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- 第六章『慙愧の空』前編
- 1
- 来た、来た――ついにこの日がやって来た。
- あまりに待ち侘びすぎてどれくらい経ったのか不明だけど、時間の長短で価値が左右されるなんてことはない。
- 一瞬だろうと一億年だろうと私は待った。重要なのはその事実で、自分が本気だという一点にある。
- よって躊躇も恐怖も心に無かった。疼くような切なさと恥ずかしさなら感じるものの、これこそ己の証明だと信じているから足枷になんか成り得ない。
- むしろ翼と理解して、期待に胸を高鳴らせながら私は飛ぶ。
- どこまでも鋭く、速く――臆病だったかつての自分を空に葬り、本当の自由を勝ち取るために。
- ようやく君に会えるのだ。今度こそ意地を張らず、目を見て堂々と向き合おう。そして私の気持ちを伝えよう。
- ああ、好きだ。大好きだ。生まれる前からずっとずっと、私は君を愛してる。
- 祈りは必ず叶うだろう。私が私になれたのは、そういう仕組みなのだから。
- 道が困難なのは知っているが、踏破できることも知っているのだ。
- 私はただドラマチックに、君と最善の天則を体現したい。
- 「もうすぐ会えるよ、ズルワーン」
- 呟き、狂おしいほどの甘酸っぱさを噛みしめた。
- そうとも、この祈りこそが私のすべて。私が願う奇跡のカタチ――
- 邪魔をするなら、たとえ神であろうと許すものか。
- 2
- 「貴様、いったい何処から来た?」
- あの日、龍骸星でマグサリオンはそう問うた。私たちには意味が分からず、首を捻るしかなかった言葉。
- だけどズルワーンはにやりと笑って、ついにバレたかと観念したのだ。気付いてくれたのがおまえで嬉しいと、負け惜しみには思えない清々とした声で過去を明かす。
- 「オレが生まれたのは空葬圏だ。当時は別の名前だったが、とにかくそれが答えだよマグサリオン。マシュヤーナとは縁がある」
- 第五位魔王、不浄不動マシュヤーナ。聖王領にとって不倶戴天の敵である絶対悪の一柱が、自分の妹だと彼は言った。
- ならばズルワーンは、出自が星霊ということになる。しかし今の彼は紛れもなく人間で、そこにどんな理屈が働いたのか分からない。
- 「一三年前、オレはマシュヤーナに殺された。奴とは双子の星だったんだが、善悪が違ったんで真我の命じるままにさ。星体ごと喰われちまったし、後は妹の養分になって消えるだけ――ていうオチだと思った」
- 「ならばどうして、貴様は聖王領に現れた?」
- 「分からん。最後の足掻きで瞬間移動を使ったのは覚えてんだが、どうも他の何かが噛んだ気もする。ただ結果を言えば、以前のオレじゃあなくなってたな。目が覚めてみりゃあこの通り人間で、おまけに勃ちもしやがらねえ。まあそのへんはどうでもいいが、要するに生まれ変わったんだと思ってるよ」
- 星霊として生まれ、星霊と死に、だけど滅びず、ヒトとして聖王領に転生した。
- 俄かには信じがたい告白だったが、ズルワーンが嘘を言っていないのは分かる。
- だって彼は、なぜか嘘を頑なに嫌うのだ。いい加減で軽薄に過ぎる普段の行状を鑑みれば、奇妙なほど虚偽だけは拒む男だと知っている。
- 「理屈はともかく、オレはそうしてオレになった。けど縁ってのは、切っても切れないみたいでな。妹が魔王なんざやってるせいか、無駄に鼻が利くんだよ」
- 「貴様が魔将どもに発揮する勘は、マシュヤーナの影響による嗅覚だと?」
- 「たぶんね。一種の鏡みたいなもんなんだろう。きっとあいつは、血眼になって戦士に対する勘を磨いてやがるんだ。これはその裏返しだよ」
- もともと双子であるゆえの連動が、善悪による反転現象を伴い顕れている。いい迷惑だと愚痴るズルワーンは、そこでふっと自嘲した。
- 「つまりあっちも、オレが生きてることに気付いてる。生まれ変わったお陰で匂いを追うのは手間だろうし、簡単には見つけらんねえはずだがな。これがどうにも兄貴思いな妹でよ、早々忘れちゃくんねえ上に、見逃してくれるほど優しくもねえんだわ」
- 「だからいずれ、会いにくるというわけか」
- ゆっくりと咀嚼するように、マグサリオンは頷いた。長い付き合いであるズルワーンの述懐になんら労わりの言葉を掛けないまま、殺戮への欲求に武者震いしながら告げる。
- 「貴様は餌だ」
- まるで都合のいいアイテムを手に入れたとでも言わんばかりに……無慈悲で傲然とした抑揚だった。
- 「以降、俺が命じたときは傍にいろズルワーン。断るならここで殺す」
- 「オーケー、分かったよ大将。オレも正直、そろそろ潮時だとは思ってたんだ。妹との悪縁切るのに、おまえの手を借りられるんなら有り難い」
- これが契約――あのとき、最後まで確認できなかったやり取りの顛末だった。
- 「まあもっとも、奴と会わずに済むならそれに越した話はないがね」
- 飄々と嘯くズルワーンは、かつて自分を殺した魔王に恐怖しているわけじゃない。
- そこにはあるのは、兄としてただ妹を想う悲しみ。
- 分かり合えぬまま、黒白の関係になってしまった後悔、慙愧。
- いつも読みにくい彼の心がこんなに明確な形で伝わってきたのは、きっとそういう意味なのだろう。世の中はごちゃごちゃしているほうがよく、二つに一つの価値観なんてつまらないと言った彼の、芯の部分を見た気がした。
- 善悪を超えた思慕の念。世界の理に反した在り方も、この男ならと納得させられる。
- ズルワーンは、マシュヤーナを愛しているのだ。
- ◇ ◇ ◇
- 空に墜ちる。一瞬の意識同調から覚めた私が、最初に知覚した状況はそんな矛盾したものだった。
- 「ぼさっとすんなクイン――てめえ、ついてきやがったんなら腹決めろ!」
- 「――ッ、すみません!」
- 容赦なく叩き付けられるズルワーンの罵声は、先ほど垣間見た記憶に宿る寂寥感からほど遠い。
- 当然だろう。今の我々は、たった三人で魔王の支配域に入っているのだ。
- 「飛行は最低でも二重に掛けろ。でなきゃ星の裏側までぶっ飛ばされっぞ!」
- 切迫した彼の叫びが、前後左右の何処から聞こえてきたのかも分からない。確かなのは、今の自分が嵐に舞う木の葉よりも酷い状況にあることだけだ。
- 聖王領の天に生じた亀裂へ引きずり込まれた私たちは、もはや別の世界にいる。狂乱する気圧の津波が踊るこの地こそ、第五位魔王が星霊として君臨する妖異の魔境に他ならない。
- 空葬圏ドゥルジ・ナス――。
- 「……これはッ」
- 指示に従い、ようやく姿勢を制御した私が見たものは、まさに無辺の絶空だった。
- 開けた視界に映るパノラマは、壮大な雲海模様を描いている。大気の主成分は水素、メタン、ヘリウム、加えてアンモニアか。真っ当な人類が存在できる星じゃなかったが、私にとっては問題ないしズルワーンたちも加護の力で自衛はできよう。
- つまり然程の悪環境ではなく、戦士ならこれくらいの状況で立ち回ることは日常の範疇だ。にも拘わらず私が戦慄を覚えたのは、もっと根源的かつ原始的な恐怖――いいや、欠落感とでも評すべきもの。
- 「この星、大地がありません……!」
- 足を着け、立つべき土台の在処を感じなかった。あらゆる行動へ踏み出すための第一歩、起点を支えてくれる母なる存在が消えている。
- 空葬圏は一種のガス惑星だと聞いていたが、それでも核に近づけば物質が圧縮され、気体の形を保てなくなるはずなのに。
- ここでは何処までも飛んでいくし落ちていく。根ざすという概念が、徹底的に駆逐されている世界だった。
- すべてが空に葬られる星。
- 「少し違うな。地面がないんじゃねえ」
- 不愉快な気分を隠しもせずに、ズルワーンが吐き捨てた。
- 「地面代わりのもんがヤバすぎて、誰も降りられねえだけのことだよ」
- 同時に、雲海を突き破って凄まじいものが姿を現す。
- 『ズルワーン、ズルワーン――よくぞ還ってきた、弟よ』
- 「うるせえ、オレが兄貴だっつってんだろ!」
- 聖王領の天を裂き、私たちを引きずり込んだ異形の樹木がそこにあった。
- 大きさは一見しただけで測れるようなものじゃない。距離感覚が狂うほど常識はずれな様相は、お父様の出鱈目さを想起させる。
- 星霊――間違いなく、あれがマシュヤーナの正体だった。ならばなるほど、先にズルワーンが述べた言葉も納得できる。
- この星に根ざせるのはマシュヤーナだけ。核であり、大地であり、ゆえに絶対の一であるあの巨大樹こそが大母だから、誰も彼女の上に立てないのだ。
- カイホスルーの龍骸星とは別の意味で終わっている。悪の星霊が統べる星とはこれほど壊滅的な惨状なのかと、今さらながら総毛立つ悪寒を禁じ得ない。
- そして、脅威はまだ序の口にも至ってなかった。
- 『どうしておまえは生きているのだ。どうして私がこうなるのだ。どうして、どうして、腹立たしい……残らず取り込んだはずなのに。おまえの味を、私は今も覚えているのに』
- 連続して雲海から生えてくる魔性の樹木に終わりが見えない。今や森とすら表現できる密度を有し、群生しながら尽きることなく広がり始め、空を覆い隠していく。
- 最初に見た一本は小枝の先端部分にすぎなかった。寄り合わさった超巨大樹は、ざわざわと生い茂って無数の蕾を生んでいき、その一つ一つが開き始める。
- わずかの内に咲き誇り、満開の偉容を見せたのは薄桃色の花模様。世界樹とも表現すべき枝垂桜は、まるで神の芸術めいた幽玄の美を湛えていたが、本能的な直感が私たちに教えている。
- これはあらゆる命を喰らう花だ。血を吸うほどに麗しく、妖しくに淫らに映えていく。
- 『だがよい、許そう。二度もおまえを抱けるのは、喜ばしき再現なり』
- その花弁が散り始めた。こちらに迫るたった一片の舞を見て、ついに私は敵の規模を実感として理解する。
- 馬鹿な――真にこれだけで、下手な島より巨大だと!?
- 「ぶち抜けッ――躱そうなんて思うんじゃねえ!」
- 「おおおォォッ!」
- ズルワーンの怒声に、マグサリオンの咆哮が重なった。同時に私も攻撃強化を纏い、渾身の力で花弁を殴りつける。
- 「ぐううッ……!」
- 三人掛かりで行った全力の迎撃は、はたして成功だったのだろうか。結果だけを言うなら我々は生きており、なんとか魔王の初撃を凌いでいる。
- しかし打ち破ったわけではない。花弁はすでに下方へ流れていったが、こちらがやれたことはベクトルをずらしただけ。
- 弾き返せなかったし貫けなかった。薄い――といっても数十メートルはある――花弁の厚みさえ、私たちにとっては山のように堅く重い。
- 今も拳が鈍い痛みに痺れていた。ズルワーンの言う通り、あれほど巨大な物を躱し続けるのは現実的じゃなく、瞬間移動も使用回数に制限がある。だからこうするしかないのは確かだったが、それはあまりにも果ての見えぬ作業だろう。
- 視界を埋め尽くして乱舞する花弁は、優に数百億枚を超えているのだ。こんなものと正面切ってぶつかるなど、無尽の流星群を相手取るに等しい。
- 「――殺す」
- なのにマグサリオンは一歩も退かず、ひたすら突貫を繰り返していた。彼らしい向こう見ずな選択で、今までは光明に繋がることも多数あった蛮勇だけど、ここでの起死回生が私には見えてこない。
- ジリ貧とも言えぬ足掻きを一秒でも長く継続するしか、現状何もできなかった。局面を打破するための策を講じる余裕もなく、見る間に全員が削られていく。
- 常に余裕の態度を崩さないズルワーンさえ、焦燥に歯軋りしている有様だった。そんな彼の横顔が目に入るたび、背後から迫る死神の足音を感じてしまう。何をやっても通じない徒労感が恐怖に変わり、絶望の二文字が襲い掛かってくるかのようで――
- 『私がこうなったのはおまえのせいだ。崩れる。落ちる。溶けていく。どれだけ他で補っても止められない。もはや死にゆく星体は、あのときおまえが私を拒んだ結果だろう。ズルワーン』
- 朦朧とする意識の中、見上げる世界樹は幻想的な花嵐を纏いながらも、なぜか対極的な昏さと穢れを放っていた。
- 空気に強い腐臭が混じる。思えば彼女が出現した瞬間も、私は同様の臭気を嗅ぎ取り、感じたのだ。これは手遅れな域の汚穢だと。
- すなわち不浄。ウォフ・マナフの神眼が、第五位魔王の本質として定めた銘こそ不浄不動だ。そこにどんな意味があるのだろう。
- 不動だけならまだ分かる。真の姿が樹木であるマシュヤーナは、なるほど躍動感から遠くて当然。根を張り、枝葉を伸ばして領土を広げはするものの、本質的に静を旨とする存在だ。
- ならば不浄の意味するところは? 彼女だけを特別に糾弾し、他の魔王よりも冒涜的だと断じた因果は何処にある?
