play_sound(filename="se118" smth1=0)
wait(seq_num=1 smth1=0 t=2700)
msg(seq_num=0 msg="──その丘を駆け上ってくる風は心地良かった。")
41 cmd42(seq_num=0)
43 msg(seq_num=1 msg="首筋を擽る微風は、蒸し暑い残暑の隙間をまるで擦り抜けて来たかのように。")
41 cmd42(seq_num=1)
43 msg(seq_num=2 msg="容赦なく照り付ける太陽の目を盗んで来たかのように、そっとこの丘へと流れ着く。")
41 cmd42(seq_num=2)
43 msg(seq_num=3 msg="そして妖精のように私の耳元に囁いて、重苦しい頭に魔法の粉を掛けて過ぎ去っていく。")
41 cmd42(seq_num=3)
43 msg(seq_num=4 msg="そこはこの街で──私が最も気に入っている場所だった。")
41 cmd42(seq_num=4)
43 play_music(track_num=11 t=1000 smth1=1 smth2=0)
cmd60(smth1=2 smth2=0 t=1000)
show_bg(smth1=3 filename="bg002" smth2=0 t=1000)
msg(seq_num=5 msg="……近頃、調子が良くない。")
41 cmd42(seq_num=5)
43 msg(seq_num=6 msg="物書きとしての生活を始めて既に三年の月日が経つ。")
41 cmd42(seq_num=6)
43 msg(seq_num=7 msg="その間、様々な文学賞を頂戴する運びとなった。")
41 cmd42(seq_num=7)
43 msg(seq_num=8 msg="「文学界に期待の新星登場！」")
41 cmd42(seq_num=8)
44 msg(seq_num=9 msg="などという使い古された文句で恥ずかしくも大々的に取り上げられ──")
41 cmd42(seq_num=9)
43 msg(seq_num=10 msg="「若手気鋭、次々に文学賞を総なめ」")
41 cmd42(seq_num=10)
44 msg(seq_num=11 msg="との何の捻りもない売り出し文句を出版物の帯に付けられた。")
41 cmd42(seq_num=11)
43 msg(seq_num=12 msg="それは有り難い事なのだろう。私自身、確かに目指していた賞をこの手にしたのだから。")
41 cmd42(seq_num=12)
43 msg(seq_num=13 msg="しかし早かった。")
41 cmd42(seq_num=13)
44 msg(seq_num=14 msg="──あまりにも呆気なさ過ぎたのだ。")
41 cmd42(seq_num=14)
43 msg(seq_num=15 msg="贅沢な悩みと人は嘲笑うだろう。だが事実、それは私に何ら劇的な感慨をも呼び込まなかった。")
41 cmd42(seq_num=15)
43 msg(seq_num=16 msg="この三年で出した作品の数は決して多くない。")
41 cmd42(seq_num=16)
43 msg(seq_num=17 msg="いや、確かに当初は受賞の喜びから精力的に作品を発表し続けていたが、そのどれもが何かしら受賞されているとなれば──")
41 cmd42(seq_num=17)
43 msg(seq_num=18 msg="文学賞は勲章ではなかった。少なくとも私にとって、それは誇りとはならなかった。")
41 cmd42(seq_num=18)
43 play_sound(filename="se118" smth1=0)
wait(seq_num=4 smth1=0 t=2700)
msg(seq_num=19 msg="……そして私の筆は停滞して止まった。")
41 cmd42(seq_num=19)
43 msg(seq_num=20 msg="目指すものが見出せなくなったのだ。")
41 cmd42(seq_num=20)
43 msg(seq_num=21 msg="だからこうして微風に身を晒して頭を冷やしている。")
41 cmd42(seq_num=21)
43 msg(seq_num=22 msg="──いつものように。この場所で。")
41 cmd42(seq_num=22)
43 msg(seq_num=23 msg="私自身の在り方を見詰め直すかのように、瞳を閉ざして。")
41 cmd42(seq_num=23)
43 show_black(smth1=5 smth2=0 t=1000)
msg(seq_num=24 msg="──それはふとした気紛れだった。")
41 cmd42(seq_num=24)
43 show_bg(smth1=6 filename="bg004" smth2=0 t=1000)
msg(seq_num=25 msg="いつもと同じ帰路、いつもと変わらぬ風景。")
41 cmd42(seq_num=25)
43 msg(seq_num=26 msg="この日、私がいつもと違う道を行こうと思ったのは、ふとした気紛れだったのだ。")
41 cmd42(seq_num=26)
43 msg(seq_num=27 msg="見た事もない小道だった。")
41 cmd42(seq_num=27)
43 msg(seq_num=28 msg="この街に住んで随分と経つが、このような未だ知らぬ道に出会う喜びは何事にも変えられない。")
41 cmd42(seq_num=28)
43 msg(seq_num=29 msg="見慣れぬ景色、親しみのない家々。")
