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鬼畜世界の正義の使徒

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Jun 17th, 2012
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  1.  プロローグ
  2.  
  3.  
  4.  
  5.  
  6.  何万という魔物の軍勢に城を十重二十重に包囲されている中、どうするべきかその城の本来の主人から留守を預かった娘は思考に埋没した。
  7.  ここを突破されてしまえば、魔王城までの道程に障害らしい障害になるような拠点はない。
  8.  数に劣る彼女の軍勢が圧倒的な敵に勝るには、地の利を得て天の時を味方にせねばならない。
  9.  いや、仮にその二つを僥倖にも手に出来たとしても、まだ勝利には程遠く、もはや絶望を抱く覚悟が必要だった。
  10.  その様な地獄の牢獄に囚われてしまった姫に残された救いは、ただ一つ。
  11.  彼女の幼馴染である赤毛の少女が説得の任に赴いた、彼女らが唯一の主、魔王リトルプリンセスの覚醒のみである。
  12.  長い睫に飾られた二重瞼に金色の瞳は静かに閉ざし、今ここにいない少女の姿を幻視した。
  13.  実年齢よりも随分と幼く見える可愛らしい容貌の少女————来水美樹。
  14.  彼女は娘の父が自分の後継にと異世界より連れて来た存在だった。
  15.  何故————
  16.  父は絶対であった。娘であり、部下でもある自分にとって、そこに自分の意思を差し挟むことなどできよう筈もなく、そんな思いさえ抱きもしていなかった。
  17.  そう思っていたのに————
  18.  真実はどうやら違っていたようである。
  19.  本当は————当初から感じていたのだろう。その気づけずにいた疑念は今もなお胸に小さな火種を残して燻り続ける。
  20.  いや、今では魔人四天王ケイブリスの叛意と決起によって投げ込まれた「不信」という名の起爆剤によって一気に激しく燃え上がってしまった。
  21.  
  22. 「何故、お父様は私を次代の魔王としなかったのでしょうか……何故、美樹様でなければならなかったのでしょう————」
  23.  
  24.  ケイブリスが反旗を翻してからというもの、魔王城を逃げ出したリトルプリンセスを捜索し、ケイブリスに対する準備を着々と進める傍らで前魔王ガイの一人娘ホーネットはその謎について一人、あれこれと思考を巡らせていたが、一年もした頃、そこでホーネットは自分の間違いに気づいた。
  25.  自分は、父ではない。魔王ですらない。その自分が父の考えに至れる筈がない。
  26.  そうなのだ。
  27.  本人でなければその考えにどんな意味があったかなど知れようはずはない。
  28.  ただ推測するだけだ。
  29.  だが、推測するにしても「材料」が少なすぎる。自分はガイという個でもなければ魔王というクラスでもない。
  30.  そんなホーネットは、今の自分で「推測」を構築する為に使える「材料」となりうる物を捜し求めた。
  31.  父親であるガイの遺産等を調べ、膨大な資料が残る魔王城で古今東西の史書や魔道書に埋もれながら一つの可能性、道筋を見出した。
  32.  
  33. 「美樹様ではなく、異世界の存在が必要だったのでは……?」
  34.  
  35.  個人に秘された素質や能力は分からないが、来水美樹という存在に関して決定的に自分と違う事が一つだけわかっている。
  36.  体格差や物事の考え方、運動能力等、違いは山ほどあるが、そんな物よりも大きな意味がある事実。
  37.  今まで、美樹個人、その内にばかり目を向けて、魔王という存在の神秘を見出そうとやっきになるあまり、彼女を取り巻いていた外因を失念していたのである。
  38.  つまり、魔王となるべき資質を持っていたから選ばれたのではなく、異世界人だったから、それだけの理由でしかなかったのであれば————?
  39.  そう考えれば、ホーネットが魔王に選ばれるわけはないではないか。
  40.  
  41. 「そんな、馬鹿なこと……」
  42.  
  43.  思いついたその時には一笑にふそうとしたが、何故かどうしてもそれが出来なくて、それから『異世界』というものについて考えるようになった。
  44.  しかし、異世界の事を探ろうにもどうすれば良いのか、魔人筆頭であり、様々な魔法にも精通するホーネットにしても皆目見当がつかない有様であった。
  45.  いや、正確には幾つか方法はあった。
  46.  例えば、来水美樹や小川健太郎に尋ねるといった手段だが、これは当の本人が捕まらないのでダメである。
  47.  あとは、ガイが来水美樹を連れて来たように実際に自分が『異世界』に行くぐらいか。
  48.  だが、色々と調べてみたが異世界に渡る魔法は存在していない。
  49.  少なくともホーネットには知りえない技術に間違いなく、八方塞であった。
  50.  そんなある日、不慣れな軍備に忙殺されていたホーネットは、研究の時間が取れなく辟易していた。
  51.  それを見かねた彼女の副官たるシルキィ・リトルレーズンは、何とかしようとある女の子モンスターを呼び出した。
  52.  バトルノートと呼ばれるこのモンスターは軍師としての才を持つ、数多くいる魔物の中でも珍しい存在である。
  53.  これが実は一つの転機となった。
  54.  
  55. 「ホーネット様でも苦手な事がおありになるのですね?」
  56.  
  57. 「私でも不慣れな事はあります。いえ、出来ない事の方が圧倒的に多いでしょう」
  58.  
  59.  声に張りもなく、何処か疲れたように見えるホーネットにバトルノートは何か悩みがあるのではないかと考えた。
  60.  普通に考えれば、魔王不在の現状を憂いているのだと推察するところだが、バトルノートは違った。
  61.  戦において敵の心理を読みきらなければ勝利は覚束ない。そして彼女はその心理戦が得意な軍師である。
  62.  
  63. 「例えば、どのような事ですか? ホーネット様に出来ないような事ですからきっと突拍子もないことなのでしょうが」
  64.  
  65. 「……中々勘が鋭いようですね。流石はバトルノートと言ったところですか」
  66.  
  67. 「お褒めに預かり光栄です。宜しければ、お話願えないでしょうか? 主君の悩み事を解決するのも軍師の務めですので……あ、勿論過ぎた行為であると言うのは十分承知しているのですが————」
  68.  
  69.  バトルノートは以前の主人に仕える感覚で思わずホーネットに接してしまった事に気づいて恐縮してしまった。
  70.  相手は魔人、それも魔王の娘であり魔人筆頭という存在なのだ。
  71.  ホーネットからの返事がなく、出過ぎた真似をしたことを後悔しはじめた頃、思わぬ返答があった。
  72.  
  73. 「————そうですね。貴女は相当博識なようですから、恥を忍んで聞きますが……異世界に渡る方法というものを知っていますか?」
  74.  
  75. 「異世界、ですか?」
  76.  
  77. 「そうです。この世界とは異なる次元軸にある、地獄や魔界とも違った全く別の世界です」
  78.  
  79.  ホーネットの目は真剣で、とても格下のモンスターをからかっているものではないと一目で理解した。
  80.  噂でしかないが、当代の魔王は異世界人だという話もあるから、それに関連する話なのかもしれない。
  81.  だとすれば、相当に重要な事を相談されているわけで迂闊な返答は許されるものではない。
  82.  意を決して、真っ向からホーネットの黄金色の瞳を見つめ返す。
  83.  
  84. 「確立している手段ではありませんが————」
  85.  
  86.  驚いたのはホーネットだった。
  87.  まさか回答ではなく解答があるとは思っていなかったのだ。
  88.  
  89. 「テレポートゲートを用いれば或いは、可能かと思われます。事実、私はそれで別の世界より渡ってきましたから」
  90.  
  91.  或いは、あのイカ男爵が手にした『赤い運命』ほどの力でもあれば話はもっと簡単ではあるが、それを言っても仕方ない。
  92.  無い物ねだりというより、アレに頼ってはならない。
  93.  もっとも、もう頼りたくても頼れないが。
  94.  
  95. 「テレポートゲートですか、あれは場所を移動するだけの現象ではなかったのですか?」
  96.  
  97.  ホーネットの疑問も尤もだった。
  98.  この世界でのテレポートゲートの発生率は随分と低い。バトルノートもそれを知っている。だから、それほど多くの体験談がないのだろう。
  99.  元々自然災害のような現象。好き好んで中に飛び込む者は少ない。余程、好奇心旺盛か馬鹿か已むに已まれない事情を抱えているかのどれかだ。
  100.  それに仮にこの世界から異世界に行った者があるとして、そこから帰ってこれなければ、情報は伝わらない。
  101.  
  102. 「自然現象ですから制御することは出来ませんが、事実として世界を越える力があるのは実証済みです」
  103.  
  104.  それはバトルノートの話を信じてもらえればという前提にあるが、彼女はその辺は気にしていない。
  105.  ホーネットはそういう人物だと理解しているから。そうでなければ、自分は今、この場にはいないだろう。
  106.  
  107. 「わかりました。ありがとう、これで道に光が射されたかもしれません」
  108.  
  109.  前途は多難だろう。
  110.  しかし、それでも道を塞ぐ壁に一穴が穿たれたのである。
  111.  それから3年。
  112.  バトルノートや彼女の仲間の異世界からやってきたという女の子モンスターらの協力も得て、テレポートゲートを人為的に生み出すことに成功したホーネットではあったが、異界渡りの技術には未だ至っていない。
  113.  恐らく、彼女がこのまま研究を続けていけば、近い将来とはいかないかもしれないが、先ず間違いなく異界渡りの法を確立できるであろうとバトルノートは思った。
  114.  だが、現状はそれを許そうとはしなかったのである。
  115.  
  116. 「ホーネット様、先陣のメディウサ軍が動き出しました! 如何なさいますか?」
  117.  
  118. 「バトルノート……」
  119.  
  120.  バトルノートの目は一刻も早く脱出しろ、そう言っていた。ホーネットだけならこの包囲網でさえ抜けるのはそれほど困難ではない。
  121.  だが、それを言葉にしないのは、彼女も分かっているからだ。
  122.  ここを抜けられてしまえば、魔王城までケイブリス軍を押さえる術はないと。
  123.  今は出ているホーネット派の主力を率いるシルキィと挟撃をする等の策もなくはないのだが、戦力差が大きすぎで大した効果は得られないのも計算済みであり、事実として今、このシルキィの城が落とされれば事実上、ホーネット派の敗北になるのだ。
  124.  故に、主将であるホーネットは静かな笑みを精緻な造作の美貌に浮かべた。
  125.  
  126. 「出ます……後は宜しくお願いしますね」
  127.  
  128. 「では、先陣は私が率います。何とかホーネット様がメディウサのもとまで辿り着けるように道を切り開いて見せます」
  129.  
  130.  バトルノートは一礼をして部屋を辞しようとしたが、その背をホーネットが呼び止める。
  131.  
  132. 「いえ————先陣は私が行きます。何とか突破口を開きますから、貴女達は巧く脱出してください」
  133.  
  134. 「なっ!? ホーネット様、それは————」
  135.  
  136. 「バトルノート、貴女とそのお友達は並みのモンスターとは比べ物にならない力を持っています。それに魔物将軍がいなくても互いに協力しあって戦える技能も持っています。その力はきっと、シルキィの助けになるはずです」
  137.  
  138.  ホーネットの決意が悲壮感を伴ってバトルノートに伝わった。
  139.  大将が敗北すれば、全てがお終いだというのに、この自分の上官は……
  140.  
  141. 「シルキィを頼みます」
  142.  
  143.  バトルノートに何も言わせずに、ホーネットは部屋を出た。
  144.  その後ろ姿を唇を噛み締めて軍服姿の少女は見送るしか出来なかった————
  145.  
  146.  
  147.  
  148.  シルキィの城に与えられていた自室にバトルノートが戻ると、部屋には彼女の仲間達が一堂に会していた。
  149.  
  150. 「どうだった?」
  151.  
  152.  短く報告の結果を求めてきたのは彼女の親友、バルキリーだ。
  153.  
  154. 「ホーネット様は討って出られる」
  155.  
  156. 「では、私たちも」
  157.  
  158. 「いや、私達は待機だ。そして隙を見てこの城を脱出しろ、と仰せられた」
  159.  
  160.  バトルノートは淡々と告げる。
  161.  それに対して逆に熱くなる彼女の仲間達。
  162.  彼女らはあのイカ男爵にも団結して挑み、終には打倒した者達である。どんなに強大な敵であろうと怯むことはない。
  163.  主人であるレオはもういないが、彼の下で培ってきた「モンスターにあるまじき心の在り方」は、新たな主人と定めたホーネットを見殺しには出来ないのだ。
  164.  
  165. 「まじしゃん、サワー、テレポートゲートを使うぞ」
  166.  
  167.  騒ぐ彼女達を無視してバトルノートは二人の魔法専門家にホーネットとの共同研究の成果の使用を告げた。
  168.  
  169. 「何? 逃げ出しちゃうの。わたし、お姉さまを見捨てたくないんだけどな〜」
  170.  
  171. 「わたしもよ、というより皆、そうなんじゃないの」
  172.  
  173.  名前を呼ばれた、二人の魔法使いモンスターは非協力的だった。
  174.  それに賛同するその他の仲間達。
  175.  だが、それを見てもバトルノートの顔は涼しげだ。
  176.  
  177. 「何を言ってる、お前達? 今のままでは現状を打破する策がないのだ、だから用意しようというのではないか」
  178.  
  179. 「ええっ!? で、でも、でも、テレポートゲートは未完成なんだよな?」
  180.  
  181.  キャプテンバニラが素っ頓狂な声を上げてバトルノートに詰め寄る。
  182.  
  183. 「ああ、そうだ。こちらから世界を指定して空間を繋げるまでには至っていない。だが、この世界の壁を破るだけの事はできるはずだ。そこから先は運任せになってしまうが————お前なら分かるのではないか、バニラ? あのイカパラダイスからレオの所に協力を頼みにいったお前なら……」
  184.  
  185.  イカパラダイスからイカ男爵と戦う為に必要なレオのいる場所までを何故テレポートゲートが繋いだのか?
  186.  只の偶然か?
  187.  いや、それはいくら何でも出来すぎだろう。
  188.  理論こそ解明されてないが、本当に強く願うのであれば、テレポートゲートは使用者の望みの場所に繋いでくれるのではないだろうか?
  189.  
  190. 「確証は……?」
  191.  
  192.  スケッチが戦闘の為に書いていた落書き勇者を書く手を止め、スケッチブックを胸元に抱えて訊ねるが、それには首を横に振るしかない。
  193.  
  194. 「ない。だが、今。私たちに取れる方策は時間の都合上、これしかない。やらないよりはやるしかない、違うか?」
  195.  
  196.  バトルノートがそう言って全員を見回した。
  197.  それで決まりだ。
  198.  誰も反論の声をあげない。
  199.  一番クールだと思われたバトルノートだったが、実は彼女こそが一番、熱くなっていたのであった。
  200.  
  201.  
  202.  
  203. 「答えは得た。大丈夫だよ遠坂。オレもこれから頑張っていくから」
  204.  
  205.  そう答えた赤い騎士は、それでこの世界から消えた。
  206.  後は、この世でもあの世でもない場所を抜け、あらゆる時空世界から切り離された座へと戻るだけだ。
  207.  その筈だったのだが————
  208.  
  209. 「ちょっと、ちょっと何だよ、ここは〜!!?」
  210.  
  211. 「ちょっと、騒がないで! 今、考えてるところだから! ————えっと、魔力量が世界間を繋ぐには不足していて、こっちの壁だけ打ち抜いてしまったのかしら……」
  212.  
  213. 「なんだよ! こんな大事な時に失敗したっていうのかっ!?」
  214.  
  215. 「仕方ないでしょう! 元々不完全な術だったんだし————」
  216.  
  217.  縦も横も高さも存在しない空間に、幾度と無くこの場を行き来している赤い騎士でさえ見た事もない光景に出くわして目を白黒させた。
  218.  髑髏の印章が施されたいかにもな海賊ハットを被った小さな少女と頭をすっぽりと覆うフードとマントを羽織ったこちらは見た目どおりと言った感じのファンタジー風の魔術師の少女が、ここでは見た事もない青白い光を放つ穴の前で激しく言い争いをしていた。
  219.  その信じ難い光景を前にして————
  220.  
  221. 「なんでさ————」
  222.  
  223.  赤い騎士は思わずそう呟いた。
  224.  
  225. 「あっ! あそこ、誰かいるよ!」
  226.  
  227.  赤い騎士の声が届いたのだろう、言い争っていた少女の内、海賊風の子供が彼を指差した。
  228.  この身は既に霊体の筈だが、彼女達には自分が見えるのだろうか? いや、そもそも「この様な場所」で誰かに会うことなどなかったから、ここに「居る」という事実があるだけで認知できるのかもしれない、そう騎士は考えた。
  229.  
  230. 「あの〜貴方はどなたですか?」
  231.  
  232.  声を掛けてきたのは、年上に見える魔術師らしい少女だった。
  233.  この場において距離はあってないに等しい。互いに知覚してしまえば、お互いの距離は0であり∞でもある。
  234.  歩く、泳ぐといった概念が存在しないのだから移動する手段は感じとるしかない。即ち、自身の行きたい場所を。
  235.  
  236. 「ふむ。このような場所で出会うとは何とも奇妙な出来事だが————人に名前を尋ねるのなら、先ずは自分から名乗るのが礼儀ではないのかね? それとも、君達は私と敵対するつもりでここにやってきたというのかな」
  237.  
  238. 「む、何だコイツ、何か嫌な奴っぽいぞ」
  239.  
  240. 「ちょっと、バニラ、黙って!」
  241.  
  242.  眉を潜める海賊少女、バニラを片手で押し退けて黙らせると魔術師少女は頭を下げて非礼を詫びた。
  243.  
  244. 「わたし、まじしゃんって言います」
  245.  
  246. 「マジシャン? これはまたストレートな名前だな。それはひょっとしてクラス名か?」
  247.  
  248.  不思議そうに赤い騎士は尋ねた。
  249.  人に名乗らせておいて、自分は名乗り返さないのか、とまじしゃんは思ったが、ここは不満を腹の底で押さえ込みおくびにも出さない。
  250.  明らかに目の前の男は自分達を警戒しているからだ。
  251.  ここが何処だかは分からないが、せっかく人?に出会えたのだ。チャンスが0%から1%にアップしたこの幸運を逃してはいけない。
  252.  
  253. 「クラスですか? ええっと、どちらかというと種族名になります。女の子モンスターのまじしゃんです。この子は同じく女の子モンスターのキャプテンバニラ」
  254.  
