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- 木村「今回はバルトについてやっていきます。先輩がたは『エリクチュール』という言葉をご存知ですか?」
- 野獣「なんか聞いたことあるんだけどなぁ…」
- 木村「今回はそれについて説明していきます。エリクチュールとは、言い換えて「言葉遣い」です。例えばレスリング民にはレスリング語録があり、淫夢民には淫夢語録があるのは知ってますよね?」
- 三浦「勿論だゾ」
- 木村「エリクチュールとは、こうした集団内で使われる言葉的なものです。つまりレスリング語録とは「レスリング民のエリクチュール」であり、淫夢語録とは「淫夢民のエリクチュール」なのです」
- 野獣「はえ^~」
- 木村「こうしたエリクチュールを用いることは、その集団に入ったことを意味します。ですからバルトは、こうした特定のエリクチュールだと気づかずに用いることを恐れたのです」
- 野獣「確かに淫夢をあまり知らないノンケが淫夢語録を使っている事がありますねぇ…」
- 三浦「そういうノンケには悪気が無いんだろうけど、淫夢民から『ホモガキ乙』とか言われてしまうゾ…」
- 木村「それがバルトの恐れたことです。ですから、こう言ったエリクチュールを含まない表現を探したのです。これこそが『零度のエリクチュール』なのです」
- 野獣「つまり、ありのままの表現の事だろ?」
- 三浦「これってルキアノスでやったような気がするゾ…」
- 木村「しかし、どんな表現にもエリクチュールは含まれてしまいます。「木が倒れた」と書いたら、戦争を思い出す人がいるかもしれません。つまり『言語ゲーム』が作用してしまうのです」
- 野獣「悲しいなぁ…」
- 木村「ここでバルトは零度のエリクチュールを探し求めた結果、日本の俳句にそれを発見しました。俳句の中には、淡々とした事実しか書いていなかったのです」
- 三浦「『この世をば 我が世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思えば』……思想がバリッバリに入ってるんですがそれは…」
- 野獣「でもエリクチュールは入ってないよな。集団的なものの言葉ではなく、万人に等しく与える言葉だぜ」
- 木村「そうです。ここで言いたいことは『エリクチュール』と『思想』は異なる事です。つまりエリクチュールとは、とある集団内で作用する『思想』なのです」
- 三浦「はえ^~」
- 木村「そんなバルトは、エリクチュールから記号論を発展させます。仮にピザがあったとして、そこにはどんな記号があると思いますか?」
- 野獣「ピザの記号?…イメージで言うなら、イタリアっぽいとか、かなぁ…?」
- 木村「そうです。僕たちは何を見ても、そのものではなく、何かしらの記号として捉えてしまうのです。つまり先程例に挙げたピザとは、「ピザそのもの」と「イタリアっぽいイメージ」の二つの意味があるのです」
- 三浦「確かにそうだゾ。ピザやパスタを出す店を見たら、俺は「イタリア料理店かな?」と思うゾ」
- 木村「こうした「そのもの」を『デノテーション』と言い、「それっぽいイメージ」を『コノテーション』と言います。さっきのピザだと、「ピザそのもの」がデノテーションであり、「イタリアっぽいイメージ」が『コノテーション』なのです」
- 野獣「俺は『鈴木先輩』という"デノテーション"と『真夏の夜の淫夢のイメージ』という"コノテーション"があるんだな!」
- 三浦「自分で言うのか…(困惑)」
- 木村「そしてバルトは考えます。昔の人たちは、太陽や月を神として崇めていました。そうです、神話の世界で生きていたのです。しかし現在においても、太陽を「エネルギーのイメージ」と言った具合に、別の意味で捉えているのです」
- 野獣「昔は神だったものが、今ではエネルギーのイメージ…こう言いたいんだろ?」
- 木村「ええ。こう言ったお陰で、今の我々は物を見ても沢山解釈してしまいます。…スーツ服の大人を見たら、デノテーションでは『大人』ですが、コノテーションでは『まじめ、サラリーマン』となるかもしれません。他にも同様です」
- 三浦「つまり昔の捉え方が、今でも記号、要するにコノテーションとして名残が存在するのか…」
- 木村「はい。こう言った世界を『社会的神話』と言います。昔の人々の抱いた考えが、今の僕たちにも通じているのです」
- 野獣「だから、淫夢的な考えの「ホモはくさそう」というコノテーションは後世に引き継がれる可能性が微レ存…?」
- 三浦「同性愛者に申し訳ないと思わないのかよ(正論)」
- 野獣「ですよねぇ?ウーン」
- 木村「また、バルトは文学作品についても考えました。彼は構造主義を文学に当てはめたのです。そして作者の特権性を否定したのです」