- 情況を鑑みれば呑気な思索に耽る私は、つまりそれだけ彼岸に近づいていたのだろう。そして、だからこその結果だったのかもしれない。
- 『おまえが私の心臓を奪ったのだ』
- その言葉を聞いたとき、胸の奥で何かが確かに脈を打った。物理的な鼓動ではなく、私を通じて遥か遠い彼方の高次へ――そこに坐します強く暖かい誰かの腕に抱かれるような。
- ああ、心臓の音が聞こえる。
- 「――――ッ」
- 同時に轟く大音響と、炸裂する凄まじいまでの破壊力。一気に数千枚もの花弁を粉砕し、あろうことか世界樹の本体さえ陥没せしめた超絶の一撃は、彼女に縁を持ったズルワーンでも、数々の常識を覆してきたマグサリオンによるものでもない。
- 他ならぬ、私だった。無意識に繰り出した拳の一発で、第五位魔王に痛恨のダメージを与えている。
- 『――貴様!』
- 予想外の反撃に憤怒を燃やすマシュヤーナの威圧さえ、今の私には届かない。だって、こちらのほうが何倍も驚いているのだ。
- 「兄者……」
- やはり呆然とした様子のマグサリオンと視線が合い、私は正体不明の感慨に囚われる。
- 悼むような、悔恨するような、けれど慈しむような、恐怖するような。
- いったい自分に何が起きた? 先ほどまでマシュヤーナはズルワーンしか見ておらず、私に奮戦を望んでいたわけじゃない。
- つまり裏技を使う余地などまったくなかった。そもそもあの機能は敵が求める殺し甲斐に応えるもので、ゆえに最大効果を発揮しても互角以下の力しか出ないはず。
- だというのに、先の一発は明らかにマシュヤーナを上回っていた。そこは感覚として間違いなく、ならば全体、どんな理屈で?
- 「分かんねえことは考えんな。とにかく行け、クイン!」
- 「――はい!」
- 何もかもが不明だったが、ズルワーンの指示で我に返った。彼の言う通り、今は眼前の危機に対処することだけを考えよう。
- 謎について思いを巡らすのは、生き残った後でやればいい。
- 『……不快な奴だ。私たちの情交に分け入るなら、相応の報いを覚悟せよ』
- すでに平静を取り戻したマシュヤーナの、深くこちらを吟味する視線と意識が突き刺さった。フレデリカほど無茶な再生能力は持たないようだが、それでも回復速度は並の魔将と比較にならない。加え、巨体に相応しいタフさがある。
- よって端的に、時間は敵だ。わずかな綻びが生じた今こそ、一気呵成に押し切るべきだと考える。
- 再び迫った薄桃色の一片に、私は全力の蹴りを叩き込んだ。隕石群のごとき花吹雪が、まとめて血飛沫さながらに四散する。
- 「ひょう! 何か知らねえが、景気良くなってきたじゃねえか」
- 「ええ、ですがさっきほどじゃありません」
- 私の力は紛れもなく飛躍的に向上している。しかし最初の一撃に迫るほどのものじゃなかった。花弁の雨は吹き飛ばせても、マシュヤーナの本体に届かないのがその証。
- 「構わねえよ、あんまり都合よすぎると後が怖い。必殺技ってのはなクイン、好き勝手に使えねえからこそ映えるんだよ」
- まるでゲーム感覚な台詞には辟易したが、見方を変えればいつものズルワーンが戻ってきたと言えるだろう。だいぶ嫌な男だけど、ある一点では信頼しているところもある。
- 理屈を超えて、彼は何かの“答え”に近い。そんなズルワーンが普段通りに振る舞ってるなら、優勢を約束されたと思っていい。
- もう一人――先ほどからずっと沈黙したまま動かないマグサリオンも気になるが、ここはズルワーンのノリに従う。
- 「心得ました。何とか道を作りますので、援護をよろしく」
- 「おう、とにかく奴の中に入るぞ。話はそっからだ」
- 腐ってもかつては星霊。双子の妹であるマシュヤーナの核と対峙すれば、何らかの手を打てるのだろう。ならば私の役割は、彼をその場へ導くことだ。
- 総身に漲る力を四肢へ集め、血路を開かんと咆哮する。
- 「はあああッ!」
- そうして後は怒涛のごとしだ。途切れることなく連続する花弁は脅威を通り越した代物だったが、今の私なら突破できる。砕き、貫き、蹴り破って、津波を切り裂くように突き進む。
- 龍骸星でフレデリカと戦った際、意識を失う寸前に見ていたあの白い景色を再び感じた。今度は朦朧と煙る風じゃなく、はっきりと意識を持って鮮明に。
- 輝く温かい光の中で、誰かが私を呼んでた。クイン、クインと、一人、二人――いいやそんなものじゃない。
- 一〇人、一〇〇人、もっと、もっとだ。数えきれないほどの“みんな”がそこで、微笑みながら私に手を振っている。
- レイリがいた。マリカがいた。他にも他にも、これまで関わったすべての人々。救えた人も救えなかった人も、例外なく光の中で瞬いていたのだ。
- さらには初対面の人たちまでいて、なのに私は疑いもなく確信する。
- 彼らこそ二〇年前、お父様に滅ぼされた伝説の戦士――ワルフラーン様の剣となり、善の王道を駆けた英雄たちに違いない。
- その縁者たちまで含めれば、もはや無限と言えるほどの数だった。そんな彼らが、いま想いを一つに私の背中を押している。
- 進め、倒せ、勝利を手に掴み取れと。
- そうとも、私は心臓の音を聞いているのだ。
- これこそまさに奇跡の鼓動――!
- 『なるほど、ナダレに聞いたことがあるぞ』
- こちらを見下ろす邪悪で不浄な念が告げる。ぞっとするほど冷ややかな、恐怖に近い忌避感と共に。
- 『おまえ、■■か――』
- 「――――」
- 呪詛に塗れた真言は、しかし明確な形で聞き取れなかった。戦闘の音に紛れたわけでも、私が白い世界に没入していたからでもない。
- 単語を理解できる域にまで、自分が組み替えられていないせいだ。直感的に悟った事実は、やはり深い謎に包まれて――
- 『クワルナフの愚か者めが、おぞましいものを生み出しおって』
- 世界樹が蠢きだした。不動の名を空に葬送するかのごとく、本気で殺すと壮絶な我力を燃え上がらせる。
- 同時に、乱れ舞う花弁までもが蠢動を開始した。まるでそこから羽化するように、ぼこぼこと表面が泡立ち始める。
- 『下衆には似合いの死をくれてやろう。汚らわしい祈りとやら、残らず不浄に貪られて消えるがいい』
- そのとき私の鼓膜を叩いたのは、爆音に等しい羽音の烈風。それによって生まれた衝撃波の炸裂だった。
- 「……くそが、そうくるかよ」
- 瞬間的に聴覚の機能を乱された私でも、舌打ちするズルワーンの苛立ちは感じ取れた。そして無論、眼前に展開する新たな脅威も。
- 不浄な羽音を響かせて、空に隊伍を組むのは蝿と蜂。すべてが牛ほどもある大きさで、凶暴な不義者の気を発している。
- これが先ほど、花弁の中から雪崩を打って湧き出たのだ。私の機能が読み取った限り、一枚につき数億匹という荒唐無稽な規模と密度で。
- ゆえにもはや、見当もつけられない数の軍勢となっている。視界を埋め尽くす羽虫どもは例外なく二級相当の魔将であり、小回りも利くため一度に倒すことができない。
- 加え、花吹雪が消えたわけでもなかった。この共演を前にして、戦況は振出し以前へ戻されたと言える。
- 第五位魔王マシュヤーナ――数も質も操る在り方は、お父様と同じ規格外だ。やはり並大抵の化け物ではない。
- 「いけるか、クイン?」
- 「厳しいです。……が、やるしかないでしょう」
- 拳を握りしめて構えを取り、冷静になるよう私は努めた。あと一秒後か、二秒後か、この大軍団が攻撃へと移る前に、勝機を見出す必要がある
- 今も白い世界は見えているのだ。みんなの声が聞こえているのだ。マシュヤーナに痛打を与えた最初の一撃、あれを再び放てれば……
- 『終わりだ小娘。まずは貴様を滅相し、後に一三年前の続きといこうか、ズルワーン』
- 奇跡よ起これ。鼓動よ唸れ。私に隠された力があるなら、ここに真実を解き放てと――
- 次の刹那に訪れた予想外は、そんな祈りの結果だったのかもしれない。
- 「ちょおォォっと待ったあああァ―――!」
- 空の果てから突如降ってきた大声に、私とズルワーンと、そしてマシュヤーナまでもが呆気に取られた。闖入を宣言しながら状況を理解しているとは思えない晴れやかさで、声は溢れんばかりの期待と喜びに満ちている。
- 喩えるなら待ち望んだお祭りに参じるような、よく言えば勇ましく、悪く言えば子供っぽい興奮を隠さずに、私たちの前へ現れたのは何とも表現に困る人物だった。
- 「お待たせしたねお嬢さん、僕が来たからにはもう安心だ。さあ、ヒーロータイムの始まりだよ!」
- 「え、っと……」
- びしぃ、ポーズを決める彼? あるいは彼女だろうか。どうやら男装の女性らしき謎の助っ人は、まるでこれから劇を始める舞台俳優みたいな雰囲気だった。
- 有り体に、すべてが大袈裟かつ派手派手しい。もっと言えば胡散臭さの塊みたいな風情があり、場違い感が半端ない。
- その万事に芝居がかったキャラクターを前にして、申し訳ないが私は鬱陶しいとさえ思ってしまった。なぜなら、そこにある種の既視感を覚えたからで……
- 『なんだおまえは。失せろ』
- 「どわあああっ!」
- 蝿の羽風に煽られて、自称ヒーローは悲鳴を上げながら吹っ飛んでいった。
- 弱い。弱すぎる。あまりに不甲斐ない体たらくを見せつけられ、何しに来たんだと呆れ返ることさえできなかった。
- しかしマシュヤーナに問題外の小物と見なされ、殺す価値すら認められずに弾かれたのは彼女にとって僥倖だろう。こちらも誰かを守りながら戦える状況じゃなかったし、そのまま離脱してくれると有り難い。
- と、私は思っていたのだけど。
- 「よくもやったなマシュヤーナ。君は今、僕を本気で怒らせたぞっ!」
- 「ちょっ、いい加減にしてください!」
- 懲りずに戻ってきた自称ヒーローは、相変わらず珍妙なノリでポーズを決めつつ気勢をあげた。挙句、私を見てキザなウインクなどをしてくる始末。
- 「インセストだ。今後はそう呼んでくれたまえ、美しいお嬢さん」
- 「いや、だから――」
- 謎の義者、インセストはまったく退こうとしてくれない。魔王を相手に堂々としているのは大したものだが、それは身の程知らずというものだ。実際、彼女の力はどう甘く見ても一般人並。下手をしたらその中でもかなり弱い部類に入る。
- 何せ使い魔の羽風で吹っ飛ぶレベルなのだ。しかも先ほどの蝿は主人の意を汲み、埃を払う程度の力しか出していない。
- 殺意が乗った攻撃を受けたら、掠っただけでもインセストは粉微塵になるだろう。頼むから弁えてもらいたく、そもそもこんな茶番をやっている場合じゃないと、いったいどうしたら伝わるのか。
- 『目障りな塵め。然程に死にたいならよかろう、消えよ』
- ある意味虚を衝く展開に停滞していた羽虫と花弁が、ここでついに動き始めた。私はインセストを守るため、彼女のもとへ飛ぼうとして、同時に驚くべきものを見る。
- 「察しが悪いねマシュヤーナ。まあ、現状では当然の話だけれど」
- 妙に寂しげな微笑を浮かべ、抜き放った古風な銃をインセストは虚空に擬した。その銃口に不可思議な力場が発生し、まさかお父様の作品かと思いかけたが、しかし違うと即座に気付く。
- 「教えてあげよう。君は僕に絶対勝てない。なぜならば――」
- おかしいのはインセストだ。彼女は紛れもなく脆弱で、今も強壮さは微塵も感じられない状態なのに……
- なぜか分かる。この空葬圏で戦う限り、インセストは正真のヒーローなのだと。
- 「愛なき花は美に非ず。これがその証明さッ!」
- 聞いている側が恥ずかしくなりそうな台詞と共に、銃口から迸った光弾が花弁の大半を消し去った。圧やパワーで潰したと言うよりは、何かの化学反応じみた呆気なさの、ゆえに絶対的な公式を駆使したとしか思えぬ現象。
- もはや相性問題なんて次元じゃなく、因果律の領域としか思えなかった。マシュヤーナとインセストの関係は、こうしたものだと決められているかのようで、それだけに――
- 「だから君も、早く自分の不明に気付くがいいよ。そうすれば僕のように……て、うおお!」
- 「――危ない!」
- インセストの技が通じたのは、あくまで花弁だけだった。主人と別個の存在である使い魔どもには何の効果も与えておらず、殺到する羽虫の群れに呑み込まれたかけたところを間一髪で救助する。
- 「く、くそ、なんと卑怯な! こういうときは部下に下がってろとか言って、大物ぶった挙句に墓穴を掘るのが悪役のセオリーじゃないのか!?」
- 「黙ってください、舌を噛みますよ」
- 喚き散らすインセストを小脇に抱え、群がる虫を蹴散らしながら共に危険域から逃れ出た。彼女のキャラクターには相変わらず閉口するが、ともあれ光明が見えてくる。
- 理屈はまったく不明だけど、インセストはマシュヤーナに対する特効能力を持っているのだ。ならば今の私と組むことで、かなり有益な戦力と成り得るだろう。
- 「おいクイン、なんだその馬鹿」
- 「知りません。あなたの知人じゃないのですか、ズルワーン」
- 変人同士、昔の仲間かと思ったのだが、彼はにべもなく否定する。
- 空葬圏が故郷であるズルワーンでも、インセストのことは知らないようだ。しかし一三年ぶりの帰郷ともなれば、それもまた仕方あるまい。とにかくここは、この胡散臭い助っ人を核にして戦術を組み直そう。
- 「私が前に立って庇いますから、あなたはマシュヤーナに専念してください。同じ銃使いですし、ズルワーンにも援護を頼んで……」
- 矢継ぎ早に言いながら、けれどそこで私は異常に気付いた。
- 「どうしましたインセスト。聞いていますか?」
- 「え、いや、あの……」
- 凝然と目を開いて、インセストは固まっていた。まるで悪い夢でも見たかのように、青い顔で震えてさえいる。
- 「しっかりしてください、今はあなたの力が必要なんです」
- 「分かってるよ。でも、でも……ああああもうっ、なんだこれえぇ!」
- いきなり子供みたいな癇癪を爆発させて、インセストはバタバタと暴れ始めた。意味が分からず、私は彼女から手を放してしまう。
- 「なんでだよ、こんなのってないだろ! ぼく……私が、いったいどれだけこの日を待ったと思ってるんだ!」
- 「おいてめえ、ワケ分かんねえこと言ってんじゃねえぞ。ぶん殴られてえのか!」
- 「やめてくださいズルワーン、落ち着いて――」
- 「ひいいィィ!」
- 業を煮やしたズルワーンが詰め寄ると、インセストは悲鳴をあげて私の背中に隠れてしまった。そしてわずかに顔を覗かせ、ぼそぼそと探るように呟く。
- 「……ズルワーン、ズルワーンなの? 本当に?」
- 「なんなんだよこいつ……オレのことを知ってんのか? こっちは全然覚えがねえぞ」
- 「…………」
- 「こら、なんか言えよ」
- 「彼はあなたを知らないと言っていますが」
- 「うぅ……」
- まるで通訳をしている気分だった。怯え切った顔のインセストはズルワーンと目を合わせず、私の呼び掛けにのみ反応する。
- 「えっと、君、一つお願いがあるんだけども」
- 「クインです。なんでしょう?」
- 「うん、その……ここは一時撤退ということでどうかな?」
- 「はあっ?」
- さすがに私も腹が立ち、思わず声に険がこもった。この人はさっきから、いったい何がしたいのだろう。
- 逃げるって、そもそも助っ人を名乗りながら現れたのはそっちのくせに!