41 cmd42(seq_num=29)
44 msg(seq_num=30 msg="行き交う人々にも、見知った顔は一つもない。")
41 cmd42(seq_num=30)
43 msg(seq_num=31 msg="長年住んだこの街にもこんな顔があるのだと、新たな発見はまるで異世界に迷い込んだような感覚を私にもたらしてくれる。")
41 cmd42(seq_num=31)
43 msg(seq_num=32 msg="街はまるで質の悪い増殖を重ねるかのように常に移り変わり往くものだ。")
41 cmd42(seq_num=32)
43 msg(seq_num=33 msg="だからこそ、このような昔から変わらぬであろう光景には憧憬さえ覚える。")
41 cmd42(seq_num=33)
43 msg(seq_num=34 msg="まるでいつか通った道だという、望郷に似た想いさえ込み上げる。")
41 cmd42(seq_num=34)
43 msg(seq_num=35 msg="私の脚が止まったのは、何も懐かしさに心惹かれたからではない。")
41 cmd42(seq_num=35)
43 msg(seq_num=36 msg="そこには時代錯誤と呼ぶに相応しい、古びた古書店があった。")
41 cmd42(seq_num=36)
43 msg(seq_num=37 msg="いや──恐らく古書店であろう、というべきなのだろうか。")
41 cmd42(seq_num=37)
43 msg(seq_num=38 msg="店頭の──果たして客寄せになるのだろうか──本棚がなければ、少なくとも何を売っている店なのかもわからない。")
41 cmd42(seq_num=38)
43 msg(seq_num=39 msg="擦り切れた店の名刺に掲げられていた文字は『蜜柑屋』。")
41 cmd42(seq_num=39)
43 61 00 00 00 07 00 00 03 e8 msg(seq_num=40 msg="……この時、呼ばれたような気がしたのは、きっと気の所為なのだと思う。")
41 cmd42(seq_num=40)
43 play_music(track_num=4 t=1000 smth1=1 smth2=0)
show_bg(smth1=8 filename="bg005" smth2=0 t=0)
cmd60(smth1=9 smth2=0 t=1000)
msg(seq_num=41 msg="しかし気付けば、私は『蜜柑屋』に足を踏み入れていた。")
41 cmd42(seq_num=41)
43 msg(seq_num=42 msg="まるで誘われるかのように。")
41 cmd42(seq_num=42)
43 msg(seq_num=43 msg="この時、どうしてそんな気分になったのかは未だに解らない。")
41 cmd42(seq_num=43)
43 msg(seq_num=44 msg="古書店に限らず、昔ながらの書店は本が傷まないように直射日光を避ける間取りとなっているものだが──")
41 cmd42(seq_num=44)
43 msg(seq_num=45 msg="それにしてもこの店は薄暗い。")
41 cmd42(seq_num=45)
43 msg(seq_num=46 msg="日光が入り込まないよう南向きになっているにも関わらず、店内には照明と呼べるものは奥に鎮座する骨董品のランプのみ。")
41 cmd42(seq_num=46)
43 msg(seq_num=47 msg="ましてや昼日中の今ではランプに灯りも点っておらず、遮断されてもなお僅かに差し込む太陽の滴が唯一の光源だ。")
41 cmd42(seq_num=47)
43 play_sound(filename="se87" smth1=0)
msg(seq_num=48 msg="一歩足を踏み入れると、むっとする程の黴臭さが鼻孔を襲う。")
41 cmd42(seq_num=48)
43 msg(seq_num=49 msg="それは何も本棚に犇く書籍から発せられるばかりではない。")
41 cmd42(seq_num=49)
43 msg(seq_num=50 msg="染み出した異臭はこの店そのものに染み付いてしまったかのように、そこかしこから臭いを発して客を迎え入れていた。")
41 cmd42(seq_num=50)
43 msg(seq_num=51 msg="……墓場。")
41 cmd42(seq_num=51)
43 msg(seq_num=52 msg="それがこの店の第一印象だった。")
41 cmd42(seq_num=52)
43 play_sound(filename="se87" smth1=0)
msg(seq_num=53 msg="まるで時の流れに置いてきぼりにされたかのような、地に足がつかない奇妙な浮遊感。")
41 cmd42(seq_num=53)
43 msg(seq_num=54 msg="……不思議な感覚だった。")
41 cmd42(seq_num=54)
43 msg(seq_num=55 msg="自分の居場所を見失ってしまったかのような──")
41 cmd42(seq_num=55)
44 msg(seq_num=56 msg="本棚から顔を覗かせる書籍達はまるで死者のように蒼褪めていて、虚ろに私を見下ろしているかのようだった。")
41 cmd42(seq_num=56)
43 msg(seq_num=57 msg="建ち並ぶ墓石の中に、私独りが生きたまま、相容れない存在として歩んでいるかのような。")
41 cmd42(seq_num=57)
