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- 覚悟を決めろ。
- いま我々が共有した想いはまさにそれで、ゆえにアルマは端的な言葉を放った。
- 「私たちは、死ぬ」
- 生還の希望はない。どう足掻いても結末は死しか見えず、断言して皆殺しになる。
- 床に伏す我々を背で庇ったまま、そう振り返りもせず彼女は言うのだ。
- 凛々しく、貴たかく、高邁こうまいに――
- 「だからこそ立て。後に続く者たちの礎となるために。ワルフラーン様がそうしたように」
- 不倶戴天の敵を前に、無様を晒していい理由など一つもない。戦士ヤザタとしての誇りを示せと鼓舞するアルマに、私たちは身体を起こすと意地で応えた。
- 「別に、死ぬつもりなんかねえし」
- 「当たり前だろ、足掻けるだけ足掻いてやる」
- 「もう逃げろとは言わないでくださいね」
- 魔王を相手に逃走は不可能……そんな現実とは関係なく、私たちは徹頭徹尾の前のめりを誓っていた。
- 真我アヴェスターの命じるままに、やるべきことをやるために。
- 皮肉な話だが、絶体絶命を意識するほど自分が何者なのかを強く感じる。
- お父様が謳うところの、計算上確定している死を覆すのだ。奇跡を起こすべき時は、ここをおいて他にない。
- 「――いくぜェ!」
- 口火を切ったのはサムルークだった。前方に掲げた右の掌から、赤い闘気が噴流となって放たれる。
- 聖王領で開発された新しい義肢の機能だった。サムルークはこれまで戒律を発動してもガス欠になるまで振り絞った経験がなく、“使い残し”をかなりの量で溜めていた事実がある。
- 今までは死蔵するしかなかったそのエネルギーを引っ張り出すために、義肢は強力な刺激をサムルークの神経網に送り込んでいた。つまり使用中は痛みの度合いが跳ね上がるが、スタミナの大幅アップを実現している。
- 危険な技ではあるものの、威力については折り紙つき。
- 闘気の嵐は津波のごとく魔王を呑み込み、轟音と共に大爆発を巻き起こした。並の魔将ダエーワなら消滅必至の初撃であり、決着を確信していただろう。
- しかし、言うまでもなく相手は尋常な物差しで測れない。よって追撃へと移った私たちに、フェルさんの加護が届いた。
- 「防御強化クシャスラ!」
- 同時に身体が燃えるような昂揚感。明らかに通常の加護ではなく、そこは一度で我々全員に効果を与えた点からも明白だった。
- フェルさんの戒律が描く七つの理想が一つ。星霊加護が数倍以上の威力を発揮する特別な日の技に他ならない。
- 「ついさっき日付が変わった。全力で行くぞ、今日は大当たりだ」
- 強化の加護に付随する機動力の低下も最低限に抑えられている。すなわち今、私たちは非常に堅固で軽い鎧を纏ったに等しかった。
- これなら如何に魔王といえども、視線一つで破れはすまい。奮い立つ勇気を抱いて、私はすでに駆け出していたアルマの背を追う。サムルークの砲撃で視界は粉塵に包まれていたが、この異常な気配を見逃すはずがなかった。
- 何ら不純物のない、透明な殺意。草花がそよぐ涼やかな爽気めいた、底知れぬ異形の闇が帳の奥に渦巻いている。
- 先の攻撃を一歩も動かずまともに受けて、なおも無傷か。その事実に舌打ちするも、敵とて生物には違いあるまい。お父様のような規格外の体躯を持たない以上、必ず限界があるはずだと考える。
- 視界に捉えたドレス姿の少女かいぶつへ、私より一瞬早く肉迫したアルマのジャマダハルが放たれた。無駄を極限まで削り取り、最適化された軌道の一閃が横薙ぎに第四位魔王の首へ吸い込まれる。
- それは化けの皮を剥いだときの、まさに再現。刹那を引き延ばした時間感覚の中で、私は宙へ飛ぶ金髪の首を幻視したが、しかし結果は予想外のものだった。
- 「―――ッ!?」
- 魔王の首は繋がったまま。一筋の傷さえなく綺麗な様を晒している。
- だがアルマの攻撃を防いではいない。まともに受けたし、理不尽な首の硬さで刃を弾き返したわけでもなかった。
- 見たままを言えば、アルマのジャマダハルは少女の首をすり抜けた。まるで実体を持たない霞を斬ったかのように、何の影響も与えず透過したのだ。
- では、目視できないほどの速度で紙一重の回避をしたのか? あるいは、本当に霞のごとき存在なのか?
- 順当に考えるならそのどちらかになるものの、私の直感は違うと告げる。かといって答えは出ず、そして攻撃を止められもせず――
- 「はああああッ!」
- 何にせよ、打ってみなければ始まらない。覚悟を決めた私は、握り込んだ拳を全力で魔王の顔面に振り下ろした。
- こちらを見てもおらず、可憐とさえ言える微笑を湛えて棒立ちしているだけの殺人姫さつじんきは、やはり防御も回避もしようとしない。
- その不遜な余裕を粉砕してやると叩き込んだ拳は、私に確かな手ごたえを返してきた。
- 命中――のみならず破壊の実感。魔将ダエーワどころか一般の義者アシャワンにも等しい脆さで、魔王の首から上は弾け飛んだ。
- そう、間違いなく殴って砕いた。それは断固事実なのに、少女の優美さは変わらない。頬に痣の一つもなく、血の一滴も流さずに、豪奢な金髪を拳圧の風に揺らしているだけ。
- なんだこれは? どういう理屈だ? 封じていた怖気おぞけがぞわぞわと背筋を這い上がってきたとき、隣のアルマが怒声を放った。
- 「止まるなクイン、迷うんじゃない!」
- 「――ッ、はい!」
- 不屈の闘志に裏打ちされた叱責オーダーが、私の躊躇を消し飛ばした。硬直の解けた身体は獰猛な駆動を開始し、二の矢三の矢を鶴瓶つるべ打つ。
- 「攻撃強化サーム、飛行フラワルド――!」
- 続けてフェルさんの加護が再び走った。防御に攻撃、加えて飛行による速度の上昇。しかも通常より数倍の効果で、相性の悪さからくる減殺もない。
- もはや卑怯とすら言える域の身体強化フィジカルエンチャントを纏いながら、私とアルマは攻撃を連続させた。一拍遅れてフェルさんもそこに加わり、怒涛の三人がかりを実現させる。
- それは精度も速さも威力も密度も、かつてない最高の攻勢だと自負できた。疾風迅雷をそのままに体現しており、数秒あれば山さえ崩すに違いない。
- だというのに、どうして――
- 「四……」
- なぜまったく通じないのか。敵が遥かに格上なのは承知してるし、弾き返されるなら納得できるが、これはあまりに理不尽すぎる。
- 「三……」
- 当たっている。砕いているのだ。にも拘らずすべての攻撃が透り抜けるようなこの感覚。もはや該当する事象は一つしかない。
- 「二……」
- 謎のカウントダウンがいよいよ不穏な様相を帯びてきたとき、サムルークが咆哮した。
- 「下がれおまえら――あたしがやる!」
- 背後から私たちを飛び越えるように跳躍した彼女の右手は、膨大な闘気の圧を燃やしていた。加え、さらに上乗せされる強化加護エンチャント――。
- 「攻撃強化サーム、攻撃強化サーム――喰らええェェッ!」
- フェルさんが与えたものに、自分の羽を二枚重ねる捨て身に等しい荒業だった。これ以上の強化は己を砕きかねないギリギリの、ゆえに今の我々が発揮できる最強の火力が空間を歪めながら顕現する。
- 爆発的に膨れ上がった紅蓮の闘気を振り仰いで、私たちは飛び退った。
- 「一……」
- 謳う魔王は、目すら閉じて完全な無防備。
- そこに向けて、サムルーク渾身の一撃が叩き落とされる。
- 瞬間、凄まじい破壊の波動が巻き起こった。
- 「……ッ!」
- 特大の地震にも匹敵する大地の鳴動。水晶宮は基礎部分から圧潰し、砕き割れた床から幾つもの水柱が噴き上がる。もはやここは宮殿としての用を成せず、湖に没するまで数分と掛かるまい。
- 今も続く激しい揺れと、頭上から降る大小の瓦礫に埋め尽くされていく広間は、これ以上ないほど壊滅的な惨状だった。もちろん私たちも消耗しており、全員が息も絶え絶えとなっている。
- しかし、なのに一人だけ、住む世界が違うのだと言わんばかりの例外がいた。
- 「ゼロ。一〇秒経ちましたので、そろそろ始めますね」
- 第四位魔王フレデリカ……依然、彼女は傷一つない美貌を輝かせながら、楚々として変わらなかった。典雅な青いドレスにもほつれどころか、埃ほこりの跡すら見当たらない。
- その様を見て、ようやく私は確信する。これまでの攻撃が一切通用していない真相を。
- 「不死身……」
- こいつは死なない。あ、あ、し、て、い、る、限、り、無、敵、な、の、だ、。
- 死が遠い性質を持つ不義者ドルグワントは決して珍しくないものの、フレデリカはそんな次元を超越している。
- あらゆる攻撃を正面から受け、なのに躱されたのかと錯覚するほど瞬時に行われる驚異の再生。文字通り目にも止まらぬ速さと精度で、服に至るも直してしまう荒唐無稽は体質なんかじゃ有り得ない。
- 間違いなく戒律が絡んでおり、それこそこの虚ろな少女が唯一持っている芯の形だ。
- 殺人への欲求と、己はそういうモノだという了解。
- 本人だけが納得している常識で、分かりたくもなかったが、おそらくフレデリカはこう考えているのだろう。
- わたしは不死身の殺人鬼なのだから、どんな攻撃も躱さず、防がず、まともに受けて平然と立たねばならない。
- 種族的な特徴として持つ不死性が、そうした戒律によってさらなる魔境へ跳ね上がっている。事実上、第四位魔王を殺す手段は存在しないのではと思えるほどに……
- 他の皆も同じ答えに至ったようで、畏怖の心を禁じ得ない。だがフレデリカはこちらの戦慄を意にも介さず、無垢な口調で話しかけてきた。
- 「橋が下りるまではマリカを演じる予定だったのですが、先にそちらの方から攻撃されたので少し調子が狂いました。時間差はおおよそ一〇秒。その間を慎んでみたのは帳尻合わせと、あなたの慧眼けいがんに対するわたしなりの賛辞だと思ってください」