- 「ほ、ほら、何事も急ぎすぎるのは駄目っていうか、私たちはまだ知り合ったばかりだし、いきなりボス戦っていうのも風情がないだろ。まずはお互いのことを分かり合って、愛と勇気と絆を育んだ後にしても充分間に合うと思うんだ。というか、それこそ王道だと思うんだっ!」
- 「インセスト……ふざけるのもいい加減にしてください。そもそも、逃げられるならとっくに私たちだって逃げてます!」
- 「大丈夫だよ、マシュヤーナは御覧の有様だ!」
- 涙目になって叫ぶインセストが、びしっと第五位魔王を指さした。そこには彼女の言う通り、沈黙したまま一切の反応を示さない不浄不動の威容がある。
- 使い魔の羽虫どもは別だったが、マシュヤーナは本当に止まっていた。先のインセストによる攻撃が効いたのか……だったらなおさら、この機を逃すわけにはいかないだろう。
- 紛れもなく、これは千載一遇のチャンスなのに――
- 「だから帰ろ? 今すぐ逃げよ? 僕のおうちに招待するから、ざっと三日くらい色々話して、準備万端整ったあとにリターンマッチをやろうじゃないか!」
- 「~~――ッ」
- インセストの願いは異常なほど強かった。どう見てもこちらを馬鹿にしているとしか思えない発言なのに、私は反論ができなくなる。
- 奇跡を集めろ、悪を倒すために死力を尽くせ――内から訴えかけてくるお父様とスィリオス様の狂気にさえ匹敵するほど、戯言じみたインセストの祈りが重い。
- 背反する指向性に自分が引き裂かれるような心地だった。これほどの葛藤を味わわされたことは過去になく、気付けば頼みにしていた白い世界の景色も薄れていき……
- 「うわあ、ちょっ――何やってんの彼ェ!?」
- 再び頓狂な声をあげたインセストに釣られて目を向けると、私の視界に更なる混乱の種が飛び込んできた。
- 昏く、どこまでも不吉な、“歪み”とでも表現すべき黒い渦……その発生源は言うまでもない。
- 「マグサリオン――」
- 私が謎の力に目覚めて以降、沈黙し続けていた彼が動き始めた。いや、正確にはずっとアレを試していたのだろう。
- 「なんだありゃ……」
- マグサリオンが纏う正体不明の現象に、さすがのズルワーンも眉をひそめた。無論、私も戦慄している。
- あんなものは初めて見た。けれど本能的に察する危険性だけは嫌になるほど鮮明で、あれが底抜けに忌まわしいものだということだけは理解できる。
- 義者も不義者も関係なく、誰もが魂を抉られる禍々しさ。まるで宇宙の法則を覆す、言わば第三の価値観を見せられているかのようで……
- 私の白い世界が薄れたのは、彼の歪みに当てられたせいかもしれない。
- 「やばいよ、マジやばいって! なんなの彼、マシュヤグが反応してる!」
- 止めてくれと、これまでに倍する切実さでインセストは叫んだが、もう遅かった。
- 「兄者……俺が間違っていたよ。どうすればまた、あんたに会える」
- 譫言めいたマグサリオンの独白と共に、爆発した歪みが奔流となって私たちを呑み込んだのだ。
- 黒く、黒く、底なしに深く……不変たれと誓う祈りに視界のすべてが埋め尽くされる。
- その中で、私は一人の少年を見た気がした。
- 子供には大きすぎる剣を一心不乱に振り続ける後姿は、陽炎じみた憤怒の炎を燃やしていたけど。
- 血と汗に染まった小さな背中が、私には泣いているように思えたのだ。
- ◇ ◇ ◇
- 「…………」
- 事の一部始終を見届けたマシュヤーナは、世界樹の最深部で無為に酒杯を傾けていた。
- 彼女が戦闘の最中で沈黙したのは、インセストに予想外な反撃をされたからではない。もちろん相応の痛手だったが、それで真に追い込まれるほど第五位魔王は甘くなかった。打ち破られたのはしょせん花弁にすぎず、総体と比すれば損害など微々たるものだ。
- 何せマシュヤーナは、まだ枝の一振りすら動かしていない。クインもインセストも確かに小賢しくはあったものの、多少腰を入れて攻めれば苦も無く潰せる自信があったし、実際にそうなっただろう。
- ではいったい、どうしてマシュヤーナは最適な行動をせず、あろうことか敵を見逃したのか。答えはまったく別のところで、有り得ないものを見たせいだった。
- 「何者だ、あの男……」
- 怨じるように呟いて、ひたすら酒を呷っていく。典雅で妖艶な唇に張りついていた桜の花弁が、瞬時に腐食し塵となった。
- つまりマシュヤーナが警戒したのはマグサリオン。正しくは、解せぬと思ったから攻めを中断し、見の姿勢に入ったのだ。
- なるほど、件の黒騎士は不可思議な力を発現させた。危機を覚えたと言ってよいほど、あれは異質な歪みだったと認めよう。
- だが、そんな程度で躊躇する臆病者は魔王になれない。たとえ窮地に追い込まれても、だからどうしたと我力で吹き飛ばすのが本来のマシュヤーナである。
- しかしあのときは、攻めるに攻められぬ理由があったのだ。長い睫毛をそっと伏せ、不浄不動は自らの手を見下ろした。天工細工を思わせる白く細い薬指に、捻じれた金属の輪が嵌められている。
- 「奴と私の原初環が共鳴した。それはいい。が、どうして結果がああなるのだ?」
- マシュヤーナにとって、無視できぬ唯一と言っていい不条理が起きていた。この謎を解明せずに進んだら、想像を絶する陥穽に嵌り込みそうな予感がある。
- 「おのれ……」
- 言い知れぬ苛立ちに駆られたマシュヤーナは、再び杯を呷ろうとして、揺れる酒の水面に映った自分の顔を見てしまった。
- 怜悧で美しい、だが死人の仮面めいた顔。今もはらはらと舞い落ちる桜吹雪は、命の終わりを告げるかのようで……
- “愛なき花は美に非ず”――そう嘯いたのは誰だったか。
- 「………ッ」
- 思わず杯を放り捨て、マシュヤーナは顔を背けた。傲慢、冷酷、邪悪な不動と恐れられる女はこのとき、まるで幼気な童女さながらに震えていた。
- 「おまえが悪いのだズルワーン……何もかもが、おまえのせいだ」
- ああ、時間がない。薄桃色の吹雪を纏って呟くマシュヤーナは、凄艶ながらも酷く儚いものに見えた。
- 3
- 流れる意識は誰のもので、どういう意味を持つのか分からない。けれど不鮮明なその記憶に、私はとても惹きつけられた。これはちゃんと理解して、蒐集せねばならぬ祈りだと感じている。
- 「私が欲しいとあなたは言う。しかしそれは本当にあなたの心か? 他者が望むあなたらしさを、あなたは強いられているだけではないのか?」
- 声は淡々と抑揚もなく、ただ思ったことを飾らずに伝えている。一見すると冷徹で、機械的とさえ言える味気なさだが、私はそこに深い倦怠感を嗅ぎ取っていた。
- まるで幾星霜も歩き続け、かといって何も成せず、そのくだらなさに飽きを覚えているかのような“彼女”の声。
- 「そう驚くな勇者よ。私は自分がおかしなことを言っている自覚があるし、あなたの在り方を否定したいわけでもない。ただ、些か疲れたのだ。私はもう、壊れ始めているのかもしれぬ」
- 呟く彼女は、私の印象通りに自らの疲弊を認めた。詳しいところは不明だが、この人物は世界に対して重い役目を担っているにも拘わらず、自分の存在理由を見失い始めているのだ。
- つまり由々しき問題なのだろう。そこはもちろん無視できない点だったが、私の意識は別のことに釘づけとなっていた。
- 勇者……彼女は今そう言ったから。その単語が意味する事実は明白すぎる。
- この女性が話しかけている相手は誰あろう、ワルフラーン様に違いなかった。なのに勇者の姿は見えず、彼の声も聞き取れない。
- 「ゆえにどうかな、それでも奇跡が欲しいとあなたは言うか? 正直なところ、私はこのまま眠りたいと思っている。あなたに不満があるわけではなく、あなたがあまりにも勇者だから断りたいのだ。また徒労に終わるのが見えていて……」
- 覆したい。すべてが違う未来を見たい。彼女の心は、そんな絶望に囚われていた。
- ある種の自壊衝動にも似た、破滅的だけど強く切実な祈りのカタチ……
- 「なあ、勇者殿よ。乗り気じゃない女を引っ張り出すなら、相応の代価を払ってほしい。私が自滅へ向かっていると言うのなら、あなたも滅びの因子を抱えるべきだよ。らしからぬ行いに手を染めてくれ」
- 共に地獄へと言わんばかりの圧を込めて、楽園を夢見ながら彼女は謳う。その提案の内実と、ワルフラーン様が何を思い、なんと答えたのかは読み取れない。
- だが勇者の結末は周知の通りで、現在に続く事象のすべては、このときに決定したのだと理解できた。
- 「それをもって契約としよう。ああ、なんとまあ私たちの恥知らずなこと」
- 無慙無愧の炎に焼かれ、彼女の意識は消えていく。続いて私も、謎の夢から覚め始めているのを自覚した。
- ◇ ◇ ◇
- そして私は目を開いた。同時に夢の記憶は朧となり霞んでいくが、強く残っているものもある。
- 件の女性が救いを求めていたということ。彼女は壊れていたのかもしれないが、間違いなくある種の勝利を確信していた。結果的にワルフラーン様の悲劇が生まれたのだとしても、一概に過ちだったと断ずるのは違うように思える。
- なぜなら、あの出来事に続く未来として今の我々があるのだから。曰く滅びの因子とやら字義通りに認めてしまえば、私たちすべてが罪深い存在になってしまう。
- 正誤はどうあれあの女性は本気だったし、ゆえにワルフラーン様も応じたのではないか。ならばその選択に、今さら異を唱えるのは無粋だろう。
- 過去の人物に文句をつけて嘆くのは、何もかも取り返しがつかないと諦めたに等しい。そんな真似は怠慢であり、転嫁だと思うので、私は彼女が示した気持ちを可能な限り純粋な形に落とし込んで継ごうと思う。
- すなわち現状打破への祈り。徒労感と無力感に苛まれていたからこそ、違うことをしてみたいという考え自体は共感できる。危うい諸刃の剣ではあるものの、扱い方を誤らねば今後の役に立ち得る視点だ。
- よってそろそろ、私も自分の現状に向き合うとしよう。
- 「やあお目覚めかな。気分はどうだい?」
- 「インセスト……ここは何処ですか?」
- 目覚めた私は民家と思しき部屋でベッドに横たわっており、傍らにはインセストが立っていた。つまり今の現実とはこれなわけで、どうにも状況が繋がってこない。
- 我々はマグサリオンの不可思議な技に包まれ、意識を失ったはずなのに……
- 「うん、当然の疑問だろうね。もちろん答えてあげるけど、その前に一つ約束をしてほしい。とても重要なことだから、これを抜きにして話は進められないんだよ」
- いいかい、と問う彼女に、私は無言で頷いた。インセストはありがとうと微笑み続ける。
- 「僕は正義の味方をやってるんだ。まあ、君らの基準に照らせば不認可の紛い物だが、自分なりのプライドを持ってるし嘘はつかないと決めてもいる。でもヒーローってのは、いつの世も秘密が多いもんだろう?」
- 「要するに、あなたの事情を詮索するな。という意味ですか?」
- 「ご名答。いま僕の気持ちを先回りして読んだみたいだけど、その手の真似もやめてくれ。誓って嘘は禁じるから、深いところを突っ込まないでもらいたいのさ」
- などとおちゃらけて彼女は言うが、伝わってくる念は異常なほど強い。あのとき感じた通り、インセストが私に向ける祈りの重さはお父様にも匹敵する。
- なので深く探ろうにも、実際無理な話だった。先の戦いで彼女が見せた不思議な力や、決定機に妙な駄々をこねた点など、聞きたいことはいくらでもあるのだが、こちらはただ従うしかなくなる。
- 「了解しました。以降、あなたの意思に反する形で心に踏み込まないと誓います。で、最初の質問になりますが」
- 「ここが何処かって? アーちゃんの背中さ」
- 「アーちゃん?」
- 訝りながら身体を起こして問うと、インセストは得意げに鼻を鳴らした。
- 「アショーズシュタ。長いし言いにくいし可愛くもないから、親しみを込めてアーちゃんと呼んでる。とっても大きい鳥さんだよ」
- 「鳥っ? ここはその、背中の上だというのですか?」
- 驚いた私は、改めて周囲をつぶさに見回してみた。構造も、家具や調度品も、ごく普通なものとしか思えなかったが、なるほど常人には感じ取れない域で微妙に揺れ続けているような気がする。
- アショーズシュタ、アーちゃん……巨大な鳥といえばウォフ・マナフを真っ先に連想するが、マシュヤーナの勢力圏で存在し続けている以上、かなり強力な霊鳥なのは確かだろう。そして私やインセストを匿ってくれる点からも、“彼”が義者なのは間違いない。
- 「合点がいきました。あなたが飛行の加護を使えたのは、アーちゃんのお陰なのですね」
- 「この星限定だけど、瞬間移動も使えるよ。それで君らをこっちに運んできたんだし、僕とアーちゃんに感謝したまえ」
- そり返って偉そうに言うインセストは、相変わらず万事に芝居がかった物腰でキザな伊達男を気取っている。そんな彼女に私は再び既視感を覚え、ようやく一つの理解に至った。
- インセストはズルワーンと似ているのだ。服装、態度、言葉遣い、加えて嘘を嫌うところなど……すべてが微妙にずれてはいるが、全体として見た雰囲気がどことなく重なっている。