  255.  まじしゃんがそう答えると赤い騎士はまた目を白黒させた。
  256.  
  257. 「女の子、モンスター? ……つまり君達は人間ではないのだな?」
  258.  
  259.  聞いた事もない単語に困惑する頭でそれでも一つの事実を赤い騎士は尋ねた。
  260.  
  261. 「そうなりますね。それで……失礼ですが、あなたは?」
  262.  
  263. 「ああ、そうだな。君に名乗らせておいて、私が礼を欠いてしまった、すまない。私は————エミヤ、エミヤシロウだ」
  264.  
  265.  まじしゃんの視線に不快の色を目聡く見つけた赤い騎士————英霊エミヤは、自分の失態を詫びた。
  266.  
  267. 「エミヤ、さんですね。それであなたは人間なのですか?」
  268.  
  269.  こんな辺鄙なというか不思議な空間に住む人間なんているのだろうか? という疑問を押し隠し、それでも彼が自分達を人間ではないのか? と訊いてきたことから彼自身は人間である可能性が高いとまじしゃんは読んでいた。
  270.  だというのに。
  271.  
  272. 「ふむ、そうでもあるし、そうでもない、としか言えんな」
  273.  
  274.  等と、エミヤという騎士はそうのたまいました。
  275.  
  276. 「ふざけているのですか?」
  277.  
  278. 「いや、そうではない。この身はかつて人間であったが今は全く別な物でね————そうだな、ゴーストライナーという言葉を知っているか?」
  279.  
  280. 「ゴースト? じゃあ、あなたは幽霊なんですか!?」
  281.  
  282.  驚くまじしゃん。
  283.  言われて慌てて注意を払って見れば、確かにエミヤは、仲間のコンテと似たような気配がする。
  284.  
  285. 「厳密には違うのだが、まあ、外れてもいない。私はかつて人間として生きたが現在は死して肉体を持たなくなった存在だ」
  286.  
  287.  エミヤもこのモンスターを名乗る少女らが英霊やら守護者を理解しているわけはないと判断し、話がややこしくならないように適当な所で相槌を打った。
  288.  詳細は全くもって不明だが、互いがどういった存在なのかが分かったところで、とエミヤは本題に取り掛かった。
  289.  
  290. 「それで、モンスターの君達がこんな所で何をしているのかね? まあ、君達のうろたえ様からすると、思いもかけない場所に偶々出くわした迷子のようだが」
  291.  
  292.  エミヤ自身は随分と慣れ親しんだ場所である。
  293.  英霊の座と現世を繋ぐ無限回廊、それがここだ。
  294.  
  295. 「あなたはここがどんな場所であるか知っているのですか?」
  296.  
  297. 「まあ、世界の狭間と言ったところだ。それで、私の推測は正しかったのか?」
  298.  
  299.  エミヤは彼女らの背後にある青白い光を放つ穴を気にして言う。
  300.  恐らくは、あれから迷い込んだのだろう。
  301.  
  302. 「ええっと、それは正解の様な、間違いの様な……」
  303.  
  304. 「ふむ、それは先程の仕返しなのか?」
  305.  
  306.  むすっとエミヤが一睨みする。
  307.  別に怒っているわけではないが、余り言葉遊びに興じている場合でもないだろうと判断しての対応だ。
  308.  するとそれまで黙っていたバニラが弾んだ声で言った。
  309.  
  310. 「私達は、人を探しにきたんだ!」
  311.  
  312. 「人探し? このような場所にか?」
  313.  
  314.  疑問は当然。ここはその様な場ではない。
  315.  ファンタジーな形からして仲間探しなら「酒場」とか「ギルド」とかに行った方がいいだろう。
  316.  ああ、この子らはモンスターだからそうもいかないのかもしれないな、と勝手に独りごちるエミヤ。
  317.  
  318. 「そうです! ……もっとも、何処を探せばいいのかは分からなかったので、こんな所に来ちゃってるんだけど————」
  319.  
  320.  戸惑いを浮かべるまじしゃん。
  321.  なるほど、だから迷子ではあるが、目的を持ってるあたり必ずしもそうだと言い切れないわけか。
  322.  
  323. 「そうか————では、話を変えよう。君達は、一体誰を探しているのだ?」
  324.  
  325.  ここで他の英霊に出くわした事などないが、ここで出会える可能性は0ではない。
  326.  現にこうして私と彼女らは奇跡的な邂逅を果たしているのだから。
  327.  まあ、彼女らが英霊を探しているわけではないという事は分かるが。
  328.  何故なら、ここが何処かも知らずにやってきたのだ。だったら、偶然紛れ込んだ、そう考えるのが普通————
  329.  まじしゃんとキャプテンバニラは互いに顔を見合わせて複雑な顔をしている。
  330.  
  331. 「何を悩む必要がある? 私に知られては何か不都合があるのかね? ここがどの様な所かも知らずに訪れたのなら、その様な心配事は無用ではないか?」
  332.  
  333. 「あ、そういう訳じゃないんだ。ちょっと何て言うかさ……私達が探してるヤツっていうのが特定の個人じゃないんだ」
  334.  
  335. 「どういう事だ?」
  336.  
  337.  二人が何が言いたいのか分からないエミヤは少しいらついたが————
  338.  
  339. 『私達、正義の味方を探しに来たんです!』
  340.  
  341.  その言葉に全ての思考を吹き飛ばし、あらゆる言葉を失ってしまうのだった。
  342.  
  343.  
  344.  
  345.  
  346.  
  347.  
  348. チャプター1
  349.  
  350.  
  351.  
  352.  全身を包む激しい疲労に膝が力を失い翡翠の君は床に両手を着き千々に乱れる呼吸を肩を大きく揺らして整える。
  353.  濃紫のローブも所々で破れ、その白磁の肌にも激闘の痕が生々しく刻まれていた。
  354.  深手こそ負ってはいなかったが、切り傷に打撲と言った大小の怪我はその全身に無数に記されており、常であれば、誰が彼女程の存在がここまで追い詰められようと想像できるのか。
  355.  四天王にこそ数えられてはいないが、彼女こそ魔人筆頭にして前魔王の娘、ホーネットである。
  356.  その身体に圧し留めることさえ困難な程の有り余る魔力は、彼女の周囲に5つのスフィアとなって顕現し彼女の魔法行使をサポートしているが、今はよほどの消耗故かその影さえも見受けられないでいる。
  357.  流石に魔人最凶との悪名高いレッドアイ、格闘無双のカイト、尋常ではない再生力を持つメディウサ、伝説のムシ使いにして高レベルの剣士ガルティア、魔人一の体躯を誇るバボラ、そして四天王の一角ケッセルリンク。
  358.  この6人と休みなしで連戦を行えば、いかにホーネットと言えど疲弊と負傷は免れるものではなかったということだ。
  359.  むしろ、討ち取られないですんでいることが、彼女の凄さの証明だろう。
  360.  しかし、彼女の善戦ももはやこれまでだった。
  361.  城に残っていた戦力はホーネットと共に出撃をして悉く討ち死にした。もはや、シルキィの城から感じられる気配は、ホーネット只一人である。
  362.  つまり、シルキィが連れて来た特殊部隊「らいおんはーと」も既に撤退を完了したということなのだろう。
  363.  その事実を知って、ホーネットはこの苦境において安堵の笑みを浮かべた。
  364.  モンスターとしては珍しい優しさに溢れた彼女達が死地に向かう自分を置いて、素直に城から逃げ出してくれるのか懸念していただけに、ほっとしたのである。
  365.  これで、少しは希望を未来に残せた。
  366.  彼女達は魔人には及ばない。
  367.  だがそれは戦闘力が著しく劣っているという意味ではなく、魔人を傷つけられるのは魔人による攻撃と聖刀と魔剣だけ、という絶対の法則に従わざるを得ないだけだ。
  368.  確かに、個々の戦力は魔人の使徒をも超えてはいるが、流石に魔人本人に並ぶ程ではない。
  369.  しかし、彼女らは互いに協力する事でその戦力を何倍にも高めることが出来るというモンスターの常識を大きく逸脱している能力がある。数人で相性のいいグループを組めば十分に魔人とも渡り合える実力があるし、最強のバルキリーなら一人でも四天王以外に遅れをとることもないだろう。
  370.  そんな彼女達をシルキィに託す事が出来たのであれば、早々ケイブリスらに覇権を奪われることもないと確信している。
  371.  あとは、親友であるサテラがリトルプリンセスを説得してくれれば————
  372.  そう思ったとき、これまでなかった大きな気配がホールに入ってきた。
  373.  
  374. 「……見つけたぞ……ホーネット!!」
  375.  
  376.  小山を思わせる体躯にガラガラの、聞く者を不快にさせる声、元があの可愛らしい「リス」だったとは思えない変化を遂げた最古参の魔人にして四天王最強であるケイブリスが姿を現す。
  377.  体力的に既に限界を迎えていたホーネットだったが、気力を振り絞って素早く立ち上がると声のした方に向けて構えを取る。
  378.  
  379. 「ケイブリス……!!」
  380.  
  381. 「さあ、観念するんだな。お前の味方はもういない」
  382.  
  383.  満身創痍のホーネットに対して、ケイブリスは完全無傷、死の大地を行軍してきたというのに消耗している素振りすらなかった。
  384.  魔人であるホーネットとレッドアイの魔力が衝突して出来た死の大地。そこに降る死の灰は確かに魔人にも影響を及ぼすが、それでもこの最強の魔人を参らすには至らなかったようである。
  385.  
  386. 「お黙りなさい!! 私の父である魔王の遺言を守らぬ裏切り者が!」
  387.  
  388.  ここまで来れば虚勢であろうと何であろうと構わない。
  389.  父の遺言を己の意思に、身を焦がす怒りをささやかでも力に。
  390.  ホーネットは毅然とした態度でケイブリスに臨んだ。
  391.  ここでケイブリスを倒せないまでも手傷を負わす事が出来るのであれば、シルキィへの自身が与えられる最後の手向けとなるだろう。
  392.  
  393. 「けっ。何が悲しくて、死んだ奴の言葉なんぞ守んなきゃなんねぇんだよ。ばっか馬鹿しい」
  394.  
  395.  だが個が違えば思想も異なる。
  396.  故人の意志を尊重し、それに従ずる姿は健気でもあれば、貴くすらもあるだろう。
  397.  しかし同時に、欺瞞でもあって、愚かな事でもある。
  398.  ケイブリスにとっては後者こそが真実であった。
  399.  だから、ボロボロのホーネットの姿を見て豪快に嘲笑う。
  400.  
  401. 「父を愚弄しないで!」
  402.  
  403.  あまりの不快に激昂したホーネットが叫ぶ。
  404.  微かに腰を沈め、今にも飛び掛らんという姿勢になるが、
  405.  
  406. 「うるせえ!!!!!」
  407.  
  408.  恐怖の権化とされる最強の魔人の恫喝はそれだけで力を持ち、彼女の気勢を削ぐ。
  409.  
  410. 「っ……」
  411.  
  412.  射竦められたホーネットの喰いしばられた口から洩れる呻き声。
  413.  決して怯んだわけではないが、今の彼女にはケイブリスの怒声、あえて言うなら気迫ですら肉体に堪える。
  414.  そんな縮こまったホーネットを冷めた目で一瞥し、ケイブリスが残酷な一言を発する。
  415.  
  416. 「さあ、もう終わりなんだよ、ホーネット。お前はもう…負けたんだ。さっさと降参しちまいな」
  417.  
  418. 「っ……ぅっ……」
  419.  
  420.  それは最後通牒。
  421.  ホーネットにも分かりきっている事だ。
  422.  故に、返す言葉も見当たらず、ただ、苦渋の呻きを洩らすことしか今の彼女に許された行為はない。
  423.  きつく握り締められた拳が血色を失い青白くなっていく。
  424.  そんな自身の不甲斐なさを呪い、自身を嬲る様な所作が彼女の現状の厳しさを物語る。
  425.  
  426. 「おらぁ!! さっさと降参しろってんだよ!!」
  427.  
  428.  戦うわけでもなく、降参するでもないホーネットの煮え切らない様子に焦れたケイブリスが怒号と共に丸太のような尾を振り上げる。
  429.  1トンを超す体格から繰り出された一撃の威力は、いかに頑丈な魔人と言えども決して軽くないダメージになる。
  430.  喰らうわけにはいかないと、鈍い動きしか出来ない四肢に力を入れて、背後に跳ぶホーネットだったが、普段のそれに比べるまでもない精彩を欠いた回避運動は、虚しくケイブリスの尾に捕えられ、殆ど勢いを殺すことも叶わずに容赦なく彼女の細い胴体を直撃した。
  431.  内臓を圧壊する衝撃を受け、ゴムマリのように宙を飛んだホーネットが堅牢な城の壁に強かに叩き付けられる。
  432.  腹と背中、その両方から凄まじい衝撃を受けた彼女の意識が切れかけの蛍光灯のように忙しなく明滅を繰り返す。
  433.  背中を擦られながら、床にずり落ちていくホーネットが意識をそれでも完全に飛ばさなかったのは、彼女の矜持とやはり先程の回避行動が少しは効果を生んだということか。
  434.  
  435. 「ちっ……意外としぶてぇな……今ので気を失っていりゃあ、余計な苦しみを味わわないですんだのによぉ!」
  436.  
  437.  幾分か更に機嫌が悪くなったケイブリスの情け容赦がまるで感じられない一撃がホーネットに迫る。
  438.  意識こそ微かにあるものの、糸が切れたマリオネットのように指先一つ動かせないホーネットにその致死に至るであろう攻撃を防ぐ手立てはなかった。
  439.  ホーネットの全身を鷲掴みにできる程の巨大な手、刀剣の一撃に匹敵する五条の爪が唸りを上げて襲い来る。
  440.  その一撃を受けたホーネットの痩躯が宙に舞う。
  441.  だが、それは思っていたような苦痛を伴うものではなかった。
  442.  斬撃による痛みも、殴打による苦しさも感じられず、代わりに戦場に散った濃紫の布地の切れ端が霞がかった視界に花弁の様に舞い踊る。
  443.  
  444. 「ぐばぁははははっ! いいカッコウだぜ! ホーネット!!」
  445.  
  446.  何という事か。
  447.  ケイブリスはあろうことか、身動きさえままならないホーネットをこのまま嬲るつもりだったのだ。
  448.  それが下卑た笑いにあからさまに反映されていた。
  449.  宙を舞い、床に叩き落された彼女のローブはズタズタに裂け、防具としては勿論、衣服としてももはや機能していなかった。
  450.  片膝だけ僅かに立てて仰向けに倒れた姿は、胸部から腹部にかけて大きく引き裂かれて隙間から白い肌を覗かせており、酷く扇情的である。
  451.  意識がまだあると言う事が、ケイブリスの言うとおりに更なる苦痛を齎す。
  452.  この後に待つ運命は、ホーネットにとって死ぬよりも辛い体験となるに違いない。
  453.  それこそ死によって齎される苦痛など一瞬だが、凌辱という名の地獄が演出する苦痛は、ケイブリスの8つもある凶悪な性器によっておぞましい蹂躙の傷痕を肉体に刻み、同時に尊厳や希望を踏み躙られて精神を侵害する毒を齎す。それがいつ果てるともなく繰り返されるのだ。
  454.  
  455. (父様……)
  456.  
  457.  覚悟を決めるしかない。
  458.  いや、ケイブリスと戦う事になった時点でその覚悟はあったはずだが、実際に敗北して浮き彫りにされたと言うべきか。
  459.  
  460. 「さ〜て……大事に大事にされてきた処女膜を奪ってやるぜ……この俺様のぶっといやつで、ビリッとなぁ!!」
  461.  
  462.  態々ホーネットの眼前で触手状の男根をうねらせてケイブリスが吼える。
  463.  人間であればあり得ない、そのドリル回転をする文字通りの凶器に気丈なホーネットの顔色が一段階青くなった。
  464.  いくら覚悟を決めたとは言っても、可能ならこんな現実は何としても回避したいというのは女の心情というもの。誰が好き好んで怪物に乙女を捧げようなどと思うものか。
  465.  しかし、ホーネットがどれだけ悔しがり、負けないようにと気持ちを高ぶらせようとも、限界である身体は持ち主の意思にも従ってはくれない。
  466.  ただ生理的に肉体と精神が受ける苦痛に普段決して見せない涙が自然と浮かび上がってくるだけだ。
  467.  つまり————
  468.  彼女に宛がわれた運命は、正史が綴る結果————本来の主人公である鬼畜王が如何に活躍しようとも、この時点で定められた結末は覆ることはなく、彼がやってくるまで終ることない凌辱劇へと奔走していく事になる————
  469.  
  470.  
  471.  
  472.  
  473.  そうなる、はずだった。正史においてならば。
  474.  
  475.  
  476.  
  477.  
  478.  だがここに異分子が混ざれば、どうなるのか?
  479.  その異分子は、この世界とは異なる世界からやって来た特殊部隊。
  480.  かつて一人の少年の優しさと強さによって結ばれた決して千切れない絆を心に持つ一騎当千の兵。
  481.  数多の艱難辛苦を乗り越えて楽園を築いた乙女達。
  482.  世界を渡る客人たる彼女らは、本来あり得ない邂逅を果たし、今ここに、一つの奇跡を顕現させる————
  483.  
  484.  
  485.  
  486.  ホーネットを捕えようと伸ばされたケイブリスの豪腕が突然、何かに弾かれた。
  487.  予期できなかったことで、ケイブリスの腕は力のベクトルを大きくずらされて城の天井にぶつかり、埃と一緒に砂礫をも降らす。
  488.  涙と埃に視界がけぶる中、鮮やかに朱色が翻った。
  489.  驚きの中、彼女の親友である少女が帰ってきたのかと思ったが、その酸化前の血液を濃縮したような赤は、髪ではなく衣であり、彼女の親友はそういった衣装を纏うなら黒を好んでいたから違うと理解した。
  490.  それでは、一体誰なのか?
  491.  そう思ったのは何もホーネットだけではなかった。
  492.  
  493. 「なんだ、テメェは……何処から湧きやがった!!」
  494.  
  495.  今正にホーネットを凌辱しようとしていたケイブリスも楽しみを邪魔されて怒りの咆哮をあげる。
  496.  絵面だけ見れば円らな、可愛らしいと形容しても問題ない目、だがそこに宿る濁った激情と残忍な色合いが彼を見た目どおりの化物として主張している、そんな目が闖入者に厳しく向けられた。
  497.  女性としては高い方であるホーネットより大体頭一つ分ほど大きい背、鋼の様に引き締まった体躯を漆黒のボディアーマーで覆った褐色の肌に白髪を持つ青年に。
  498.  