- と、アルマに向けて微笑みかける。自分の正体を見破った褒美として、反撃もせず大人しくしてやったのだと。
- ならばここからは違うと言うのか。全身に緊張が走った私たちとは対照的に、フレデリカは呑気な様子で周囲を見回すと、不意に背を向けてとことこと歩きだした。
- 「なッ……」
- 警戒をすかされる形で反応が遅れてしまい、こちらはただ見守るしかできなくなる。まさか退散するわけでもあるまいが、いったい何をやる気なのか。
- すでに崩落している広間の出口付近まで歩いた彼女は、そこで止まると身を屈め、足元にある何かを拾い上げた。
- いや、正確には引き千切った。
- 「今日はこれでいきましょう。戦士ヤザタの皆さまと踊らせていただくのは初めてゆえ、不慣れですが、まずはこのくらいでご容赦を」
- それは瓦礫に埋まっていた侍女の死体、その下半身だった。ぐにゃりと弛緩した人体の残骸を、フレデリカは満面の笑みで携えている。
- まるで洒落た鞄でも見せびらかすかのように、死体の足首を掴んでいる手がくるりと回った。
- 「バフラヴァーンお兄様なら、出し惜しみなど愚の骨頂……とでも仰いますかね。しかし初めは焦らしてみるのが淑女の嗜みと聞きますし、いきなりすべてを曝け出すのははしたないと思います」
- 無造作に、だが凄まじい速度で侍女の下半身を振り回す。死体は遠心力で股から裂け、なのにどういうわけか千切れ飛ばず、両脚が一八〇度に展開して一本の肉縄と化した。
- つまりあれは鞭に等しく、遺骸を即席の武器にしている。命の尊厳など欠片も認めない冒涜的な、まさに鬼の所業だった。
- 「もっと小粋な道具立てがご所望なら、どうぞ真価をお見せになって。わたしを引き出してくださいな」
- 同時に、ふわりと青いドレスが翻った。
- 「とう」
- 舞いと表現できる華麗な姿勢と跳躍は、だが戦闘で通用する動きじゃない。頭上で肉の鞭を回しながらこちらに迫るフレデリカは、あまりに遅く隙だらけだ。
- 間違いなく素人――我々を舐めていると言うより、そもそも緊張感が欠落している。よって迎撃は容易だったが、全員が直感的に退避を選んだ。
- そして、それは正解だったと一拍後に理解する。
- 先にサムルークが放った全身全霊を、軽々と上回る出鱈目が炸裂した。すでに半壊状態だった水晶宮は完全に砕け散り、発生した水と大気の爆発に私たちは吹き飛ばされる。
- 木の葉のように宙で翻弄される私が見たものは、宮殿ごと湖を消滅させたクレーターと、その中心に立つ華奢な少女としか見えない魔王の姿。
- 常識外れも甚だしい、世界に対する反逆とさえ言える暴威だった。一般人の死体という極めて脆い得物を使って、星の地形すら変えている。
- 「我力というんだ、覚えておけ。魔王やつらに不可能は存在しない」
- 耳元でアルマの声が聞こえ、私は彼女に抱きとめられたのだと理解した。見ればサムルークもフェルさんも、飛行の加護を使ってなんとか戦域に留まっている。
- 「あれでも奴は本気の欠片さえ見せていない。破滅工房と戦う気なら、こんな程度で怖じるなクイン」
- 「……ええ、もちろん。分かっています」
- 頷き、再び眼下に視線を戻すと、フレデリカもこちらを見ていた。相変わらずの無邪気な調子で、眩しげに目を細めながら言ってくる。
- 「皆さん、空を飛べるとは知りませんでした。これでは届かないので、少し装いを替えますね」
- 「……?」
- 宙を見上げた姿勢のまま、そっと彼女はまぶたを閉じた。理解できない真似に訝ったのもほんのわずか、次の刹那に驚愕が襲い来る。
- 「虚装戒律パランギーナ――“わたしは二秒間、目が見えません”」
- 呟き、何もない空間に鞭を振るった。距離的にも角度的にも、我々には無意味なものとしか思えなかったのにそうはならない。
- 「――ッがあ!?」
- 「サムルーク!」
- 骨と内臓がひしゃげる音に、仲間の悲鳴が重なった。強化された防御の加護を容易く破るほど激烈な、しかも見えない一撃がサムルークを横殴りに襲ったのだ。彼女は血煙を巻きながら吹き飛ばされ、さらに異常は連続する。
- 「“わたしは一秒間、小指しか使えません”」
- 「ごふっ……!」
- 続いてフレデリカが虚空を指で軽く突くと、フェルさんが胸を押さえて大量の血を吐き、墜落した。
- 「馬鹿な……」
- 混乱を上回る衝撃で、逆に事態の理解へ私は至る。あれこそが虚装戒律パランギーナ――使い捨ての戒律に他ならない。
- 盲目ゆえの必中。最弱の挙動ゆえに急所を抉るというその場限りの縛りリスクと見返りリターン。
- 殺人鬼にしか不可能な、空虚に過ぎる信念の衣替えだった。
- 「“わたしは三秒間……”」
- そして次なる装いが生まれようとしている。私とアルマはほとんど同時に、眼下のフレデリカへ突貫する道を選択した。
- もはや距離を取ったところで何の意味もない。だったらこちらの攻撃が届く間合いに踏み込んで、真っ向勝負をするのみだ。
- それは傍目に、破れかぶれの特攻じみて映るかもしれない。だが私は、まだ諦めてなどいなかった。
- ここで“切り札”を使う。先ほど条件が整ったから――
- 「アルマ――」
- 戒律に抵触しない瀬戸際を走り抜けるように、圧縮された時間の中で私は彼女の意識に語りかけた。
- “あなたは何かを隠していますね? 詳しくは読めませんが、奴を倒す秘策がある。そうでしょう?”
- 「……ッ!?」
- 目を剥くアルマに笑みで応える。まだ出会ってほんの数時間だが、彼女の人となりは理解しているつもりだった。
- 言うなれば、スィリオス様と少し似ているのかもしれない。とても誇り高い人だから何でも背負い込み、胸に秘めて、常に己を罰しているような傷だらけの魂。
- だけど私は言ったはずです。今後は頼ってくれと。力になると。
- 自分は人使いが荒いと笑ってあなたは言ったのだし、どうか遠慮せずに使ってほしい。そのために私はいる。
- “数分なら時間稼ぎができます。ですからアルマ、後はあなたが――”
- “すまん……”
- 忸怩たる意識で、だが次には決然と前を見据え、アルマは言った。
- 「頼むクイン、奴の本気を引き出してくれ」
- そうすれば一発逆転のチャンスがあると、彼女は確信を持って私に告げる。ならばこの身に否はない。
- 「了解しました。これより奇跡を実行します」
- 「“歩いたり走ったりできない”」
- 弾ける爆光。魔王の虚装と私の切り札が、同時に発動して激突した。
- 「……あら?」
- 「何を不思議がっているんですか。あなたが言ったことでしょう」
- 歩行も走行も禁じる代わりに、瞬間移動もかくやという速さで飛翔してきたフレデリカの攻撃を、私はしっかりと受け止めていた。
- 当然、余裕などあるはずがない。放たれた鞭の一閃を防ぐのに全身の力を振り絞ったし、十字に組んだ両腕は芯から軋みをあげている。
- しかし止めた。砕かれず飛ばされず、拮抗した領域で魔王の破壊力と向き合っている。
- なぜか? 理由はまさに言葉の通りだ。
- 「真価を見せろと言いましたね。どうか自分を引き出してとも。……ええ、その願いを叶えましょう」
- 組んでいた腕を解き、振り上げた拳を渾身込めて振り下ろした。
- 「私はクイン――あなたの母親を看取った者だ!」
- 命中した拳撃は、これまでと明らかに違う会心の手ごたえだった。力の伝道が魔王の再生速度と相克し、素通りすることを許さない。すなわち当たり前の物理現象として、衝撃の反作用が発生する。
- 要するに、私のパンチでフレデリカは吹っ飛んだのだ。クレーターとなっている大地に頭から激突して、派手な土煙を噴き上げる。
- この機を逃すつもりはない。振り抜いた拳の勢いを落とさずに、私は追撃へと移行した。
- 「そういえば――」
- まるでいま思い出したと言わんばかりに、間延びしたフレデリカの声が届く。
- 「あなた、わたしのお母さまと同じ名前でしたわね」
- 帳を引き裂いて飛来した肉の鞭を、私は速度を落とさないまま宙を泳ぐようにして回避した。
- すでに反応が思考のそれを遥か彼方に凌駕している。超音速の機動を実現させながら、肉声で会話することさえ不可能ではない。
- 他ならぬ、相手がそう望んでいるからやれるのだ。
- 「マリカのわたしが聞いたときに、何か言ってさしあげればよかったかしら。気が利かずに御免あそばせ」
- 「要らぬ世話です。あの子とあなたを重ねる真似など、正義に対する凌辱だ」
- 横薙ぎの一閃を背面飛びの形で躱し、頭に蹴りを叩き落す。脳天から股間までを真っ二つに立ち割ったが、着地ざまの裏拳を放ったときにはすでに負傷の名残も見当たらない。気にせず叩き込んだその後も、爆発した頭部がすぐさま元通りに再生した。
- 不死身の殺人姫は未だ健在。しかし少なくとも戦えている。
- これが私の切り札――敵がどれほどの強者でも、当人に求められたら互角に近い立ち回りができる裏の機能に他ならない。
- およそ魔将ダエーワというものは、度し難く破壊と殺戮に憑かれている。ゆえに彼らは活きのいい獲物を求め、長く楽しみたいと願うのだ。
- 私はそれに応えているだけ。知能を持つ悪ならほぼ例外なく当てはまる驕慢きょうまんを逆手に取り、戦力差を潰すために。
- 「あなたはあの瞬間を見ていたのですか? わたしとお母さまにとって、最初で最後となった語らいを」
- 「見ていたし、聞いていたし、感じていました。彼女クインの想いを、その無念を」
- 「まあ素晴らしい。どんな理屈かは存じませんが、運命的な話ですわね。よければ教えてくださいな」
- 鞭の猛攻を躱し、逸らし、捌き、いなす。合間にこちらも打ち掛かり、全弾まともに命中させる。