- 言うなれば、あまり出来のよろしくないコスプレだ。技術的にはお察しでも、対象への愛に満ちているから通じる者には通じるという類。
- 奇妙な男装姿も、ヒーローを自称しているのも、ズルワーンに対する彼女なりのリスペクトなのだろう。思い返してみれば、彼に向けるインセストの態度は熱狂的なファンの反応と言えなくもなかったし、そういう憧れが同化や変身願望に至るのは決して珍しい話じゃない。
- 相手があのズルワーンである点だけは、理解に苦しむ趣味と言えるが……
- 「どうしたんだいクイン、僕の顔をじろじろ見ちゃって。……ははあ、さては惚れたな。まったく我ながら、罪深いカッコよさだよ」
- 「いえ、その心配はありませんから。安心してください」
- 彼女の中でズルワーンがどういう風に見ているかは知らないが、この絶妙にムカつく感じは本当によく似ている。苦労が倍加したようで偏頭痛に襲われる私を無視して、さらにインセストはぺらぺらと話し始めた。
- 「知ってると思うが、星っていうのはみんな生きてる。でも自我を持った星霊になれる者はほんのわずかだし、それも長い時間を掛けた進化の結果だ。こつこつと下積みから這い上がるのが普通で、他の奴に座を奪われるケースもあるんだけど、要は意外に可愛げのある生き物なんだよ。すごい力を持ってるからって、神様みたいに完璧なわけじゃない」
- 「インセスト」
- 私は片手を前に突き出し、彼女の長広舌を遮った。心を読まなくても論点は想像できるので、なるべく無駄な時間を省きたい。
- 「つまりあなたの目的はこうでしょう? マシュヤーナを倒し、アーちゃんを新たな星霊に据える」
- 「む、いや確かに、そうなんだが……君ってせっかちとか言われない?」
- 「生憎と。ただ、この星が激戦区だったことは知ってますから、その手の説明は不要です。マシュヤーナの政権が、意外に不安定だというのも分かりました」
- 「昔から強い奴が多かったみたいだしね。マシュヤーナが自我を持ったのは三〇年前くらいの話で、以降しばらく揉めてたのが直近の修羅場になるんだけど、それより何百年か前にもかなりやばい時期があったらしいよ。アーちゃん曰く、イカレてるのが二人いて、そいつらは今も余所で大暴れしてるとか」
- 「飛蝗ですね。聖王領では有名な存在です」
- 準魔王、特級魔将に指定されている者は四名いる。流血庭園のムンサラート、カイホスルーの龍玉姫、そして暴窮飛蝗と呼ばれるザリチェード、タルヴィード。
- 後者の二名は出自を空葬圏に持ち、当時のこの星を蹂躙した結果、わずかに残った者らが総力をあげて追放したらしい。おそらくは、アーちゃんもそのとき奮戦したのだろう。
- 嫌われ者の飛蝗たちは、生まれ故郷に見切りをつけたまま外地で暴虐を繰り返し、第三位魔王と遭遇した結果、今に至る。
- 聖王領の記録とインセストの話が示す通り、空葬圏が強者を輩出しやすい環境として、代々荒れていたのは事実だ。
- 何せズルワーンの故郷だし、今もインセストのような正体不明の力を持つ者がいるのだから。一応ここまで、彼女が語ることに不自然な点はない。
- 「まあ、とにかくそんなわけで、僕はマシュヤーナを退陣させたいと思ってるのさ。彼女には向いてないし、いっそ楽にしてやったほうがいいんだよ」
- ただ、どうにも違和感があった。上手く言えないが、インセストはマシュヤーナに対する敵意が薄い。
- なるほど、確かに第五位魔王は空葬圏の大母だろう。自我を獲得したのが三〇年ほど前とはいえ、その遥か昔から星は彼女の肉体だったのだ。アーちゃんや飛蝗の二人でさえ、本を正せばマシュヤーナの子供と言える。
- ゆえに一定の愛着を持って然るべきかもしれないが、それはあくまで善悪が同じだった場合の話だ。母親と胎児さえ殺し合うこの宇宙において、インセストの態度はやはりおかしい。
- なぜ彼女は、義者でありながらマシュヤーナを憐れんでいるのだろう。魔王を倒すと言いつつも、その運命を悼むような雰囲気があるのはどうして?
- もしやそこも、ズルワーンの影響を受けているのか? しかしあの破天荒な男ならともかく、ただの真似でやれる所業とは思えない。
- まるで小骨が喉に引っ掛かったような気分だが、先だって追及を禁じられたから質せもせず……
- 「……分かりました。あなたが我々の味方であり、当座の目的も一致しているなら後は構いません」
- 「そう言ってくれると助かるよ。大丈夫、僕と一緒なら必ず勝てるさっ」
- ヒーローだからね、と白い歯を輝かせる様にはもやもやするが、私は一度深呼吸すると胸の疑問を引っ込めた。いざとなればアーちゃんに聞けばいいし、確認事項としては他にも大事なことがある。
- 「私の仲間はどうしました。全員無事なんでしょう?」
- 「あぁっと、それはだね……」
- 問うと、インセストは困ったように言葉を濁した。そんな彼女の様子を見て、私は急に不安を覚える。
- これまでの態度や口ぶりから察するに、深刻な事態は避けられたはずと思っていたが、違うのか?
- 「ズルワーンは大丈夫だよ。久しぶりの帰郷だし、たぶんその辺をふらついてるだけ。でも後の一人は……」
- 彼女自身、どう受け止めていいか判じかねるといった表情で、部屋の窓に顎をしゃくった。私は胸騒ぎを覚えながらも、インセストに促されるまま外を見てみる。
- ここは巨大な霊鳥の背だというが、こうして見る限りごく平凡な村の日常風景だった。一種のバリア的なものが働いているのか、大気を調整された世界の中では、農作業に勤しむ人々や遊んでいる子供たちの姿があって……
- 「……?」
- ただ一人だけ、そこに奇妙な子が存在した。年の頃は六つか七つ、だけど他の少年少女たちの輪には入らず、じっと立ち尽くしたまま動かない。
- いいや、むしろすべてを睨みつけているかのようで……私の背筋に、そのとき形容しがたい悪寒が走った。
- “彼は何もしないんだよ。本当に頑として動かなかった”
- いつかアルマに聞いたエピソードが脳裏を過る。それは何があっても他者と交わろうとしなかった少年の話。
- だいたい、なぜあの子は顔を隠しているのだろう。頭からすっぽりと、布袋を被っているのはなんのためだ?
- “そういえば、彼が素顔を隠し始めたのはあれからだな”
- “考えてみりゃ、オレはおまえの素顔だって知らねえぞ”
- 嘘だ。馬鹿な――こんなことがあるはずはない。しかし私の勘は冷静に今を直視し、これが間違いない現実であると告げている。
- 「気付いたかい、あれが彼だよ」
- インセストの声が遠くに聞こえた。理屈も因果も不明だが、すでに私はこの怪奇を認めている自分に気付く。
- 聖王領の凶剣。私の心を騒がしてやまない、危険で怖くて謎な男は……
- 無慙無愧な惨劇を繰り返しておきながら、何かを後悔し続けていると思しき彼は……
- 「マグサリオン……」
- なぜか今、子供になっているのだった。
- 第六章『慙愧の空』後編
- 4
- 落ち着いて整理しよう。最初に思い浮かんだのは戒律破り――インセストは我々を瞬間移動でここへ運んだと言っていたから、その際にマグサリオンの禁忌事項を侵したのではないか。
- 殺し合いでしか他者と触れ合えぬ凶戦士に、救助の手を差し伸べるのは言うまでもなく御法度だ。それが物理的な幼児退行という罰に至ったと考えるのは、突飛な話だが有り得るだろう。
- ただでさえ重い縛りを複数抱えているマグサリオンが破戒を行えば、単に命を失うくらいじゃ済まなくなって当たり前。子供になることが死よりも厳しいものかは判断に迷うところだけど、そもそもこんな荒唐無稽を起こす事象は他に想像できなかった。
- しかし――
- 「いや、それはないね。彼のアレはマシュヤグがやったものだよ」
- 私の予想を、言下にインセストは否定した。同時に聞き慣れない単語が出てきて、こちらは首を捻ってしまう。
- 「そのマシュヤグとは、なんですか?」
- 「マシュヤーナが持ってる宝物だよ。名前で分かると思うが、分身みたいに扱ってる大事なアイテムだ。彼女が星霊として自我を持った頃に、宇宙から降ってきたらしい」
- 「――――」
- アイテム、そして宇宙から降ってきた。以上の話を聞かされて、私は即座に理解した。
- 「お父様の、作品……」
- だったら確かに、どんな怪奇現象だって起き得るだろう。物にもよるが、私の兄弟たちはたった一つで星の勢力図すら塗り替える。強者ぞろいの空葬圏で、マシュヤーナが覇権を握ったのはそのお陰と見て間違いなかった。
- 「君の父上がなんだって? 興味深いな、聞かせてほしい」
- 「大したことじゃありません。私も要はマシュヤグとやらと同じなだけです」
- 本題は先にあるので、身の上話はさっと簡単な説明で済ました。子供になっているマグサリオンをもう一度確認してから、私はインセストに切り込んでいく。
- 「なぜあなたは、あれがマシュヤグの仕業だと持ったのですか?」
- 「もろに共鳴してたからだよ。この空で生きてる奴なら、あの反応を見間違えはしない」
- 「道理で……そういえばあなたは、そんなことを言っていましたね」
- マシュヤグが反応している。彼は何者だ、止めてくれと――悲鳴に近い声で訴えていたインセストを思い返す。
- では、そこまで彼女を慌てさせたマシュヤグの真実とは何なのか。
- 「対象を若返らせる能力……もしくは、時間を操作するようなものでしょうか?」
- 「生憎と、それは言えない」
- 「…………」
- 「僕だけの問題じゃないんでね。悪いが納得してほしい」
- 「……分かりました」
- 謎は明かされず、もどかしさを覚えたものの、インセストの強い意志で言われては引き下がるしかなかった。しかし彼女は『知らない』じゃなく『言えない』と答えたのだし、本当はマシュヤグの効果を把握しているのだろう。加え、私の推測を肯定しなかった以上、実際は別物である可能性が高い。
- ならばいったい、他にどんな能力が有り得るかを考えてみる。
- まさか『願ったことをそのままに具現する』――なんて代物だったらどうしよう。無茶もいいところだが、お父様の手並みなら有り得てしまうから恐ろしい。仮にマシュヤグがそこまで法外な魔道具なら、インセストが情報を秘匿しようとするのも分かる。
- 「いずれにせよ、マシュヤーナを魔王の座へ押し上げた切り札と思っていいのですね?」
- 「その認識で正しいよ。だからこそ、彼と共鳴したときは驚いたがね」
- 苦く笑いつつ、インセストも窓外に立つマグサリオンへ目を向けた。事態は彼女にとっても予測の外だったようだが、同時に興味深く思っているのが分かる。
- 「僕から言えるのは、彼が大した奴だっていうことさ。マシュヤーナが所有権を持ってるアイテムに外から干渉できたんだし、単純に考えても互角以上のポテンシャルを秘めてるのは間違いない」
- 「理屈ではそうなりますね。でもあの有り様では……」
- 「うん。今の彼は見た目だけじゃなく、中身も子供に返ってる。何やら危ない戒律を抱えてたって話だが、それさえ消えてるくらいなんだ。マシュヤグを壊せば元に戻ると思うけど、そこへ持ってくまでの戦力としてはちょっと頼りないね」
- 頼り甲斐云々をこの人に言われたくはなかったが、実際問題としてインセストの言う通りだろう。現状のマグサリオンに戦士としての働きは期待できまい。
- よって常識的に考えれば彼を聖王領へ帰すべきだし、我々には援軍が要る。でもそのためにはウォフ・マナフに径を繋いでもらわねばならず、言い換えれば兵站線の構築なのでマシュヤーナを過度に挑発しかねなかった。彼女の執念深さを考慮すれば大事な宝物に干渉したマグサリオンを黙って逃がすはずがなく、下手をすれば聖王領を舞台にした全面戦争が始まってしまう。
- そうなれば二〇年前の再現だ。どう転んでもただでは済まず、スィリオス様はお許しにならないだろう。
- だが、だったらどうすればいいというのか。懊悩する私の肩を、インセストがぽんと叩いた。驚いて顔を上げると、やけに爽やかな笑顔とぶつかる。
- 「君、彼とデートしてきなよ」
- 「はあ?」
- その提案はあまりに理解の外すぎて、思わず呆けた声を出してしまった。
- 「えっと、すみません。ちょっと何を言っているのか呑み込めないのですが……」
- だけど彼女は、困惑する私に天の法則を告げるみたいな調子で言い切ったのだ。
- 「男の子は綺麗なお姉さんに弱いものだろ。うんと甘やかしてあげたまえよ」
- デート……恋仲、あるいはそれに類する関係の者同士が、お互いへの理解と親交をより深めるために行うコミュニケーション。逢い引き、逢瀬などとも呼ばれ、食事や娯楽体験を共有するのが一般的。
- ええ、そんなことくらい分かっていますよ。私もデートの経験はありますし。
- レイリの村で、一〇歳の男の子とですが。ウマルという釣り好きの少年と川遊びに興じ、彼が釣った魚を私が料理したりして、楽しかったですね。とても優しい殿方でしたから、川を渡るときにそっと手を取ってくれたときなどは、恥ずかしながら頬を染めてしまったりしたものです。