43 msg(seq_num=58 msg="隙を見せれば背後から──死者達のうねりに引き摺り込まれてしまうかのような薄ら寒い予感。")
41 cmd42(seq_num=58)
43 msg(seq_num=59 msg="ここは……いったい何だ？")
41 cmd42(seq_num=59)
43 play_voice(filename="shu00000")
msg(seq_num=60 msg="【店主】")
msg(seq_num=61 msg="「──何か、お探し物ですか？」")
41 cmd42(seq_num=60)
43 msg(seq_num=62 msg="その時だった。")
41 cmd42(seq_num=61)
43 msg(seq_num=63 msg="奥の暗がりの──まるでその闇を一部分切り取ったかのように、黒き色彩が揺らめいた。")
41 cmd42(seq_num=62)
43 show_spr00(smth1=10 some="shu4d")
00 01 02 ee msg(seq_num=64 msg="蔭はゆらりと私の前に姿を現し、やがて日光に晒されて人の形を取った。")
41 cmd42(seq_num=63)
43 msg(seq_num=65 msg="この暗澹とした墓場に相応しい、青白く不吉な形相を浮かべて。")
41 cmd42(seq_num=64)
43 play_voice(filename="shu00010")
msg(seq_num=66 msg="【店主】")
msg(seq_num=67 msg="「……お探し物なのでございましょう？」")
41 cmd42(seq_num=65)
43 msg(seq_num=68 msg="燕尾服に身を包んだ男は、帽子の鍔が生み出す蔭に埋もれた眼で私を値踏みしているかのようだった。")
41 cmd42(seq_num=66)
43 msg(seq_num=69 msg="妖しげな視線に晒されて思わず口篭った私に男は問い掛ける。")
41 cmd42(seq_num=67)
43 play_voice(filename="shu00020")
msg(seq_num=70 msg="【店主】")
msg(seq_num=71 msg="「ここへいらっしゃったという事は、呼ばれたのでございましょう？」")
41 cmd42(seq_num=68)
43 play_voice(filename="shu00030")
msg(seq_num=72 msg="【店主】")
msg(seq_num=73 msg="「聞こえたのは悲鳴でございますか？　くくく……」")
41 cmd42(seq_num=69)
43 msg(seq_num=74 msg="包帯の隙間から覗く口元が──まるで嘲笑うかのように不敵な笑みを浮かべた。")
41 cmd42(seq_num=70)
43 msg(seq_num=75 msg="私は──恐らくこの店の主であろう──男の奇妙な物言いに閉口した。")
41 cmd42(seq_num=71)
43 msg(seq_num=76 msg="……何だ、この男は……。")
41 cmd42(seq_num=72)
43 msg(seq_num=77 msg="店主は私のそんな想いにようやく気付いたとばかり、媚びの浮いた笑みを見せた。")
41 cmd42(seq_num=73)
43 show_spr01(smth1=11 some="shu4d")
01 01 00 00 play_voice(filename="shu00040")
msg(seq_num=78 msg="【店主】")
msg(seq_num=79 msg="「おや……驚かせてしまったようですな。これは失礼をば──」")
41 cmd42(seq_num=74)
43 play_voice(filename="shu00050")
msg(seq_num=80 msg="【店主】")
msg(seq_num=81 msg="「なにせ久方振りのお客様でして……卑め（わたし）もつい、はしゃいでしまいました」")
41 cmd42(seq_num=75)
43 msg(seq_num=82 msg="そうして店主は店内に招き入れるかのように純白の手袋に包まれた指先を広げた。")
41 cmd42(seq_num=76)
43 play_voice(filename="shu00060")
msg(seq_num=83 msg="【店主】")
msg(seq_num=84 msg="「ささ、どうぞお手に取って御覧下さいませ」")
41 cmd42(seq_num=77)
43 play_voice(filename="shu00070")
msg(seq_num=85 msg="【店主】")
msg(seq_num=86 msg="「ここは場末の古書店──扱う商品も滅多にお目にかかれないものばかりでございます」")
41 cmd42(seq_num=78)
43 hide_spr(smth1=12 some="shu4d")
10 00 00 msg(seq_num=87 msg="…………。")
41 cmd42(seq_num=79)
43 msg(seq_num=88 msg="私は気まずい思いに駆られながら、それでもこの場をやり過ごすようにして本棚を眺めた。")
41 cmd42(seq_num=80)
43 msg(seq_num=89 msg="本心ではこんな場所からは直ぐにでも出たかったのだが、店の奥から私を眺めながら薄笑いを浮かべている店主の存在に気後れしていたのだ。")
41 cmd42(seq_num=81)