- 回避の概念がない相手だから、当てること自体は難しくない。だが、攻撃の隙を縫うのは極めて至難だ。躱す必要がない者と躱し続けなければならない者では、必然的にこちらの手数が劣ってくる。
- 実際、これが裏技の限界でもあった。殺し甲斐は求めていても殺されたいと思っている敵はいないため、ある程度の拮抗を演出できても勝利は掴めない仕組みになっている。
- まして対峙するのは第四位魔王。この恐ろしいほど空虚な少女は、熱狂と無縁の存在なので“効き”が弱い。むしろ相性としては最悪の部類とさえ言えるだろう。
- しかし、絶望するつもりはさらさらなかった。こうなるのは百も承知で、私は二重三重に保険を掛けている。
- 「お母さまは最期に何を思っていました? 無念と仰いましたが、その実は?」
- 「本気で知りたいわけでもないくせに――」
- 嵐のような弾幕を掻い潜り、カウンターの拳を顔面に叩き込んだ。するとフレデリカは鞭を止め、蕭々しょうしょうと悲しげに呟く。
- 「きっとお悔やみになっていたのではないですか? わたしの成長を見ることができなくて、口惜しいと」
- 「………ッ!」
- このまま機械のごとく、魔王が求める傀儡に徹したところで先はなかった。よってプラスアルファが必要なのだが、そんな理屈と関係なしに内から込み上げてくるものがある。
- そもそも私は、とうに我慢の限界を迎えているのだ。
- 「何も感じていないくせに――」
- 反吐が出る。許し難かった、この悪が。
- それは決して、私だけの感情じゃない。
- 「無感であることさえ、欠片も分かっていないくせに……!」
- コレにとって、すべては殺意を奇形化させただけの感情もどきだ。心を探れば探るほど、果てのない洞うろを覗き込むような錯覚に囚われる。
- そこから吹く風みたいな声で、殺人鬼の王は問いを投げた。
- 「違うというなら教えてください。ねえクイン、お母さま」
- 「――いいでしょう」
- 拳を顔面に受けたまま、のみならず貫通させ、私の腕で串刺しになりながら顔を寄せてくるフレデリカ。
- 唯一表情を示せる口元は、三日月のような弧を描いていた。これほどおぞましい笑みというものを見た覚えがなく、ゆえに改めて私は思う。
- 母親クインは間違っていなかった。彼女は死を賭してこれが振り撒く災禍を防ごうとし、果たせなかった今もずっとずっと訴えている。
- 私にとって原初の祈りオーダー――死者の願いはもとより強いが、さらに濃く蘇らせるには生者の後押しが必要で、たった今その条件も満たされた。
- 「彼女は言っていましたよ。未来に禍根を残したままでは夫に逢えない。だからどうか、切に、切にと」
- 腕に力を集中させ、裂帛の気合いと共に解き放った。
- 「この忌まわしい怪物を消し去ってくれ――それが母親クインの遺言だッ!」
- 迸る気の炸裂が衝撃波となり、フレデリカを細胞に至るまで四散させる。無論これで終わる程度の相手じゃないが、今までよりもまた一段、魔王の力に迫ったのは確かだろう。
- 「あなたは生まれるべきじゃなかった命です。母親が望んだ通り、胎児のまま産声もあげずに死ぬべきだった」
- 「ひどいことを言う人ですね。わたしとお母さまの愛を、そんな風に貶めるなんて」
- フレデリカが私に望む殺し甲斐オーダーと、かつてのクインから受けた遺命オーダー。加えアルマの依頼オーダーという三つを束ねて向き合えば、たとえ相手が第四位魔王でもやり合える。
- この手で倒すのは無理かもしれない。だが別に構わなかった。
- 私の役目はフレデリカの本気を引き出すこと。事態がどんなに破滅的な様相を帯びていこうが食い下がり、決めの一手はアルマに任せる。
- 彼女の秘策が発動するまで耐え続ければ勝てるのだと、信じる心に一点の曇りもなかった。
- 「お母さまは、死した後もわたしを育ててくれたのですよ。あんなに細かく、と、て、も、食、べ、や、す、い、よ、う、に、散、ら、ば、っ、て、」
- 造作もなく復活したフレデリカは、先の一撃で鞭を失ったため徒手空拳に戻っていた。しかし特に困った様子もなく、新しい得物を拾い上げる。
- 「わたしは感謝し、大事に大事に食べました。愛しいお母さまの味を忘れたくなかったので、今もあのままに散らばらせているのです」
- 大地から引き抜いたのは、水晶宮の残骸と思しきねじれた鉄筋。言うまでもなくゴミ同然の代物だったが、長剣ほどの尺に収まっているので前より武器の体裁は整っている。
- つまり、少しだけその気になった。些細にすぎる変化とはいえ、これを積み上げていくしかない。
- 「お母さまの愛が永遠のものとして残るように。ああ、なんて素晴らしい流血の庭園バリガー――これほどの絆がどこにあります」
- ゆらりと踏み込んできたフレデリカの姿が、いきなり霞んだ。独楽みたいに旋転し、後ろ回しで放たれた鉄筋を私は右腕で受け止める。
- 遅れて跳ね上がる轟風と砂塵の煙。並の人間なら今の一太刀で千の首が飛んだに違いなく、やはり脅威は増していたがまだまだ序の口。
- 目を凝らし、肌で感じて、全神経を研ぎ澄ませろ。これから私は、今代の戦士ヤザタが誰も達していない領域に突入する。
- かつてワルフラーン様がいたはずの、魔王と切り結ぶ超絶の世界へ――
- 「あなた、許せません。粉々にしてさしあげます」
- 「こちらの台詞だ、屑め!」
- そして死の舞踏が幕を開けた。
- 連続して放たれる鉄筋に剣術的な要素はなく、技の繋がりも無視しているため流麗な立ち回りとはとても言えない。
- 総じて素人然とした動きなのは最初から一貫しており、実際にフレデリカは戦闘術と呼べるものをなんら修めていないのだろう。
- にも拘わらず、滑稽さや無様さはまったくなかった。桁の外れた膂力と速さ、そして物理法則を歪ませる我力の強さが、理というものを木っ端微塵に粉砕している。空振りしようが逸らされようが、勢いに振り回されることなく体勢を崩しもしない。武の成り立ちが弱者の生存技術である点を鑑みれば、魔将ダエーワの頂点がそれを一顧だにしないのはむしろ当然なのだろう。
- 慣性を無視する形で攻撃の軌道が曲がり、あるいは吹き抜けた瞬間に戻ってくる。さらに馬鹿馬鹿しい話として、時空の概念すら稀に超越し始めていた。
- 右から振り下ろされた鉄筋が後ろからくる程度ならまだ優しい。空振りした一撃が残り続ける現在いまの停滞や、すでに捌いたものが予期せぬタイミングで顕れる過去の再現。甚だしい場合は、まだ放ってもいない未来の攻めが飛んでくる。
- そのすべてが大地を割り、空に竜巻を発生させる無尽の威力を有していた。まるで四次元的に暴れ狂う天変地異――あらゆる常識を置き去って、七柱の絶対悪に名を連ねたのは伊達じゃない。
- これが魔王だ。我々が倒さねばならない巨大すぎる宿敵の、計測不可能だった戦力が少しずつ見え始めている。
- 「まだ、まだ……!」
- 脇腹を肋骨ごと抉られた。腿に風穴を開けられた。しかしまだだ、まだ動ける。
- 「回復ハオマ、防御強化クシャスラ……」
- 私を後押しするように、離れたところから加護が届いた。起点を確認する余裕はなかったが、そんなものはしなくても分かっている。
- 「攻撃強化サーム、飛行フラワルド……!」
- 恩に着ますフェルさん。あなたの気持ちを無駄にはしない。
- 再強化された身体能力をフルに使って回し蹴りを放ち、フレデリカを遥か後方へ吹き飛ばした。しかしバネ仕掛けのように戻ってきたので、再び迎え撃とうとしたときに――
- 「ぶっ、飛べ……クソがッ」
- 横合いから赤い闘気の奔流が押し寄せて、魔王の矮躯わいくを呑み込んだ。サムルークの助勢が痺れるほどにありがたく、私は一層奮い立つ。
- 「来いッ……!」
- 闘気の幕を突き破って現れたフレデリカは、得物の鉄筋を捨てていた。つまりここからは素手の勝負。
- 生半可な武器を持つより、己の肉体を頼みにしだした。目指す極点はきっと近い。
- 私は雄叫びと共に踏み込んで、ここに至る二〇年のすべてを注ぎ込む乱打戦を開始した。
- 腕がへし曲がり、脚がねじ折れる。顔面の皮膚を剥ぎ取られ、右目の視界が掻き消えた。
- 私に命というものが有っても無くても、止まってしまうまでもうわずか。
- だけど退かない。希望を信じて、奇跡を必ず起こすと誓う。
- 右半身を跡形もなく吹き飛ばされたが、それでも私は戦い続けた。
- 少し可笑しくなってしまう。
- なんというか、この手の我武者羅はあの人みたいで。
- 「マグサリオン……あなたなら」
- きっと同じ状況でも、一切怯まないのだろう。だから私も頑張らなくては。
- 場違いに軽やかな気持ちでそう思い、白くなっていく景色の中を走り続ける。
- 前にもこんなことがあったかもしれない……などと、有り得ぬ祈りデジャヴを抱きながら。
- 5
- ここでわずかに時間を遡る。水晶宮でフレデリカが正体を現した頃、アルザングの市街では阿鼻叫喚の地獄絵が展開していた。
- 八〇人を超す殺人鬼たちが宴に興じていたせいではなく、たった三人の戦いがそれを絶していたためだ。
- その中心は――意外と言うべきか――ズルワーン。戦闘の開始地点となった湖畔の一等地はすでに灰塵と化しており、そこから徐々に円の半径を広げる形で街の被害は拡大し続けている。
- 俯瞰の視点で眺めれば、アルザングを虱潰しに破壊していく渦巻きに見えただろう。彼らの立ち回りがこうした軌道を描いているのは、決して偶然の成り行きではない。
- ズルワーンが、この状況を演出しているのだった。
- 「面白い。見たことがないタイプの戦士ヤザタです」
- 失笑まじりに振るわれるムンサラートの回転ノコギリ。威力の凄まじさはもちろんのこと、周囲のすべてを引き寄せ巻き込む力を持つため回避が困難どころの話ではなかった。引力の圏内にいる限り、間合いの概念を切り刻まれ続けると言っていい。