- さすがはレイリが好きになった男の子。まだお小さいとはいえ立派な紳士でしたし、彼にエスコートされた記憶は幸せなものとして今も胸に残っています。
- ゆえに私は、デートが好きです。叶うなら、またあのような経験をしてみたいと常々思っていたと認めましょう。
- ほんとに。ええ。まったくもって。否定する理由なんかありませんよ。
- ですがいったい、これはどういうことなのでしょうか。
- 「……い、いいお天気ですね?」
- 「…………」
- 「ほ、ほらあそこ、可愛いお花が咲いてますよ」
- 「…………」
- 「あれをヘッドドレスにしてもらえたら嬉しいなあ、とか」
- 「…………」
- 「思ってるんですけど、駄目ですかね?」
- 「…………」
- 「そ、そうですよね。お花が可哀想ですもんねっ」
- 心が折れそうです。なんですかこれは。やる気あるんですかこの子は。
- 私にとって二度目のデート。
- ウマルを一〇〇点だとした場合、この子はマイナス五〇〇〇点です。
- 「うるさいんだよ、馬鹿が。気持ち悪いから話しかけるな」
- 「きもっ――」
- 危うく怒髪天を衝きそうになりながらも、なんとかギリギリ私は堪えた。可愛げの欠片もないお子様ですが、ここでムキになっても仕方ありません。
- そもそも彼にリードを期待したのが間違いでした。こうなったら私のほうから、ぐいぐい引っ張っていけばいいだけでしょう。
- 「ちょっとその辺を歩きませんか。色々話もしたいですし」
- 「なっ、――やめろ放せ!」
- 抗議の声を黙殺して、私は男の子の手を引きながら歩きだした。向こうも必死に抵抗していたけれど、文字通り子供の腕力と体重なので何の苦も無く引きずり回せる。
- これが本来の彼ならば、絶対にこんな真似はできなかった。力ずくが通用する相手じゃないし、そもそも触ることすら不可能なはずで……
- そう思うと、なんだか奇妙な可笑しみと安堵感を覚える。今も子供の口から出てくるとは思えない罵詈雑言をぶつけられているのだが、腹立たしく思う気持ちはいつの間にやら消えていた。
- この星に来る直前、大人の彼とかなり深刻な衝突をしてしまった蟠りはもちろんある。許しがたい発言も、殺されかけた事実も、彼の闇をちゃんと分かってあげられずにいる自分自身の不甲斐なさも、簡単に棚上げできる問題ではない。
- でも子供になったマグサリオンは本当に無力で、呪いめいた戒律も背負っておらず……
- 「だいたいここは何処だ、兄者は何をしている? やめろ触るな、誰なんだよおまえは!」
- 強い拒絶を口にしながら、彼は許容の姿勢を取ろうとしているのが分かったのだ。
- かなり渋々と、すごく我慢に我慢を重ねた感じだけど、こちらに歩み寄ろうとしてくれている。
- あるいはそれが、慙愧の正体。
- マグサリオンがこんな姿になったのは、やり直したいと彼が願ったせいかもしれない。
- 「……つまり、ここは聖王領じゃないんだな? その事故とやらで別の星に飛ばされたと」
- 「ええ、まあ……そんな感じです」
- しばらく村の中を歩き回った我々は、ちょっとした丘の上にある大樹の根元で腰を下ろしていた。視界には見渡す限りの草原が広がっており、アーちゃんの巨大さがよく分かる。
- この眺めを純粋に楽しめる状況だったらと思いながらも、私は努めてのんびりと、眼前の牧歌的な景色に相応しい態度で言葉を続けた。
- 「でも大丈夫、私が無事にあなたを帰してあげますから安心してください。ただそのためには、少し協力してもらう必要もあります」
- 「俺にやりたいことをやれというやつか? それになんの意味がある」
- 「ごめんなさい、詳しくは軍機にあたるのでご容赦を。あなたにとっては納得しづらい話でしょうが、私を信じてもらえませんかね」
- 親しみを込めて拝むようなポーズを取ったが、少年は呆れた風に鼻を鳴らすだけだった。まあ実際、こんな説明で信用しろというのは難しいだろう。
- インセストが私にマグサリオンとのデートを命じたのは、要するに彼を手懐けるのが目的だ。魔道具への干渉力をこの子が強固に維持していれば、所有権を奪い取ったに等しいので第五位魔王の切り札を封じることができる。
- 援軍を得るのが望み薄な今、確かにそれは必須と言える条件なのだが、問題はインセストしか魔道具の真実を把握している者がいない点だった。お陰で私の言動にはいまいち説得力が欠けてしまい、胡散臭い奴だとマグサリオンに思われているらしい。
- けど、だからといっておっかなびっくり接しているつもりはなかった。いくらか手探り感があるのは否めないが、私なりにここでのスタンスを決めている。
- 「あなたはワルフラーン様に会いたいんでしょう? その気持ちを強く持っていればいいんですよ」
- 「願えば叶うとでも言いたいのか?」
- 「はい。お兄様も似たことを常々仰っていたはずです」
- 「……嫌いな考えだ」
- 鬱陶しげに吐き捨てるマグサリオンの声音は少年特有の中性的なものにも拘わらず、すでに私が知る彼と同じ荒涼とした雰囲気を持っていた。この全方位に向ける厭世観と、そんな生きかたに対する自己疑問……魔道具と共鳴した原因はきっとそこにあると踏んでいたので、今はマグサリオンと同じ目線で話す必要がある。
- 現状、勇者の死から二〇年経っていることを隠しつつ接しているのは、つまりそういう事情だった。彼の過去と真摯に向き合うため、偽りを混ぜるという矛盾は心苦しいけれど、ここで本当のことを話しても混乱させるだけだろうから許してほしい。
- 「おまえは兄者と親しいのか?」
- 「いえ、私などは下っ端も下っ端ですし、お声をかけていただく栄誉にも浴していません。逆に聞きたいのですが、あなたにとってのお兄様はどのような人ですか?」
- 「兄者は、別に……ただの馬鹿だ。昔から気に入らない」
- 七つかそこらの子供が“昔”などと言うのは可笑しかったが、下手に茶化して機嫌を損ねたくなかったので我慢する。
- だってこのマグサリオンはよく喋るのだ。一般の基準的には充分無口で不愛想だが、私の知る彼に比べれば饒舌とさえ言っていい。
- だから今は、もっと声を聞きたいと思っている。たとえどんな内容の言葉であろうと、マグサリオンの本心ならば理解したいし受け止めたい。
- 「見ていると苛々するんだ。背筋が寒くなるし、気持ち悪いと感じる。おまえらみたいなのがいつも兄者の周りにはいて、すごくその様が嘘くさいんだよ。関わったら俺まであやふやなものになりそうで……あの模様に取り込まれたくないと思ったんだ」
- 「嘘くさい、ですか。確かに大人同士の関係ですし、打算的なところが含まれているのかもしれません。少なくともあなたほど、純粋にワルフラーン様を見ているのかと言われたら誰だって……」
- 「違う。おまえは本当に兄者を知っているのか?」
- ぎん、と音が鳴りそうな目で睨まれた。相槌のつもりで言ったことが、どうやら的を外したらしい。
- 「あいつらは兄者の一部で、逆に言えば兄者があいつらそのものだ。絆がどうとか周りは言うが、俺はそれがすごく不気味なものに見えるんだよ」
- 「…………」
- 「でも、間違っているのは俺かもしれない。昨日までは考えもしなかったけど、今は何かを失敗したって気持ちがあるんだ。俺は取り返しのつかない馬鹿をやって、ずっと後悔しそうな、しているような……そんなのは嫌だと思っているから、こうしておまえと喋っている」
- 「……なるほど、つまり私は練習相手というわけですね」
- 苛立ちと恐怖で染まった彼の独白に悲痛なものを覚えながらも、同時に私は確信を得た。
- やはりマグサリオンは、後悔を晴らすために時を遡ったのだろう。では彼が言う失敗とは、具体的に何なのか。
- 大まかに言えば、ワルフラーン様の死であることに疑いはない。しかし当時のマグサリオンが何をやってもお父様に対抗するのは不可能だから、物理的な意味で兄上に助勢したかったというのは違うはずだ。
- ならば問題の芯は、彼がワルフラーン様の周辺に感じていた嫌悪。聞く限りはかなり根深い問題で、単純な嫉妬や寂しさの裏返しとは違うように思えるが、とにかくあまり兄弟仲が上手く回っていなかったのは確かと思える。
- 「あなたはお兄様に、いつもどういう態度で接していますか?」
- 「…………」
- 「悪態ばかりついているとか」
- 「……ああ、だって嫌いだし」
- まるで自分自身を苛むように、幼いマグサリオンは頷いた。どうしてもワルフラーン様を受け入れられなくて、だけど受け入れるべきなのかもと思っているから、彼はいま私を相手に練習している。
- 以上の事実を踏まえるに、おそらくマグサリオンは二〇年前、ワルフラーン様に酷いことを言ってしまったのではと考えた。
- 顔も見たくないとか、死んでしまえとか、そんな言葉を最後に今生の別れとなったのなら、彼が悔やみ続けているのも腑に落ちる。
- ありがちな話かもしれないが、決して軽い慙愧とは言えまい。生涯にわたって苦しむ羽目になっても、全然おかしくないと思う。
- 「あなたがワルフラーン様にどう向き合うかは、結局のところあなたでしか決められない問題だと思います。でもその練習相手に私を選んでくれたことは光栄ですし、嬉しいと感じていますよ」
- 慰めるように、私はそっとマグサリオンの頭を撫でた。嫌がられるかと思ったが、何も言ってはこなかったのでもう少し踏み込んでみる。
- 「ただ、あなたは無理して喋ると誤解されそうな気もしますから、まずは笑顔の練習をしてみましょう。布袋を取ってもらえませんか?」
- 「……え?」
- 私の提案に、マグサリオンは訝しげな様子でこちらを見た。目出しに開けられている雑な穴から覗く瞳の色を見る限り、とぼけているわけじゃないのが分かる。
- 「なんだ、これは……?」
- 事実、初めて気付いたと言わんばかりに、マグサリオンは布の覆面をわさわさと触りながら困惑していた。
- 「自覚がなかったのですか? あなたはさっきから、ずっとそれを被っていたんですよ」
- 「俺が? どうして?」
- と言いながらも、彼は覆面を脱ごうとしない。蒸し暑い陽気ではなかったが、好きこのんで被ったわけじゃないなら鬱陶しくなるだろうにそのままだった。
- そう、現状において一番不可解なのがこの覆面と言える。
- アルマの話によれば、マグサリオンが素顔を隠しだしたのは勇者の死後だ。しかも即座にじゃなく、例の素振りをアルマに見られたのが原因らしい。
- つまり最低でも二つの段階を踏んだ結果のはずが、今のマグサリオンはどちらも満たしていなかった。
- 彼の中でワルフラーン様はまだ生きているし、先ほど握った手の感触は綺麗なものだったから素振りを始めてもいないだろう。
- よって時系列が乱れている。指摘されるまで気付かなかった点を見てもそこは明らかで、これも魔道具の影響だとしたら、マグサリオンの慙愧と素顔の隠蔽行為はどういう相関になっているのか。
- 「もう一度お願いします。顔を見せてはくれませんか?」
- 「それは、いや……駄目だ」
- 「どうして? お兄様や、その周りにいたみんなと距離を置いていたのは失敗だったと、悔やんでいるんじゃなかったのですか? 顔を隠すというのは、だいぶ強い拒絶の意思表示に思えますけど」
- 「分かってる……でも、違うんだ。できない」
- 自身、理屈は不明だが譲れないといった強固さでマグサリオンはかぶりを振る。私としても無理強いはできなかったので、一度情報を整理してみることにした。
- 前提として、今のマグサリオンは二〇年前の状態に戻っている。正確に言うと、ワルフラーン様が敗死する直前の時期だろう。
- 当時のマグサリオンは――現在でも同じなのだろうが――勇者という概念に強烈な嫌悪と違和感を覚えており、だけどなぜそう思うのか自分でも分からなかったため、一種の防衛行動として距離を取った。正体不明なものには関わるまいという判断で、アルマに聞いた“異端的なほど孤立した少年”とも合致する。
- そうしてワルフラーン様を拒み続け、何か酷い暴言、ないし行為をぶつけてしまった結果、それを最後に永の別れとなったからこそ、悔やんでいるというのが私の予想。
- なるほど、マグサリオンの目にはすべてが異世界の出来事じみて、兄上の在り方や周囲の人間がどうしても理解できず、気持ち悪くて仕方なかったのかもしれない。
- でも決して、ワルフラーン様をはじめとする義者そのものを嫌っていたわけじゃないのだ。慙愧の念はそこにあり、過去をやり直したいと願ったことで魔道具と共鳴し今に至る。
- ここまではいい。あくまで推測の範疇だが、筋は通っているし大きく外していない自信がある。
- しかし覆面を被るという行為が、時系列を無視して混在している理屈は不明だった。マグサリオンの幼児退行がやり直しの願望から来るもので、それがワルフラーン様に対する贖罪だとしたら、なぜ顔を隠して更なる壁を張るのだろう。
- 分からない。魔道具の効果を私が読み違えているのか。もしくは、マグサリオンの慙愧がまったく別のものである可能性?