43 msg(seq_num=90 msg="騙し騙し、適当に古本を片手に取りながらページを捲り……出て行く隙を伺っていた。")
41 cmd42(seq_num=82)
43 msg(seq_num=91 msg="この時、思わず本の背表紙に自分の名前を探してしまったのは、私にも少なからずある虚栄心であろうか。")
41 cmd42(seq_num=83)
43 play_sound(filename="se44" smth1=0)
wait(seq_num=13 smth1=0 t=1000)
msg(seq_num=92 msg="──やがて私は奇妙な事に気付いた。")
41 cmd42(seq_num=84)
43 msg(seq_num=93 msg="どの本も後半部分が空白になっているのだ。")
41 cmd42(seq_num=85)
43 msg(seq_num=94 msg="初めは乱丁本が紛れていたのかと思ったが、そうではない。")
41 cmd42(seq_num=86)
44 msg(seq_num=95 msg="手に取る本の全てが、中程から先──白紙なのだ。")
41 cmd42(seq_num=87)
43 msg(seq_num=96 msg="後半部分だけならまだ良い方だった。")
41 cmd42(seq_num=88)
44 msg(seq_num=97 msg="場合によっては冒頭の三行ほどが印字してあって、後が全て白紙というものまであった。")
41 cmd42(seq_num=89)
43 msg(seq_num=98 msg="……何のつもりだ？")
41 cmd42(seq_num=90)
43 msg(seq_num=99 msg="私は腹を立てた。冗談にしても、これはやり過ぎだ。")
41 cmd42(seq_num=91)
43 msg(seq_num=100 msg="一体どういう了見でこんな乱丁本ばかりを並べているのか？")
41 cmd42(seq_num=92)
43 msg(seq_num=101 msg="私は手にした本を押し込めるようにして仕舞い、改めて本棚を見渡してみたが──")
41 cmd42(seq_num=93)
43 msg(seq_num=102 msg="…………！！")
41 cmd42(seq_num=94)
43 msg(seq_num=103 msg="そこには様々に名の知れた作家達が軒を連ねていたが──")
41 cmd42(seq_num=95)
44 msg(seq_num=104 msg="そのどれもが、書店で見掛けた覚えの無いタイトルばかりだった。")
41 cmd42(seq_num=96)
43 msg(seq_num=105 msg="背表紙に刻まれた著者の名に覚えはあっても、その作品に冠せられた表題には一つもお目にかかったものがなかったのだ。")
41 cmd42(seq_num=97)
43 msg(seq_num=106 msg="何だ……これは……。")
41 cmd42(seq_num=98)
43 msg(seq_num=107 msg="中には戦後の文学史にその名を刻んだ、私の崇拝する著者の名もある。")
41 cmd42(seq_num=99)
44 msg(seq_num=108 msg="だがその背表紙に描かれたタイトルは──")
41 cmd42(seq_num=100)
43 msg(seq_num=109 msg="発表される事無く、書き掛けのまま没してしまった幻の作品ではないか！！")
41 cmd42(seq_num=101)
43 msg(seq_num=110 msg="……私は思わず、よろけるように後退った。")
41 cmd42(seq_num=102)
43 play_sound(filename="se134" smth1=0)
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msg(seq_num=111 msg="背後の本棚にぶつかり、衝撃で本が何冊か零れ落ちた。")
41 cmd42(seq_num=103)
43 msg(seq_num=112 msg="私は眩暈に似た症状の中で、零れ落ちた書籍を何ともなしに見つめ──")
41 cmd42(seq_num=104)
43 msg(seq_num=113 msg="なっ……！")
41 cmd42(seq_num=105)
43 msg(seq_num=114 msg="そうして、思わず息を呑んだ。")
41 cmd42(seq_num=106)
43 msg(seq_num=115 msg="私の目に飛び込んできたものは『虚ろなる器』と題された古書。")
41 cmd42(seq_num=107)
43 msg(seq_num=116 msg="引出しの奥に仕舞った物が、ふとした弾みで転がり出たような──懐かしい感覚。")
41 cmd42(seq_num=108)
44 msg(seq_num=117 msg="脳裏を掠める記憶。")
41 cmd42(seq_num=109)
43 msg(seq_num=118 msg="そして著者の欄に記された名は『桐生素』（きりゅうはじめ）。")
41 cmd42(seq_num=110)
43 msg(seq_num=119 msg="つまりはこの私。")
41 cmd42(seq_num=111)
44 msg(seq_num=120 msg="お粗末な文章書きである、この私の名前だ。")
41 cmd42(seq_num=112)
43 msg(seq_num=121 msg="【素】")
msg(seq_num=122 msg="「馬鹿な！　どうして……！！」")