  499. 「ふむ、貴様の様な下衆の質問に答える義理もないが————どうやら彼女も知りたそうなので敢えて教えてやろう」
  500.  
  501.  青年の視線はケイブリスを捉えたまま、気配だけで背後のホーネットの様子を察し、そう告げる。
  502.  至極短気なケイブリスがその圧倒的暴力を奮わないでいるのは、やはり突然現れ、自分の腕を弾いた男に何かを感じたからか。
  503.  微かな警戒を懐いて、男の言葉を待つ。
  504.  
  505. 「何処からと問われれば、世界の外側、何者かと訊かれれば————今はこう言おう————」
  506.  
  507.  
  508.  
  509.  正義の味方。
  510.  そう名乗った青年、エミヤは、しかし返された馬鹿にしたケイブリスの大笑いにニヒルな笑みを向ける。
  511.  
  512. 「醜い怪物からお姫様を救いに来た人物、それも姫君のみならず、世界にすら何の縁も持たない者を指して、それ以外に相応しい言葉があるというのかね?」
  513.  
  514.  それは人を食った言葉。
  515.  仮に真実だったとして相手を納得させる為のものではなく、相手を挑発する為に存在する言の葉だ。
  516.  今、この瞬間————間違いなく舞台は青年によって支配された。
  517.  観客は二人しかいないが、彼女らは突然舞台に上がった一人の男にその全ての意識を向けさせられたのだ。
  518.  だがそれを理解する者はこの場にはいない。
  519.  お頭が決定的に弱いケイブリスは言うに及ばず、聡明であることには定評のあるホーネットにしても難解な事だった。
  520.  
  521. 「ふざけるなぁ!!」
  522.  
  523.  先程はホーネットを捉える為に開かれていた掌を握り締め、明らかに叩き潰す意思をもって振り上げられた鉄槌の如き拳。
  524.  捕縛を目的とした先の一撃と違い、明確な殺意の篭った一撃はその威力からして段違いである。
  525.  それを理解しているエミヤは、今度は両手に握った干将・莫耶で受ける事なく、三歩程後退することで難なく躱す。
  526.  受け流すことも可能だが、サイズの差が大きくなる程に完全な受け流しは難しくなる。あのアサシンやセイバー程の技量があればそれも可能だろうが、エミヤにそこまでの技はない。まして受け止めるという選択は論外だ。それこそ凛と契約したセイバーかギリシャ最大の英雄であるあのバーサーカーでもなければ不可能だ。
  527.  だからこそ、最善の手段としてエミヤは攻撃を躱す。
  528.  叩き付けられた拳が床を破壊し、土煙と石飛礫を撒き散らすが、その飛礫をエミヤは残さずに両手の夫婦剣で捌き切る。
  529.  その洗練されたとは言い難いが、堅実な剣捌きにホーネットは目を瞠った。
  530.  彼女の目をして漸く追えるほどの速度で繰り出される剣は、明らかに魔人にも並ぶ身体能力によって齎されていたからだ。いや、同じ魔人と言えど、元の種族の差などから個人差は大分大きいから一概には言えない。
  531.  ただ、それを言えば————
  532.  動きの精緻さ、速度だけ取れば、下手をすれば魔人をも超えているやもしれない————
  533.  彼の剣を受けれる者は、同じく剣を武器にするか、格闘に長けた魔人ぐらいだろう。それでも下手を打てば翻弄されかねない、そんな予感をホーネットは驚愕と困惑の面持ちで懐く。
  534.  それと言うのもホーネットの見識はそれほど広くない。
  535.  生まれてより今日までを殆ど魔人領で過ごしたが故に、その膨大な知識の大半は魔王城の蔵書によるものであり、世界の全てを実際に見てきたわけではないのだ。
  536.  その彼女の知識の中に、今、目の前で双剣を振るう男と同等の存在がヒットしないのだ。
  537.  人間の中にも強い者がいる事は知っていた。
  538.  人類統一を目前にした藤原石丸や魔人に正面きって戦争を仕掛けたM・M・ルーン。
  539.  そして新しいところでは、人間として快挙とも言える魔人の打倒を果たした男が居るらしい。皮肉な事にその魔人達はホーネットの味方であった者達で、その一件があって現在の苦境が生まれたのである。
  540.  ならば、彼こそがその人物————たしか、ランスとか言う男だったか、と思考が及ぶが、彼が手に持つ武器は魔剣カオスではない。あの白黒の短剣は十分な魔力を持っているようだが、それでも魔人には傷一つ付けられないのが現実であり、故に彼がランスという人物であるのなら、敢えてカオスを持って挑まない理由が見つからなかった。
  541.  
  542. 「さて、咄嗟に助けに入ってしまったわけだが、君が魔人ホーネットで間違いないかね?」
  543.  
  544.  エミヤは背後に庇った佳人に顔を向けずに問う。
  545.  彼をこの世界に誘ったバニラやまじしゃん、その仲間という個性的なモンスター達から耳にした容姿とほぼ一致していたが、彼女らの一人、絵が得意と言うスケッチが描いた実に前衛的な似顔絵を見るに些か自信が持てないでいた。
  546.  何しろここまで来て人違いでしたではお話にならないのだ。
  547.  
  548. 「っ……ええ」
  549.  
  550.  声を発するのも辛いのか、微かな身動ぎの後に短く答え、頷く気配を感じとったエミヤは、現状に置いて最悪に近い状況であると判断する。
  551.  つまり、要救助者は生存していたが、自力で動く事が困難な上、強大な敵を前にしているという事態にだ。
  552.  話を聞いた分には、目の前の怪物のような存在が他にまだ8人もいるらしい。
  553.  それがここにいない分、まだ随分とマシではあるが……相手が一人だろうとその存在がサーヴァントクラスの怪物だというのなら、最悪は最悪で間違いない。手負いの救助対象を抱えてどうにか出来るほどサーヴァントは甘い存在ではないのだから。
  554.  自分が時間を稼いでいる間に脱出しろ————当初はそう言うつもりだったエミヤだが、大きく予定を変更しなければならなくなったようだ。
  555.  ここでホーネットに逃げを促す会話は悪手だ。せっかく、相手の意識を自分に引き付けたというのに、また彼女に目を向けられてしまえば目的の遂行は極めて困難なものになる。
  556.  
  557. 「やれやれ、とんだミッションになってしまったものだ————」
  558.  
  559.  煙が晴れていく中で視界に飛び込んで来た、ケイブリスの次の攻撃は、真正面からの右ストレート。
  560.  これを避ける訳にはいかない。
  561.  躱すこと自体は簡単だったが、未だに背後で倒れているホーネットを無視するわけにはいかないのだ。
  562.  「熾天覆う七つの円環」を展開すれば余裕で防げるだろうが、今現在の魔力量では自滅行為になりかねないので、却下。
  563.  やむを得ず、干将と莫耶を交差させて迎え撃つ。
  564.  あの一撃はバーサーカーの一撃に匹敵する。それを受けて踏み止まることは現状のエミヤのスペックではありえない事実。干将・莫耶に施してある対物理防御の効果を最大限に発揮させても受けきることは無理。
  565.  ならば、干将・莫耶を更に強化するか————
  566.  それも不可。既に彼の夫婦剣は、エミヤによって最高のカスタマイズがされている。宝具を持たない英霊エミヤの、もはや自身を象徴する武装と呼んで過言でない域で完成された至高の業物に手を加えた時点で幻想は破綻する。
  567.  ではどうするか?
  568.  簡単だ。
  569.  武器が強化できぬのなら、己を強化すれば良い。
  570.  
  571. 「強化開始————」
  572.  
  573.  英霊となり、人の身では及ばない身体能力を得たが故に久しく使われなくなった自身への強化魔術。
  574.  磨耗した記憶の中で、英霊になってから使用した記憶はない。
  575.  守護者として現界した時に相手取った存在は英霊には及ばない人間であり、当然ながら自前の能力で片がついた。物騒な近代兵器を揃えた敵がいても、世界のバックアップを受けた守護者に魔力切れの心配は要らず、大火力の宝具の投影で全て蹴散らした。ここでも、自身の強化など必要ではない。
  576.  そうなると疑問も浮かぶ。
  577.  完成された神秘たる英霊を更に強化可能なのか?
  578.  愚問だ。
  579.  それこそがエミヤシロウの戦いに他ならない。
  580.  彼の者に外敵は要らず。
  581.  彼が戦うのは常に自身のイメージだ。
  582.  イメージするのは、最強の自分。
  583.  英雄の象徴、貴き幻想とまで言われる宝具さえ、自身の都合に合わせて改変させられる自分が、己が身体ぐらい強化できずに何とする。
  584.  
  585.  身体は剣で出来ている————
  586.  
  587.  激しい衝撃が全身を襲った。
  588.  干将・莫耶の防御結界を抜いた衝撃が剣を握る手から腕を通じて身体を巡る。
  589.  強化された全身を持ってしても留めきれない凶悪な暴威がエミヤを身体ごと吹き飛ばそうとするが、彼は右足を一歩半、後ろへと退き腰を低く構えた。
  590.  石造りの床が抉れ捲れあがるが、それでも何とか踏み止まったエミヤだが、その顔色は良くない。
  591.  やはり、英霊を強化するという行為は無謀だったということか。
  592.  確かにエミヤの魔術は自身の強化に成功はしたが、完成された存在である英霊の存在に隙間を見つける事自体が無理な事であり、彼は強引に強化したい箇所に魔力を流し込んだのだ。
  593.  強引な手段で得られたその結果が魔力で編まれた身体を蝕んでいく。侵食自体は、今現在でエミヤ自身には特に悪影響はなかった。
  594.  問題があったのは、エミヤを許容する側の方だ。
  595.  本来在り得ない状態へと移行したエミヤを修正しようとする力が、彼の現界を妨害しようとする。
  596.  このままでは、10分とこの身を維持することは叶うまい。
  597.  そして、強化魔術を解いたとして待っているのは筋繊維の断裂、血管の破裂などの後遺症が予想できた。
  598.  だというのに、エミヤの鋼を思わせる硬質な表情にはうっすらと笑みがあった。
  599.  自身を省みない無茶でさえ、かつての理想を取り戻した自分には懐かしく、そして楽しく思えたのだ。
  600.  
  601. 「くそぉ! 何なんだ! テメェは!! 俺様のスーパーなパンチを受け止められる人間なんているわけねぇ!!」
  602.  
  603.  本気の一撃だったのだろう。
  604.  魔人最強のケイブリスが放った正拳突きを真っ向から止めたエミヤに憤りの言葉を浴びせる。
  605.  それに対して、エミヤは干将莫耶を持つ両腕をだらりと下げて蔑む。
  606.  
  607. 「お頭は相当に弱そうだと思ってはいたが、ここまで頭の回転が悪いとは想定外だった————人間に居ないのであれば、私は人間ではない、そういう事ではないのかね?」
  608.  
  609.  ゆっくりとした動作でケイブリスの脇に回りこむように、間合いを計りながら近づくエミヤに怒りの沸点を一気に下げたケイブリスが激しく猛る。
  610.  
  611. 「うぼぉおおおぉおぉぉ!! 人間のくせして、魔人であるケイブリス様を馬鹿にすんじゃねぇええぇえぇぇええ!!」
  612.  
  613.  ホーネットを降した強烈な尾の一撃が大気を抉りながらエミヤを強襲する。
  614.  だが今度は、エミヤも受けたりはせず、床に伏せるように姿勢を低くすることで躱すと、頭上を猛スピードで通過していく尾を尻目に一息でケイブリスへと肉薄する。
  615.  下段から跳ね上がるようにして振るわれた干将は、ケイブリスの鎧をつけていない剥き出しの腕を切り上げた。
  616.  強化された筋力はそれでも自身がマスターだった頃のセイバーにさえ届かないが、常人を数十人束ねたぐらいの膂力はある。それに速度を乗せた一撃は鋼であっても断ち切る豪撃に違いない。
  617.  
  618. 「むっ!?」
  619.  
  620.  しかしエミヤの手に伝わった感触は、皮膚を裂き肉に食い込み、骨を断つ手応えでなく、表面は硬く、その反面で滑らかな柔軟をもって弾かれたことによる違和感。
  621.  若干の戸惑いは眉だけで。動きに迷いはなく繰り出す攻撃は、莫耶による横薙ぎと振り下ろす干将による白と黒の十字を描く連撃。
  622.  目も覚めるような一撃だが、それさえも同じ感触によって遮られる。
  623.  
  624. 「ぐばぁはっはっは!! 馬鹿め! 魔人にそんな攻撃が効くわけねぇだろうが!!」
  625.  
  626.  そうなのだ。
  627.  いくら彼が凄くとも、同じ魔人ではない彼にケイブリスを打倒する事は叶わない。
  628.  ケイブリスの6本ある腕から、時折繰り出される尾の虚をつく攻撃を危なげなく捌き、躱し、防ぐ姿に一時我を忘れて見入ってしまったホーネットだったが、幾度となくケイブリスの身体に命中する彼の攻撃がやはり、何の痛痒も与えていない事実を確認するにいたり、自然と唇を噛み締めていた。
  629.  彼が魔剣なり聖刀を所持していれば、今頃は形成が逆転していてもおかしくない。
  630.  それほどまで、エミヤの剣はケイブリスの身体を打ち据えていた。
  631.  それなら————
  632.  この場で唯一ケイブリスを打倒できる可能性を持った自分がいつまでも寝ている訳にはいかない。
  633.  ほんの少しの時間ではあったが、身体が動くぐらいには回復できた。
  634.  何より、心を折られ掛けていた先程とは状況がまるで違っていることがホーネットを支える。
  635.  今の彼女は————
  636.  
  637.  私は、一人じゃない————
  638.  
  639.  幸いに今のケイブリスにホーネットは見えていなかった。
  640.  頭部の獣毛の先端にまで血を上らせた彼は、恐ろしく狭窄した視野しか持ちえていない。
  641.  身体のダメージ、疲労の具合はどれを見ても甚大で、ホーネットの肉体はとても戦闘可能域に達していない。魔力にしても総量の10%程度しか残されていないが、それでも気力は振り絞れた。
  642.  今の自分の最大出力でも白色破壊光線をケイブリスの頭部に当てる事が出切れば、運が良ければ倒せるかもしれない。
  643.  萎えていた闘志を金色の瞳に再び湛え、魔人のプリンセスは今一度立ち上がる。
  644.  
  645.  そんなホーネットを視界の端で捉えていたエミヤは誰にも気づかれないで舌打ちをした。
  646.  彼女が聡明な実力者であることは聞いてはいたが、所詮は箱入り娘だということか。
  647.  経験が圧倒的に不足している。その呆れるまでのハイスペックが叩き出す能力を有効活用できていない。
  648.  ケイブリスの視野が狭いということは先に述べた通りだが、ホーネットもまた視野が狭窄していた。
  649.  もっとも、その意味するところはケイブリスのそれとはベクトルが違ってはいたが。
  650.  
  651. (敵の隙を突いて攻撃を仕掛けようという余裕が出来たのなら、とっとと退散してくれれば良いものを……)
  652.  
  653.  エミヤの見解では、仮にこの場でケイブリスを倒せたとしても大して事態が好転するとは見ていない。
  654.  この地にはケイブリスの他にも多くの魔人が存在しており、その中にはまだ四天王の一人がいるらしい。
  655.  統率者を失ったことによる一時の混乱はあるだろう。拮抗した実力者揃いであるのなら後釜を狙っての牽制で敵の動きが鈍る可能性も考慮できるが、頭一つ抜きん出た存在があれば、組織のトップを打倒できる程の相手が、現在手負いでいる今の内に始末をつけようと提案する筈だ。仮に反目する相手を従えられないとしても、その時は自身で動けば済む話でもある。
  656.  その場合、文字通りに力を使い果たしたホーネットに逃げる道は残されてはいまい。
  657.  エミヤにしても限界は近く、サーヴァントクラスの魔人を複数相手取り、しかもホーネットを庇いながら戦うことはもはや叶うまい。
  658.  現状の最善は、ケイブリスを倒すことではなく、ホーネットが逃げ遂せることにあると彼女は気づいていないのである。
  659.  ホーネットの弱点、それは戦略面での見通しの甘さ、現状を正しく把握する戦術眼の脆弱さであった。
  660.  
  661. (かと言って、それを声に出して伝える訳にもいかないか)
  662.  
  663.  それこそ愚策中の愚策。
  664.  逃走させるにしろ、打倒させるにしろ、それを敵に教えるなんてどんな馬鹿がするというのか。
  665.  だから、エミヤに出来ることは愚作だと理解していても、それを支援するように行動を起こすしか道はない。
  666.  その場その場で最善を尽くしていけば、いずれ事態の方が好転する兆しを見せるかもしれないのだ。
  667.  とすれば、今重要な事は、彼女が攻撃を仕掛けるのにどれだけの溜めが必要になるのか、だが————
  668.  先程までの彼女の疲弊具合と辛うじて起き上がった姿を鑑みるに、武器を振るっての攻撃はありえまい。恐らくは何某かの魔術を行使するつもりだろう。
  669.  その場合での発動までに要する時間を稼ぐのがエミヤの仕事となる。
  670.  効かない、そう分かっていても前に踏み出す。
  671.  身長6メートルに近いケイブリスとのリーチの差は、相手が持つ6本の腕が持つアドバンテージもあって絶望的な間合いのようにさえ思える。
  672.  まるでセイバーとバーサーカーが手を取り合って自分の前に立ち塞がっているかのような圧迫感。
  673.  しかし、短いながらも収拾した戦闘情報を己が無数の戦闘経験から分析、癖を読み取り僅かの間隙を縫って着実に前進する。
  674.  一番リーチが長く、最大の威力を誇る最上段の二つの豪腕は、最も警戒せねばならない凶器だが、内に潜り込めればその脅威は激減する筈。
  675.  加えて、拳の大きさに比して腕の太さはアンバランス。その長さもあってハンマーの一撃と考えて差し障りはない。
  676.  ハンマーであれば、最大の威力は真上からの振り下ろしだ。左右への振りは体勢を崩しやすいし、慣性のついたそれは引き戻すにも時間が掛かる。突きにしたところで熟練の格闘家が放つそれとは速度が劣るのは自明だ。
  677.  ケイブリスは頭は悪いが戦闘のセンスは抜群である。それはこの短いやり取りの間で体験済みだった。
  678.  己が傷つかないという事実に驕りが見られるが、そこに感じられる才能はエミヤの及ぶところではない。
  679.  だが、そこに付け入る好機を作り出す。
  680.  ケイブリスの荒れ狂う拳が所構わず砕きまくった壁や天井の瓦礫、そして床のクレーター。
  681.  それら戦場を構築する材料に足を取られたエミヤの姿勢が傾き、彼をこれまで生存せしめていたスピードが殺される。
  682.  小生意気にも魔人相手に対等な戦いを挑む人間が初めて見せた大きな隙を、ケイブリスが逃すはずもなかった。
  683.  意図したわけではないが、この現状を築いたケイブリスは、流石俺様だ、と自画自賛で思いっきり拳を振り上げる。
  684.  今なら、この人間を確実にミンチに出来ると必殺の念を込めて高く翳した拳を振り下ろすのであった。
  685.  
