 撃たれれば撃ち返す。
- ただし、如何なるケースにも対応する万能無敵の盾ではない。前提として、番つがいを求めるマシュヤーナの孤独アイは重く、他者へ要求する一途さ、真摯さのレベルが非常に高い。
- 世界で自分一人だけを見てくれるような、ある種狂的なまでの想いでなければ完璧な形で跳ね返すことができなかった。よって基準に満たぬ奴儕やつばらへは、画一的な応報行為しか取れなくなる。
- 要するに、不真面目な輩が嫌いなのだ。特に意味もなく絡んでくる遊び人や、他に大義を抱えている浮気者、マシュヤーナを寄り道や通過点と見ている存在は不実であり、無二の半身と言い難い。
- 相手がこちらをしっかり見ていないのだから、しっかり返す必要もないだろう。他の魔王やクインに対して完全反射が起きなかったのはそういう理屈で、非常にシビアな使い勝手の悪い力と言える。
- しかし、嵌ったときはまさに鉄壁。無謬の攻勢防御が発動する。
- 天下に私とおまえの二人だけ。お互いしか目に入らず、お互いしか求めない。
- そんな状況限定の、すなわち今このときの――
- 愛しい男と散るためだけに生み出した双輪ふたわの舞、対ズルワーン専用の戒律だった。
- 「いいぞ、おまえの意志を感じる。
- 目を逸らすな、私も逸らさん。共に世界ソラの彼方まで行こう――」
- 何であろうと、そっくりそのまま跳ね返す。
- あくまで“完璧な”反射ゆえに、加えられた力以上の返しができない面はあった。敵が強大なら強大に、卑小ならば卑小にと、鏡の理を体現して相手の力量に合わせてしまう特性は、戦闘術としてむしろ欠陥だらけと言えるだろう。
- 通常なら枝の一振りで星をも砕く不浄不動が、たかが銃弾を律儀に返す様は滑稽すぎて無様ですらある。
- だが、だとしてもいったい何だ。どこに問題があるとマシュヤーナは天地に懸けて謳いあげた。
- 彼女が夢見たのはズルワーンとの逢瀬のみ。星の支配でも、最強の座でも、善の鏖殺でもありはしない。この非情な世界に生まれた意味、争いだけの宇宙において自分は一人じゃないのだと、ただそう信じられればよかったのだ。それのみで満たされたのだ。
- 今、彼女はここにいる。確しかと認識され立っている。
- 「私の生はおまえの中に、散らぬ消えぬ咲いている」
- ああ、ならば満開の美となろう。これ以上の幸福があるものか!
- 「……なるほど、マジに鏡なんだな」
- 都合一三発。弾倉の中身を残らず吐き出したズルワーンは、呆れた顔で呟いた。マシュヤーナは当然のように無傷だったが、そこは彼も同様だ。
- 反射されたのは自分の弾丸。同じ弾速に同じ弾道。躱せないほうがどうかしており、現状は必然的なものである。攻めが一切通用しなかった点は憂うべきだが、魔王の反撃をその程度にできるのはかなり助かる利点だろう。
- ただし両者の体力差を鑑みれば、どちらが先に潰れるかは明らかだった。現実としてマシュヤーナの守りを突破する手段がなければ、どう足掻いてもズルワーンが詰む。
- それは彼も分かっているはずで、だからこそ次なる展開が訪れた。
- 「悪ぃな、ちょっと試したんだよ。どんだけ信憑性のある話でも、自分で確かめなきゃ納得できないタチなんでな」
- 飄々と告げる兄おとうとに、マシュヤーナの眉宇がぴくりと動いた。
- 「私の戒律を量るために、あえて脆弱を装ったと?」
- 「いや、オレは実際に激弱なんだが、まあさっきのがペテンだったのは確かだな。別に手抜きしたってわけじゃねえ、ガチでやるための布石だよ」
- 言いながらも、ズルワーンは新たに装填をしなかった。空になった拳銃を、くるくると意味もなく回している。
- 「信じらんねえか?」
- 「いいや、信じる。銃ソレが通じぬと分かったからこそ、弾を込め直さないのだろう。何よりおまえの魂が、私を倒すと言っている」
- 「逃げる気なのかもしんねえぜ?」
- 「有り得ない」
- 一刀のもと斬り捨てるように、頑としてマシュヤーナは首を振った。信頼と言うには壮絶すぎる念を込め、桜色に濡れた瞳が燃える。
- 「道化も大概にしておけよ。私はおまえのためだけに、この日へ臨むだけの私となった。ならばおまえもまた同じく、私のためだけに誂えたものがあるはずだ。あらねばならない」
- ゆえに見せろと伝えた言葉は、脅迫じみて懇願めいて……風を巻きつつ不浄の社に木霊した。
- 共に不本意な別離を迎えたあの日から、いつか来る再会を期して今日に至った二人である。限定的かつ専用的な力を持つに至ったのは、断じて自分だけに非ずとマシュヤーナは確信していた。