- 仮に後者だった場合、当のマグサリオンもここでのスタンスを間違えていることになる。何を悔いているのか本人も分かっていない状態だからそれも有り得、だったら私と会話するのは無駄でしかなく……
- 違う、そんなはずがあるものかと、頭を振って不吉な想像を打ち消した。現実として今のマグサリオンはこちらに歩み寄ろうとしているのだし、その想いを信じなくてどうする。
- 真相が何であろうと、彼の中に我々との亀裂を埋めようという選択肢が存在するのは確かなのだ。私にとって大事なのは、そうした彼の一面を逃がさないようにすることだろう。
- 未来を大団円とするために。私自身が望む奇跡のために。
- 「どうも困らせてしまったようですね。顔を見せたくないなら無理にとは言いませんし、気にしないでください」
- 「俺が気にする。どうしてこんな覆面を被ってて、取りたくないと思ってるのか」
- 「では一緒に考えてみますか? あなたの身近にアルマという子がいますよね」
- 「あいつがどうした」
- 「容姿について、彼女から何かを言われた覚えはありませんか? たとえば格好いいとか、もしくはその逆」
- 少し冗談めかした風に聞いてみると、マグサリオンはぶすっと黙り込んでしまった。しかし、ややあった後に眼下の一点を指さして告げる。
- 「つまりおまえ、俺をあれと似たレベルに捉えているのか。ふざけるなよ」
- 何のことだと思って視線を向けると、そこにはインセストとズルワーンの姿があった。長閑な草原の景色に二人……並んで歩く彼らの様子は、まあ、我々よりデートっぽいと言えなくもなかったけれど。
- 「みっともない。俺をあんなものと一緒にするなよ」
- あれはあれで、だいぶ苦戦しているのが明白だった。
- ◇ ◇ ◇
- ズルワーンという男は、万事にふてぶてしいところがある。奔放かつ不遜、不真面目かつ適当で、なのに厄介事は上手いこと躱す要領の良さを持っていた。彼が多くの者から嫌われている最大の原因は、ある種の不公平を体現しているせいだろう。
- 物事の中心に立つことがなく、当事者たちを脇から観測する側であり、他人の弱点は遊び感覚で弄るくせに自分自身のボロは出さない。
- 道化的な立ち回りで、見方を変えれば卑怯とも表現できるが、ゆえにズルワーンは大抵の局面で優位と余裕を崩さずにいられた。そうした才覚を持っており、彼も己にそんな生き様を課している。
- それだけに、これは異常事態とさえ言ってよかった。
- 「……なあ、マジでおまえ何なんだよ」
- 彼らしくないうんざりとした嫌気顔で、連れの肩を軽く小突く。傍目には意外な側面と思われるだろうが、ズルワーンは女を丁重に扱う男だ。一般で言う優しさで括れぬところはあるものの、基本的に邪険な態度で接しはしない。
- よって今のように、雑な絡み方を見せるのは珍しかった。さらに、その後を予期できなかったという点も。
- 「あぁん」
- 小突かれたインセストは、加えられた力に何も抵抗できないまま草の上に倒れてしまった。別に彼女が虚弱だからではなく、まして男の注意を惹こうと三文芝居に走っているわけでもない。
- 純粋に、まったくの不意打ちなので対応できなかった。ズルワーンにはそう見えたため、余計に意味不明で困惑する。二人きりの状況で会話をしながら、相手の挙動に気付かないなど有り得るだろうか。
- 「勘弁しろよ、オレがいじめてるみたいじゃねえか。……おら、立てよ面倒くせえ」
- 「……す、すまない。えっと……」
- 差し伸べた男の手と、それを掴もうとする女の手がふらふらと噛み合わずに宙で揺れた。まるでパントマイムじみた喜劇だったが、少なくともインセストは本気なのだろう。耳まで赤くした顔を伏せ、ズルワーンを直視しないようにしているのは、限界寸前の羞恥と戦っているからだと思われる。
- もっとも、これでは埒が明かないという事実に何ら変わりはなかったが。
- 盛大に溜息を吐いたズルワーンは、インセストの手を掴んで引き起こす。
- 「おわっ――とと、ありがとう」
- 「いーよ別に。なんかおまえ見てると、色々馬鹿らしくなってくるわ」
- ペースを乱されること甚だしい。ある意味、今のズルワーンはインセストよりも狼狽えていた。理屈は本当に不明だが、この奇妙な女を前にすると普段の自分を保てなくなる。
- 苛立ち紛れに視線を巡らすと、丘の上から興味津々といった態でこちらを見下ろすクインと目が合ったのでさらに腹が立ってきた。“見るな”と強烈な念を飛ばし、出歯亀を封じてから再びインセストに向き直る。
- 「とにかく、おまえはオレに話があんだろ? わざわざそっちから声かけてきたんだし、さっさとそこを進めようぜ」
- 「……わ、分かった。といっても、別にたいしたことじゃないんだけど」
- 帽子のつばで顔を隠すように俯いたまま、インセストはぽつぽつと話し始めた。
- 「この一三年、君が何をやっていたのか知りたい。そんな詳しくなくてもいいから、だいたいのところを教えてくれないかな?」
- 「いいけどよ、わりとしょうもねえぞ。聞いて楽しいかは責任持てねえし」
- 「……大丈夫。君のことなら、なんだって興味があるんだ」
- そう真摯に告げるインセストが、自分にどんな感情を抱いているのか分からぬほどの朴念仁ではさすがになかった。性的に不能であるズルワーンだが、だからこそ人並み以上の経験を積んでいるとも言える。
- どうも大層な好意を寄せられているようで、さながら救世主のごとき慕われ具合だ。にも拘わらず過去に面識を持った覚えがないのは不可解であるものの、星霊だった頃はあまり一般の者を顧みなかったし、こういうことも有り得るかとズルワーンは納得していた。
- インセストの立場からすれば、マシュヤーナの支配下でレジスタンス的な活動を続けていたところへ、旗頭となる存在が帰還したような状況だろう。喜びに色めきだつのは道理だし、ズルワーンの一三年を知りたがるのも当然と思えた。
- ならば、億劫でも応えてやらねばなるまい。自分が好きにしていた間、故郷で戦っていた者を無碍にするのはさすがに気分が悪かった。
- 「戦士になったのは、ぶっちゃけると本意じゃねえよ。善だの悪だのいうバトルには正直うんざりしてたしな、せっかく手にした二度目の人生は、好きに生きようと思ってたんだ」
- 「……でも、君は戦う道を選んだんだよね。いったいどうして?」
- 「ほとんどその場の勢いっつーか、誤魔化しだな。聖王領で目が覚めたとき、たまたま目の前にいた奴がタチ悪かったもんでよ。オレはおまえらの敵でも味方でもねえ――なんて言ったら殺されちまうと思ったのさ」
- 「……それは、彼だね?」
- インセストは丘の上に顎をしゃくって、その先にある少年の姿を認めたズルワーンは頷いた。
- 「まあな。でもそこまで後悔はしちゃいねえよ。色んな意味でおっかない野郎だが、あいつに会えたのはよかったと思ってる」
- 何せ、見ていて飽きることがない。現状子供になっている点も含め、マグサリオンという存在はズルワーンにとって最大の娯楽だった。一種の敬意すら抱いており、すべてに反逆的な黒騎士の在り方こそ自分が求める理想に近いと感じている。
- 「……彼をあんなにしたマシュヤグについて、何か思うところはないのかい?」
- 「特にねえな。だいたいオレは、妹がそんなもんを持ってることさえ知らなかったしよ。ただ言えるのは、あいつに絡んだ以上詰んでるぜ。マシュヤグって物については、マグサリオンに任せりゃいいさ」
- 「……信頼してるんだね。確かに、彼があのまま慙愧に向かい合ってくれる限りマシュヤーナは切り札を使えなくなる。だったら後は、僕らでどうにかできるはずだと思うし」
- 「だといいがね。つーか話が逸れたな。とにかくオレは、あんまり健全と言えねえ戦士なんで色々と風当たりも強くてよ……」
- 引き続き、ズルワーンはこの一三年にわたる出来事を語っていった。印象に残っている事件ならば一通り、部外者に話すべきではない機密レベルのことも、傍目には些細なものにすぎない日常も。
- そのすべてにおいて、ズルワーンは傍観者であり部外者だった。クインと出会い、彼女を聖王領に連れて行ったときも、龍骸星で殺人鬼の軍団と戦ったときも、彼は善悪闘争という世界の理を斜めに俯瞰しながら存在していた。敵味方を問わず、他の者たちと同じ熱量やベクトルを共有した経験は一度もなかったと言っていい。
- 正確には、意図的にはぐれ者たらんと努めているのがズルワーンだ。よって半端者と言われてしまえばその通りだが、だからこそ慙愧はなく……いいや、悔いているがゆえにこんな自分ができあがったのだと理解している。
- インセストはそれを興味深そうに聞いていた。時に驚き、時に笑い、そして時には引きながら……ズルワーンの軌跡を噛みしめるように受け止めて、顔を上げた彼女は問いかけてくる。
- 「……君にとって、マシュヤーナはどういう存在なんだろう?」
- 不思議な目だった。眩しげに細められた瞳は確かにズルワーンへ向けられていたのだが、同時に遠くを見ているような……
- 微妙に焦点が合っておらず、なのに曖昧な雰囲気とは違う意志の光が奇妙に映えて、煙に巻くことを許してくれない。
- 「……オレはあいつに嘘をついた」
- だからだろうか、ズルワーンは知らずにそう呟いていた。生涯誰にも話すつもりがなかった事実を口にして、彼自身も驚いていたが……一度漏らした想いは止められずに流れ始める。
- 「星霊として自我を持った瞬間から、あいつと仲が良かった時期なんか一瞬もねえ。兄妹だろうがなんだろうが、真我がある以上は当然だよな。お互い手加減抜きで十何年もやり合ったし、途中からは他の奴らも色々混ざって滅茶苦茶な大戦争だ。おまえもこの星に生まれたんなら、あの頃がどんなもんだったかは知ってるだろ」
- 「……うん、善と悪の中核が派手にぶつかり合った戦後の余波だね。欠員補充の覚醒者が僕らの星からいっぱい生まれて、何年も泥沼になった」
- 「勇者サマもクソ魔王も、オレにとっちゃあ同じくらい迷惑だぜ。なんでおまえらがはっちゃけた結果の帳尻合わせが、うちの庭で起きるんだってな。……まあ、当時は愚痴る余裕もなかったが」
- 「……そうなの?」
- 「そうだよ。オレは生意気な馬鹿妹をどうやってぶちのめすか、それだけで一杯だった。けどよ――」
- そこでズルワーンは言葉を切り、懐からタバコを取り出す。咥え、火をつけた後、吐いた紫煙の行方を追うように眺めながら、自嘲気味に続けた。
- 「なんでオレは、こんなことをしてんだろうなって思ったんだよ。不義者はムカつくが、そもそもムカつく理由がワケのわかんねえ本能だ。するってえと何か、オレらはてめえの頭で考える知能もない虫か何かか? そんな風に考えたら、途端に馬鹿らしくなったんだよ。一緒に戦ってたおまえらみたいな奴からすりゃあ、ふざけんなって話かもしれんが」
- 「……ううん、ちょっと分かる気がする。でも、君がそう思ったのはいつなんだろう?」
- 「呆れたことに死ぬ直前だ。もっと前に気付けてりゃあ、違う道があったのかもしんねえがな……オレってやつはどうにも大事なところで間が悪いらしい」
- 訥々と語るズルワーンは、彼なりに順序だてた説明を心掛けていた。最初に言った妹への嘘とは何なのか……告白するには相応の整理が必要で、インセストもそこは汲んでいるらしく、急かす真似はしていない。
- 「土壇場にならなきゃ目が覚めなかったってのは、正直なところみっともねえ。負けたから弱気になったみたいで恥ずかしいとも思ったしよ。心境の変化を認めるのに抵抗があったな。だから――」
- ズルワーンはインセストに視線を移した。彼自身、どうしてかは分からなかったが、この言葉は彼女の目を見ながら話さなければと思ったのだ。
- 「オレはあいつに嘘をついた。嬉しい嬉しいって言いながら泣いている妹に。オレを食いながら、おまえはどうだって訊いてきた女に……クソ馬鹿馬鹿しい真我的な模範解答をしちまったんだよ」
- 「…………」
- 「反吐が出る。死んじまえってな」
- 当時、そこにはズルワーンなりの配慮があった。長年にわたり骨肉の争いを続けてきた宿敵を倒した瞬間ならば、マシュヤーナが求めているのは怨嗟と憎悪の断末魔であろう。もとより不義者はそうしたものを好む性だし、敗者は勝者が望む通り、無様な最期を晒してやるのが礼儀だと思ったのだ。
- 虚しいだの、こんなものは違うだの、挙句の果てにおまえと争いたくなかったなどと言われたら、マシュヤーナは拍子抜けするに違いない。自分と同じように、すべてが馬鹿馬鹿しくなるのではないか。
- それは哀れだと思ったから……
