p.7 サリンジャーは死んでしまった p.7 (1) いきなり表題作。これは歌集を読み終わったあとにチャレンジする。 ========================================================= p.8-9 声もたぬ樹 p.8 (1)  俗っぽく好きな人のことを想う歌であると解釈してみる。  ここでいう「声」とはつまり言葉、相手へメッセージを伝える手段である。  声を持たない = 他人に直接気持ちを伝える手段がない ので、「きみ」のことを想う気持ちの逃げ場がない。やり場のない気持ちが心のなかで高まっていく心情を樹というモチーフに託していると言えるだろうか。  直接は伝えられない想いが物言わぬ青葉へと次々に昇華されていくイメージの美しさ。  またベタだが、言葉は「言の葉<ことのは>」とも言われるように葉っぱをモチーフとすることが多く、「沈黙」の象徴としての「樹」と、「言葉」の象徴としての「葉」が矛盾なく「好きな人への想い」へとつながっているというテクニカルな面も読んでいて面白い。 p.9 (1)  wikipediaによれば、遺伝とは「生殖によって、親から子へと形質が伝わるという現象」と定義されている。  また同時に「生物の基本的な性質の一つ」とも書かれている。「ありふれた」とはつまり生物にとって基本的な現象である、遺伝は決して特別なものではないという意味だろうか(このあたり、理解が怪しい)。  生物学、遺伝子学という眼鏡を通してみてみれば、「出会い」が「生殖によって、親から子へと形質が伝わるという現象」という「ありふれた」ものへと還元されてしまう、しかし本当の意味での「出会い」はそれだけで捉えられるものではない。  「遺伝子学」というごく限られた解釈と比較することで、「出会い」が持つより複雑な意味や価値を語っているように見える。 p.9 (2)  うう、難しい……。哲学とはなんだろうか。  デジタル大辞泉によると、「2 各人の経験に基づく人生観や世界観」という項目がある。  著者本人の属性を元に作品を解釈をするのはあまり良い方法ではない気がするのだが、他に手がかりが見つからず仕方がないのでやる。著者は20代でこの歌を作っている。不治の病を抱えているということもなさそうだ。そんな若くて健康な人が死について考えるとはつまり未来について考えることと同じである。自分と、同じ家庭で育った「自分によく似た他人」の、それぞれの人生やこれからの生き方について想像しているということだろう。  「人生とは」などという大上段に構えた思想ではなく、自分と「いもうと」の人生について考える、慎ましく親愛に満ちた「小さな哲学」。  「三月」だけよく分からない。春、人の暖かさや穏やかさを象徴しているのだろうか。 ========================================================= p.10-14 建築物 p.10 (1)  うぎゃー!!! わからない!!  目だけでなく耳(花々が風に揺れる音)、爪先(足元に触れる草花)など、全身を通して自然に触れている、ということなのだろうか。いやどうなんだ。ぜんぜん分からない。自然とのふれあいを忌避してきた人間なのでイメージのとっかかりさえつかめない。  「こぼれる」という表現は、ものが落ちたり、外に出たりするときに使われる。ただ落ちる/出るではなく、内側がいっぱいになってあふれ出るようなイメージである。目、耳、爪先を身体機能の末端(辺縁)とみなせば、自分の内側に花々が満ち、体の外へとあふれてこぼれ落ちる様子ということになる。  いやまて、「咲<ひら>いては」という表現がある。ということは、自分という容器から花がこんこんと湧き出している、というイメージよりは、自身を幹として花が咲いては落ち、咲いては落ちしているという理解のほうが適切だ。植物にとって花を咲かせるという行為は負担が大きいという。ということは花を咲かせ続けているその人の生命力の強さは尋常でない。やる気や気力に満ちあふれた自分を表現している、ということなのかもしれない。  しかしなぜ「目や耳や爪先」なのだろう。たとえば学芸会で「木の役」をやるとする。十中八九その人は両手を左右の斜め上に持ちあげて「これは枝である」と言いはる。このとき花が咲く場所は「腕の先」である。あるいは、「あなたの体から花が咲くとします。どこから咲きますか?」と問われたら、それは手の指先や頭の上と答えるような気がする(少なくとも自分はそう答える)。目や耳から花を咲かせる人がいたら吹き出してしまいそうだ。  「目」と「耳」が感覚器官であるから(本来花をインプットするはずの器官から花を咲かせるという面白みが狙いだった)ならば、花の匂いを感じるための「鼻」が選ばれないのは不自然だし、人間の体がもっとも植物に触れやすいのが「爪先」や「花の姿を映す目」ということなら、今度は「耳」というチョイス分からない。  ……うーん、根本的に何か勘違いしている気もしてきた。  著者の感性に追いつけず、理解が及ばなかった。無念。 p.11 (1)  宇宙の長い歴史に比べて自分が今まで生きてきた時間やこれから生きるであろう時間の小ささを想像している……というところまでは良いが、なぜそこでパンジーを咲かせてしまうのか。普通この流れでパンジーを咲かせられる人は少ない。著者の想像力の非凡さがよく分かる。分かるのだが、パンジーが咲いた理由は分からない。  パンジーの花言葉は「物思い」「思慮深い」「心の平和」「思想」とのこと。一瞬にも満たないはずの自分にもしかしたくさんの記憶があり、それらをひとつひとつ思い出している。