- 三浦「どういう事ゾ?」
- 木村「まず、バルトは文学作品を『テキスト』と呼びます。このテキストには沢山のエリクチュールが混ざっていて、作者のオリジナリティは無いのです」
- 野獣「どんな小説や評論にも、必ず何かしらのエリクチュールが混ざっている訳だな」
- 三浦「つまり作者がテキストに最も近い存在ではないのかゾ!」
- 木村「そうです。テキストとは、作者を操るエリクチュールによって書かれていたのです。つまり、それを読むことが『作者の思想を知ること』ではないのです」
- 野獣「作者とテキストを切り離したんだな」
- 木村「お察しの通りで。だから先程、「作者の特権性を否定した」と言ったのです。彼にとって、作者はいないようなものです。文学作品を読んだ時に生きているのは、読者だけなのです」
- 三浦「言われてみればそうだゾ…」
- 木村「こう言った「文学作品を読むときに作者は出てこない」ことを『作者の死』と言い、「生きているのは読者だけだ」ということを『読者の誕生』というのです」
- 野獣「はえ^~」
- 木村「ですからバルトは、テキストを読むことは"自由に楽しくよむもの"であって、決して"作者の言いたいことを理解しよう"という訳ではないのです」
- 野獣「自由に読め、と言いたいんだな」
- 三浦「作者は死んだ」
- 野獣「ニーチェ的な言い方はNG」
- 木村「次はラッセルです。彼は数学者としても有名で、「ラッセル=アインシュタイン宣言」は有名ですね」
- 野獣「あのラッセルかぁ!!」
- 木村「そのラッセルです。彼は『命題』について考えました。『命題』とは、論理的に真偽を判断できる文です。そうした命題の真偽は、その命題の主語が述語の集合に含まれているかどうかで決まるのです」
- 三浦「主語が述語の集合に含まれているか、と言うことは「日本人は人間である」って命題のとき、『人間』という述語の集合に『日本人』が含まれているから"真"なのかゾ!」
- 野獣「確かにそうですねぇ、「鳥は哺乳類だ」って命題のときは、『哺乳類』という述語の集合に『鳥』は含まれていないから"偽"ですね」
- 木村「それでは先輩がたお聞きします。…「現在の葛城蓮はホモビ男優である」という命題はどうでしょう?」
- 三浦「虐待おじさんって今なにやってるんだろうなぁ…」
- 野獣「これって論理的に判断出来ないよなぁ。何故って、今の虐待おじさんがホモビ男優であるかどうか分からないから、判断のしようがないんだよなぁ」
- 木村「こうした命題は真偽を判断できません。何故なら、僕たちは観測できないからです。こうした真偽の意味を『真理値』と呼びますが、真偽を特定できないのです」
- 三浦「そうだゾ」
- 木村「しかし、真偽を特定できない命題があっては論理が崩れると思ったラッセルは、「現在の葛城蓮はホモビ男優である」という文を分解したのです」
- 野獣「どんな風に分解したんだ?」
- 木村「さっきの文で言えば、『現在、少なくとも1人の葛城蓮がいる』、『葛城蓮は現在、多くても1人しかいない』、『もしそのような葛城蓮がいたらホモビ男優である』という三つに分解したのです」
- 三浦「確かに『葛城蓮』と言っても、もしかしたら日本中にたくさん存在するかもしれないからなぁ…」
- 野獣「つまり"現在の葛城蓮"という表現を複数に分解する事で、真偽を得ようとしたんだな」
- 木村「ええ。この場合、三つ全てが真とならない限り、この命題は真になりません。先程の例で言えば、『多くても1人しかいない』という命題は判断できません。よってこれは偽なのです。何故なら、他にも『葛城蓮』はいるかもしれないから」
- 野獣「俺らの知ってる1人の葛城蓮がホモビ男優だとしても、他の葛城蓮は普通の会社員かもしれない。この場合に『現在の葛城蓮はホモビ男優である』なんて命題が真にされたら困ったものだもんな」
- 木村「こうした真偽の判断方法を『記述理論』と言い、ラッセルはこうして論理を分析したのです」
- 三浦「曖昧な命題を分析して真偽を得ようとするのも、やっぱり数学者を帯びてるよなぁ…」
- 木村「続いてはデカルトの心身二元論についてやっていきます」
- 野獣「おい、デカルトの項で心身二元論なんてやってないぜ。どうしてくれんのこれ(哲学クレーマー)」
- 木村「いやいや、やったじゃないですか。…もう一度言いますと、心身二元論とは「心」と「身体」は別々であると考えたのです」
- 野獣「確かにやってましたねぇ!(認知症)」
- 三浦「じゃあなんで俺らは自由に手足が動かせるんだよ(困惑)…汎神論か?身体図式のお陰か?」
- 野獣「ずいぶん賢くなりましたね、三浦さん…」
