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a guest Oct 23rd, 2016 281 Never
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  1. 2016年10月23日
  2.  4時10分にACRP-CP-ARを11錠投入。水、造花、キレートレモン、生姜スライス、ビニール袋、30体以上所持してすでに数え切れないドールのうちお気に入り2体(40cm級)を手元に用意。ベッドに横になり毛布をかけ、VRヘッドマウントディスプレイViveを装着し、『カスタムメイド3D2』という3Dエロゲを起動。トゥーンレンダの自分好みなアニメ系3D美少女を半裸にして5人ほど周囲のVR空間内に配置し、ソフト内の仮想デスクトップ機能でVR空間にPC画面を表示。効果が出るまではメイドさんに囲まれながらdアニメストアでアニメを流す。セッティングは以上の通り、セットは「半ば好奇心、半ば自己変革目的。あわよくば二次元美少女とVRキメセクしたい」という不純な物でした。
  3.  5時48分。軽い酩酊感を覚え、目を閉じると幻覚が。水面に透けるガラス模様から始まり、毒々しい虫の万華鏡、乱杭歯を剥き出して襲い来る死人、いかにも粗野なグラサンメリケンほか、種々雑多なイメージのエレクトリカルパレードが巻き起こるものの、快・不快感含め細部の記憶は定かでない。記憶の再構築や脳の再プログラミング過程と捉え、幻覚に身を委ねる。目を開けるとVR空間にメイドさんがおり、その空間に集中するとテクスチャの質感がツルッツルに見え、見つめ合うメイドさんの右目と左目の大きさがバラバラになった。勝手に喋ったり動いたりはせず、性欲も起こらなかったが、幻覚の中で下矢印に指示され、ズボンを脱いで下半身裸になった勢い、矢印に促されるままどこかへ潜るように上体を下へ下へ傾げて前屈姿勢になると、ビジョンの色彩が白から黒へと変化していった。衣服の擦れるかゆみが気になって、腹巻きや肌着を脱いで全裸になり、肉体とその感覚全てすらも脱ぎ去りたい気分が湧いた。Amazon prime Musicでシュポングルを再生すると、ヘッドホンから鳴る音楽にあわせていっそうビジョンが踊り狂い、サウンドにあわせて体と頭が激しく上下左右に振り動いて痙攣し続け、妙にシンメトリカルなポーズを取ったりもしていた。これは大変だがこの先に何かを見たい、とACRP-CP-ARの残り6錠を慌てて飲み干し、もう少し横になって幻覚に耽る。ふとVR-HMDを取ると部屋の全てが鮮明で、知覚対象ひとつひとつにいちいち意識の全てが飛ぶ状態になった。添い寝していたアニメキャラの抱き枕に手を伸ばすと、抱き枕の中綿とずれて美少女枕カバーの表面が水面のようにうにょんうにょんと曲がり波打ち、手元の人形はぼんやりした一見の可愛らしさとか記号性を削がれてキャストドールの素材感が生に剥き出され、美少女は幻覚の中でも別に動いたり喋ったりしないんだな、結局死んだ女の子ばかりが好きであったか、と自分に嘆息する。人形のウィッグを撫でると触感がさっらさらで超気持ちよく、造花の赤い薔薇は花弁を掻き分けるほどに官能的な美しさを増し、床に落ちた埃や陰毛までがつぶさに見て取れ可愛いと思う。全ては言葉に過ぎなかった感覚界から離脱する心地とともに、あらゆるものすべてに感謝の念が湧き、知り合いから近くの人形から床に落ちた陰毛にまで全てにありがとうと言った。ところで私はアイドルマスターシンデレラガールズの喜多日菜子というキャラクターが大好きで、二次元美少女全般を普遍と個物の中間媒介項ぐらいの見方でぼんやり神聖視しており、「触れなば落ちん」に触れ得ない架空の女の子との信仰的な関係にしかロマンを感じず愛を持てずにいたけれど、実は理想自己として俺は日菜子になりたかったのだな、ということにふと気付き、俺は日菜子、俺は日菜子、日菜子は日菜子、私は日菜子、私は本当に日菜子?