  686.  その光景にホーネットは焦った。
  687.  ケイブリスを討てるほど魔力は込められていないが、それでも魔法を放ってあの攻撃を阻止するべきか?
  688.  しかし、今溜められた魔力では、ケイブリスに痛手を与えることはまず不可能だろう。
  689.  ならば、赤い外套の青年を救った後に、時を置かず素早く、そして強力な攻撃を繰り出す必要があるが————
  690.  残された魔力量を考えても、ケイブリスが我を取り戻す時間を計算しても、決定的にそれらが足りなくなる。
  691.  ケイブリスに自分の存在を思い出されてしまっては、元々脅威足りえないあの人間など無視して自分に襲い掛かってくることは目に見えている。
  692.  かと言って、彼をこのまま見殺しにしても結果は変わらないだろう。
  693.  ホーネットはお姫様だ。
  694.  大陸中を探しても彼女より強い存在が片手で数えられるぐらいの強者でも、実戦経験が致命的に少ない。
  695.  それは土壇場での判断に致命的な過ちを齎す。
  696.  戦場で間違った行動を取ってしまうのは避けたいところではあるが、仕方ないものでもある。状況的に見て、間違っていたと後に判断される結果が残ってしまったとしても、行動に移した時点ではそれが必ずしも責められるべき失態とは限らないからだ。結果オーライという言葉があるように、選択が間違いであっても状況が好転する場合もある。
  697.  だが、戦場でやってはならない事が間違いなく最低でも一つある。
  698.  それは、何もしないということ。
  699.  正確には、己が判断で何もしないのではなく、何も出来ない状態に己を置いてしまう事だ。
  700.  そして、それが今のホーネットの状況であった。
  701.  決断することが出来ず、ただ一瞬の時を無駄にする。
  702.  彼女がそんな体たらくだからこそ、それに引き摺られてくる結果でエミヤはその命を散らすことになる。
  703.  それは間違ってもホーネットが望んだ事ではないし、そうなる事を覚悟したわけでもない彼女は、その事実に打ちのめされるだろう。
  704.  そこに生じるのは致命的な隙————どのような行為であれ、次のアクションを起こすのが遅れればこの局面では詰みとなる。
  705.  
  706.  そう、それで幕引きになるはずだった。
  707.  ケイブリスの眼前を飛礫の弾幕が覆わなければ。
  708.  体勢を崩したように思われたエミヤは右手の莫耶で床の上に堆積した瓦礫を力任せに払い上げたのである。
  709.  如何に無害だと頭で理解していようと目に向かって何かが飛んでくれば、それを何とか防ごうと動くのが本能だ。
  710.  振り下ろそうとした拳は止められない。
  711.  残る短い4本の腕では庇えない。
  712.  よって、ケイブリスは思わず身を捻って、何の脅威にも成り得ない筈の石礫を咄嗟に躱そうとした。
  713.  その結果によって、床はこれまで以上の大きな衝撃に蜘蛛の巣状の皹を刻まれ次の瞬間には爆砕したが、その中心地に本来の目標だった男の姿はなく、そこに誘導された怪物の拳があるのみ。
  714.  つまりこの結果はエミヤの手によって導かれた筋書きに他ならなかったのだ。
  715.  そうなるように進められた展開である以上、先のホーネットの失態が引き起こす不利益など有り得るわけはなかった。
  716.  むしろ、彼女が行動を起こし、ケイブリスに向けて魔法を放っていた方が問題だったろう。
  717.  何故ならエミヤは床にめり込んだケイブリスの拳を蹴り障害が何も存在しない腕の上を渡ってその頭部へと肉薄したのだから。
  718.  
  719. 「な、なんだぁ!」
  720.  
  721.  体格の割りに小さな目を見開き、驚きに染まるケイブリスの顔。
  722.  その大きな顎を、初速から最速に至る紫電の如き踏み込みの勢いを乗せて振りぬいた干将・莫耶の二連撃で打ち上げる。エミヤの体重と亜音速に迫る突進が生んだ衝撃は、彼の体重の10倍以上の巨体すら揺るがせた。
  723.  そのまま宙へと躍り出たエミヤは、自分を追うように顔を天井に向けて大口を開けているケイブリスへその手にした双剣を投擲する。
  724.  いくらダメージにならないとは言えども、強烈な一撃はその小さな脳みそを揺するぐらいの効果はあり、意識が半ば飛んでしまった最強の魔人は自分の口に吸い込まれるように飛来した物をかわせなかった。
  725.  ただ、口内に触れた瞬間に条件反射で顎は閉じ、干将・莫耶はそのまま口の中に姿を消す。
  726.  
  727. 「壊れた幻想」
  728.  
  729.  呑まれた干将・莫耶が異物として吐き出されないように、その瞬間、素早くエミヤは呟く。
  730.  貴き幻想とも呼ばれる、偉大な功績を残した英雄の象徴たる宝具。それを態と破壊することで内包される文字通りに桁違いの魔力を一気に解放し爆発、炎上させるという投影宝具を扱う英霊エミヤならではの荒技がシルキィの城を揺るがす。
  731.  轟く爆音は凄まじく、その破壊の衝撃も相当なはずだが、ケイブリスの閉じられた口によって外部には一切の影響が出なかった。
  732.  普通なら、頭部はおろか全身が爆砕していても何ら不思議ではない状況であるのにも関わらず、魔人という非常識を体現するように、爆発の衝撃を受けて、一度は閉じられた口が開き、少しばかりの焔と煙を漫画的えづらで面白く吐き出しただけで終る。
  733.  だが、それでも先の顎への一撃など子供の駄々っ子パンチと大差はないというぐらいの衝撃がケイブリスを捉えたはずであった。
  734.  事実、あの怪獣を思わせる体躯がグラグラと揺れて今にも崩れ落ちそうになっている。
  735.  
  736. 「今だ! やれっ!!」
  737.  
  738.  これこそがエミヤが狙った最大の隙。
  739.  魔人を倒せない彼が、ホーネットへと手向けた勝利への足掛かりである。
  740.  そこへ彼女が用意していた渾身の一発を放って仕留めてくれれば一先ず任務達成となる。
  741.  あとは、敵の増援が来る前にホーネットを連れて城を脱出すれば、晴れてミッションコンプリートだ。
  742.  だが、そこまでの道程には未だ越えねばならない険しい峠があったようである。
  743.  
  744. 「戯け!! 何を呆けているっ!! 意識が戻るぞ!!」
  745.  
  746.  エミヤの激しい叱咤がホーネットの耳朶を打つ。
  747.  やはりホーネットはお嬢様だった。
  748.  ここでも彼女は想定外の出来事に我を失って絶好のタイミングを失してしまったのだ。
  749.  それはエミヤの誤算でもあった。彼女が戦闘者としては未熟であった事を理解しておきながら、エミヤは自分の理屈で戦い、相手の意表を突いた。それが期せずしてホーネットの意表も突いてしまったのだ。それを踏まえれば、ホーネットだけを責めるのは酷だったかもしれない。
  750.  
  751. 「っ……白色破壊光線っ!!」
  752.  
  753.  怒鳴られたホーネットが咄嗟に両腕を顔の前に翳し、力の限りに魔法を放つ。
  754.  直径一メートルにはなる眩い球体が生み出され、そこに更なる魔力が注ぎ込まれ瞬く間に臨界へと達した。
  755.  球体は、闇さえ純白に染め上げる光の束となって目標であるケイブリスへと解き放たれる。
  756.  エミヤの目から見てもAランクに達するその魔法の威力は、これならば、と思わせるに充分な一発だった。
  757.  けれど————
  758.  勝機はやはり既に逸していたのだ。
  759.  
  760. 「なっ!?」
  761.  
  762.  それは不幸な出来事だった。
  763.  戦闘経験が不足してはいてもホーネットは紛れもない強者。自身の現状を顧みて、ケイブリスを倒すには急所を、それも最も防御に乏しい箇所、即ち頭を狙うしかないことを理解していた。
  764.  ただ、エミヤに叱られ、怒られなれていないホーネットは焦りのあまり、現状把握を怠ってしまったのだ。
  765.  即ち、ケイブリスの状態を観察しきれていなかった。
  766.  エミヤの常識ハズレな技の威力が大きかったというのはあるだろうが、何をおいても問題になったのは最強の魔人が思いのほか打たれ弱かったことにあった。
  767.  まさか、あのケイブリスがダメージにならない攻撃で膝を着くなど、ホーネットにしてみれば信じられない出来事だった。それはケイブリスが圧倒的な強者であったが故に不慣れなモノだったというだけの話だが————
  768.  それが結果として、ホーネットの起死回生の白色破壊光線を意識せず回避した事になった。
  769.  名前どおりの破壊を齎す白色光は、天井を貫き、その先の城壁も消し飛ばし厚い雲に覆われた空へと消えていった。
  770.  身体の疲労に加え、本当に魔力の絞り粕まで使い果たし、その上、全ての望みが断たれた事を意味する結果に辛うじて繋ぎ止めた気力さえ抜け落ち、ホーネットは再び床へと膝を着く。
  771.  更に間の悪い事に、エミヤが見越した通りにケイブリスの眼窩に黒目が戻る。
  772.  瞬き数回の時間、宙を彷徨った視線がギョロリという擬音が聞こえてきそうな程の勢いと怨念が込められてホーネットに向いた。
  773.  エミヤはケイブリスの背後に立ち死角に居た為、敵を探したケイブリスは先にホーネットの姿を視界に捉えたのである。
  774.  何が起きたか理解できていないケイブリス。だが、自身が不覚を取ったことは本能が察していた。
  775.  その屈辱は烈火の怒りとなり、その全てを破壊尽くす衝動の捌け口はもはや誰でも構わなかった。
  776.  
  777. 「しまった————!」
  778.  
  779.  事実に敏感に反応したエミヤが床を蹴る。
  780.  残像を後に疾駆した赤い弾丸は、それでもオーバースウィングで振り被ったケイブリスの拳がホーネットに向けて突き出される速度に並ぶのが精一杯だ。
  781.  ホーネットの側まで走り、彼女を抱えてその場を瞬時に離脱する。
  782.  そんなランサーあたりにしか出来そうにない芸当は奇跡に他ならない。
  783.  ならば、エミヤに出来ることは限られる。
  784.  この身は消滅間際に彼女を救う為にだけ連れ出された剣であり、盾。
  785.  彼女にまで届かなくとも、その前で立ち塞がることぐらいはやってみせよう————
  786.  
  787. 「ぐっ、うっ!」
  788.  
  789.  走破するべき軌道を修正し、ケイブリスの拳の射線上に割り込みをかける。
  790.  自ら大砲の弾に咄嗟に当たりに行くような自殺行為だから、覚悟はあっても準備は万全ではない。
  791.  衝撃は左腕から来た。
  792.  骨は砕かれ、鋭利な凶器と化した破片は筋肉や神経を断裂させる。
  793.  次いで、胴体を襲う衝撃にエミヤの身体は弾け飛ぶ。
  794.  空気を裂いて飛ぶ肉体は、自身が砲弾になったかのよう。
  795.  激突した壁は砕け、大穴を穿つ。その衝撃の大きさは周囲の壁面や天井に無数の細かな傷跡を刻む。
  796.  パラパラと天井から降リ注ぐ埃は飛礫に、やがては拳大から赤子の頭部ほどもある瓦礫になって床に積み上がっていく。
  797.  エミヤが姿を現す前に、同じようにケイブリスの一撃を受けて壁に叩き付けられたホーネットが築いた惨状は、これ程の崩壊を招かなかった分、加減されていたのだろう。
  798.  それが今の攻撃にはまるでなく、向けられた相手は本来ならホーネットであったことを考えればケイブリスの血の上りっぷりが如何ほどか覗えるというものだった。
  799.  
  800. 「っ————だ、大丈夫ですか!?」
  801.  
  802.  ホーネットは穴の開いた壁の向こうに声を慌てて投げかけた。
  803.  明らかに自分が被る筈だった攻撃を受けて犠牲になった赤い外套の青年を気遣う。
  804.  かなり頑丈に造られたシルキィの城の壁を破壊する一撃を諸に喰らったのだから、人間ならまず間違いなく即死。
  805.  名前すら知らない相手だが、絶望の深い闇を押し込めた穴の底に放り込まれた自分に、か細いながらも未来を示す光を齎してくれた人である。
  806.  正体も真意も分からないが、自分を救いに来たと言っていた彼が、不甲斐ない自分の所為でその命を散らしてしまったかもしれない。
  807.  背筋に氷の柱を挿入されたような嫌な予感がホーネットの全身へと血液の流れに沿って広がり、同時に申し訳なさと激しい後悔が彼女の思考の大部分を占拠した。
  808.  駆け寄りたい衝動に力が入らない両足を叱咤するが、意思に反して身体はどうやっても動いてくれない。辛うじて、首を部屋に開いた大穴に向けて声を掛けるのが今のホーネットの精一杯だった。
  809.  
  810. 「やれやれ、こちらの攻撃は効かず、あちらの攻撃はしっかりとダメージになるとは————何という理不尽な能力だ」
  811.  
  812.  隣りの部屋の反対側の壁にまで叩きつけられていたエミヤが左腕をダラリと垂らしたまま今し方開いた大穴から姿を現した。
  813.  室内に舞った埃に視界が不明瞭だったが、あの左腕は間違いなく折れている。いや、ただ折れているだけなら、むしろ僥倖かもしれない程の重傷だと理解させられた。
  814.  それに全身が既にボロボロだということも。
  815.  ケイブリスの攻撃には、腕を一本犠牲にして直撃を避けたし、全身を捻ってどうにか致命となる打点は外したので、深刻なダメージには至っていなかった。基本が霊体のサーヴァントである。壁に叩きつけられた衝撃はダメージにはなっていないのだ。
  816.  エミヤの現状は、むしろ、無茶な強化魔術を施していた影響の方が酷いのだが、ホーネットは流石にそこまでは分からない。
  817.  だが、彼が満身創痍である事実に変わりはない。
  818.  そんな身体だというのにエミヤはホーネットの前に立つ。さながら姫を護る騎士のように。
  819.  不退転の意思を鷹の目に宿して、怒りに猛り狂う怪物を睨みつける。
  820.  
  821. 「ゆるさねぇ! 絶対に許さねぇー!! ホーネットも一緒に、八つ裂きにしてモンスター共のエサに、いや————糞塗れの便所にまとめて捨ててやらぁ!!」
  822.  
  823.  もうもうと煙る粉塵を一瞬でも早く晴らし、憎き敵をぶち殺そうと、その巨大な手と尾を使って風を繰るケイブリス。
  824.  彼の怒声に塗れた宣告は、最高裁の死刑判決に等しい。
  825.  自分達の実情を鑑みて、ホーネットは先よりも絶望の度合いが高まっていると理解する。
  826.  
  827. 「……あなただけでも逃げてください」
  828.  
  829.  虫が飛ぶような掠れた声でホーネットが囁く。
  830.  自分と何の関わりもないこの男性が一緒に死ぬ事はない、そう思って言葉を繋ぐ。
  831.  
  832. 「私は身動きも困難ですが、あなただけならまだ逃げるぐらいの余裕はあるでしょう?」
  833.  
  834.  だが、ホーネットの気遣いは根本からして間違っていた。
  835.  エミヤは第五次聖杯戦争にアーチャーのクラスとして招かれたサーヴァントである。
  836.  それも役目を果たし、あとは座に還って消滅するだけの存在だ。
  837.  そんな彼が、この場に現れたのはホーネットを救い出して欲しいという32体のモンスターを名乗る娘達の願いを聞き届けたからに過ぎない。
  838.  過去の自分である衛宮士郎と戦い答えを得たが、そのまま消えてしまえば、それさえも無為に帰すという状況にあって突然降って湧いた奇跡。
  839.  
  840. 「私達、正義の味方を探しに来たんです!」
  841.  
  842.  バニラとまじしゃんのあの言葉が脳裏にリフレインする。
  843.  最後の最後で、よもや正義の味方を名乗れる機会を得ようとは。
  844.  借り物の理想、歪な存在と揶揄していたが、自身を省みず他人を救うのは、もはやエミヤシロウの性だ。
  845.  まして、放って置いてもこの身は間もなく消え去る運命にある。
  846.  こうしてこの世界に現界していられるのも、世界との楔になるマスターが不在でも数日は現界できるというアーチャーのクラス特有である単独行動のスキルの恩恵であり、聖杯戦争で使われきれなかった魔力である。
  847.  だがどちらも既に残滓程度のものでしかない。
  848.  単独行動のスキルで残されたエミヤの時間は元々が1,2時間程度であったし、身体を構築する魔力も最後に契約していたキャスターからの供給が断たれた上で衛宮士郎と戦い、英雄王ギルガメッシュの攻撃を全身に受け、更に遠坂凛と衛宮士郎を救う為に使った投影で、現界時に聖杯から与えられた余剰分の魔力までも尽きていた。
  849.  残っているのは、一番最初の召喚で提供された遠坂凛の魔力分ぐらいである。
  850.  この世界の馬鹿げた量のマナを使って自己生成も出来るが、元より現界しているだけでも消費される魔力に供給が追いつかないのだから大して意味はない。彼が存分にその力を振るうのであればマスターからの魔力供給で肉体を維持し、更に自身の魔術回路で魔力を生成する体制が望ましいのだ。
  851.  その様な身の上であるから、エミヤは言う。
  852.  
  853. 「勘違いするな。この身は正義の味方————人を、それも願われた者すら救えずして、そもそも成り立ちはしない」
  854.  