- 「本音を偽った。後悔してる」
- そう呟くと、ズルワーンは帽子のつばで顔を隠した。言うべきことは言ったので、これ以上インセストの目を見るのは耐えがたい。
- 「……マシュヤーナにちゃんと向き合うべきだったと、君は思っているんだね。たとえどんな反応をされようと、嘘をつくくらいなら正直な気持ちを伝えればよかったと」
- 「……まあ、な。これもオレの独りよがりって言われりゃその通りだが、どうにも気分が悪いんだよ。そんなわけで、以来嘘だけはつかねえようにしてるんだ。馬鹿みたいだろ?」
- やや苦しげにおどけてみせると、インセストは首を横に振って微笑んだ。
- 「……ううん、君はやっぱりヒーローだよ。少なくとも僕にとっては……そしてたぶん、マシュヤーナにとっても」
- 「そうかあ? おまえがどうかは知らねえけど、妹は今でもキレ散らかしてやがるだろ」
- 「……だからこそケジメをつけに来たんじゃないの? 色々紆余曲折はあったにせよ、君はこの星に帰ってきた。僕らにとって大事なのはそこだけだよ」
- 「僕ら、ね」
- まるでマシュヤーナの側に立ったようなインセストの物言いだったが、一三年も不義理を重ねた身としては返す言葉もない。実際彼女の言う通り、ズルワーンは空葬圏に入ったときから妹との関係を清算する覚悟があった。聖王領での決戦を避けたのは、つまるところプライバシーに関わる問題を大勢に見られたくなかったせいで、裏返せばやる気の証明と言えるだろう。
- 「ところでズルワーン。さっきから気になってるんだが、一ついいかい?」
- 「なんだよ」
- 妙にうきうきしながら話しかけてくるインセストに、ズルワーンはうんざり気味な溜息で応じた。過去の恥を晒す相手として、契約上マグサリオンは仕方なかったし、クインもまあいいだろう。しかし目の前の女は完全なイレギュラーで、なのに一番踏み込んでくるからタチが悪い。
- そしてそれを躱しきれない自分自身が、何より度し難く不明なのだが……
- 「君はマシュヤーナを妹だってしきりに言うけど、違うんじゃないか? あっちがお姉さんで、君は弟だろう」
- 「はあ、なに言ってんだおまえ。ふざけんなよオレが兄貴だ」
- 傍からはどうでもいい問題かもしれないが、ズルワーンにとっては譲れぬ一点だったので語気を強めた。すると意外なことに、インセストもこれは譲れないとばかりに言い返してくる。
- 「いーや、君が弟だよ。こういうのはきっちりしとかないと気持ち悪いんで言わせてもらうけど、マシュヤーナのほうがお姉さんだ」
- 「てめ、どこに目ん玉つけてんだよ。どっからどう見ても、俺のほうが年上って貫禄だろうがッ」
- 「……見た目は関係ないんじゃないかなあ、双子なんだし。ていうか、そんなところを頼みにしてる時点で、もう答えは出てるも同然じゃない?」
- 「ねえよ――絶対、オレが兄貴だ!」
- 「……ああ、うん。なんだろう君、可愛いね」
- 「ああん!?」
- まさに姉でも気取るような上目線の発言が癪に障り、再びズルワーンはインセストの肩を小突いた。するとこちらも再び、まるで見えない不意打ちを食らったみたいな呆気なさで草地に倒れる。
- 「……いたた。もう、乱暴だなあ。少しは加減をしてくれたまえよ」
- 「……別に力は入れてねえよ。つかおまえ、本当に大丈夫なのか。そんな様で」
- マシュヤーナとの戦いにインセストが意欲を燃やしているのは明らかだったが、このふわふわとした謎の立ち居振る舞いがやはりどうにも頼りなく思える。
- 喩えるなら、薄いヴェールを隔てた別世界の住人めいて、どうにも現実感が希薄なのだ。
- 「……心配無用だよ。僕がマシュヤーナにがつんとやったとこ、君も見ただろ」
- 「そりゃそうだがな。理屈が分かんねえと納得もできねえわ。そこらへん、話すつもりはないのかおまえ」
- 尻を叩きながら立ち上がったインセストは、その言葉にしばし思いつめた表情をしてから頷いた。
- 「……ごめん、言えない。けど約束するよ、この件が終わったら必ず君に打ち明けると」
- 「そうかい、なら待ってやる。代わりにおまえ、死ぬんじゃねえぞ」
- 秘密を抱えたまま逝かれては堪らない。ズルワーンとしては単にそれだけの意味で言ったのだが、インセストは満面に喜色を浮かべて請け合った。
- 「……うん、うん! 任せて、私は絶対に死なないよ。そのために君と――」
- 「“僕”じゃねえのかよ。おまえ、キャラぶれてんぞ」
- 「……うっ」
- 「つーか他にも、反応が常にワンテンポ遅れてるとこも気になってんだわ」
- 「……ううっ」
- 「ほらそれだよ」
- ここまでほぼ例外なく、インセストは語頭に若干の間が開いている。ズルワーンの言葉を深く吟味しながら返答しているのだとしても、反射的な感嘆詞の類まで遅れるのはさすがに不自然すぎるだろう。まるで何かの中継的なタイムラグは、間に距離や人を介しているようなもどかしさがあった。
- いったいどういうことなのか。他者をおちょくるのが好きなズルワーンだが、おちょくられるのは好まない。これははっきりさせねばならぬと思ったとき、第三者の声が頭に響いた。
- “ごめんですズルワーン。インセストは色々と複雑なのです”
- 「あん?」
- 念話――だがクインではない。伝わってくる意志の強さとは裏腹に、ふにゃふにゃと力が抜けそうになる特徴的な少女の声には覚えがあった。
- 「てめえ、アー公か! もしかして、おい――今までのは全部おまえがッ」
- “通訳してたっす。よく気付いたっすね”
- 「ざっけんなコラ、なに考えてそんな真似を――て逃げるなてめえェ!」
- 振り向いたときにはもう遅く、すでにインセストは脱兎のごとく駆け去っていた。どういう意図かは知らないが、ろくに目も合わせず会話すら他者を挿んで行うとは、馬鹿にするにもほどがある。ここまで舐めた真似をされたのは初めてで、さすがのズルワーンも歯ぎしりしながら地を乱暴に蹴り上げた。
- “痛いっす、暴力反対っす”
- 「……てめえも同罪だぞアー公。覚悟はできてんだろうな」
- “申し開きはちゃんとするっす。ただ今日はもう夜になるから、明日でどうです? 知ってると思うけど、わたしは……”
- 「鳥目だっつうんだろ。わーったよ。クソがっ」
- 憤懣やるかたないといった態で吐き捨てつつ、吸いかけのタバコをズルワーンは揉み潰した。
- ◇ ◇ ◇
- そして夜が更けていく。明日の朝になればアーちゃんから話があると言われたので、ここは大人しく待つべきだと納得していた。急がば回れという言葉もあるし、先の展開を思えばこそ、休めるときに休んでおくのが賢明な判断だろう。
- だから今は、早いところぐっすり眠りたいのだけど。
- 「なぜ俺が、おまえと一緒に寝なければいけないんだ」
- 「ベッドが一つだけのせいかと」
- 「だったらおまえは床で寝ろ」
- びしぃ、と何ら悪びれもせず、寒々しい床を指さして告げる覆面の男の子。私はもうなんというか、三周くらい回って彼を可愛いと思うようになり始めている。
- 「あのですね、マグサリオン。普通こういうときは、レディに快適な場所を譲るのが男性の甲斐性とされるのですよ?」
- 「そんなものは知らん。おまえらの勝手なルールを俺に押し付けるな」
- マグサリオンの独自世界がどんな法則で回っているかは知らないが、清々しいほどの俺様主義である点だけは確かだった。彼の空気読めなさ具合はこの頃から徹底していたのだなと、妙に感心すらしてしまう。
- 「分かりました。では譲歩して、男女平等的なノリでいきましょう。欲しいものが被っているなら、あとは公正に勝負です」
- 「むっ」
- 不穏な気配を感じ取ったか、身構えた彼の両肩を私は掴み、そのままぽーんと放り捨てた。加減はしたし、着地できる角度を考慮しつつ投げたから怪我するまい。
- 「ではおやすみなさい。――あうっ」
- そうしてベッドへ潜り込んだ瞬間、背中に走る強い衝撃。マグサリオンに飛び蹴りされ、つんのめったところでシーツを引っ張られた私は、そのまま床に転げ落ちた。
- 「言っただろ。おまえはそこで寝ろ」
- 「嫌です」
- 私も負けじと、少年の足を掴んで引きずり下ろす。たった一つの座を賭けて、熾烈な争いが始まった。
- 「やめろ触るな、気持ち悪いんだよおまえはっ」
- 「なんて口の悪い子でしょうか。お兄様に代わってお仕置きです」
- 「兄者は関係ないだろう。べたべたするな、殺すぞ」
- 「どうぞやってみてください。ほらほら、さあさあ、逃げられますか?」
- 「むぎぎぎ……」
- 首四の字固めをかけながら、ばたばたもがくマグサリオンを押さえ付けた。私の太ももを思い切りつねって引っ掻いて噛みついて、まるでタチの悪い野良猫みたいに暴れている。
- 「いたい痛い――ちょっと、それはやりすぎです。やめて、どこ触ってるんですか子供のくせにっ!」
- 「不気味な声を出すな!」
- 「不気味ってなんですか、失礼ですね!」
- そんな争いが、以降実に三〇分ほど続いた。何が腹立たしいって、マグサリオンは楽しいとか恥ずかしいとか、そういう感情を一切見せない点だった。本当に私の絡みを気持ち悪がってて、こちらも一応プライドがあるから引くに引けず、事態は泥沼の様相を呈していく。
- にも拘わらず胸にどこか温かいものを覚えるのは、彼の努力が伝わってくるせいだった。スキンシップを何かの修行みたいに思われている点は複雑だけど、私に付き合おうとしてくれる姿勢が純粋に嬉しい。吐き散らかす罵倒の数々は、語調の激しさと裏腹にそこまで強い拒絶の意思が宿っていない。
- だからマグサリオンを最大限に構えというインセストの指示がなくても、このどたばたを続けることは可能なのかもしれず……
- 何よりも私自身が、今を得難い瞬間だと感じていた。
- 「ねえ、マグサリオン」
- 共に疲れ果て、結局一緒に眠るオチとなった男の子へ語りかける。彼の小さな背中を後ろから包むように抱きしめて、私は一つの未来を思わずにいられない。
- 「……どうした、まだ何かあるのか」
- 「いえ、たいしたことじゃありませんから、気にしないで」
- それは不実な、私の手前勝手な願望だと分かってる。彼の立場も戦いの帰趨も、すべて無視した独善的にすぎる夢。
- だけど考えてしまうのだ。その可能性をどこかで祈ってしまうのだ。
- もういっそ、彼はこのままだったらいいのにと。
- 5
- 魔王の襲来を許してしまった聖王領は、混乱のただ中にあった。時間的には一〇秒そこらの異変であり、被害も皆無に等しかったが、安穏とした日々に慣れた者たちを恐怖のどん底へ叩き落すには充分すぎたと言っていい。
- そもそも、事は英雄祭が終わった翌日。まだ王都には全土から訪れた多くの民が残っており、宴の余韻に微睡んでいたときである。寝耳に水どころの驚愕ではなく、わけも分からぬ内に過ぎた嵐を思えばこそ、助かったと胸を撫で下ろせるはずがない。
- むしろ、いつまたやって来るかという不安が恐れを増大させた。それまで漠然と信じていた平和の幻想を打ち砕かれ、自分たちも善悪闘争の当事者なのだと、無力な民草は遅まきながら再認する。
- よって王都は混乱していた。マシュヤーナが去ってからすでに一夜明けようとしていたが、今も多くの者たちが我先にと押し合い圧し合い、家財道具を荷車に乗せて都の外へ逃げようとしている。
- その行為に意味があるのか、冷静に考えられる者はいなかった。理屈的には無駄でしかなく、魔王の侵攻が始まれば安全地帯など存在しない。
- しかしそれでも、留まりたくはなかったのだ。一秒でも長く、一歩でも遠く、死から逃れるために足を動かす。無秩序な逃避行はすでに暴動じみた様相を呈していたが、恐慌する哀れな民を鎮める力は現状機能していない。
- 善の防人である戦士らもまた、同じく混乱に包まれていたのだ。
- クイン、ズルワーン、マグサリオン……以上の三名がマシュヤーナに連れ去られたのはすでに周知の事実だったが、ではどうするという段において不毛な言い争いが続いている。
- 危機にある同胞を助けるため、空葬圏へ攻め込むべき――馬鹿な、むざむざ敵の巣穴に飛び込む気か。
- まずは民の避難に注力しつつ、守りの陣を固めるべき――ならば件の三名は見殺しか。そもそも、この地を戦場にするというのか。
- 二つに一つ、攻めるか守るか。そしてどちらにせよ、ようやく復興の兆しを見せ始めた聖王領が大打撃を受けるのは明白だった。いいや、それすら希望的観測でしかなく、順当に考えれば善が滅びる。魔王と正面切ってぶつかるなど、そんな真似をできる段階では断じてない。
- では第三の選択として、逃げるのか?