- ゆえに真っ当な筋道として、接近戦は愚の骨頂。
- だが、だというのにこの相手は……
- 「はっはァ――」
- 引力に逆らわず、むしろ利用する形で懐深くに踏み込んでくるのだ。ムンサラートと戦うなら、確かに一つの正解と言えるだろう。
- 触れ合うほどの超接近戦こそが台風の目。渦の操り手たるムンサラートに密着すれば引き寄せが起こらず、長物であるノコギリの不利を衝けるので一石二鳥だ。理屈の上ではそうなっていたが、だからといって実行できる者は多くない。
- これまで数多の戦士ヤザタを殺してきた黒い執事の経験上、そこに至れた者は両手の指で数えられる程度だった。そしてその全員が、白兵以外の攻撃手段を持っていなかったという事実がある。
- つまり選択の余地がなかっただけで、発想自体は苦肉の策だ。死線に飛び込める度胸のよさは称賛しても、ムンサラートを驚かせたわけではない。
- 彼らとて、無難に遠距離から攻める手があればそうしただろう。させはしないが――とにかく斯様かように回転ノコギリは禍々しく、自らをバラバラにしようとする殺人の渦になど、好んで近寄りたがらないのが当たり前の心理と言える。
- だのにズルワーンは平然と、いいや喜々として近間に詰めてくるのだった。銃という離れた間合いに特化した武器を持ち、もっと安全に戦える手段があるにも拘わらずその道を選ばない。
- 喉元に突き付けられた銃口が立て続けに火を噴いて、ムンサラートは回避する。彼の不死性なら喰らったところで問題ないが、それはどうにも惰性が過ぎると思ったのだ。意外性を発揮した敵に対し、返礼をしたい気持ちがある。
- 殺人鬼に騎士道精神など存在しないが、ムンサラートは端的に生真面目だった。主のフレデリカが淑女たらんとしている以上、己は紳士たるべきだとも思っている。
- しょせん殺意を別の言葉に置換しているだけとはいえ、そこに彼流の主義があるのは間違いない。ズルワーンがそうした点を考慮しているかは不明だが、結果として特級魔将ダエーワから主導権を奪うことに成功している。
- 「どうした、早く殺ってみろよ。ノコギリの名が泣くぜ」
- 「無論、期待に応えたいと思っていますよ」
- ふ、と口をすぼめて吐いた息が、圧縮された空気の矢となって放たれた。直撃すれば山をも貫通する不可視の魔弾を、ズルワーンは首の動きだけで回避する。続いて銃を短剣のように操りながら、ムンサラートのこめかみへ突き付け、発砲。
- しかしこちらも、頭を引いてまた躱す。そうすることでわずかに生じた隙間を通し、回転ノコギリが唸りあげたがさらに回避。まるで宙に浮いた羽毛や花弁が、斬りつける刃風でふわりと避ける。そんなズルワーンの体術だった。
- 華麗と言って差し支えない。単純な速さならムンサラートより遥かに劣るが、ズルワーンは虚を衝く術に長けている。あらゆる意味での死角を見出す嗅覚と、そこに滑り込む勘働きが並外れているのだろう。
- 地道な経験を積み上げたのではなく、生まれ持った天性センスに特化しているタイプだった。この手の人種はパフォーマンスに安定感を欠くものの、言い換えれば敵の質によって強さが変わる。相手が猛者であるほど真価を発揮するという、対峙する側としてはなんとも小癪な存在だ。
- しかしその事実を踏まえても、殺人鬼の代名詞たる男を前にこれだけやるのは異常であり、驚天動地とすら言ってよい。
- さらに特筆すべきは、ズルワーンにとっての危険がムンサラートだけではなかった点だ。
- 密着する二人を諸共両断せんとばかりに、マグサリオンの大剣が放たれた。この黒騎士はこうやって、先ほどから仲間の背中越しに全力の斬撃を繰り返している。
- つまり位置関係は、ムンサラート、ズルワーン、マグサリオン。前後を挟まれた状態で、道化めいた銃使いはすべての攻めを躱し続けているのだった。
- 今もまた、背中に目があるかのようにマグサリオンの横薙ぎを跳んで避ける。ムンサラートにとってはズルワーンの陰に隠れた攻撃ゆえ、反応がわずかに遅れざるを得ない。
- そしてその瞬間、銃口が殺人鬼の頭頂に突き付けられた。刹那の遅れもなく轟く銃声。同時に凶剣。
- 「……まったく、まるで魔将ダエーワと踊っている気分ですね」
- 苦笑するムンサラートは、しかし未だに無傷だった。目にも止まらぬ速度で後退し、銃弾・斬撃どちらの牙も掠らせてすらいない。
- 彼は彼で、やはり尋常な男ではなかった。マグサリオンとズルワーンの連携と呼ぶにも凄まじい猛攻を受け、一貫した余裕を保っている。少なくとも苦戦と言うほど追い詰められていないのは、“踊り”と表現している点からも明白だろう。
- この程度は戦いですらない。いまいち思う通りに乗り切れず、調子を崩されているのは事実だが、逆に言うとそれだけでしかないのだ。
- 再び攻めかかってきた二人を捌きながら、淡々と語り始めることさえできた。
- 「わざと被害が広がるように立ち回っているのも、私の動揺を誘うためですかな? まさか戦士ヤザタがこんな真似を、これはお株を奪われた……などと」
- すでに戦闘はアルザングの民たちを数限りなく巻き込んでおり、今もムンサラートの攻撃で数百人の無力な義者アシャワンが挽肉と化した。付け加えれば、ズルワーンとマグサリオンが放った流れ弾にも同様の効果が出続けている。
- 虚を衝く戦法で移動先を限定するアドバンテージを得たズルワーンは、あえてこのような状況へと導いていた。言うまでもなく戦士ヤザタらしからぬ行いで、殺人鬼のお株を奪う無道ぶりには違いない。
- 「初めは少し驚きましたが、生憎私はそう若くもありません。獲物を取られて焦るといった可愛げは、とうに無くしてしまいましたよ。むしろ手間が省けて助かりますな」
- よって無駄。隙など生じるはずがないとムンサラートは二人を諭す。
- 「あなた方が愉快で稀有な人種だという点は認めましょう。しかししょせん白は白。俄か仕立ての悪クロを気取ったところで、苦しいだけではありませんかな? 老婆心ながら忠告しますが、もっと己のらしさを大事にしたほうがよろしい。若者が時に反逆的なのは世の常といえ、結局のところ自然体なのが一番よく……」
- 「ごちゃごちゃうるせえ」
- 眼前で弾けた銃火の一閃を、ムンサラートは首だけ逸らして易々と躱した。その流れ弾は彼の部下であるメイドの一人に当たったが、だからといって問題はない。庭園に属する殺人鬼は皆が不死身。
- そう、問題は何もないはずだったが……
- 「貴様ごときが俺を語るな」
- 続くマグサリオンの斬撃も、やはり危なげなく回避した。そしてこちらの流れ弾も、別のメイドに命中する。
- ムンサラートが異常に気付いたのは、まさに次の瞬間だった。
- 「年寄りってな、どこ行っても変わんねえな。頭が固いぜノコギリ野郎」
- メイドたちが起き上がらない。あまりに不自然な域で再生が遅すぎる。
- 困惑した顔で自分の血に溺れている彼女らの様は、まるで単なる人間のように……
- 「死ね」
- 振り下ろされたマグサリオンの大剣を、ムンサラートは本能的に大きく避けた。これまで通り余裕を持った動きではなく、受けてはいけないという危機感が反射的にそうさせたのだ。
- 同時に巻き起こった凄まじい爆発と破壊の烈風。それは黒騎士の剣によるものではなく、フレデリカが水晶宮を粉砕した余波だったが、そんな主人の暴虐よりも目を離せない事象が今のムンサラートには存在した。
- 砕け散る家屋と千切れた人体が舞い上がる中、波乗りさながらの動きでズルワーンとマグサリオンは宙を駆け、追撃へと移行している。
- ムンサラートにではなく、未だ復活できないまま爆風に翻弄されているメイドたちへ。
- あれは殺せる――直感でそう悟ったムンサラートは、倒壊した方尖柱オベリスクを蹴り上げてメイドたちのもとへ飛ばした。結果、銃と大剣よりも一瞬早く彼女ら二人は弾かれて、追撃の間合いから逃れ出る。
- フレデリカがもたらした破壊の波が治まった頃、瓦礫の山と化したアルザングに立つ二人の戦士ヤザタは、これまでとまるで違う異生物に見えた。
- その一人が、皮肉げに笑って告げる。
- 「殺人鬼が仲間を助けるのかよ。らしくない真似はよくねえんじゃなかったか?」
- ムンサラートは応えない。無言のまま、彼らをじっと見つめている。
- 件のメイドたちはようやく再生を始めたらしく、無事なことは気配で察した。しかし先の追い討ちを無視していれば、間違いなく止めを刺されていただろう。
- マグサリオンとズルワーンは同種の力を持っており、それは殺人鬼すら滅ぼし得るもの。
- 以上の事実を踏まえつつ、ムンサラートは消去法で考えた。
- 星霊加護は――違うだろう。発動した気配を感じなかった。
- ならば我力は――さらに違う。魔王や特級魔将ダエーワなら殺人鬼をごり押しで殺せるが、そもそも義者アシャワンに我力は使えない。魚に空を飛べと言うようなもので、例外がいたとしても二人同時に現れるのは非現実的すぎる。
- だったら答えは一つだろう。ムンサラートは頷いて、呆れ気味に嘆息した。
- 「戒律ですか。どんな縛りかは知りませんが、よほど我々を殺したいようですね。いや結構、実に素晴らしい手並みでした」
- 主の賓客として遇するとは言ったものの、まだ過小評価をしていたらしい。自分の不明を素直に認めたムンサラートは、恭しく言葉を継いだ。
- 「先に言ったらしさ云々は……まあ、自嘲を兼ねたものでしてね。謝罪代わりにこちらの手札もお見せしましょう。私の戒律はご存知ですかな?」
- 「奴隷だろ? 古い戦士ヤザタならみんな知ってる」
- 「まさに。ええ、仰る通り」
- 上品に微笑む執事の手元でノコギリは徐々に回転を緩めると、やがて完全に停止した。しかしその静寂は、嵐の前を連想させる。
- 破局的で壊滅的な、手に負えない鏖殺みなごろしの竜巻を――