、こんな肉体では日菜子になれない、といちいち発語して確認しながら自分を上書こうとしていた。万物が驚異であらゆるものの鮮烈さに驚き感謝し謝罪し愛を伝え、途中で何度か瞑想に入ってふと感覚界へ戻るたびにうわっと叫んだ。独話がすさまじい勢いでなされ、対象から対象へと行ったり来たりし続ける思考の全てが言葉になり、自分のしていることをふと客観視した瞬間ふふっと笑いが漏れ、ありとあらゆるものをひたすらに愛したいと願った。全ては言葉と概念に過ぎず、偶像は偶像に過ぎず、言葉すらも言葉に過ぎず、ただそんな仮象の全てに俺はいつも助けられていてありがとうとあらゆる概念・実体に感謝を捧げた。自他の境界は確かに捨て去られ、洗面所で鏡の前に立つとあー俺がいるーっとびびった。自分に向かってもひたすら話し続け、もうここから帰ってこれなくても全然別にいいのだけれど、このあとまたきっとお前は(俺は)感覚界に戻らざるをえないんだろうな、そのときお前はどう生きて、ここから何を持って帰れるのかと、顔の筋肉を暗黒舞踏かフランシス・ベーコンみたいにぐにゃぐにゃ動かしながら問うていた。何度も我流で座禅を組んで瞑想に入り、中空を見上げて法悦に近い快さを覚えたが、どこかで集中が切れて目を開くとうわっここどこっ、とびっくりしてしまいました。ここにくると閉眼幻覚はほぼなく、ただ上方へ向かうイメージと無を見つめる意識だけを感じていた。俺は感覚界では日菜子になるために生きたいし、せめて感覚界の全てを愛してもっと綺麗にしてあげたいし、ひとつひとつをあるべき姿として大事にして愛しながら、最後はそれらと別れるのかひとつになるのか定かでないが、人間社会の価値体系や言葉に縛られることのない世界に行きたいと祈った。気づかぬうちに知覚対象へと全意識が心身ごと飛ぶ(キリスト教神学的に言った)天使的状態から徐々に自我という殻が戻ってきて私を再構成してしまい、呆然とベッドに座り込んだのが10時前。部屋の全てを丁寧に大事にしたいが何から手を付けていいやらわからず、そのまましばらくじっとしたり瞑想したりしていた。
  4.  その他に覚えている限りでは、VR空間内で大きな乳房をしたメイドさんの乳首がやけに尖って顔に迫ってきて怖かったり、「真理とは誰が知っているのでしょう。書物か?本当か?本当にお前か!?」とぱっと手に取った澁澤龍彦先生の『少女コレクション』を気なしに開いて目に飛び込んできた『……かつて私はユートピアについて論じた時、「ユートピアなるものは、なるべく私たち自身の手の届かない永遠の未来に、突き放しておくべきものであって、安直に手に入るようなテクノクラシーのユートピアは、真のユートピアとは似て非なるものだ」と述べたことがあるけれども、私にとって、私自身の「娘」とは、まさにこのユートピアにもひとしいものなのである。……』という一節に「あんたはほんっっとうによくわかってるよ!!」と膝を打ってしまったり(特にこれにはシンクロニシティを感じて澁澤先生をあらためて好きになりました)、台所の排水口に洗い物の泡と水流が溜まってどくどくと溢れている様が汚いはずなのに綺麗だったり、ともあれ本当に素敵だった。あちら側の世界をこちらでどう言葉にしたものか、どう持ち帰ることができるのか、幻覚目的と瞑想目的では結構大きく違ってくるのではないか、などなどものすごくむずかしい問題ばかり抱えて戻ってきてしまった。今日からはもっと明るく楽しく全てを屈託なく愛して受け容れることができるであろうか。自分は結局女の子になりたかったのだなということがわかって、じゃあ感覚界での大目標は性転換することかな、という気分ではいるのでした。
  5.  