人は宇宙に比べてずいぶんと小さいけれども、それでもひとつの命があり記憶という歴史があるのだ……ということなのだろうか。  ……そもそも花言葉をヒントとして読解しようとするのは、どうなのだろう。ものすごくダサい気がする。  これもひとつ前の歌と同様に理解が及ばず。 p.11 (2)  「春には人が集まる」 = 日々が流れていく中でも人の記憶に残るものがあって欲しい、つまりこれは「変わらないものを作りだしたい」という気持ちなのだろうか。  物事は時間の経過によって常に変化してしまう。同じままであるものはない。こういう物の見方を「無常観」と呼ぶ。「造りたい」という希望としてここに書かれているように、この歌の根底にはうっすらと無常観があり、それに逆らおうとするような気持ちを感じる。  久しぶりに帰ってきた故郷を懐かしく思うのは、そこに変わらない景色があるからであり、とりわけ「変わってしまってもおかしくないもの」が変わっていない時により強い懐かしさを覚えるのではないだろうか。そして「変わってしまってもおかしくないもの」といえば(家族などの人間を除けば)街並みであり、街並みを構成するのはその多くが建物である。人は建築物に対して短いスパンでは「変わらないもの」、長いスパンで見れば「いつか失われるもの」というイメージを持っている。「いつか失われるもの」を、それでも「変わらずにいて欲しい」と願う気持ちは切ない。まして「変わらず人の中にあり続けるものを造りたい」という気持ちはその叶わなさを考えれば祈りとさえ言えるのではないか。 p.12 (1)  好きな歌のひとつ。  街を海の底と捉え、飛行船という巨大な魚の腹を見上げる人々 = 小魚たち。  魚好きの人から言わせれば違うのかも知れないが、魚の表情を構成するのは生まれつきの目の大きさと口の開閉ぐらいのもので、やつらは鳥よりも無表情な生きものである。よって、無表情 = 街を歩く無個性な人達と、海の底というイメージが結びついて、とても静かな印象となる。  ところで「嘘つく」という言葉の理解が難しい。  「海の底というイメージは美しいが、人は決して美しいだけの存在ではない。そのバランスを取るために、人の美しくない特徴のひとつである『嘘つき』という心性を書き加えたのではないか」とも思ったが、しかし自信なし。かと言って他の解釈が思いつくこともなし。 p.12 (2)  「仁王立ち」しているのは、人間ではなく菜の花ではないか。もちろん花が物理的に仁王立ちしているわけではなく、「太陽よどんと来なさいその陽の光を受け止めてあげよう」という夜明けを待つ花の喜びようを表現している。あるいはそうではなく、もっと直接的に「夜明け前の菜の花畑で仁王立ちして不敵に太陽を待ち受けている自分」ということかもしれない。それはその人が菜の花の群れと一体となっているということだ。  いずれにしても、著者の植物や自然に対する共感の強さがよく表されている。 p.13 (1)  地球上を巡っていく風という壮大なイメージと、「自転車」という壮大さとはまったくかけ離れた単語がつながっている。両方共「地球にあるもの」であることは間違いない。大きな視点と日常の風景を往復できるものの捉え方は真似できない。  ちなみに今までの歌はすべてひと続きに書かれていたが、この歌ではなぜか「めぐる~」の前に空白が入っている。 p.13 (2)  ひとつ前の歌と同じく風をモチーフにした歌。国境にとらわれず世界を駆け巡っていく風の自由さに共感するならば、それは自分が世界中を飛び回っている夢の中のようなイメージが浮かぶのではないか。  現実は壁の世界地図と向かい合う自分一人であり、本当に風が吹いているわけもない。しかし、地図にあらわされている土地には風景があり、住む人がいて、歴史がある。地図は空想のためのきっかけに満ちている。「風を迎える」とは巨大な地図からそうした想像の力を与えられているという意味に違いない。昔、地図を眺めていると旅行しているような気分になるので面白いと言っていた友人を思い出す。  ちなみに自分は地図を見ても一切わくわくしないが……。 p.14 (1)  春にまつわる歌。1度目を通したときも感じたが、歌集全体が四季の流れを汲んで編集されているようだ。  春夜という単語があるのだろうか、と思って調べてみたら漢詩の例に「春夜(はるのよる)」と書いてあった。春の夜。サイレンの喧しげな音でさえ静かな夜に呑まれていく。今までの歌を振り返ると、孤独であったり静けさを持っていたりする印象の作品が多い気がする。これは著者の気質(作家性)によるものなのだろうか。 p.14 (2)  友人との別れを「飛び立っていく飛行機を眺める自分」でなく「飛行機に乗っている友人から見た、徐々に小さく消えて行っているであろう自分」として捉えているのが面白い。なぜこのような書き方になったのだろう。  悲しみに暮れているとどうしても人のことを思いやる余裕が持てない。悲しいという感情は大体において自己中心的なものだ。そんな別れの寂しい気持ちを自分から切り離し、旅立つ友人の視点から自分の姿を客観視させることで、悲しみに浸るという自己憐憫を歌から排除させようとしているのだろうか。  しかし留学で旅立つというのは寂しいだけでなく祝い事でもある。「消えゆく」「われ」は友人にとっては新天地への第一歩と言えるだろう。これは寂しいだけの作品ではない。この歌の感情を排した客観的な書きようは、「別れの寂しさ」と「友人を応援したい気持ち」のどちらも読者が好きに想像できるように自由度を与えたということなのかもしれない。