- 木村「こうした心身二元論では、手足が自由に動かせる原理が説明できません。それでは、一元論で説明できるでしょうか?」
- 三浦「全てが物質なら一元論で説明できるゾ。見えてる物も、身体も、そして心もすべて物質なら、の話だが」
- 木村「今、三浦先輩が仰ってくれたように、世界も身体も心もすべて物質で出来ている、という考えがあります。これこそが『物理主義』であり、徐々に科学的に解明されようとされるのです」
- 野獣「しかし心って物質なのか…?」
- 木村「だから今でも問題にされるのです。物理主義者の多くは、こうした心は脳の機能と結び付けられていて、脳科学の立場から物理学的に解析できると言ってます」
- 三浦「なんか違うような気もするけどなぁ…」
- 木村「ここで出てきたのがライルです。彼もまた物理主義者の一人であり、デカルトの心身二元論に疑問を持ちました。彼はこうしたデカルトの心身二元論を『機械の中の幽霊』という言い方で批判しました」
- 野獣「『機械』という身体、『幽霊』という心。確かに心は幽霊みたいなもんやし」
- 三浦「物質を非物質が操るというのもおかしな話に思えるけど、物質を物質が操るというのもおかしく思える。行き場は無いのかゾ…!?」
- 木村「ですから、ライルは心身二元論を『カテゴリー錯誤』と呼んで非難したのです。例えばサラダがあったとして、そこにはトマトやレタスが入っています。しかし"サラダ"は入っていませんよね?」
- 野獣「"サラダ"は"サラダの具"ではないぜ」
- 木村「これは心にも当てはまるのだ、とライルは言います。涙を流したり、笑顔を作ったりすると言った『身体行動』が集まってはじめて『心』が出来上がるのだ、と考えたのです。つまりデカルトは、「サラダ」をトマトなどの具と並列に扱ってしまったのです」
- 三浦「サラダは「サラダ」であり、「サラダと言う具」ではない。これと同様に、心は「心」であって「心という身体行動」ではない。だから身体と心は並列に扱えない…」
- 木村「その通りです。トマトとサラダを並列に扱えないように、心と身体は並列では扱えないのです。これこそを『カテゴリー錯誤』と言います」
- 野獣「はえ^~」
- 木村「そしてライルは、『心』とは泣いたり笑ったりする身体行動のことだ、と考えたのです。つまり『心』とは、そう言った行動なのです」
- 三浦「実体はないのか…」
- 木村「はい。ですから、僕らの中の心で感情や思考が生まれているのではありません。心とは傾向なのです。例えば、「怒り」とは"顔を真っ赤にして怒った顔をする傾向"なのであり、「悲しみ」とは"泣いたりする傾向"なのです」
- 野獣「つまり身体行動へと向かう傾向性そのものが『心』なんだな」
- 三浦「そう言った傾向性なのかぁ…」
- 木村「このような考えを『行動主義』と言います。行動は客観的に観察が可能ですから、表面化する心を科学的に解明しようとする動きが生まれました。これこそが『行動主義心理学』なのです」
- 野獣「行動を調査し、心の中を分析しようとするのか…」
- 木村「ですが、一つの感情が一つの行動に繋がるとは限りません。嬉し泣きすることだって、悲しくて笑ってしまう事もあります。ですから、行動の分析には「総合的な解釈」が必要だとも考えられました。これを『解釈主義』と言います」
- 三浦「なるほどなぁ…」
- 木村「先程言った『機械の中の幽霊』ですが、これと同名の本を出した哲学者がいます。その名をケストラーと言い、彼は同書の中で『ホロン』という概念を提唱したのです」
- 野獣「ホロン…何か可愛い言い方だな」
- 木村「この『ホロン』とは、「大きく見た場合は部分的としての性質を持ち、小さく見た場合は全体としての性質を持つもの」です」
- 三浦「訳が分からないゾ…」
- 木村「例えばですが、人間は骨や内臓で出来ています。この場合、内臓は"大きく見た場合"、人間を構成している部分的なものです。しかし"小さく見た場合"、細胞が連なって出来ているのです」
- 野獣「じゃあ、その人間を取り囲む家族が存在したら、"大きく見た場合"は家族を構成している部分的なもので、"小さく見た場合"は骨や内臓で出来ているぞ」
- 木村「そうです。つまり、僕の例なら骨や内臓はホロンであり、鈴木先輩の例なら人間はホロンなのです。また、家族も社会を構成する一部ですから、またホロンなのです」
- 三浦「そういう事だったのか…」
- 野獣「これだったら殆どがホロンですねぇ!」
- 木村「その通り、皆ホロン的性質を持っているのです。こうした中でケストラーは『社会的ホロン』というものを述べます。社会的ホロンとは階級性を持ったホロンの事です。先程の例では、「人間のホロン」のほうが「骨や内臓のホロン」より上位性なのです」