- 「私の戒律は二つあります。一つはお教えできませんが、あなた方が知っているのはこれでしょう? 私は私に勝利した者を主と崇め、絶対服従するという誓い」
- バキリと何かが砕ける音がした。マグサリオンの兜の奥から……それは彼の歯軋りだったのかもしれず、ムンサラートの笑みは深くなる。
- クインと通じるものがある従順の戒律は、やはり矛盾を生まないための優先順位が定められていた。
- より強く、より鮮烈に、ムンサラートを打ちのめした者が最上位にくる仕組み。現状、その座を勝ち取っているのは言うまでもなくフレデリカだが、以前は違った。
- 二〇数年前にこの殺人鬼を打倒して、しかし殺し尽すことはできなかったため封印した者がいる。
- いったい誰か――同じく言うまでもない話だろう。
- 「ワルフラーン殿に従うまま、永久とわに眠るのも決して悪くはないと思っていました。そこは誓って本当ですが、お嬢様は彼より眩まばゆい――少なくとも私にとっては」
- 丸鋸が逆回りに動きだした。右に、左道らしからぬ方向に……だが正道とは断じて言えない惨烈さを滲ませながら渦を巻く。
- 飛び出したマグサリオンへ、魔王の忠実なる下僕しもべは誇らしげに謳いあげた。
- 「あまねく殺人鬼を慈しめ――それが主の命ゆえに、私は彼女らを守らねばならない」
- 断頭台のごとく振り下ろされた回転ノコギリの威力は、これまでを遥かに圧倒するものだった。先に起こったフレデリカの一撃すら上回り、横倒しの竜巻が大地を割りながら進撃する。向かう先のすべてを呑み込み、抉り刻みつつ押し流す。
- 「ぐおおおッ!」
- マグサリオンもズルワーンも、これはさすがに躱せなかった。山脈すら微塵にする我力の鎌鼬にミキサーされ、五体が未だに原形を保っているだけむしろ奇跡と言えるだろう。
- 彼らの戒律か、あるいは他の何かが命を繋げているものの、今はそこが限界だった。渦を弾くことはもちろん、一度巻き込まれたらもう自力では逃れられない。
- じわじわと削られ、成す術もなく無になるまで撹拌かくはんされる。すべてはムンサラートの前でメイドを害したのが原因だった。異端はマグサリオンたちだけではない。
- 「無事かなおまえたち。ではお嬢様のもとへ参ろうか」
- 「はい、ムンサラート様」
- 「ほとんどお嬢様に取られてしまいましたね」
- 「まあ、いつものことですが」
- 同胞を愛し、守るために無限の力を発揮する。第四位魔王が忠僕に与えた命はそうした効果を生んでいるのだ。実際に犠牲が出る瀬戸際にならねば動けないのが不義者ドルグワントの限界と言えるものの、ある種の絆を体現しているのは間違いない。
- すでにアルザングの民はほぼ死滅していた。後は数人の戦士ヤザタを殺せば宴も終わる。
- 幕が下りる瞬間は、全員で見守るのが庭園の習いであったから……
- 「中々に楽しめた。敬意を持って葬送の儀へ移るとしよう」
- 朗らかにそう言って、殺人鬼たちは足取りも軽く歩きだした。
- ◇ ◇ ◇
- 「……あら?」
- 日向のテラスでのんびり紅茶を味わっていたら、雨が降ってきたので興醒めした――というくらいには深刻な様子で、フレデリカは眉根を寄せた。
- 「もう、なんですのムンサラート。無粋ですわ」
- 横合いから迫る竜巻は自分の執事が起こしたものだと察し、頬を膨らませたフレデリカは乱れる金髪を手で抑えた。
- 躱しはしないし弾きもしない。ただ鬱陶しげな視線を向けると、巨大な回転ノコギリは自ら詫びるように掻き消えた。拡散する衝撃波がフレデリカを除くその場のすべてを吹き飛ばし、図らずも一連の勝負を決する。
- 砂塵の煙が晴れたとき、水晶宮の跡地には瀕死の戦士ヤザタらが転がっていた。
- クイン、フェルドウス、サムルーク、そしてズルワーンにマグサリオン……。
- 全員、まだ生きているのが不思議なほどの有様で、唯一の例外は膝をついているアルマだったが、彼女の負傷も軽くはない。先の竜巻はアルマにベクトルを向ける形で爆ぜており、すなわちムンサラートの意思である。
- 主人の不興を買った償いに、もっとも健全な獲物を適度に痛めて献じたのだろう。どうぞお召し上がりくださいと、一流の料理人シェフを思わせる手並みだった。
- 「………ッ」
- そうした状況を理解して、アルマは下唇を噛みしめる。すぐ傍で倒れているマグサリオンとズルワーン……特に前者を見つめながら悲痛な表情を浮かべていた。
- 魔性の鎧が蠕動し、再びこの黒騎士を駆動させようとしている様が遣り切れない。彼がどんなときでも退かない男なのは知っていたし、放っておけば粉微塵になろうと戦うのは明白だったが、それはあまりにつらすぎて……
- ゆえにアルマは覚悟を決めた。未だ色あせない過日の記憶を胸に抱き、苦く笑って幼なじみへと語りかける。
- 「大丈夫だよ、君は負けない。私がそうさせないから……どうかそのまま寝ていてくれないか。もう血を流さないでほしい。君は立たなくていいんだよ、マグサリオン」
- 切々と紡がれる女の声にも、しかし凶戦士は耳を貸さない。血みどろの紅に全身を染めながら、壊れた機械のような動きで上体を起こし始めている。
- 代わりに応えたのは、そんな彼とアルマを挟んで反対側に転がっているズルワーンだった。
- 「んじゃまあ、さっさと頼むわ。オレも煽ってはみたんだけどよ。やっぱこの手のバトルじゃおまえに敵わん」
- 「……言っておくが、君のことまでは責任持てんぞ。というか、いっそ死んでほしいくらいに思っている。民を無為に巻き込んで……」
- 「贔屓ひいきすんなよ。だったらマグサリオンも同じだろうが」
- 一転して口調を冷えさせるアルマに対し、ズルワーンは普段通りの軽薄さで何処吹く風だ。彼も瀕死である点に変わりはないが、懐からタバコを取り出して火をつけると、呑気に一服などをやりだす始末。
- 「オレがいなくなったら、たぶん色々苦労するぜ。クインを見つけたのだってオレだしよ」
- 「……確かに、あの子は収穫だな。少し懐かしい気分になったよ」
- 今回もっとも身体を張って、もっとも善に貢献した少女は意識を完全に失ったまま、仰向けに倒れている。放っておけばいくらも保たないのは明らかで、早急に手を打つ必要があった。
- 迷いはない。恐怖も、恥も……これから行う大博打は、躊躇や後ろめたさをわずかでも抱えていると裏目に出るため、二重の意味でクインに助けられたと言っていい。
- 彼女の奮戦が勇気を与えてくれたのだ。魔王を相手に一歩も引かぬ気概を後輩たちが見せた以上、自分も負けられないとアルマは思う。
- 「オレはおまえの手管テクを信じてるぜ」
- 無言で軽口を受け流し、目を閉じたアルマは静かに顔を上向けた。
- あらゆる雑音を消し去った清廉な心持ちで、さながら天に祈るような姿勢を取る。研ぎ上げられた刃のごとき在り方には今も一点の曇りすらなく、集まってきた殺人鬼たちの気配も彼女の集中を妨げるには足りなかった。
- 「よくも水を差してくれましたね、ムンサラート。わたし、少し怒っていますよ」
- 「配慮が行き届かず、申し訳ありませんでしたお嬢様。どうやら私も興が乗ってしまったらしく……いや、お待ちを。これは――」
- そこでムンサラートは異常に気付いたようだが、もう遅い。両目を開いたアルマは天に向け――その先にある存在へと訴えかける。
- 「見ているだろう。助けてくれ、カイホスルー」
- 戦士ヤザタの切り札と言うにはあまりに歪な、それがアルマの献身かくごだった。
- 「くはっ、はは、はっはっは……」
- 四方よもを埋め尽くす財宝の山に腰かけたまま、邪龍の魔王は喉を鳴らす。アルマが示した葛藤、信念、不退転の決意と誇りと……相反して揺れるか弱き愛。
- すべてが煌々こうこうと輝いて、彼の欲望をこの上なく掻き立てている。
- あれは懇願などではない。宣戦布告で、命令だ。私をものにしたかったら仲間も含めて助けろと、このカイホスルーに命じている。
- まったく、なんと佳いい宝オンナであることか。
- 「おまえが欲しい。惚れ直したぞアルマ」
- 要は勝負。駆け引きゲームだった。カイホスルーが自ら介入するのが先か、アルマが助けを求めるのが先か。
- いくらアルザングを監視から外す約定があったとはいえ、殺人鬼どもの跳梁が起きればさすがに気付く。そして気付けば、看過するカイホスルーではない。
- 龍骸星のすべては彼の所有物なのだから、勝手な虐殺など許すはずがないだろう。ゆえにアルマはフレデリカの全力を引き出そうとし、ズルワーンは民の被害を広げることでカイホスルーの怒りを煽った。あわよくば魔王同士の相打ちすら起こそうと、凄惨な状況へ誘導したのだ。
- しかしカイホスルーは容易く乗らない。アルマを心身ともに屈服させるため、龍の威光に縋りついてくるまで待つ気だった。
- 下劣な殺人鬼どもに民が殺されていく様は無論耐え難く、今も臓腑が煮えくり返っている。だがそうするだけの価値を認めていたので、ひたすら忍び、待ち続けた。
- 結果がこれである。別に事前の取り決めがあったわけではないが、アルマとカイホスルーは当たり前に駆け引きゲームの主旨を了解していた。
- どちらが相手を意のままに操れるか。この恋において、風上に立つのは男か女か。
- くだらないと言えばこれほどくだらない話もない。しかし色事においては、これほど重大な要素もないのだ。
- もはや決闘とさえ表現できる。勝ったほうが相手の魂を奪えるのだから、命懸けなのは確かだろう。
- 「今回は引き分けだな。俺をここまで悩ませた女は、龍玉以来だぞ」
- 状況的にはカイホスルーの勝ちだったが、精神的にはアルマが勝っている。早く助けろと命令されて、知らん死ねよと言えない時点でむしろ男の分が悪い。
- なんともほろ苦い感慨に含み笑いながら、彼は彼女の要請に従った。