  855.  存在の否定。
  856.  それは死という現実よりも残酷な末路。
  857.  残された魔力は、己を許す事を望み、この身が報われる事を切に願った少女の心の一滴。
  858.  では、エミヤシロウがこの場で成す事は決まっている。
  859.  英霊と成った事で出会う事さえ本来許されない者まで救える現実。
  860.  九を救う為に一を斬り捨てる必要がない状況。
  861.  加えて、正義の味方が救えるのは味方をした者だけという絶対の真理でさえ、そもそも相手が人類の敵で残忍な怪物だ、これを始末するのに痛痒を覚えるほど聖人ではない。守護者の仕事のように人類に害になる人間を掃除するのとは話が大きく違う。
  862.  およそ考えられる限り、この状況は「正義の味方」を貫くに理想的な場面と言えよう。
  863.  ああ、それと圧倒的な力を誇る変身ヒーローの代名詞的存在は、タイムリミット付きがお約束だったかな、と自身の残された時間の少なさにも思わず笑みが零れる。
  864.  だが、それもほんの一瞬で形を潜め厳しい顔つきになる。
  865.  自身を省みず人を救う姿を貴いものだと信じる事ができる。
  866.  それは間違いではないだろう。
  867.  だが、同時に間違ってもいると否が応でも理解してしまっていた。
  868.  ただし、事実を見誤ってはいけない。
  869.  この場合、エミヤがその身を捧げてホーネットを救う行いには一片の過ちもないのだ。
  870.  
  871. 「誰が生き残ることが正しいか、その理由を履き違えるな」
  872.  
  873.  力強く言い聞かせるエミヤ。この場で真に生き残るべき者が誰なのか、それを間違えるなと。
  874.  何時の間にか、彼の両手に白黒の双剣が握られていた。
  875.  左腕は使い物にならないはずだというのに、その闘志は淀む事無く研ぎ澄まされている。例え折れていようと動かせない訳ではないと物語っているようだ。
  876.  その背中を仰ぎ見て魔人のプリンセスは想いを馳せる。
  877.  何故、この人は顔も知らなかった自分などの為にここまで戦えるのか?
  878.  何故、この状況下にあってなお、戦意が折れないのか?
  879.  何故、ここまで親身になってくれているのか?
  880.  何故、この人は————
  881.  
  882. 「君が助かる事で救える者がどれだけいるのか想像してみるといい。それは見知らぬ誰かかもしれないが、大切な友という可能性もある。助けられた者と将来掛け替えの無い仲になる夢だってあるかもしれない。
  883.                                  可能性 
  884.  いいか————君が生きるという事は、そういった 全 て を救う道を築けるということだ」
  885.  
  886.  私にまで力を与えてくれるのか————
  887.  ホーネットは気づいていなかった。
  888.  父である前魔王ガイの遺言という理由だけで戦っていた自分の過ちに。
  889.  そんな中身の無い空っぽの信念に宿る意志にどれだけの力を生み出せるというのか。
  890.  今、そんな前魔王の呪いに縛られ操り人形だった哀れな娘に、たった一本だが確かな支柱が築かれた。
  891.  
  892. 「漸く出来た会話が説教とは、甚だ遺憾なことだが————どうやら効果はあったらしい」
  893.  
  894.  粉塵が晴れる刹那、ホーネットに振り向いた表情には皮肉な笑みがあった。
  895.  ここまで来て、やっと彼女は自分が生き残るという道を見つめることが出来たと感じたが故に。
  896.  まったく、もう少し早く決断してくれたなら、楽に逃げ遂せられたというのにだ。
  897.  エミヤは思う。
  898.  ホーネットという娘の話を聞いた時に懐いた違和感について。
  899.  それは当たり前というほどではないが、世界には幾つでも転がっているごくありふれた話だった。
  900.  それに違和感を覚える事が出来たのは、エミヤがホーネット自身と通じる部分があったからだろう。
  901.  直感————とでも呼ぶべきか、かつての空っぽだった自分を満たした養父の呪いじみた理想、それと同種の物を感じたのだ。
  902.  それが悪いとは、答えを得た今の自分では断言できない。借り物であろうとそれを貫けるのであればそれは確かな輝きを放つ。
  903.  その眩さ故に、自身は敗れたのだから。
  904.  だが、その結末はこの時だけの気の迷い。座に戻ってしまえば忘れ去り、未来永劫それを呪い続けるだけだ。
  905.  だから、ホーネットという娘に自身と同じ過ちを犯させることが憚られた。
  906.  自己を持たない願いになど何の意味もない。
  907.  むしろ害悪となる。
  908.  誰にも理解されず、周囲を遠ざけ、忌避され、裏切られ、最後には信じた理想にさえ裏切られるに違いない。
  909.  そして己を苛み続ける呪詛に磨耗し歪な存在に成り果てるのみ。
  910.  だが、どうやら本当に最悪な事態だけは回避できたようだとエミヤは鉄の表情の下で笑みを浮かべた。
  911.  
  912. 「さて————最後の仕事に取り掛かるとしよう」
  913.  
  914.  ケイブリスの口内に消えた筈の白黒の双剣を交差させ、死出の旅路へと踏み出す男にホーネットは眩しいものを見る眼差しを送る。
  915.  もう彼を止める言葉はなかった。
  916.  自分に出来ること、いや————為すべき事は、何としてもここから生きて脱出することだけである。
  917.  その為に出来ること————まずは自身の身体がどれだけ動かせるか、それを確認していく。
  918.  冷静になってみれば、完全に底を尽いたと思っていた魔力にまだ少しの余裕があった。ヒーリング一回分程度の雀の涙でしかないが、それで僅かながらでも体力を回復できれば身体を動かすぐらいは可能になる。
  919.  呪文を唱えるタイミングを見計らい————
  920.  同じく、粉塵が治まる瞬間を見計らっていたエミヤが駆け出したのを機にヒーリングを唱える。
  921.  ケイブリスはエミヤの気配に気を取られてホーネットが呪文を唱えたことに気づかない。
  922.  
  923. 「無駄だぁ!! テメェら人間が何したって、俺様にはささくれ程度の傷さえつきやしねぇ!!」
  924.  
  925.  死に体のはずの身体の何処からそれだけの力が繰り出されているのか疑問に思えるぐらいの斬撃がエミヤから放たれ、ケイブリスを打つ。
  926.  だが、彼の言うとおり、やはり魔人の無敵のボディには毛筋ほどの傷もつかない。
  927.  故に、エミヤがやっている事は、ホーネットが逃亡するまでの時間稼ぎにすぎない。
  928.  先程までと寸分違わない展開を目にして静かに花の蕾の様な可憐な唇を噛み締めるホーネット。
  929.  彼は最初から自分を逃がす為だけに無謀な特攻を繰り返していたのだと分かってしまったから。
  930.  そして、その想いを、せっかく掴んでくれた好機を自分が不甲斐ないせいで無駄にしてしまっていた。
  931.  
  932. 「ブンブン、ブンブン、ちょこまかしやがって! いい加減、ウゼェぞ、雑魚がぁぁっ!!」
  933.  
  934.  それこそ自分の周囲をハエのように跳び回るエミヤを鬱陶しく感じ始めたケイブリスが、これまでの驕りを捨てて腰の大剣を抜き放った。
  935.  破壊力は言うに及ばず、剣戦闘LV2を持つ彼がそれを使うという事は、必殺技を行使できるようになったという事である。
  936.  その事実を大剣に蓄積された年月と経験から一目で読み取ったエミヤは舌打ちした。
  937.  「俺様アタック」技の名こそアレだが、威力は相当なものだ。宝具の真名解放には遠く及ばないが、個人の技としての威力なら破格だろう。
  938.  現状でまともに受ければ肉片すら残らないかもしれない。
  939.  しかもあの巨体から振るわれる渾身の一撃は被弾場所を考えなければホーネットも巻き込むのが明白だった。
  940.  仮に必殺技を使われずとも、あの質量から繰り出される攻撃はどれも致命傷になると容易に推察できる。
  941.  
  942. 「ぶっ殺す!!」
  943.  
  944.  エミヤにとって広すぎる間合いで荒れ狂う暴威。
  945.  今まで乱雑に振るわれていた拳とは比べ物にならない錬度で迫る斬撃に流石のエミヤも舌を巻く。
  946.  長物を獲物とする戦士の共通の弱点である懐に飛び込もうとするも、大剣を持たない4本の腕がそれを阻止してくる。
  947.  力で押し退けるにしろ、速さで翻弄するにしろ、あと一手が及ばない。
  948.  強化魔術を用いれば或いは————だが、今のエミヤにとってそれはいつ爆発するか分からない時限爆弾である。
  949.  最悪、スイッチが入った瞬間にカウンターがゼロを指すかもしれなかった。
  950.  よって、これまで以上に我が身を削る思いで攻撃を躱すしかない。
  951.  もはや受けも止めも叶わないのだ。
  952.  1%の勝利を掴み取る為の戦闘論理も避けるしか選択する行動がないのでは、構築のしようもない。
  953.  現状、絶体絶命————
  954.  やれる事と言えば、必殺技を放つ際の溜めを作らせないように立ち回る、その一点に尽きた。
  955.  今にも、捻り殺せそうな隙を見せることで、ケイブリスの剣を止めさせ、手を出させる。
  956.  絶対に胴体を真っ二つに出来ると確信させて剣を振るわせ、それを紙一重で回避する。
  957.  必殺技を出すまでも無いと思わせる動きで、本気を出そうか迷うケイブリスを戸惑わせていたエミヤだが、その絶妙な均衡が遂に破れる時が来た————
  958.  
  959. 「辛うじて勝ちを拾えたか————」
  960.  
  961.  旋風のような鋭さと台風のような猛威を併せ持った横薙ぎの一閃が掠り、ボディーアーマーのみならず、胸板まで浅く抉られながら衝撃で瓦礫の山に突っ込んだエミヤが外套の汚れを払って呟く。
  962.  
  963. 「ああ? 何言って……」
  964.  
  965.  やがる? そう続くはずだったケイブリスの声は、目の前の人間が出現した時のように突然、彼の視界に入った者を見て止められた。
  966.  夕焼け色の髪をもった女戦士がホーネットの前で黒い円形の盾を構えていた。
  967.  
  968. 「すまない、遅くなった」
  969.  
  970. 「いや、間に合ったのだから、その責めを問うつもりはないさ」
  971.  
  972.  満身創痍の男を見て謝罪の言葉を告げる女戦士、バルキリーにエミヤは気にするなと言う。
  973.  どういう事かと困惑げにエミヤとバルキリーの間で視線を彷徨わせるホーネット。
  974.  新たに出現した敵に対して胡乱な目を向けるケイブリス。
  975.  
  976. 「あなたは、バルキリー? 他の皆と一緒に脱出したのではないのですか?」
  977.  
  978. 「ホーネット様、わたし達”らいおんはーと”の勇士に主人と定めたお方を見捨てるような不義理な者など一人もおりません」
  979.  
  980.  凛とした声できっぱりと告げるバルキリーに驚きの目を向けるホーネット。
  981.  その言が確かなら、彼女らは全員この地に留まっているということになる。
  982.  
  983. 「ケッ! 何かと思えば、只の女の子モンスターじゃねーかよ。んな雑魚どもが何匹やってこようが俺様の敵じゃねぇ!!」
  984.  
  985.  敵の増援が魔人でもないモンスターだと分かって侮蔑を顕にするケイブリス。
  986.  先のエミヤの発言を単なる負け惜しみだと解釈して大笑いする。
  987.  
  988. 「何を勘違いしている獣。私の勝利条件はホーネットをこの場から逃がすことにあるのだよ」
  989.  
  990.  対するエミヤもケイブリスに蔑みの眼差しで応酬する。
  991.  いい加減、自分だけの尺度で物事を測るな、もっと無い脳みそを有効活用しないと痴呆にかかると挑発した。
  992.  
  993. 「バカにすんじゃねぇーっ!! んな条件なんざ知るか! そのバルキリーごと、みんなぶっ潰して、俺様が完全完璧、無欠に勝利するからなぁぁ!!」
  994.  
  995.  吼えるケイブリスに、エミヤは自然体で構える。ついさっきまで感じていた焦りのような気配が霧散しており当初の余裕まで窺えた。
  996.  だが、彼ほどに余裕の無い者が二人。
  997.  ホーネットと彼女を救出に来たバルキリーだ。
  998.  ホーネットは、自分自身とエミヤの状態とケイブリスの強さを知るが故に。
  999.  バルキリーはここまで来るまでに得ている情報があるが故に。
  1000.  
  1001. 「悪いがエミヤ、そう簡単に勝利は得られそうにない。もう間もなく他の魔人達もここにやってくるはずだ」
  1002.  
  1003.  その情報に顔色が蒼白になるホーネット。
  1004.  
  1005. 「ああ、それなら理解している。君がここに来れたのもそのおかげだろう?」
  1006.  
  1007.  まさかそう返されるとは思っていなかったバルキリーも目を丸くする。
  1008.  確かにそうなのだ。
  1009.  魔人が率いている軍勢を出し抜いて、このホールまで来ることは難しい。
  1010.  だから、魔人が部隊を離れた隙をつき、彼らがケイブリスに合流するより早く救出に赴いたのだ。その為に「らいおんはーと」最速のバルキリーが全速で駆けつけたのである。
  1011.  ただ、ここから脱出となると難易度は格段と上がる。
  1012.  逃げようとすれば当然、ケイブリスはそれを阻止しようとするだろうし、時間を取られれば、他の魔人もやってくる。
  1013.  かといって、
  1014.  
  1015. 「この怪物をいなしながらの撤退では目印を残しながら逃げているようなものだ」
  1016.  
  1017.  つまり、誰かがケイブリスを足止めしている間に逃げるしかないという結論に達するわけだが。
  1018.  
  1019. 「愚問だろう」
  1020.  
  1021.  エミヤの言う通りだ。
  1022.  ホーネットは逃がさないとならない。仲間達と逃走ルートを確保して来たのはバルキリー。
  1023.  
  1024. 「足止め、頼んでいいか?」
  1025.  
  1026.  最初からそのつもりだった。
  1027.  だが、今の満身創痍のエミヤを見て、頼んで良いものか躊躇った。
  1028.  それは彼を気遣っただけではない。
  1029.  異世界からやって来たエミヤが本来の力を揮えないと言う事情は聞いていたから、悪いとは思いながら、それでも最善の策だと無理矢理納得させた時点で私心は押し退けた。
  1030.  だから問題は————今の彼がしっかりとその役目を果たせるのかという疑念にある。
  1031.  
  1032. 「ああ、任せてくれたまえ。これでも撤退戦は得意なほうだ」
  1033.  
  1034.  生前はあらゆる戦場で敗北を知らない身だったのでね、と不敵に笑むエミヤに「?」とホーネット。
  1035.  バルキリーも彼の事を詳しく聞いてはいないので、その言葉の意味を解することは叶わなかった。
  1036.  ただ、もう話をする余裕がないのは、他の魔人達のこともあるが、何よりケイブリスの苛立ちを見れば明らか。
  1037.  
  1038. 「では————」
  1039.  
  1040.  失礼します、とバルキリーはホーネットを抱える。
  1041.  そして、去り際にエミヤの背中へと顔を向け————
  1042.  
  1043. 「ところで、一つ確認していいかな」
  1044.  
  1045.  エミヤの言葉に一端足を止めた。
  1046.  
  1047. 「なんだ?」
  1048.  
  1049.  この期に及んでの確認だ。よほど大事なことなのか。
  1050.  ホーネットとバルキリーの二人が真剣な顔で聞く。
  1051.  
  1052. 「ああ。時間を稼ぐのはいいが———  別に、アレを倒してしまっても構わんのだろう?」
  1053.  
  1054.  本当にこの期に及んでのこの発言だ。
  1055.  悲壮めいた覚悟でいた二人の緊張が心持ち緩んだ。
  1056.  しかしそれは、悪い意味のものではなく、気負ったものが落とされて程よく精神に余裕が出来た。
  1057.  
  1058. 「———ああ、遠慮はいらない。がつんと痛い目にあわせてやれ」
  1059.  
  1060. 「そうか。ならば、期待に応えるとしよう」
  1061.  
  1062.  エミヤが前に進む。
  1063.  ケイブリスとの距離はわずか10メートル。
  1064.  そのシチュエーションにエミヤは思わず笑ってしまう。
  1065.  確か、あの時も今の様な状況だったな、と。
  1066.  その笑いが気に触ったらしく、ケイブリスが大剣を力任せに振り被り天井を打ち壊して吼える。
  1067.  対してエミヤは無手。
  1068.  先の一撃で吹き飛ばされた際に武器を落としたのだろうか。
  1069.  それが気になったが、バルキリーは戦場たるホールを疾風の速度で走りぬける。
  1070.  ケイブリスは余程頭が悪いらしく、エミヤの挑発にまたもやあっさりと嵌り、二人の事はすっかり思考の範疇から抜け落ちてしまっているようだ。
  1071.  これもエミヤが自分達が逃げやすいように計らってくれた戦術の一つということだろう。
  1072.  それなら、この期待に応えなければ、彼に次に会わす顔がなくなってしまう。その思いはホーネットにもバルキリーにも共通するものであった。
  1073.  
  1074.  
  1075.  
  1076.  シルキィの城の通路を疾走するバルキリーは、まるで目印のように倒れているモンスターには脇目もくれずに出口を目指す。
  1077.  彼女がここに来た時には既に多くのケイブリス軍のモンスターが城のあちこちで好き勝手に振舞っていた。
  1078.  そんな雑魚を最小限の労力で打破してきた、その結果だ。
  1079.  
  1080. 「バルキリー……彼は、エミヤと言う者は一体何者なのですか?」
  1081.  
  1082.  バルキリーの腕の中で魔人としての自尊心を捨てて大人しくしていたホーネットが堪えきれずに訊いた。
  1083.  彼女の頭の中でぐるぐると回り続けていたその疑問は、未だ安全圏にいるとは言えない現状であってもホーネットの口からついて出た。
  1084.  その名前にしても、つい今し方、バルキリーがそう呼んでいたから知っただけだ。
  1085.  
  1086. 「詳しい事は、わたしも……ただ、彼を連れて来たバニラの話では異世界の正義の味方だとか」
  1087.  
  1088. 「異世界の……正義の味方……あの時の言葉は冗談でも挑発でもなかったのですか……」
  1089.  