41 cmd42(seq_num=113)
43 msg(seq_num=123 msg="私は焦燥の思いで本を手にした。")
41 cmd42(seq_num=114)
43 msg(seq_num=124 msg="震える指先の振動で揺れる『虚ろなる器』──")
41 cmd42(seq_num=115)
44 msg(seq_num=125 msg="そうだ、もう何年前になるだろう。")
41 cmd42(seq_num=116)
43 msg(seq_num=126 msg="未完のまま投げ出した、私の初期の作品だ。")
41 cmd42(seq_num=117)
43 msg(seq_num=127 msg="物語そのものの展開は考えていたのだが、ヒロイン役の少女がどうもしっくりと来ず、あれこれと思い悩んだまま放置し──")
41 cmd42(seq_num=118)
43 msg(seq_num=128 msg="そっと引出しの奥に仕舞い込むかのようにして、そのまま忘れ去ってしまった作品だ。")
41 cmd42(seq_num=119)
43 msg(seq_num=129 msg="そうしていつか、いつかと思いを巡らせている内に受賞やら何やらで忙殺され、記憶の片隅に追いやられてしまったものだ。")
41 cmd42(seq_num=120)
43 play_sound(filename="se44" smth1=0)
wait(seq_num=15 smth1=0 t=1000)
msg(seq_num=130 msg="そしてその通り、手に取った『虚ろなる器』は未完成で──")
41 cmd42(seq_num=121)
44 msg(seq_num=131 msg="私の筆が止まった箇所まで忠実に再現されていた。")
41 cmd42(seq_num=122)
43 msg(seq_num=132 msg="そこから先がまったくの白紙なのだ。")
41 cmd42(seq_num=123)
43 msg(seq_num=133 msg="この店の本棚に犇く書籍達と同じように。")
41 cmd42(seq_num=124)
43 msg(seq_num=134 msg="私の手を離れた未完の作品が時を越えたように、今ここにあった。")
41 cmd42(seq_num=125)
43 play_voice(filename="shu00080")
msg(seq_num=135 msg="【店主】")
msg(seq_num=136 msg="「やはり──呼ばれたのでございますね、お客様」")
41 cmd42(seq_num=126)
43 show_spr00(smth1=16 some="shu4d")
00 01 00 00 msg(seq_num=137 msg="いつの間にか私の横に店主が立っていた。")
41 cmd42(seq_num=127)
43 msg(seq_num=138 msg="【素】")
msg(seq_num=139 msg="「何だ！　何だこれは──」")
41 cmd42(seq_num=128)
43 msg(seq_num=140 msg="私は焦燥に後押しされて一気に捲し立てた。")
41 cmd42(seq_num=129)
43 msg(seq_num=141 msg="【素】")
msg(seq_num=142 msg="「どうしてこれがここにある！？　これは──『虚ろなる器』は……」")
41 cmd42(seq_num=130)
43 play_voice(filename="shu00090")
msg(seq_num=143 msg="【店主】")
msg(seq_num=144 msg="「はい。お客様の未完の作品でございます」")
41 cmd42(seq_num=131)
43 msg(seq_num=145 msg="店主は全てを知り尽くしているかのような口調で、鮮やかな冷笑を浮かべた。")
41 cmd42(seq_num=132)
43 play_voice(filename="shu00100")
msg(seq_num=146 msg="【店主】")
msg(seq_num=147 msg="「桐生……素様」")
41 cmd42(seq_num=133)
43 msg(seq_num=148 msg="【素】")
msg(seq_num=149 msg="「どうして私を……」")
41 cmd42(seq_num=134)
43 play_voice(filename="shu00110")
msg(seq_num=150 msg="【店主】")
msg(seq_num=151 msg="「くくっ……何故と云って──」")
41 cmd42(seq_num=135)
43 play_voice(filename="shu00120")
msg(seq_num=152 msg="【店主】")
msg(seq_num=153 msg="「その本はいつも泣き叫んでおりましたもので。朝といわず夜といわず……」")
41 cmd42(seq_num=136)
43 play_voice(filename="shu00130")
msg(seq_num=154 msg="【店主】")
msg(seq_num=155 msg="「毎日毎日、哀しげに……お客様のお名前をすすり泣いておりましたのでね。卑めも覚えてしまいました」")
41 cmd42(seq_num=137)
43 msg(seq_num=156 msg="【素】")
msg(seq_num=157 msg="「ふざけるな！　あんた何を……」")
41 cmd42(seq_num=138)