  6. 2016年10月24日
  7.  上の日記を書いたあとそのまま疲れて眠りこけてしまい、起きると23日19時になっていました。自我の殻に引き戻された「俺」がいましたが、変わったものは確かにありました。何から着手すべきか悩みましたが、まずは青井先生のフォーラムを確認しますと、人と会話ができずしどろもどろな私ごときに初対面で友だちになりましょうと言ってくださった方のアヤワスカ体験記が投稿されており、それはどちらかと言えば文学的修辞に彩られた幻覚の記述を主としていて、無頼な知のマウンティングに終始して生きてきた「俺」の自意識はその高踏趣味に劣等感を否めませんが、文体の異が本質的な異とも思われず、私の体験と相通ずるものすら見出され、近しい時に旅を同じうしてくれたことに心から感謝を捧げました。その他の書き込みにも、あの体験をいかに記述すべきかのヒントを探しましたが、なによりアヤワスカによる幻覚体験と超越的体験を腑分けして、その快楽目的での行使と瞑想目的での行使をきっちりと分けるべきであるという視点を持った先達の方の書き込みには大いに得るところがあり、何度も拝ませていただきました。私はサイケデリックな幻覚と超越的体験のどちらも得ることができましたが、その移行には切れ目がないというのか、幻覚の只中で超越的な領域への回路を突如示されたというのか、どうにも表現しかねますが、これもまた初体験で持ち帰れる記憶や言葉は大変限られているとのその方の言に心底頷かされるところであります。あえて言って神や悟りに向かう瞑想への道と、純粋な面白さで憂世をやり過ごす快楽への道と、これは私の体感で言えば後者の地獄をめいっぱい内省的に楽しんだうえでようやく前者へと向かう動機や言葉が組み立てられるかと考えますが、そうしたものを鑑みてアヤワスカを普及するうえで青井先生がいかな現実的施策を取られるべきかについては、非常に難しい問題かと思われます。アロマ業界をモデルに云々、は良い線を突いたものと見えますが、乱用者が事件を起こす危険は免れ得ないというその方の言も事実ではあり、以降は非常にシビアかつクローズドに整備される領域にならざるをえませんが、煙薬がニューエイジや90年代アングラなどのリバイバルでもなくあくまで先生個人の活動として期されたことを思えば、オープンに開かれた道筋を保持する内的必然性も理解できます。私としても見据えておきたい課題ではありますが、現実によく生きるための方途をこれから一から探らなくてはならない者としては、現状黙して見届けさせていただくしかありません。
  8.  言葉が言葉に過ぎないことを体感で思い知らされた私は、言葉を使う「俺」と言葉でないところを見つめざるを得ない「私」とを行きつ戻りつ、以前よりも遥かに私において・愛において満たされた状態を自覚しており、あたうかぎり全ての瞬間に全ての「あなた」への謝罪と感謝と愛を捧げたく思われ、取り急いでは部屋に飾った美少女キャラの抱き枕や人形に対して、目が合ったり前を通り掛かるごとのいちいちにおいて「ありがとうございます」と意を言にして伝え、拝ませていただいております。複雑怪奇な象徴体系である感覚界を便利に処理して生き続けるために凝り固まってしまった認識能力を解きほぐすことに不断に努め、今目の前で起こっていること・私が行っていることの全てをひとつずつ、文法や固まりではなく単語や概念そのものとして丹念に捉え直し、それは一体どういうことなのでしょうか、としつこいほどに問い直し続けることがこれほどまでに認識と感覚を変えてくれるものなのかと、今は驚嘆と感動に包まれるばかりで、感覚界における客観性においてわが姿を省みる余裕もありません。