  1090.  いきなり現れて、そう名乗った男の背中にホーネットが何かを思う。
  1091.  父である魔王ガイとは違う男の背中を意識したのは初めてだった。
  1092.  異世界人というのであれば、彼女の知る者としては三人目だが、彼は、先の二人とは何もかもが違うように思えた。
  1093.  その身体能力も纏った雰囲気も、その心も、在り方までも。
  1094.  父の背は偉大で大きく広かった。
  1095.  それに並べるように研鑽を積み、魔王を継承するに相応しい力を得るまでになったとも、自惚れではなく正しく思う。
  1096.  つまり、自分はあと少し頑張って手を伸ばせば父の背中に届いたのだ。
  1097.  けれど彼の、エミヤの背中は父のそれと違った。
  1098.  胸に去来した感覚は、途方も無い距離感。
  1099.  実力なら父の足下にも及ばないだろうに、どれだけ手を伸ばしても、我武者羅に走ってみても、一向に縮まる気配を見せない果てしなく遠い背中。
  1100.  まるで————
  1101.  自分の理想の果てを夢に見ているかのよう————
  1102.  それを自覚してしまうと無性に彼の事が知りたくなった。
  1103.  
  1104. 「もう一度、会えるでしょうか?」
  1105.  
  1106.  それが絶望的な望みであると理解してしまっている。
  1107.  だからバルキリーも答えない。否、答えられない。
  1108.  まだ、彼に礼すら言っていないのだ、ホーネットもバルキリーも。
  1109.  故に望む。
  1110.  彼との再会を。
  1111.  あり得ない奇跡を、今一度。
  1112.  
  1113.  高速で後ろへと流れていく景色。
  1114.  何時の間にか城は抜け、私達を包囲していたケイブリス軍の一画、鋼と魔法が奏でる激しい戦闘の音楽が踊る戦場へと移っていた。
  1115.  バニラの武器である冷凍黒マグロが魔物を数体まとめてぶっ飛ばし、スケッチの落書き獣が群れで襲い掛かって齧りまくる。
  1116.  雷太鼓の威勢のいい掛け声に閃光が迸り、轟雷を撒き散らして黒こげの山を築きあげ、バトルノートの扇が胡蝶の様に優雅にそして激しく乱舞する。
  1117.  サワーの黒色破壊光線で薙ぎ払われた戦場のウィニングロードを駆けるバルキリーは、ホーネットを抱えたまま魔物将軍を文字通りに一蹴して絶息せしめる。
  1118.  これにて魔人も居らず、軍を纏める将軍も欠き、数万というモンスターの軍団は混乱した。
  1119.  各々で勝手な行動を取る寄せ集めのモンスター部隊は、やがて同士討ちを起こす。
  1120.  誰が敵か味方か分からなくなった混沌とした戦場を「らいおんはーと」の少数精鋭は悠々と潜り抜けて行く。
  1121.  これがたった32体のモンスターによって引き起こされた惨劇だったとは散々掻き回されたケイブリス軍のモンスター達は知る由もなかった。
  1122.  
  1123.  
  1124.  
  1125.  
  1126.  バーサーカーの斧剣さえ子供が遊ぶ玩具のチャンバラ刀だな、と。
  1127.  自身の頭上に振り下ろされる大剣、いや、もう巨剣と呼ぼうか————を慌てることなく、冷静に見続ける。
  1128.  未だその両の手は無手。
  1129.  最も慣れ親しんだ白と黒の夫婦剣はない。
  1130.  この豪撃を迎え撃つ事の出来る武装等限られて来るだろう。
  1131.  ”熾天覆う七つの円環”己が持ちうる最高の盾なら問題なく止められる。この魔人の頼りにする「俺様アタック」とやらも軽く防げるだろう。
  1132.  だが、もう魔力に余裕はない。元から使えるだけの魔力は残っていなかったのだ、今更でもある。
  1133.  それに投影できてあと一回。これが本当の最後になるだろう。
  1134.  盾を投影してはその後に戦えないではないか。
  1135.  ならば————
  1136.  両手を逆袈裟に構えて、敵を睨みつける。
  1137.  それはまるで”風王結界”を構える彼女と似た姿。
  1138.  目に見えない剣がそこにあるかのように構えた両腕を振り上げる。
  1139.  
  1140.  
  1141.  目の端に捉えた奇妙な光景をケイブリスは男が恐怖の余りに気が触れたと嗤った。
  1142.  このムシケラは、自分が武器を持っていない事も忘れて俺様の剣を受けようとしていやがる、と。
  1143.  散々、人を馬鹿だ能無しだと貶してくれたが、コイツこそ本当の大馬鹿だったと。
  1144.  だから、彼には理解できなかった。
  1145.  何故、自分の剣が弾かれたのかなど。
  1146.  
  1147.  
  1148.  この瞬間に相応しい剣を用意しよう————
  1149.  目的の為ならばと”彼女”さえ手にかけようとした自分が手にするなど許されない”それ”。
  1150.  原初の誓いさえ忘れ、自身の在り方から外れた自分が手にするなどおこがましいに程がある”それ”。
  1151.  理想を捨て磨耗しきった自分が手にするなど畏れ多い”それ”。
  1152.  いつの頃からか、己が剣の丘から姿を消した”王の剣”。
  1153.  だが、今この時なら許されよう。
  1154.  
  1155. 「投影、開始————」
  1156.  
  1157.  27の撃鉄全てが一斉に撃ち降ろされる。
  1158.  剣製で魔術回路が焼け付くような苦痛など何時以来のことか。
  1159.  それだけ、英霊エミヤがこの剣を手にする資格などないと己が罪を糾弾しているのかもしれない。
  1160.  荒れ狂う魔力を制御するべく意識は己が世界の裡へ。
  1161.  敵は異世界の魔人などという概念の化物。
  1162.  通常では英霊の能力をもってさえ打倒はおろか傷一つつけられない悪夢が実体化した魔物。
  1163.  だが、その様な事はエミヤシロウの戦いにおいて何ら関係はない。
  1164.  現実で勝てないのなら、想像の中で勝てば良い。
  1165.  自身が勝てないのなら、勝てるものを幻想するだけだ。
  1166.  エミヤシロウに外敵は要らない。
  1167.  敵となるのは自身のイメージのみ。
  1168.  挑むべきは自分自身。そこにただの一つの狂いも妥協も一切許されない。
  1169.  だが、此度の投影においてはそれでさえ足りない。
  1170.  思い出せ————
  1171.  彼の気高き騎士の姿を。
  1172.  孤独を知り、自身の破滅をすら知りながら、それでも人々の笑顔の為と人であることを捨てた尊き少女の誓いを。
  1173.  エミヤシロウが憧れた、綺麗すぎるその想い、生き様を!
  1174.  自身の中心にある最も大切な場所に全てを押し退けて居座った騎士王を!!
  1175.  思い出せ————
  1176.  擦り切れた精神の更に奥、例え地獄に落ちても忘れないと感じた運命の夜、その出会いの場面を!!
  1177.  思い出せ————
  1178.  エミヤシロウが衛宮士郎だったあの時の全てを————!!
  1179.  
  1180.  ————問おう。貴方が、私のマスターか————
  1181.  
  1182.  努力が報われたのか、願いが届いたのか、彼女の声がエミヤの裡から零れでた。
  1183.  磨耗し記憶から失われていたその言葉————
  1184.  彼女の声と姿は先の聖杯戦争で焼き回されていたが、それはあの小僧にとっての彼女だった。
  1185.  そうではなく、真実、エミヤシロウにとってのサーヴァントとしての、彼女の声と姿を今、エミヤは取り戻したのである。
  1186.  
  1187.  そして————その瞬間は唐突に訪れた。
  1188.  魂の内面に弾けた世界。
  1189.  広がる赤い荒野。
  1190.  無数に乱立する剣の墓標。
  1191.  その丘の中心に確かに”それ”はあった。
  1192.  
  1193.  ”無限の剣製”に存在しているのであれば、エミヤシロウに投影できないわけがない。
  1194.  
  1195.  創造の理念を鑑定し、
  1196.  基本となる骨子を想定し、
  1197.  構成された材質を複製し、
  1198.  制作に及ぶ技術を模倣し、
  1199.  成長に至る経験に共感し、
  1200.  蓄積された年月を再現し、
  1201.  あらゆる工程を凌駕し尽くし————
  1202.  
  1203. 「ゆくぞ異世界の魔人! その身に備えた神秘は十分か!」
  1204.  
  1205.  ————ここに、幻想を結び剣と成す————!
  1206.  
  1207.  全身を包み込んだ発火するかのような熱が構えた両手の先に結集し、黄金の輝きが解き放たれる。
  1208.  衛宮士郎にとって”宝具”と言えば、この剣を置いて他にない。
  1209.  セイバーという少女の生き様を定めた運命の剣なのだから当然である。
  1210.  この剣は、初めて投影した宝具であり、衛宮士郎の投影を禁断の魔術たらしめた神秘の結晶。
  1211.  投影装填をせずとも剣に宿った経験がその真の担い手の技を刹那の時間だけ模倣し、英霊エミヤ以上の能力を瞬間的に発揮する。
  1212.  それは一体どんな反則技だったのか。
  1213.  エミヤの両手から溢れた黄金の光は収束し一振りの黄金の剣と成った。
  1214.  それは死の風を鱈腹内包した巨剣の振り下ろしに対し、真っ向から挑み、ぶつかり————そして、弾いた。
  1215.  
  1216. 「な、なんだぁっ!?」
  1217.  
  1218.  そこから奇跡は連鎖する。
  1219.  驚きに硬直した魔人の剣を持つ腕へと吸い込まれていく黄金の閃光。
  1220.  渾身だった振り抜きを強引に押し留めて翻った打ち降ろしで、ケイブリスの腕をあっさりと切断してみせた。
  1221.  
  1222. 「へっ……あれ? あれれっ!!?」
  1223.  
  1224.  肘から先が無くなった自分の腕を目の前に翳して不思議そうにする。
  1225.  そうして、宙に飛ばされた彼の剣を握ったままの腕が床へと叩きつけられ激しく部屋を揺らす。
  1226.  
  1227. 「な、なんだぁぁぁ!!? 俺様の、俺様の腕が、腕がぁぁ!! い、痛ぇ! いてぇぇぇぇ!!」
  1228.  
  1229.  効果はあった。
  1230.  半ば賭けであったが、エミヤの予測したとおりの光景が今、展開している。
  1231.  何十回と繰り返した干将・莫耶の斬撃はケイブリスに傷は付けられなかった。
  1232.  更には、その口の中を狙っての「壊れた幻想」さえも無効化された。
  1233.  その手応えから、一つの推測を立てたのである。
  1234.  魔人は、ある種の概念によって護られているのではないか?
  1235.  そう————あのバーサーカーのように。
  1236.  彼の宝具たる”十二の試練”の効果の一つにランクB以下の攻撃を無効にするという能力がある。
  1237.  これは、古代ギリシャの神々が大英雄ヘラクレスに施した祝福と言う名の呪い。
  1238.  呪いの力=神々の力に及ばないあらゆるものを退け、更には、与えられ乗り越えた試練の数だけ蘇生魔術が重ねがけされているという対峙する相手にとっては難儀この上ないもの。
  1239.  更に厄介なことは、試練を乗り越えたという伝説に因む形で生まれた一度自身の命を奪った攻撃はもう効かなくなるという概念まで含まれていた強固な概念武装だった。
  1240.  それは内包された神秘の純度が届かなければ、例え、星を消し飛ばすような破壊力の攻撃でも無効とする凶悪さで、バーサーカーはその圧倒的な知名度、個人の能力と合わさり、第五次聖杯戦争において最強のサーヴァントとして君臨した。
  1241.  効果の高低はあるかもしれないが、これは正に、魔人の身を護っているそれと同種ではないだろうか?
  1242.  神秘はより上位の神秘に覆される。
  1243.  この世界に神秘のランクの格付けが存在するかは分からないが、試してみる価値はあるとエミヤは踏んだ。
  1244.  バーサーカーの護りを貫くには、神々の呪いを上回る最高純度の神秘による攻撃が必要だったが、それを成し得たのみならず、只の一度で7つの命を刈り取ったのが今、エミヤが手にする黄金の剣であり、これで通用しなければ、もはやエミヤに為す術は無かったのだが、どうやら賭けには勝利できたようである。
  1245.  
  1246. 「何だよぉ、その剣はぁぁ!!? まさか、聖刀? 聖刀なのかっ!」
  1247.  
  1248.  見た目神々しさ溢れる王の剣は確かに聖剣にカテゴライズされるが————
  1249.                   カ  リ  バ  ー  ン                             宝    具
  1250. 「いや、違う。この剣の名は”勝利すべき黄金の剣”、一人の少女を伝説にまで導いた”英雄の象徴”だ」
  1251.  
  1252.  エミヤは誇らしげに己が手中にある剣を語った。
  1253.  よもや、この剣を再び手にする日が訪れようとは。
  1254.  永遠に失われたセイバーの剣は、英霊エミヤにとっても永遠に失われたと思っていたのだ。
  1255.  
  1256. 「聞いてねぇー!! 聞いてねぇぞぉぉ! 魔人を傷つける剣がまだあったなんてよぉぉぉっ!!」
  1257.  
  1258.  ケイブリスの慌てようはむしろ滑稽な程だ。
  1259.  ムシケラ程度に思っていた相手が自分の腕を切り落としたのだから、青天の霹靂である。
  1260.  そこへ慣れぬ痛みが脳を侵食してくるのだから、彼のパニックも理解できようというものだ。
  1261.  
  1262. 「さてと、もう時間も残されてないようだ。次で決めるぞ」
  1263.  
  1264.  自分のスタイルではない正眼に剣を構えるエミヤに、ケイブリスの方は、最強の魔人の威厳は何処へやら。
  1265.  5本の健腕と一本の壊腕とを用いて大童で身体の急所を庇いながら必死に叫ぶ。
  1266.  
  1267. 「ちょっと、タンマ! せめて、怪我が治るまで待って!」
  1268.  
  1269.  その余りの変貌っぷりにエミヤをして呆れざるを得ない状況に陥ったが、遙か大昔の彼の姿を知るものが居れば、それも仕方ないと思うかもしれない。
  1270.  何せ、元はモンスターとは言え弱く可愛らしい「リス」だったのだし。
  1271.  それが魔人となり力を得て、更には無敵にもなったが、その精神面が成長できたわけではないのだから。
  1272.  事情を知らない、いや知っていたとしても恐らく何ら気にも留めなかっただろうエミヤは些か気勢を殺がれたが、しっかりと”勝利すべき黄金の剣”を構え直す。
  1273.  そして神速の踏み込みで————
  1274.  
  1275. 「ケーちゃん!!?」
  1276.  
  1277.  予想外の叫びにタイミングを狂わされた。
  1278.  チラっと視線を送った先はホールの入り口で、その向こう側に白い蛇を巫女服に似た衣装を着込んだ身体に巻きつけた大柄な女の姿を確認する。
  1279.  あれも魔人であると本能的に感じ取り、結果焦りが生じてしまった。
  1280.  踏み込みでタイミングが狂い、焦りと余所見で踏み切りが中途半端かつ狙いがぶれてしまった黄金の剣の一閃は、ケイブリスのガードである腕を三本斬り飛ばし、その分厚い甲冑まで届き、切り裂いた。
  1281.  だが、心臓を狙って振り抜いた筈の剣は目標を大分外してしまい、ケイブリスの右肩に浅く食い込むだけに終った。
  1282.  それでも目を瞠らされたのは、その眩い輝き故である。
  1283.  彼の体躯からすれば大した事のない傷口は、剣身から突如発せられた黄金の極光によって押し開かれ、一気に断裂。熾烈な高熱でもってそのまま右半身の三分の一を消し飛ばす。
  1284.  魔人になって4500年以上、かつて無いほどの身体の損壊に断末魔じみた絶叫を上げたケイブリスは完全に意識をここではない何処かに思いっきり飛ばしたが流石は不死身とまで言われる魔人である。激しい地響きを鳴らして倒れ伏したが、普通の生物なら間違いなく死んでいる大怪我でもしっかりと生き延びていた。
  1285.  
  1286.  
  1287.  幸運の低さはエミヤの定めなのか。
  1288.  手にした武器は文句のつけようもない超一級品ではあったが、自身のスタイルではない剣術で臨んだ結果、思わぬ邪魔が入った所為で急所を外してしまった。
  1289.  こんな結果になるのなら、セイバーの剣術を最後まで追い求めるべきだったかと後悔したくなった。
  1290.  いや、かっこつけないで素直に投影装填しておくべきだったか。
  1291.  そうしていれば、この程度で急所を外すこともなくこの最強の魔人を絶命せしめていたかもしれなかったのだ。もっとも、投影装填した場合は魔力が持たない可能性もあったからどちらがよかったという問いに答えは返せないが。
  1292.  そんな空虚が広がり始めた胸中を砂の様になって己が手から消え去っていく”勝利すべき黄金の剣”を渋い顔で睨みながら述懐する。
  1293.  後悔も未練も無念までもあるが、ここまでだ。
  1294.  ホールに次々と駆けつけてくる魔人と思わしき一団を前にエミヤは無手のまま仁王立ちで対峙する。
  1295.  背後のケイブリスは既にリタイヤしているが、もうこの場面からのエミヤに勝利は掴めない。
  1296.  可能なのは、ささやかな牽制ぐらいか。
  1297.  ホールに集った魔人の数は、ホーネットと戦ったバボラを除く5人にワーグとパイアールの見た目子供の二人を加えた計7人だが、幸いにしてエミヤの後ろで倒れ伏すケイブリスの姿を目にしては、それ以上は一歩も踏み込めないでいる。
  1298.  皆が一様に驚きと警戒、そして憎しみの目を向けてエミヤの鷹の目と睨みあう。
  1299.  
  1300. 「何者ですか、貴方は……?」
  1301.  
  1302.  膠着した時間は長いようで短かった。
  1303.  このままではいられないと漆黒の衣に身を包んだ魔人四天王の一人、ケッセルリンクが一歩前に出て全員の言葉を代弁する。
  1304.  戦闘タイプではないな、とケッセルリンクを油断無く分析しながらエミヤは予め考えておいた言葉を紡ぐ。
  1305.  
  1306. 「君達の敵であり、ホーネットを助けに来た正義の味方さ」
  1307.  
  1308.  正義の味方云々の件はともかくとして、誰もが推測できた内容に確証を与えただけだが、それの意味する事は予想外に大きい。
  1309.  つまり、下手を打てば彼の後ろで死に掛けているケイブリスと同じ運命を辿らされる事になるかもしれないからだ。
  1310.  それを十分に理解させる事が出来たと判断したところでエミヤはダメ押しを加える。
  1311.  