43 play_voice(filename="shu00140")
msg(seq_num=158 msg="【店主】")
msg(seq_num=159 msg="「これは戯れではございませんよ、お客様」")
41 cmd42(seq_num=139)
43 play_voice(filename="shu00150")
msg(seq_num=160 msg="【店主】")
msg(seq_num=161 msg="「お客様も聞こえたのでございましょう？」")
41 cmd42(seq_num=140)
43 play_voice(filename="shu00160")
msg(seq_num=162 msg="【店主】")
msg(seq_num=163 msg="「完結されなかった物語の悲鳴が……聞こえたのでございましょう？」")
41 cmd42(seq_num=141)
43 play_voice(filename="shu00170")
msg(seq_num=164 msg="【店主】")
msg(seq_num=165 msg="「だからここへいらっしゃった──違いますかな？」")
41 cmd42(seq_num=142)
43 msg(seq_num=166 msg="【素】")
msg(seq_num=167 msg="「な、何を……」")
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msg(seq_num=168 msg="【素】")
msg(seq_num=169 msg="「ひっ……！」")
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wait(seq_num=18 smth1=0 t=1000)
msg(seq_num=170 msg="まるで柳のように揺れる指先で頭を撫で上げられたような感触が通り抜け、私は思わず手にした本を投げ落とした。")
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43 msg(seq_num=171 msg="【素】")
msg(seq_num=172 msg="「なっ……な……」")
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43 msg(seq_num=173 msg="【店主】")
msg(seq_num=174 msg="「…………」")
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43 msg(seq_num=175 msg="店主は無言のまま黴臭い床に落ちた本を拾い上げると、まるで物思いに浸るかのように呟き始めた。")
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43 play_voice(filename="shu00190")
msg(seq_num=176 msg="【店主】")
msg(seq_num=177 msg="「文筆とは誠に不思議なものでございますな。一時前までは白紙だった原稿──そこにインクが零れることによって、一つの世界が生まれる」")
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msg(seq_num=178 msg="【店主】")
msg(seq_num=179 msg="「空っぽだった世界に色が生まれる。そして一人の人間が生まれる。……物語という名のね」")
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43 play_voice(filename="shu00210")
msg(seq_num=180 msg="【店主】")
msg(seq_num=181 msg="「一度でも筆を通した原稿には命が宿るものでございますよ。何故なら──物語は始まってしまったのですから」")
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43 msg(seq_num=182 msg="【素】")
msg(seq_num=183 msg="「…………」")
41 cmd42(seq_num=152)
43 play_voice(filename="shu00220")
msg(seq_num=184 msg="【店主】")
msg(seq_num=185 msg="「……しかしながら、ここにあるものは物語としての本懐を全う出来なかったもの……」")
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43 play_voice(filename="shu00230")
msg(seq_num=186 msg="【店主】")
msg(seq_num=187 msg="「御覧になったのでございましょう？　生の息吹を与えられながらも、中途で筆を置かれた白紙の書物達を」")
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43 msg(seq_num=188 msg="【素】")
msg(seq_num=189 msg="「…………」")
41 cmd42(seq_num=155)
43 play_voice(filename="shu00240")
msg(seq_num=190 msg="【店主】")
msg(seq_num=191 msg="「ここは──そう、命の息吹を吹き込まれながらも未完のまま捨てられた物語たちの墓場でございます」")