- 「我が愛しの寵姫を傷つけた下衆めらが。龍の神威を知るがいい」
- 最初に気づいたのはシーリーンという名のメイドだった。
- 重く天に被さる雷雲の彼方、その奥に“何か”がいる。
- 「あれは……」
- はじめ、彼女はそれを衛星かと見紛った。月と呼ばれる天体は人類が居住する星によく見られ、数や大きさに違いはあっても貴婦人の眼まなこを連想させる点は変わらない。
- 等脚台形を逆さにした配置で並ぶ四つの円は、まさに瞳のようだったので……あれは月かしらと思ったのだが、しかしすぐに違うと気付く。
- 鱗が見えた。髭ひげが見えた。角が、牙が、鬣たてがみが……その顔だけで空を埋め尽くすほど巨大な何かが、天の果てから自分たちを見下ろしている。
- 月ではなく、真にあれが瞳なのだ。虹色に燃える四つの眼と、極彩色に輝く面貌は猛々しくも眩しくて、恐ろしくも麗しい。
- このような存在を何と呼ぶかは、普遍的な一つの言葉で可能だった。
- すなわち神――正邪を問わず、人智を超越した領域に棲まうモノ。殺人鬼としてあらゆる迷いから解放されているはずのシーリーンが、威圧に打たれて動けなくなるほど絶対的な力をもって、恐怖の何たるかを知らしめる覇者の勅令が下された。
- 『ひれ伏せ、蹲つくばえ、永劫に物言わぬ形骸と化せよ。ならば貴様らの不遜を許し、時の終わりまで愛でてやろう』
- 開かれた口腔から黄金の極光が放たれると、地に蠢く殺人鬼たちへ瀑布のごとく襲い掛かった。
- 龍の咆哮ドラゴンブレス――
- 星霊の権能たる力の執行は、如何なる抵抗も許さない。この星で呼吸をし、大地に立って存在するということは、カイホスルーに生かされているのと同じである。どんな形であれ彼の恩恵を受けた以上、何者であれ王命には逆らえなくなる道理だった。
- よってもちろん、不死身の存在とて例外ではない。
- シーリーンを始めとするメイドたちは、全員が秒も耐え切れぬまま貴石と化した。殺人鬼を制するにあたってもっとも有効なのは封印術だが、それを魔王の我力で行ったのだからひとたまりもないのは当然だろう。まさに鎧袖一触がいしゅういっしょくの出来事で、些か“効き”の遅い者がいても結果的には変わらない。
- 「くッ……」
- 未だ止まぬ龍の裁きを浴び続けているムンサラートは、全身の四割が黒い金剛石ダイヤモンドと化していた。こうしている間にも浸食は続き、跳ね返すことができずにいる。同胞を守るために発揮される彼の力をもってしても、カイホスルーの勅に抗うのは不可能だった。
- 「皆を連れて退きなさい、ムンサラート。龍骸星ここから出れば復活できるかもしれません」
- 自らも顔の半分を紅玉ルビーに変えたまま、フレデリカは首だけ振り返るとそう言った。後は自分がやると、殺人鬼の王に相応しい鮮血の微笑を浮かべて続ける。
- 「あなた達がいなくなっては困ります」
- 「御意――申し訳ありません、お嬢様」
- 頷いたムンサラートは、主命による強化を頼りに撤退を開始した。邪龍の魔業まごうは破れずとも、メイドたちを回収して逃げるだけなら不可能でもない。
- それを見届けたフレデリカは、小さく咳ばらいをしてから居住まいを正した。ドレスや表皮が紅玉ルビーの煌きを放ちながら剥がれ落ちるが、特に気にした様子はない。
- いや、むしろ喜んでいる風にすら見えた。
- 「さすがはカイホスルーお兄様。心より感服いたしましたわ」
- 龍の吐気を真っ向浴びながら空を見上げ、フレデリカは偽りない称賛を口にした。
- 彼女でも貴石化を止めることはできず、あと数十秒もこれが続けば完全に封じられてしまうだろう。
- だが、手遅れと言うにはまだぬるい。
- 数十秒もの猶予があれば、攻守の逆転など数千回は起きるのが魔王同士の戦いである。
- 「謹んで返礼をいたしましょう。いたらぬ愚妹ではありますが、精一杯をご覧に入れます」
- 空間に第四位魔王の腕が沈んだ。彼女もまた執事と同じく、己が象徴とも言うべき凶器を庭園に秘蔵している。
- カイホスルーの術自体は破れなくても、先に殺してしまえばいいだけだ。煎じ詰めるところ気持ちの勝負で、勝つのは強欲か殺意かという話でしかない。
- 次元を捻じ曲げる呪われた叫びと共に、現れたのは死神の大鎌だった。かつてマリカと入れ替わった際、その忌まわしい存在感だけでクインたちを恐慌せしめたこれこそが、フレデリカの真価を発揮する無二の得物。
- 相手の巨大さも隔てた距離も、今やまったく関係なかった。殺人姫の全霊を乗せて放たれる我力の斬気は、星すら一刀のもとに両断し得る。
- 「はしたないと叱らないでくださいましね。わたし実を申しますと、お兄様たちを皆殺しにしたいと常々思っておりました」
- 嘆きの大鎌を構え持ち、晴れやかな笑顔でフレデリカは言い放つ。
- 幸せだ。夢が叶うと、至福に陶然となりながら……
- 「カイホスルーお兄様はどんな声で鳴くのかしら。マシュヤーナお姉様の臓物はどんな色で、バフラヴァーンお兄様の血はどれほど熱いか知りたいのです。クワルナフお兄様の頭を割り、脳を確かめる想像だけでわたしはもう堪りません。それに、ああ……ナダレお姉様のすべて! 切り刻みながら丁寧に、残らず食べてさしあげたい……!」
- 『ほざけよ餓鬼ィ、万年早ぇ!』
- もはや二人はお互いしか見えておらず、決着は彼らの力でしか成されない。
- 誰もが分かる真理であり、両者の激突こそがこの場における世界の運命サダメだ。
- 仮に全能なる神とやらがいたとしても、やはり同じ結論を抱いたはずで……
- だからこそ――
- “彼”はすべてを粉砕し、殺戮の荒野を駆ける無慙の男としてそこにいたのだ。
- 「消し飛ばせアラストール――」
- 極光の帳を突き破り、現れた黒騎士が第四位魔王を貫いた。超々高速の体当たりがフレデリカを爆裂させ、紅玉ルビーの血飛沫がダイヤモンドダストのように散っていく。
- 「あなた……」
- 首だけになった姿で宙を舞いつつ、殺人鬼の王は呆然と呟いた。虚ろな彼女がこの瞬間、殺意すら忘れて真に呆けた顔を晒している。当然の反応だろう。
- 空気を読めないどころではない。魔王同士の争いに割って入る戦士ヤザタなど聞いたことがなく、利害だの現実だのといった諸々を彼方に置き去った常識外れだ。もはや天の法則すら無視している。
- 度し難く理解不能で、愚かさの極致に見えるが、ゆえに凄絶。
- 「素敵……」
- フレデリカの目が潤みを帯びて細まった。淑女の嗜みとして即座に服まで再生し、極上の笑みを浮かべて血みどろの凶戦士に向き直る。
- 「どうかお名前をお聞かせください。わたしの名はフレデリ、がばァ――!?」
- そんな夢見る少女の浪漫は、しかし血錆た鉄塊により砕かれた。
- 「何を笑っていやがる」
- この薄汚い生物は、殺し合いを舞踏会か何かと勘違いしているのか?
- そう言わんばかりの一閃がフレデリカの顔面を横殴りに斬り飛ばし、名乗りの栄誉を与えない。
- そして、彼自身も名乗るつもりなどなかった。
- 「弁えろよ蛆虫が。呼吸をしていいと誰が言った――」
- 怒涛のごとく連続する鬼神の剣が、少女を細切れに寸断していく。百万回再生するなら百億回殺してやると、天井知らずに跳ね上がる呪詛と憎悪と、憤怒の嵐。
- 黒い暴風と化したマグサリオンが、底なしの凶気で殺人姫を破壊していく。
- 「貴様は屑だ。貴様は塵ゴミだ。いい気分で終われるなどと思い上がるな」
- 噴き上がる血の花は、半分近く彼自身のものだった。限界以上の負傷を抱えた状態で、さらに無茶な星霊加護の重ね掛けを行っている
- 飛行、飛行、飛行、飛行、瞬間移動、瞬間移動――敵の再生速度を上回る絶対の速さを体現するため、ひたすら剣速だけを増し続けていた。
- 結果、小石が当たっただけで死にかねないほど今のマグサリオンは脆く儚い。鎧の魔性が補ってはいるものの、一太刀ごとに筋が千切れる。骨が爆ぜる。五臓六腑がひしゃげていく。
- だが止まらない。
- 彼の辞書にそんな文字はないのだから。
- 「絶望しろ苦しみ抜け、惨めに泣き叫んで後悔しながら――」
- 無慙の咆哮が世界を震わす。
- 「死ねェ――!」
- 彼は間違いなく狂っていた。まるで森羅万象を滅却する闇の太陽。
- その輝きが眩しすぎて、フレデリカは目を逸らせない。
- 「なんて美々びびしい、絢爛けんらんな殿方……」
- 感動に打ち震えるとはこのことか。生まれて初めての衝撃に動かされるまま、第四位魔王は殻を破る。
- まさに彼女は、真なる淑女へと生まれ変わろうとしていた。
- もう空虚ではない。もう伽藍でもない。
- 少女は熱を知ったから。選んだ男と果てまで踊り続けたいという願いの先に、悠久不滅の奇跡を見ている。
- ああ、これを楽園と呼ばずに何と言うのか!
- 「あなたが欲しい――わたしを導いてくださいませ!」
- 刹那で全回復したフレデリカは、嘆きの大鎌を振り被った。かつてない勢いで迸る魔王の我力が、彼女の心情を表すように甘く激しく燃え盛る。
- 真実の刻ときは今ここに。
- たとえ世界が滅びようとも無くならない。それは魂の躍動だった。
- ◇ ◇ ◇
- 全身を苛む激痛で、私の意識は浮上した。
- 「動くな。君には回復ハオマが効きにくいし、そもそも私は得意じゃないんだ。無理をしたら本当に死ぬぞ」
- 「ッ、……ぅ…」
- ぼんやりと像を結んでいく視界には、真剣な顔で私を覗き込んでいるアルマがいた。
- 「君らはほぼ羽を使い切っているし、私たちも残りが少ない。このままでは応急処置もままならんから、一度聖王領に帰るぞ。いいな?」
- 「ぁ、…かえ、る……?」
- 朦朧としながらも言葉の意味を理解して、驚きを禁じ得なかった。
- 帰るとは、つまり帰れるのか? いま私たちが生きているということは、あの戦いを乗り切ったのか?