  1312. 「さて、用は済んだので帰らせてもらうとしようか」
  1313.  
  1314.  魔人達が居並ぶホールの入り口ではなく、戦闘の余波で何箇所も崩れた壁の大穴の一つへと足を向ける。
  1315.  と、思い出したように歩みを止め、今にも動き出そうとしていた何人かの好戦的な魔人達に向けて言い足す。
  1316.  
  1317. 「ああ。追って来るのなら構わんぞ。ただし———その時は、決死の覚悟を抱いて来い」
  1318.  
  1319.  いつか蒼い槍兵がセイバーに言った台詞を複製する。
  1320.  この言葉に追跡を断念させる凄みがあったのは紛れも無い事実であり、それを完璧にトレースしたエミヤもまた、血気盛んな猛者を相手に厳しい牽制球を送ることに成功していた。
  1321.  それを確認できたところで、再び踵を返して今度こそホールを出て行く。後を追って来る気配がない事を確認し、十分な距離を置いたところで安堵したエミヤの身体が空気に溶け込むかのように消える。
  1322.  ここまで実体化を維持していたのは、連中に警戒心を常に与えておく為だ。
  1323.  姿を消す、隠すという行為は、基本的に弱者の能力だ。
  1324.  自身を護る術が他にある者は、例えそれを有していようと簡単に使わないものである。
  1325.  その理屈を知らない者や、あのケイブリス程度の知能しか持ち得ない者であれば、姿を消せるという事でいつでも隙を突けると脅す効果や、自身の正体を撹乱させて得体が知れないという警戒心を植えつけることが出来るかもしれないが、それよりもデメリットが先に立った場合、大きな問題となるので得策にはなりにくい。
  1326.  ケイブリスを倒せる程の人物、それが姿を消す能力さえ有していながら逃亡を図った。
  1327.  では、その理由は?
  1328.  それを考えた際に、先の戦闘で相当なダメージを負い、今はまともに戦えないと判断するのは簡単だ。
  1329.  その結論を出してしまえば、ここはむしろ無理を押しても追撃をかけるべきだと主張するだろう。
  1330.  回復されてしまえば厄介だが、この機会に仕留められる公算があるのだから、指をくわえて見ているだけという手はあり得ない。
  1331.  エミヤ自身だけならそれでもいい。どうせ、この身体はすぐにも消える運命だ。
  1332.  だが現実はもっと深刻で、彼とその仲間がやっとの思いで存命させたホーネット軍の現状がエミヤの肉体に勝るとも劣らない死に体なのだ。
  1333.  そういう事情から、どんな手段を講じても、追撃と言う選択を封じないとならないのである。
  1334.  よってエミヤは、本当なら今すぐにも消えて無くなりそうな己を鼓舞し、最後まで魔人達の脅威として存在してみせたのであった。
  1335.  
  1336.  
  1337.  
  1338.  シルキィの城を見下ろせる丘の上に33の人影があった。
  1339.  彼女達が巻き起こした混乱も形を潜め、戦場は沈黙している。
  1340.  それは比喩である。実際に数十万という魔物の群れがいるのだから、そんな静寂などあり得ない。
  1341.  だが、戦いの火が上がっていないということは、戦闘は終焉したという事なのだろう。
  1342.  ならば、一秒でも早く、一メートルでも遠くへ退避しなければ危険だ。
  1343.  魔人が9人もいる。万一にも見つかれば、逃走はそれだけで困難を極める。
  1344.  しかし、それでも彼女達は誰一人として動かなかった。
  1345.  いけない。
  1346.  軍師としてそれを認めるわけにはいかないと、バトルノートの心の声が訴える。
  1347.  捉まってしまえば、全てが無駄になってしまうのだ。
  1348.  それこそ”彼”の犠牲も。
  1349.  ————それでも。
  1350.  この策の提言者であった責任が、別の意味で、軍師失格と言われても反論できない感情論で彼女をこの場に押し留めていた。
  1351.  
  1352. 「アイツ、どうなったのかなぁ?」
  1353.  
  1354.  バニラの気性は種族柄、根っからの姉御肌である。海に住まう者に共通する陽気さもあって、このような湿った重苦しい空気には堪えきれなくなったのだ。
  1355.  まして、彼を引き連れて来たのは彼女である。
  1356.  だが、それに答えてくれる声は上がらない。
  1357.  口を開けば正論しか吐けないからだ。
  1358.  気休めを言うぐらいならいくらでも言葉に出来るが、それが気休めだと全員が理解していては、気休めにもなりはしないのだ。
  1359.  でも、バニラはそれでも言葉を続けた。
  1360.  
  1361. 「ちゃんと、戻って来れると思う? アイツ、この世界の事何にも知らないんだし」
  1362.  
  1363.  この丘は、彼女達がテレポートゲートを起動させた場所でもあり、待ち合わせの場所として指定した地でもある。
  1364.  帰りたければ、ここまで戻って来いと不器用な激励をする彼女達にエミヤからは、その必要はないからホーネットを救出できたらさっさと安全地帯まで避難しておけ、そう言われている。
  1365.  彼女達はエミヤの事を知らない。
  1366.  先にバルキリーがホーネットに教えた内容がほぼ全てである。
  1367.  彼がゴーストらしいという話は、ここに戻った折に、まじしゃんからホーネットも含めて皆に教えられたが、半ば当たり前の様に幽霊が認識され、コンテ等の珍しいが霊体モンスターも存在するこの世界においては、エミヤでさえも一個の生命として彼女達は認識した。
  1368.  よって、彼が何をしなくてもやがては消えて、この世界から去って行く存在だと知らない。恐らくは、現象としてその様に世界の外側に位置づけられた存在である彼は、この世界、ルドラサウムの定めた魂の輪転システムにも捕らわれない。
  1369.  力の多寡に拘らなければ、存在の格としては一つの世界の括りから逸脱したモノとして、かの創造神ともほぼ同位にあるのだから。
  1370.  そこまでエミヤ自身が知っていたわけではないが、己の存在を熟知している彼は、バニラ達の危惧する内容は気にも留めないものだった。
  1371.  結果として、彼が「自分を犠牲にする」という覚悟を決めているように彼女達には見えたのである。
  1372.  それは間違いではないが、間違いでもある。
  1373.  その勘違いに気づけていない、彼女達は「自分達の都合」で犠牲にしてしまったエミヤを思ってこの場を動けないでいるのだ。
  1374.  彼女達はモンスターではあるが、かつて心優しき女魔物使いの少年に仕えて、その心を正しく受け継いだ者達であったが故に。
  1375.  
  1376. 「もしかして、道に迷ってんじゃないかな? 誰か探しに行ったほうが————」
  1377.  
  1378.  バニラは必死に自分を誤魔化そうと嘘を探す。
  1379.  少しでも真実に近そうな嘘を。
  1380.  だがそれも無駄な行いだった。
  1381.  
  1382.  最初に異変に勘付いたのはコンテだった。
  1383.  いや、正確に言うのであれば、コンテの異変に気づいたホーネットだった。
  1384.  皆の目がシルキィの城に向けられている中で、彼女だけが別の場所に顔を向けていた。
  1385.  宙に浮かぶ彼女の目線はこの場に居る誰よりも高い位置にある為、良く周囲を見渡せていたのである。
  1386.  また、自身が”そういう存在”という括りにあった為というのも理由の一つなのだろう。
  1387.  
  1388. 「どうしました?」
  1389.  
  1390. 「あの……誰かこっちに来ます……」
  1391.  
  1392.  不審な目を、しかし優しさの篭ったそれを向けてホーネットがコンテに問うと、金髪の彼女は丘の下の一点を指差した。
  1393.  その動きに釣られて全員の視線がそこへ向かうが、ただ風が少し丈の長い草を左右に揺らすだけで何も見当たらない。
  1394.  
  1395. 「何だよ、何も居ないじゃないか」
  1396.  
  1397.  バニラが少しだけ懐いた期待と強い緊張を解いてコンテを見上げる。
  1398.  ここに来る者がいるとしたら、二択になるからだ。
  1399.  
  1400. 「いえ、もっと近づいて来てる……と思います」
  1401.  
  1402.  今度はさっきより手前の背の低い木の側を指さすコンテだったが、やはり皆の目には何も映っていない。
  1403.  それで皆は思う。
  1404.  コンテは見えているのではなく、感じているのではないか?
  1405.  それはきっと幽霊とでも言える何かで————
  1406.  天恵、とでも言うべき閃きを全員が意識した瞬間だった。
  1407.  
  1408. 「やれやれ、まだこんな所に留まっていたのかね?」
  1409.  
  1410.  声が聞こえたと同時に赤い騎士がその姿を実体化させる。
  1411.  皆の目がお化けでも見るように真ん丸く広がる様にエミヤは苦笑した。
  1412.  
  1413.  ま、事実そうなんだがね————
  1414.  
  1415. 「エミヤ!」
  1416.  
  1417.  その中で真っ先に再起動を果たしたバニラがタックルをかます勢いでエミヤに飛びついた。
  1418.  が、それをひらりと躱してエミヤは呆れたように言う。
  1419.  
  1420. 「おいおい、怪我人を労るという思考はないのかね」
  1421.  
  1422.  疲れた笑みを浮かべた彼は実際に酷い有様であった。左腕は折れた骨を魔力で強引に繋げただけ、全身の筋肉といい血管といいボロボロで動くたびに激痛が電気となって無茶をした己を責め苛む。
  1423.  そんな状態であるから、城を出た所で追っ手の有無を再確認したエミヤはそのまま消え去ろうとしたのだが、ふと強い視線を感じ、その方向に千里眼でもある鷹の目を向けて思わず苦笑したのである。
  1424.  城を見下ろす丘の上に集まっている少女達の姿に。
  1425.  彼女達が何を考えてああしているのか容易に想像がついたエミヤは仕方ないと最後の仕事を片付ける事にした。
  1426.  霊体化していれば、今しばらく現界してはいられそうだったので、任務の結果を報告しておくのも良いだろうと。
  1427.  そしてやっとの思いで————勿論、それを顔や態度には決して見せないが————丘を登り終えたところにバニラのタックルである。
  1428.  正直勘弁してくれという話だ。
  1429.  この世界のモンスターは一般化しており、神秘をそれほど内包している感じはあまりないが、それでも霊体であるサーヴァントに微弱なりともダメージを負わせる事ができる。
  1430.  幻想種と呼ばれる程ではないが、通常の生物とは違う誕生の仕方をした存在は、個ではなく種としての神秘を携えて年月を蓄積していったのだろう。
  1431.  結果として、霊格は低いが本質は同じであるが為、生身でサーヴァントを害することさえ可能となっている。
  1432.  そんなバニラの渾身のタックルは今のエミヤにはきつ過ぎるスキンシップだった。
  1433.  
  1434. 「エミヤ、ケイブリスはどうした?」
  1435.  
  1436.  クスシが「何で避けるんだよー!」と息巻くバニラを宥める脇でバルキリーが前に出てくる。
  1437.  
  1438. 「ああ、大口叩いておいて悪いが、倒す事はできなかったよ、すまないな」
  1439.  
  1440.  そういうエミヤだが、バルキリーは勿論、他の皆も、彼女らの主であるホーネットも当然の様に受け入れた。
  1441.  結果は分かりきっていた事だったのだから。
  1442.  ケイブリスとの戦闘の最中にエミヤが言ったとおり、彼らの勝利はホーネットをこうして救出できた事にあるのだから、文句など出ようはずもない。
  1443.  だから、気にするなと声を掛けようとしたバルキリーの言を押し込めた彼の一言に場が凍結した。
  1444.  
  1445. 「だが、重傷は与えておいた。魔人の回復力がどれ程か知らないが、当分はベッドの上から動けないだろう」
  1446.  
  1447.  あの体を休めさせるベッドが有ればの話だがね、といつもの皮肉の後、バルキリーに向き直って、君の提言どおり、痛い目は見せてやったから、これで許してくれと言うエミヤに誰も声をかけられない。
  1448.  
  1449. 「それと他の魔人達にも牽制はしておいたが、こればかりはどれだけ効果が望めるか未知数だ。私としては一刻も早くこの場から離れる事を提唱しておこう」
  1450.  
  1451. 「そ、そうだな————エミヤ殿も戻られたことだし、早速ここを発つとしよう」
  1452.  
  1453.  思考回路が麻痺していたバトルノートが現状を理解して皆を促し、方々の手で出立準備を急ぐ。
  1454.  大した用意ではないが、数日分の食料や寝具などそれなりに嵩張るものも多い。
  1455.  皆が忙しなく動く中で、特にやる事のないホーネットが同じくただ様子を見守っていたエミヤへと話しかけた。
  1456.  
  1457. 「あのう……貴方のお蔭で助かりました。感謝しております、本当にありがとうございます————」
  1458.  
  1459. 「ああ。無事で何よりだった」
  1460.  
  1461. 「ええ、お互いに————」
  1462.  
  1463.  心から本当にそう思ったホーネットは久方ぶりに穏やかな笑みを浮かべた。
  1464.  もとより、寒気がするほどの美貌を持つ彼女である。
  1465.  朴念仁としてしられた少年時代を持ち、今もってなお、自身に向けられる好意には些か疎いエミヤをして赤面させるだけの破壊力がある。
  1466.  もっとも、セイバーへの想いまで蘇らせた彼にとって色恋の対象、或いはその芽生えとしてさえ意識されることすらなかったが、どうにも照れくさくなったのは紛れもない事実。
  1467.  
  1468. 「追っ手が掛からない安全な場所まで行けたら、少し話をお聞かせ願えないでしょうか?」
  1469.  
  1470.  訊きたい事は山ほどあるが、彼の状態も考慮すれば十分な休息をとった後が好ましい。
  1471.  そう思っての提案だったが、応えるエミヤの発言に、出立準備をしていた者達の手までもが止まった。
  1472.  
  1473. 「その事だが、私はもうじき消える」
  1474.  
  1475. 「そ、それはどういう————」
  1476.  
  1477. 「もともと、私は消え去りかけていたところをバニラ達に拾われただけだからな。役目を果たし終えた今、元の場所へと還るだけだ」
  1478.  
  1479.  そんなの聞いていない。
  1480.  皆の心が一つになった。
  1481.  それも当然、一刻の猶予もならない事態だったのである。
  1482.  居るかどうかも分からない援軍を探し、全く関係ない人の為に戦ってもらうには、こちらの情報をしっかりと伝えて誠心誠意訴えるだけで色々と一杯一杯の状況だった。
  1483.  協力をするしないは相手の都合であり、この場合の自分達にはどうしようない話であるのだから、まずは協力を取り付ける事に心を砕き、頷かせる事に成功したのなら、直ぐにでも戦場に送り込まなければ意味がなくなる。
  1484.  だから相手の身の上話などはとにかく後回しにしたのだ。
  1485.  ただ、大事な事だと、エミヤがとある戦争を終えた直後であまり力が残されていないとは説明されていたが、それが存在を維持できなくなるような危機的ものだったとは誰も想像すらしていなかった。
  1486.  
  1487. 「では————」
  1488.  
  1489. 「ここでさよならだ」
  1490.  
  1491.  短く、しっかりと告げられた言葉に明確な意思があった。
  1492.  それは紛れもない永久の別れを意味する言の葉。
  1493.  瞼を閉ざし、少し顔を俯かせるが、すぐに柔らかな笑みをホーネットは浮かべる。
  1494.  酷く残念には思う。
  1495.  けれどどうしようもない、仕方ないことだと諦めた。
  1496.  別れは悲しいが、だからこそ、悲しいままにしない為にも笑っていよう。
  1497.  そんな彼女の切ない決心だったが————
  1498.  
  1499. 「待てよ! 私達、まだお前に礼をしてないぞ! 取りあえず、ホーネット様を救い出せた事を祝って、私の釣ったクロマグロでパーティー開くんだ! もう食えないって根をあげるまでたっぷりと美味いマグロを食わせてやるんだからな!」
  1500.  
  1501.  バニラが怒りの声を上げて割り込みをかけた。
  1502.  
  1503. 「そうじゃな。一方的に頼みごとをしておいて、何もお返しをせぬまま帰してしまっては、異世界の者達に儂らの心根を疑われてしまうじゃろうしな」
  1504.  
  1505.  バニラをあやしていた和風な装いのクスシが時代がかった言葉遣いで賛同の声を上げる。
  1506.  それに追従する他の娘達。
  1507.  特に、まじしゃんや、バルキリーはその意思が強く表れていた。
  1508.  エミヤが帰る時は、自分達の手でテレポートゲートを起動させて彼が元居た場所へと世界を繋げた時だと思っていただけに、皆の想いは一入だ。
  1509.  
  1510. 「その気持ちだけで十分だ。それに報酬は既に受け取っている」
  1511.  
  1512.  磨耗しきった世界の掃除屋に最後の最後で正義の味方をやらせてくれた少女達に満足した笑みを見せて応える。
  1513.  座にある本体に良い土産話ができたと本気で喜ぶ子供っぽい青年に、しかし、バニラ達は納得できないでいた。
  1514.  
  1515. 「そんなの勝手だ! 私達の気持ちを無視して一人で満足しやがって、それで楽しいのかよ!」
  1516.  
  1517.  子供の駄々のように頬を膨らませて抗議に出るバニラ。彼女はその小さい体躯もあってまるっきり子供の我侭と変わらないが、他の皆も考えは同じらしく一様に不満をそれぞれ表情や態度で示していた。
  1518.  必死な「らいおんはーと」の皆を見ている内に、最も恩義を受けたホーネットが早々に諦めているのが申し訳なくなった。
  1519.  
  1520. 「そうは言われても、こればかりはどうにもならないのだよ。この身は世界の外側に属する英霊、楔が無くば現世に留まることが許されない存在だ」
  1521.  
  1522.  33人の何処か咎めるような視線にさすがにバツが悪くなったのか、正直なところを語るエミヤ。
  1523.  叶うのであれば、この世界に留まり、彼女達の力になってやりたい。
  1524.  最悪は回避できたが、戦況は未だ圧倒的劣勢のままに変わりはないのだ。
  1525.  
  1526. 「では、何故、お主は今、儂らの前に居るのじゃ?」
  1527.  
  1528.  クスシが他の皆の意見を代表する形で訊ねる。
  1529.  疑って掛かる訳ではないが、そこに糸口があるのではないかと、魔法に造詣が深いサワーやまじしゃんはエミヤの言葉を怖いくらい真剣に待つ。
  1530.  