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43 msg(seq_num=192 msg="【素】")
msg(seq_num=193 msg="「あっ……あんた、何を云ってるんだ？」")
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msg(seq_num=194 msg="【店主】")
msg(seq_num=195 msg="「……おや、悲鳴が止みましたな」")
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43 msg(seq_num=196 msg="【素】")
msg(seq_num=197 msg="「えっ……」")
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43 play_voice(filename="shu00260")
msg(seq_num=198 msg="【店主】")
msg(seq_num=199 msg="「どうやら『虚ろなる器』は安堵したようです。自らの造物主の手へと還り、再び物語の結末へと導いて貰えると……」")
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msg(seq_num=200 msg="【店主】")
msg(seq_num=201 msg="「……非常にご機嫌な様子でございますよ、お客様」")
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msg(seq_num=202 msg="【店主】")
msg(seq_num=203 msg="「さあ、お客様……」")
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43 msg(seq_num=204 msg="店主はすっ……と私に『虚ろなる器』を差し出した。")
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msg(seq_num=205 msg="【店主】")
msg(seq_num=206 msg="「物語の続きを紡ぐのは他の誰でもございません。命を宿した貴方でございます」")
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43 play_voice(filename="shu00300")
msg(seq_num=207 msg="【店主】")
msg(seq_num=208 msg="「白紙を埋め尽くすインクの群れが織り成す物語……それこそが創作であります」")
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msg(seq_num=209 msg="【店主】")
msg(seq_num=210 msg="「これから先、どのような展開へと導くのか……事の顛末を自らの手で生み出す事が出来るのですから」")
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43 play_voice(filename="shu00320")
msg(seq_num=211 msg="【店主】")
msg(seq_num=212 msg="「男女が愛を語り、目合い……一つの物語が生まれ、そして完結する。それが物語の本懐」")
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43 play_voice(filename="shu00330")
msg(seq_num=213 msg="【店主】")
msg(seq_num=214 msg="「未完のまま捨てられた物語は──だから彷徨い、こうして卑めの許に集まって来たのでしょう」")
41 cmd42(seq_num=168)
43 msg(seq_num=215 msg="【素】")
msg(seq_num=216 msg="「…………」")
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msg(seq_num=217 msg="【店主】")
msg(seq_num=218 msg="「さあ、何処へ旅立ちましょうか？　全てはお客様の思うがまま──貴方の空想の翼が降り立つ世界へと」")
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msg(seq_num=219 msg="【店主】")
msg(seq_num=220 msg="「さあ、お好きな女性と愛を語らうが宜しい。全てはお客様の思うがまま──お好きな結末を迎えるが宜しい」")
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msg(seq_num=221 msg="【店主】")
msg(seq_num=222 msg="「すべては、続く世界を描くお客様次第でございます」")
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msg(seq_num=223 msg="私は狐につままれたような、一種異様な気分に翻弄されたまま店を後にし──")
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msg(seq_num=224 msg="──そしてここに一冊の書物がある。")