- 我ながら信じがたかったが、他にどんな想像も浮かばない。私は一気に緊張が解ける心地で、だけど再び意識を失わないよう注意しながら、口を開いた。
- 「勝ったの、ですね……ありがとう、アルマ。あなたの、お陰……」
- 「生憎だが、私は大したことをしちゃいないよ。それに……」
- 言葉を濁す彼女の様子が不可解で、何か異変があったのだと察した私は状況の確認を試みた。苦労して首だけ起こし、周囲を見回してみれば、そこには……
- 「マグサリオン……」
- 荒野の中でたった一人、彼が背を向けたまま立っていた。微動だにしないその姿は、しかし内心の怒りで張り裂けそうになっている。
- 常に憤怒の念を発しているマグサリオンだが、これほどの憤りは見たことがなかった。より正確に言うならば、怒りの種類が異なっていて……
- 彼は屈辱に震えていた。まるで敗北したかのように。だけど私たちは生きていて、いったいどういうことなのか。
- 「気付かねえか、クイン。星の気配を探ってみろ」
- 困惑する私に応えたのは、アルマの横に座り込んでいるズルワーンだった。彼はタバコを吹かしながら空を見上げ、白けた声で呟く。
- 「カイホスルーがいねえ。龍骸星ここは今、ご主人様が消えてんだよ。だが死んだわけじゃねえし、もちろん殺人鬼の姫様も生きてる」
- 「会合ガーサーだ」
- アルマの言葉で、私はすべてを理解した。
- 「魔王たちの、集会……?」
- 不定期で行われるらしい、絶対悪七柱の集まり。彼らでもその招集には逆らえないと聞いていたが、それがこのタイミングで起きたというのか。
- 偶然と言うにはあまりにも出来すぎで、そこに何かしらの意思を感じる。だがどんな思惑や計算がそうさせたのかは、正直見当もつかなかった。
- 「わりといい線いってたんだがな。上手くすりゃあ、カイホスルーとフレデリカを相打ちにできたかもしれねえ。まあその場合、マグサリオンもやばかっただろうが」
- これは誰が得したのかね、などと他人事のように鼻で笑うズルワーン。とにかく不意に発動した会合ガーサーが決着を棚上げにしてしまい、現状へと至ったらしい。マグサリオンの屈辱は、初めて獲物を取り逃がしたせいなのだろう。
- 負けてはいないが、勝ってもいない。命拾いしたのは誰なのか、その点さえも曖昧だ。
- 「何にせよ、ここは仕切り直しをするしかあるまい。さっきも言ったが聖王領に一度帰って……おい、逃げるなズルワーン。君はサムルークとフェルドウスを運ぶんだよ」
- 「はあ、マジかよ。面倒くせえな」
- 「ごちゃごちゃ言うな。一番羽が余ってるくせに」
- そんなやり取りをどこか遠くで聞きながら、私はもう一度マグサリオンに目を向ける。
- 彼は変わらず不動のまま立ち尽くしていたが、すぐに敵を追って走り出しそうな感じもあった。
- 事実、そうしたいのだろう。納得など欠片もしておらず、彼の中に渦巻く怒りはまた破滅的な度合いを増しただけ。
- 気に入らない、許せない。どいつもこいつも殺してやると、黒い背中は雄弁に語っていたけど……
- 「ごめんなさい。私は普通に嬉しいです。みんなが無事で、あなたが生きてて……」
- たとえ不愉快に思われても、この気持ちは曲げられない。中途半端な結末だと言われようが、ここに全員が生きていること。
- それが私にとって、何より尊い奇跡だった。
- 6
- そこは奇妙な空間だった。
- 気密性が極めて高く、その点を担保しなければ命に関わると言わんばかりの徹底した印象だが、しかし閉塞的で無粋な密室というわけでもない。むしろどんな王宮よりも洗練された、選ばれし傑物のみが立ち入りを許されるような貴たかい雰囲気を醸している。
- 内装の妙を正しく表現するのは難しい。鋭角的な意匠と流線形の意匠が融合しており、壁や床が金属なのか石なのかも分からなかった。おそらくどちらでもないのだろうということだけが、漠然と分かるだけ。これに類する造りは他の何処にも存在せず、この時代に生きる者なら誰が見たところで説明できまい。
- つまり文化ではなく、文明としてのレベルと方向性がまったく違う。超高度に発達した科学技術の結晶で、すべてが実数的な理のもとに構築された空間だ。そこに奇跡や魔術といった超常の、言い換えれば曖昧な概念が入り込む余地はない。
- 別の時代とき、別の神座ばしょで生まれたが、なぜかこの世に穿たれている特異点。
- 宇宙アマ駆ける船であり、アンラ・マンユと呼ばれる第二位魔王の居城だった。
- 「で……君は何をむくれているんだい、フレデリカ」
- 中央に据えられたテーブルを囲む椅子――やはり不明な素材と不思議な意匠――に女が二人座っていた。空席が五つあり、全部で七つの椅子が用意されていたのだが、今のところは彼女たちしかいない。
- 一人は俯いたまま頬を膨らませている金髪の少女で、もう一人は……
- 「だんまりじゃ分からないだろう。私は心が読めるわけじゃないんだから、思うことがあるなら言ってごらんよ」
- 「ナダレお姉様はひどい人です」
- ようやく言葉を紡いだフレデリカに、会合ガーサーの主人役たる女は少しの間きょとんとし、次いで弾けるように笑いだした。
- 「もう、何がおかしいんですか。わたし怒ってるんですよっ」
- 「はっはっは……いやいや、ちょっと待て。待ってくれ」
- 憤慨するフレデリカに、ナダレは身をよじりながら右手を前に突き出した。まるでそこに奈落が渦巻いているかのような、一切の光沢を持たない暗黒に塗り潰された掌である。
- 「なにやら誤解をしているみたいだが。君はもしかして、私が無理矢理呼び出したとでも思ってるんじゃないのかい?」
- 「違うのですか?」
- 「違うよ。前にも言ったはずなんだけどなあ……」
- 今度は左手も前に出して、落ち着きなさいと促すポーズ。こちらの掌は染み一つない純白で、虚無さながらの様相を呈している。
- 第二位魔王ナダレ――まさに異形の女だった。
- 年の頃は二〇代の半ばほど。さして長身でも矮躯でもなく、角や尾が生えているわけでもなかったが、ヒトはこれほど相反する属性を同居させたまま立てないだろう。
- 柔らかに流れる長髪は、一房単位で白と黒に分かれていた。気さくによく笑う両目も右だけ角膜クロと結膜シロが反転した特異すぎる金銀妖瞳オッドアイで、服装すら完全なモノトーン。
- 輝く虚無と烏珠ぬばたまの闇が鬩ぎ合いながら合一し、結花したかのごとき存在だ。二元論の世界法則に真っ向反逆しているのか、あるいは法則そのものを体現している形なのか。
- どちらにせよ、見ているだけで不安になる。常識という大地を根底から崩されかねない不自然さがある。
- にも拘らず美しい。フレデリカもある種の華を毒々しいほど持つ少女だが、ナダレの前では子猫にしか見えなかった。
- 「まあ、しょうがないのかな? 以前に会ったときは、君ったら赤ちゃんみたいなものだったしね。よろしい、ならもう一度話してあげよう」
- 未だ不機嫌なフレデリカに、ナダレは指を立てて説明しだした。
- 「一つ、誰にも会合ガーサーのタイミングは分からないし、呼び出しにも逆らえない。
- 二つ、会合ガーサーの際に喧嘩は無駄だ。何をやっても死なないから意味がない。
- 三つ、場所が特異点ここなのは伝統で、なんと私が生まれる前からやってるらしいぞ。
- 四つ、だから諸々、私の仕業だという君の指摘は間違っていて――
- 五つ、理解してくれたならお茶でも飲もうよ」
- 「結構です」
- ぷんとそっぽを向くフレデリカ。殺人鬼のルールとして植物のエキスなど啜れない――といった事情はともかく、ナダレの説明で不満の吐き出し口を見失ってしまい、余計に腹を立てている様子だった。
- 「私たちにも分からないことやできないことは沢山ある。不自由それを認めて、楽しむのが人生だよ。フレデリカ」
- そんな彼女を、ナダレは優しい顔で見つめていた。数千年もの昔から絶対悪と呼ばれ続けてきた女とはとても思えぬ、慈しみに満ちた微笑を浮かべる。
- 「君にはそこらへんの機微が伝わりにくくて、正直心配してたんだが……どうやら杞憂に終わりそうで安心してるよ。もう大丈夫だね」
- 「何がですの?」
- 「本当に怒ってるし、悔しがってるだろう。何があったのかは知らないが、今の君はとても可愛い」
- まるで情深い姉が妹をからかうように、ナダレはフレデリカの頬を指でつついた。
- 「もしや、恋でもしたのかな?」
- 「え……?」
- ぽかんと口を開けたまま、フレデリカは呆けた顔で固まった。ナダレはその頬を面白そうに摘まんだり引っ張ったりしていたが、新たな来客に気づいて顔をあげる。
- 「やあバフラヴァーン。元気にしてた――」
- 気安い調子の挨拶は、しかし最後まで口にすることができなかった。
- 轟音――凄まじい衝撃と破壊。座っていた椅子ごとナダレの姿が消えており、その意味するところは単純明快ゆえに異常すぎる。
- 存在の否定。消滅。あるいは死の顕現――といった賢しい屁理屈マヤカシなど一片たりとも入り込まない純粋な物理力が、対象物を原子に至るまで砕いたのだ。
- そしてさらに特筆すべきは、それほどの所業を見せながら隣のフレデリカにそよ風程度の影響も与えていない事実。
- 少女は眼前に立つ者を見ていないし、気付いていない。よってまだ戦闘開始の鐘がなっていないという理屈で、そこから導き出せる破壊者の性質は明白だった。
- 出会い、目が合い、俺とおまえはここにいると、天下に謳いあげて殴らなければ不意打ちになると思っている。いざ尋常に向き合わぬままでは、たとえ小虫といえどもうっかり殺すわけにはいかない。
- ど、ち、ら、が、強、い、か、分、か、ら、な、く、な、る、か、ら、。
- 「あっはっは! ちょっとおい、おい――君はほんとに、いつまで経っても変わらないな」
- 空間にナダレの声が響き渡った。衒てらいなく嬉しそうに、愛おしむように。拡散する笑いに反して粒子が収束し、粉砕された椅子ごと彼女を元通りに復活させる。
- 原子核まで砕かれた上での再生は、しかしナダレの力ではない。すべては先ほど言った通り、会合ガーサーの法である。
- 「今は死んだり死なせたりができないんだよ。無駄なんだってば。やめようよ、ねえ?」
- 「無駄だと?」
- 低く熱い声だった。二メートルを超える体躯に、隆々たる筋肉の鎧を纏った暴窮の権化がそこにいる。
- 桁の外れた肉の総量を誇りながら、鈍重な印象はまったくない。灼炎のごとき髪と瞳を揺らめかせながら、第三位魔王は星すら潰す握力で拳を固めた。
- 同時に燃え上がる規格外の我力。最強という幻想に憑かれた男が、一歩踏み出して鬨ときを告げる。
- 「ならば俺は、無駄ソレに勝たねばならん」