- そうだ。今ならすべての戦士と多くの民を乗せたまま、新天地へ脱することができるだろう。こちらの位置が割れた以上、本拠を移すのが妥当な選択。
- 臆病者め、二度までも魔王の前に敗走して、その後にどう立ち上がるというのだ。
- 覚悟を決めろ、誇りを持て。戦うべきときは今しかない!
- 誇りで勝てるなら苦労はせん。現実を見ろ愚か者が!
- 議論は紛糾し、何の答えも出せぬままに時間だけが過ぎていく。彼らを纏めるべき聖王が、玉座に閉じこもって姿を見せないのだから当然の流れだった。
- もはやスィリオスに対する不信感さえ生まれ始めている状況で、続く事態は誰にとっても予想外の出来事となる。
- 仄かに黎明を迎え始めた聖王領の空で、微かな亀裂が発生した。星にとっては針の穴よりなお小さく、マシュヤーナの万分の一にも満たぬ規模だったため、気付いた者は一人もいない。だがそれは、あくまで効果範囲の問題でしかなかった。
- 天を穿ち、繋げるという所業そのものは同等であり、そこに要した力の深度は決して魔王にも劣らない。事実としてその存在は、己が何者かの下にあるなど考えたことすらなかった。
- 「し、しまった。や、やっぱり、遅れたみたい」
- 聞き取りづらい吃音で愚痴りながら王都を見下ろすのは、血に染まったような紅蓮の全身鎧を纏う女だった。
- 「と、途中で、道草したのがいけなかったかな。で、でも仕方ない。そういう戒律。出会った奴は殺さなきゃ、殺さなきゃ」
- ぎょろぎょろと動く両の瞳は、凄惨なほど濃い隈に覆われていた。げっそりとこけた頬も、土気色に淀んだ肌も、到底生きている人間とは思えない。まるで何百年もの間、寝食すら忘れて一つのことを繰り返し続けてきたのかのごとき、狂的なまでの偏執性を漂わせている。
- 女はさながら髑髏の騎士だ。飢えて飢えて、餓えて餓えて……求めるただ一つのものを手に入れるため、他のあらゆるすべてを削ぎ落しながら進撃する渇きの化身。冗談じみたほど巨大な突撃槍を肩に担ぎ、未だ自分の存在に気付いていない眼下の者たちを吟味している。
- 「どうしようかな。今ならまだ、マシュヤーナを追える。けどその前に、肩慣らしをしてもいいかな。こ、このくらいなら一〇分、いいや七分で終わる。……違う、終わらせる」
- 呟く女の左方、二〇メートルほど離れた位置にそのとき再度の異常が起こった。空間を缶切りで刳り抜くように、円状の穴が生じて一人の男が現れる。
- 「ああァァ、嘘だろォ――やっぱり遅かったじゃないか失敗だァ!」
- 雷鳴もかくやという大声で、男は泣き叫びつつ悶絶した。語調はまったくの正反対だが、言葉の内容自体は女の第一声とほとんど同じものである。
- 「俺にビビったか。ビビったんだよな。ビビったに違いないだろそうだそうに決まっているとも。つまり俺のほうが強いってことだァ!」
- そして次には、胸をそり返らせて呵々大笑する。信じがたい切り替わりの速さは、底抜けなほど明朗闊達で前向きな男の性状を表していた。
- 朝日に映える蒼銀の全身鎧を隙なく纏い、流麗な二振りの曲刀を携えた姿はお伽噺に描かれる聖騎士そのもの。しかし億を優に超える血臭と死臭の塊であり、にも拘わらずすべてを輝きへと変えている。
- 常識を破壊する矜持の在り方が、この屈託なき美丈夫に特異な熱を与えていた。彼はどれだけの悪逆、暴虐を重ねても、辛気臭い陰りなど一片たりとも近寄らせない。そんなものに侵食されるのは、すなわち弱い証だと決めつけているのだ。
- 「よし、よし、逃げたかマシュヤーナ。では追うべきだが、その前にこいつらどうしてくれようか。俺なら一〇分、いいや七分――違う七秒で終わらせてやる!」
- 「う、うるさい」
- どうかしているとしか思えない放言に、陰気な吃音が被さった。瞬間、紅い騎士と蒼い騎士の視線が虚空を超えて密に交わる。
- 「お、おまえの声は頭に響く。黙ってほしい。……いや、黙らせてやろう」
- 万象貫く我力と共に、女の突撃槍が放たれた。荒唐無稽なほど一直線に、髪の毛一本の誤差もなく、己と相手の最短距離を渇きの刺突が走り抜ける。
- 対して、男の曲刀は万象削る螺旋だった。女の一閃を躱しもせず、受けもせず、亜光速で迫る槍の上を毒蛇のごとく回転しながら熱の斬撃が遡っていく。
- 双方、完全な本気であり、何の躊躇もなく互いを絶殺せんとしていた。旧知と思われる間柄だが、そこに親しみの類は存在しない。
- いや、これこそが二人にとっての友愛なのかもしれなかった。
- 「久しぶりだなザリチェード。何年ぶりだ? まあいいが、どうやら考えることは同じらしい。おまえもマシュヤーナを追ってきたか」
- 共に全力の技をくり出して、両者は弾き合った後に対峙した。蒼い男の朗らかな言葉に、紅い女は吃りながらも優越感を滲ませて含み笑う。
- 「い、一緒にしないでタルヴィード。こ、ここに来たのは私が先だし、私のほうが強い」
- 「なにぃっ?」
- その主張に男は狼狽を表したが、育ちの良い貴公子然とした雰囲気は変わっていない。わずかに目を細めつつ、抉るような声で問いかける。
- 「バフラヴァーンのもとを離れてから、俺は九つの星とそこに生きる奴らを殺してきたぞ。おまえはどうだ、真実に懸けて今答えろ」
- 「こ、九つ……!?」
- 「そうだ。俺より多くを殺った上で、かつ早かったというなら認めてやらんでもない」
- 「わ、私は、七つ……」
- 「うわははははっ!」
- 天を仰ぎ、腹を抱えて男は笑った。それ見たことかと楽しげに、なんとも無邪気な喜色を浮かべる様を見れば、大抵の者が釣られて相好を崩すだろう。
- 無論、事情を知らなければの話ではあるが。
- 「答えは出たな。俺のほうが強い!」
- 「だ、黙れ低能」
- 「はっきり喋ろ根暗」
- そして再度ぶつかる螺旋と直線。完全に拮抗している蒼紅の両騎士は、王都の空中で死の剣戟を交わし合う。
- その速さ、その精度――魔神の領域にある極限暴力の狂い咲き。わずか数秒の間に万を超える必殺が交換され、なのに二人は血の一滴すら流しておらず、息の一つも切らしていない。刹那の刻みで高まり続ける技の強度は、彼らが底無しの体力を持つ証明だった。
- 殲くし滅ぼす無尽の暴窮――出会った者は誰であれ、全身全霊で戦い倒す。最強という座を追い求め、森羅万象すべてを滅尽すると誓った戒律は、彼らを永久機関へと変えているのだ。
- 止まらない。止まるわけがない。二人は飛蝗。戦闘の怪物。
- 第三位魔王の首を獲るため、五〇〇年にわたり宇宙を虱潰してきた修羅である。己を高めること以外、何も考えていないと言っていい。
- 「強い、強くなったなザリチェード。だが覚えておけ、俺のほうが強い!」
- 「お、おまえも強いぞタルヴィード。けど知るがいい、私のほうが強い!」
- バフラヴァーンがそうであるように、飛蝗は互いを認識しなければ攻撃してこない特徴がある。不意打ちめいた真似をすれば勝負の純度に曇りが生じ、どちらが強いか分からなくなるという美学に基づいた拘りだ。
- よってザリチェードもタルヴィードも、蚊帳の外にある者を殺傷する趣味はなかった。天体すら貫く槍が、恒星風さえ切り裂く刃が、ここまで周囲に何ら影響を与えていないことこそ証だろう。物理法則を歪ませる我力によって、技の威力はそのままに衝撃波だけを消しているのだ。
- しかし、いつまでもそれが続くはずはなかった。特級魔将同士の殺し合いは、必然的に凄まじい破滅の気配をぶち撒ける。彼らの脅威に無頓着でいられる者など、宇宙全土を巡ったところで五人もいない。
- ゆえに今、遥か上空の魔戦を見咎める者らが現れ始めた。
- 一人、二人、一〇人、一〇〇人、細波のように伝播していく恐れの感情。
- 聖王領の老若男女が、飛蝗の乱舞を視界に収めて――
- 「困りましたね。少し面倒なお客のようです」
- どこか楽しげに、睦言めいた声を漏らしたのはロクサーヌだった。現在、あらゆる者が立ち入りを禁じられている玉座の間で、彼女は飄々とスィリオスの傍らに侍っている。
- その点も解せなかったが、何よりも奇妙なのはロクサーヌが纏う余裕だろう。口ぶりからして暴窮飛蝗を察知しているのは明らかなのに、まったく慌てた様子が見られない。
- むしろ弄うような雰囲気すら滲ませて、女は主君たる聖王へと囁きかけた。
- 「どうなさいますの。結構なピンチと見受けますけれど」
- 「無論、打って出る。この程度凌げんようでは先もあるまい」
- 応じるスィリオスは、玉座に腰かけたまま虚空の一点を見つめていた。あたかもそこに本当の敵を見出すかのごとく、厳然とした意志の光を冷たい双眸に宿している。
- 「ならば私も参りましょう」
- 「いいのか?」
- 「あら、おかしなことを仰いますね。今の私は、あなただけのロクサーヌですよ?」
- 意味ありげに片目をつむった女の仕草に、スィリオスは眉間の皺をふっと緩めた。淡い変化ではあったものの、彼にとっては非常に珍しい心からの笑み。
- 「感謝する。おまえの主にもそう伝えてくれ」
- 「剛直な御方。……でも、そんなところが好きでしてよ」
- 無言で立ち上がり、歩き始めたスィリオスに、ロクサーヌは笑顔で続いた。彼女の軽やかな足取りは遊び場にでも向かうようで、しかし訪れる未来が凄惨なものであることは間違いない。
- ズルワーンとマグサリオン……二人のエースを欠いた状態で、二体の特級魔将を相手取る。これは聖王領にとって、二〇年ぶりとなる致命的な危機だった。
- 「ところで根暗」
- 「どうした低能」
- すでに何千万合と打ち合って、なお一切の消耗がないまま対峙しているザリチェードにタルヴィード。両者の均衡は早々崩れず、ゆえに激烈化の一途を辿る勝負はもはや、王都に存在するすべての者から見られていた。
- 「勝ったほうがマシュヤーナと戦るっていうのは当然だが、その前に場を整理しようと思うんだ。どうも気が散ってしょうがない」
- 「い、いいだろう。おまえの死に顔をちゃんと見たい。だ、だから先に、周りをさっぱりさせるのは賛成だ」
- 最後に一度、握手でも交わすように槍と曲刀を打ち合わせ、二人は視線の向きを変えた。
- 眼下に犇めく義者の群れ。人も獣も、虫も草花も関係ない。
- 生きているなら、こちらを見るなら、すなわち戦闘開始の鐘である。己の前に立つ以上、誰であろうと最強への道を阻む敵。
- 殺す以外、どんな処方があるという。
- いま高らかに、飛蝗は誓いの絶唱を轟かせた。我とおまえはここにいると、天下に謳いあげるがごとく――
- 「「目が合った奴は皆殺しだ!」」
- 放たれた突撃槍と曲刀が、ただの一撃で百万単位の血花を咲かせる。
- 星一つの鏖殺に数分掛からぬと豪語したのは、決して誇大な妄言ではない。彼らにとって、こんなことはあくまで日常の営みなのだ。
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