- ズルワーンが薄く笑う。バツ悪げに、だが優しげに、トレードマークの幅広帽を不意に高く放り投げ、明るく爽快に言い放った。
- 「よっし、そんじゃあ始めるか!」
- 刹那に轟いた銃声は、これまでとまったく異なるものだった。そもそも弾倉は空のはずで、爆ぜる火薬も飛び出る弾も常識的にあるはずがない。
- にも拘わらず音が鳴る。空を引き裂き――否、砕き、千のガラスが瞬時に割れたと紛う破壊音は、まるで世界の法則を粉砕したかのようだった。
- 舞う幅広帽を貫いて迫る不可視の銃弾。光線にも等しいその脅威を、マシュヤーナの扇が真っ向正面から迎え撃つ。たとえどれほどの絶技であれ、彼女が奉ずる天則は万象ものみな跳ね返す不抜ふばつの鏡面。貫くどころか皹ひびの一つも入れられまい。
- 「……ッ!?」
- しかし今、ここに絶対反射の理が崩された。マシュヤーナは負傷こそ免れたものの、ズルワーンの銃閃を正確に弾くことができず蹈鞴たたらを踏む。大きく体勢を崩しながら、怜悧な顔に驚愕の相を浮かべていた。
- 「なんだこれは……」
- いわゆる矛盾。絶対と絶対がぶつかれば相殺される現象かと思いかけ、だが瞬時に違うと悟った。あれはそういうものではない。
- ズルワーンは斜に構えた男である。万事に物事を曲げて捉え、常に天邪鬼で身勝手な、とにかくその手の不遜さこそが真骨頂だ。“すべてを貫く”などといった愚直さは、むしろ指をさして馬鹿にする側だろう。
- ではいったい、何だというのか。
- 続く二の矢、三の矢をマシュヤーナは辛うじて弾いたものの、やはり正しい反射ができなかった。理屈は依然として不明なものの、まるでズルワーンは他者の戒律を壊しているような……
- 言うなれば一種の無効化。それをこの男らしい言葉に置き換えるなら何と名付ける?
- 焦燥のなか自問して、マシュヤーナは戦慄と共に答えを得た。
- 「まさかおまえ、戒、律、を、持、っ、て、い、な、い、の、か、?」
- その概念を知らぬ凡俗とは違い――
- かつての自分たちのように、満ちているから不要なのでもなかった。
- 「おまえは真我アヴェスターを知り、世の無情を知り、なのに戒律ちからを拒絶したのか。何者にも縛られぬと、掟、の、外、に、生、き、る、掟、を、課、し、た、の、か、ズ、ル、ワ、ー、ン、!」
- それは発想の転換とすら言えぬ、大前提の覆しだった。
- 戦士ヤザタであれ魔将ダエーワであれ、真我アヴェスターを深く読める者なら誰であろうと戒律を課す。時期に個人差はあっても、力の獲得にずっと無頓着でいられるほどこの宇宙は優しくない。
- そうしなければ、自分が傀儡にでもなったかのような虚無感を味わうのだ。黒白こくびゃくに分かれて無限に殺し合うことの意味、己はなぜここにいるのか途方に暮れたくないがために、立脚点となる戒律しんねんを絶対的に必要とする。
- 我はこうだと謳いあげ、天地に誇りを刻み付けねば立ってさえいられない。
- ゆえにこその戒律を、だが呪いと断じた男がここにいる。
- 「縛りを持たねえ縛りってのも、屁理屈みたいで面白いだろ? オレっぽいし、何より見返りが気に入っている」
- 秘密を平然と開陳するズルワーンに、打算的な気配は欠片もなかった。すでに大方ネタが割れているからという事情ではなく、あくまでマシュヤーナと真摯に向き合うための赤心せきしんで、単に聞かれたから話している。
- この戦いにおいて、勝敗を問う気がないのは彼も同じなのだろう。
- 「狙ったわけじゃねえんだが、御覧の通りオレに戒律は利かねえよ。我力も、権能も、体質も、クソ世界のルールに従ってる優等生どもの技は全部、オレの前じゃ無意味だと思え」
- 「……大きく出たな。実際はそんなに広い範囲でもあるまい」
- 「うるせえな、ちったあ兄貴に見栄を張らせろよ」
- マシュヤーナの指摘に、ズルワーンは不貞腐れたような吐息をこぼした。図星を衝かれた証である。
- 世界の法に従わぬと誓ったことで、法下にある技を無効化する力。それが字義通りに展開すれば無敵に近い鬼札ジョーカーだが、確かに彼はそこまで超越的な領域に至っているわけでもなかった。
- と言うより、構造上限界点が定められている。ズルワーンが特異な信念を持った原因は、一三年前の苦い失敗。吐いてしまった嘘の記憶。