- 再度の鉄拳がナダレを砕いた。より激しく、より壊滅的な威力と深度の炸裂で――別に最初の一撃が手抜きだったわけでもない。
- バフラヴァーンは如何なるときも全力を惜しまず、常に過去の己を上回っていく存在だ。この世に倒せないモノがいるのなら、倒せる己になればいいと誓っている。
- 生まれてこのかた、一瞬も休まず武威が増し続けている戦闘いくさの怪物。現状は会合ガーサーの法を破れずにいるが、それでもいつかこの男ならやるだろう。
- そこはナダレも認めていて、だから笑いに邪気がなかった。男の愚直さに惜しみない称賛を送りつつ、どうした頑張れと激励している。
- 必然、傍目に切りがない破壊と再生のショーが繰り返されていくのだが……
- 「馬鹿馬鹿しい。私は早く帰りたいぞ。付き合い切れん」
- 至極真っ当な意見を常識はずれな場で呟いたのは、やはり尋常ならざる女だった。
- 全体として、どこか人形めいている。あまり目にしない奇妙な民族衣装は艶あでやかな柄だったが、シルエットに起伏がないためすとんとしており、女の姿勢が無駄に良いことも相まって首から下が円柱に見えた。つまり棒状の胴体に球形の頭部が乗っているだけの簡易な人形……端的に表現すればそうなってしまう。
- あるいは、樹木じみていると言うべきかもしれない。女の佇まいに躍動感は微塵もなく、怜悧な美貌は小動こゆるぎもしないため、仮面なのではという疑念さえ湧いてくる。
- フレデリカの真後ろに佇立している不動の女は、第五位魔王マシュヤーナであった。
- 「なあ、おまえもそう思うだろう。……どうした、答えろよ人鬼。いつから私を無視できるほど偉くなった」
- 彼女は瞬きもせず、口すら動かさないまま喋っている。面は面でも、ある種の死面デスマスクを思わせる不浄な静態。
- そんなマシュヤーナの眉が、このとき初めてぴくりと動いた。未だ無反応を貫いているフレデリカの後頭部に顔を寄せ、わずかに鼻をひくつかせる。
- 「おまえ……誰と会った?」
- 「マシュヤーナお姉様……」
- ようやく言葉を返したフレデリカだったが、しかし問いに対する答えではない。ふるふると小さな肩を震わせて、細い声ながらも明瞭に呟く。
- 「バフラヴァーンお兄様……」
- 同時にがばりと顔をあげた。花が咲いたような満面の、心浮き立つ笑顔と共に――
- 「聞いてください――わたし、恋をしてしまいました!」
- 手元に現れた大鎌を掴み取り、独楽のように一回転。背後のマシュヤーナを達磨落としさながらのバラバラに刻み、先ほどからひたすらナダレを殴り続けていたバフラヴァーンへ飛び掛かる。
- そしてフレデリカは爆発した。“兄”が放った左の裏拳を受けたためだが、もちろんだからといって終わるわけがない。即座に復活して斬り掛かる。鋼の筋肉に鎌が弾かれ、頭を吹き飛ばされたがまた復活――したと思えば、身体の内部から生えた樹木が少女の全身を貫いた。
- 「答えろ。おまえは誰に会った?」
- 冷静沈着、不動泰然をもって鳴るマシュヤーナが激していた。表情は相変わらずの鉄仮面だが、噴き上がる鬼気と我力が女の精神状態を表している。
- 怒り、焦燥、加えて歓喜。さらに秘めやかな、慎ましくも偽れぬ恥じらい……。
- 「言わねば帰さん。おまえは私の――」
- 哀絶の響きすら感じさせる訴えを、バフラヴァーンの鉄拳が打ち砕いた。瞬間、上半身を消されたマシュヤーナが、めきめきと音を立てながら広、が、っ、て、い、く、。
- 星霊としての本性すら顕しかねない勢いで、第五位魔王は怒号した。
- 「邪魔をするな飛蝗ォ――!」
- 「俺のほうが強い」
- 「ねえ、だから聞いてくださいな二人とも!」
- 会話にならない。だがようやく解放された形になるナダレは、今日も世界は麗しいと言わんばかりに異形の瞳を細めつつ、百花繚乱と狂い咲く魔王たちの睦み合いを眺めていた。
- 「君は混ざらないのかい、カイホスルー?」
- 「こっち見るなよ。馬鹿が感染うつる」
- 水を向けられた第六位魔王は、如何にも辟易とした面持ちでそう返した。テーブルに両足を投げ出した横柄な態度で、吐き捨てるように続ける。
- 「殺せもしねえのにやり合ったところで得がない。ただ働きなんぞ御免だぜ」
- 彼らしい言い草で、無駄を無駄と断じる賢明な姿勢だろう。魔王という突き抜けた破綻者たちの中にあってはまともすぎるが、それでカイホスルーを甘く見積もるのは間違っていた。
- なぜなら現状、彼だけがバフラヴァーンの攻撃を受けていない。相互認識すれば誰であろうと襲い掛かってくる第三位魔王と同室しながら、完全に部外者を決め込んでいる。
- 視界には入れても、意識からは外しているのだ。言わば無意味な背景程度にしか思っておらず、これがどれだけの胆力を要するかは言うまでもないだろう。バフラヴァーンの凶暴性と存在感を歯牙にもかけていない証であり、そんな芸当は他の魔王でも容易くできることではなかった。
- 「なるほど。君は君の悪だくみで忙しいわけか。色々苦労もあるだろうが、健闘を祈ってるよ」
- 「お見通しとでも言いたげだな」
- 「伊達に長生きしてないからね。他に取り得がないだけさ」
- テーブルに頬杖をついたナダレは、首を傾けてカイホスルーに微笑みかけた。女というものを知り抜いている彼でさえ、このはにかみには弱い。
- 狂った母親を相手にするようで、脅威とは違う怖気おぞけを覚えるのだ。
- 「頑張っておくれよ。私は君らが大好きなんだ。みんな幸せになってほしいし、願いが叶えばいいと思う」
- 「……戯言だな。願いタカラを総取りできるのは一人しかいねえよ。結局のところ奪い合いだ」
- 「もちろん。だから何とかしてほしいと思ってるんだよ。一番欲張りで、俗っぽい君にね」
- 暗黒の右手をカイホスルーの顎に添え、ナダレはそっと囁いた。
- 「全部が欲しいなら、全部を救わないといけないだろ? 君ならできるさ、信じてる」
- 頭を撫でるような言い方だったが、馬鹿にしているわけでもあるまい。ナダレはこういう女である。
- 彼女にとって、他のすべてはオンリーワンでナンバーワン。カイホスルーへ掛けた言葉に嘘はないが、誰にでも似たことを言うはずだ。
- 君のこんなところが素晴らしい。君はそんな感じで最高だ。自分などより遥かに優れた逸材だと、本気でナダレは言うものの、しかし受け手はコレが異次元の存在だと分かってしまう。
- なんとも腹立たしい話だが、諸々呑み込んでいくしかなかった。いみじくもナダレが言った通り、カイホスルーは一天万乗の座を獲ると誓った龍ゆえに。
- 「クワルナフはどうしてる。来てるんだろう?」
- 「うん、まあ。けど、こっちに顔を出す気はないみたいだね。まったくあの子も困ったもんだよ」
- 破滅工房を“あの子”呼ばわりできる者など、まずナダレしかいないだろう。彼女は溜息まじりの口調で、誰もが耳を疑うような台詞を吐いた。
- 「あれで昔は、可愛い子だったんだけどなあ……」
- そこに忌まわしいものを感じたカイホスルーは、舌打ちして顔を背ける。これで俎上そじょうに載っていないのは第七位魔王だけだったが、アカ・マナフについて語る必要性を彼は認めていなかった。
- 軽く見ているわけではなく、むしろ極めて重要に思っているからこその棚上げだ。ナダレや他の魔王ものらがどう思っているかは知らないが、少なくともカイホスルーにとってのアカ・マナフは正真の鬼札ジョーカー。
- 迂闊に接するべきではないし、話題に乗せることすら躊躇われる。
- 時が来るまで。この馬鹿げた宇宙セカイが死に始めたと確信するまで。
- 胸に覇業を期するカイホスルーの横で、ナダレは滔々とうとうと話し続けていた。
- 「クワルナフは純粋すぎて、自分が何を求めていたのか忘れちゃったんだよ。それを思い出せたら、彼は本当の光輪キセキになれる。その器があるんだ。だから――」
- ある種の荘厳さすら滲ませて、ナダレは目を閉じ、祈りを捧げた。
- 「どうか、私の愛するすべてに祝福を。私がみんなの崩壊ナダレで在れますように……」
- 歯の浮く台詞に壮絶なまでの重さがある。善の究極が“みんなの勇者”としたならば、悪の究極は“みんなの魔王”ということかもしれない。
- そして同刻、一人の男がアンラ・マンユの中をそぞろ歩いていた。
- 茫漠ぼうばくと、蕭々しょうしょうと、意思も生気も感じられない虚ろな様子で、しかし目も眩むほどに綺羅綺羅しく……彼を中心に時間が止まり、歩みに合わせて空間が引き千切られていくかのような、美神の彫像がごとき完璧な光輪かがやきがそこにあった。
- 波打つ金髪は無造作に任せながらも嫣然と流れ行き、真紅の瞳は森羅の万華鏡を体現している。身に纏う法衣ローブは数十の銀河を凝縮した神衣だったが、その煌きさえ男の麗々しさには遥か遠く追いつけない。
- これが第一位魔王クワルナフ――破滅工房の正体であり、絶命星団の魂にあたる存在だった。彼は会合ガーサーのときにしかこの姿を取らないので、ただの戦士ヤザタはもちろんのこと、娘のクインでさえ本当のクワルナフを知らない。
- だがそれは、弱みを秘そうという打算に基づく隠匿ではなかった。
- なるほど、確かに今のクワルナフなら倒せそうに思える。星体にくと魂体れいでは強さの種類が違うため、一概にどちらが与しやすいとは言えないのだが、それでもあの超絶的な巨躯を相手にするよりはマシだろう。打倒に現実味が出るのは確かで、そこに希望も生まれ得る。
- しかし彼ほど巨大化した星霊は、もはや核を砕いただけでどうにかなるものではなかった。魂魄が死ねば破滅工房としての創造力は失われるが、底なしの胃袋たる絶滅星団が残り続ける。
- すなわち理性を無くした暴虐の魔獣が生まれるだけだ。そうなったが最後、宇宙は無への坂道を加速度的に転げ落ちていくだろう。誰にとっても絶望しかない。
- よって単純な保身目的とは言い難く……そもそもクワルナフは、己にこんな魂体すがたがある事実すら認識していなかった。
- 現に今も茫洋としているし、星体のときに発揮される理路整然とした思考力は見る影もなく消えている。ただ無意味にふらふらと彷徨うだけで、白痴の有様とすら言っていい。
- 「あぁ、わたし、私はどうして……こんなことに」
- まるで助けを乞うように、自らの法衣を掻き抱く。びりびりと引き裂いて、切れ端を見ながら機械的に首を傾げる。
- 「違う。こうじゃない。これじゃない……わたし、みんなが求めたのは、求められたのは……なんだ?」
- 分からない――。
- その想いだけが、今の破滅工房を形作るすべてだった。
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