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msg(seq_num=225 msg="私がかつて筆を通し、そして未完のまま筆を置いた作品。")
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43 msg(seq_num=226 msg="『虚ろなる器』だ。")
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43 msg(seq_num=227 msg="釈然としない気持ちのまま、私は机の上に置いた本を広げた。")
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msg(seq_num=228 msg="一頁……")
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44 msg(seq_num=229 msg="二頁と、")
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44 msg(seq_num=230 msg="捲る毎にかつての私が描いた情景が思い出され、まるで日記を読み返しているかのような気恥ずかしくも淡い気持ちに包まれる。")
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43 msg(seq_num=231 msg="そして──ふと、頁を捲る指が止まる。")
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44 msg(seq_num=232 msg="その先は白紙だ。")
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43 msg(seq_num=233 msg="あの黒装束の男の云う通りならば、これこそがこの『虚ろなる器』があの蜜柑屋なる奇妙な店の本棚に並んだ理由。")
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43 msg(seq_num=234 msg="筆は主人公の相手方であるヒロインを描く処で止まっている。")
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43 msg(seq_num=235 msg="名は決まっている。")
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43 msg(seq_num=236 msg="……“希”。")
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43 msg(seq_num=237 msg="だが全ては白紙。名前以外のものは何一つ決まっていない。")
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43 msg(seq_num=238 msg="思わせぶりな冒頭を少し書いただけで……筆が止まったのだ。")
41 cmd42(seq_num=188)
43 msg(seq_num=239 msg="“器”に注ぎ込むべき中身が決まらずに、私の思考は思い悩んだ挙句に何処かへ彷徨し、そうしてこの作品に取り組む情熱が消え失せてしまった。")
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43 msg(seq_num=240 msg="だからタイトルが『虚ろなる器』なのだ。")
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43 msg(seq_num=241 msg="これは本来作品を反映するべき、物語の顔となる表題ではない。")
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43 msg(seq_num=242 msg="物語の肝心な部分が空っぽのまま放置した己への自嘲であったのだ。")
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44 msg(seq_num=243 msg="引出しの奥に仕舞う前にそっと付けた、せめてもの責任。")
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43 msg(seq_num=244 msg="【素】")
msg(seq_num=245 msg="「…………」")
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43 msg(seq_num=246 msg="そして今、私は時を遡るかのようにして、当時では描ききれなかった構想を思い返していく。")
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43 msg(seq_num=247 msg="それは何も、ただ過去をなぞるだけの単純な動作ではない。今だからこそ浮かぶ着想も盛り込んでいく。")
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43 msg(seq_num=248 msg="どんな舞台で、どんな話を展開して行こうか……？")
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