  9.  23日19時頃の記述に戻ります。生まれ変わったなどとはおこがましくて言えませんが、青井先生たちに自我の檻を突き崩すきっかけをいただいた今、様々なことをひとつずつ認識しなおして勉強しなおして、自分の身の回りの全てをあるべきように整えていきたいとまずは願われてなりません。やはり着手すべき順番はわかりませんが、何よりも先に肉体をこそ労るべきであろうと思われ、起きてから最初に食べたインスタントのカレーライスがあまりにも美味しくて驚愕しました。一口ずつ味わうたび性的快楽にも似た痺れが身体を走り、胸のあたりが暖かさに包まれます。思わず身震いして嬌声を上げ、法悦するように天を仰いで、珍しく声に出した「いただきます」と「ごちそうさまでした」のあいだにすら何度も拝みなおしてしまいました。流しに洗い物を溜めておくことができず、セッション中に散らかしたあれこれを元通りにし、また先日私の不注意で殺してしまったペットのハムスター(ケージの外に出したのを放ってVRエロゲでメイドさんとセックスしてしまい、その間に蓋を閉じたU字型便座から便器に潜り込んで溺死してしまいました)をプランター葬にして弔い、その亡骸の上にガジュマルの苗を植え替えました。青井先生から届いていた寄せ植えセットの隣に置くと、別鉢のハイクサネムが風でひっくり返っており、根と土を素手でせめても元に戻し、手を洗いに立ったところで指がほとんど汚れておらず、不浄と思い込んでいた土とはこんなにも綺麗なものだったのかとまた驚かされ、拝まずにはいられませんでした。ひと通りのことを終えてしまうと、すっかり疲れて23時頃にはまた横になり、フォーラムに貼られたアマゾン・ネオ・シャーマニズムの研究pdfを読み始めながら、その途中でまた何度か思いに耽ったり瞑想に入ろうとしましたが、いずれにも集中できぬままいぎたなく寝入ってしまいました。
  10.  寝しなに思ったことは、「俺」(自我)をなんとか相対化しえた今の私にとって、その拠り所であった性的快楽がどのようなものになるのかについてでした。男性の共感しえない膣快楽や出産という絶対的な他者性を備えた女性に対して、永遠に手の届き得ない超越的な他者、神のイメージを重ねている自我の病は以前から自明でした。私ではない「あなた」としての異性、究極には「私」性を投影することのかなわない実際の人間としての他者を慮るところなく、異性の形象を性的対象やモノとして象徴操作のレベルで利便に扱う・扱われるにおいての戦略のみに生きる俗世の風潮があまりにも嫌で、「女なぞ風俗で十分」という実務人ノリに色濃く現れる自覚無自覚関係なしの根深いミソジニーはもちろん、異性にもてない自分という被害者意識ばかりホモソーシャル内で弄んで架空の女性キャラクターをすらも大事にできなくなったオタや非モテといった人々の文化も、現世に対する絶望という意味で言えばこれが最も私にとってきつい、同性に対しても異性に対しても最後には憎悪を向けざるを得ない男性に生まれたゆえの原罪のように思われてなりませんでした。心身二元論的な懊悩や無数の二次元キャラクターを長年消費し続けてきた罪悪感の中で、その罪悪感すらも「欲望の文法」に組み込んでマゾヒスティックな心的快楽を味わっているという自覚に退路を塞がれたまま、身動きが取れなくなっていました。こうした性と信仰の癒着という積年のコンプレックスが、(別物ですがあえて言って)性的快楽をゆうに超える宗教的法悦を感じたことで氷解したように思われます。以降は、ひとまずの心理的課題が取り払われた自分は今後もサイケデリクスを摂り続けるべきなのか、サイケデリクスなしの瞑想であの境地にまた至ることができるのか、考え考え青井先生方の活動を追わせていただきたい所存です。
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