- 野獣「ホロンには階級があるのか…」
- 木村「こうしたホロンは全体帰属的な傾向を持ちます。つまり上位ホロンは下位ホロンに命令を下し、下位ホロンはそれを実行するのです。しかしホロンには自己主張性もあります。同じ階級同士のホロンで競争が起こったりするのです」
- 三浦「内臓や骨では競争が起こるのか…?」
- 野獣「内臓と骨なら、競争と言うより全体性のバランスでしょ。もし一つの器官が壊れたら、ホロン全体へ支障が出る。だから自己主張性を持たなければならないんでしょ」
- 三浦「あっ、そっかぁ…」
- 木村「こうした中でケストラーは『人間の危機』を述べます。当たり前のように、人間の持つホロンにも『全体帰属的傾向』と『自己主張性』はあるのです。全体帰属的傾向は大きな存在と溶け合うことで鎮静化し、自己主張性は攻撃や防衛としての側面が出ます」
- 野獣「競争が起こり、今まで沢山の被害者が出てきたもんなぁ…」
- 木村「しかし、こうした全体帰属的傾向によって大量虐殺が起こって来たのも事実ではありませんか?…とある宗教に帰属していたホロンは、別の宗教を迫害するために虐殺した。こうした全体帰属的傾向によって攻撃が出るのは、人間しかいないのです」
- 三浦「他の動物や植物は、自己主張性で競争が発生する。他の植物を駆逐したり、肉食動物が動物に襲い掛かるのも自己主張性だもんなぁ…」
- 野獣「全体帰属的傾向によって攻撃が生まれてしまう人間を恐れたのね」
- 木村「また、彼はこうした人間のホロン的な進化の先はないと考えます。つまり人間の絶滅を恐れたんですね。これを回避するために、ケストラーは遺伝子操作などの生物的操作をするよう言ったのです」
- 三浦「遺伝子操作かぁ…」
- 野獣「言っている事は分かる。社会的ホロンを持った人間は、このまま進歩していっても未来はない。だから絶滅してしまう。しかしなぁ、生物的操作はなぁ…」
- 木村「また、同書のタイトルである『機械の中の幽霊』とは、ライルは心身二元論を批判する為に使用しましたが、ケストラーは『確かに"機械の中の幽霊"は存在するが、それは心身二元論として用いるのではない』と考えます。つまりホロン的に考えようとしたのです」
- 三浦「はえ^~」
- 木村「最後にキットラーについてやっていきましょう。彼は『グラモフォン・フィルム・タイプライター』という著書の中で、こう言ったテクノロジーが我々に与える影響について述べたのです」
- 野獣「とうとうテクノロジー様のお出ましですね…」
- 木村「こうした中で、キットラーは三つのテクノロジーについて考えました。まずはグラモフォン、言い換えて蓄音機です。蓄音機の発達で、流行歌が生まれました。本を読まない人にも楽に聞ける歌、それこそが本を読まない人の『文学』になってしまったのです」
- 三浦「蓄音機が発達する以前は、音は録音出来なかった。だから流行歌が文学になったのか…」
- 木村「そしてフィルム、映画が登場します。映画の登場で、我々の動きは静的なものの連続である事を知る訳です。これは以前述べた『意識の流れ』とは真逆を行く内容です」
- 野獣「どんどん文学が崩れていってるなぁ…」
- 木村「今、鈴木先輩が言ってくれた通りです。キットラーはこの本を通じて、文学のイメージの崩壊の変遷を描いたのです」
- 三浦「じゃあ、最後に待ち受けているタイプライターって…?」
- 木村「最後に出てきたタイプライターは、今まで目が視える人にしか書けなかった文学に革命を起こします。何故なら、盲目の人でも書けるようになったからです」
- 野獣「最後はいいイメージなんだけどなぁ」
- 木村「あくまで"イメージの崩壊"なのであり、文学のあり方の変遷でもあるのです。今まで目が視えなかった人は書くのが大変だったでしょうが、それがタイプライターの登場によって解消された。こうしたイメージの変遷に、テクノロジーが携わっているのです」
- 三浦「あっ!確かにテクノロジーが俺らに影響を与えているゾ!」
- 木村「そして作者は、この「テクノロジーの革命」の延長線に我々がいるのだ、と言ったのです」
- 野獣「つまり、これからは言葉を口にしただけで文字にしてくれるかもしれない…って既にあるわ」
- 三浦「こうしたテクノロジーの行く末ってどうなっていくのかゾ…?」
- 木村「それは分かりません。ですがキットラーは、第二次世界大戦を"タイプライターの戦争"とも呼んでいます。これからはテクノロジーが突出し始め、我々を飲みこむでしょうね。彼はこうしたことを恐れているのかもしれません」
- 野獣「テクノロジー怖いな^~とづまりすとこ」
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