- かつてマシュヤーナに敗れた際、己が本音を偽った悔いからくる慙愧だった。よって彼の能力は、姉いもうとを前にしたときだけ真の効果を発揮するようにできている。他の相手や場面では、せいぜい散発的に劣化したものを振るうのが関の山だ。
- 「まあ、とにかくそんなわけで、どうするよ? 喧嘩を続けるか、もうやめるか。どっちにしても大した違いはねえと思うぜ」
- 銃口でこめかみを擦りつつ、暗に降伏を促すズルワーン。今や立場は完全に逆転した。
- 共に互いを専用とした力だが、無効化という掟破りを前にすればどう足掻いてもマシュヤーナが詰む。鏡の戒律に縛られた彼女は、ズルワーンが戦うと言えば戦い続け、やめようと言えばやめるしかないのだ。
- あるいはその事実を突きつけて、マシュヤーナが停戦を受け入れた先に彼の狙いがあるのかもしれなかったが……
- 「私に選択を強いるのか。面白い」
- くつくつと姉いもうとは含み笑った。万事休すと諦めたのではなく、残酷なまでに薫る雅さからは謎の優越感が滲んでいる。
- 「ああ、おまえの言う通り勝ち負けなどはどうでもよいよ。しかしこのまま、諾々だくだくと従うのは気に食わんな」
- 「それを拘ってるって言うんじゃねえの?」
- 「かもしれん。であればここも、そっくり返させてもらおうか。おまえに選択を強いてやりたい」
- 言うと、マシュヤーナは右手の甲を顔の前にかざして見せた。白く優美な薬指に、捻じれた指輪リングが煌いて映える。
- 「降伏か、死か」
- 「おいやめろ、おまえは何も分かってねえ」
- あれがマシュヤグ――そうズルワーンは理解して、うんざりだと頭を振った。
- 「言ったろうが、今のオレには通じねえよ。おまえがそいつにお願いして、どんな無茶をやらかそうが無意味だし――」
- 「分かってないのはおまえだよ」
- が、マシュヤーナの笑みはなおも凄艶さを増していた。慈愛すら感じるほどに、母のごとく兄おとうとを見る。
- 「大方おまえ、これを願望の投影機だとでも早合点しているのだろう。……まあ、その捉え方もある意味正しい。基になるのは切実な祈り、狂おしく乞う魂の叫び。強い感情が必要なのは確かだが、願ったことを何でも具現すると思うのは間違いだ」
- 静かに熱を込めながら、桜花を纏った女は語る。マシュヤグの業わざは限定的かつ明確な、一つの用途に特化していると示していた。
- 「こいつは複製品を生むんだよ。本質的には番つがいとして、同質の、だが似て非なる、原初の男と女のような……おまえと、そして私のような……」
- 「……なんだと」
- ズルワーンの勘は鋭い。この瞬間、彼は自分がどういう存在なのかを過たず悟っていた。
- 己はマシュヤーナの番として、魔道具に創造された複製品。だからこそオリジナルとは切っても切れない関係で、運命的なまでに惹かれ合い、絡み合う。
- なるほど、言われてみれば納得できる記憶ばかりだ。ゆえにそんな真実はどうでもいい。
- たとえ出自が何であろうと、自分の所在ありかは確固としている。系譜としては破滅工房の孫に等しいと言われたところで、変わるものなど一つもない。
- よって思うところは別にあった。マシュヤグが真にそういう道具なら、マグサリオンの幼児退行が不可解すぎる。
- 知る限り、空葬圏で若返った奴など皆無だぞ。
- 「疑問は分かる。しかし生憎と私も知らん」
- そもそもこの場に関係あるかと、マシュヤーナは先へ進んだ。
- 「我らは始まりから終わりまで二人のみだ。私を見ろ、私を見ろよ。おまえだけでいい。おまえしか見えん」
- ぼう、と原初の海で命の火が点るように、マシュヤグが揺らめいて輝き始める。
- 主の意を汲み、望む番を創造する魔業のほどは、決して物質的な括りだけに留まらない。
- 現象、概念、“在る”と認識できるすべてのモノに及ぶのだ。ならば当然、ズルワーンの信念さえ例外ではなかった。
- 「おまえの掟破りを複製しよう。さてどうなるか、うまく私に馴染むかな。それとも自滅してしまうかな。賭けとしては分が悪そうな気もするが、どう転んだところで構わんさ。
- 勝敗など無粋すぎて問うつもりもなく、私はおまえと睦み合えれば幸せなのだ。
- ……なあ、私を見てくれるか。ズルワーン」
- 「待て――!」
- 駆け出す男と目を閉じる女。両者の想いと運命が、飽和し弾ける光となって不浄の桜を巻き上げた。
- 散るか咲くか。あるいは、消えるか。
- 向かう先は混沌として、見通すことはできなかった。
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