  1531. 「聖杯という願望機によって呼び出された際に単独行動というクラススキルを与えられていてね、これによって世界に留まる為の楔であるマスターが存在しなくても短期間なら現世に残っていられるのだが、その恩恵がまだ生きていたからだ。本当に、偶然に偶然が重なった結果だ」
  1532.  
  1533.  彼女達は運が良かったのだ。
  1534.  同じサーヴァントでもほぼ時を同じくしてあの世界を去ったセイバーと出会っていたなら、そもそも現界が出来なかっただろうから、バニラ達だけでホーネットを助けられたか怪しいものだ。
  1535.  
  1536. 「じゃあ、そのマスターってのに私達の誰かがなればいいんじゃない?」
  1537.  
  1538.  まじしゃんが期待を込めて訊くが、難しい顔でエミヤは首を横に振って希望を打ち砕く。
  1539.  
  1540. 「残念ながら君達にはその資格が無い。私をこの世界に繋ぎ止めて置く絆は結べない」
  1541.  
  1542. 「何だよ、資格って!? 私の何が不足だって言うんだよ! 身長か? 身体がちっこいのがそんなにいけないのかよ!?」
  1543.  
  1544.  バニラは自身が他のキャプテンバニラよりも優れている自負がある。そんな自分が誰かに劣る物があるとしたら、それぐらいしか思い至らなかった故の暴走であった。
  1545.  それを微笑ましく感じながら、エミヤは理由を説明する。
  1546.  
  1547. 「マスターになる為には令呪という大魔術の楔が必要なのだ。いかに魔術師としての資質に優れていようとも令呪なくしてマスターにはなれんし、逆に令呪さえあれば赤子でもマスターにはなれる」
  1548.  
  1549.  或いはエミヤに聖杯のシステムさえ読み解いたキャスター程の魔術師としての能力があればバニラ達に令呪を与えることも出来たかもしれない。一般人であった葛木宗一郎をマスターにしたように。
  1550.  もしくはアサシンを山門に括ることで現代に生きる存在でないキャスターがアサシンのマスターになれたように、別の楔を用意することが出来たかもしれない。
  1551.  だが悲しいかな。エミヤの魔術は封印指定を受けかねない程に貴重なものではあるが、彼の魔術師としての才能は研鑽を積んでも並み程度で終った。つまりランクC−である。
  1552.  
  1553. 「う〜ん……時間さえあれば、その令呪ってヤツの術式を研究してどうにかしちゃえる自信はあるんだけどな〜……」
  1554.  
  1555.  魔法の箒を握り締めて、それで足元の掃除を始めてしまう程にサワーが悔しがる。彼女はこう見えて並みのサワーではない。サワーとは低レベルの魔法なら一通り使えると言う程度の能力しか持たない。が、彼女は普段こそ普通を装っているが、先の戦場で見せたように黒色破壊光線などの最強クラスの魔法まで使える天才サワーなのだ。
  1556.  だからこそ、これほど悔しい思いをする。
  1557.  
  1558. 「他だ、他! 他には何かないのか!?」
  1559.  
  1560.  魔法関連が専門外のバニラは、早くも投げ出す。
  1561.  だがその行動も強ち間違いでもなかった。魔法のエキスパートである、サワー、まじしゃん、そして魔人であるホーネットまで沈黙してしまっている以上、現段階で解決策はないのだから。
  1562.  無茶な事に頭を悩まして時間を無為に使うよりも余程建設的な姿勢である。
  1563.  
  1564. 「そう言われてもだな————ああ、あと一つ、特例中の特例があるにはあるか」
  1565.  
  1566. 「それは?」
  1567.  
  1568.  落ち着いた声はバルキリーだ。
  1569.  冷静に見えるが、その瞳にかなりの期待の色があることは、長い付き合いの仲間達にはバレバレだった。
  1570.  
  1571. 「聖杯の中身を飲み干す————つまり、馬鹿らしくなるぐらいの膨大な魔力を取り込んで力技をもって無理矢理現界を続けるという手段だ」
  1572.  
  1573.  冬木の聖杯の泥は御免被るが、とにかく莫大な魔力でマスター不在の為にサーヴァントに働く世界の修正力に抗う。
  1574.  それはもはや受肉という現象。いや、それだけの魔力があれば受肉と言う奇跡に手が届くというべきなのか。
  1575.  受肉の真相はエミヤには知れないが、あの黄金の英雄王という確かな前例もある。
  1576.  
  1577. 「それならいけるんじゃない?」
  1578.  
  1579.  と、まじしゃんの顔が輝くが、エミヤの表情は依然厳しいまま。
  1580.  
  1581. 「サーヴァントを受肉させる程の魔力を今この場に用意できるのかね?」
  1582.  
  1583. 「あっ……それは————」
  1584.  
  1585.  令呪によるマスターの資格という条件よりも現実的に思えた案だったが、時間がないという大前提は覆っていないのだ。
  1586.  
  1587. 「残念だがここに居る君達全員の魔力の総量でもまるで足りないのだよ」
  1588.  
  1589.  これが最後だとエミヤが告げる。
  1590.  あらゆる可能性を否定されて、項垂れる一同。
  1591.  重い沈黙が丘の上に垂れ込める。
  1592.  
  1593. 「そんな顔をしないでくれ。最初に言ったようにオレは満足しているのだから————」
  1594.  
  1595.  そう言ったエミヤの笑顔は透き通っていた。
  1596.  比喩ではなく、本当に彼の背後の景色が透けて見えるのだ。
  1597.  タイムリミットが来た、ということが誰にも分かった。
  1598.  
  1599. 「それでは、な。短い間だったが、有意義な時間を過ごせた————」
  1600.  
  1601.  別れの挨拶を皆に手向ける。
  1602.  最初にここへやってくるきっかけになったバニラとまじしゃんに。
  1603.  そして事情を説明してくれた、バトルノート、クスシに。
  1604.  作戦の段取りを整えた他の面々、単身城まで乗り込んできてくれたバルキリー。
  1605.  そして最後に、ホーネットへと。
  1606.  思えば、バニラ達の真摯な熱意に打たれたというのもあるが、聞かされた彼女の人となり、その経歴を知って純粋に、自らの欲求として救いたいと思ったのだ。
  1607.  理想の魔王となるべく努力し続け、それに裏切られてなお、父親の残した呪縛に囚われた娘。
  1608.  とても他人事とは思えず、知らず力が入った。
  1609.  出切れば、彼女の行く末を見守ってみたい、支えてやりたいとも。
  1610.  そんな彼女に言うべき言葉を探し————
  1611.  
  1612. 「理想を貫くのは構わんが、己をしっかりと持ちたまえ」
  1613.  
  1614.  やはり、説教臭くなったと自嘲するしかない。
  1615.  
  1616. 「————自信がありません。これまで170年生きてきましたが、恥ずかしながら、エミヤ様に諭されるまで自身の在り方に疑問さえ持っていませんでしたから————」
  1617.  
  1618.  ホーネットの返答にどうしたものかと戸惑いを見せるエミヤ。
  1619.  まさか、この土壇場でこんな弱音を吐かれることになるなど予想の外であった。
  1620.  彼女がしっかりとしてくれなくては、皆で掴み取ったこの度の奇跡は地に落ちてしまう。
  1621.  過程をどれだけ弄ろうが最終的な結末は決まっているとでもいうのか?
  1622.  異世界の異分子など絶対たる予定調和の前では通り雨にも劣ると?
  1623.  否!
  1624.  断じてそんな事があって堪るものか!
  1625.  
  1626. 「たわけ! 泣き言を言う暇があるなら、精一杯に足掻いてみせろ! 自信がないだと? なければ造れ! 己の世界から引き摺り出せ!」
  1627.  
  1628.  激励と呼ぶには激しすぎる叱咤にバニラ達「らいおんはーと」の面々も陰鬱な表情を忘れて呆気に取られる。
  1629.  クールで皮肉屋のエミヤが見せた熱情に驚きを一杯にして。
  1630.  だが、本当の驚愕は次の瞬間に満を持して待ち構えていたのである。
  1631.  
  1632. 「はい————ですから、精一杯に足掻かせてもらいます」
  1633.  
  1634.  ホーネットは諦めていなかった。
  1635.  さっきとは立場が逆になり、バニラ達が諦める中で彼女は必死に何とかしようと思考回路を限界一杯まで回し続けていたのである。
  1636.  そして、いよいよという時を迎えて、一切の躊躇いをかなぐり捨てた。
  1637.  エミヤが何を思うかを考慮しない——謝罪は後ほど——
  1638.  バニラ達が何を感じるかなど知らない——全ては己自身の為に——
  1639.  異世界の理など理解したくもない——私と彼はこの世界にいる——
  1640.  
  1641. 「なっ!?」
  1642.  
  1643.  驚きの表情を固めたエミヤの口内で何かが妖しく蠢く。
  1644.  伸ばされたホーネットの白魚の様な指先が頬に触れ、爪先立ちした彼女の上気した貌が視界一杯のパノラマに収まっていた。
  1645.  柔らかな感触が唇越しに伝わり、背筋に沿って甘い衝撃が全身を駆け巡った。
  1646.  何とホーネットは衆人環視の中でエミヤにキスをしたのである。
  1647.  ただ、違和感があった。
  1648.  艶かしく蠢く彼女の舌は、エミヤのそれを貪るでもなく、口腔を蹂躙するでもなく何かを必死に送り込もうとしているようであった。
  1649.  冷静になるには少しまだ、顔が熱いエミヤだったが、舌先が感じた温かく甘美な鉄の味に意識が明瞭になっていく。
  1650.  ホーネットの下唇の裏側が深く切れていた。
  1651.  彼女は自分の血をエミヤの口の中に熱心に押し流していたのだ。
  1652.  その行為にどんな意味があるのか?
  1653.  それを問い質そうとホーネットを押し退けようとするが思った以上の力で抑え込まれてしまい叶わない。
  1654.  口内に溜まっていく彼女の血が溢れそうになり、それを垂下した瞬間、それは起きた。
  1655.  
  1656. 「なにっ、これは……!?」
  1657.  
  1658.  身体の隅々にまで行き渡る力の波動が熱をもって脈動する。
  1659.  薄れていた存在が迫力を増し、しっかりと世界に根を張っていく。
  1660.  エミヤの身体が確かな質を持って現界していることを目で、肌で感じ、ホーネットは漸くその華奢な身体をエミヤから離した。
  1661.  
  1662. 「説明はしてもらえるのか?」
  1663.  
  1664.  己の掌を数度開閉する運動を繰り返しながらエミヤはホーネットを真剣な目で見つめた。
  1665.  それに応えるホーネットは、目的を達成した安堵感から急速に頭を冷却し、結果、目を逸らしたい程に羞恥心に囚われてしまっていたが、ここで不義理を働く訳にはいかないと、その黄金の瞳で真摯に見つめ返す。
  1666.  
  1667. 「勝手ながら、エミヤ様を私の使徒にいたしました」
  1668.  
  1669.  シト、という語句に険しい表情を浮かべるエミヤとは対照的にバニラ達は「その手があった!」と手近な中間達と手を取り合って喜色ばんだ。
  1670.  エミヤの世界の手段で彼をこの世界に留められないのであれば、自分達の世界の理屈で彼を囲ってしまえばいい。
  1671.  それがホーネットの結論だった。
  1672.  多分にギャンブル的な要素があったが、来水美樹を魔王にしようとしたり、ハニーのゴーストを使徒にしたますぞえという前例もあったので、彼女は思い切って行動に出たのだ。
  1673.  結果はどうやら成功。
  1674.  あとはエミヤに許しを請わずして勝手に事を為してしまった非礼を詫びねばならない。
  1675.  許して貰えるかは分からないし、許してくださいとも言えないが、この我侭だけはどうか認めて欲しい————
  1676.  
  1677.  これは……生を受けて以来初めて、私が懐いた————
  1678.  
  1679.  そんな懇願を胸に赤い騎士に顔を向けて、彼の射抜くような鋭い目にホーネットは射竦められてしまった。
  1680.  
  1681. 「君は吸血鬼だったのかね」
  1682.  
  1683. 「い、いえ————私にその能力はありませんが、魔人は自分の血を他者に分け与える事で使徒を作り出せるのです!」
  1684.  
  1685.  険を含んだエミヤの声音にぞくりと背筋を凍らせたホーネットは、何か誤解が生じた! と慌てて弁明に走る。
  1686.  エミヤは人間……・だったはずだから、吸血鬼という存在を忌避したのかもしれない。
  1687.  自分は魔人だが、人間に害を与える者ではないと彼が考えていたのであれば、もしホーネットが吸血鬼であったとすれば、それはもしかすると彼にとって許されない事実となるかもしれなかった。
  1688.  だから、ホーネットは必死になって魔人の使徒がどういった存在なのかを丁寧に誤解がないように説明しなければならなかった。
  1689.  特に伝奇小説にあるような危険性はないと言うことを熱心に。
  1690.  その必死さが功を奏したのか、元の表情に戻ったエミヤは、今の状況の分析に心を砕いた。
  1691.  想定外の事が起きたのだから、不具合があっても可笑しくないのだ。
  1692.  疑念を解消する為にもホーネットに色々と質問をしていき————
  1693.  
  1694. 「つまり、分け与えられた血によって身体が強化されたり特殊な力を得られるというわけか?」
  1695.  
  1696. 「その通りですが……いかがでしょう?」
  1697.  
  1698. 「ふむ。別段変わりはなさそうだ」
  1699.  
  1700.  英霊とは、既に完成されているので成長も進化もない存在で精々が特定条件下でパラメーターの変化がある程度だから異界の法則で縛ったとしてもそのシステムを侵食する事は出来なかったと見るべき、そうエミヤは判断したが、それを知らないホーネットは「そうですか……」と少し落ち込んだ。
  1701.  
  1702. 「あとは一応、殺害されない限り不老不死になります」
  1703.  
  1704. 「元々、そういった存在だったがね」
  1705.  
  1706.  正直に話したら、がっくりと大地に両手をついて崩れるホーネット。
  1707.  
  1708. 「私、初めて使徒を作ったのですが————何か失敗をしてしまったのでしょうか……」
  1709.  
  1710.  エミヤをこの世界に留める事にはどうやら成功したらしいが、肝心の使徒としての能力、ホーネットの使徒となったことによる恩恵が何もエミヤに与えられなかった事実にホーネットは相当なショックを受けていた。
  1711.  バニラ達もどう声を掛けていいのやら、視線でお前が何とかしろとエミヤをせっつく。
  1712.  
  1713. 「ああ、いや、そういう事ではないだろう。きっと私が特殊過ぎただけだ」
  1714.  
  1715. 「そうだよ、ホーネット様! コイツが変なだけだって!」
  1716.  
  1717. 「目的は使徒を作る事ではなく、私をこの世界に現界させておく為だったのだろう? ならば大成功だ。堂々と胸を張りたまえ」
  1718.  
  1719. 「破廉恥ですわね。今のホーネット様のお姿で胸をお張りになられては見えてしまいますわ」
  1720.  
  1721.  エミヤが何か言う度に酷い扱いをバニラ達に返されるのは何故だろう。
  1722.  バニラには悪気がないのだが、エミヤを言葉のナイフで抉るし、エリナは半眼で睨んで男を石化させるキュベレイ並みの呪詛を吐く。
  1723.  確かにホーネットはケイブリスに破かれたローブ姿のままで、無事だった生地を寄せ集めて大事な部分を隠すだけの際どい姿でいるが。
  1724.  それを今になって思い出させられたエミヤは、「I am the bone of my sword」と呟き。
  1725.  
  1726. 「これでも着ているといい」
  1727.  
  1728.  キャスターが身に着けていたマントを投影しホーネットの肩から掛けてやる。
  1729.  ホーネットが最初に着ていたローブを用意したかったのだが、エミヤが駆けつけた時には既に彼女は今の姿に近かったので完全な投影が不可能だったが故の代用品だ。
  1730.  幸いに、魔力はある程度回復している。
  1731.  それは魔人の使徒になったが故に体が再構成された為か、それとも魔人の血に宿っていた魔力のお蔭か、はたまたホーネットからパスを通じて魔力が供給されたからか。
  1732.  自身の状態さえ完全に把握しきっていない今のエミヤには分からない。
  1733.  それよりも、彼の魔術を初めて目にしたバニラ達が騒ぎ出し、双剣を無手から取り出していた姿を見ていたホーネットも危機から逃れ、心にゆとりを得た今の状況下において間近で見て目を丸くしていた。
  1734.  ただ、エミヤの気遣いを思い出し————
  1735.  
  1736. 「ありがとうございます、エミヤ様」
  1737.  
  1738.  と謝意を頭を下げることで示せば————
  1739.  何故か片手を前にして制する仕草を見せた。
  1740.  その所作の意味は————
  1741.  
  1742. 「ふむ。それなんだが、どうやら君との間にパスが出来、レイラインを通じて魔力が供給されてきている」
  1743.  
  1744. 「え……? それでは————」
  1745.  
  1746. 「ああ、君の言う使徒とやらになった実感は湧かないが、この感覚は知っている。聖杯のよるべ、令呪の軛こそないが————君が望むのであれば、この身を無限の剣と成して敵を討ち、あらゆる害悪から君を守り抜くことを約束しよう」
  1747.  
  1748.  ホーネットが感じたエミヤとの彼我の差は果てしなかった。
  1749.  それは今も変わりはしないが、どんなに離れていても確かな繋がりがあるとその瞼を閉じれば感じることが出来る。
  1750.  数多の奇跡によって結ばれたこの絆を手放さないですむのなら————
  1751.  
  1752. 「魔人ホーネットの名において、貴方の誓いを受けましょう————よろしくお願いします、エミヤ」
  1753.  
  1754. 「ああ、アーチャーのサーヴァントとして、真名エミヤシロウが君をマスターと認めよう。ここに契約は成った————これからよろしくな、ホーネット」
  1755.  
  1756.  
  1757.  
  1758.  こうして数奇な縁により結ばれた異界の地にて、答えを得た正義の味方は、魔人の姫と共に心ある魔物達を率いて新たな運命を紡いでいく事になる。
  1759.  大陸統一への理想を掲げ、かつての故郷に良く似た東の果てでの戦乱終結を目指した彼らは、その渦中で鬼畜と呼ばれるこの世界の英雄と邂逅を果たす。
  1760.  そして悲しき同郷の魔王との接触を経て、一人の少女の笑顔の為に世界の悪意と対峙していくことになるのであった。
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